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2018年9月1日

中華街たより(2018年9月) 『日曜美術館』

井上 邦久

ご母堂の初盆で山口県に戻っていた中学一年生の頃の同級生から「マツノ書店の松野久さんが8月10日に亡くなったよ」、と残念な連絡がありました。
7月末に北九州への出講の帰りに徳山で途中下車し、古本の引取りにマツノ書店を訪ねた時にも、主は二階の仕事場に通えなくなったと伺っていました。
季節の折々に発行され愛読している入庫古書目録や復刻出版案内の小冊子『火車日記』には、地方で希少本を出版する難しさを飄々淡々とした日常記録とともに綴られていました。
昨年来、運転免許証返上のことや体調が芳しくない話題があり、加えて今年出される『久坂玄瑞史料』『子爵谷干城伝』以降は出版計画がないことを仄聞して陰ながら心配をしていました。

1960年代半ば、山口国体・東京オリンピックが続いた時代、戦前の海軍燃料廠址の出光石油を中核とする化学工場が連なる周南コンビナートが発展、大気汚染と海水汚染よりも高度成長に眼を奪われていた徳山市。その商業の中心は銀座通り、銀南街であり、松下百貨店でありました。
その百貨店と山口銀行の間の細い路地で古書販売と廉価良質の貸本業を営んでいたマツノ書店。昼夜働いても足りない購買力と図書館に通う時間も足りない母親の最強の味方でありました。
勤め帰りにマツノ書店に立ち寄り丹羽文雄・水上勉・松本清張・曽野綾子らの本を狭いアパートに持ち帰り、寸暇を惜しんで読むことが当時の勤労婦人の唯一の娯楽だったであろうと想像します。

時は流れ、周囲の百貨店や老舗の書店が廃業する中で、マツノ書店は貸本業を止めても、同じ間口の店で出版と古書販売を続けてきました。
帰郷の度に、種田山頭火句碑集、宮本常一の著作などの山口県関連本、邱永漢短編傑作選集、諸橋大漢和辞典全13巻などを安価で見つけるのも愉しみでしたが、それ以上に店内で半世紀前の時代の空気に接しながら「おまえはなにをして来たのだと・・・」という、中原中也と同じ自問をすることも一再ならずありました。

徳山駅は大改修が進みTSUTAYAの本・珈琲複合ショップと周南市立図書館が同居しています。図書館の文学のコーナーには単行本は無く文庫本だけ、という資本の論理が明快に露出した施設です。
駅から徒歩数分の一隅を照らしてきた松野久さんのご冥福を祈るとともに工業都市としての周南市、長州力の故郷としての徳山(彼も小学・中学の同級生です)だけでなく、菊池寛賞(2007年)に輝いたマツノ書店の文化の灯をともし続けてもらいたいと思います。

同じ徳山出身(出生は熊毛郡平生町佐合島)の久保克彦の作品を『日曜美術館』「遺された青春の大作~戦没画学生・久保克彦の挑戦」で観ました。
東京芸大に残され卒業作品を対象に深い掘り下げを試みた番組でした。徳山ゆかりの原田新さんとその妹、父親の久保周一(俳号:白船)と種田山頭火、戦没画学生の遺作収蔵美術館「無言館」を取り上げた上で芸大で後輩だった野見山暁治(1920年~)が語る「卒業の日をもって絵を描くのは終わり・・・絵を描く時間というか、生きている時間がここまでなのだと追い詰められる」という言葉の重さ。
反面、作品の洗練された色使いと構成の緻密さに日本近代美術の脂っぽい土着性から離れたものを感じました。友人の造形作家は「ものすごい大きさと構成力です。ピカソのゲルニカにも匹敵するスケール。しかも20歳前後の作品とは思えない完成度があります」と第一印象を伝えてくれました。
出征3か月、湖北省で戦死した画家の墓は佐合島にあります。
(9月2日20時からEテレで再放送)

8月15日、甲子園球場外野席で一瞬の静寂の中、正午の黙祷に連なりました。
個人的な恒例行事の3年ぶりの復活でもあり、球場のスタンドを昇り降りできる脚力体力の復活確認でもありました。

8月は、今年も敗戦の月でありました。