ブログ

2019年9月12日

芸術の快に思うことつれづれ

井嶋 悠

先日、とんでもなく魅力的な女性に出会った。作品と写真の上で。 1980年生まれの女流銅版画家入江 明日香さんの個展に行った。
とんでもないと言うのは、精緻極まる技法で彫られ、描かれ、重いプレス機で印刷されている諸作品を鑑賞しての感想。フランス研修で一層磨かれた、淡く鮮やかな多色彩、幻想的な構図、そこに漂う徹底した女性の感性。
「一版多色画」という独自の技法も編み出し、今も毎年フランスに赴き修練しているという。 私は美を直覚し、それを引き出す技術にただただ感じ入った。それは以前投稿したダリが発する男性性とは違った、私が思う女性性で、感動の質は違っていた。

過酷なまでの重労働であるという制作の最中の写真も展示されていて、右手に無造作に貼られた大判の湿布薬に眼が止まった。その姿が、もの静かで、自然な表情の彼女に、なぜか強く相応して感じられた。
主に若い世代で、こともなげに「アーティスト」と言うのをよく目に、耳にするが、聞く度に、老人の固陋(ころう)な感性と分かりつつも。非常な違和感が起きる。シャラクセエと思うのである。ひどいのになると、ポピュラー音楽歌手がアーティストと自称している。ポピュラー音楽を否定しているわけではない。私たち世代に大きな影響を与えた一人、ボブ・ディランは、先年ノーベル文学賞を受け、イギリスのピンク・フロイドという特異で魅惑的なグループもあったのだから。その自称する感性が信じられないのである。 時代に取り残された老いの愚痴なのかもしれないが、私が不真面目で、自称する人が真面目過ぎるのか?
ただ、入江さんは自身をそう呼称しないだろう。と頑なに己が直感を信じている。

その芸術、技術とは表裏の関係にあって、そもそも芸術との英語ARTには、元来「困難な課題をたくみに解決しうる、特殊の熟練した技術」(『美學事典』弘文堂)との意味を併せ持っているとのこと。そして、ギリシャ時代の哲学者アリストテレスは、「必要のための技術」と「気晴らしや快楽のための技術」に分け、後者を芸術と考えたとのこと。(上記同書)また時代が下って、18世紀ドイツのやはり哲学者・カントは「効用的技術」「機械的技術」「直観的技術」と分け、更に「直観的技術」を「快適な技術」と「美なる技術」と分けたそうだ。(上記同書)
なるほどと思うが、そもそも美とは一体何ぞやとなれば、私など巨大迷路に入り込み、「直観がすべてを判ずる」と放言し、早々に引き揚げる。しかし、哲学なるものはおもしろいと思う。世には好きなことで身を立てている人が少なからずあるが、生きるからにはそうありたいものだ。

この直観については、元中高校国語科教師の立場で言えば、文学もそうだと思う。 太宰治26歳の時の、稀有な第1創作集『晩年』の各篇は芸術だと直観できるが、芥川賞作家の中でさえ、私にとって全く直観作用が起こらない人もある。
もう一人例を挙げると、自由律俳人尾崎 放(ほう)哉(さい)の、1925年ごろの代表作の一つ「咳をしてもひとり」。彼の人生遍歴に係る知識の有無とは関係なく、やはり芸術としての直観が働く。

ところがこの個人性は、映画となると、どうしようもなく不明快度が増す。映画の持つ娯楽性と芸術性。 黒澤 明監督の『七人の侍』は芸術作品として扱われるが、その西部劇版のジョン・スタージェス監督『荒野の七人』は、そのような扱いを受けることはない。
いずれも監督、脚本家の意図(主題)があり、それに従ってカメラ、照明、美術、音楽、衣装、編集等々様々な技術が結集され、フィルム(とりわけ映像フィルムだからこそ映し出せる光と影の対照、微妙な色調)としてスクリーンに映写される。そこに差違はない。しかし娯楽と芸術に分けられ、或る人は前者を軽んずる。
ジョン・フォード監督の『駅馬車』は、どうなのだろう?
因みに、『七人の侍』と『駅馬車』は白黒(モノクローム)で、『荒野の七人』はカラーである。

【余話】 1953年の制作で、ヴェネツィア国際映画祭で「銀獅子賞」を受けた(その年、金獅子賞はなし)溝口 健二監督の『雨月物語』のことを思い出した。白黒の光と影の美しい重厚な作品である。内容は、江戸時代の短編集『雨月物語』の中の2編を基にしている。 この作品が、イタリア[ヨーロッパ]で高く[確かな芸術として]評価された理由は、日本文化或いは東洋文化への関心と、映像美だったのだろうか。 私自身、率直に言って次に記す『かくも長き不在』ほどの突き刺さりはなく観終えた。
更に余話を加えれば『七人の侍』。後篇の戦闘場面について驚愕、讃辞が言われるが、個人的には前篇に漂う緊張感の方に、より見入られた一人である。

たくさんの映画を観て来て、時間とカネを無駄にしたと思わせる作品は多くある。一方で、強い感動と思考を与えられた作品も多い。どこに私の線引きはあるのだろうか。自身でも分かって分からない。 初めて芸術的感動を意識した映画は、20代前半に観た、フランスのアンリ・コルピ監督の『かくも長き不在』だった。
J・L・ゴダールの諸映画には、前衛の映画である、との頭で背伸びする自身がいて内容より音響/音楽に興味が向いた。
また小学校時代、父親によく連れられて観たディズニーのアニメーション映画は、今も心に焼き付いているが、いずれに属されるのだろう。

とどのつまり、そこにプロとしての技術が裏付けされている限り、観たときの年齢や家庭、学校等環境、社会や人間との葛藤の深浅等々が複雑に絡み合い、それぞれの場面で己が心への突き刺さり、そのことで生ずる浄化(カタルシス)の有無としか言いようがないのではないか。直観(インスピレーション)の心地良さ。清澄な刺激 美は永遠のテーマであり、だから或る人を芸術から宗教に向かわせ、芸術の宗教性に思い到るのだろう。
孔子も「礼楽」との表現で、心と音楽をすべての基に置くが、それとも通ずることではないのだろうか。

こんなエピソードを思い出した。20年ほど前の、同僚のアメリカ人男性教師との会話。 当時話題になっていた、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』の、ⅠかⅡ、どちらが、面白いかというやり取りで、私はⅠで、彼はⅡであった。
この会話、ただこれだけなのだが、それぞれの「おもしろい」の取り方に興味が湧き、いささか大げさな表現ながら、そこに日米文化相違があるのかしらん、とまで思うようになり、再度映画を観たというエピソードである。
三つのことに気づかされた。一つは芸術と娯楽。一つは近代伝統の違い、一つは個人性。 芸術と娯楽。
「おもしろい」の人それぞれの取り方 映画の娯楽性は、(娯楽性の定義は措くとして)他の諸芸術に比して群を抜いていると思う。その線引きについては先に記したが、私の中で『キル・ビル』は徹底した娯楽性との先入観があり、観ることは「私の娯楽性」の確認でもあった。
そしてⅠは、そのリズミカルな展開[編集]、難解な主題(テーマ)もなく、幾場面か酷いシーンが映し出されはするが、ひたすら荒唐無稽そのままに観る者の眼と心を跳ね回り、監督の楽しげな貌が想像されたのである。
ところが、Ⅱはうってかわって、荒唐無稽にして酷い場面はあることはあるが、どこか監督の眉間の皺が浮かんだのである。母と娘の「愛」(最後に具体的に表わされるのだが)に係る思考的感動を意識しているように思えた、残念ながらそれは私の琴線に触れなかった。だから、私には何とも中途半端な、時に退屈ささえ襲う作品であったのである。

このことは、二つ目の近代伝統の違いにも、私の中でつながっている。 映画は演劇ではない。当たり前である。舞台上でのセリフとフィルム上でのセリフは違うのではないか。欧米(特にアメリカ?)は、言葉を弄して自己を主張する。Ⅱでは、主要人物のかなり長ゼリフがあり、それも多くはカメラがその人物を正面から映し出すのである。
Ⅰの歯切れの良い娯楽性に魅き込まれた 私としては、舞台の映画版を観ているような、だからなおのこと違和感が生じ、退屈なのである。
これらは、娯楽性の高い映画を観るにしても文化的背景の違いはあるのではないか、との思いに到ったが、しかし一歩離れて思えば、彼は非常にまじめなアメリカ人で、私はお気楽な日本人とも言えるようにも思えた。
因みに、彼の夫人は落ち着いた雰囲気の日本人である。 誤解を怖れずに敢えて言えば、Ⅰ・Ⅱを作品の是非とは関係なく、私の中でⅠは抒情詩、Ⅱは叙事詩との印象が残っている。

話しを最初に戻す。 入江明日香さんの作品は、海外でも芸術としての評価が高いと言う。 直感的にその理由は想像できるのだが、何が、どこが、海外の人を、芸樹として魅了するのか、いつか機会を見つけて確認したいと思っている。それは改めて私が日本を知ることにつながることを期待して。