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2022年3月19日

『老子』を読む(四)

井嶋 悠

途方もない迫力で心に迫って来ます。人生に一冊で老子を挙げる人が少ないことが得心できます。私もそうなりたいです。
今回は11章から15章です。

第11

 有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり。 
←埴(つち)をうちて以って器を為る。その無に当たって、器の用なり。
「無用の用」(『荘子』)

◇学校は、他の組織社会同様、その学校創設目的に合った教職員が構成し、そこに共振する生徒・保護者が集まる。そこに有用無用はない。しかし、現実はそれぞれの有用な人のみに視線が向く。これは「個を活かす」との教育の根本から乖離している。しかし、私たちにそれほどの余裕(ゆとり)があるだろうか。もし、この余裕が学校に満ちれば、教職員を含めた不登校(登校拒否)は確実に減るのではないか。

第12

 五色(青・黄・赤・黒・白)は、人の目をして盲ならしむ。五音は人の耳をして聾ならしむ。

 聖人は、腹を為して目(感覚)を為さず。故に彼れを去(す)てて此れを取る。

◇学校にはそれぞれの創設理念がある。公立校も然りである。しかし、少子化、学校間競争の過剰や公益性を無視し、なりふりかまわぬほどの生き残りを、或いは統合と称する一方の消滅を図る。私学で、一時期?生き残りのため、何が何でも進学実績を、男女共学化を目指すことが露わになった。その内、何校が現在正常な学校の態を為しているだろうか。
人間の平等、個の尊厳を言うならば、学校格差を無くす根源的解決をなぜ考えないのか不思議でならないのか、かねて来思っていたが、現実のヒト社会に、いかにそれが夢物語であるかを思い知らされて来た。今も、である。

第13

 寵辱(ちょうじょく)(寵愛と屈辱)には驚くが若し。大患(たいかん)を貴ぶこと身の若くなればなり。が身我が命あっての世事と治世。

 吾に大患有る所以の者は、吾に身有るが為なり。吾に身無きに及びては、吾に何の患い有らん。

◇当然のことながら教師も多種多様である。“デモ・シカ”教師もあれば、“サラリーマン”教師もいる。後者の表現があること自体、教師は聖職者との意識の表われかもしれない。
「子ども(生徒)のためには死んでも構わない」旨言った、校長がいた。言われた私は「どうぞ、頑張ってください」と応じ、ますます嫌われた。
私は、その校長の言葉に酔う性と権威性を苦手としていたので、皮肉でそう応えたのであって、校長がいかに生真面目であるかの証しにもなったのかもしれない。
その校長、その後、いろいろな学校を渡り歩く人生を送るのだが、その根幹は常に同じだった。その根幹、私など辛くて到底耐えられない。そのような類のヒトは他にもいたが、決して多くはなかった。
と言いながら、あの「サッカー部」顧問時代は、一体何だったんだろうと回顧することがある。

第14

 「夷(視れども見えず」「希(聴けども聞こえず)」「微(とらうるも得ず)」。この三つのものは詰を致すべからず。故(もと)より混じて一と為る。その上は明らかならず、その下は昧(くら)からず。⇔『無状の状・無物の象・惚恍。』

これを迎うるともその首(こうべ)を見ず、これに随うともその後(しりえ)を見ず。

古えの道を執りて、以って今の有を御すれば、能く古始(始源)を知る。

◇他人に個人的なことを質問されるのは、非常な緊張を強いられる。自身の中に明快な答えが即座に出せるほどに持っていればいいのだが、
私の場合、なかなかそうも行かない。その一つが「先生は、どうして国語の先生になったのですか。」ここには二つの苦難があって、一つはなぜ先生に?であり、もう一つはなぜ国語なのか、である。要は非常に不謹慎な教師なのだ。
それがあってか、大人同士の会話で「先生」と呼ばれることが、今もって円滑に私の中に入って来ない。

国語は曖昧な教科と言えばそうである。あの文法でさえ、また漢字でさえそうで、正解が幾つかある。いわんや、読解問題でも微妙なことは常である。作文となれば尚更である。それが明解な正解を求める生徒にはイラつかせる。評価の客観性と主観性に関して、国語科評価は微にして妙で、だから甚だ後付ながら私は国語を選んだとも言える。
その面白さを生徒が味わうことで、国語はすべての教科の基層的滋養になれるのでは、と我田引水している。それは、現代(表現・作品)を現代人としてだけで視るのではなく、古代人の眼を意識する広さを以って。
ところで、入学試験での、考える力を測る論述形式問題導入。今更何を、の主題ながら、各教育現場の評価する側の教師は、この一連の動き、報道をどうとらえているのだろうか。

第15

 古えの善く道を為す者は、微妙玄通、深くして識るべからず。

 此の道を保つ者は、盈(み)つるを欲せず。⇔「持してこれを盈たすは、その已むるに如かず」

微妙玄通。予として、猶として「猶予」(ためらう)。柔弱不争。

◇微妙玄通の哲人には、温厚篤実なイメージが色濃くある。教師も然りである。私自身、それぞれの職場でそのような人物と何人か出会った。私自身、気が短く、深謀遠慮に乏しいことを、その時々に自覚するだけであった人間だったので、なおさらそのような人物を尊崇した。そして、その人物たちは等しく己が宗教を持っていた。それは、仏教であり、キリスト教であった。宗教の巨(おお)きさを身をもって実感しつつも、私はその宗教の門の前でうろうろするだけであった。今、無宗教徒であり、であった自身を顧み、宗教にどこか惹かれつつも、このまま生涯を終える私なのだろう、とそこはかとなく思っている。
その中の何人かは既に天上に昇られているが、何人かの方とは今も交流が続いている。