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2016年8月20日

2016年夏・大暑 ―併せて「精霊」の夏―

井嶋 悠

八月。浴衣姿で、風鈴の音を聴き、花火に心揺さぶられながら鰻を食す。とは昔のことで、今では、鰻は超高級食となり、エアコンを使わなくては時に死を招く「暑い」月。24節季の一つ。大暑。7月22日前後から8月にかけて。
ニュースでのエアコン使用に係る「適切に」との表現。それほどまでに地球は、日本は暑く熱くなって来たと言うことであろうが、エアコン=贅沢世代としては、複雑不思議な思いも過ぎったりする。
その日本・日本人にとって八月が、とんでもなく巨(おお)きな月となって71年目の2016年。

芥川 龍之介は、1892年(明治25年)に生まれ、1929年(昭和2年)7月24日に、自らの意志で、自らの手で死んだ。
自殺は警視庁の管轄との由。「殺」だからだろう。
「自死」と言う人も多い。しかし、死は天に係ることであって人のかかずらうことではない。自死との言い換えは、心優しい人の慰め表現なのだろうが、己を己の手で天意に逆らい殺す、その想像を越えた哀しみ。私は恐れ戦き、尻込みするばかりでありながら、自殺と記す。

ここで、宗教が説く自殺否定や東西文化背景を、はたまた“正義派”よろしく生きることへの強弱倫理を持ち出すつもりも、また帰一的に社会や時代の責任にする気持ちもない。
私は、無宗教の、孤独に打ち克つ性未熟な有象無象の一人で、だから宗教に愛を直覚する。矛盾だらけを承知しているが、信心、帰依に達することなく今日に到っている。生き方が適当、あいまい、ということのだろう。それでも「孤独」に思い及ぼすことが、とりわけ2012年以降、日毎に強くなっている。
もっとも、妻はそれを口には出さない。彼女に言わせれば江戸っ子の誇り、として。

ここで私が言う孤独とは、(人恋しさからの)独りぼっち[loneliness]と(人間(じんかん)を自覚することでの)孤独 [solitude]の二つの孤独の、後者である。
4年前、23歳で早逝した娘がしばしば言っていた「孤独は怖くない。でも絶対の孤独は怖い」である。
そんな今、私に圧(の)しかかるかのように心を覆い始め、いささか狼狽(うろた)えさせられているのが、象徴としての「天皇」の存在で、無宗教を言う多くの日本人の共通感情ではないかとさえ思うようになっている。それは戦前の神格として存在ではなく、どこまでも人としてのそれである。もちろん「天皇」ではない。だからこの心の作業への注意深さ、例えば国家神道に結びつける危険、を承知してのことである。
そして、これは以前投稿したことだが、日本人の「無宗教」については、「無」の意味の確認から始めて再定義が必要ではないか、と思っている。世界での誤解を解く意味でも。

6日と9日そして15日に加えて今年は8日。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」。大事[広島・長崎・敗戦]で今、どれだけの人が、この俚諺(りげん)を言下に否定できるのだろうか。私事小事にその繰り返しの70年の私が言える筋合いでもないが。
「人間は万物の霊長」…。受験参考書の前書き(檄文?)にあった「人間は忘却の動物」を思い出す…。それとも、忘却あればこそ生きられる人生? 水に流してこその明日の人生?
などと私が言えば、食事もままならぬほどの超多忙と言われる教職世界に33年、あなたは何とお気楽な暇人だったのですね、との揶揄の一つも飛んで来そうだが、「窓際」に追い遣られていたわけでもなく…。もっとも、二校での上司(校長)からは陰に陽に疎んじられてはいたが。
閑話休題。

いつにも増して「天皇と私」に、更には「戦争と日本」に思い巡らせる私の8月となり、併行して5日からリオデジャネイロオリンピック・パラリンピックが、7日からは高校野球甲子園大会が開幕した。そのオリンピックについて。日本勢の活躍に私も心躍らせ、選手たちに熱い敬意の眼差しを注いでいる一人だが、一部?マスコミのあのお涙ちょうだいおセンチの「夢」叫び・騒音はそろそろ終わりにしてほしい。そう思う人は私の周りでは多いのだが。
それは社会の在りようの問題であり、私の中では日本の教育現状への疑問と懸念につながっている。

後世の人々は、2016年8月をどう表現するのだろう。
熱誠日本…、篤実日本…、それとも傲慢日本…、の2016年大暑?

8日の「お言葉」。皇室典範上難しい云々という政治家や学者がいるそうだが、その人たちは、法の制定も改訂も人為であることを忘れた、己が神為意識があるのではないか。だから「歴史を顧み、政治的に利用する人を懸念する」との言い方の方が、よほど説得力がある。
このことは沖縄問題であれ、原発問題であれ、一方の「民意」を結果として無視することを既定路線に、「日本国のため」をかざし、時間がないと事を進める、その過程で懊悩といった人間的行為を感じさせないことこそ優れた政治家と言わんばかりの政治家たちやその人たちを支える学者たちに通ずることに思えてならない。
これも、学校社会での一教師としての、民主主義の理想と現実の難しさの自照自省である。
ところで、ここでは天皇の孤独といったことはどのようにとらえられるのだろう。「人間宣言」の「人間」のとらえ方が、少なくとも一小市民の私とは違うのだろう。

言葉は重い。一神教であれ、多神教であれ、無宗教であれ、同じである。言葉は人を殺す。時間をかけて。言葉(文)は武より強い。教師(それも国語科)であった私はどれほどに生徒たちを傷つけたことだろう。自覚しているのは氷山の一角。知らぬは私・教師だけである。このことは、2年間だけだが携わった不登校(登校拒否)の高校生を主対象にした全日制高校でより自覚させられた。
娘の心身疲弊の一因は、その教師(中学校・高校)の言葉である。
ここで、生徒の、保護者の、教師への刃の言葉については立ち入らない。

言葉は心である。誰もが朗々と言葉を紡げるはずもない。紡げないから悶々として自身の言葉を探すが見つからない。その時、言葉を知らない絶望の自覚も含めて沈黙する。想像の優しさを持った聞き手は、読み手は言う。「沈黙は金、雄弁は銀」と。
この沈黙の時間は「間」に通ずる。「間」は日本人が永年かけて育んで来た美の粋である。この美感に、東西南北異文化はない。否、言葉と騒音の現代、憧憬され、見直されて来ているのではないか。
日本は「言霊の幸はふ国」と古代人は考えた。言葉は神(天)につながる。ここにも異文化はない。
15日、現首相の言葉にはアジアの一員としての加害の責任も謝罪もなかった。4年連続。きっとあの方も言葉を畏怖しているからだろう……。しかし、その方は北朝鮮の(また中国の)脅威を言い、アメリカあっての「集団的自衛権」や「集団安全保障」の必要を、当のアメリカをはじめ国内外あちこちで、雄弁している。
その人の言う「一億総活躍社会」の言葉の軽さ。太平洋戦争(この用法は大東亜、更には世界の盟主国を目指す日本の事実を隠した表現との指摘があるがこのまま使う。私の言葉のあいまいさそのままに)直前の1940年(昭和15年)に宣布された「一億一心」とどこが違うのだろう、また「積極的平和主義」の積極の具体的内容は何なのだろう、と危惧する人が多い。杞憂であるためにも、その危惧に抽象語や形容語の羅列ではない明確な言葉で言うべきではないか。あれほどに滔々と話す人なのだから。

薄っぺらな読者に過ぎないが、私は萩原 朔太郎(1886・明治19年~1942・昭和17年)の詩を、詩だと直感している。その萩原は芥川の死に際して次のように言っている。

「…彼の自殺は、勝利によっての自殺で、敗北によっての自殺ではない…。彼こそは一の英雄崇美なる芸術至上主義の英雄である。」

同じ時に、政治学者であり政治家だった大山 郁夫(1880・明治13年~1955・昭和30年)は、萩原と真逆の意見で追憶している。

と言う私の芥川は、文子夫人への一枚の恋文葉書と、一枚の写真に見る子煩悩の父親と、『蜜柑』の少女への慈しみと自身への苛立ちで、萩原の芥川評はその高次の表現だと思っている。そして、私は人の[悲・哀・愛しみ]を芥川に見るおこがましさそのままに萩原の言葉に共振し、残る人生を想う。
この感覚は、33年間中高校教師だった私が「国語教育は畢竟言葉の教育である」との言葉に啓発され、『日本語教育』に関心を寄せた背景の一つでもある。
大山の言葉を援用すれば、私は叙事より叙情的感傷に魅かれる「小ブルジョア的イデオロギー」の人、と言うことなのだろう。

因みに、芥川は詩人・萩原朔太郎のことを死の2年前に次のように言っている。

「…宿命は不孝にも萩原君には理智を与えた。僕は敢えて、「不幸にも」と言いたい。理智はいつもダイナマイトである。(中略)萩原君は詩的アナキストである。……」

当地に移住して10年。その間、実母と娘の死に遭った。そして、寝床の傍の壁を這う直径10cmほどの透明な円盤状のゲルに二度遭遇した。いずれの時も、二つ前後して並び、静かに消え去った。その間10秒くらいだろうか。私は二人の霊魂(精霊)だと思っている。
なぜ今になってなのか。若い時のそれとは違う加齢での感受性かもしれない。
死後の世界が在るのかどうかは分からないが、臨死経験をした近しい人の話では、そこはどこまでも清々しく広がるお花畑だったそうだ。浮き世ではなく「憂き世」と書き表した人々の実感に共感できる今の私にはなるほどと思う。

平野 威馬男(1900~1986:詩人、フランス文学者)著の『死後の世界の不思議』(1979年)を、エアコンを効かせた寝床で読んでいたらこんな一節があった。(要約して引用)

――アメリカの科学者が、死の直前と直後の人たち数百人の体重を調査したところ、ほとんどの場合、40グラムほど減っていた――と。

私の遭遇した霊魂の重さは、たしかそれほどだと思う。
死後、無限の宇宙で霊魂が行き交っている姿を思い浮かべたりする。ひょっとしたら芥川龍之介さんですか、萩原朔太郎さんですか、と聞くことがあるやもしれない。
私の霊魂の重さも40グラムくらいあるのかしらん?でもそれは誰が知らせてくれるんだろう?と、あれこれと独り慰撫することが増えて来た。この心模様を、3年前の私の狭心症発症に加えて(手術はせずに済んだが、爾来通院・投薬が続いている)、数日前、妻が心臓検査を受け、早々に冠動脈とバイパス手術を受けなければならなくなったことが増幅している。

「人間は誰でも一度は死ななければならない。」

これも平野の書の中の、ひょっとして誰かの引用なのかもしれないが、言葉である。この「一度」と「は」との言い回しにいたく心が振動した。
一度が最初で最後なのか。それとも一度は二度あることなのか。いや、未来永劫常繰り返すことなのか。死から生?死は次の生?命日は誕生日?そして次の死、次の生………。
芥川龍之介のような自身の意志で、自身の手で死んだ人はどうなのだろう?
死は一つしかないはずだ。

「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」と自然を愛で、「きみにより 思ひならひぬ 世の中の 人はこれをや 恋といふらむ」と女性を、恋を、愛でた稀世の粋人在原 業平の、「つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど 昨日けふとは 思はざりしを」との天意を心静かに待てればと願う、野暮な私の2016年の夏八月が、後10日で終わる。

2016年8月9日

中国たより(2016年8月)  『阿呆鳥』

井上 邦久

 

網走市の丘に立つ「北海道立北方民族博物館」、その季刊誌「Arctic Circle」 No.99 ( 2016年夏号)は、北極線をめぐる自然と人-激変する北極の海を探る、と題する特集が組まれています。表紙はサハリン州ボロナイスク(旧樺太の敷香町)での少数民族祭で民族衣装をまとった少女たちの写真です。
真夏に北極圏に関する氷雪の写真や読み物を見ることで、少しだけ暑気払いになります。北方民族博物館友の会の会員になって、かれこれ二十年近くになります。網走の知人宅でお世話になり、オホーツク人の遺跡を訪ねて回ったこともありました。冷戦が終わって、極東ロシア(沿海州)の事情が少しだけ見えてきた頃のことです。

タイやヒラメなどの高級魚の養殖用飼料には、ペルー沖産のイワシ系は身が黒っぽくなるとして好まれず、オホーツク海のタラ系が白身用飼料として珍重されていました。タラ漁船団は船内でフィレ加工した残りの部位を粉末乾燥させてホワイトフィッシュミールに仕上げ、日本からの運搬専用船に渡します。毎年12月1日のタラ漁の解禁日、漁船が一斉に出港するまでに、我々は前金条件で飼料の買付を完了させ、漁業会社はその金で燃料用油を調達します。売買双方が制限時間一杯まで互いに足元を見ながら、熱いせめぎ合いを真冬の漁港で行うわけです。停電が常態化していた寒い木賃宿の夜、ローソクの灯りの下でウォツカを呑んでも温まらなかったことや、新潟からハバロフスク経由でカムチャッカ半島へ飛んだ時、飛行機から見えた間宮海峡の夕陽を懐かしく思い出します。

古い時代にアムール川の河口を出て、サハリンに沿ってオホーツク海の西南辺を北海道東部から千島列島に渡ったと思われる人たちが、中継・居留地とした址が網走付近などに残っています。現在、ニブヒとかツングースと呼ばれる狩猟系民族の足跡と思われます。オホーツク文化、オホーツク人と称されている人々は、後にアイヌ系に同化した、或いは滅ぼされたとの推測がなされています。彼らは何処から来て、何処へ去ったか?という疑問はもっと時間をかけて調べる必要があります。ここでは、彼らが何を求めて遥か北方から危険を冒して渡ってきたかについてのみに絞り込みます。学問用語では、そのことを「行為目的」と言い習わせているようです。
色々と推測される中で、かなり有力な「行為目的」として、希少珍重された黒貂(クロテン、Sable)を追い求めて来た、という説があります。生息地が限られていること、需要が大きいこと、つまりは高く売れること、そして軽くて運びやすいこと・・・まさに一攫千金への強い思いが、人をして極東へ向かわせたと思われます。大陸の大河からオホーツクの海へ流氷に乗って逃げまくるクロテンを遠く千島列島まで追いつめた、というような想像も湧いてきます。高級毛皮は、ロシアから欧州の王侯貴族へ、また中国では東北出身の女真族の大清帝国などへ拡がったものと思われます。
同じく19世紀から20世紀にかけて、欧州や米国での旺盛な需要を「行為目的」の糧に、一攫千金を夢見て留まることを知らず、海を越えていった日本人の一群がありました。

東京都知事選挙の選挙民には、23区内の住民や三多摩地区の人たちとともに伊豆諸島、小笠原諸島の島民も含まれます。公的機関の人以外は入島制限されている硫黄島、そして日本最東端の南鳥島や日本最南端の沖ノ鳥島までも東京都の行政区域となります。
それにしても、遠流遠島の流刑地として伊豆諸島が選ばれていた印象が残っていた江戸末期から明治にかけて、遥かに遠い小笠原へ、そして鳥島へ渡った人々。どんな「行為目的」が彼らを突きき動かせたのか?そのことを40年以上の調査研究を積み上げて、一冊の本にまとめられたのが下関市立大学教授の平岡昭利氏の『アホウドリと「帝国」日本の拡大』(明石書店:2012年11月10日初版)でした。以下に項目タイトルを列記します。

第Ⅰ部 アホウドリと日本人の無人島進出

1 アホウドリを求めて ――      「南進」への行為目的
小笠原諸島の領有とアホウドリ  「南進」へのプロローグ
2 マーカス島から南鳥島へ ―― 発見から領有へ
羽毛採取から剥製業、    鳥糞(グアノ)・リン鉱採掘へ
3 アホウドリと尖閣列島
4 羽毛輸出の拡大と鳥資源の減少
5 幻の島中ノ鳥島の発見と領有

第Ⅱ部  バード・ラッシュと日本人の太平洋進出

  1. グアノ・ラッシュとバード・ラッシュ ―-太平洋への日米の進出
  2. ミッドウェー諸島の借り入れと主権問題
  3. 北西ハワイ諸島における1901年前後の鳥類密猟事件
  4. バード・ラッシュ ―― 鳥類密猟の構図と悲劇

 

第Ⅲ部  バード・ラッシュから無人島開拓へ

1 南大東島の開拓とプランテーション経営 アホウドリからサトウキビへ
2 北大東島における開拓とその後の発展 ――サトウキビ農業とリン鉱採掘
3 ラサ島の領土の確定とリン鉱採掘事業

 

第Ⅳ部  南洋の島々への進出から侵略へ ――アホウドリからグアノ・リン鉱採掘へ

  1. 台湾島北部の無人島への日本人の進出
  2. 東沙(プラタス)島と西澤島事件
  3. 南洋群島アンガウル島への武力進出とリン鉱争奪

 

夏バテを理由にして8月のたよりは、積読書籍を利用した手抜き作業に留めます。ただ地図上の島々を追いかけだけでも地理的空間の拡がりと日本人の変わらぬ行動様式にタメ息が出てきそうです。次にキーワードの注釈を付して夏休みの宿題のような報告とします。
付言すると、平岡氏の本が出版された2012年は南の島での諍いが喧しく報道されていた頃でありましたが、40年をかけた労作完成がたまたま騒動に重なっただけでした。

※1 アホウドリ:・・・絶滅の危機に瀕する国の特別天然記念物だ。大型の海鳥で翼を広げると二メートル半に達する。夏はアリューシャン列島やベーリング海などに渡って過ごすと推定され、冬になると繁殖のため日本にやって来る。かつてはコロニー(群生地)が各地にあったようだが、現在では鳥島と尖閣列島ぐらいにしか見られない。・・・鳥島のアホウドリは急速に姿を消していった。小笠原諸島、大東諸島の繁殖地にも見られなくなった。国はアホウドリが絶滅の危機にあることを認め、1906年に保護鳥に指定した。・・・北太平洋に広く生息していたアホウドリは絶滅したと報告された。五百万羽以上が殺されたとされ、わずか六十年ほどのうちに消したのだ。乱獲というには軽すぎる。人間が行ったアホウドリの大量虐殺だ。   『漂流の島 江戸時代鳥島漂流民たちを追う』高橋大輔(草思社 2016年5月)より

※2 バード・ラッシュ:欧米で羽毛、剥製などの奢侈品が流行し、原料輸出が急増。鳥島を開拓した玉置半右衛門(八丈島の大工出身)は巨万の富を得た。アホウドリの習性として、飛翔までの助走距離が長く、速度も鈍いため追いかけて撲殺できた由。
19世紀末から20世紀初頭、西からアホウドリを追いかけてきた日本のバード・ラッシュと海鳥糞(グアノ)を肥料として希求する米国のグアノ・ラッシュは、中部太平洋の要地ミッドウェー島・ウェーク島でぶつかった。日本は主権を出張せず、居住許可を要請。米国は羽毛採取を残酷と非難。海鳥捕獲禁止を決定。日本政府は出航者に対して注意を促すが、密猟が続いたとのこと。(平岡昭利氏著述)

※3 ラサ島:沖縄県島尻郡北大東村大字ラサ。東証一部上場のラサ工業株式会社はラサ島でのリン鉱石事業が出発点。資源の枯渇を懸念して、1918年に新たな無人島開発をスプラトリー(南沙)諸島で着手するも、市況悪化・資源枯渇・戦争激化により撤収。

※4 西澤島事件:香港南東330㎞の東沙島(プラタス島。面積1.74㎢)にて、鯖江市出身の西澤吉治は1907年から桟橋、倉庫、軽便鉄道などの投資を行い、グアノや高級貝類を台湾へ輸送。島名を西澤島とし、私製紙幣「西澤島通用引換券」を発行した。滅亡直前の清朝外務部の指示が徹底しなかったのか、広東当局の動きは鈍く、1909年になってようやく領土問題が表面化。排日運動など中国ナショナリズムの高揚のなか、賠償金交渉の結果「西澤島」は消滅した。交渉過程で軍艦『明石(艦長:鈴木貫太郎)』『音羽(艦長:秋山真之)』が派遣され資産・資源評価の調査活動を行った。これは、秋山真之による南洋開発関与の端緒である。また西澤吉治の二男西澤隆二(詩人筆名:ぬやまひろし)は日本共産党の元幹部。正岡子規の妹の律(りつ)の養子正岡忠三郎と仙台での同学の縁による交流が、司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』に詳しく記録されています。その作品の主人公の一人とも言うべき西澤隆二(タカジ)の個性を際立たせる為に、父の島であった西澤島のエピソードが印象的です。                                             (了)