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2019年1月31日

多余的話     『隔世の感』  (2019年1月)

井上 邦久

昨年末から冬眠をしていました。
犬が歩かないとどうなるのか?大学生の登山競走や橄欖球遊び(ラグビー)のテレビ観戦もほどほどにして部屋に籠りました。結果は「小人閑居して不善は為さず、また善も為さず」でありました。

万歩計が微動だにしない日もあるなかで、恩師の足跡を辿りながら、1925年頃の天津の進取的な初等教育や1935年頃の青島を支配した政治権力の移動を想像し、1945年前後の東京における中国人留学生(旧満州帝国系、モンゴル徳王系、汪兆銘南京政府系そして台湾からの旧内地進学系など)の動きの一端を知ることができました。
また、1967年のNHKテレビ中国語講座の立ち上げ経緯や日中国交正常化(1972年)前後の「中国語学習運動」を記録した資料を参考にして当時の事象を反芻しました。
「中国語を学ぶ事は闘うことだ」「君はなぜ中国語を学ぼうとするのか」といったことを問われる、まさに「運動」の季節から半世紀、まさに隔世の感があります。

政治と歴史の背景を調べながら恩師の足跡を綴りましたが、素人の思い込みや消化しないままの事柄を羅列しただけの拙文で終わりました。「不善」ではないけど、「拙」であり、「善」とは言えない所以です。
閉門蟄居の間にも興味深い記事や資料を届けて貰いました。お蔭で体は停滞していても、意識は遠い時空を駆け巡ることができました。
上海の信頼するパートナーから、1月3日の浙江省企業家フォーラムでの馬雲(アリババ董事局主席)の写真と発言抜粋記事が届きました。先ず精彩にかける写真が印象的で、同席していたパートナーも「こんな元気のない馬さんは見た事がない」とコメントをしています。
タイトルは「トランプを変えようと想うな、汝自らを改めよ」。
発言の要点をまとめると、
①中米貿易の発展に矛盾が生じるのは当たり前、矛盾がない方が不正常
②発展のスローダウンは悪い事ではなく、心地よいものである
③ご自分の企業を少し小さくし、少しスローダウンし、少し愉しくやるだけのことだ

上海のパートナーとは従来から「国」と「民」の関係について話し合っており(コインの裏表か?接着剤での貼り合わせか?溶融合金化されているか?)トップランナーとしての馬雲氏のことは常に話題にしていました。年初早々にこの記事を送ってくれた意図は十分に伝わりました。
昨年11月26日、日経新聞大阪で開かれた「深圳スピードとは何か?」と題するフォーラムで記録した、劉仁辰・深圳清華大学研究院副院長のハーフシリアス的な発言「日本の『慢』に学んでいる」というコメントを思い出しました。
鄧小平が初来日の折、新幹線の「スピード:『快』」に背中を押されている気がした、という正直なコメントから半世紀、『慢』と『快』が交差した両国でした。

環日本海経済研究所名誉研究員の辻久子さんから、「ロシアNIS調査月報」に連載されている玉稿を届けていただきました。
『ヤマルLNGに湧く北極海航路』と題した最新情報です。北極海に面したヤマル半島(北方遊牧民族のネネツ族の言葉で、ヤマルとは「世界の果て」の謂いのようです)。そこに多く分布する大型ガス田を開発し、LNGとして北極海航路を利用して輸出することを念頭に置いたプロジェクトである、と簡潔に説明されています。
事業会社の株主構成比率は、NOVATEK(露:50.1%)、トタル(仏:20%)、CNPC(中:20%)、シルクロード基金(中:9.9%)とあります。発電所やプラントの建設には日揮や千代田化工が加わり、砕氷船は韓国の大宇造船海洋社が建造。輸送サービスには商船三井やCOSCO(中国)が参画しているとのこと。
東航路はベーリング海を通ってアジア消費地へ、西航路は砕氷船を利用してベルギー経由で運ぶ構想。
初歩的な理解では、ロシアの資源に中国の資金・日本の建設物流ノウハウ・韓国の造船力が「荷担」(「加担」)している構図が見えてきます。

偶然ながら、清水稔先生(元佛教大学副学長)による近代中国史講座の初講義のテーマが「ロシアの南下政策」であり、当然ながら「不凍港」確保のための南下政策について詳しく教わりました。辻女史の今日的な「ロシアの北上政策」の報告と考察を拝読して、ここでも隔世の感を覚えました。

続いて、網走市からの3枚目の年賀状と『Arctic Circle』(北海道北方民族博物館友の会・機関誌)109号が届きました。
御縁のある網走には度々訪れ、お世話になっています。また高級魚の養殖用飼料の買い付けの為、真冬のハバロフスク経由でカムチャッカ半島に行ったことがあります。しかし、更に北の大地や漁場(猟場)にはなかなか行けません。
そこで北島三郎や細川たかしの唄を口ずさみながら、機関誌に掲載された北方民族の様々な写真やレポートを眺めて、北緯45度(稚内市)以北の各地(ヤマル半島は北緯72度)を思う事になります。
以前に北極海航路のことも報告されていましたが、今号の特集は「変わりゆく北極-環境・経済・社会 第3回」でした。
表紙には戸川覚さん(動物文学の戸川幸夫の孫)が知床羅臼町から撮影した国後島の作品に「羅臼町からわずか25キロの距離にあり、沖縄本島よりも面積が大きいことを知るものは今も少ない」という添え文がありました。

1月9日付の歴史作家のコラムを届けて貰いました。
能登半島沖の海上でトラブルを起こした韓国海軍駆逐艦「クァンゲト・デワン」、その艦名が高句麗の「広開土大王」に由来することから、北の強国で南への圧迫を加え倭軍とも交戦した高句麗と現在の北朝鮮を絡めた蘊蓄文章でした。
このことを韓国海軍との折衝体験が豊富な方に訊くと、この駆逐艦命名は北寄りの政策を採った金泳三大統領によるもので、軍部には非常に大きな不満があった、同様の不満が現在の政権にも向けられているとのこと。背景には様々な要因があるようです。

広開土王(クァンゲト・デワン)に触発されて、「ファーウェイ」というカタカナ表示について一言補足します。
正式社名は華為技術有限公司(Huawei technologies Co.,Ltd.)であり、中華の為にという元軍人の創業者の思いが籠っているはずです。カタカナ表記をせず華為技術(HUAWEI)と表示しているニュースレターを発信する京都大学東アジアセンターの見識に敬服しています。
韓国駆逐艦の名前も「広開土王(クァンゲト・デワン)号」と報道されていたら、もう少し意識や想像の幅が広がっていたと思います。多余的話(言わずもがなの話)でした。

七草粥で温まった頃から食材の買出しを再開、京都のボランティア作業場(「壬生の屯所」と自称)にも初出して、初場所初日の13日の住吉連句会から本格始動し、その夜は飲酒を解禁しました。
その初日から稀勢の里は三敗(惨敗)。弱い下半身を上半身の力でカバーしてきた取り口のツケが回った無残さを感じました。
稽古の基本である四股の大切さを改めて感じて、稀勢の里引退の日から四股を踏み始めました。青島駐在時代にテニス場で四股を踏み続けて顰蹙を買って以来のことです。
正しい重心の掛け方で、ゆっくりと四股を踏むのはとても難しいのですが、地鎮の祈りも込めて、保健体育の課目に加えています。(了)

2019年1月24日

雪 螢―俳句再発見・再学習―Ⅱ 与謝 蕪村

井嶋 悠

雪螢」との出会いが、教師時代の昔を顧み、幾つかの俳句“授業”の、今の齢での私的再学習を試みることで、明日の私につなげられたらと思い、Ⅰで、松尾 芭蕉を採り上げた。
続いて、与謝 蕪村、小林 一茶、更には自由律俳句を採り上げて行くことにする。

専門家からすれば、芭蕉・蕪村・一茶と並べるなど呆然唖然苦笑失笑以外何ものでもないだろうが、そこは素人(中高校国語科教師とは言え、主は現代文で、古典〔古文・漢文〕は従であった)の、怖れを知らない暴挙。かてて加えて、それぞれ限られた俳句の中からの採り出し。
そのような限りなき不節制にあってのことながら、蕪村の俳句は私にとって難しく、直感的に飛び込んで来る句は非常に限られている。芭蕉の『石山の石より白し秋の風』のように、初めて蕪村を知った際、直覚的に心に入ったのは、『春の海 終日のたり のたり哉』くらいである。

どうしてなのだろうか。単に鑑賞力不足で片づけるのはいささか口惜しい。そこで『徒然草』曰く、「少しの事にも先達はあらまほしき事なり」で、先人の鑑賞を芭蕉の時とは少し違う形で参考にして、蕪村の句を鑑賞し直すことにした。

早々に釘付けにされた、或る専門家の論考『芭蕉・蕪村・一茶』の中の次の表現。

――(三者の作品を)各一字によって暗示するとすれば、芭蕉は「道」、蕪村は「芸」、一茶は「生」であろうか。――

求道者としての芭蕉、生活者としての一茶に比べ、「芸」の意味の多様性。技芸の芸、芸術の芸。蕪村が難しいはずだ、と勝手に納得する。

創作者は、見たり、聞いたり、触れたり等で得た直感を研ぎ澄まし、想像力でその直感を広げ、深め、それぞれの技術を駆使し作品を編み出すわけだが、蕪村の場合、他の俳人とは違うことに気づかされる。
蕪村が人を、自然を見るとき、先ず画人(美術)の彼があって、その次に俳人(文学)の彼がいるのではないか、或いは時に両者が同時に機能しているのではないか、と。
そう考えて、5・7・5の凝縮されたそれぞれを一枚の絵として思い描き、それを統合することで情感を読み取れるのではないか、と思い、幾つかの俳句を再鑑賞すると見えて来るものがある。

そこには明らかに、それまでとは或いは古今一般的印象(イメージ)として私たちの中に焼き付けられている、“わび”や“さび”、はたまた“枯淡の境(きょう)”と違ったものがある。
それは何か。何に起因するのか。やはり先ず画人としての蕪村の眼があるからではないか。
その蕪村の絵心は、江戸時代、池(いけの) 大雅(たいが)と共に完成させた老荘や禅を背景とする水墨画につながるが、しかし墨の濃淡だけでなく、淡彩画的要素をも持つ『南(宋)画』である。

そのあたりのことを、近代の詩人・萩原 朔太郎は、その論考『郷愁の詩人与謝蕪村』の中で、次のように記している。

――蕪村の句の特異性は、色彩の調子が明るく、絵具が生生(なまなま)して居り、光が強烈であることである。(中略)特殊な俳句心境を全く理解しない人、そして単に、近代の抒情詩や美術しか知らない若い人たちでも、かうした蕪村の俳句だけは、思ふに容易に理解することができるだろう。(中略)一言にして言へば、蕪村の俳句は「若い」のである。丁度萬葉集の和歌が、古来日本人の詩歌の中でも最も「若い」情操の表現であったやうに、蕪村の俳句がまた、近世の日本に於ける最も若い、一の例外的なポエジイだった。そしてこの場合に「若い」と言ふのは、人間の詩情に本質してゐる。一の本然的な、浪漫的な、自由主義的な情感的青春性を指してゐるのである。――

我が意を得たり、とにんまりする私がいると同時に、いつしか固定観念に染め込まれた老いの固陋(ころう)性に寄り掛かっていることに気づかされる。

萩原 朔太郎は、上記論説に際し六句挙げているが、内二句と私が絵画性を想った幾つかの句を挙げ、私的鑑賞を記す。

【萩原 朔太郎の引用句から】

○陽炎や 名も知らぬ虫の 白き飛ぶ

私の俳句再学習のきっかけとなった雪螢とは季節が違うが[陽炎・春の季語]、春の或いは新暦夏の光を受けてゆるやかに立ち上る陽炎と白い虫の飛行の組み合わせは、淡彩画の叙情を思い起こさせる。私は勝手に白い虫をモンシロチョウの純白の輝きとして、あの和紙が持つ純白さを活かした線と余白の美を思い描いている。

○愁ひつつ 岡に登れば 花茨

蕪村には「花いばら 故郷の路に 似たる哉」との句があり、解説では中国の陶淵明の詩を心に留めての句作旨書かれてあり、この季語「花茨・夏」は俳人に多く取り上げられた由。
晴れた夏の碧空の下、白い花をいっぱいにつけた花茨の横にたたずむ人。郷愁が滲み出ている後ろ姿を描いた自然の中の花と人の油彩画の雰囲気が浮かぶ。

【私が絵画的と直覚した幾つかの句】

○柳ちり 清水かれ石 ところどころ (季語「柳ちる」・秋)

私の美術鑑賞経験は甚だ狭小で、しかも多くは画集体験であり、絵画的と言うこと自体に蔑(ないがしろ)さがあるのだが続ける。
20代の折、イタリア人現代画家ジョルジュ・デ・キリコ(1888~1978)20代中頃の、幾つかの作品に衝撃を受けたことがある。作品『出発の苦悩』『イタリア広場』『占い師の報酬』の、ギリシャかイタリアの古代?建築をモチーフに、真夏の午後の沈黙、静寂(しじま)を感じさせる、光と影の形而上的絵画で、その乾いた画面に妙に惹きこまれた。
この句は、秋の寂寥を、それも感傷でなく詠っているように思える。散った柳、かれた清水、そこに露わに石が幾つかある、この組み合わせが、秋の清澄な大気の中での寂寥を生み出している。その感覚がキリコの絵を浮かばせた。静謐な孤独の描写。

ところで、この句と同様の感慨を得たものに次の句がある。

○水にちりて 花なくなりぬ 岸の梅』

この句には、梅の樹下の落花が散り敷いた光景から、春の気配の名残りの情の深さが漂う中、この一木のような梅があるとの前書きがあり、専門家は、この句は失敗作であり画家の眼ではなく、詩人の眼がとらえたものである旨、記されてあった。
個人的には、先の句と同趣を感じた私は、落花した幾本かの梅の樹々、その中にあって河岸の一本だけは、落花は川の流れに運び去られ、樹下にはない。その花の有と無と川の流れの組み合わせを思い描くとき、失敗作かどうかは分からないが、文学的なのだろうか。

○物焚いて 花火に遠き かゝり舟

この句では、三つの光が描かれている。かがり火を焚いている小舟と夕食の準備であろうか、何か焚き物している人(影)、そして遠方の花火。近景と遠景の17音の中での光の調和(ハーモニー)。
江戸期に一つの時代を創った安藤広重の『東海道五十三次』や幾つかの浮世絵の世界が浮かび上がって来る。

○不二ひとつ 埋みのこして 若葉哉

○菜の花や 月は東に 日は西に

○水仙に 狐あそぶや 宵月夜

この三句には濃厚な油彩画の輝き、幻想性を感ずる。

一句目の、不二の(斜め)上から眺めたかのような、瑞々しい自然の息吹きの壮大な光景。

二句目の、一面に広がる菜の花畑の鮮やかな黄色を包むように、東から淡い金色の月が貌を出し、西には茜色の太陽が沈まんとしている、満月のころ、東と西の空で繰り広げられるこの絢爛な大自然の交響美。

三句目では、ロシア出身の画家マルク・シャガールの豊潤な色彩美と幻想美を思い起こさせる。尚、この句の前書きにある「古丘」。これは故郷の丘を表わすとのこと。蕪村の郷愁。

一方で、次のような非常に現代(モダン)性豊かなデザイン的絵画を彷彿とさせる句がある。名月に映し出される露に濡れた樹々、枝葉、草花、石、土、時に虫の類をも映し出す一滴の露を、その露の眼からとらえた一瞬。

○名月や 露にぬれぬは 露斗(ばかり)

 

蕪村は画人[南(宋)画家]であり、俳人[詩人]であった。その蕪村の俗[世俗]との距離は、或いは眼差しはどうであったのか。専門家の一節を引用する。

――「俳諧は俗語を用いて俗を離るるを尚(たっと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法最もかたし」《蕪村の言葉》という、矛盾する雅と俗の概念を止揚するのが詩であり、広くは読書による教養から得られた美意識である。(中略)これはまさに「高く心を悟りて俗に帰るべし」(『三冊子』芭蕉の俳論をまとめたもの)の、新しい文人的解釈であろう。――

そもそも水墨画や南(宋)画を観れば、俗に生きながらも己が意志的修養を通して俗を離れて[脱俗・超俗]生きる作者の姿を想いうかべる。だからこそ描かれた主題の、また線の。濃淡の、そして南画の静かな淡彩は、俗に在って俗に苦悶する私たちを魅きつける。
ユーモアを、ウイットを自在に、飄然と操れる人は、人を、社会をしかと観ている。心に余裕がある。
蕪村は、画人の眼と俳人の二つの眼で観る志向と修養を積み、自然な洒脱さを醸し出す。
と同時に、深い情愛に包んだ生の、力、孤愁、瞑想を詠う句がある。「愛し(かなし)」の感情である。
私も次のような句にそれらを見る。私的な寸評(【  】の部分)を加えて挙げる。

○青梅に 眉あつめたる 美人かな

【あつめ、が絶妙だ】

○夏川を 越すうれしさよ 手の草履

【専門家は、蕪村の少年時への郷愁、清純な少年詩性の天真流露を言うが、浴衣姿の若い女性を思い描く私は、汚れちまった俗な大人の発想なのだろうか。】

○さくら花 美人の腹や 滅却す

【美人と滅却、このおかしみは、さすがである】

○大鼾(おおいびき) そしれば動く なまこかな

【上の句と同様、心にゆとりなくしては創り出せない世界】

○学問は 尻からぬける ほたる哉

【世の学識者の方々、どう受け止めますか】

 

○飛かはす やたけ心や 親すずめ [やたけ心:勇猛果敢な心]

【動物の親、とりわけ母親の姿・眼差しの慈愛の美しさ】

○葱(ねぎ)買うて 枯木の中を 帰りけり

【昔、或る禅僧が敬慕する禅僧に会いに行ったとき、その寺の方から葱一片が流れて来るのを見て引き返した旨の話を想い出した】

○凩(こがらし)や 何に世わたる 家五軒

【ひっそりと、懸命に生きる人々への慈しみの眼差し】

○月天心 貧しき町を 通りけり

【貧しい町と大自然。凄み漂う美の描画】

○凧(いかのぼり) きのふの空の 有りどころ

【哲学とは、の定義に使えそうな一句】

 

私にとって難解な蕪村の諸俳句だったからか、思いもかけず駄文が一層冗長になってしまったが、最後に原点に戻って『春の海 終日のたり のたり哉』を確認したい。
擬声語と擬態語は違うので、最近ではまとめて「オノマトペ」と言われている。英語の[onomatopoeia]が源である。
以前、この英語に含まれる「poem・詩」を指摘した言葉に接し、ひどく感動したことがある。擬声語は言ってみれば自然太初的とも言えるが、擬態語は人為性を持った自然性がある。そして他言語と違って日本語は擬態語が豊富だと聞き、誇らしく思った。
この「のたりのたり」はその一つだ。「ゆっくり・ゆったり」の意味の「のたり」を重ねた言葉。畳語(じょうご)。

春の海―終日〔ひねもす〕―のたりのたり―かな。

この言葉群の音の響きと季節・情景の絶妙なハーモニー。これは画人と俳人の完璧なまでの融合と思う。やはり蕪村は偉大な術家である。
ひょっとしたら、現代日本人、老いも若きも、欠けているもの、忘れ去ったものが、蕪村にあるのかもしれない、とも思ったりする。
「軽薄短小」は、日本(人)の技術への讃辞であるが、これらの漢字それぞれを心・精神にあてはめたような現代日本。老いであることの幸い?雪螢との昨年秋の新たな出会いへの感謝。

2019年1月10日

ふるさと―江戸っ子カミさんと無故郷の私―

井嶋 悠

 

後1年半で、自動車運転に際して老人マークをつけなくてはならない年齢ともなる中で新年を迎えると、我が故郷(ふるさと)・原郷はどこなのだろう、とつい思い及ぼしてしまう。
妻は自身の故郷(ふるさと)をはっきりと内に持っている。それは同時に原郷でもある。夫たる私は、その故郷に係る言葉を、それも些細な断片でさえ、聞くたびに羨ましく思う。

こんな表現に出遭った。或る女流作家の言葉である。

「生れた土地を夜更けに出て来て、その後は古里に古里らしいつながりを失ってしまったものが、せめて、生活の情緒の最初の場所に、その故郷を感じようとしているのである。」

今40代以上の人で、童謡(唱歌)『ふるさと』を想い出す人も多いかと思う。(若い世代の人は、小学校時代に唱歌といった歌は習わない、と聞いたことがあるので。今もそうなら残念に思う。)

その『ふるさと』の歌詞は以下である。

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて、

忘れがたき 故郷(ふるさと)
如何(いか)に在(い)ます
父母 恙(つつが)なしや
友がき 雨に風に つけても 思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷

この歌詞と先の作家の「生活の情緒の最初の場所」を重ねれば、故郷は10代前後から20歳前後までに心に沈潜するのではないだろうか。幼少期を経て、思春期前後半期が終わるころまでの時間と空間。
因みに、出だしの「兎追いし」、妻は長らくの間「兎は美味しいんだ」と思い込んでいたとのこと。

 

私の思春期前期。
私たち井嶋家の菩提寺は、京都市今出川近くにある。私の出生地は長崎市郊外のK町である。父が海軍軍医として京都から長崎に赴任していたためで、母は長崎人である。生年月日は1945年(昭和20年)8月23日。とんでもない日に凄い場所で生まれている。
生後1年も経たないうちに松江市に移り、その2,3年後に、京都市内に戻って来た。そのまま京都で、子ども時代を全うしていれば、私の人生も今とは違っていたものなっていたかもしれないが、変転は世の常。
小学校入学前後から、父がN県に単身赴任となり、小学校3年の後期から、大人の事情で在東京の伯父・伯母宅に預けられる。
預けられるまでの母子家庭生活で、母は私への音楽(音感?)教育には熱心だったが、外向的人間だったようで、学校から帰っても不在が多く、近所に居た父の兄夫婦にお世話になることが多かった。
今から思えばさびしい話だが、私の鈍感さからか、独り家の壁を相手にキャッチボールをしていたことや、独り星空を眺めていたことが、さびしさとは関係なく鮮明に記憶されている。
以前も何かに触れて書いたが、向かいの家に父子家庭の中学生くらいの男の子が居て、その少年を英雄視していた。老いを思わせる白髪まじりの父親にいつも怒鳴られ、勉強は全く埒外の少年だったが、虫採り、魚採り等々遊びの天才で、ついて回ったことが度々あった。また、銭湯は私や近所の子ども(ガキ)たちのプールで、何度、銭湯主からどやされたことか。

小学校卒業後、父は私を引き取り、西宮市に連れて行った。そこで待っていたのは新しく母となる人であった。小学校前半期の独りぼっちの多かった時間と併行して、離婚話が進んでいたわけである。
中学校は地元の公立中学校へ。入学式当日に体験した数名の生徒による運動場での“袋叩き”の驚愕、恐怖そして不可解。その日の担任教師の来宅で知る地域問題。
袋叩きとなった理由と背景を知らされ続ける3年間の、また継母との葛藤、齟齬の始まり。

私の思春期後期。
高校は世に言う進学校で、1学年3クラス、男女比3:1。課外活動はほとんどなく、教師たちの多くは、それぞれに自己を主張し、大学格差そのままの発言をする教師も。生徒もばらばら。そこで私がしたことと言えば、何人かの教師への悪だくみと反感。かと思えば、“個性的”教師の極的存在で生徒から怖れられていた男性国語教師からの庇護と情愛。

一年間の、ただ浪人していると言う日々。大学進学後の引きこもり的生活と酒と音楽といささかの美術と文学の、己が不明生活。心のデラシネ?父親と大学の或る教師の薦めもあって大学院受験をし、合格。
「全共闘」運動の高揚期。院生1年次、大学封鎖。中退し、東京での彷徨生活2年余り。人間の孤独と己の傲慢さの痛覚。そして帰宅。26歳ごろ。

子を持って知る親の愛。その実母実父は今はなく、継母は数年前、介護施設に。父死後、妹(義妹)の若くしての癌と死、また新たに起こる、今度は私も含めての大人の事情。
東京での時間は非常に濃密で、帰宅後、先の個性派教師の高配で教師への道へ進み、以後33年間の教師生活にあって確かな糧の一つとなる。

いくら晩稲(おくて)とは言え、私の「生活の情緒の最初の場所」とは、どこなのだろうか。
唱歌を踏まえれば、あの遊びの天才との時空かとも思うが、あまりにも短期間過ぎるし、父母との記憶が断片的過ぎる。そうかと言って小学校後半時はいびつだ。その後も……。
考えようによっては、住んだ場所すべてが故郷とも言える。全有は無?それとも無は全有?
これが、今も自己確認[personal identity]に揺れ動いている一因のようにも思ったりする。

故郷と言える場所が在る人は幸いである。孤独で弱い人間の最後の救い場所になると思うから。
随分昔のことだが、テレビ報道で、ホームレスが何かで取り調べられ、「お前の故郷はどこだ?」と聞かれ「ないです」とぽつりと言ったとき、問うたベテラン男性刑事が一瞬の間をおいて嗚咽する姿が思い出された。

妻は、生まれ育ち、大学を出るまで、東京・新橋のままである。しかも三代続く根生いの“江戸っ子”である。
寿司はつまむもの、そばは飲みもの。こはだ・さば・あじや赤貝をはじめ貝類を愛し、まぐろは赤身が王道でとろは猫もまたぐものと心得ている。今の時代、旬の時季はあってないようではあるが、鰹等々、初物にはどこかこだわりがある。なお、主に関西ものである松茸にはこだわりはない。
着る物も無地を好み、濃い茶や紺系の色を、また黒系を好む。
「一日一生」(一日生涯との表現もあるが、宗教を言う意図はないので、ここでは「日々是好日」に重なるものとしての一日一生を使う。)を人生訓とし、金への執着はなく「何とかなるさ」で、かの「江戸っ子は宵越しの金は持たぬ」を地で行っている。

当然、好奇心は旺盛で、テレビ等々の広告で食品や日用品の新製品情報を得ると早々に購入する、と言うより購入しないと落ち着かないようだ。だから、それが不味いものであったり、直ぐに壊れたりした時の、妻の落胆度は大きく、横で見ていて、広告の大げさ、結果詐術(ペテン)紛(まが)い、またテレビの脅威に憤怒すること多々ある。
ただ、新発売の購入も速いが、失望させられたり、気に入らないと冷め、忘れ去るのも速い。
妻の味覚に関して一つ加える。
彼女の関西時間が、新橋時間の2倍有余となったこと、それに加齢そして大病が加わったことで、今では京風の薄味をこよなく好み、郷愁以外東京風の濃い味を避けるようになっている。

歩く速度と比例し、話し聞くも速く、京風?におっとり話したり、話者が心遣いで丁寧に話せば、先々を見越し言葉を発し、それは失礼ではと言えば、だって言いたいことが疾(と)うに分かっているのに、話し続けられればまどろっこしくって、それこそ慇懃無礼よっ、と返す。しかしそこに他意、悪意はなく、要は「五月の鯉の吹き流し、口先ばかり はらわたは無し」と、本人も自覚しているのだが、時にその慮(おもんばか)りが外れることも少なくはない。結論が最後に来る日本語の難しさ?韓国語も?
結婚して40年、やっとそのことが分かって来た次第。
衣食異文化の理解は或る程度容易だが、精神異文化の理解はやはり時間がかかる……。

新橋は下町。100万人都市江戸にあって、武家はその半数近く。その住居はいわゆる山手(やまのて)にあって、独立心の強い下町人、つまるところ多くの江戸っ子連は反骨心も旺盛で、反権威精神を受け継いだのか、妻は政治家を非常に忌み嫌っている。とりわけ現首相には痛烈でテレビにその顔が出ると直ぐにチャンネルを替える。
また、妻の母校でもある銀座の小学校でのブランド制服、
(そもそも銀座は下町だがどれほどの人が承知しているのだろうか。それとも、たちまちに変貌の時間を過ごすのが日本の、日本人の国民性なのだろうか。明治・大正・昭和を生きた作家永井荷風は、明治44年に、エッセイ『銀座』で、次のように書いている。
これは明治と言う時代がそうさせたとも考えられるが、昨今の都市の変容を見ていてそうとも思えないが、どうだろうか。

――現代の日本ほど時間の早く経過する国が世界中にあろうか。(中略)再びいう日本の十年間は西洋の一世紀にも相当する――)

や、
寺の鐘の音(ね)を騒音とし寺の移転を求めたり、保育所設置への子どもたち喧騒懸念からの設置反対、はたまた幼少者の相談センター開設に際しての「××(都区内山の手の2,3の地名)ブランド」が下がるとの理由からの反対運動等に、甚だしい不快感と痛憤、疑問を抱いている。
「何様のつもり!?」と断罪の一言。
これは、江戸っ子気質と東京人気質の違いとも言え、全国(今では世界)各地からの多種多様な人々の集合都市の東京を思えば、一応京都人の私も共感同意する。一極集中施策の負の側面としても。

現首相への痛烈さは、大坂、神戸の「ママ友」も同じで、江戸っ子ゆえだけではない、女性、とりわけ主婦や母親層、の直感力、動物的勘の為せる業、と私は喝采している。
もっとも、人情の機微には異文化はないと思うが、日本の場合、下町人の方が長けているようにも思える。だから、たとえ同じ東京・下町人でもそれを直覚し得ない人物は直ぐに忘れ去られる。
妻曰く「下町の人間は怖いぞ」。
その怖い一人である妻は、娘23歳時6年前に、その娘を死出の旅に送っている。妻は、原因をすべて呑み込み、己が身を棄て娘の介護に奔走奮闘した。一切の弱音も愚痴もなく、五月の緋鯉のように。少なくとも私の前では涙も見せず。これぞ江戸っ子の神髄、と言うのは、江戸っ子ではない私の贔屓の引き倒しだろうか。

私たちは今、首都圏の人々が憧憬する地の一つでもあり、リゾート地とも呼称される所に住んでいる。ということもあり、首都圏からのリタイア組も多い。場所によっては[東京村]なるものさえある。
「上から目線」の諸例はしばしば知らされ、気づかされる。私たちも気づかぬうちに犯しているかもしれない。そんな中で、別荘として家を構えている東京下町育ちの70代の男性が、その上からの横暴を批判するのだが、その人物自体がその一人であることに気づいていない。
妻も私もひょんなことから何度か話したことがあるが、自身がすべての人で、私は不愉快さをいささか引きずり、懲りもせず会えば話しをする。妻はその人物を論外の一人として見、とうに記憶から消し去っている。

先に記した自己確認[personal identity]のアイデンティティは、ここ数年繁く使われる外来語だが、日本語で言えば「主体的個性」だろうか。
それは思春期前期から後期にかけての、学校、家庭、社会教育が非常に大きな意味を持つ。現実はどうだろうか。この少子化時代にあって、意識化された取り組みが為されているのかどうか。
「考える力」「表現する力」の、とりわけこの国際化社会での重要性が言われ、入試内容と方法の改革が実際化されつつあるが、入学志望者を受け止める側[学校教師集団]の【研究観ではなく教育観】【優秀の意味、内容に係る学力観】が大同小異で、結局は塾産業に拠りかかっているのではないか。これは、極端に言えば、進学であれ補習であれ、塾(産業)全廃止を仮定すれば明白に想像できるはずだ。

これら日々の切々と苦々しい現実を超えたところに故郷がある。生きる心の拠点として。だから「ないです」と答えたホームレスに接した刑事は胸を締め付けられたのだろう。
そう言う私もあるようでない“無故郷”だが、20代後半時まで住んだ場所を、それぞれに、私の故郷・原郷だ、と勝手な自己確認として思うようにしている。
そう思えば、これからもどこに居ても、行っても、いつまでも老け込まずおられる……。そう思いたい。