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2022年3月4日

多余的話  (2022年2月) 『津軽から茨木へ』(『父親と長男』改題)

井上 邦久

 2020年末から2021年初頭以来、集英社新書『人新世の「資本論」』は読者を増やしているようだ。1987年生まれの著者、斎藤幸平氏を画像で見る機会も増えてきた。
冒頭から、SDGsは「大衆のアヘン」である!と書き始める。そして・・・かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。
SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である、と続く。SDGsについての議論は別にして、何故SDGsに「アヘン」が比喩的に用いられるのか愚考してみた。そして、その流れでアヘンの深みにはまりそうで、始末に負えない予感がしている。

アヘン(阿片・鴉片)はケシから採取した汁を乾燥させ製造する。モルヒネ、コデイン、テバインなどのアルカロイドを含む。医学用途として鎮痛効果や一時的な昂揚感・多幸感を感じられるとされるが、習慣性・中毒性に陥ると心身の滅亡に到る。

『アヘンからよむアジア史』内田知行・権寧俊〈編〉(勉誠出版・2021)に「乱用薬物」を取り締まるための法律として以下の整理がなされている(一部省略)。

・アヘン関係:生阿片取締規則(1870)⇒旧阿片法(1897)⇒あへん法(1954)⇒現在・モルヒネ・コカイン・向精神薬関係:モルヒネ・コカインおよび其の塩類の取締に関する件(1920)⇒麻薬取締規則(1946)⇒麻薬および向精神薬取締法(1990)⇒現在
・大麻関係:大麻取締規則(1947)⇒大麻取締法(1948)⇒同法改正(1953)⇒現在
・覚せい剤取締法(1951)⇒現在   

 室町時代に南蛮貿易によって渡来したケシ・罌粟(アヘン・阿片)が何故か津軽にもたらされ(宣教師が治療用などで帯同したか?)、津軽はケシ栽培・アヘン精製・販売の拠点となった。津軽藩の奨励策により特産「一粒金丹」としてブランド化された。

ここからは陸羯南研究会で知り合った松田修一氏(東奥日報前特別論説委員・津軽在住)から頂戴した参考URLとご教示を抜粋する。

https://tsugaru-fudoki.jp/digtalfudoki/ichiryukin/

(森鴎外の)『渋江抽斎』は冒頭に「津軽地方の秘方一粒金丹というものを製造して売ることを許されていたので、若干の利益はあった」と書いていますが、月に百両の収入は若干ではありませんね。
一粒金丹は藩統制品でしたが、藩士は入手可能であり、他藩への土産品として持っていくことも許されたため、瞬く間に全国ブランドになりました。江戸市中にも(たしか)2軒の専売所開設が許されました。うち1軒が渋江家だと思います。
抽斎が医師として名をなしたのも、一粒金丹が万能の妙薬として人気がすこぶる高かったからでしょう。【中略】それで、ちょっとだけ調べてみたところ、名古屋大学の紀要『ことばの科学』(11号:1998年)に、次の論文が掲載されていることが分かりました。
「成田真紀 津軽医事文化資料と池田家文庫の撞着 ―渋江道直の一粒丹方并能書をめぐって―」。青森県内の図書館は所蔵していないようなので、国会図書館からの入手が可能か否か、聞いてみようと思います。まずは、同書を引用しているネット情報を見つけたので関係部分を要約します。
1837年(天保8年)ころ、大坂道修町の薬屋の奉公人が、取引先回りの際、津軽でケシ栽培やアヘン製造法を伝習し、種子を持ち帰り、摂津の国三島郡でけし栽培を始めた。・・・
だそうです。茨木ですね!!

松田さんのお蔭で、津軽⇒大坂道修町⇔摂津国三島郡=茨木がつながった。
『新修 茨木市史 資料集7 新聞にみる茨木の近代 三島地域朝日新聞記事集成』には以下のように纏められている。(1887.9.8)

・阿片製造の濫觴:天保八年島上郡西面村の植田五十八が同村玉川近傍字北の小路にて白色単弁の罌粟を栽培、之を以て阿片を製錬したるを創始とす。五十八の弟四郎兵衛は道修町の薬舗近江屋安五郎方に雇われ,商用ありて北陸奥羽の地方に到りしが津軽に於て阿片を製造するを一見し罌粟の栽培及び阿片に製錬する方法を習い、兄五十八に伝ふ・・・

・島下郡福井村の彦坂利平の弟治平が道修町の薬舗榎並屋三郎兵衛の養子となり阿片の買い入れの為、年々陸奥の津軽地方に赴しが、製造法の伝習を受け、種を兄の利平に授けて阿片製造の業を慫慂せり、天保十二年同村字秋浦にて罌粟栽培、同村田中庄三郎・南浦孫七等に伝えついで中河原・安威その外の諸村に伝わり遂に今日の如く西面村(高槻藩領:現高槻市)、福井村(一橋家領:現茨木市)ともによく似た経路で、津軽から大坂道修町(現大阪市中央区)の薬種商が種子・技術を移入し、摂津で下請け栽培をさせ、「一粒金丹」の津軽藩独占を崩そうと試みた構図が見えてくる。

若干後発であった福井村は「最良の阿片を製出するは島下の福井村にて同村の品は尤も多量のモルヒネを含めりとのことなり(同1884.11.21)」とある通り、明治時代の半ばには評価を上げている

『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』 倉橋正直(共栄書房 2002)には府県別生産1921年度(大正十年度阿片成績『艸楽新聞』1922年7月1日から転記)として下表があり

     ケシ栽培人員             阿片納付人員

大阪  3,492(人)  5,146(反)      大阪市 1(人)岡山   899      540         三島郡 4,013
和歌山  748      714         豊能郡  202
京都   285      224         北河内郡  21
兵庫   190      186         中河内郡  4
奈良    29       17         南河内郡  4

 この統計によれば大阪のシェアが圧倒的であり、その中で三島郡(福井村・安威村)が群を抜いている。

また、第一回大阪府実業功労者として個人表彰の新聞記事がある。 
                     (1922年2月11日)            
 中山太一 (中山太陽堂=クラブ化粧品) 化学品製造輸出伸張
 木谷伊助                朝鮮貿易伸張
 芦森武兵衛 (精工舎)         綿編及び紡絃の創
 辻本豊三郎 (福助足袋)        足袋の改良と公益助
 二反長音蔵               罌粟栽培普及(年産額
                          千五百貫
                     賠償金額参拾万円)

この二反長音蔵(にたんちょう おとぞう。旧姓川端音二郎が二反長家のレンと結婚)が大阪府三島郡福井村を拠点に、ケシの栽培・採取方法・モルヒネ含量向上の技術改良に努力し、栽培面積の拡大に尽力した成果が上記の地域別シェア記録や公的な顕彰に繋がっている。一方で、アヘン生産と戦争とは密接な関係がある。軍縮平和の時代は需要が低調になるが、軍拡戦争の時代はアヘン生産が連動して増加している。

1914 第一次世界大戦 軍需用モルヒネの需要増⇒原料アヘンの払底1915~1919 内地・朝鮮でケシ栽培の拡大 (二反長音蔵の出張指導 計5回)
1918 第一次世界大戦終結 軍需用モルヒネの需要減⇒原料アヘンの滞貨⇒ケシ減産
1931 満洲事変 増産体制へ転換。日中戦争/1937、第二次世界大戦/1941 増産強化1945 GHQより禁止令
1954 ケシ栽培の復活(戦前の10%の戸数。1960)⇒厚生省政策変更。限定栽培
ケシ栽培に連動するアヘンからモルヒネ精製の変遷を簡単にメモすると、
1915 星 一創業の星製薬が国産化成功(台湾アヘンの精製・台湾総督府との提携)
1917 内務省の指示で、大日本製薬、三共、ラヂウム商会に技術の公開認可
朝鮮で半官半民の大正製薬(国策会社であり、現大正製薬とは別)を設立
大正製薬の招請で、二反長音蔵が開城京畿道方面で指導調査。
1918 第一次大戦終結⇒モルヒネ輸入再開・相場下落⇒朝鮮でモルヒネを一般販売
1928 増産体制        
1933 大増産体制              
『新修茨木市史 資料集7 新聞にみる茨木の近代 三島地域朝日新聞記事集成』からの関係記事を取り上げると、安東(現遼寧省丹東市)、長白地区、張家口、旧熱河省などへの二反長音蔵の足跡を戦争末期まで追うことができる。

・阿片王国といはれる大阪府三島郡の阿片栽培者ハ毎年増加するばかりで、近来裏作といへば昔なじみの麦、菜種をすてて阿片を作るようになった。・・・裏作は全部阿片に・・・
 茨木署部内調査(17町村):1,456名、226.4町歩、631貫、
              137,529円

豊川、三島村、福井村、春日が多いが、福井村の生産性が突出    (1928.4.20)
・内務省「阿片栽培制限令」撤廃決定。栽培免許相続人の栽培も従前通り(1929.8。8)
・二反長音蔵、安東区阿片綜批發処の招請、東辺道長白府方面で指導視察。(1934.8.23)
・福井村で数十年ぶりに阿片密売者根絶。神戸方面の不正ブローカーの潜入などで、純朴な農村から夥しい違反者が摘発され昨年の如きは88件検挙  (1936.10.1)
・「罌粟増産協議会」が9月5日茨木中学校で各町村長、農会長、厚生省、府農務課参集。
・二反長音蔵、蒙古政府の懇望で、罌粟栽培と阿片製造のため令息の半君と29日出発。
原始的な大陸の罌粟の画期的増収のため種子、採汁法の改良により戦時下重要な阿片増産にご奉仕する。(1943.6.27)   
※茨木ゴルフ場(農地化)開墾着手(1943.8.14)

 二反長音蔵の長男の二反長半(にたんおさ はん、と改名)の遺作となった、『戦争と日本阿片史 阿片王 二反長音蔵の生涯』(すばる書房)には、「1943年、二反長音蔵(当時70歳)に蒙古連合自治政府から主席徳王の名で招聘状が届いた」とあり、「これが最後の御奉公や。蒙古にうんと白い花を咲かせてやったるで」と書かれている。村の裏作収益を上げて、「一日一善運動」を行いながら、国内外で水はけの良い南向きの傾斜地を探し当てては熱心に栽培指導を行った二反長音蔵は「大陸で被害を受ける者」への影響をどこまで意識していたであろうか。

伝記の著者の二反長半は。旧制茨木中学の先輩である川端康成や大宅壮一に憧れ、戦前から児童文学の創作や伝記小説、歴史小説を執筆。最晩年に父親の伝記を脱稿した直後に倒れ、出版を見ずに急逝している。
ポプラ社や小学館の「こども伝記小説シリーズ」で、作者を意識せずに、二反長半の作品を読んでいる児童が多いかも知れない。
モルヒネなどアルカロイド系薬品の国産化開発に尽力して、星製薬をトップ企業にした星一社長の栄光と没落を、長男の星新一は、小説『人民は弱し 官吏は強し』にしている。
そのなかに「無理に考えたあげく、やっと被害を受ける者のあることに気がついた。阿片吸飲者たちだ。煙膏に含まれているモルヒネの量はかわらなくても、味がいくらか落ちることになるかもしれない。それと、インドの阿片業者だ。しかし、これくらいの犠牲は仕方のないことだろう。(新潮文庫版)」という一節を忍ばせている。

星一は後藤新平の台湾阿片漸減政策と表裏一体となって事業を伸ばしたが、後藤新平の後を襲って政界や官界の主導権を握った加藤高明以下の官吏・政治家に追い落とされた。
星一には商品開発、利益追求そして自社存続をかけた裁判には注力しても、阿片吸飲者への影響は意識のなかになかっただろうか。
ケシ・アヘンの世界に生きた二人の父と、多くの屈折を体験して文学に活路を見いだした二人の息子の自らの父親についての文章は重い。

歴史・社会研究分野からは、『日中アヘン戦争』(江口圭一・岩波新書)が初学の出発点となり、上記に引用した倉橋正直氏の福井村のフィールドワークや『アヘンからよむアジア史』内田知行・権寧俊〈編〉の視点の広さに多くを学んだことを附記し感謝したい。