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2019年2月8日

イギリスとアメリカと、そして日本 (二)

井嶋 悠

今回、教師になって以降出会った英語圏教師や保護者、帰国子女等から刻まれた幾つかの印象を基に、イギリスとアメリカについて思い巡らせ、私的に、現在と次代の日本の在りように思い到ってみたい。
英語圏と言っても、イギリスとアメリカ、更にはオーストラリアやカナダ等では、語法や発音、使用者の背景に在る意識も違うようだが、中高校での半世紀以上前の“典型的”公立学校英語しか経験がない私なので、大雑把に英語と表現する。
それに関する映画鑑賞経験を一つ。
アメリカの劇作家ニール・サイモン(1927~2018)の『おかしな二人』の映画化(1968年公開、ウオルター・マッソー、ジャック・レモン主演)を観た時、二人がイギリス人女性二人と会話する場面で、両者の英語の違いが、痛烈な皮肉を込めて際立って表わされていた、ように思う。ここにはアメリカから見たイギリスがあるのだろう。

また、イギリス・アメリカと言っても、どの地域を主眼に思い描いているのかでも変わるかとも思う。
イギリスの場合、連邦の四つの地域でイングランド及びスコットランドからのイギリスが、アメリカの場合、東部的要素も加えた西部地域のアメリカの印象が、幾つかの作品、幾人かのとの出会いから私には強いように思える。
ただ、極私的には、或る本に書いてあったアメリカ中部にあって、一年中ビーチサンダルで過ごす若者の話や、仕事で訪ねた或る日本人から聞いたこととして、太平洋戦争を全く知らず過ごしていた老人の話などに、広大なアメリカを感じ、いささか憧れたりもする。

尚、私が直接に訪ねた都市は、校務出張[帰国子女対象の学校説明会、日本人学校訪問、日本の塾への挨拶及び海外入試実施]での、それぞれ多くて2,3日の限られた滞在ではあるが、以下である。(都市によっては複数回訪問)

《イギリス》 ロンドン・カーディフ
《アメリカ》 ニューヨーク・デトロイト・ロスアンジェルス・サンフランシスコ・ヒューストン

それでも、空港で、ホテルで、駅で、街で、どことはなしに違いを感じたりはするが、所詮皮相的一面的である。やはり子どもであれ、大人であれ、生活を持ち得た人からの印象には確かさがある。

今回、結論を先に記し、それへの過程を幾つかの私的体験例から検証してみたい。
結論は、心底にあると想像される、イギリスの「静」の文化とアメリカの「動」の文化の確認が、戦後これほどまでにアメリカ化(ナイズ)している現代日本に必要なことであり、そのことが日本を顧みる重要な契機になる、という視点である。
例えば、諺「転がる石に苔むさず」は、英語で[A rolling stone gathers no moss]であるが、英米では解釈が正反対で、イギリスは日本と同様で、そもそもアメリカには苔への美意識はないとのこと。しかし、今日本でアメリカ的解釈が増えているのではないか。[転職のすすめ]情報が示す情況とは?或いは[あくなき挑戦][上昇志向]のイギリス的意味とアメリカ的意味そして日本的意味は同じなのかどうか。

「静」と「動」の意味内容を、事の善し悪しとは関係なく、簡単に確認しておきたい。
【静と聞いて連想される幾つかの、インターネット情報も参考に、浮かんだ言葉群】

しとやか・もの静か・穏和・穏やか・不動・静謐・無言(無口)・アポロン的・女性化

【動と聞いて連想される幾つかの、インターネット情報も参考に、浮かんだ言葉群】

快活な・挑戦的な・精力的・強気・攻撃的な・ディオニュソス的・男性化・饒舌・可変

一応、各々9語にしたが、「動」の方は非常に多くある。いかに動が、生にとって、否、現代にとって?優先されているかということなのだろう…。

私にとって最後の職場(日本私学校とインターナショナルスクール[略称:IS]の協働校)の10年間で出会った、後者側の学校で英・米人の各3人(女性1人、男性2人)の教師・保護者。
6人とも魅力あふれる人格を持つ人たちで、私自身交流が深かった人たちである。
彼ら彼女らを、上記語群と重ねると不思議なほどに、見事合致している。イギリスの静・アメリカの動。
上記にない言葉を付け加えれば、イギリス人のはにかみ(シャイ)。

アメリカ人の非常に興味深かった例を一つ挙げる。中堅男性教員の例である。
彼は同僚から典型的アメリカ人と親しみをもって言われ、国際バカロレア[略称:IBという欧米の教育制度の一つで、ここ10年程、日本でも注目されている]の、勤務校での責任者もしていた人物だった。
インター校教師の多くが世界を移動し、最後に祖国に戻るように、彼も在職数年してアジアの他のIS(その国で最も大きなIS)に異動し、日本に戻って来た時のことである。曰く、
「アメリカ人の世界は疲れる。会議でも、僕が、私が、と自己の考え、実績を主張、誇示する。それに引き替え、日本は静かでいい。」と。
彼は、日本人女性と家庭を持つことを夢みていたが、どうなっただろう?

私が在職中、ISでは校長も数年もすれば異動して行くが、或る期の校長は女性アメリカ人で、先の言葉群とは違って非常に温厚、穏和な方だった。そして夫のアメリカ人教師は、実に挑戦的で饒舌だった。日本在職期間中に離婚し、彼女はアメリカに戻り、彼はヨーロッパのISに異動した。

一方で、イギリス人女性教師は「初めて日本に来たが、日本はアメリカのようににぎやかだ」と驚いていた。

ここで、ロンドンで直接見た同じ日本人として憤りすら覚える或る男性のことを。
その人物は教育関係者で、一つの領域では名を知られ、私自身も知っている、イギリスを讃美している人物(男性)である。
逗留先のホテルのフロントでの一幕。ニューヨークヤンキースの帽子をかぶり、ひどくくだけた、時には優越的な様子でフロントスタッフと会話をしていた。パスポートで日本人であることを承知していたはずのスタッフはどう思っただろう?

かつてイギリスは、七つの海、全世界を支配する大英帝国と言われ、正に動の国として君臨していたが、今では過去の言葉であり、今日「連合王国」として、その王たるエリザベス2世は、国内はもちろん、世界中から敬愛され、かの故ダイアナ妃の死を悼んだ人は世界中に広がっている。
賛否いろいろな考えがあろうかと思うし、私自身浅学故誤解を招く言い方になるとは思うが、同じ植民地支配でも、被支配者への対応で、日本と英国では違いがあった旨、聞いたことがある。
大雑把なとらえ方だが、この発言が仮に当たらずとも遠からずならば、状況は違うとはいえ、香港の知人が言った「これでは、イギリス統治時代の方が良かった」との言葉に真実味を感ずる。尚、その知人は自身を中国人とは言わず、明らかに敢えて香港人と言っていた50歳前後の人物である。
ここには、動より静のイギリスに想いを馳せる私がいる。

このことは私の好きな音楽ともつながり、重なって来る。
例えば、ポピュラー音楽としても頻(しき)りに歌われる『アメージング・グレース』[Amazing Graceすばらしき恩寵の意]。この曲は、作曲者は不明だそうだが、作詞者は、18世紀後半のイギリス人で、初めは奴隷貿易に携わっていたが、後改心し、牧師となったジョン・ニュートンで、今日では代表的讃美歌となっている。
もう一つの例、クラッシック音楽。私はヘンデルの幾つかの曲をこよなく愛で続けていて、その大半はアダージオやラールゴの部分である。そのヘンデルはドイツ人で、同じドイツ人のバッハ共々イギリス宮廷に招かれ活躍し、後にイギリスに帰化したとのこと。

60年以上も前の小学校時代の音楽室に掲示してあった何人かの作曲家の肖像画。バッハは音楽の父とあり、ヘンデルは音楽の母とあった。
父性と母性の原理的なことで言えば、やはりアメリカは前者で、象徴的人物を挙げればジョン・ウエイン、一方イギリスは後者でエリザベス女王、と言えばあまりに偏り過ぎか・・・。
これは、クラッシクを本業とするオーケストラが、ポピュラー音楽を演奏する場合、編曲方法や演奏形態にあって、イギリスのロイアル・フィルハーモニーとアメリカのボストン交響楽団の[ボストン・ポップス]とでは、やはり前者の静、後者の動を感ずる。

高校で学ぶ「小論文」。
書き方として、序論―本論―結論、或いは漢詩からの応用、起承転結といった大枠を話した後、結論を先に述べその結論を立証する[演繹法]と、序はあくまでも序(前書き)で、そこから立証を進めて行く[帰納法]について、それぞれの一長一短を含め説明するのだが、読む側聞く側からすれば、前者にはディオニュソス的挑戦性を思い、後者にはアポロン的穏和性が漂う。
或るアメリカ現地校からの帰国高校生(女子)の言葉。「教室では決死的覚悟で発言し(英語力と言った問題ではなく)、自身の存在を教師、他の生徒に示していたが、日本に帰って来てどれほどほっとしたことか。」
その日本で、今優位的に教授されるのは演繹法ではないだろうか。自己PR[自己推薦]。プレゼンテーション等々において。
先の“典型的アメリカ人”と言われていた男性教師は、これをどう受け止めるのだろうか。

今年、ラグビーのワールドカップが日本で開催される。4年前、名将エディ・ジョーンズ氏(母は日系アメリカ人)コーチに率いられた統制のとれた素晴らしき野武士軍団日本が、強豪南アフリカに逆転勝ちしたこともあって、にわかファンも含め、楽しみにしている人が多い。
そのラグビー・フットボール。発祥の地はイギリス。それも[パブリックスクール]の名門校の一つラグビー校と言われている。
格闘技的要素の強いスポーツで、円錐形のボールを後ろへ後ろへと展開しながら、キックを交え15人全員が攻撃と防御を繰り広げ、芝生の上を疾走する。試合が終われば、選手たちは互いに讃え合い、ノーサイドとなる。
将来イギリス社会を担う若者たち[gentleman/lady(gentlewoman)]を養成することを目的とした、上流階級や裕福な家庭の子弟子女への規律厳しい中等教育学校パブリックスクール。
いかにも貴族たちが考え出しそうな競技と思えないか。

一方、アメリカでは、アメリカン・フットボール。 1試合で出場できる46人の防具で身を固めた選手が、基本的には攻撃と防御の役割分担の中でひたすら前へ前へと激しくぶつかり合いながら展開する。因みに日本語では鎧球(がいきゅう)(鎧(よろい))。
両方とも、同様に激しい動の競技ではあるのだが、ラグビーの方にどこか静的な要素、自然性を想い、アメリカンの方にいかにもアメリカ的動、現代的人為性を想うのは、やはりこれまたあまりに牽強付会か…。そうとも思えないが。

こうして限られた中ではあるが、イギリスとアメリカを私的体験から見て来た。
では、現代の日本はどうなのだろうか。
今、社会に、個人にダイナミズムを直覚している人は少数派だと断定的にさえ思える。停滞観、閉塞観、麻痺観・・・。それらに苛(さいな)まれ、苛立っている人々。老若を問わず。極度の清潔志向と退廃の混在。
日々見聞きすることがないほどに使われ、様々な問題原因をそこに収斂させるかのような言葉「ストレス」とその対応語「癒し」。それがためにこれらの語を敢えて意識的に使わない人も増えている。
身体と精神を厳しく鍛え、確かな成果を見出した或る競技選手が、今したいことは?とのインタビューに、しみじみと応えていた。
「静かな場所で独り過ごしたい」と。共感同意する人は多いのではないか。

井嶋家の菩提寺は曹洞宗である。その祖道元は「只管打座」を言った。ただただひたすら座禅し、心を一つに無念無想を目指せよ、と。
平成がもう直ぐ終わる。現天皇は日本の曲がり角を、その直覚から身をもって示されたようにも思える。
英語英語英語・・・国際国際国際・・・も結構だが、このままでは教育において、福祉において、男女協働において等々、いつまでも後進国のままで、徒労感と空虚感が溜まるだけではないのか。

日本が疲弊重篤、疲労骨折する前に、英語と国際の主人公、イギリスとアメリカを見つめ直すことは、日本を映し出す鏡となり、次代につながるように思うのだが、どうだろうか。
更に加えれば、そこからオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、はたまたアフリカの独立国等々の英語圏の行き[生き]様(よう)も視えて来るかもしれない。
複数のもの・ことから調和と創造を図って行く伝統は日本の美点【和】ではないか。高世代だけの感想かもしれないが、今日本を覆っている軽佻浮薄に休止符を打つ時機と思えてしかたがない。

老子は言っている。
「足ることを知れば辱(はずかし)めあらず、止(とど)まることを知れば危うからず。以って長久なる可(べ)し。」と。