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2022年7月2日

『老子』を読む(七)

井嶋 悠

第26

 重きは軽きの根たり、静かなるは躁(さわ)がしきの君たり。

 軽ければ則ち本を失い、躁がしければ則ち君を失う。

◇「先生」と呼称される職業は多い。教育者、宗教家、医師、弁護士、政治家……。いずれも弁が立つ。弁が立つのも善かれ悪しかれ、と大人同士の時間が限られている学校世界ではとりわけ思う。雄弁家を不得手とする子どもたち(中高生)は多いのではないか。ただ、女子と男子で傾向は違うように思えるので一概には言えないが。10代から視た父性と母性…。或いは思春期前後期と「先生」。

第27

 善く行くものは轍迹(てっせき)なし。

 聖人は、常に善く人を救う、故に人を棄つることなし。…是れを明(明智)に因ると謂う。故に善人は不善人

の師、不善人は善人の資なり。

◇良い学校、優れた教師が、これである。しかし、現実の多く(或いはほとんど)は、言葉[理念]で終始するか、進学実績を競う学校も多い。教師の個人性に委ねられている場合は多々ある。絶対評価との見地に立って、全員をAにする教師がいた。私には、生徒[人]に大小高低長短等区別がないことの前提は得心できるが、その教師の真意は未だに分からないままでいる。

第28

 雄を知りて、雌を守れば、天下の谿となる。天下の谿となれば嬰児に復帰す。

白[光明]を知りて、黒[暗黒]を守れば、天下の法[模範・徳]となる。天下の法となれば無極[茫漠・無限定の世界]に復帰す。

栄を知りて、辱を守れば、天下の谷となる。天下の谷となれば樸に復帰す。素朴

◇公立学校はもとより、私立学校も教師になるには、採用試験を受けなくてはならないのが今日である。(私など例外中の例外である。だから若い人には常に私の轍を踏まぬよう注意して来た。)その試験はなかなか難関でもある。とりわけ公立学校採用試験に合格するのは、希望者の中でも学力優秀者が多い。
先日、教員希望者が減少し、質の低下を招く旨の危機感を表わす報道があった。教育委員会か文科省の役職人の発言なのだろうが、相も変らぬ官僚性で馬鹿馬鹿しいそのままだ。量より質。デモシカ時代は疾うに終わった。
この質、公立での、多様な私立での「良質」は千差万別。例えば「天下り」教師を見れば明白だ。無風、温室育ち(世間知らず)の、時には情報(知識)お化けの若者が、教師になって、多様な学校に赴任し、たまたま水が合えば順風満帆なのだろうが、その率は少ないと思う。
企業や官庁等も含め、学校卒業(終了後)1~2年の“モラトリアム”時間が、必要なのではないか。
度々主張、提案している《体験からの小中高大改革:6・6+2の14年間で20歳終了(中等教育修了)、大学の教養課程廃止、専門学校・大学の徹底した専門化等々》案、良い樸が生まれ、社会は落ち着くと思うのだが。

第29

 天下は神器、為すべからず。……聖人は、甚を去り、奢を去り、泰(泰侈)を去る。

◇どこの学校でも「個性の伸長」を言う。私の偏りなのだろうが、その時、積極性・主体性→アメリカ的個性、のイメージを描いてしまう私がいる。我ながらおかしいと思う。
こんな経験をした。「船頭多くて舟山に登る」。それを自然な巧みさで操るのがベテラン教師。もっとも、学校世界(大学も含め)、主体性への固執が最も強いのは教師世界かもしれない。山に登るどころか解体、雲散霧消し、まとまる話もまとまらない。墨守世界としての学校。これも体験からの話題。
教師で単純明快、理路整然としているのは、予備校と進学塾かもしれない。

第30

 果(勝)ちて矜(ほこ)ることなく、果ちて伐(ほこ)ることなく、果ちて驕ることなく、果ちてやむを得ずとす。

 物は壮(さかん)なれば則ち老ゆ、これを不道と謂う。不道は早く已(や)む。

◇学校の盛衰は教師にかかる。或る学校は進学で誇り、或る学校はスポーツで誇り、或る学校は更生で誇る。誇れる結果を導くのは教師であり、それを支える学校組織である。公立学校にない私学の多様と言っても過言ではない。
しかし、私が最初に勤めた学校[女子校]は、近年進学(全員が付設の大学か、他の大学に進学する。進学校を標榜していないが、進学実績は相当なものである。それは、彼女たちの自我意識と塾・予備校に因るものである。)の結果を意識的に公表しなくなった。学内改革である。その改革は、明治時代の創立理念に戻る、ということであり、結果としての進学であり、社会での彼女たちの働き、存在である。言ってみれば本末転倒を糺し正そうということである。
これをもって、その学校は終わったとの軽薄極まる感想を持つ者は、卒業生を含め内外にあるだろう。
どこか、現代日本の縮図を見るようである。