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2015年4月24日

菩提寺(京都)への墓参と法隆寺訪問 [その1]

―私の日本人人生と「おもてなし」と「人のふり見てわがふり直せ」と―

井嶋 悠

娘の四回忌(4月11日)、墓前での追悼を願い、彼女の姉(水子)、伯母(私の妹)そして父をはじめとする井嶋家の人々の無窮の平安の起点、菩提寺(京都市内)に妻と愛犬と共に昨年と同じく車で出かけた。
(代々の流れからすれば「帰った」なのかもしれないが、父も、離婚した生母も既に恒久平安を得た今、義母は関西で存命とは言え、やはり「出かけた」「行った」なのだろう。)
滞在拠点は、これも前回同様、奈良県I市の、法隆寺にほど近い知人宅。

年年歳歳、その哀しみは重層化し、時にこれまでにない激しさで、間欠泉のように全身全霊に噴き出す。
何もなかったように振る舞っている“江戸っ子”の母親は、母親ゆえの激烈さがあるにもかかわらず、その重層化と間欠泉を「そうよ」と、さらりとつぶやく。

私は、親としての、教師としての、娘への贖(あがな)いと自省の、勝手な鎮魂、拙悪文を1昨年から、1994年に始めた日韓交流の発展組織『日韓・アジア教育文化センター』の、【ブログ】の場を借りて、寄稿し続けている。
それは、私の70年間の人生と33年間の教師人生(私立中高校数校)から得た言葉である。ただ、怠惰な私だから言葉は浅く、語彙は少ない。しかし、“私の言葉”である。
だから、言葉の土壌は学校教育であり、その後ろ側に在る日本社会である。
その時、私は日本人の責任で日本の批判はするが、外国・地域の批判をしないよう努めている。それは私の言葉になるかならないかと関わって来るので。
これは美点についても同じで、体験的真実を直覚しない限り軽率に言わないようにしている。

何でも近年の作家は読者を想定して日記を書くそうだが、私にはそれほどの意図性はないとは言え、外に発することでの他者の共感を期待していることは否定しない。
そして幾ばくかの読み手に恵まれる幸いを得ている。
当然、切って捨てる人もいる。そこには旧知の人もいる。私はその時、娘を思い浮かべ、対話し、静かに受け流している。
もっとも、イジメの最も強い形は無視〈ネグレクト〉であることを、娘の経験と併せて私なりに理解していて、そういう視点からすれば反応があること自体良いことなのかもしれない、とも思っている。

今も現役で日々厳しく精進し続けている同窓が、共感、共振し、生きる励みとさえ言ってくれている喜び、感謝を力にもう少し続けたい、と言い聞かせて現在に到っている。
娘は、苦笑し、肯(うなず)いてくれていると信じている。

世界で、日本で、今も昔も、幼い子が、若い人が、病で、事故で、事件で、戦いで、自己選択で、どれほど天に旅立ったことだろう。
その天文学的哀しみの数字。
消されることのない身内の、友人の、絶望的哀しみ。
それでも、私たちは今も、平安を求めて彷徨(さまよ)う。
平和を訴える。実現すると信じて。しかし心のどこかでそれがないことも直感して。
人が人であることの何という哀しみ、寂しさ。
勇気ある人々は、それでも愛と平和を唱え、時に声高にうたう。そのために命を奪われた人々の多さ。
日々、まとわりついて離れない欲望を今もって清算できない私がゆえに、より迫る虚しさ。哀しみ。
そして死の永遠の静謐を想うこともあるが、そこに踏み込むことなく日の出を待つ。

生きることの凄み……。

そんなとき、無常と言う言葉がふと脳裏をかすめる。
多くの先人は言う。諸行無常。「はかなさ」「むなしさ」。そしてそこを基点としての生と死を。
しかし、それは個を措いた観察なのではないのか、もっと言えばそれは、命の終着に近づくことでの心と体の萎え衰えを覆い隠す自尊と哀しみと慰めからの人間ならではの美的表現なのではないのか、
無常とは、生きる痛快の源のはずなのではないか、と奇っ怪、屈折して思う私が今もいる。

教師時代(それも前半時代)、例えば『徒然草』鑑賞で、解説等に説かれている言葉「無常」を生徒の前で発するとき、それが自身の言葉でない違和感があった。いわんや高校生の多くは。
知・情・意としての人と理解に改めて思い到る。かてて加えて、“美”とか“善”は人間だけの心の働きではないかと思う私もいる。
しかし、季節の移り変わりに、とりわけ春から初夏の激越な自然の変移に、心身力みなぎる若者でさえ、否だからこそ、自然と歩調を合わし得ない事実を前に、私の能天気はたちまち露わになる。

私は、寝食共にする愛犬に問い掛ける。「どう思う?」
愛犬はいぶかしげな表情で私を見つめ、応える。
「一分一秒一生涯。他に何が?自然に任せよ」と。
愛犬の風貌に老子の面影が重なって見える……。

そんな私は、近年、日本は変な方向にひた走っていると思う一人である。
これはいつの時代でも繰り返される老人の愚痴に過ぎないのかもしれない。しかし、同世代とは言え、同意する人は私の周りに確実にある。

「変な方向」の具体的なことは、これまでに幾つも書いて来たので繰り返さない。
要は、私たち日本人の心に連綿として息づいて来た(はずの)、人への、万物・森羅万象への慈しみの情が枯渇して来ているのではないか、そして
言葉は概念化し、知識の一面非情冷然化し、情報過多社会も手伝って奇妙に装飾化し、現代日本社会の虚飾を覆い隠すほどに堕してしまったのではないか、との思いである。
それが、とりわけ立法と行政を司る、支える人々に顕著に思え、それを伝えるマスコミも教導精神?のなせることなのか、先の人々と結局は同じ穴のムジナ、そこでは私たちを軽侮した憐憫が見え隠れする。

先に言った同意者の近しい年金生活者の一人は言う。

「政治家は、きれいな言葉を誇らしげに並べ立てているが、老人はさっさと死ねと言っているとしか思えない。」と。

これは、年金生活者となり、多くの人達の無形有形の助力で田舎暮らしをしている果報者の私であるが、今の政治主導者たちの言う「国民」とは、政府による選民を言っているとの思いと、同時に「強い日本」が戦力と物質文明での指向であるとの思いに、私の中ではつながっている。

明治維新からの近代化が、太平洋戦争の敗北が、戦後の復興過程が、現在の私たちに何をもたらし、何を促したのか、そのことに世界の、アジアの一員としてどれほど真摯に向き合って来ただろうか、
また少子化と高齢化の事実が、「人の、或いは日本人の生き方」と言う時の「人・日本人」に、どのような正のエネルギーになるのか、それ自体ナンセンスな問いなのか、と一層の不遜を承知で思う。

ところで、これらのことは娘が、20代の生前、よく口にしたことでもあった。

時候もあってか、菩提寺は京都・四条烏丸に近く、四条河原町近辺は国内外の老若観光客で溢れている。疲労困憊の表情を漂わせた人もかなり多い。
知人宅からは私鉄と地下鉄を乗り継いでいくのだが、二つの光景から、かの「おもてなし」との言葉を思い出した。

(尚、私個人は、この言葉の今の用法由来である、東京オリンピック招致にはそもそも懐疑的だったし、流行語とまでなったのは、あくまでも日本のマスコミの商業上の戦略・操作と思っている一人で、この言葉が、東京決定に影響したなどとは委員(理事?)の名誉のためにもあり得ないと思っている。スピーチで言えば、高円宮妃久子さんと佐藤真海さん(とりわけ佐藤真海さん)の二人の女性の存在が、周知されているように私も決定的であったと思っている。)

「人のふり見てわがふり直せ」、首をかしげたくなる電車内での、中高年者の二つの場面。
一つは、座席の座り方。
どう目測確認しても7人掛けのところに、堂々と(余裕をもって?)6人で座っている中高年。
まるで隣人と触れることでの病原菌伝染を怖れるかのように。

一つは、携帯電話の呼び出し音がしたその方向への殺意さえ垣間見せる視線の中高年。
か、と思えば、呼び出し音以上の大きな声で会話し、時に哄笑する中高年。

因みに、中高年の若者批評に多く見られる言葉は「かわいそう」「なさけない」、と私は思うのだが、先の二つの場面とこれらはどうつながるのだろう?

後景に見えるキャッチフレーズの入ったきれいな写真広告。曰く、
「日本に 京都があって よかった」
「いま ふたたびの ならへ」

おもてなしは、言葉を介しての、或いは言葉を越えての、人と人の心の和(なご)みの通い合い。
どんな日本人が、どんなおもてなしをし、どんな観光客が、どんな心で受け止めているのだろうか。
観光客招致での官民一体の大合唱。時には「爆買い」との言葉も生まれ。

40年ほど前の、修学院離宮での、1組の中年の西洋人男女を含めた20人余りの日本人グループでの見学体験を思い出す。
そのグループガイドの、かなりの声量で、ジョークも交え、饒舌に(途中から雑音に思えて来るのだが)話す日本人青年(男性)。
始まって10分ほど経った頃だったろうか。その外国人が言った。日本語で。
「静かに話してください。余計な話はやめてください。」

立法、行政担当者、観光業者、マスコミは、日本の何を伝えるためのおもてなしをしようとしているのだろうか。
政治失策による国民生活・福祉の財源不足を補填しようとしている、とは考えられないが。

私は一応“京都っ子”のはしくれと思うが、京都の“観光地”(新観光地化した市民生活場所も含め)に行きたいとは思わない。
疲れるための旅が旅とは思わないので。
それにしても先の京都のキャッチフレーズの激しさ、もの凄さ。私でも恥ずかしい。

滞在中、法隆寺にも行った。
作家・坂口安吾(1906~1955)の『日本文化私観』の一節、

「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。」

に、考えることを強く促された私としては、他の先人と法隆寺或いは奈良(大和)のことと併せて私の言葉が綴れたらとの思いがあるし、また、
幾つかの地方から来ていた中学生修学旅行生徒との心和む出会いもあり、そのことを後日のどこかで、[その2]として投稿できればと思っている。

 

 

 

2015年4月7日

北京たより(2015年4月)   『歳歳年年』

井上 邦久

亮馬橋路の日本大使館の向かい側、中日青年交流会館や21世紀ホテルの敷地の一角に21世紀病院があります。海外旅行保険保有者を対象とする総合病院です。
流暢な日本語で対応する係員や穏やかな物腰の看護士のお蔭でこちらの気分も安らぎます。昨年後半、この病院に通い中医系医師により、腰痛や神経痛をゆっくりとしたペースで治してもらいました。
ところが春節のあと、2月末の台北から始まった各地での監査や決算配当董事会への対応が3月末まで続きました。その間に、東京での会議や「お別れの会」への出席があり、とうとう足腰の痛みが限界に達しました。
東京・天津そして最後の北京での業務をダマシダマシ(身体に対してで、監査には真摯に対応)終えてから、すぐに21世紀病院に向かいました。

慌しい三月、「春場所の浪花に匂う大銀杏」に接することもなく、いつの間にか千秋楽でした。関脇照の富士の躍進の陰で、同じく関脇に昇進しながら早々に休場した隠岐の海の居ない土俵は寂しかったなどと感じるヒマも無かったです。
「センバツの球は転々宇宙間」をしっかり追いかけることができず残念でした。秋の神宮大会に優勝した仙台育英など有力視されたチームが早々に敗退して「秋から春」の難しさを改めて感じました。ただ松山東が二松学舎に勝利したので、相手校の時代錯誤的な校歌が北京やソウルまで国際放送で流れてこなくて良かったです。

毎年の三月は中国圏定点観測の渡り鳥生活を繰り返してきました。
大連から香港まで各拠点の運営状況を、第三者の視点で点検してもらうことが第一義であることは言うまでもありません。
次に現地スタッフとの交流でその土地ならではのトピックスを知ることも大切です。また、現地の銀行やJETROを訪ねて、新鮮な観点を教示してもらうことで、視野を広げる努力を続けてきました。
更には、誰に対しても強制できることではないのですが、早起きの朝の市場散歩や夕食後の足裏マッサージでの世間話はその街の風に当る機会でもあります。
期末の三月以外にも各地を巡ってきましたが、三月であれば「ああ監査だから来るのか」ということでスタッフ達に容易に納得してもらえる利点もあります。また定点観測をしておけば、その後に提案や課題が生まれたときに検討や解決に当っての想像力が湧いてくることもあります。

三月の折り返し地点、3月15日の日曜の昼下がりに「中国と周辺地域の関係史~遊牧民からみた中国交渉史~」と題するセミナーを聴取しました。
日本からのフライトを早めて、空港から直行した大学の教室には駐在仲間の皆さんが席を占めていました。セミナーの先発・中継ぎ・抑えのいずれの講師からも啓発を受けました。

『「一帯一路」計画と中国の対外発展戦略』と題する講演の冒頭に、李小鋼主任(上海社会科学院外国投資研究中心)は、・・・北京での両大会が終了しました。
今朝ほど恒例の李克強首相による記者会見がありました。内外の記者からの十数項目の質問には「一帯一路」に関するものはなく、首相からも言及がなかったのが意外でした・・・とホットな話題を披露しました。
念のため、翌日の朝刊記事を浚ってみましたが、確かに「一帯一路」についての記事が見つかりませんでした。

西北部から中央アジア、欧州への経済回廊の「帯」、東南アジアへの海上シルクロードの「路」の水陸同時に推進する経済発展プラン。
これを「国際経済合作交流」と見るか「中国の拡大」と見るか? プランを「戦略」と見るか「計画」と見るか?
2015年から公にされる具体的な内容を見るまでは判断がつかない人間にとって、李主任の分析は刺激的でした。
李主任は言います・・・「一帯一路」計画にかかわる特定のプロジェクトはいったい援助的な交易プロジェクトなのか、それとも利益を追求する商業プロジェクトなのか、その性質を明確にする必要がある。そうでないと、プロジェクトの評価基準が混同し、最終的にプロジェクトを失敗の道に導く。

ところが、昨今はアジアインフラ投資銀行(AIIB)へ参加する、しないが大きく取り上げられ、あたかも「一帯一路」プランが銀行設立と表裏一体のような印象までも与えているのではないかと訝っています。

まさか新銀行に米国や日本が参加したら「一帯一路」が成功だ、などといった短絡的な見方はしていないと思います。数ヶ月前から北京の早耳の方々から「日本は参加しないとは言っていない」とも聴いています。
日本・米国主導(現在の第3出資国は中国)のアジア開発銀行は第二次大戦後の「飢餓と貧困」からの脱却の為に大きな貢献をしたと思っています。多分、うまくアジア開発銀行を活用したのは中国ではなかったでしょうか?
しかしアジア経済の成長と拡大により新たな「需要と提案」に応える受け皿が必要になったのは自明であるので、本来は日米が率先して刷新創新をすべきだったと愚考します。

問題の一つは、中国が本プランを中央銀行主導ではなく、財政部主導で政治的援助に使いすぎると「一帯一路」の国々(或いはその国の政治家)の中から、中国以上に政治的に資金を利用する動きが出てこないかです。
二つ目は、国内経済の曲がり角にある中国が、1978年以来の「利用外資発展産業。請進来(下世話な訳ですが、外資を利用して国内産業を発展させる。どうぞイラッシャイ)」から「走出去(海外進出、さあ出て行こう)」政策促進へ転換した現在、外資の流出と国内産業の空洞化により国内経済がますます脆弱にならないかです。
三つ目に、上手く進めば大きなビジネスチャンスとなるとして、ここでも「国進民退」が優勢になり、独占的な国有企業が更に国家経済を壟断しないかです。
最後の一点は言うまでもないことですが、民族間摩擦の地域にお金で心を得る手法が通用するか?という過去も現在も存在する課題です。功徳(開発の功と人心を掴む徳)が合体せず、折角の「功」が仇花や恨みの象徴になったことはアジア現代史の一つの残念な流れです。

李主任の結論;「一帯一路」計画で中国にはチャンスがあるが、自分を変えなければならない。「やりたい」を「やってもらいたい」に変えなければならない。

井上の楽観論;国際社会に認知されるステージを切磋琢磨の機会と捉え、自国システムの改革に還流させる。

ウルムチ事務所の看板が上がりました。
先ずは9月の中国・中央アジア・欧州博覧会への出展参加が標的です。ただ事務所の存在機能の本当の発揮は2020年前後になると思っています。
ウルムチに限らず各地での業務の上で留意すべきことがあります。
五年以上も渡り鳥生活を繰り返してくると、先ずマンネリと独断が増えてくることです。そして、もう一点は体力気力への過信です。

この二つの要点を解決する方法は一つ『若返り策』です。それは「春隣白髪ぼかしでアラカンに」といった小手先技で、自分自身が若返ることではありません。それは十分に自覚しているつもりです。

21世紀病院の裏口から春の亮馬河の土手に出て、柳の薄緑色と迎春花(レンギョウ・連翹?)の浅黄色のなかを歩きながら、「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」の古い詩を口にしました。

(了)

2015年4月7日

桜と空(そら)と死と生の私的心象 ―沖縄・りんけんバンドと上原知子『黄金三星』を聴きながら―

井嶋 悠

今年も『願はくは 花の下にて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ』(西行:平安末期・鎌倉初期の歌人・武家の出自・23歳で出家・71歳で死去)の季節が巡って来た。
私の在宅地栃木から南150㎞の東京には、既に菜種梅雨の報が出始めたとのこと。
いかにも桜花らしい。

この歌は、23歳で悪戦苦闘の末、天空に静かに静かに旅立った娘(次女)の好きな歌でもあった。
天上で西行さんは、娘に声を掛けてくださっただろうか。
もっとも、西行さんは千客万来だろうけれど。
娘の旅立ちは、2012年4月11日22時22分だった。

文芸評論家の山本健吉は、氏の集成でもある『古典詞華集』の中で、この歌を次のように評している。

「願いがそのまま歌のリズムとなり、イメージと化したような、西行らしい率直な歌」

人一人が託する願いの言葉が、その人の、それに接した人の心象に、ごく自然に沁(し)入る31音の歌、音楽に昇華した、古今多くの人々に愛誦され続けている作品。
そこにあるその人の無念。哀しみ。時に己への快哉。

娘も然り。
親として、教師としての、彼女の無念と哀しみへの私の懺悔。
出立の日以降、妻(母)との対話での忌み言葉は「学校」「教師」。とりわけ教師。
その私は33年間、その教師であった。

娘の帰幽(帰天)を出発点に始めた『日韓・アジア教育文化センター』「ブログ」への意図的寄稿。
ブログでの私の体験的教師観、学校観について、痛罵に近い疑義提示にも会ったが、娘のあまりの無念、哀しみを数年間にわたって直接に知る私の、親であり教師だからこその自己批判を起点に、教師・学校を、更には社会に問い掛けている。
疑義、異論、批判はあって然るべきだから、素直に聞き入れている。
ただ、私と同じ哀しみを直感する親、教師があることも一方の事実である。
そんな折、20年以上も前に出会った「生協」の、ヨーロッパ由来の標語[万人は一人のために、一人は万人のために]が過る。

今、私は久しぶりに「リんけんバンドと上原知子による『黄金三星』」を聴いている。
なぜ今、聴こうとしたのか。
きっと沖縄の哀しみが一層切々と露わになっている昨今、沖縄の音楽(しらべ)が、再び甦って来たからだろう。
しかし、私は政治を、またその歴史を、ここで言う(語る)つもりはない。言えば、論理に疎い私の、憐憫の、無責任な同情に堕することは明らかだから。

今、私は、彼ら(作詞・作曲 照屋林賢)の優しさ溢れ物静かなメロディー(旋律)とリズム(律動)と、抒情の叙景の詞を背にして歌う上原知子さんの夜天空を見つめる清澄な声のハーモニー(調和)にひたすら浸っている。
そして、「哀しみ」があって「愛(かな)しみ」の生がある、その生の力に再び気づかされている。
だから、例えば『平和の琉歌』(桑田佳祐作曲・作詞 ネーネーズ歌)にも心魅かれるが、その詞の叙事性がために何度か聴くと離れて行く私がいる。

この私の心音(こころね)は、ささやかなしかし紆余曲折を経た、教師体験からの私の教師源泉でもある。
感傷がはらむ危うさを重々知りつつも。

以下は、『黄金三星』を再聴して、これからの私の生の精気について、新たな自己確認をするかのように脳裏を駆け巡り、迫って来た今の私の心象断片である。

 

 

その時、私は空(そら)を見ていた。
すべては哀しみだった。
やがて、哀しみが生であることを知った。
と同時に、愛(かな)しみであることも。

しかし、何度、何年、空を忘れていたことだろう。
私の高慢の証しそのままに。

今、私が見た空を思い起こしている。
すべては娘の死が、私を詰問する。
今、知識ではない死を心推し量れるようになった。ほんの少しだけれども。
大地の土に、大空の塵に戻る(戻れる?)と自然に思うことでの心の安寧、静謐(せいひつ)。

小学生2年生の時、父が単身赴任、母と二人の日々の、或る夜に、
伯父伯母の家に預けられた時の、或る夜に、
独り星を追った。

大好きな伯父に叱られた時、深い井戸の底に超速で吸い込まれて行った。

どこか外に“夢”があると信じ、家を飛び出した時の、或る夜に。
大学に行って覚えた引き籠りの中毒的飲酒は、27歳、高校時代の恩師の計らいから教師になって同僚との喧嘩となり、自重はほど遠かった。
独り嗚咽することはあっても。

夜空は詩集と言う観念にしかなかった。

そして、私は妻を娶った。
独善“先生”、毎夜空を見ることなくただただ相も変わらず呑み耽った。
妻の哀しみを痛いほどに感知しているにもかかわらず。

妻が腹膜炎になり、妻の胎内で世の備えを積んでいた長女は、虚しく胎内から出(い)で、母は命をつないだ。
斎場の原っぱで、3月20日、天上に向かう“鳥辺山の烟(けむり)”を父と二人で見送った。
そこには一切の言葉はなかった。言葉を越えて、私は父の、父は私の心を互いに直覚していた。
妻は産院の窓越しに、一筋の白煙を心眼で追っていた。
妻は長女に「桜」と名付けた。

長男が生まれ、妻が産院で養生している間、夜毎独り空に感謝し、涙し、呑み、いろいろな人に電話した。
それを知った妻は赤面した。

3年後、次女が生まれた。
3年前、その次女は23歳で姉の元に旅立った。
音楽が神に最も近いことを全霊で承知した。
或る音楽は昇天途上の彼女を、或る音楽は神の慈愛に微笑む彼女を、或る音楽はこの世に在った彼女を、映し出し、空は止めどもない涙越しに果てしなく広がって行った。

18年前、父は長年の肝硬変で、深夜、自室で波乱の生を終えた。母の寝室は別室だった、
救急車の後をついて行く車中から見た星が美しかった。
宿直医は言った。「既に死後硬直が始まっています。」

その翌年、妹(異母妹)が37歳で、太く短い生に別れ、永久(とわ)の眠りについた。癌だった。
翌朝、彼女が最後の夜を迎えた病室に神々しいまでに陽光が差し込んでいた。
私は、轟音響く鉄の扉の向こう側に向かって妹の名を叫んだ。

生母は、父が海軍軍医として長崎に赴任していた時に結ばれた。
私が伯父伯母の家から父の所に戻った(戻らされた?)時、一人暮らしになっていた。
新しい母が父と居た。
何年か経ってから、母の天涯孤独の身を知った。
6年前、89歳で天寿を自身のこととした。
妻が最期を看取った。
母の遺灰は青天白日下、富士の見える相模湾船上から空に駆け上がった。
ひそかに父が迎え入れることを願う私がいた。

そして、
2015年夏、幸いにも親と天の力添えを得て、死の心準備を言われる病はなく、古稀を迎える私がいる。
無為自然(老子)と70歳自由人(孔子)を、少しでも自身に引き寄せられることを希う私がいる。
もっとも、そのために無理(作為)が加われば、矛盾の滑稽に堕するだけだけれども・・・・・。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

(略)

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

[私注:いからず・むさぼらず・うらまず・ねたまず・・・・・・

宮沢賢治でさえ「ワタシハナリタイ」と結ぶのだから、いわんや私の道程(みちのり)は絶望的に遠い。
今もってさえ我執に醜い言い訳を繰り返している私ゆえ。それでも、と思う私もいる。]