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2020年8月17日

夏萩[宮城野萩] ―日本の美意識再学習 ①―

井嶋 悠

田舎(と言っても市であり、首都圏の大人たちにとっては憧憬の場所でもあるようだが)に転居して13年が経つ。年々、妻と愛犬以外の会話は限られ一層静かな生活を過ごしている。そんな中でのコロナ禍、自問することがこれまで以上に増えている。加齢の為せることとは言え、あの「自粛」或いは禍の中の騒々しさが加速させているのかもしれない。と言っても多くはその時々の断片に過ぎず、自答など到底及ばない。若い時とは意味の違う貴重な時間を無駄にしている。しかし思いがけない発見もする。

庭の夏萩の花弁に、ただただ単に大愚としか言いようのない政治家の厚顔無恥に辟易し、記録的長期の梅雨下の豪雨被害に自然と人の壮絶な関係に思い及ぼし、それでも日本が母国であることに感謝するという何ともアンビバレントな日々にあって、先日一瞬無我の境に導かれた思いをした。
何年か前、背丈50センチほどの苗を植えた夏萩。宮城野萩。今では枝垂れを上に伸ばせば2メートル余りの広がりに成長し、何本もの細い枝に1センチほどの純白の花弁を背に、数ミリの紅がかった紫の花弁が連なっている。その姿の圧倒的存在感。私と萩が占める1メートル四方の絶対静寂空間。可憐との言葉が私を覆う。

可憐:ひ弱そうな感じがして、無事でいられるよう、暖かい目で見守ってやりたくなる様子。[『新明解国語辞典 第五版』]

高校教師時代に毎年必ずと言っていいほどに講読していた、『枕草子』の「うつくしきもの」の段が甦る。清少納言がここで言う「うつくしきもの」「をかしげなる」「らうたし」「うつくしむ」といった形容語は、私の中で可憐に通ずる。昔、「愛し」を[かなし]と読んだように。

「うつくしきもの 瓜に描きたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするに、踊り来る。二つ三つばかりなるちごの、急ぎて這ひ来る道に、いと小さき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。頭は尼そぎなるちごの、目に髪のおほへるを、かきはやらで、うち傾きて、ものなど見たるも、うつくし。大きにはあらぬ殿上童の、装束きたてられてありくも、うつくし。をかしげなるちごの、あからさまに抱きてあからさまに抱きて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、いとらうたし。雛の調度。蓮の浮葉のいと小さきを、池より取り上げたる。葵のいと小さき。なにもなにも、小さきものは、皆うつくし。
(以下、略)」

やはり教師時代の思い出、アメリカの現地校に在籍していた帰国女子生徒が、日本に一時帰国し、アメリカの友人に、小さな文房具のあれこれお土産に持ち帰ったときの驚愕的喜びの話が甦る。

萩の花尾花葛花撫子の女郎花また藤袴朝顔の花

萩は「秋の七草」の一つである。先に記した夏萩とはやや趣・様態の違う山萩と思われるが、やはり赤みがかった紫の小さな花弁が群れて咲く。
その七草を決定したのは、奈良時代前期8世紀前半の『萬葉集』の歌人、山上憶良である。

『萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花(おみなえし)また 藤(ふじ)袴(ばかま)朝顔の花』
     [注:尾花;すすきの穂花  朝顔の花;今言う桔梗]

これらは研究者に言わせるに、当時の民衆及び山上憶良の好みの花々で、貴族階級は梅・橘といった外来の花樹だったそうで、そのことが貴族階級の一人であった憶良らしさを表わしていると説明する。
だからこそ『銀(しろがね)も 金(くがね)も 何せむに 勝れる宝 子に及(し)かめもや』《歌意:銀も金もまた玉とても子に勝るものが他にあろうぞ》が、憶良を代表する一首であることに私たちは得心するのだろう。
そして萩の花が最初に挙げられている。七つの花に共通する淡彩。
ここで「女郎花」の文字に眼を留めたい。女郎=売春婦・遊女との理解。
ところが、古代にあっては、「女郎」は「上臈(じょうろう)(身分の高い人の孫娘、身分の高い婦人)」から転じた言葉で、時に宗教性を有する女性の意であることが、『日本語国語大辞典』から教えられる。
これに関して、近世/近代文学・文化研究者である佐伯 順子氏(1961年~)が、自身博士課程在籍中に著し、多くの人々に賞賛された『遊女の文化史』(1987年刊)で、彼女は次のように書く。

「性」と(とりわけ10代の)コロナ禍の問題を重ねる人もあり、今、改めて人と性を再考する時機ともなり得るのではとの思いもあって、少々長くなるが引用する。

――遊女、彼女たちこそは、今や俗なるものの領域におとしめられてしまったかにみえる「性」を「聖なるもの」として生き、神々と共に遊んだ女たちであった。その舞い、歌う姿の中に、今日、音楽と言われ。あるいは演劇、文学と言われる「文化」の営みの多くが、まだ「文化」とは自覚されぬままに、若々しい姿をあらわしていたのである。しかし、自ら遊ぶ女として、聖なる力を宿していた遊女たちは、やがて遊郭の中に囲い込まれ、さげすみと憧憬というアンビバレントな社会感情を身に受けつつ、ついに遊芸と売淫との分離によって、もっぱら前者を担う「文化」人と、後者に専念する娼婦へと二極分解してゆく……この変貌の過程はそのまま、人々が「神遊び」の背後に認めていた「聖なるもの」を見失い、快楽のみを独立して求めたゆえに、「遊び」の意味内容から「聖」が脱落して、低俗な性と高尚な文化、という価値観として正反対の概念が生ずる様相を呈しているのである。――

一つ家に遊女もねたり萩と月

(注・「一つ家」は、研究者によっては字余りを承知で芭蕉の他の用例から「ひとついえ」と読んでいるようだが、もう一方の読み方「ひとつや」の方が、素人の私ながら落ち着く。)

この句は『奥の細道』に収められ、新潟県と富山県の境にある難所・親不知の宿での作とされている。しかし、随行者の曾良の日記にも、また芭蕉の他の書にもなく、旅を終えての編纂時に、芭蕉が虚構として加えたと言われている。要は創作であり、それがゆえに旅の途次とは違った芭蕉の心が想像される。

この句の背景に係る地の文の一部分を引用する。

――今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて疲れ侍れば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面(おもて)の方に、若き女の声二人ばかりと聞こゆ。年老いたる男(お)の子の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、此の関まで男(おのこ)の送りて、あすは故郷にかへす文したためて、はかなき言伝(ことづて)などしやるなり。白浪の寄する汀に身をはふらかし《さまよわせ》、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り《夜ごとに違う客と契りを交わす》、日々の業因《前世の所業》いかにつたなしと、物言ふをきくきく寝入りて、(中略)【朝を迎え、その女性から道案内を涙ながらに請われるが、「神明の加護かならずつつがなるべし」断り、旅を続ける。しかし芭蕉の心は「哀(あわ)れさしばらく止まざりけらし。」であった。そして『一つ家に 遊女もねたり 萩と月』と曾良に書きとどめさせる。――

芭蕉は、1644年伊賀の上野に武士の子として生まれ、28歳時に江戸に移り住み、1694年大坂で亡くなっている。そして奥の細道は芭蕉の死後1702年に刊行されている。
一方で、1584年に大坂、1589年に京都、そして1612年に江戸で遊郭が公設されている。

芭蕉にとって、山上憶良の秋の七草の歌も、聖と俗の世界・遊郭も承知のことであり、そこで彼の心を覆うものは「哀れさしばらく止まざり」である。そこには「いき」も「通」もない。
芭蕉が描いた、遊女、萩の花、月光はすべて女性性の心象として浮かび上がって来る。その世界を思い描くとき、私は「が」でも「は」でも「と」でもなく、「も」を持って来た芭蕉の感慨に魅かれる。一夜明ければそれぞれがそれぞれに次の時間を持ち、おそらく再び相まみえることはないであろう。今宵だけの5人の共有の時間。一層募る彼女たちへの哀しみ。生の重みをかみしめる芭蕉。

心的時間がいかに限られているかを実感する中、身辺の小さなものに日本の美しさを見直していけたらと、日本に生を得た一人として思う。