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2016年12月4日

中国たより(2016年12月)  『孫中山』

井上 邦久

先月の上海リーダーズへの寄稿文の中で『大上海計画』(1927年~37年)の概略について触れました。その一節に「列強の租界地を東南西北の中山路で囲ってその増殖を喰いとめようとした、そして、その囲いの外に自分たちの新都心を造ろうとした。その中核が今の五角場である」という説を記載しました。

第二次上海事変により『大上海計画』は頓挫し建設途上の新都心址は歴史の遺物として長い眠りに就きました。しかし、同時期に建設された外灘沿いの中山東路、それに続く中山南路、かつては中心地区と虹橋農村部を画然と分けた中山西路、そして蘇州河とともに北部を区分した中山北路は、上海市の主要道路として存在し続けました。かつて北京や南京そして西安などは城壁によって城内と城外が隔てられていましたが、1930年前後の上海においては東南西北の中山路が城壁の代わりを目指したと言えなくもありません。
列強の租界を押し込めることは民族の悲願であり、その為の道路に孫文の号の一つである中山の名を付けたことについて長年考えて来ました。

今年は孫文の生誕150周年の区切りの年であり、各地で記念の行事や催事が為されました。横浜の中華街でも10月1日の中華人民共和国の建国(1949年)を祝う国慶節に続く孫文生誕記念行事と、10月10日の中華民国の建国(辛亥革命は1911年。孫文の臨時大総統就任は1912年1月1日)を祝う双十節に続いて、11月12日の誕生日に向けた催しが続きました。

お祭りや記念催事のポスターも北京系・台北系の二種類に分かれ、店によっては両方を並べることもあり、路地に入ると片方のポスターの上に自らが支持するポスターを重ねるなど様々です。老舗の中華料理店として有名な『同發』新館(映画館址)で孫文生誕記念展示がありました。そこで頂戴した『孫中山生平大事年表』(横浜中山郷友会総務部編)によると、1925年3月12日に北京で孫文が逝去した直後の4月16日に、広東省政府は孫文の出生地である香山県を中山県に改名して記念としたとあります。また、1929年に南京紫金山に安置した孫文の墓は中山陵と称されていますから、「大上海計画」の最重要道路を中山路と名付けることにも大きな異論はなかったでしょう。

欧米では「字」である「孫逸仙」Sun Yat-senと呼ぶことが多いようですが、日本では「孫文」の通りがよく、中国圏では「号」の「孫中山」が通じやすかったです。孫文は何度か日本に亡命して、横浜・神戸・福岡など各地を巡っています。東京の日比谷に滞在した折、散歩のときに見かけたご近所の中山忠能貴族院議員の邸宅の表札にあった「中山」を気に入って、用いるようになり、日本での通名も中山樵(なかやま きこり)としたことが通説となっています。

頭山満、犬養毅、宮崎滔天、梅屋庄吉・・・孫文を支援した人たちの名前は数多く伝えられています。辛亥革命に先んじて失敗した恵州起義で戦死した山田良政、兄の遺志を継いで孫文を支えた純三郎、東奥義塾出身の山田兄弟の墓は弘前市貞昌寺にあります。福岡で開かれたカンファレンスでは孫文と有名無名の九州人との御縁についての報告が多くなされました。今回は神戸の孫中山記念館でのイベントには行けませんでしたが、記念館は明石海峡大橋脇の舞子浜に移設復元された八角三層の「移情閣」であり、孫文を支援した華僑の代表格である呉錦堂の別荘址です。
日本各地で孫文を囲んだ支援者の写真が残っています。羽織袴姿も散見される大勢の日本人の宴席にポツンと孫文が座る写真の印象が残ります。また華僑や留学生との写真も多く見ました。いずれも宋慶齢ら僅かの随行者も写っていますが、あくまでも孫文中心のこれらの写真を見て、日本人の支援者と在日華僑・留学生が合同して支援している写真は無いのかな、と素朴に思います。

日本人支援者は孫文個人への思い入れという純粋な動機とともに、藩閥政治に受け入れられない民権派が「見果てぬ夢」の代替行為として孫文の中国革命に肩入れしたのではないかという側面を感じています。自己愛過剰の裏返しの支援、と言えば言い過ぎでしょうが、同時期に一方では孫文を支援しながら、一方では対華21ヶ条要求をするといった歴史を更に深読みしなければならないと思います。孫文像も「READING・REVOLUTION・LOVE」を生活の基本にする人、といった単純な総括を慎み、一筋縄で括れない革命家としての側面と、中国圏に共通する「国父」としての位置づけを複合的に考えていきたいと思います。その意味で、九州大学での学会や九州経団連中心のカンファレンスで、広州・香港・ベトナム・シンガポール・カナダなどの参加者から有意義な啓発を受けたものの、北京や台北からの代表とは巡り会えず、現職から「総統」に格上げして任期延長を図る動きなどの話を聴けなかったのが残念でした。

日本と中国そして世界を頻繁に往還した孫文が、横浜市山下町121番地の支援者である恩炳臣の家に住んでいたこと、1899年の大火で焼け出された大月生糸商店の一家が同じ屋根の下に住み込んだこと、孫文が女学生だった大月薫を見染めたこと、海外活動中に娘を授かり、大月家はその名を文子(後に富美子と改名)と名付けた・・・神奈川県警の報告書などの資料を基にしたと思われる西木正明『孫文の女』(文春文庫)という小説にはこのように描かれています。
現在の山下町121番地に何ら記念碑らしきものはありません。通りを歩く人の多くは孫文との縁を意識することなく往来し、同様に中国や台湾の中山路を歩く人たちは日本との縁を意識することなく往来していると思います。
中華街には早くも春節を祝う紅いランタン(籠灯)が揺れています。