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2022年8月17日

『老子』を読む(九)

井嶋 悠

第36

 ……将にこれを奪わんと欲すれば、必ずしばらくこれを与えよ。是れを微(び)名(めい)(微妙に隠された明智)と謂う。柔弱は剛強に勝つ

◇生徒には必ずと言っていいほどに“点取り虫”がいる。結果がすべての合理的発想とも取れなくはないが、中には、「誰々に勝った」と誇る者もいる。しかしこのような人物は概ね嫌われ者である。ただ、世間では優秀者として見られ、本人は頓着しない?
試験など無くし、語学以外は大学のようにレポート形式にすれば良いと言う人もあるが、はたしてどうだろうか。
これを実践し、評価できる教師は、はたしてどれぐらいいるだろうか。私にはそんな器量はなく、せいぜいで、授業復習試験と論述試験の相乗りだったが、それとて採点と受講生徒人数で、生徒から採点苦情が出ないよう、四苦八苦していた。

第37

 道は常に無為にして、而も為さざるは無し。……無名の樸《道》は、夫れ亦将に無欲ならんとす。欲あらずして以て静ならば、天下将に自ら定まらんとす。

◇今もって事細かな校則を作り、それを生徒指導の名目で教師を“指導”する学校は少なからずある。流行は時代と共に変化するから対応も一苦労だろう。もっとも、流行は繰り返すとも言うが。実際、校則を作り、それを遵守させる方が、教師は楽とも思える面は無きにしも有らずだが、幸か不幸か?私は自由校に勤務した。その中で、例えば服装、女子校で最も効果的なのは、生徒自身がいうに生徒同士の批評だそうだ。
或る「学力」の低い生徒が集まっている学校(女子校)の教師が言うのには、それを実施したらとんでもないことになる、と言っていた。
この言葉、生徒の、自己尊重―学力(或いは学習評価)の悪循環を表わしているように思え、私の幸いを思ったことがあった。

【下篇】徳経

第38

 上徳は徳とせず。[徳=得。生来及び以後の中で身に着けた能力:道教の無為にみる実践性、儒教に見る道義性]是を以って徳あり。下徳は下徳は徳を失わざらんとす。是を以って徳なし。上徳は無為にして、而して以て為すとするなし。上仁はこれを為して、而して以て為すとするなし。
……道を失いて而して後に徳あり。徳を失いて而して後に後に仁あり、仁を失いて而して後に義あり、義を失いて而して後に礼あり。……前識(さかしらの智恵)なる者は、道の華[あだ花]にして、而して愚の始めなり。

◇社会が不安定になり、諸事にほころびが生じ始めるとしきりに標語やスローガンが街路や壁に登場する。だからそれを見ると、今何が問題かが分かる。
学校も同様である。ただ、そこには2種類ある。一つは、学校応募者の減少や質的マイナス変容での危機感が、出始めると何かと外に向けて広報を出す。無為無言で「待つ」心の余裕がなくなるのだろう。
もう一つは、学内生徒間等で諸問題が出ると、教室や廊下にそれに係る掲示が増える。その時、生徒会(自治会)が積極的な役割を果たすが、内容によっては教師たちとの協働性による成果となり、学内は良い雰囲気になる。ただ、自由指向の現代社会にあっての「義」《人としての正義》「礼」《人としての礼儀》は、「徳」や「仁」との精神性とは違って難しい問題である。
儒教、仏教、キリスト教…に基づく学校は多いが、道教に基づく学校と言うのはあるのだろうか。『道家道学院』という、教室的な学校は、全国に何か所かあるようだが。やはり、道教は「教」と言っても宗教のそれではない?

第39

 夫れ貴(たっと)きは賤しきを以って本と為し、高きは下(ひく)き以って基(もとい)と為す。是を以って侯王は自ら孤(孤児)・寡(独り者:寡徳。寡人。)・不穀(ろくでなし・不善)と謂う。此れ賤しきを以って本と為すに非ずや、非ざるか。故に数々の誉れを致せば、誉なし。琭琭(ろくろく)(立派な)として玉の如く、珞珞(らくらく)として石の如きを欲せず。…………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これを致すは一(いつ)[道]なり。

◇謙称としての「弊校」、敬称としての「貴校」。第2章の「美の美たるを知るも、これ悪(醜)のみ、善の善たるを知るも、これ不善のみ。」との、老子の考えからすれば、この謙称も敬称も「一」に帰さなくてはならない。日本人の感覚としてどうなのだろうか。私個人は、内容では老子で、形式では日本語表現なのだが。

第40

 大器は晩成し、大音(たいおん)は希声(きせい)、大象(たいしょう)は形無しと。道は隠れて名なし。夫れ唯だ道は、善(よ)く貸し且つ善く成す。←未完[形ができあがればそれで用途は限られる。永遠の積極性、無尽性。

◇卒業はそこで終わるのではない。一休みして再び歩み始める、その新たな起点である。人生には限りがあるが、道は永遠である。「明道は昧(くら)きが若(ごと)く、進道は退くが若く、夷道(平坦な道)は類(るい)なる(起伏)が若し。」
そのおぼろげな道をおぼろげにでも自覚させ、伝える場としての学校。学校は所謂学校がすべてではない。到る処に様々な学校がある。しかし、一人では手に負えないから、仮の場所として学校は在ると考えれば、随分と気が楽になるのではないか。後は、教師の、大人の、国の問題である。