2022年10月1日
『老子』を読む(十)
井嶋 悠
第41章
反(かえ)る者は道の動なり。弱き者は道の用なり。天下の万物は有より生じ、有は無より生ず。
◇学校では、休憩の時空が必要だ。階段を昇り、踊り場で休み、四方を展望し己れを見つめ、来た道を顧みる。直線階段は集中トレーニングの一時的なもの、螺旋階段の持つ意味が問われる。しかし、多くの学校は、学び、学び、学びの直線指向で、長期休暇もあれもこれもの学習。学校嫌いが増えて然るべきだろう。そして、教師も疲れている。学校の教師と塾の教師は別の人で、生徒は常に同一人物と言う恐るべき現実、事実。ハンドルに“遊び”がないと事故になる。昔の人は余裕があった。曰く「よく学べ、よく遊べ」
第42章
万物は陰を負いて陽を抱き、沖(ちゅう)気(き)(和気)以って和を為す。
強梁者は其の死を得ず。
陰陽:天地 「陰」:
「陰」女・静・柔・内・月・夜
「陽」:男・動・剛・外・太陽・昼
◇「学校」をイメージするとき、「陰」が色濃く映る。「教師」をイメージするとき、「陽」が色濃く映る。
{これは個人的なものなのだろうか。
母のように優しく静かに内に抱き込む学校。それに気づかせられる夜。走り抜ける動的で剛毅朴訥な姿。小学生は言う。「ちょっとでも学校へ行きたい。」中学生は言う「学校?」高校生は言う「ん!?」…?
学校は、教師は「母性」の世界だと思う。だから、男性教員の存在意義があり、学校は、男女参画協働社会の雛型だと思う。男子校であれ、女子校であれ。やはり学校は社会の素であると重ねて思う。教師の役割の大きさに気づかされる。
第43章
不言の教え、無為の益は、天下これに及ぶこと希なり。
◇学校教育の最終理想像として、「不言の教え、無為の益」は可能か。この矛盾の自己の内での葛藤、克服こそ学校教育の道標と言えるように思える。雄弁の極としての沈黙の力、活動の極としての不動の存在感。
そういう教師に出会ったことはほとんどない。
第44章
足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆(あや)うからず。以って長久なるべし。[知足の計・止足の計]名誉より己が身。国家より自己、外より内。
◇学校は集団を求め、塾は個人を求める。学校における個と集団はいつも難しい問題として現われる。その点、塾は明快に個人である。教えることでの合理性は塾にあるが、教育の本質としての人格の陶冶を思うとき、教育の本源を求める教師は、生徒が直感的に嗅ぎ分け、使い分けている。しかし、現役時代果たしてそれだけの心の幅が、あったかどうか、甚だ心もとない。個と教育から視た学校、塾、自己の確立があっての社会、脚下照顧があっての国際との考えで、逆ではない。
ただ、どこをもって「足る」のか。難しい。いろいろな場面で「足る」を言うことでの過度の問題。
第45章
大成は欠くるが若(ごと)く、その用は弊(すた)れず。・・・・・大巧は拙きが若く、大弁は訥なるが若し。躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ。静清[清澄]は天下の正なり。
◇教育は、日々刻々動の世界ではあるが、静の世界だと思う。それは儒教も同じではと思う。最悪の教師は、己が自身で「大成」「大巧」「大弁」を意識する人である。生徒の感性はそれを見事に見抜く。心一杯ではなく、どこかに隙間を持っている時の方が、授業は円滑にいく。「教室で斃れてこそ本望」と胸張る人は多いが、果たしてどうなのだろうか。
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