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2014年4月2日

「私」の、自然な老い大願成就・・・・―最後?の「私」を求めて― [1] 老い・憂愁・檄

井嶋 悠

初めに私事を記す。

この寄稿の後ろ側には、4月は私に大きな歴史を一層呼び覚ます二つがあるので。

一つは、4月1日が、私たちの結婚35年目であること。

 どれほどまでに多くのことがあったことだろう。お釈迦様の(てのひら)の悟空に過ぎないのだが。

一つは、4月11日が、娘の3周忌であること。

 どれほど父親として、教師として、私を内省し、自責したことだろう。もちろん今も、であるが。

 

孤独を言葉に表すのは人間特有のことかもしれない。
私は人間の言葉しか知らないし、それも日本語と言う限定の中でのことであるが。

これまで40年、犬を家族の一員にして来た。

今の“家族”とは寝所が同じ仲で、本人からすると「我が床に居るにしては、(いびき)、態度が解せぬ」と思っている節がある、そんなフレンチブルドッグとシーズーの、今風に言えばミックス犬の彼女である。
これまでの“家族”も、今の“家族”も、孤独を明らかに意識していると思われても、人間のように露わにはせず、天意、自然に身を委ねている
そして私は、人の勝手さでそれを畏敬し、救われて来ている。もっともそこには彼ら彼女らの眼差しが、時に負い目として残っているのだけれども。

孤独について、病と死とに直面していない、それも「高齢界」に入ってまだ3年の私ながら、夜中不図鬼気迫る怖しさのような感覚に襲われることがある。
それは老いを迎えている証しかとも思う一方で、そこには大きな病を抱え、自身に、家族に死を日夜直々に予感している人々への傍若無人の無礼な私がある。

そんな愚昧でエゴの私ではあるが、夜半には、天井に心の断片を映したり、本を読んだり、音楽に聴き入ったり、はたまたDVD洋・邦映画を観たり、自然な眠りの境に入るべく努めている。これも酒の勢いに任せていた若輩時の退廃(デカダン)からの老いへの自然な一つの歩みなのかもしれない・・・。

老いを迎えた文学者(山本健吉)の随筆の冒頭は、こんな言葉で始まる。

――老年の居場所とは、もっと安らかなものだと思っていた。だがこれはどうやら私の見込み違いであったようである。老年とは、その人の生涯における心の錯乱の極北なのである。……――

彼女はそんな私を同床で観ているはずだ。(我が家では、愛情云々といったような難しいことではなく、10有余年前からごくごく自然に夫婦寝室別室、との贅沢な住環境にある。)

私は、老い相応に(かわや)を数度往復し、賢妻から「年寄りにしてはゆっくりねえ」と、老い不相応の驚嘆・揶揄される時刻に、彼女のやっと起きたかとの視線を受け、起きる。
何とも優雅な老いである・・・・・。
にもかかわらず、孤独に打ちのめされ、何の脈略もなく不意に、自暴し、自棄に馳せようとすることもある。妻や長男や亡き長女への言い訳を巡らせながら。

何という放縦(ほうしょう)。襲い掛かる自己嫌悪。

とは言え、そんな私に(あらが)う私もいるから、今ここに、こうしてある。

最近、その孤独を、まだまだ意図的ではあるが、自家薬籠中にしようとしている私に気づくことがある。
孤独の愉悦を直感することが、少なくとも以前の“青い言葉”を越えて増えつつある。

つい先日、本で出会った心激しく揺さぶられた言葉。
だんだん暗くなってゆくけれど、怖くはないからね、安心してまっすぐ歩いて行くんだよ。やがてお花畑にきたら、そこでお休み。みんな一緒になかよく遊ぶんだ  よ・・・・・」
これは、幼い息子を病で亡くした和尚の父が、その息子の臨終の際に掛けた言葉とのこと。
私は、娘が23歳で辞世するその直前、彼女が私に何かを語り掛けたその時、彼女にどう応えただろう!

老いと憂愁は対のように語られることが「輿論」にして「世論」の一般なのかもしれない。

そこに漂う静謐な死への、心地良い響きからの誘い。癒しに向けた「空」の諭し(さと)、心遣い。

長年「人間〈じんかん〉」に生き、過去と現在の無数の人々に、時に生きる力を、時に死への遁走願望を重ねて来た、そんな私たち、老若を越えた自然な情として、誰もその厚意を咎めることはできない。
「苦」の世界から絶対平安「浄土」の世界への、仏の、天の言葉の魅惑

そこには、同情ではない愛情があるようにも思える。途方もない後ろめたさを抱えての。
その時、じんかん〈世間〉の、言葉巧みな「捨て・棄て」を直覚する老人もいる。

愛と福祉に名を借りた一律価値への誘導に見る、老いの多様な個性を認めない?頑な(かたく)さ?偽善?残酷?
高齢化(長寿化)と高度医療技術化と老いの意思に係る課題。現代。

これは、私の知見の狭さなのかもしれない。
或いは、憐憫の情で伝えるマスコミに感化された一面だけを見ていないのかもしれない。

資産の多少とは別に、医療や言葉、生活習慣等での不安を抱えながらも日本に見切りをつけ、心の安寧を求めて海外に移住する老人[年金生活者]も多いと聞く。
国政を担う議員たちが、あまりにも自明な義務・職務を、正義派よろしく厚顔無恥そのままに公然と叫び、公約として文字にし、結局は陽の当たる場所・人には一層陽を与える、そんな現代日本にあって、移住を決意する人々の心情に共感する人は、私を含めて多い。

いずれの地にも桃源郷はないと承知していながらも、「足るを知る」は永遠の絵空事かのような拝金・虚飾に歯止めは効かず、軽佻浮薄に(さいな)まれ日本で老いを過ごすよりは、とのほのかな期待をもって。

憂いの表情と声調で道徳心の退歩を物知り顔で嘆く大人たちの、「悲・哀・愛」の『かなしみ』を忘れた、自己絶対・正義からの人為的作為的愛国心教育、指導の、何という錯誤、醜悪。

子どもたち、若者たちを侮っていることに無神経になっている私たち大人の傲慢、浅はかさ。
彼ら彼女らの感性は、言葉(理知性)を聞くと瞬時に、心の深奥で真理を直覚しているのだから。

私たちは自身の昔をこうも簡単に忘れ去るものなのだろうか。
生きることの寂しさ、その裏返しとしての年を経ることで無自覚に堆積される驕慢、尊大・・・。
老いは、幾重もの生・地層を経たからこそ体感できる、透明で、静かで、時に聴く者に「無」の永遠の活力を知らしめる、そんな言葉を直覚する恍惚を体得しているにもかかわらず。

幕末から明治にかけて来日した西洋人たちの、日本への慈愛溢れる言説を14のテーマに分け、現代を考えようとした書『逝きし世の面影』の著者、渡辺 京二氏は、書中でこんなことを言っている。

―・・・・ダーク・サイドのない文明はない。また、それがあればこそ文明はゆたかなのであろう。だが、私は、幕末、日本の地に存在した文明が、たとえその一側面にすぎぬとしても、このような幸福と安息の相貌を示すものであったことを忘れたくない。なぜなら、それはもはや滅び去った文明なのだから。――

そして、夏目漱石は、死の5年前、明治44年(1911年)、45歳!の時、『現代日本の開化』との表題で、日露戦争勝利後の浮ついた日本に警鐘を鳴らし、
森鴎外は、大正11年(1922年)60歳、辞世の直前、「馬鹿馬鹿しい」と、何がそうなのか分からいそうだが、呟いたという。
また、江戸市井の老若男女をこよなく愛した漫画家にして江戸考証家の杉浦日向子は、9年前の2005年、46歳!で世を去った。

と、かように老いることを実感し始めた私。
いつの世にもある?!老いの繰り言……?

しかし、憂愁があってこその明日への、明日がいつまでかは天意次第だからこその気楽さで(もっともこれがとんでもない難題なのではあるが)、過去の〈じんかん〉から解き放たれた生きる力があっても良いのではないか。
〈じんかん〉経験の蓄積は十二分なのだから、との思いが過る。

過去への自負、こだわりからの老いの意固地を、さらりと葬送しての。
過去を思い出すたびに、無恥と未熟に赤面し、自責する私はことのほか切々とそう思い、願う。

誤解を怖れず言えば、かように自負し、固執するのは概ね“爺”に多く、“婆”は微笑み、寡黙である、と経験上から直感する私の中では、このことも母性と父性につながっている。

老いゆえの過去に呪縛されない気概を持つことでの生きる実感。
老いだからこそ生まれる創造へのときめき。

それは、多様化・複雑化するグローバライゼーションの現代にあって、経済共同体としてだけではなく、或いはその土台の一つとして、東アジアを問い直すことの意義が言われる中、諸事情から停滞している「日韓・アジア教育文化センター」に、昔とは違った光明を与えるのでは、との期待ともつながる。

ただただ仰望するだけの無礼と智者からの嘲笑を思いつつも、例えば次の三人の日本の老いの偉人たち。

古代大和の時代、最晩年6年に、人の営みへの愛と哀しみを歌い74歳で辞世した山上憶良

室町時代、能楽から無窮自然の美意識「老いの花」を唱え、70歳で佐渡流刑後、80歳で辞世した世阿弥

室町時代、87歳の臨終に際し、森女の膝の上で「死にとうない」と言って辞世した一休〈さん〉禅師

そんな私に、深夜また、日中(ひなか)道すがら行き交う人に触発され、「お前はどうするのだ」と不可思議な力で甦って来る、過去に私に力を与えた、今は亡き何人かの面影が通り過ぎて行く。

その中で、次回、「夭折した数学徒」、「高校時代の怪物恩師」の二人の面影を記してみたい。

私の老いの力とするために。