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2017年5月7日

中華街たより(2017年5月)  『閑話球題』

井上 邦久

棲家の前は福建路、左へ50歩で中華街西門通りです。そもそも福建路という通り名は、横浜市行政が定めた正式のものではなく、中華街で独自に名付けた通称由来のようですが、観光地図や街頭ランタンに堂々と使われています。他にも中山路、広東路、上海路などがあります。当然ながら福建路には福建出身の人が多くて、とりわけ福州市南方の福清地区からの人々が基盤になっているようです。親しくしているお店の「景珍楼」もオーナーから来日間もない研修生まで、全員が福清人です。その福建路を西門通り方面とは反対に、右へ眼を転じると横浜スタジアムのライトスタンドが見えます。そして100歩ばかり歩くと、横浜スタジアムを含む横浜公園エリアに入ります。
横浜都市発展記念館で手に入れた『ベースボール・シティ横浜 ハマと野球の昭和史』などの資料や正岡子規関連本、そして『幕末・維新 シリーズ日本近現代史 ①』井上勝生(岩波新書)などを参照しながら、横浜公園そして、その核心となる横浜スタジアムについてのメモを作ってみました。

1853年 ペリー浦賀に来航

1858年 日米修好通商条約締結

1859年 横浜・長崎・箱館で自由貿易開始 外国人居留地建設

1866年 慶応の大火。維新後に公園・運動場整備をR.H.Bruntonが設計。

1871年 居留民チーム対米艦コロラド号チーム 日本初の野球試合

1876年 「彼我公園」開園 (今年の公園整備で「彼我公園」看板復活)

1876年9月 外国人チーム(主戦S.Hepburn) 対 米海軍選抜チーム

1876年12月 外国人チーム 対 東京開成学校(現・東大)の日米野球

1983年 正岡子規が松山から上京。捕手としてベースボールに熱中。

1989年 正岡子規が幼名「升(のぼる)」に因み、「野球」(ノボール)を雅号に加える。「打者」「四
球」「走者」「直球」などを翻訳造語。

1896年 陸羯南の新聞『日本』に、子規は野球のルール・用具等を解説。
第一高等学校(現東大)が外国人チームと対戦する初の国際試合。
見物応援に来ていた横浜商業生徒に一高野球部よりバット一本とボールを贈呈。横浜商業
(Y高)野球部の萌芽となる。

1909年 外国人居留地廃止 「彼我公園」から「横浜公園」へ改称

1923年 関東大震災

1929年 復興事業の一環としてスタンド付き「横浜公園野球場」完成

1934年 日米野球「日米のベストメンバーにハマのファンは熱狂・・・
ルース待望の本塁打をかっ飛ばせば・・・スコアは21:4」

1945年 米軍接収し「ゲーリック球場」。野球の場合のみ日本人にも開放

1947年 オール横浜女子野球大会 (1950年に女子プロ野球リーグ開始)

1948年 日本初のナイトゲーム(巨人対中日)

1952年 米軍から返還。後に「横浜公園平和野球場」と命名

1956年 日本石油 都市対抗大会で神奈川県勢初優勝(主戦 藤田元司)

1960~61年 法政二高 夏春甲子園大会で連続優勝(主戦 柴田勲)

1978年 「横浜スタジアム」完成。横浜大洋ホエールズが本拠地とする

1998年 横浜ベイスターズ日本一に。38年ぶりの優勝(権藤博監督)

2002年 正岡子規が野球殿堂入り(新聞、短歌を通じて野球の普及に貢献)

2016年 2020年東京オリンピックの野球・ソフトボール主会場に決定
神奈川県の高校野球は、湘南(1949年)、東海大相模(1970年)、桐蔭(1971年)、横浜高(1980年)以降も全国優勝校が続き、飯田徳治(旧制浅野中学)、大沢啓二(県商工)、宮城弘明(Y高)、愛甲猛(横浜高)、松坂大輔(横浜高)らを輩出。

プロ野球については、『4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ 涙の球団史』村瀬秀信(双葉社)にとても詳しく記載されています。ここでは、その本の帯に書かれた過激な一文を紹介するに留めます「・・12球団最多4522敗、5年連続最下位。2015年前半戦首位から最下位転落。でも応援するんだ!!!」。

この横浜ベイスターズが、1950年二リーグに分裂してできたセ・リーグの初優勝(日本シリーズにも勝利)チームである松竹ロビンス(小西得郎監督)のDNAを継いでいます。昨年、若林正博氏(京都府立総合資料館)から頂戴した論文『地方紙と業界紙から探る戦後京都のプロ野球興行―大陽ロビンス・松竹ロビンスを中心にして―』で詳しく知ることができました。若林氏は、田村駒オーナー田村駒治郎=ロビンス、京都・衣笠球場、夜間試合設備などをキーワードにしながらプロ球団の変遷とフランチャイズ制について鋭い調査分析をされています。

1952年の松竹ロビンスと大洋ホエールズの合併→洋松ロビンス(本拠地:京都?大阪志向?)→1955年合併解消・大洋ホエールズが本拠地を川崎に移し存続球団となりました。その経過や背景も同論文に緻密に記述されています。
大洋ホエールズ→横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズ→横浜DeNAベイスターズへの系譜が横浜スタジアム(ハマスタ)を本拠地として繋がります。ファンに自虐気味の思いをさせた時代も過ぎ去ろうとしています。谷繁捕手の放出トラウマをようやく克服できそうな戸柱捕手の入団、全日本の四番打者に定着した筒香選手の成長などで2016年はAクラス入り。今シーズンもここまで投手を中心に世代交代が進行中で、あとは国吉投手の復活を待つばかりです。

「久方のアメリカ人のはじめにし ベースボールは見れど飽かぬかも」

正岡子規が新聞『日本』に載せた「ベースボール九首」の一番打者の短歌です。
開港以来いつの世にも、横浜の街そしてベースボールを通して、日本の傍らには(或いは背後には)アメリカがいる気がします。
正岡子規及び陸羯南・夏目漱石・高浜虚子・伊藤左千夫ら子規を囲む人々の墨跡や写真を多数展示した「生誕150年正岡子規展―病床六尺の宇宙」特別展が神奈川県立近代文学館で5月21日まで開催されています。新聞記者出身の俳人である長谷川櫂副館長の気合いを感じる特別展です。

JR根岸線関内駅の石川町寄りの改札を出て信号を渡ると、そこは横浜公園のエリアでスタジアムの入り口です。1964年、根岸線(桜木町⇔磯子)部分完成までは市電花園橋が球場への最寄の駅であったとのことです。高速道路横羽線の工事の為、派大岡川が埋め立てられて花園橋もなくなりました。トンネルや駐車場の名称に花園橋の名を残すとともに、花園橋を支えていた親柱が、港中学校の門柱として移設転用されていることを最近知りました。
福建路から西門通りを石川町駅へ向かう延平門手前の路傍で来歴を刻んだ記念プレートとともに親柱を発見しました。関東大震災復興事業の一つである花園橋が、戦災や都市計画の波を潜って、街の片隅にひっそりと佇んでいます。                    (了)