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2020年3月29日

東アジア  その1 範囲と心持ち

井嶋 悠

アジアに自身の根拠を置く人々[企業関係者、実業家、研究者、教育関係者等]の任意の或る研究会で、何年か前、『日韓・アジア教育文化センター』の活動の成果を話す機会を得たことがある。当日、使用機材の不具合も手伝って不本意なものとなり、参加者の一人から「どうしてアジアではないのか」と強い調子で問われ、私は間髪入れず「東アジアです」と応え、一層場を気まずくしたことが、今も心にこびりついている。
そして、あらためて東アジアとはどこを言うのか、「東」という方角以外に、中でも心の部分で今も共有し得ることはあるのか、が気にかかり始めている。

岡倉 天心(1863~1913)は、英文書『東洋の理想』(1903年・ロンドンにて刊行)の冒頭で、以下のように朗々と言う。(夏野 広・森 才子訳)

――アジアは一つである。
ヒマラヤ山脈は、二つの偉大な文明―孔子の共産主義をもつ中国文明と『ヴェーダ』の個人主義をもつインド文明を、ただきわだたせるためにのみ、分かっている。しかし、雪をいただくこの障壁さえも、究極と普遍をもとめるあの愛のひろがりを一瞬といえどもさえぎることはできない。この愛こそは、アジアのすべての民族の共通の思想的遺産であり、彼らに世界のすべての大宗教をうみだすことを可能にさせ、また彼らを、地中海やバルト海の沿岸諸民族―特殊的なものに執着し、人生の目的ではなく手段をさがしもとめることを好む民族―から区別しているものである。――

最後の2行は不勉強ゆえ実感的に理解できないが、日本の芸術を論ずることを目的としたこの書を思えば、それまでの表現に共振する私がいる。
そしてそれを端緒にして、例えば「東アジア人」なる表現が、現代に不相応な区別性は措いて、可能なのか思うのである。もちろんそう思うこと自体ナンセンスと一蹴されることも含めて。
ただ、この思いは机上の空想といったことではなく、『日韓・アジア教育文化センター』での交流活動を続ける過程で常に脳裏にあったこととして、である。すなわち、センターの構成員である、日本・韓国・中国(ここで言う中国とは、本土漢民族及び香港人である)・台湾の人々である。

そもそも東アジアを構成している国・地域はどこなのか。
ここにA4判の世界地図帳がある。その一項に見開き2ページで「東アジア」が提示されている。国、地域によっては一部分ではあるが、掲示されている諸国を東から挙げてみる。

・日本・大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・中華人民共和国・台湾・フィリピン北部・ロシア連邦東部・モンゴル・ベトナム・ラオス・タイ北部・ミャンマー・バングラデッシュ・ブータン・ネパール・インド北東部・カザフスタン

私は呆然と立ち尽くし、これは東アジアではないと思う。そこで東アジアを表題にする書にあってはどうとらえているのか、手元の二書で確認してみる。

一書は、『東アジア』[「現代用語の基礎知識」特別編集・自由国民社刊・1997年]。その中の第1章「東アジアとは」で、小島 朋之氏は、次のように記している。

――東アジア地域は民族、宗教、言語、歴史、文化、経済発展、政治体制など、いずれの面においても多様であり、「アジアは一つ」など簡単にはいえない。――として、

――本書では「東アジア」を、日本に隣接する朝鮮半島、中国大陸と台湾および香港、その周辺地域としてのモンゴルに絞ってみたい。――

もう一書は、『世界のなかの東アジア』[慶應義塾大学東アジア研究所・国分 良成編・2006年]。

その中の最初の章「東アジアとは何か」で、国分 良成氏は、日本を基点に、慶應大学の特性でもある経済視点から次のように記している。

――ASEAN[東南アジア諸国連合]+日中韓が主流となりつつあり(中略)ASEANは東南アジアで日中韓は北東アジアで、共通の集合部分は東アジアである。

――ヨーロッパの場合はキリスト教がベースにあるということは間違いない。そうした意味でアジアは何をベースにするのだろうか。…東アジア共同体の構想作業は始まったばかりで、これからさまざまな障害にぶつかりながら紆余曲折を経験することになるでしょう。――

『日韓・アジア教育文化センター』活動のキーワードは【日本語】であり、それと表裏を為す【日本文化】で、共通言語は日本語である。それは、東アジアで日本語を学んでいる人、教えている人を介して、日本を映し出し、日本を検証したいとの思いであるが、同時に東アジア諸国諸地域にとって日本が他山の石となることへの期待でもある。

例えば、海外帰国子女教育に携わった経験から言えば、この問題はとりわけ1960年代以降、日本の経済発展に伴って生じて来た教育課題であり、それへの対応、試行錯誤は東アジア諸国の教育施策に有用なものとなるであろうし、より一層日本の課題として戻ってくるはずだとの思いである。事実このことは、以前海外帰国子女教育の日本のプロジェクトで、韓国の文科省[教育部]の人と同席する機会があった。とは言え、この相互性での日本の一方性の批判を想像するが、これまでに培われた絆に甘え先に進む。

日本の東は太平洋である。その昔、日本が終着であった。西から、南から、或いは北から、様々な人々(民族)が、それぞれの文化を携えて渡来し、或る者は離れ、或る者は定着した。そして統一国家大和を形成し、少数民族は制圧され、大和民族が成立した。
21世紀の今、千数百年の間に沁み込んだ心に何度思い到ることだろう。私はそこに東アジアを見たいのである。

中国・朝鮮半島の長い通路を経て到達し、再開花し、更に発展し、時に日本の固有化した、仏教、思想、美術、文学等々の文化の宝庫を見る。正倉院には、確かにギリシャからシルクロードを経て渡来した美術品が蔵されているが、その前に私の中では東アジアがある。

先日、「アジアン・インパクト」との主題の美術展を訪ね、その印象は既に投稿したが、その展覧会でも「アジアン」は中国、朝鮮半島であり、それに衝撃(インパクト)を受けた日本人芸術家の展示であった。
やはり私の東アジアは、先の小島氏以上に絞って、中国・朝鮮半島・台湾そして日本であり、広くアジアを思い描く際にも、先ずその核となっている。

そのような東アジアの日本に生を享けた幸いを思う。
他国他地域について、その地の歴史も環境も十全に知らずして軽々に発言することは厳に慎まなくてはならないが、東アジアの国々地域は、それぞれ或る転換期にあるように思えるが、どうなのだろう。

東京オリンピックが延期されるほどに、コロナウイルスが全世界で猛威を振るい、亡くなった人の数は尋常ではない。私には驕り高ぶっている人類への「天罰」、といった宗教的視点はないが、無責任との誹りをここでも承知しながら、何か考えさせられることは否めない。

東アジアも然りである。

黄河文明をかえりみ、現在の中華文明を厳しく諫め、世界の現在を見ようとする中国のドキュメンタリー映画『河殤(かしょう)』(1988年上映・「殤」:とむらう者のない霊魂の意)の書籍版を読んだ。[現在、映像そものを観られる機会は、同じく中国の亡命者へのインタビューで構成されるドキュメンタリー映画『亡命―遥かなり天安門―』(2010年)同様、ないとのこと]。そこでは厳しい内省の姿が描かれている。

香港人との表現が象徴するように香港問題は多くの香港人を、外国人を覚醒化し、先日の台湾での総統選挙も複雑な台湾の現在の様相が顕在化した。
韓国は南北問題で見通しが立っていないように思え、北朝鮮は唯我独尊が如く猛進している。
そして日本の大国指向は、小国主義志向を善しとする私には、到底考え及ばないような展開が随所でなされ、落胆と絶望、不安が襲っている。
やはり東アジアの基層にある心[精神]を静かに問い直す時ではないか、と『日韓・アジア教育文化センター』の事績を振り返り思う。

コロナ・ウイルス問題も、世界各国が胸襟を開き、叡智を集め、一国主義に陥ることなく原因を解明し、他者への敬意と謙虚さをもって共有して欲しいと願う。

私自身はアジアの心を考える東に息する一人として、もう少し研鑽を積めればと思っている。