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2014年12月6日

北京たより(2014年12月)  『高倉』

井上 邦久

北京オフィスの最寄り駅から地下鉄で三つ目の建国門駅に近くに長富宮ホテルがあります。先般のAPECでも、安倍首相が宿泊し、日本の報道機関の拠点が置かれました。中国を代表する長城の「長」と日本を代表する富士山の「富」を並べた御殿のようなホテルというネーミングです。
日中国交正常化のシンボルの一つとして建設され、日中経済協会・日本商会などの機関も長年入居されています。

ホテル前の長安大通りを北に渡り、二環路(環状2号線。故宮を中心に放射線状に6号線まで拡がった環状道路の老舗。往年の北京城壁の跡地で地下鉄2号線がその下を巡っています)をくぐると長安大戯院が見えてきます。上海の街歩きと異なり、北京では近くに見えても歩くと遠いので時間を要します。眼と鼻の先の距離が長い天狗のような街です。

5月4日、青年節記念京劇オールスター大会が長安大戯院で催され、いつもより割安料金での特別興行でした。全国から集った京劇名優が十八番のサワリを演じ、ミエを切っては拍手を受けるという趣向でした。
周りにはいつもより年配の観客が多く、膝で節を取ったり、口ずさんだりと和やかな雰囲気でした。ただ、サワリが分からず、ミエにも飽きてウトウトとしていた時に、「次は、大連から来演のGAO CANG JIANが登場」という司会の声に眼が覚めました。
続いて観客席から「オー!ガオ ザン ジエン!」という、どよめきが流れました。パンフレットには「高蒼健(大連)」と書かれていました。草カンムリが倉の字に付いていても、発音は同じで誰もが「高倉健」をイメージした瞬間でした。

九州の小学生の頃、三人の高倉さんを知っていました。先ず、西鉄ライオンズの一番センターの高倉照幸選手。続いて東宝映画で嵐寛十郎扮する明治天皇の傍らに侍る皇后役の高倉みゆき。そして東映の駆け出し二枚目の高倉健。野球少年には切り込み隊長の異名をとる高倉選手はスターでも、美空ひばりの『べらんめい芸者』シリーズなどの相手役という存在の高倉健には特別な思い入れはありませんでした。

それが或る年の大晦日、紅白歌合戦での大スター江利チエミの出番。伴奏のドラマー席に飛び入りした高倉健にライトが当たり「婚約者として紅組応援に駆けつけてくれました」と司会の宮田輝が紹介しました。
ひばり主演映画ではニヤケタ印象だったのが、江利チエミの婚約者としてハニカム姿にテレビ桟敷の口うるさい大人たちも好意的でした。太田昌一『紅白歌合戦と日本人』(筑摩選書)64ページには1958年大晦日のことと記録されています。

高倉、豊田、中西、大下、関口、河野、日比野と続くライオンズの黄金期の八番セカンドは「自衛隊」という仇名を付けられていた仰木彬でした。当時の自衛隊は専守防衛に徹するのが存在意義でしたから、堅守貧打の仰木選手は地味な評価でした。後年、1989年10月19日の近鉄バッファーローズの優勝やガンバロウ神戸を合言葉にオリックス球団の日本一を導き、名匠・知将と呼ばれるのですから、大きな毀誉褒貶の波であります。その仰木彬は福岡県立東筑高校で高倉健の後輩にあたります。
小倉高校と並んで北九州の名門校として有名な東筑高校。同僚のY監査役も東筑出身で長年のお付き合いです。
このお三方はいずれも二枚目、時に含羞の表情を浮かべ、渋さでモテルタイプ、そして少々ノンシャラントな風情もあってガリ勉じゃないのに成績が宜しいようです。

他のお二人は別にして、高倉健の男前については、田辺聖子が『姥ざかり 花の旅笠―-小田宅子の東路日記』に・・・宅子さんのご子孫に、俳優の高倉健さんがいらっしゃるではないか、墓誌に「ワカクシテ容姿端麗ニシテ和歌ヲ能クス、後、仏乗ニ帰シ善光寺ニ詣ヅ」とあるように美男美女の家系なのであろう・・・と書かれています。
高倉健さんは、何かに導かれるように節分の深夜に善光寺詣でを重ねていたとのことです。
後日、五代前の先祖の宅子さんの旅日記(江戸天保の頃、筑前の商家のお内儀達、五十代の仲良し四人がお伊勢詣りに出立。家業を子に譲ってから、和歌を学び、古典の教養溢れる女達の旅はエネルギッシュで、伊勢神宮から、信濃の善光寺、ここまでくれば日光参りもと突き進み。生気躍動する女旅の豊かな愉しさが甦る知的冒険お買い物紀行・・・集英社文庫より)を読んで、善光寺が結びつけてくれた縁を感じたとのことです。

訃報が公表された直後から中国のメディアは高倉健に関する記事で溢れかえったことは日本でも報道されたと思います。
いつも棒を呑んだ様な厳しいコメントをする外交部スポークスマンの浩磊副報道局長が、感情を籠めて高倉健の果たした功績を語り、『南方周報』は一面に張芸謀監督の高倉健へのオマージュ作品『単騎千里を走る』撮影時のエキストラ農民たちとの昼ごはん光景を掲げて「中国人の高倉健」とタイトルを打ちました。その他の紙面にも「高倉健与中日関係的‘蜜月期‘」「高倉健`硬漢人生‘戞然落幕」「中国媒体哀悼高倉健『很罕見』」などなど多くの追悼文が掲載されました。
それらの高倉健関連記事を集約して中国各拠点へ回覧発信をしました。いつもの無機質な業績記事や開発記事には無反応な各地から、すぐに熱いメッセージが多く寄せられました。

数日後の営業会議の席上、ある部長が「先ず高倉健の冥福を祈ります。彼の映画『追捕(君よ憤怒の河を渡れ)』は改革開放後に初めて射した光のようでした。若い頃の我々が日本に憧れを持ち、日本文化を学び、今も日本企業に何十年も働く契機になりました。あの輝いていた時代の空気を取り戻したいと思います」と訥々と述べてから、「それでは先月の業績ですが、計画未達でした・・・」と続きました。

〈前回の〉「戸隠」余聞、APEC報告そしてカンボジア出張についても綴るつもりでしたが、安倍・習近平の仏頂面握手のことなども含めて割愛します。
一人の笑顔と口数の少ない人間がどれだけ多くの中国人に大切に思われていたかを再認識し、まさに中国大陸で『千里走単騎』だった高倉健さんへのささやかな追悼文を綴りました。                                                                     (了)