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2016年1月19日

中国たより(2016年1月)  『達人達』

井上 邦久

昨年末、欧米ではビジネスもクリスマス休戦に入る12月21・22日の両日、クリスマス商戦が佳境に入る上海にてグループの中国会議が開催されました。例年通り、末席を汚し、末尾の報告者として緊張を強いられました。100名近い参加者、40社余りの報告の一つ一つに的確なコメントと指示を続ける主宰の達人ぶりは健在でした。

同じ12月18日から21日、北京にて中央経済工作会議が開催。習近平ら指導者層が2016年度の経済政策を協議決定する会議で、過剰生産能力の解消・企業競争力向上への補助・不動産在庫の消化など五項目の方針が出されました。昨年の同会議で打ち出された構造改革・事業創新などの夢を語る方針とは異なって、一歩下がって二歩進めるような現実的な施策が多く、市場の反応は鈍いようです。現地の新聞各紙もおざなりの扱いであり、上海の『文匯報』に至っては一面に不要不急の記事を載せ、同会議関連は三面記事でした。
それに重なるように深圳にて廃棄土砂の崩落事故が発生しました。経済の拡大発展の陰で蓄積されていた問題(環境・負債・過剰在庫・税収減)が露呈している現状を象徴するような傷ましい人災です。それにしても天津での化学品爆発事故を持ち出すまでもなく、中央の重要会議に重なるように大事故が起こる奇妙な符合は無くしてほしいものです。

上海から移動して東京での年末最後の会議に出席しました。そしてその翌日のクリスマスの夕方、川上貿易そして蝶理OBの中島先輩が水先案内役を買って出てくれた御蔭で、更に大先輩の川村秀氏が品川の本社にお越し下さりました。25年ぶりの蝶理来訪に川村氏も感慨深げでした。前日にBS朝日「昭和偉人伝 杉原千畝」(1月20日21:00から放映。http://www.bs-asahi.co.jp/ijinden/)の取材を受けられたばかりとのことでした。

日ソ貿易業務に長年従事され、82歳の現在に至るまでロシアとの交流に貢献を続けられている川村氏は、モスクワ駐在時代にロシア女性との結婚にあたり、当時の上司であった杉原千畝に媒酌をしてもらった方でもあります。晩年の杉原千畝に身近で接した方として多方面での語り部役も務めて居られます。その語り口は明解、記憶も抜群であり、興味深い話の数々を聴かせていただき光栄でした。
鼎談の場所を旧東海道品川宿の蕎麦屋に移して、浅蜊の生姜煮や海苔の佃煮を肴にリラックスされた川村さんのお話は多岐に渡りました。ただ懐古調の事柄は少なく、現在の社会課題や今後のプランについての話題が多いことに気付きました。

杉原千畝関連で言えば、故郷の岐阜県八百津→敦賀→モスクワ→カナウス→ケーニスベルグ等のゆかりの地を巡るツアー計画に惹かれました。また、個人と組織の関係についての洞察とエスプリに満ちた発言に土俵年齢の重みを痛感させられました。
事ほど左様に、健康と好奇心そして健啖家の3Kを維持しながら、次なる目標に向かわれる姿勢はとても格好良く、加えて外貌も素敵な達人に刺激を受けた夜でした。

大阪で仕事納めをした翌朝の関西空港で大学時代の同級生と合流、上海へ飛びました。12月15日に東方書店から出版されたばかりの陳芳明『台湾新文学史(上・下)』を携えて訳出代表の下村作次郎教授が自ら、大戦直後の台湾文学運動の旗手であった朱實(筆名:瞿麦)先生を訪ねる私的な旅です。
これまで台湾文学史として二冊が先行して出版されており、日本語訳もなされています。しかし資料公開が限定的であった時代の制約を受けていました。2.28事件前後の解明探究が進み、2.28事件以降も粘り強い文学運動・政治的活動が為されていたこと、その一翼に「銀鈴社」結社があり、その中核の一人が朱實先生であったことが『台湾新文学史(上)』には盛り込まれています。

1949年4・6事件から続く国民党政府による白色テロの猛威の中、ブラックリストに挙げられた朱實先生は、偽造パスポートで基隆港から香港へ脱出、9月30日に天津に上陸しました。奇しくも誕生日に上陸したことで「我、新生を得たり」と叫んだとのことです。その翌日、隣の北京の天安門で毛沢東が「中華人民共和国、成立了!」と湖南省訛りで叫んだ、と朱實先生は笑いながら訛りを真似て語ってくれます。
この数年来、上海の静安区にある朱實先生のご自宅には何度もお訪ねし、色々と貴重なオーラルヒストリー(聞き書き。口誦記録・口承歴史?)の世界を開陳して頂き、その都度興奮しました。しかし、それはあくまでもアマチュアの領域での興奮であったことが、今回のプロフェッショナルによる周到な準備と聴き取りで知らされました。
秋に行われた卆寿のお祝いの品々が飾られた先生のお部屋から、日本料理屋に席を移しました。日本酒が進むほどに、70年に及ばんとする歴史の激流を明るく生き抜いた道のりを「呼吸をするように」(司馬遼太郎『街道をゆく 閩の道』冒頭の一節、朱先生との交流記述での形容)日本語で語られる達人の言葉は更に味わい深くなりました。

三が日は箱根駅伝と『フーテンの寅 寅次郎の休日』(山田洋次監督と昵懇とのことで、朱實先生がご自身曰く「チョイ役」で出演)そして吉例の茂山家一門の初狂言でした。申年にちなんだ『猿婿』は、猿の面だけでなくセリフも「キャキャキャ」という叫び声のみ、という前衛的な演目で笑いました。まさに猿楽でしょうか。

大阪能楽堂近くでの後藤センセとの会食も吉例で、邦楽界の内幕を少しだけ覗かせてもらいました。文楽の世界も人間国宝の皆さんの引退が続き、時計の針が回り続けているようです。ただ一部には、引退後も衰えぬ指導力を発揮し続けている達人も居るようです。

西牟田耕治さんの発案設営で、横浜在住の森田拳次さんとお会いできました。お二人とも敗戦後の旧満州からの脱出体験を共有されています。
福岡市在住の西牟田さんは早稲田ラグビー部、新聞社で活躍され、現在は能古博物館を拠点に、博多文化の継承や博多港への引揚げ実態の展示に尽力されています。とりわけ戦後70年記念展示(高倉健さんが8・15を語った最後の肉声記録が昨夏に話題になりました)に多大な集中努力を続けています。1945年、硫黄島戦のあと、次は上海が標的にされるという噂や分析により鉄道で朝鮮国境の通化へ「疎開」したことが裏目に出て、通化・梅河口・瀋陽そして葫蘆島へと父親抜きの辛酸な体験をされたとのことです。昨年の戦後70年記念行事に一区切りを付けた今、その逃避行の地を再び訪れることを企図されています。
森田さんは週刊少年サンデー、マガジンの勃興期の人気ギャグ漫画家として活躍されたのち、米国へ活動の場を移してユーモアとエスプリと風刺を感じさせる大人のヒトコマ漫画の「武者修行」。その後、「中国引揚げ漫画家の会」の中核として上田トシコ、ちばてつや、北見けんいち、赤塚不二夫、古谷三敏らの各氏とともに活動。昨年は能古博物館にも赴き、西牟田さんの企画展示に貢献をされたとのことです。署名を施して頂いた作品の内『遥かなる紅い夕陽』『JAPAN as SAMURAI』をその夜に味読し、笑読しました。

友好のこと、平和のことは面白半分では語れません。ただ自分は正しいことをしているのだと真っ向から言われた際に、肯定はするものの多少疲れを覚えることが時々あります。しかしこの日の長時間の会話は面白く格別でした。
お二人の実体験に基づくお話と、これまで継続してきた活動談義には、随所に型破りのギャグや笑いを誘う発想が散りばめられ、肩凝りをせずに聴かせて貰えました。ビジネス世界とは次元の異なるライフワークの大切さを感じさせる大人(オトナ・タイジン・達人)の会話に参加できたことを喜んでいます。

「面白半分」の英語表現を東京大学英文科中退の吉行淳之介が、HALF SERIOUSとしているのを読んだ時、膝を叩いて腹に納めた記憶があります。
その吉行淳之介には「モモヒザ三年、シリ八年」という達人らしい名言もあります。                                                                                          (了)