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2013年10月7日

新たな定期的寄稿者の紹介と第1回

紹介しますのは、文学、映画、美術、音楽等々、芸能芸術に造詣深く、また無類の相撲ファンで、それに加えて文章才に恵まれた、豊かな心溢れる日本の商社マンです。現職は、上海・北京を基軸に中国各地を走り回っておられます。名前は、井上 邦久さん。

大分県の生まれのアラカン世代。
高校時に大阪に転居し、氏曰く「高校時代は落ちこぼれ、大学時代は反体制を気取り、社会に出てからも脇道を歩いて来た」歴史を持つ人で、学生時代からの日中架け橋の夢を実現され、日々、中国をまた日本や外国を、正しく東奔西走されている。その大学1年生時代には、仲間20人ほどとの一か月の中国旅行中、突然、「北京人民大会堂」で周恩来首相と長時間の交流ができた上に、中国内の旅費を補填される、との好運にも遭遇。

氏は、氏ならではの視点、うんちく薀蓄から、滋味溢れたエッセー『上海たより』を書かれていて、2年ほど前から井嶋にも送信下さっています。

今回、氏の了解を得て、日韓・アジア教育文化センターの「ブログ」の「国際」項に、随時転載できることになりました。氏のファンが、一層増えることと思います。
お楽しみください。

その第1回です。
上海での今年の酷暑のことや氏の知己との文芸の旅、更には芥川 龍之介の上海記のことなどが書かれていて、第1回にふさわしいかと最新エッセーを先ずお送りします。
次回以降、これまでの、これからの中から適宜選んで転載します。

 

 

上海たより 第1回  『三伏』

暑中お見舞い申し上げます。

三伏は夏の季語でもあります。五行説由来で諸説あり、初伏(夏至から第3番目の庚の日から10日間)、中伏(第4番目の庚の日から10或いは20日間)そして末伏(立秋後の庚の日から10日間)と続く三つの伏です。極暑(火の気)を恐れ、庚(かのえ。金の気)が伏して(隠れて)しまう期間が30~40日続くとされます。この時期に韓国ではサンゲタンやポシンタンといった精の付く食材を多く摂るようで、日本の鰻も三伏に由来するのかも知れません。
その三伏に入ってから、上海は体温を超える猛暑が続き、最低気温も30℃前後という状態です。全国主管者会議に集まった香港・台北・広州からの代表も上海の暑さに吃驚し、最高気温が25℃前後の大連の主管者は、同じ国とは思えないと話していました。

そんな暑い時期には、涼しくした部屋に蟄居して、大人しくごろ寝をするか、積読の山を崩しながら昼寝をするのが賢い過ごし方でしょう。
ところが、賢明ではない凡夫は本の山に向かわず、先週末は蘇州の霊巌山に登り、今週は南京での登山用具などのアウトドア展覧会に赴きました。新幹線で蘇州へは30分、南京へは1時間余りで楽に移動できますし、上海より比較的低い気温(南京/37℃、蘇州/38℃)でしたが三伏の酷暑下の行動であることに変わりがありませんでした。
これも猛暑と大雨で名高い長沙の知人から「上海・蘇州・南京の三か所合計で115℃。煉丹炉中の孫悟空のようだ」と妙な暑中見舞いが届きました。

金融・流通など第3次産業の進出が多い上海に比して、蘇州は早くから日本の製造業進出の中核として他を圧倒しています。
その蘇州の中でも有力メーカーの総経理を長年務め、蘇州日本商工会のドンとして人望の篤いK氏とは、各地での講演にも忙しいコンサルタントのM氏の紹介で、呑み・喋り仲間にしてもらいました。
3人ともアラカン族であり、とりわけK氏は宮崎県人で、大分県生まれの人間にとっては、日豊本線(九州イーストコーストの日向と豊前を結ぶ鉄道)繋がりの面でも親近感があります。この春にK氏の肝煎りで蘇州商工会のセミナーが開催され、土曜日午前にも関わらず参集された多くの方々の前で、M氏らとともにお話しをしました。セミナーの後に楓橋や寒山寺などを案内して貰いながら、今後とも単に呑み・喋りだけでなく、お勉強もしましょうと云う事になりました。

今回は蘇州西郊の霊巌山に傾国の美女、西施を探そうというお勉強でした。西施は2500歳くらいの美女だから期待はしないようにと笑う先達のK氏を中心に歴史のおさらいをしました。
霊巌山は春秋戦国時代の呉越の戦いの旧跡の一つ。会稽山の戦い(紹興近辺)で危うく命を拾った越王勾践は、臥薪嘗胆して捲土重来を期し、策略として50人の美女を呉王夫差に贈った。夫差は「宮女如花満春殿」と謳われた館娃宮を霊巌山の頂に建て、政治を忘れ、とりわけ西施に溺れた。好機到来と越軍は霊巌山を囲み、夫差を撃ち雪辱を果たす。西施は逃れてその後の行方は今も知れず・・・
蘇州新区のホテル前からバスで半時間余り、冷房の効いた小奇麗なバスの料金は何処まで乗っても2元(30円)で、霊巌山麓の終点の木瀆まで連れて行ってくれました。木瀆は上記の館娃宮を建設する為に水路で運んだ木材の集積地とのことでした。木瀆は水郷古鎮観光地の一つになっている様子でしたが、今回は登山が目的なので次の愉みに残しました。
先達のアドバイスで入場料の必要な正門は回避し、大きく迂回した脇道を採りました。土産物屋が途切れた所は船着場跡のような感じで、そこには立派な石門もあり、どうもこちらが表参道のような気がしてきました。金気が伏せる時期だけに無料入山は有難い。火気も運よく穏やかになり、雲が日差しを遮ってくれました。

讃岐象頭山の金毘羅さんの参道のような傾斜、距離でした。入山料をセーブするような我々には無縁でしたが、前後二人の肩に担われる轎(輿。座席型駕籠)も見かけました。常緑樹側の蝉しぐれが反対側の竹林に反響し、風に揺らぐ竹の葉のせいか妙なる音楽を奏でていました・・・という余裕は先達のK氏だけの世界で、我々は処々にある亭や磨崖仏を給水ポイントにしました。ところが8合目(という程の高山ではありませんが)あたりに基礎だけが残された石碑がありました。基礎部分の裏側の黒く塗られた刻字を辿ると、福岡県八女地区の公共団体が建てた友好祈念の碑であったことが何とか読み取れました。先達の説明では、昨年秋に傷つけられた、元々それほど多くの人が来る場所ではない、何故そこに建てたか不詳、知名度の低い祈念碑までわざわざ傷つけに来たことを知っている人は少ない、報道もされていないと思いますよ、との事でした。

岩山を抜けて頂上へ。「東晋時代に寺が建てられ、唐代から清代まで禅宗道場として高僧を輩出したが、咸豊30年に兵火で破壊された。民国に到り印光法師らによって浄土宗道場として再興された」と拝観料1元のチケットに書かれていました。チケットの裏には「西施梳粧台遺跡」の図が描かれていました。
掃除の行き届いた院内には、参拝者と修行僧が多く、観光客は静かでしたから大声で喋っていたのは我々三人だけだったかも知れません。(当地のガイドのマイク案内とJRアナウンスの煩さには辟易しています。カラオケ同様にマイクを持つ人は謙虚であって欲しいものです)。
とても感じの良いお寺に来ても食欲好奇心は鎮まらず、精進麺を食べさせる堂宇を目敏く見つけました。残念なことに、営業時間が過ぎていてこれも次回の愉みとなりました。椎茸麺が18元という値段札には驚きました。入門料が1元なのは、無料にすると却って面倒が多いから、形ばかりの有料にするということでしょう。上海の城隍廟(豫園古鎮の起点)の精進麺は5元(土日祝は8元)ですが、やはり車道もリフトもない聖地のせいで高いのでしょうか?
精進麺に気を取られている内に西施のことは忘れていました。帰りは間道を抜けて下りましょう、と先達はスタスタ細い薮道を歩き始めました。西施が逃れた道、日本人は我々三人しか通ったことのない道という強い確信に満ちた足取りでした。下山後に大きなキャンバスの学校、隠れ家的農村レストランの横を歩いていたら、高級ハイヤーとすれ違いました。この奥を通り抜けはできないから、必ず戻ってくるに違いないハイヤーを捉まえようと衆議一致(ホンネはもう歩きたくない)。
好運にも予測が当たり、ホテルまで快適なドライブでした。

 

上海に戻って、積読の山から一冊、『上海游記』『江南游記』を引き出しました。
芥川龍之介が1921年3月から7月末まで、大阪毎日新聞の派遣で各地を歩いた時の紀行文です。
新聞連載ということで、ジャーナリスティックな視点を意識したのか、孫文の辛亥革命が袁世凱大総統に掠め取られた時代の混乱を社会荒廃としてとらえています。
一方では日本政府の対華21ヶ条要求への反発から排日・抗日の流れが増していることにも目配りして、壁に貼られた檄文や高校生の排日の歌声を見聞きしています。
また28歳の社会主義者の李人傑氏との面談で、共和でも復辟でもない若い芽吹きを感じているところはサスガです。しかし芥川が滞在中の7月に、中国共産党の第一回大会が上海で秘密裏に行われた事までは当然ご存じありません。
本業の小説家としては、美味求真、妓館名妓、清朝遺臣、上海紡績、租界風物、天蟾舞台などを通して、上海と上海に生きる中国人そして日本人を描いています。
上海、杭州、蘇州、南京の名所古跡の「観光」には冷淡というか悪意に近い皮肉な批評が続いています。一方、土地の風や匂い(臭い)を感じる「観風」には厳しい視線や言説の背後に暖かい眼差しと諧謔を感じました。

その芥川が上海在住の島津四十起氏の案内で蘇州霊巌山に登り、霊巌寺を見物しています。
まず市内からは初めて乗せられた驢馬で冷や冷やしながらの移動。登り口が見つからず、道を尋ねれば更に分からなくなるという法則通り、ウロウロした挙句に驢馬がエンスト。俳人通人でもある先達は「何、こう云う事も面白いです。あの山がきっと霊巌山ですから、――そうです、兎に角あの山へ登って見ましょう」という姿勢。やっとの思いで登ったら、西施弾琴台も館跡も岩があるだけで草もない。折からの雨で太湖も望めず、腹も減ってきた(精進麺の有無は不明。寺の坊主から分けて貰ったどす黒い砂糖をなめても元気は出ない)。
そんな情けない思いをしながら下山したら、驢馬がいないし驢馬曳きの子供も見えない。持参した傘は驢馬の荷駄に残したまま。やっと農家の軒先に雨宿り。農夫は駕籠かきを副業にしているのか轎子が見えるが、そんな時に限って先達の中国語は通じない。ついに自己制御が切れて、「お互いに迷惑しますね、案内者がその土地を知らないと、・・・」と売り言葉。島津氏も買い言葉を返し、ずぶ濡れになりながら、血相を変えた男二人が立ち尽くしたのは、もしかすると我々が好運にもハイヤーを捕えた場所辺りではないかと思えてきました。

その夜は、昨年9月の騒動では難を免れた料理屋で置酒歓談。
数千人の工場の様々な課題(賃金上昇だけでなく、食堂運営や社員旅行までも一筋縄ではないこと)から、時節柄か自分の墓をどこに設けるかまで色々な話題で盛り上がりました。
K氏の故郷の焼酎「百年の孤独」(黒木酒造の当主はK氏の一年後輩という有難い関係)や銘酒が空になる頃、独り夜舟を漕ぎながら、西施の宮殿を訪ねる夢を見ていました。
徒然草の「山までは見ず」の仁和寺の法師ではありませんが、何事にも先達は有らまほしき存在です。
芥川の文章を読んで、K氏の有り難さを改めて感じました。立て替えて貰ったバス代と入門料の返金と精進麺を口実に蘇州を再訪することを愉みにしています。

芥川の上海江南游記から90年、二つの国は戦争と体制変革と経済至上時代を経験しました。両国の先達が傷ついた友好祈念碑を訪ねる事はないでしょう。
されば、芥川が石碑を見たとしてどんな冷ややかな警句を発するかを想像しながら、火の気が旺盛な三伏を凌ぎたいと思います。