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2019年6月20日

    [教 育 私 感 ] 33年間の中高校教師体験と 74年間の人生体験から  

井嶋 悠

                       はじめに

私の限られた経験だが、教育者は教育を語る、語り合うことを甚だ好む傾向にある。教職意識が高い(強い?)と言うことなのだろう。私も30代40代頃は、そういう意味では教育者の一人だったかと思う。しかし、公私流転の人生にあって50代後半からそれが疎ましく思うようになった。なぜなら、教育そのものが分からなくなったからである。 これでも中等教育での、国語科教育は当然のこと、他に日本語教育、国際教育としての海外・帰国子女教育、外国人子女教育、更には国際理解教育に手を染めた。ほんの一部の人々とは言え、私に良い評価を与えて下さる方もなくはない。それは今も生きる支えになっている。
しかし、私が語ると私の中で騙(かた)るに堕してしまいそうなところがある。だから?時折、居直り的に発言が激しくなることが多い。私的には本質的(ラディカル)発言と思ってはいるのだが。
例えばどんな発言(提言)かが問われるかとは思うが、以前の投稿と重なるので立ち入らない。

ただ、一つ新しい問題について触れる。 学校教育の無償化が新たな或いは更なる歪みを生みだすことは、既に指摘されている。無償化[要は家庭経済の負担減]の前に、塾産業撤廃案をなぜ打ち出さないのか。それこそ、小学校前から大学までの初等・中等・高等教育の「教育」について、また教師の在りようについて、学力観、学歴観は言わずもがな、人生観、社会観まで途方もなく大きな課題を突きつける契機となるように思えるのだが、やはり一笑に付されるだけだろうか。

高齢者運転問題で、テレビのインタビューや何かの折に知る、自身の運転或いは体力への自信等を言う高齢者。その人々を無性に腹立たしく思う同世代の、日常的に運転しなければ生活できない地域に住んでいる私の心の自然な動きなのか、教育について整理する時機が来ていると思うようになった。 33年間と74年間の体験からの私の言葉として。このブログ投稿の基底にある自照自省。
その時、私の脳裏を過ぎった言葉(キーワード)は「屈折」である。 その屈折、意味、用法から三つに分類されるとのこと。以下それを引用する。
① 相手に対する感情が複雑に入り混じっているさま[例語:愛憎ないまぜの]
② 性格が素直でなくいじけているさま[例語:素直でない、へそ曲がり]
③ 考え方などが偏っていたり狭かったりすること[例語:偏狭な、料簡が狭い]

何年か前のこと、旧知の方とただ漫然とした会話をしていたとき、その方が「どうしてそんなに屈折してるの?!」と笑顔で切り裂いて来た。そこでは、この人とはもう会うことはないなと思った私がいたが反論する私でなく、どこか同意する私がいた。そして、今も相当な力で心の、頭の中に留まっている。正に屈折?
なぜ同意できたのか。生まれ持った要素(井嶋親族で共通する要素との意味も含め)として直覚したのかもしれない。しかし、今改めて思うに“私”と言う人生がその要素を培ったと言えるのではないか。 先の分類に従えば、その方の私への用法は、三つの意味が微妙に重なっているように思える。「ように思える」では落ち着きが悪過ぎる。
そこで、20代後半に高校時代の恩師により教職に導かれた一人として、教育観に翳を落した或いは逆に陽を当てた、と私が思う、幼少時からの「事実」を客観的に振り返ってみることにした。 良いとか悪いと言った善悪単純二分法ではなく、そもそも人間は屈折の動物とさえ思うからこそ幼子(おさなご)を慈しむし、多くの動物を愛おしむと考えている、そんな「私」の屈折を炙り出してみたい。 そのことで、家庭であれ、学校であれ、私の「教育」感(観)が視えて来る、そんな期待を寄せて。

教 育 私 感
33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から
Ⅰ 初等教育[時代]

小学校前半までは、京都・賀茂川の近くで、虫採り、魚採り等遊びの天才だった向かいの中学生を英雄視し、彼を真似た痛快な思い出が幾つもある、昔ならどこにでもいた一人である。ただ、違ったのは、小学校入学前後から父親の地方赴任に伴う母子家庭だった。母親は純粋な人だったが、家庭的なことが全くと言っていいほどに駄目でいつも心は外に向いていた。そのことによる私の心の隙間を埋めてくださったのは、近所に住む伯父(父の兄)伯母と6歳年上の従姉妹であった。

大人事情は世の常とは言え、後に分かることだが、父母の離婚話が進行中のこともあって、小学校後半時から東京の伯父伯母(父の姉)宅に預けられた。伯父の社会的地位によるのだろう、その家は邸宅(おやしき)と言うにふさわしく、お手伝いさん夫婦が住み込んでいた。 母は結婚前の職種、看護婦となり、関東の地で独り生活を始めた。母への慕情が募り始めたとの記憶はない。ただ、何かぎくしゃくしたような不自然なものがあったように記憶の片隅にある。

伯母の能楽[主に小鼓]や茶道(茶室があった)への傾倒も手伝ってか、伯父の関係者、能楽関係者等々、それも30代から40代の人たちの出入りが非常に多かったが、子どもは私一人だった。伯父伯母に子どもはなかった。時に月に何度もその人たちによる夕食の会が行われ、活気を呈する家だったが、お手伝いさんの心遣いもあって、独り夕食を台所でとることもしばしばであった。しかし、寂しいとの心情はなく、こんなものだと思っていたのだろう。
庭も広く、また当時まだ普及していなかったテレビもあり、小学校の同窓生もそれらがあってしばしば遊びに来ていたが、私の中ではほとんど記憶が残っていない。
ただ、伯父方の親戚家族が時折来て、その中で幼少の男の子二人、特に兄の方、の子守的なことをしたのは、懐かしい思い出として今もある。

私の中では、どちらかと言うと大人社会にいた3年間のような印象が強い。 その象徴的事件?に、泥酔と二日酔いの小学校5年生(11歳時分)での体験がある。先述の大人たちの夕食会で、酒を大いに勧められ、嬉々として?受け容れた結果である。大人たちからすればかっこうのおもちゃがごとき相手だったのだろう。その時も、お手伝いさんが苦笑しながら介抱してくれた様子が薄っすらと残っている。

そういった酒食の会では、男女の性の話題も多く、或る時、その人たちが話題にしていた単語の意味が分からず素朴に質問したところ、場を一瞬凍らせたことが今も残っている。しかし、今日の小学校での或いは広く学校での「性教育」の現状ではお笑いぐさであろう。
森 鷗外の、自身の6歳からドイツに留学する21歳までの性に係る経験を描いた『ヰタ・セクスアリス』(ラテン語で性欲的生活の意・47歳時執筆発行)では、6歳から12歳の間にあって、既に幾つか兆しを直覚していて、私がいかに奥手か、また感受性に乏しかったが分かる。
このことは、ここ年々、人生最大の難題であり、本質的問題は「性」ではないか、と老いと共に性に対し時に嫌悪感さえ抱くこともある複雑さを持ち始めた私の、遅さにつながっているように思える。
鷗外は先の著の最後の方で「永遠の氷に掩(おお)われている地極の底にも、火山を突き上げる猛火は燃えている。」と記しているが、以下の老人男女のことは正にその現実なのかもしれない。
老人介護施設職員の談話で、80代と90代の男女が、下半身を露出してベッドに在った旨聞いたときの、私の途方もない衝撃、驚愕。

この晩熟(おくて)は、3年間と言う限られた中とはいえ、血気盛んな大人たちと、それも開放的な夜の時間にいたことがかえってそうしたとも思ったりもするが、やはり個人生来のゆえなのかもしれない。
自身の生来と後の周囲の環境によるこの自覚は、現在の年少者への性教育について必要との理屈(説明)は理解できるのだが、今もって違和感がある。私の「理解」と言う理屈(論理)の言葉の一つ。
保守性のあらわれ?とは言え、性教育推進者が革新的とも思わないが。 併せて、中学校に進学して一層重い課題となるジェンダー教育の端緒は、今どのように意識して為されているのだろうか。

転校した小学校は、東京都大田区内の分校的な小規模校であった。一学年25人×2クラスの50人ほど。 発する言葉の音調は、当然京都弁。今から60年余り前のこと。
今様に関西弁(特に大坂弁或いは河内弁?)が、広く認知されていない時代、子どもたちにとって不思議で、可笑しな響きに聞こえたのだろう。 イジメではないが、他意のないからかい、笑いの対象になることもあった。
そこで、クラス担任の女性のM先生の放課後東京音調補習がなされることとなった。私の東京弁学習。小規模校ならではの補習?
因みに、私の発する日本語は、その特訓に加えて、20代の2年間の東京放浪生活と国語科教育での読み、話すでの共通語(標準語)指導が加わって、時に聞く人にとって奇妙な日本語となっている。

すべての人々の生活語は方言、と言っても未だに東京弁=共通語(標準語)社会の日本にあって、だからこそ生活と生と言葉での方言の魅力は誰も否めない。それも読むことより聞くことに於いて。(読むのは至難である)
海外・帰国子女教育に係わる中で知った「言語臨界説」、11歳前後でその人の生涯の主言語(第1言語)が決まるとの説に立てば、私の日本語はあの小学校での環境、補習が方向性を決めた、とも言えなくはない。もちろんこれはM先生を非難しているのではない。
その延長上と言うのもおかしな、或いは甚だ偏見に満ちた勝手なことなのだが、男性が話す大阪弁(広く関西弁)は、私の中での特別な人〈例えば、上方歌舞伎俳優や笑福亭 仁鶴氏レベルの落語家、また私が敬意を表する人たち〉を除いて、印象が良くない、少なくとも心地良さはない。
一方で、谷崎 潤一郎の『細雪』の姉妹の会話の言葉は鮮烈で、実に美しいと思った。

尚、この時代に塾は在ったのかどうかと言うほどの存在で、当然のことながら行ってなかった。ただ、稽古事(京都時代、ピアノとバイオリンを習っていた)は、転校で途切れた。これは父母と伯父伯母との考え方の相違のようで、後に憂き世日々の中にあっていかに音楽が大きな力を持つかを実感することになるに及び、残念な気持ちが湧いた。それは今もある。

小学校、次項に記す中学校教育での。英語教育〔個人的には狂(・)育の感さえある〕等“主要”5教科教育との表現での主要の呪縛から脱け出し、音楽教育は言うにおよばず、美術教育、書道教育、保健体育教育、技術家庭教育の充実を強く願う。人生と言う巨大な時間の滋養の土壌として。これは思春期前期の中学校に進学するに及んでますます重要性が問われることになる。 その意味でも、少子化、高齢化は時機を得ていると常々確信している。学校制度の一大改革である。

2019年6月11日

多余的話(2019年6月)    『雲上快晴』

井上 邦久

昨年の直下型地震・長雨・台風という体験から一年になろうとしています。
「天変地異」とか「驚天動地」というある種の畏れを持つことなく、地球温暖化と南海トラフ・プレート活動によるものだと受容し達観する姿勢が良いのかどうか?また、本来ならもっと驚くべきこと、許しがたいことが大量のCMのようなメディア操作によって、奇妙な既視感となり「そういうこともあるか・・・」と、納得と言う名の諦念で流されていく日々はやはり拙いだろうと思います。

4月末から5月にかけて、そのようなことを徒然に考えていたら、行く川の水のように時が流れてしまいました。源氏物語41帖の次は、『雲隠』というタイトルだけで本文が遺されていないことは知られています。
拙文5月号は『4月30日、舞洲にて』のタイトルでした。NPO「ロバの会」の視覚障碍者支援活動で舞洲に行きました。テーマパークUSJで賑わう桜島から橋を渡ったゴミ焼却場のある埋立地です。視覚障碍教師の会が催された会場施設でのお手伝い、舞洲から新大阪までの移動介助体験を中学生日記風に綴りました。サポートした教師は国立大学院で博士号を獲得し、米国留学を果たしてから現在は工業高等専門学校で健常者生徒に対して教鞭を執っているという経歴の人でした。闊達に話が弾む中で見えない世界で観えてくるものを教わりました。
視覚障碍教師との交流体験を通して感じた「言うべきこと」「伝えたいこと」を多く盛り込んだ文章でしたので「多余的話(言わずもがなの話)」としての発信を控えました。

4月29日も5月6日も月曜日の通常授業であり、ボランティア活動の2日間を加えると、実質的にはちょうど程よい4連休でした。かつて「アルバイト情報センター」とか「レジャーランド」と揶揄された時期もある大学の様変わりについては、藤代裕之さんが詳しく報告しています。
少しだけ内側から体験してみると、授業日数の確保・シラバス(授業計画・判定基準)の明確化・受講者が少ない講座お取り潰しなど、文科省の補助金行政の「投資対効果」目的が顕かになり、それを具現化して管理する大学もご苦労なことです。
そして、月曜日が祝日でも学生の出席率が高いことにも驚かされます。休日ダイヤで出講することに居心地の悪さを感じるのは新米教師だけのようで、「我々は一回生の頃から習慣化しています」と女子三回生にたしなめられたこともあります。

雲上快晴、雲下春霖のボストンに降り立ち、12℃まで冷え込んだ 夕暮れの街は大渋滞でした。二年ぶりの街並みを感慨深く眺めていたら「築85年のアパートもまだ新しいねと言われる街だから、二年くらいでは表面的な変化は見つけにくい」と言われました。
冷静な声の主である娘自身は、留学数年で運転技術とともにキャリアも進路も大きく変化させました。翌日にカレッジの卒業式、翌々日は大学全体の卒業式。メルケル首相の記念講演を目の当たりにする幸運にも恵まれました。
午前の卒業式では祝辞、名誉博士号授受とコーラスが延々と続いて退屈そうにしていたメルケル首相でしたが、午後からの講演では冒頭は英語で始め、詩人の言葉からドイツ語でオーラを高めていきました。
トランプ大統領の名を一度も口にしないトランプ批判演説と評されており、卒業生や父兄たちのスタンディングオベーションが続いたと報道されています(記憶では5回)。
同じく記憶では「CHINA」という単語も同様に発していません。午後の進行役が10年前の卒業生のMs.Wangと紹介されたこと、留学生のなかに中国人が目立って多かった記憶が残っています。
講演冒頭部分訳を添えます。メルケル首相が発したかった最大の「壁」とは? ベルリン?長城?ホワイトハウス?はたまた、各人の心の中の「壁」?https://courrier.jp/news/archives/163081/            (了)  

2019年6月10日

30年前、彼女たちが日本に伝えたかったこと――3人の高校留学生の創作絵本――

井嶋 悠

子どもであれ、大人であれ、自身の宝物を、唯一無二或いは幾つかの唯一無二、持っている人は多い。私のその一人で、その一つが現職中[私立K女学院高等部]に、高校留学生[公的仲介機関から指定された留学生で1年間2年次に在籍]への日本語指導の機会を得、制作した、彼女たちの創作絵本である。 学校の了解を得て、現在、その原本を私が保管している。これが私の宝物の一つである。

絵本創作の環境は以下である。
留学当初に本人の意思、意向を確認し、了解を得、留学終了2か月くらい前から創作に入る。 物語(ストーリー)も描画も創作とし、本文は日本語で、自身の母語の挿入は自由とする。 私の役目は、材料の調達、日本語への助言また同窓生での協力者が必要な場合、その探索と依頼である。 最初に試みたのは1982年のことである。未完もあるが、5年間実施した。

今回、その最初の絵本と、次年度の絵本を採り上げ、表題に係る私見を記すことにする。 尚、これら作品群《上記2作品及びもう1作品の3作品》は、このブログが掲載されている『日韓・アジア教育文化センター』のホームページ[http://jk-asia.net/]の一部門[活動報告]の「教育事業」で、スライド形式で確認することができる。 ただ、文字部分で不鮮明な個所もあり、この機会に内容を再確認できる幸いも思っている。

紹介する二作品の概要。
① 『動物たちのゆめ』1982年 
             アメリカからの留学生 文:ベブ・ケンプ/
                            絵:スーザン・オライリー

② 『きっと どっかに』1983年  
                  ベネズエラからの留学生と
       ベネズエラからの帰国生徒             
                文・描画  エミリア・マス  (協力)金田 摂子
       (この作品は、日本語とスペイン語の併記)

以下、両作品の【物語文(日本語)】と【私見等補足】を記す。
尚、私見等補足では、日本語教育関係者にとっては、幾つか気に掛かることも多いかとは思うが、主にその領域以外での私見を記す。

【物語文本文】(日本語)、数字はページ番号。

 『動物たちのゆめ』
1、 表紙
2、 日本の町の動物たちが住んでいました。犬とねことねずみとうさぎとせきせいいんこがいました。動物たちは自分のゆめを持っていました。皆動物たちはちょっとふまんがありました。
3、 犬はとても小さな家に住んでいました。毎日毎日同じでつまらないです。いつも五時五十分におきます。六時十分に朝食を食べます。五分さんぽに行きます。そしてさんぽを終わったら二メートルくらいの犬小屋へはいります。 夜の六時十分にまた食べます。そして七時ごろねます。一日中毎日同じです。だからおもしろい所へ行きたいです。走る事とかほうぼくとかしたいです。それができたらほんとにうれしくなります。
4、 ねこは毎日お米と古い魚食べていました。ぼくじょうに行きたいです。そして一日牛乳飲みたいです。
5、 ねずみは小さな家に住んでいました。その小さな家のすみからすみまで知っていました。だから大きな家に住めればおもしろいなあと思っていました。 6、 うさぎはいつも草を食べていました。とてもまずいです。大きいやさいばたけへ行きたいです。
7、 せきせいいんこはいつもかごの中にいます。皆は外にいます。だからせきせいいんこも外でとびたいです。
8、 ふねで動物たちは会いました。動物たちはとてもびっくりしました、皆はひとりでアメリカへ行くと思っていました。でも皆いっしょです。だからひとりぼっちではありません。乗ったふねはアメリカへ行きました。
9、 二しゅう間かかってアメリカにつきました。でもアメリカは日本で日本で思った国とはちがいました。
10、 犬は仕事があります。広いからたいへんしんどいです。そしてもし仕事ができなければ食事がもらえせん。犬はこんなにたいへんとは思いませんでした。
11、 ねこも仕事があります。ねずみと虫を取る事です。アメリカのねこはいつもそうします。もしいっぱいねずみを取ればたくさん牛乳もらえます。でもねことねずみが仲よしになったらもらえません。
12、 ねずみは大きい家に住む事ができますけれど嬉しくないです。なぜなら虫しかくもしかいろんな気持ちわるい虫がいっぱいいました。だからねずみはこの家に住みたくないです。
13、 うさぎはやさいばたけに住む事ができました。たくさんやさいが食べられました。でもうさぎのやさいばたけではありません。のうふはすごく怒りました。なぜならうさぎはのうふのやさいを食べてしまいました。
14、 せきせいいんこは今かごの中にいません。でも不孝です。なぜなら外はとても寒いです。それから食べ物をさがす事がむづかしいのでいつもおなかが空いていました。せきせいいんこはたいへんさびしかったです。せきせいいんこはかごの中のほうがいいと思っています。
15、 動物たちは皆日本へ帰りたいと思いました。アメリカはたいへんですから。たとえば食べ物がさがしにくいとか寒いとか虫が多いですから。だから帰りたいです。皆は同じふねで日本へ帰りました。
16、 動物たちはアメリカから帰って来ました。皆喜びました。動物たちの仲はとてもよかったです。

【私見・補足】
そもそもアメリカは、国内に時差があるほどに広大な国である。或る知人が数十年前、アメリカ中央部の田舎に行った時、そこの老人は太平洋戦争(第2次世界大戦)を知らなかったとのこと。 留学生の彼女たちもしきりに言っていた。ねずみでもとにかく大きい。家も大きいが、空き部屋或いは放置した部屋が幾つもあって、その分、不快生物も多い、と。 人間もモノもとにかく大きいとのイメージは概ね共通しているのではないか。そして彼女たちは、その母国イメージを基に物語を組み立てている。
一方、彼女たちの知った日本(日本に初めて来て数か月・生活場所は阪神間)の印象は街並みの狭小さや雑多さであり、そこで生きる(或いは飼われている)動物たちの境遇への彼女たちの視点である。
彼女たちはその対比を、動物たちのアメリカでの夢実現を通して、母国アメリカと外国(在留国)日本を見ている。 難しく言えば、個の確立と義務と権利。アメリカの合理と厳しさ。日本の曖昧さからの温もり。
もちろん彼女たちの日本へのリップサービスもあるかもしれない。しかし、生まれ育った国について、このように観るアメリカ人もいることを、その善し悪しではなく、伝え、日本に、自身たちの母国アメリカについて思い巡らせることを促しているように思える。
彼女たちは現在50代である。今の日米関係について、また日本のアメリカ化について、どう思っているか、関心が向くが確認する方法はない。何年か前、仲介の機関〔AFS〕や当時の勤務校等に連絡してみたが、分からずじまいだった。

上記以外にもう一つ、思い知らされたことは、描画者の描画(デッサン)力である。 その素晴らしさに感嘆していたが、美術系大学を卒業した旧知の人の言によれば、これこそ欧米の美術教育の優れた一つの面で、少なからぬ子どもたちがこの程度(レベル)の描画力を持っているとのこと。 そうならば、なぜこのような差が生まれているのか、学校教育全体からも考えなくてはいけないことではないか。このことは、次の作品についても言えることである。  

『きっと どっかに』
1、 表紙
2、 平和は宇宙のかなたに去ってしまいました。もう誰も戦争がいつ、そしてなぜ始まったのかも知りません。そしていつ終るのかも・・・・・
3、 大人達が始めた、大人達の憎しみ合い。その中で生まれた世界中の子供達は平和の来る日を待っていました。
4、 一人の日本の子が鶴に乗って飛び立ちました。アフリカにはきっと平和があるだろうと。その子はアフリカの子に今まで見たことのない美しい桜を手渡しました。
5、 二人はいろんな動物をひきつれて南アメリカに向って、いかだの帆を一杯に張りました。南アメリカには、きっと平和があるだろうと。
6、 二人は南アメリカの子に果物をたくさんもらいました。そして三人は亀とかたつむりに乗って北アメリカに行きました。北アメリカにはきっと平和があるだろうと。
7、 畑で野菜をつくっている北アメリカの子に種をもらいました。そして四人はスキーでヨーロッパに入りました。ヨーロッパにはきっと平和があるだろうと。 8、 陽気なスペインの子は家畜の育て方を教えてくれました。牛と羊とにわとりをつれて五人は進みました。きっとどこかに平和があるだろうと。
9、 五人は一生懸命穴を掘りました。その先から頭を出すと、そこには平和な島がありました。
10、 五人は世界に向かって「仲良くしよう!」と叫びました。
11、 子供達の小さな力で世界がだんだん一つになりました。
12、 今日では地球は平和な星になりました。

【私見・補足】
先日、ベネズエラの第2の都市マラカイボの惨状[3か月に及ぶ停電、経済政策の失敗による食糧難等で骨と皮だけでベッドの横たわる人]報道に接し、作者エミリア・マスのことを改めて思い起こした。
彼女は今50代になっているはずだが、先のアメリカからの留学生同様、快活で、理知的な女性であった。 彼女は首都カラカスから来ていたが、今、どうしているのだろう? 彼女は、帰国近くなって我が家に遊びに来て、妻と私に言っていた。「帰国したくない。ベネズエラでは18歳になると結婚させられるから。」「どうするの?」「帰ったらヨーロッパに留学しようと思っている。」といったやり取りを、私たちは鮮明に覚えている。
南アメリカ大陸の北端、北東部はカリブ海に面するが、4カ国と隣接する、ベネズエラの歴史は四方海で囲まれた日本の比ではない。 16世紀のスペイン植民地時代に始まり、独立戦争を経て19世紀の独立、その後の内戦と軍事独裁時代、度重なるクーデター、暴動……。
つい最近までの歴史概要に眼を通してみたが、あれこれあり過ぎて、老いの脳力では到底ついていけないほどに変化し、常時と言っていいほどに問題を抱えている。 世界第3位の産油量で、一時は経済大国ともなるが、石油価格の下落や失政と混乱で、今では貧困国家となり難民も多く出ているとのこと。

彼女の10代、1980年前後は、先の石油での潤いの一方、貧富格差問題、政治の腐敗等で、混乱の時代でもあった。 それらを肌で直覚していた人物が、『きっと どっかに』(この「どっか」は、本文では「どこか」とし、口語話し言葉と書き言葉を使い分けている)と平和を、世界の視点から希求するとき、その着想、展開等、成立への背景を私たちは素直に読み取れるのではないか。
と併せて、カリブ海に面した南国人の鮮やかな色彩感覚にも得心すると思う。 これに関して懐かしい思い出を一つ。
3ページの絵で暗い雰囲気を出すためどうしたものか困っていて、私が黒灰色で背景を塗ってしまえば、と安直に言った時の彼女の、また帰国生徒の驚きと困惑の表情は未だに残っている。したがってこの絵本で、3ページの黒灰色背景だけは、彼女たち、とりわけエミリアには甚だ不本意なことになっている。

主人公は、留学先の日本の少女だが、彼女を和装姿で、おかっぱ頭、それに鶴との飛行、メッセージを手渡す枝を桜とすることで、作者が日本への期待を大きく持っている、と考えるのは、現代日本に疑問の多い私の余りの牽強付会にして我田引水か、もしくは非現実的日本観でしないだろうか。   
また、作者は、地球上のどこかとせず、穴を掘って或る島に辿り着く発想で物語を締めくくるが、これは日本を含め理想郷はないとの思いの、彼女の母国の苦難がそうさせているのかもしれない。
それは5世紀の中国の詩人・陶 淵明の『桃花源記』、すなわち「桃源郷」に相通ずることとして、彼女は地球上で地球上ではない或る場所を設定し、子ども達による平和世界の実現に想い馳せたのだろう。
尚、桃源郷は英語のユートピア、彼女の母語であるスペイン語のエルドラド等と話される場合もあるが、それぞれ背景、内容で違った要素が多いので、このことには立ち入らない。   

この外国人留学生による創作絵本の時間は。教育が国境、異文化また世代を越えて「教え、育む」と、同時に「教えられ、育まれる」ことを改めて思い知らされ、私の掛け替えのない宝物となっている。   

2019年6月2日

「跡」に想う

井嶋 悠

日本の一大転換期、鎌倉時代に書かれた軍記物語『平家物語』の冒頭部分は、現18歳以上のほとんどの国民が知っている名調子である。
私自身、教えている時でさえいささかの観念的理解でしかなかったと思うが、歳を重ね、様々な人々と出会い、森羅万象のほんの一端を知り、冒頭文にある中国と日本の歴史上人物について誰一人知らなくとも、しみじみと、しかも重く、深く心に沁(し)み込んで来るものがある。
中高校時代の「知る」ことと、加齢を経て「味わう」ことを思えば、“教科書を学ぶ”も“教科書で学ぶ”もそれぞれに一理あることが視えて来る。

その冒頭部は以下である。

「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、是等は皆舊主先皇(せんおう)の政にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌(いさめ)をもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁る所をしらざしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかゞふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、おごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅の入道前の太政大臣平の朝臣淸盛公と申し人のありさま、傳承るこそ心も詞も及ばれね。」

「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。」
生々流転、無常の世、日々刻々の自己を謙虚に受け止め生きること、その至難さを切々と知らされる。
「人生100年時代」とかで、相も変らぬ能天気さで喧伝する政治家、それに追従するマスコミに、苛立てば苛立つほど、虚しさ症候群は悪化の一途をたどるではないか。閑話休題。

これまた高校で必ずと言っていいほどに見る松尾 芭蕉『奥の細道』の一節。

「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一理こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。(中略)泰衡等が旧跡は衣が関隔てて南部口をさし堅め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。―国破れて山河あり、城春にして草青みたり―と、笠打ち敷きて時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡 」

 注:「大門の跡」;毛(もう)越寺(つうじ)の南大門(正門)のことか。   
  :―  ―の部分、杜甫の五言律詩『春望』の冒頭   
  :「笠打ち敷きて……侍りぬ」(口語);笠を敷いて座り、いつまでも懐旧の涙にくれていた。

芭蕉は、江戸時代に弟子の曽良と、徒歩で出掛けたが、私は、令和時代に妻と、高速道路を利用して車で、毛越寺と中尊寺に出かけた。
世界遺産登録で混雑も予想されたが、平日だったこともあって、思いのほか静かであった。
毛越寺境内に茶店があり、五月の爽やかな風を受けながら、もりそばを食した。腰のあるそばで、香りをほのかに残し、江戸っ子の「そばは飲み物」と言う妻も満足げであった。30代とおぼしき夫婦二人で店を切り盛りしているようで、二人とも口数少なくもの静かで、一層心和むひとときが過ごせた。 ふと、数十年後のこの夫婦の図を、私たち40年間の夫婦姿と重ね思い浮かべながら。心洗われる時間。

毛越寺は9世紀の僧・慈覚大師[円仁]が開山とのこと。寺の栞には境内の見どころとして、先の芭蕉の句[句碑]も含め17か所が記載されている。 内7か所は[跡]で、背丈10㎝ほどの叢に、それぞれの建物の礎石が見える。 何気なく見ているうちに或る感慨に襲われた。
「もし、多くがそのまま(は難しいかとは思うが)或いは再建されて目前にあったらどうだろう?」と。 それはそれで感動が起こるのだろうが、跡を見つめることで想い巡らされる、「講堂」を出入りする僧侶たち、「南大門」を行き来する人々、子どもたち、店や家々を想像することの快に思い及ぶ。 現在の時を離れて、跡でない時代のどこかに、3人称入り込んでいる私。フラッシュバックするかのように巡る人々の姿、貌そしてその人たちの生。

芭蕉は、中尊寺で藤原家の「兵」の「夢の跡」を見、杜甫は安禄山の戦いでの家族との離別に、悠久の自然と時間を対比することで涙した。
しかし、私は勝手に思い巡らせた人々の生を、[哀しみ]と[愛(かな)しみ]をないまぜ眺め、自身に立ち返る、そんな偶然の時を得た。無常観をここで言うつもりはない。
以前にも引用した、吉田兼好の「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。」ではないが、それにも通ずる(と思う)、栄枯盛衰、もの・ことがいついかなる時であれ、すべてに在る美と真への想い。その想いへの眼差しが焙(あぶ)り出すその人の生き方、歴史への見方。と自身を措いて頭を巡る。
芭蕉が、杜甫が涙したそれとは違う感情。すべての人に名があるが“無名”と言われる人々への慈しみからの涙に近い情愛と自省に浸った私。

木材を切り出し、石を掘り出し、運び、建築家の指導を得、僧侶や武家たちとの協働で創られて行く寺院に最も間近に勤しむ市井の人々。それを支えた信仰と人々の信頼関係。その美しい時空を思い浮べる。 実際はどうだったのだろうか。
奈良時代、文化の栄華が咲き誇った。それにどんな人々が、どれほどに、莫大な時間を費やしたのだろうか。
信仰を基底に、天皇への絶対的崇拝と信頼があってこその東大寺大仏殿であり、法隆寺であり……。一方で知らされる、山上 憶良が表わした『貧窮問答歌』での市井の人々の姿。また防人の哀しみ。
身分、階級、階層を越えた途方もない数の人々の一大協働(ハーモニー)としての文化。

ここ数年来、世界文化遺産とか日本文化遺産とかが賑やかに報道される。過程があっての結果、無名があっての有名、と重々承知していてもついつい結果に、有名に眼が向いてしまう私。
「一将功成りて万骨枯る」の遺産であっては文化に値しない。
私は現職時代数校で、それぞれ「将」も「功」もことわざに出るほどの大きさはないが、直接に、間接にこの先人の言葉を身近に接し、学校文化をその面から知らされた。公私立の違いとは全く関係なく。

私が今生活する那須の原では、明治時代の元勲貴族たちの功として、疏水の開拓や洋風の館(やかた)群が、日本文化遺産として登録された由。結果としてのそれらに眼を奪われるだけでなく、この機会に、元勲たちへの敬意と同時に、地を掘り、山から水を引き、大地を潤わせ、豊かな農作を実現した、その現場の人々に想い及ぼしたいと願う。

高校時代、或る先生が授業(先生が誰か曖昧で、何の授業であったか覚えていない失礼なことなのだが)の関連でこんなことを言われた。55年以上前のことながら鮮明に私の中に残っている。ただ残っているだけであるが。
――或る建築家が、随行者たちと鉄道での旅の途次、鉄橋を渡った折、こう言ったそうだ。「この鉄橋は僕[私]がつくったんです」と。随行者たちは感嘆したそうな。しかし、この建築家にはその後、仕事の依頼が来なくなった。――

慈覚大師が、開山、再興した寺院は、関東地方に209寺、東北地方に331余りの寺に及ぶと言う。恐らく大師への帰依、心からの信頼感と大師の人柄が、人々にそうすることを求めさせたのだと思う。(大師は唐での数年間の苦難等、多くの難儀を経た高僧であったが、温厚な人柄であった旨伝えられている。)

一方、中尊寺はどうなのか。 岩手平泉の地に、砂金と北方貿易で栄耀栄華を極めた藤原家。それを象徴する金色堂。 中尊寺は、藤原 清衡が合戦で亡くなった命を平等に供養し、仏国土を建設するために大伽藍を造営した、と中尊寺の栞にある。 また、「判官びいき」との言葉まで生み、日本人から愛され続けている源 義経。その義経を兄・頼朝から守った三代藤原秀衡の死後、子息四代藤原泰衡は守り切れず、藤原家滅亡に向かわせた、その歴史を思えば、藤原家の人々と臣下と市井の人々の絆は篤かったであろうことが推測される。
しかし、復元された金色堂等、或る感銘はもちろんあるが、毛越寺で沁み入ったものが湧き出で来なかった。それは、今日的観光繁栄に圧倒されたからかもしれない。 当時の武家の、時に凄惨とさえ思える生き様に触れ、その世界に生きた武家たちの苦渋、忍耐、克己に思い及ばすことなく、ただ私には到底できないと逃げ込み、市井の幸いを思うだけであった。

今日、日本との限られた枠組みではなく、世界はカネ・モノ文明を邁進している。だからなおのこと、教育への明確な眼差しが求められている。
「個の教育」「一人一人の個を大切に育てる」。このことを否定する人はいない。しかし、果たして今、それはどうであろうか。
例えば、英語教育が言われれば、それまでにあった他の時間を削り、英語教育に向かわせ、小学校で昼食時間を15分か20分で議論すると言うとんでもないことを聞く。何のためにそれをするのか。時代に乗り遅れて経営難に陥らないために……。
あれほど期待された「横断的総合的学習」は疾うに消え去り、学習の大半を塾に頼り(思考力、表現力をみたいとのことで、これまで以上に作文表現、発話表現が求められる入試が果たされつつあるが、どれほどの学校が自前で対応できているのだろうか)、結果がすべてでひたすら時を削って行く。
そうかと思えば、子どもや若者を受け容れる側の学校や会社等の大人たちは彼ら彼女らの想像力の欠如を嘆き、基礎学力についての侃々諤々(かんかんがくがく)は今も続いている。そして世は少子化、高齢化である。

中尊寺で見かけた中学校修学旅行とおぼしき生徒たちの忙しいこと忙しいこと。不登校等で参加しなかった生徒たちもあるかもしれない。イジメを受けている生徒たちもいるかもしれない。出会った生徒たちの中に、そういった生徒に思い巡らせている生徒たちもあるかもしれない。しかし、弾ける笑い声。 中尊寺、金色堂までは、上りの坂道を20分ほど歩くのだが、随所に売店、ご朱印授かり所がある。
私などそのことを知らず、金色堂等目的地に向かい、ご朱印は帰路としていたから良かったものの、正直に初めからしていれば7,8か所になっていただろう。弁慶堂とか、薬師如来とか少し変えてあるだけで、すべては中尊寺である。だから一枚で良いとも言える。一枚300円×1か300円×7か8。えらい違いだ。 先の中学生たちの中に、本堂へ行く随分手前の売店で、早々に何かおみやげらしきものを買っていたが、大丈夫だったかしらん?それとも誰かを想い、いの一番に購入したのだろうか。

毛越寺と中尊寺への小旅行。思いもかけず、毛越寺の「跡」が、私にあらためて想う心地良さと重さを教えたように思える。