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2014年3月19日

言葉・ことば・言葉・ことば・・・・・・ その2 具体(体験)と抽象(知識)と「私」の言葉 ―「学校」教育を論ずることについて、私の生と教員体験から、今思うこと―

[Ⅱ]―① 

中高校(中等)教育全体から

井嶋 悠

[Ⅰ]の最後にも記したが、私の言葉の具体的背景として重要なので転載する。

 専任教員として体験した勤務校は以下である。
その折々で、それぞれの働きの場に導いてくださった方々に感謝し、記す。

①    明治時代にアメリカ人女性宣教師によって創設された女子校。(18年間勤務)

②    国際派を標榜しつつ、塾との提携での生徒獲得、有名大学進学校を目指す女子校。(2年間勤務)

③    インターナショナルスクールと日本私学「一条校」との協働・共学校。(10年間勤務)

[備考]紆余曲折の人生、以下の機関に非常勤講師で勤務した。
・上記以外の私立校 3校(内1校は、不登校生徒を主対象とした高校)
・塾
・インドシナ難民定住促進センター(姫路)《日本語教師》

学校社会はすべての人が、各人各様体験する世界で、だからこそ国社会・地域社会を映し出す鏡であり、同時に国・地域社会を創り出す基盤で、それを今思い返すと、畏れ戦き(おのの)怖じ気だって来る。
この感覚は在職中にもあったとは思うが、退職後の今、継続性を持った強さで迫って来て、日本を考えるテーマがいかに身近にあったかを、距離を置くことでより冷静に思い知らされている。

その幾つかを[私学中学校高等学校国語科教員]に拠って挙げ、今後の奮闘努力?のための整理に資したいと思う。

○私学(私立)

キリスト教系、仏教系が多い。
私が知ったキリスト教系、仏教系には、有名大学指向の進学校が多い。
進学校との名称については、学校としては標榜していないが、結果としてそうなっている学校もありまた、「有名大学」の基準も多様で、使い方には注意がいる。
ただ、今はとにかく有名大学進学者が多いとの意味で使う。

尚、私が勤務した3校の内、2校は、少なくとも「進学校」を校是、絶対目標としていない。

学校によっては、世に公表する進学実績は、在籍生徒の半数くらいについてで、それ以外は「その他」的扱いのこともある。言ってみれば、3~4割は忘れられ存在と うことなのかもしれない。

私の経験で一例を挙げれば、同窓生動向の周知度からも、そのことは否定できないと思う。それは、教師間だけでなく、生徒間でさえあり、自省を込めて、生徒はも ちろん教師の、時にほとんど無意識に動いている、心の問題は看過できないのではないか。

このことにつながることとして、キリスト教の「愛神愛隣」、仏教の「中庸・敬和」との脈絡、整合性、更には学校教育での競争(原理)について、今もって不明な私がいる。幼児的にして、文系(国語)だからなおのこと?

進学校云々とは別に、キリスト教主義校で、カソリック系とプロテスタント系では、在籍中の受洗者は圧倒的に前者が多く、具体と抽象への若者の心理と直観性に、なるほどと得心する私がいる。

【進学校での、私を引き付けた或る実例】

  ・大学付設校の場合での、二つの事例

一つは、多くがそのまま進学する学校での、良きにつけ悪しきにつけ「大らかな」、例えば歴史学習での“うねり”学習や古典を含めた国語味読学習。

「悪しきにつけ」と言ったのは、歴史での“うねり”学習を実践していた入学生に、付設大学教員が「知識不足」を憤った事例からで、私自身は憤慨教師に疑問が
ある。これについては、国語科教育でも言えることだが、後述の「国語科教育」のところで少し触れる。

一つは、多くが付設大学以上の有名大学進学の学校での、予備校優先・至上の学習。従って在籍校教科学習では、“内職”或いは“休息”時間。

・大学付設でない場合での、二つの事例

一つは、新興高校での、超高学歴者優先採用と、その教師の葛藤と退職の少なからずの事例

一つは、(これを知ったのは30年ほど前)校是とする大学合格者数の多いクラス担任に体育教師が多いという事例

 

・「AO入試」「推薦入試」制度での、知識優先「小論文」の驚愕事例

これについては、以前にも不可解な学校教育現在の関連で書いたが、生徒自身の言葉とは真逆と言ってもいい言葉での受験戦線勝利?!を象徴するかのような
一つの現状についてである。

私も指導したが、例えばカリスマ的人気の博覧強記的教師(文系)の指導は、私からすれば、

    教育愛に借りた「強制(やらせ)」であり、教師の或いは知識の「雛形づくり」では、と思っている。
これと同型は予備校指導実例でも出会ったことがある。

その教師たちからすれば、私は教師にして教師にあらず、ノンプロと言うことであって、合格実績に裏付けされた親子からの絶大な信頼を自負に、限られた時間   で結果を出すにやむを得ないのではないか、との反論がある。

一部大学教員の間では、「小論文」制度の見直しがあるようだが、はたして大学の大衆化による学力低下を悲憤慷慨する多くの大学教師間で合意は成立するので あろうか。

蛇足の閑話ながら、教師間での私への非難事例をもう一つ。

運動系のクラブ指導に邁進していた時代での、複数の教師からの批評表現の一つ「ヘボ教師」。その教師たちに共通していたのは、専門研究に自負を持って、得々と授業を展開していた人々である。他にも確かな勉強、研鑽を積んでいる人があったにもかかわらず。もっとも、私を揶揄した教師の多くは、大学教員指向が強かったが。

因みに、娘は公立指向で、進学より先ず高校生活か進学指向(その大きな背景には、地域の保護者からの要求がある)のいずれかを選択する立場にあった時、前者の高校を選択した。

しかし……。
保護者がそれぞれの価値基準でしばしば言う、教科・クラス担任係る「運・不運」

 

○中学校・高等学校年齢、及び女子校、男子校、共学校

私が勤務したのは中高一貫校で、中学校2年生後半から中学校3年生の多くは「谷間」を迎える。理由として、思春期成長過程の心身バランスと中高一貫での慣れ、惰性化による心の中だるみを言う人は多い。
生徒教師相互の是非双方での「甘え」ということなのだろうか。

そういった中、或る男子校では、中高校は同一敷地内にあるが(因みに、その学園は同敷地内に大学もある)、中学校は制服で校則も厳しく、高校では自己責任の 自由に徹し、教員も中高校別である。

女子校・女子教育:男子校・男子校教育について、また共学校での女子・男子教育、と現代社会との関わりで興味あるテーマが幾つもあるが、 女性(原理)・男性(原理)について未だ既成概念から十分に解放されていない私ながらも、母性原理と父性原理と学校については、日本社会の未来を構想し、実 践して行く上で、重要なテーマではないか、と思う。

ところで、少子化と学校経営もあって、10数年前後前から女子校、男子校が、共学校にする傾向があるが、教員側で見た場合、前者は後者に比して学習、生活の導き(教育)に難しさが多いと言う。なるほどと思う自分がいるが、そのことが前述の私の「未成熟・限界」なのかもしれない。