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2015年4月7日

桜と空(そら)と死と生の私的心象 ―沖縄・りんけんバンドと上原知子『黄金三星』を聴きながら―

井嶋 悠

今年も『願はくは 花の下にて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ』(西行:平安末期・鎌倉初期の歌人・武家の出自・23歳で出家・71歳で死去)の季節が巡って来た。
私の在宅地栃木から南150㎞の東京には、既に菜種梅雨の報が出始めたとのこと。
いかにも桜花らしい。

この歌は、23歳で悪戦苦闘の末、天空に静かに静かに旅立った娘(次女)の好きな歌でもあった。
天上で西行さんは、娘に声を掛けてくださっただろうか。
もっとも、西行さんは千客万来だろうけれど。
娘の旅立ちは、2012年4月11日22時22分だった。

文芸評論家の山本健吉は、氏の集成でもある『古典詞華集』の中で、この歌を次のように評している。

「願いがそのまま歌のリズムとなり、イメージと化したような、西行らしい率直な歌」

人一人が託する願いの言葉が、その人の、それに接した人の心象に、ごく自然に沁(し)入る31音の歌、音楽に昇華した、古今多くの人々に愛誦され続けている作品。
そこにあるその人の無念。哀しみ。時に己への快哉。

娘も然り。
親として、教師としての、彼女の無念と哀しみへの私の懺悔。
出立の日以降、妻(母)との対話での忌み言葉は「学校」「教師」。とりわけ教師。
その私は33年間、その教師であった。

娘の帰幽(帰天)を出発点に始めた『日韓・アジア教育文化センター』「ブログ」への意図的寄稿。
ブログでの私の体験的教師観、学校観について、痛罵に近い疑義提示にも会ったが、娘のあまりの無念、哀しみを数年間にわたって直接に知る私の、親であり教師だからこその自己批判を起点に、教師・学校を、更には社会に問い掛けている。
疑義、異論、批判はあって然るべきだから、素直に聞き入れている。
ただ、私と同じ哀しみを直感する親、教師があることも一方の事実である。
そんな折、20年以上も前に出会った「生協」の、ヨーロッパ由来の標語[万人は一人のために、一人は万人のために]が過る。

今、私は久しぶりに「リんけんバンドと上原知子による『黄金三星』」を聴いている。
なぜ今、聴こうとしたのか。
きっと沖縄の哀しみが一層切々と露わになっている昨今、沖縄の音楽(しらべ)が、再び甦って来たからだろう。
しかし、私は政治を、またその歴史を、ここで言う(語る)つもりはない。言えば、論理に疎い私の、憐憫の、無責任な同情に堕することは明らかだから。

今、私は、彼ら(作詞・作曲 照屋林賢)の優しさ溢れ物静かなメロディー(旋律)とリズム(律動)と、抒情の叙景の詞を背にして歌う上原知子さんの夜天空を見つめる清澄な声のハーモニー(調和)にひたすら浸っている。
そして、「哀しみ」があって「愛(かな)しみ」の生がある、その生の力に再び気づかされている。
だから、例えば『平和の琉歌』(桑田佳祐作曲・作詞 ネーネーズ歌)にも心魅かれるが、その詞の叙事性がために何度か聴くと離れて行く私がいる。

この私の心音(こころね)は、ささやかなしかし紆余曲折を経た、教師体験からの私の教師源泉でもある。
感傷がはらむ危うさを重々知りつつも。

以下は、『黄金三星』を再聴して、これからの私の生の精気について、新たな自己確認をするかのように脳裏を駆け巡り、迫って来た今の私の心象断片である。

 

 

その時、私は空(そら)を見ていた。
すべては哀しみだった。
やがて、哀しみが生であることを知った。
と同時に、愛(かな)しみであることも。

しかし、何度、何年、空を忘れていたことだろう。
私の高慢の証しそのままに。

今、私が見た空を思い起こしている。
すべては娘の死が、私を詰問する。
今、知識ではない死を心推し量れるようになった。ほんの少しだけれども。
大地の土に、大空の塵に戻る(戻れる?)と自然に思うことでの心の安寧、静謐(せいひつ)。

小学生2年生の時、父が単身赴任、母と二人の日々の、或る夜に、
伯父伯母の家に預けられた時の、或る夜に、
独り星を追った。

大好きな伯父に叱られた時、深い井戸の底に超速で吸い込まれて行った。

どこか外に“夢”があると信じ、家を飛び出した時の、或る夜に。
大学に行って覚えた引き籠りの中毒的飲酒は、27歳、高校時代の恩師の計らいから教師になって同僚との喧嘩となり、自重はほど遠かった。
独り嗚咽することはあっても。

夜空は詩集と言う観念にしかなかった。

そして、私は妻を娶った。
独善“先生”、毎夜空を見ることなくただただ相も変わらず呑み耽った。
妻の哀しみを痛いほどに感知しているにもかかわらず。

妻が腹膜炎になり、妻の胎内で世の備えを積んでいた長女は、虚しく胎内から出(い)で、母は命をつないだ。
斎場の原っぱで、3月20日、天上に向かう“鳥辺山の烟(けむり)”を父と二人で見送った。
そこには一切の言葉はなかった。言葉を越えて、私は父の、父は私の心を互いに直覚していた。
妻は産院の窓越しに、一筋の白煙を心眼で追っていた。
妻は長女に「桜」と名付けた。

長男が生まれ、妻が産院で養生している間、夜毎独り空に感謝し、涙し、呑み、いろいろな人に電話した。
それを知った妻は赤面した。

3年後、次女が生まれた。
3年前、その次女は23歳で姉の元に旅立った。
音楽が神に最も近いことを全霊で承知した。
或る音楽は昇天途上の彼女を、或る音楽は神の慈愛に微笑む彼女を、或る音楽はこの世に在った彼女を、映し出し、空は止めどもない涙越しに果てしなく広がって行った。

18年前、父は長年の肝硬変で、深夜、自室で波乱の生を終えた。母の寝室は別室だった、
救急車の後をついて行く車中から見た星が美しかった。
宿直医は言った。「既に死後硬直が始まっています。」

その翌年、妹(異母妹)が37歳で、太く短い生に別れ、永久(とわ)の眠りについた。癌だった。
翌朝、彼女が最後の夜を迎えた病室に神々しいまでに陽光が差し込んでいた。
私は、轟音響く鉄の扉の向こう側に向かって妹の名を叫んだ。

生母は、父が海軍軍医として長崎に赴任していた時に結ばれた。
私が伯父伯母の家から父の所に戻った(戻らされた?)時、一人暮らしになっていた。
新しい母が父と居た。
何年か経ってから、母の天涯孤独の身を知った。
6年前、89歳で天寿を自身のこととした。
妻が最期を看取った。
母の遺灰は青天白日下、富士の見える相模湾船上から空に駆け上がった。
ひそかに父が迎え入れることを願う私がいた。

そして、
2015年夏、幸いにも親と天の力添えを得て、死の心準備を言われる病はなく、古稀を迎える私がいる。
無為自然(老子)と70歳自由人(孔子)を、少しでも自身に引き寄せられることを希う私がいる。
もっとも、そのために無理(作為)が加われば、矛盾の滑稽に堕するだけだけれども・・・・・。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

(略)

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

[私注:いからず・むさぼらず・うらまず・ねたまず・・・・・・

宮沢賢治でさえ「ワタシハナリタイ」と結ぶのだから、いわんや私の道程(みちのり)は絶望的に遠い。
今もってさえ我執に醜い言い訳を繰り返している私ゆえ。それでも、と思う私もいる。]