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2018年11月8日

『民藝運動』の心を、今、再び・・・ ―柳 宗悦への私感― Ⅱ

内容[その二]

怒りと不信の今、日本らしさを柳 宗悦から学ぶ


補遺・朝鮮観

井嶋 悠

日本は、いったいいつのころから、世界で、とりわけ文明世界にあって、恥ずかしいほどの男女格差が生まれたのだろう。 殖産興業、富国強兵の明治のスローガンと世界への、途方もない代償を払った戦敗を経験しながらも、勇猛果敢、猪突猛進からの150年がそうさせたのだろうか。工業化=近代化としての。もしそうだとするならば、19世紀前後に起った産業革命の発祥地イギリスとはどこがどう違うのだろう?また18世紀での、フランス革命の歴史を持つフランスとは?そして独立革命のアメリカとは?

「維新」との語義を確認すれば、日本の場合、革命ではなく、ある種の政権交代であったとも言えるのではないか。表層的見方からの男世界としてのサムライ文化〔武士道精神〕を厳然と底に置いた変革。男性中心主義から行われた限られた文明開化。だからこそ早々の明治後半期から大正期の女性解放運動、民主主義運動が起ったのではないか。
敗戦後わずか11年にして「もはや戦後ではない」と言わしめたのは、朝鮮戦争特需もあっての経済世界のことで、心の部分での民主化は遅滞のままであったのではないか。

私は男性の一人として「主婦・主夫」或いは「専業主婦・専業主夫」との言葉が、1970年代以降定着化しつつあることに期待を寄せている。 これまでの私なりの生の中で出会った優れた女性は枚挙にいとまがない。ここで言う「優れた」とは、広く人間力の意で、女子校に20年勤務した経験からも、子どもも大人も同じである。 「適材適所」に性差はない。いわんや少子化そして高齢化(長寿化)時代。教師は、保護者は、社会は従来の先入観を払拭し、【個】をしかと見つめるゆとりを持って欲しいものだ。やはり思う。学校教育の制度も含めた根本的(ラディカル)な改革の必要を。

柳の女性観については、『食器と女』の中での次の発言からわかる。

「特にいつかは主婦ともなられる女の方々は台所で働かれ、料理をこしらえ、食卓をととのえることが、日々の行事なのですから、どうしても食器を手にされる機会が多く、従ってよい選択をすることは、女性が背負う運命的な任務だと思います。それ故、とりわけ女の方々は、高い趣味性を養われるべきだと思います。そういう教養あるかないかは、一家の生活内容を随分左右するでありましょう。」

この言葉を、あの「百均」で見かけた微笑ましいカップルに伝えたらどんな反応をするだろう?困惑するだろうか。それとも、同意するだろうか。

と言う私は「運命的な任務」との強い言葉に、時代(1950年前後)と柳の生まれ育った環境を想いつつも、このような女性に魅かれる私もいる。とは言え、やはり性差をここに持ち込むことには抵抗がある、と70有余年様々な事を経験し、自問を繰り返して来た私は、いささかの複雑微妙な感覚にある。

今回、柳を通して、現在の日本での男女格差を出したのは以下の理由からである。

・日本は女性原理、母性原理を基とした国であるということに思い及ぼすことの現代での意義。

・その母性原理とは、「元型としての〈グレート・マザー〉をとおして、包み込む」(中村 雄二郎『術語集』より)ことであることについて日本人が考えることの意義。

・詩人・三好 達治の詩にある「海には母がいる」に触発されて言えば、今、その漢字は合理化(効率化)され「母」は「毋」となっていることと現代日本について。

・鈴木 大拙は『妙』(1964年)の中で、「柳君(注:柳 宗悦のこと。以前にも書いたが、柳が学習院に在学中の薫陶を受けた教師の一人が、鈴木 大拙である)は、美ということをいうが、私のほうでは妙といいたい。」と述べ、
その妙について「精神と物質との奥に、いま一つ何かを見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相克・相殺などということは免れない。それでは人間はどうしても生きていくわけにはいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょうずるに二つでなく一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならない。これが霊性である。」と、その著『日本的霊性』(1944年刊)と書いている、そのことについて。

・無とはすべてを受け容れることでの無である、とすれば、無宗教の国日本の存在が視えて来るのではないかとの考え方について。

先の鈴木大拙や柳宗悦また岡倉天心たちに大きな影響を与えた老子(紀元前5世紀の、孔子とほぼ同時代の中国の思想家)は、その著『老子』の次のように言っている。

「名無きは天地の始め、名有るは万物の母。故に常に無欲にして其の妙を観、(中略)玄[注:人間の感覚をこえ、あらゆる思考を絶した深い根源的世界を表わす]のまた玄は衆妙の門なり。」

「谷(こく)神(しん)は死せず、是を玄(げん)牝(ぴん)と謂う。玄牝[注:女性であり、母性を表わす]の門、是を天地の根(こん)と謂う。」

蛇足を言えば、日本の母神は天照大神であり、最初に統一国家を為し遂げたのは卑弥呼であって、西洋とは根本的に違い、そこに日本の女性性と西洋の男性性を言う人もある。

だからなおのこと、「男女共同参画社会」とのスローガンに、政治家や官僚、とりわけ男性群、の無反省にして無恥な妄言を思う。しかし、このスローガンが出たことを契機にして、男性側はもちろんのこと、女性側も徹底的に意識を変える(強い表現で言えば社会変革)良い機会とすべきと思う。それは少子化、高齢化社会に益々向かう日本が、どうあるべきか考える好機としなくてはならないと考える。
『日韓・アジア教育文化センター』は、韓国と中国(香港・北京)と台湾の、それぞれ現地の日本語教師に声を掛け成立した団体である。このことは、ホームページの【当センターについて】や【活動報告】等から理解いただけると思うが、その出発点に韓国との交流があってのことで、だからこそ『日韓・』との名称がある。
その韓国の交流母胎は『ソウル日本語教育研究会』(同研究会は、その後、全土の『韓国日本語教育研究会』の推進者となり、現在両研究会は並立して活動している)で、役員の一人(女性)からこんな問いを掛けられたことがある。20年ほど前のことである。

「日本では、今、柳 宗悦はどのように評価されていますか。」

柳 宗悦が、ソウル(当時は京城)の景福宮に、『朝鮮民族美術館』を開設したのが1924年、柳35歳の時である。因みに柳が『日本民藝館』を開館したのは、1936年、47歳の時である。
私が今回、柳の対朝鮮観を書こうと思った背景には、このようなことがあってのことである。言わば、20年越しの回答でもあり、材料は二書である。

一つは、柳が1920年に執筆した『朝鮮の友に贈る書』で、一つは、1986年に刊行された『言論は日本を動かす』の第3巻「アジアを夢みる」で、柳宗悦を論じた(詩人・批評家の大岡 信〈1931~2017〉)の文章である。ここでは、前者の書から幾つか引用する。
後者に関しては、大岡は柳の朝鮮観を柳の書『朝鮮とその芸術』から、

「彼が日本政府の朝鮮政策について敢然と批判し、被支配の屈辱を耐え忍ぶ朝鮮人に対する満腔の同情を、支配者日本の傲然たる思いあがり、帝国主義と軍国主義に対する公然たる異議申し立ての形で披歴した偉大な文章をいくつも含んでいたから、いやおうなしに人々によって愛読され、彼の朝鮮観のすべてを語るものとして受けとめられてきたことは否定できない。」

と述べているが、今回の投稿の主旨では、柳 宗悦自身の言葉を拠りどころに私感を書くことを大事にしているので、引用はこれだけに留めたい。

ただ、すでに明治の後半、前回の投稿で参考にした岡倉天心は、その著『茶の本』で言っている以下のことを私たちは是非心に留め置きたい。岡倉の著『東洋の目覚め』『東洋の理想』の延長上からの視点で、朝鮮に限ってのことではないが。未来に向け発信することの現代性と併行して、先人たちの心を知る謙虚さとしても。

「諸君は進展を遂げたが心の安定をうしなった。われわれは、侵略にたいして無力ではあるが、一つの調和を創造した。諸君は信ずるであろうか。東洋はある点では西洋よりもまさっているということを。」

私は日本人だから日本の毀誉褒貶は、中庸を心掛けながらすることを善し、と考えているが(もっとも、最近、政治(家)の知情意のあまりの貧困、傲慢に辟易し、相当激的になってはいるが)、外国・地域については、誉めることはあっても貶(けな)し批判することはしないように努めている。生半可な知識や狭小な体験で批判することの非礼を思うからで、日本がされる側に立てば自然な心の動きである、と思う。

ところで、この[れる・られる]は、日本語の語法で「迷惑の受身」と呼ばれる。いじめられる・差別される・疎んじられる・殺められる……。
日韓の間ではどうか。未だに[反韓・嫌韓/反日・嫌日]をかまびすしく言う人も少なくはない。
例えば「慰安婦」問題。
戦場と言う極限状況での、性と人[男性]の厳しく且つ本質的問題は、古今の世界の歴史が常に抱えて来たことであり、日本もその例外ではない。朝鮮半島で、36年間にわたって帝国主義国家として植民地支配を行ったことはまがうなき事実であり、された側に立ち、本来日本人が持っているとされる美徳、謙虚さと潔(いさぎよ)さをもって真摯に、1965年に日韓基本条約を締結したのか、十全とは言えないのではないか、と私は思っている。

非常に単純なもの言いだが、賠償金を払えば完了ではない。自国を併合され、幾つもの痛み、苦しみを受けた側に心寄せ、移入する姿が、相手に伝わらない限り“和(なご)み”は為し得ない、という抽象的な言い方しかできない。しかし、それを具体的に戦時・支配中から実践して来た日本人も少なからずある。
その真偽、成否は相手の人格が決めることであり、そこにはじめて信頼関係が成立する、と日韓・アジア教育文化センター活動を通して痛感している。
言葉は、和みへの入口であり契機であって、言葉が心に先んじ、心を越えることはない、と考える日本人の一人である。
インターネット上で【日韓・アジア教育文化センター】が、売国的、反日的団体一覧に挙げられていたが、私はその逆だと思っている。そうでなければ、互いにこれまで続けて来られなかったはずである。

「美は愛である。わけても朝鮮の民族芸術はかかる情の芸術である」と言い、「線こそはその情を訴えるに足りる最も適した道」と朝鮮の芸術に傾倒し、愛した柳の言葉を『朝鮮の友に贈る書』から引用する。

――もし無情な行いに傲(おご)る事があるなら、その時、日本は宗教の日本ではあり得ない。今日不幸にも国と国の関係は、まだ道徳の域にすら達していない。(中略)しかしかかる行いのために苦しむ民がここにあるなら、それは一国の恥辱であり、また人類への侮辱であろう。正しい日本はかかる行いを改めるために憚(はばか)ることがあってはならぬ。――

――貴方方がたと私たちとは歴史的にも地理的にも、または人種的にも言語的にも、真に肉親の兄弟である。私は今の状態を自然なものとは思わない。(中略)まさに日本にとっての兄弟である朝鮮は、日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である。私は私の日本が、かかる恥辱をも省みないとは思わない。――

柳が、当時抱いた朝鮮観は十分理解できると思うし、その思いに私は強く共感する。
最後に最晩年の1957年、68歳時の著作『日本の眼』より、一節を引用して、この拙い柳 宗悦私感を終えたい。

――「わび」「さび」「渋み」は畢竟(ひっきょう)無地への追求とも言える。…無地ものの焼き物を最も多く焼いたのは朝鮮であるが、これは日本のように茶禅の教養に依ったのではなく、その歴史や自然に由来する。ただ一色の白磁や黒釉の品が大変多い。(中略)国民は誰も白衣を纏(まと)う。(中略)しかし無地を単なる色彩の否定と受け取るのは浅い。それは「有」を否定する「無」ではなく、かえって無限の「有」を包含する「無」と見ねばならない。(中略)「空即是色」の教えの具象的の現れといってもよい。焼物を日本人はいたく愛するが、無釉またはこれに近い焼物を熱愛する習慣は西洋には見られぬ。――