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2014年8月9日

私が「学校」「教育」を“語る”ことの大切さと虚しさと疾(やま)しさと その1 60にして読書の快を知る私と私の言葉と娘の死と

井嶋 悠

私は文学に興味はあるが、作品を精読乱読するより作家その人に関心が向き、言葉の断片からその作家の人と生を想像する愉快さに遊ぶ人間で、読書量はたかがしれていて(これは質の高さを言いたいのではない)、ただ10年前に退いた仕事柄(元中高校国語科教師)から、そこそこに読書をしたかとは思う。
私が描く“読書家”には程遠く、それどころか読書への劣等感、負い目を持ち、それが高じて或る時期には、身辺に書を置くことで安寧を図る一人でさえあった。

私が得心する読書家には、研究者といった人は措いて、これまでに直接に二人(男)出会った。
いずれも家が、或いは部屋が「傾くほどの」蔵書があり、書そのものを恋人のように扱い、“積ん読”ではなくほぼ読了し、内容をさらりと言った。
どこにも衒(てら)いのいやらしさがなく、私はただただ尊敬した。

一人は、大学生時代での出会い。 教育実習で行った大阪市内の公立中学校(ここは下町の中学校で、貧しい家庭も多く何かと厳しい問題を抱えている子どもたちも多かったのだが、お気楽な私のこと、生徒たちとの実に愉快な思い出がつまった貴重な3週間だった)の国語教諭でクラス担任の、市役所に勤め同人誌を主宰する謹厳実直温厚が人となった夫君で、今は故人である。
因みに、それが縁で、酒を飲ましてもらえるとの言葉に魅かれ、同人の集まりの末席を正に汚していた。

もう一人は、大学院時代での出会い。 日本史専攻で、非常に高い意識を持ち、全共闘運動にも深く関わり、当時から定時制高校教員であった苦労人で、今も交流がある人物。
彼は一時期、全日制高校に異動したが、これは学校ではない、と定時制に戻り、先年定年を迎えた。

生来の我がままから、最後の勤務校での校長等との、前職校同様、軋轢とタテ社会に辟易し、はたまた遅れ馳せながら人間(じんかん)に生きる至難苦難を体感実感し、かてて加えてそれと併行して娘の心身葛藤が始まり、で、できた“江戸っ子”カミさんの理解も得られ、59歳で退職し、その前後から、自照自省強くなり、意図的読書の快(このような言い方自体読書家でないことを証明しているのだが)をふと直覚し、7年前、縁あって栃木県の豊饒な自然の地に、自立した長男を除き移住し、2年前に娘の死の痛撃を受け、今ある。

そんな折、日本文学史上に名を刻む作家であり文芸評論家の次の言葉に出会った。

「無や死の上に立つ生命の認識は、本人が死を意識した時にのみ現われるものではない。本人の肉親、近親、愛人の死によりて、本人が突然生きることへの意味を根本から考え直すような時にも、それが起こる。」

「現世否定によって安心感を得る傾向の強い日本人は、遁世的生活によって自然の美を新しく見出すと同時に、死の意識によって、人と物との生命を把握することが、伝統的に巧みである。」

仏教語としての「因縁」を思わずにはおれない。

そして、一年前の[日韓・アジア教育文化センター]ホームページ改訂を機に、その[ブログ]に、私を私の中で証したく、併せて娘への鎮魂、供養そして贖い(あがない)の意思を大切に、拙悪な、しかし私の生からまた33年間の中高校教師体験から実感する、私にとっての活きた言葉を意識して積み重ねている。

表現での、私と娘の23年間の生涯での共通眼目は、昭和史と日本と現代いったこともあるが、中高校学校教育で、視座は二人の負の体験と、私の自省、時に自責からの、学校の三つの核、教師・生徒・保護者の主に教師に向かっていて、学校世界は国社会の、地域社会の、また家庭の縮図との、但しそれら社会に責任を転嫁することではないそれで、そこからの国の、地域の、家庭の礎に重きを占める学校であるとの考え方である。
それもあって、あれこれ題材を求め書き始めるが、行き着くところ日本の現在への文句が多いことは、共感者があるとは言え、自覚している。
尚、私は日本人として、日本の批判はするが、他国・地域の批判はよほどのことがないかぎりしない、と数年前から心に決めている。

以前投稿したように、高校時代の恩師が教師への端緒を作ってくださり、身を置いたからには七転び八起き33年間の教師生活を築いては来たが、為るべくしてなった教師でなかったからなのか、反面教師と鼓舞すれど後ろめたさ止み難く、更には今夏の熱中下、15年ほど前の鬱病による休職経験が甦ったのか、自照自省し「学校」「教師」について言葉にすることが、臥薪嘗胆的義憤、私憤の持続も時に断続的となり、それがために言葉が、一層理屈的自覚症状を引き起こし、透明な感性(あるとしてだが)は消え失せ、娘の顔もおぼろがかる不謹慎で、そんな自身に、やはり私が教育を“語る”ことに無理があるのかとの虚しさが襲い掛かることが、多くなっている。

表題を含め、語る、に“ ”をしたのは、個人的に「語る」との語の響きが苦手だからで、敬意を表している某有名教育学者からいつぞや「是非、今度語り合いましょう」と言われた時は、背筋に凍るものが走ったほどで、「落語家」と言うより「噺家」に情が動く。

そんな人間だから、娘の死に際し、旧知の敬意を持つ50代の女性弁護士に「お嬢さんは、学校に期待されていたんですか?!」との言葉は、一瞬にして私の核心を衝かれた思いで激しく狼狽(うろた)え、この衝撃もほぼ一年前に投稿した。
その時の投稿と重なるが、その女性とは以下のような人物である。
大学文学部を卒業後、就職、結婚そして出産を経て、或る日、弁護士を志し、予備校(専門学校)に2年通い、司法試験に合格。昔から語学に興味があり、英語・フランス語・韓国語[履修順]に高度資格を有するほどに堪能で、また人権を課題とした事例にも取り組んでいる。

それでも、次回、私が教育を、学校を考える契機となった、生徒との、教師との幾つかの出会いも顧みながら、とにかく体験からの私の内観の大切さを信じ、投稿したく思っている。 そこには、私の対学校発言、対教師発言の最後にしたいとの思いがどこかしらあるかな、と思いつつ。