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2017年4月23日

桜・花・華 ―私の好きな三首の和歌と三つの“今”― 

井嶋 悠

私が住んでいる栃木県北部は今、春爛漫。春風駘蕩。春心。春眠…。心地良い日本・日本語。古来、春秋論争があるが、枯淡の境地未だ遠く、加えて冬を苦とする勝手もあってか、私は春に浮き立つ。それは、昨年訪ねた八甲田山の紅葉のあまりの壮大さにただただ圧倒され言葉を失う私の裏返しかもしれない。
水浅葱色にも似た水色の空、春陽の下、いささかの冷気を残す春風に揺らぐ菜の花、桜花(さくらはな)(「さくら」、とひらかなで記すのが最もふさわしいかと思うが)。百花繚乱の始まり。
鶯のさえずり。雉の雄叫び。啄木鳥の幹を打つ音。烏のガラ声…。
その只中に暮らす、分不相応な幸いは重々自覚しているので来世が不安な年金暮らしの一人。

ところがあろうことか、その今、当地市会議員選挙の真っ最中。地方選挙であれ、国政選挙であれ、聞き、見る度に、いや増す空虚。老いは涙頻度に表われるが、あまりの苛立ち、虚しさに、春爛漫と被(かぶ)さって涙が込み上げる、人生初めての体験。
桜がこれまでと違って見える。山桜やそめいよしの、世の芥を掬い上げ掃き清めるかのような、桃の花色にも近い桜色の枝垂れ桜の、芥を遮り覆い隠すかのような、その枝ぶり。あたかも母親が我が児を抱(いだ)き、護る、下からの、上からのしぐさのように。

日本をこよなく慈しむ70代の二人の女性、一人は極貧家庭に生まれ懸命に生き今独り暮らしをする近隣の人・一人は旧知の生まれも育ちも東京下町、の厳しくも怖い言葉「日本は終わった」「東京は一度崩壊すれば良い」。

出陣!?式での支援者(ほとんどが中高年男性)の日の丸と必勝を染め抜いた例の鉢巻揃い姿。恐るべき画一。その人たちが、社会を主導する政治を司る恐怖の不安。選挙カーから繰り返し噴き出され轟く騒音。
「お騒がせ致します」「ご挨拶に参りました」……の慇懃無礼。
「市民(国民)の生活を守ります」「身を賭して働きます」……の当然を声高に言う厚顔無恥。言葉の弄び。
その選挙経費、当選者議員報酬等々すべては私たちの税金。かてて加えて、外遊病重篤の首相を筆頭に、権力と欧米を偏愛する政治家たち。その欧米の良識人が揶揄する八方美人(と言えば聞こえはいい、か)、『和』への、深謀遠慮など微塵もなく、二言目には“おもてなし”の幇間(ほうかん)(その職にある・あった人の哀しみを切り捨てた何とも失礼な用法だが)外交。おひざ元日本国内の弱者、貧者に我慢を強い、結果「自己責任」の一見もっともな言葉で切り捨てる羊頭狗肉そのままの言葉遊び。

「君子危うきに近寄らず」とはこういう意味だったのか。老人の政治離れは必然の流れ、勢い。続く謙虚な若者たち。先の二人の女性の言葉に共感合意する同世代の、幾つかの主義への軽重はあるが支持政党なしの私。もっとも、それぞれがそれぞれの正義の言葉で、対立者を邪悪化し、可視・不可視の暴力を使って息の根を止める(殲滅!)。それが政治的権力者うごめく古今東西政治世界共通のおぞましさ、人の性(さが)、と思えば、学校社会での体験も思い返され、日光三猿[見ざる・言わざる・聞かざる]は自然な?良識、と思ったりもするが、権力者たちからすれば私のような似非良識人は“想定内”の思うつぼ?

と言う私は、戦争、貧困、差別、病いで、虐げられ、死と向かい合っている世界の子どもたちに、寄金・寄付を、それも時折、するだけで何もしていない。1985年の音楽・ドキュメンタリー映画『We are the World 』(制作:アメリカ)や2005年の世界の著名な8人の監督によるオムニバス映画(制作:イタリア・フランス)『それでも生きる子どもたち』に、スタッフも含め賛同参加している人々を羨むだけの私でしかない。

因みに、20年程前の在職中、アメリカに出張した際、アラブ系のタクシー運転手が「あんなの、あいつらの金もうけだろう」との切り捨てが心に刻まれているが、実際はどうなのか知らないし、そもそも何事も公にすれば必ず批判非難はあって、それに立ち向かう、或いはいずれかに与し徹する器量がないのも私ではある。
ただ、アメリカの一つの象徴である[ハリウッド映画]の、ベトナム戦争であれ、湾岸戦争であれ、黒人・インディアン差別であれ、アメリカの負の部分を痛烈な真摯さで映画化し、世界に配信し、興業収益を上げる(スタッフ・キャストの高収入)ことが求められ、それがあって次につながる、その「ストレスフル」に競い、克つ、スタッフ・キャストの強靭な意志力と切磋琢磨、そこに“アメリカン・ドリーム”をみる。(その裏返しとして、酒・クスリ等中毒が多いことも周知だろう)。

学校教育の相違の根底・背景に思いが及ぶ。風土・環境・歴史を外した日米教育比較は虚しいように思える。

古来桜の名歌は、教科書にあったり百人一首にあったり、私たち多くに馴染み深いものが多いが、その中で私の好きな3首を採り上げ、先人の批評を参考に、今の私の寸感を記す。もちろん、読書人や識者にとっては今更、との内容の無知・無恥、露わなものではあるが。

【ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ】 紀 友則(845~901)

うらうらとした春の日、甘美な心持ち「春風駘蕩」に在って、どうしてそんなに慌ただしく散るのだろう、との嘆きの光景と思い描いていた。
今、「ひさかた」は西方浄土を連想させ、そこからの「光」であり、歌人は、朗詠の初めでその久遠を置き、「散る」(死)を、それも「しず《静》心なく」との形容を以って結ぶ。その間を結ぶ、自然と生、命、そのそれぞれの人生を「花」に譬えて。「阿吽(あうん)」の左右の像のように。と私の中で強く合点する。

【山本 健吉(1907~1988)日本文学評論家・研究者】の言葉。(『ことばの歳時記』(1980)「花」より私の要約を含めた抄出)】

――花(桜)時、柳田国男のお伴をして高尾山に行った折、柳田国男の桜を見、農村の人々[常民]
の生活の哀歓に思いを寄せた感嘆(古代の人々が山の端の桜に、その年の収穫を思い及ぼし、散
ることの切実、との信仰的態度を基にした感嘆)に触れ、次のように記す。

「…万葉の時代にはまだ、桜の花が日本の花の代表として、審美的に愛着されるような条件は、
十分そろっていなかった。当時はまだ、梅と桜が王座を争っていたと言ってよい。だが結局、
梅は主として知識階級の鑑賞の対象にすぎなかった。桜が愛着の対象となる根は、広くかつ深
かった。(中略)
そして、上記の歌と『世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は、のどけからまし』(在
原 業平)を引用し次のように記す。
「…大分感傷的態度が出てきている。だがこれらの歌にも、やはり桜の散ることに対する実生
活上の不安の気持ちが、どこかに余韻を引いているようだ。」――

 

【願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月のころ】 西行法師(1118~1190)

古典入門の授業、作品と生徒たちの季節感、生活感を合せるための旧暦と新暦の説明はその一つで、一年を平均し(大雑把に)旧暦→新暦は、プラス1,5か月と話したりする。

そしてこの歌。如月は旧暦2月だから、新暦では3月中旬、だから望月(15夜)も活きて来る。し
かし、そこでは、桜は、その性質上或る程度の冬の寒さが必要とは言え、3月中旬に桜は開花して
いない事実が抜け落ち、且つ「花=桜=日本古来の伝統」との思い込みの落とし穴が潜んでいる。
素直、純朴な生徒は、どこか不自然を直覚するのだが、先に進むことで頭の中で桜は満開となって
しまう。
教師によっては、時に「散華」と日本人論、にまで行ってしまうが、私の場合、そこに踏み入れる
勇気と自信はかった。

西行は、武家の出自で、23歳で出家し、京都・鞍馬で隠棲生活に入るが、諸国を旅し、最期を大阪・河内で迎えている。この歌は死の10数年前に作られたとのことだが、その頃は伊勢か奈良に在った。
当時、暖をとるのも限られている中、ましてや隠棲生活での冬の厳しさはひとしおであったろう。その日々から、春の実感の喜びは何にもまして掛け替えのないことではなかったか。それは、北関東の地に生活し、ストーブ等で身を温めているにもかかわらず、ひたすら日々刻々春を願う、加齢とともに冬の苦手が顕著になって来ている私は、武家の出にして出家者からすればお笑い草の失礼ながら、自身を重ねて想像する。
桜だけではない。立春、啓蟄前後から見え始める一輪の野の花に思う春到来の喜び。日一日それは増して行く。その上昇線上の頂に桜がある。妻は幼少時、結核で死の寸前で見たのは一面のお花畑であったとのこと。

【同じく山本 健吉の同書から】

――この歌の引用の前に、芭蕉の『薦(こも)を着て 誰人います 花の春』を挙げ、「花の春」
は新年を示す季語で、「花」は桜ではないが、桜の華やかなイメージとともに、三春(旧暦
正月・2月・3月)にわたっての季節感を持つ二重規定の季語との説明をし、以下のように記
す。
「この歌は、事実としては矛盾する。旧暦二月十五日は、花時には早すぎるのである。だ
が、二月十五日が春のもなか(最中)であるという意味で、春の花すべてにわたっての賞翫
であるこの季語に妥当するのである。――

尚、氏はこの後、桜に関して、四つの言葉と時期を次のように記している。

・初花  三月  ・花  四月上、中旬  ・残花  四月中、下旬  ・余花  五月

 

【しき嶋の やまと心を 人問はば 朝日ににほふ 山ざくら花】 本居 宣長(1730~1801)

日本文化の特質(日本人の感性の特性)として、清楚、明澄、自然への謙虚、忠実、といった説明に得心する私としては、この歌をそのような感覚から思い描いていたが、軽率なことに「やまと心」を「やまと魂」といつしか置き換えている私があった。おそらく、[国学]系の何かに接しそうなったのだろう。

小林 秀雄(1902~1988:文芸評論家)は、随想『さくら』[現代の随想 第5巻 小林秀雄集所収]で、次のように記していることを知った。

――……散り際が、さくらのやうに、いさぎよい、雄々しい日本精神、といふやうな考へは、宣長
の思想には全く見られない。後世、この歌が、例へば「敷島の大和心を人問はば、元の使を斬
りし時宗」などといふ歌と同類に扱はれるに至った事は、宣長にしてみれば、迷惑な話だろ
う。(中略)
〈そして、桜好きだった宣長について触れた後、次のように記している。〉
「『やまと心を 人問はば』の意は、ただ「私は」といふ事で、「桜はい々花だ、実にい々花
だと私は思ふ」といふ素直な歌になる。宣長に言はせれば、「やまとだましひ」を持った歌人
とは、例へば「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思わざりしを」と
いふやうな正直な歌が詠めた人を言ふ。
〈そして、宣長は、綿密周到な遺言書を残し、そこに、諡(おくりな)を秋津彦美豆桜根大人(あ
きつひこみづさくらねのうし)とし、墓の石碑の後ろに山さくらの木が描かれてゐる、と記
す。〉――

 

桜花の期間は短い。私の中では、満開前後に必ずと言っていいほどに、嵐にも近い風・雨が半日或いは一日ある。そこにも天意、自然の意思を想う。今年も一昨日、嵐が到来し、山ざくら、そめいよしのは大半落花した。

先に触れた「散華」。この言葉を慈しむ人は多い。娘もその一人であった…。しかし、私はこの言葉、漢字そのものから美しい心象(イメージ)を持つが、《戦死》に結びつけることには抵抗がある。あまりに哀し過ぎ、寂し過ぎる。己が命を故郷・祖国に奉ずることと人の性(さが)・業とさえ思う戦争の接点を、今もって私の中で見い出せていないから尚更のこと。

花は地に埋まり、樹々は葉桜となって初夏に向かう。あの黒々とした幹は来る年の花に備えて新たな養分を蓄え続ける。老人たちは、来年も見られるだろうか、と或る人は本心から楽しげに、或る人は悲しげに言い合う。
私は小心な俗人、まだまだ前者の境地に達していないが、それでも心模様の変容が、「ひさかたの光」「春死なむ」「朝日ににほふ山ざくら花」に私を惹き入れるのだろう。