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2023年5月11日

『老子』を読む (十七)

井嶋 悠

第66

 民に上たらんと欲すれば、必ず言を以ってこれに下り[謙譲・謙下]、民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以ってこれに後(おく)る。
其の争わざる[不争]を以って、故に天下能くこれと争う莫し。

◇権力を持つと己を誉め、自負し、いつしか傲慢になる。その時当事者は感覚が麻痺していて何も気づかない。言葉には愛を込めて言うが、そこに響くのはことさらの仕業でしかない。校長も同じである。そんな人をどれほどに見て来たことだろう。

第67

 我れに三宝有り、持してこれを保つ。一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰く敢えて天下の先と為らず。仏・法・僧

◇学校としての三宝とは何だろうか。自由への責任・自己の小なることの自覚・己が夢への抑制された欲望

第68

 善く士たる者は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者は与(とも)にせず。[不争の徳]
「百戦百勝は、善の善なるものにあらず」[孫子]「戦わずして敵兵を屈服させるを、善の善なるもの」

◇私学経営は、管見ながら四苦八苦である。少子化の時代、ますます競争の時代である。それに巻き込まれるのは子どもであり、保護者である。何という残酷。その意味、公立高校の伝統校の泰然とした強さ。そういう私学(中高校)は、あるやなしや。進学、国際、英語。高齢化を迎えての日本の寂しさ。

第69

 禍いは敵を軽んずるより大なるは莫(な)し。敵を軽んずれば、ほとんど吾が宝[三宝:慈・倹・天下の先と為らず]を喪わん。故に兵を抗(あ)げて相い如(し)けば、哀しむ者勝つ。

◇他者への愛。それがあっての競争原理と競争有る処に必ず有る[かなしみ]の自覚。学校の在るべき姿。

第70

 我れを知る者希なるは、則ち我れ貴し。是を以って聖人は褐(かつ)[粗末な上着]を被(き)て玉を抱く。

◇近代的な校舎、行き届いた最新設備が善い学校の証しか。誰しも思い、或る時間が経ちその世界を当たり前となった時、建物、設備より大切なものがあることに気づく。モノは有限であり、ココロは無限である。現代の難しい課題ではある。

2023年5月6日

多余的話(2023年5月)  『八十八夜』

井上 邦久

立春から八十八夜余りのこの頃は、朝の冷え込みと昼の陽ざしが体内時計をきりりと調整してくれます。夏も近づき、若葉が繁る一日、大山崎山荘へ。小径を囲む青モミジの先端にヘリコプターのような種子が一杯でした。天王山の眼下に流れる宇治川・木津川を遡ると、宇治・田原の茶摘みの季節です。
5月3日の日経朝刊は、静岡・京都・福岡の新茶(一番茶)の初値を伝えていました。生育時の気温が高めで品質が良く、贈答・土産用の需要が高まる中での初取引会は、静岡で対前年比37%高、宇治では65%高と、ここでも「コロナ後」への期待が高まっています。
とは言え、ペットボトル用の二番茶を除く高級煎茶の国内需要は急須に淹れて飲む習慣が薄れてジリ貧、「日本食ブーム、抹茶輸出に活路」と将来を予測しています。開港開国の頃から生糸とともに緑茶の対欧米輸出が盛んだったことを知らぬ茶舗の小学生だった頃には、無邪気に茶摘みの歌を口にしていました。
「摘めよ、摘め、摘め、摘まねばならぬ、摘まにゃ日本の茶にならぬ」の歌が外貨獲得や産業振興の応援歌だと知ったのはずっと後のことでした。150年ぶりに日本茶の輸出が盛んになるのでしょうか。

上海から関西空港に降りた友人が「明前茶」を持参してくれました。清明節の前に若葉を摘んだ新茶である「明前龍井」を数年ぶりに賞味できました。
山東省青島に住んでいた1990年の初夏、茶舗の黒板に白墨で書かれた「好消息!新茶上市!」を見て、前年の動乱から一年が過ぎたことを実感した印象は今も鮮明です。
新緑、新茶、新生姜、新玉葱・・・と新鮮な春の楽しみが続きますところが、昨今は「新」ならぬ「シン・〇〇」が大流行です。なぜか「シンゴジラ」は「新ゴジラ」ではなく、その真の意味が不明です。
・・・2022年12月末日、ゼロコロナから全員コロナを経て日常が回復し始めた北京にて、と「おわりに」に記された『シン・中国人――激変する社会と悩める若者たち』(ちくま新書)を読み始めた3月に、偶然中国在住の友人からこの本の推薦があり、「シン」の中国語訳を著者の斎藤淳子さんに訊ねてもらいました。すぐに丁寧な以下回答、

・・・正直、この本の題は今日の日本国内向けにつけたものです。中国で中国語表現するなら、多分こうはしなかったと思います。ですから、答えは、「訳出は無いです」。
日本語では、「新」しく、「真」実の、そして「深」く、更に「心」にも迫る、という思いを込めています。みんなの知らない新しい人々(の心に迫る真実かつ深いレポ)の意味かな。・・・を受け取りました。
この新書にも引用されている厳善平教授には、7月華人研例会で、『中国のアキレス腱だった三農問題の変容―20年連続の「中央1号文件」は何をもたらしたか―』の報告をして頂くことになっています。

斎藤淳子さんの報告にも、盛沢山のポップな事象の通底音のような古くて新しい三農問題が流れている印象があります。
社会の格差、食糧安全保障、ジェンダー、農民工、合計特殊出生率、そして環境問題の根幹に農村・農民・農業の三農問題がありそうだと、貴州や四川の山間の農村や都市近郊の豊かな農村を巡りながら感じてきました。
「シン」とともに「リアル」という単語がよく使われている印象があります。晃洋書房から出版されたばかりの兪敏浩編著の12編からなる『中国のリアル―人々は何を悩み、何を追い求めているのか』を執筆者のお一人から届けていただきました。
女性の地位、LGBTQ+、プロテスタント教会、民族問題、留守児童、ボランティア、中小企業主、退役軍人などをテーマに、移り変わる中国のリアル、その社会に生きる人々のリアルを綴っています。

編著者による「まえがき」から長めの抜粋をすると、
・・・民主主義の欠如、貧富の格差の問題を抱えていても結局中国という国家は大多数の中国人にとっての生活の場なのである。だからこそ中国の人々の生活環境と日常は、中国という国の社会のしくみを理解するための「みちびき」となりうる。さらに等身大の中国人について学ぶことで、生活者としての中国人、苦悩と希望が交差する人間社会という中国のもつ普遍的な一面にも気づけるだろう。・・・とあります。
この真摯で高邁な出版理念が成功しているか?「あれもこれも」ではなく「あれとこれと」に焦点を絞ることができているか?それらを評価する力はないにしても、「リアル」を追及する手法を教えて貰ったことは確かです。

移動規制が徐々に緩み、久しぶりにリアルに会える人たちも増えてきました。停滞していた心身に「喝」を入れて頂いています。その一つに教育関係者が口にした「窮山悪水」という四字成語があります。色々な解釈ができるでしょうが、貧しい環境では水も濁ってくる、というリアルな例えでした。
せっかくの銘茶も、濁った水では台無しであり、良い環境の名水が必須、或いは茶葉が無くても良質の水を飲めれば心身に良さそうです。
ただ「上善如水」と勝手に解釈して新酒を水のように呑むことはほどほどに致します。