ブログ

2014年2月27日

言葉・ことば・言葉・ことば・・・・・・ [その1]  ―ソチオリンピックとテレビと言葉の美しさ・酷さ(むご)と―

井嶋 悠

ロシアのソチで開催されていた「第22回冬季オリンピック」が、終わった。
私もその一人だが、周辺で「これで、少なくともテレビの喧騒が一つなくなる。」と、安堵している人は少なからずある。
ここで言う喧騒とは、テレビの中継等での視聴者、選手を無視した言葉の乱痴気騒ぎ、騒音公害のことで、それが今回の私の「整理」の一つへの入口である。

安堵している人については、自身の生、生活のリズムを、諦めであれ、意志であれ、成り行きであれ、大切にしている60歳以上の高齢者に多い。
その日本は高齢化にして少子化社会にある。

高齢化の一員であり、政治にも、経済(ビジネス)にも直接与ることのなかった人生の私は思う。
どうして今になって、やれ増税だ、やれ福祉、復興削減だと言うのか。
不思議でならない。
しかも、自然災害国日本の2011・3・11以来、それを口実にしきりに言いだしたように思える。

日ごろ優秀さを喧伝する政治家や官僚や学識者は、21世紀を前に何を言い、何をしたというのだろうか。
これは、身勝手な素人或いは無知の甘えなのだろう。
しかし、と思う。

そしてソチ冬季オリンピックであり、東京オリンピック誘致であり、不祥事からの前代未聞の就任1年にして辞任での東京都知事選挙である。

どんな世界でも一流人は違う。
心身人為の刻苦が創りだす自然体の透明な迫真の力。有為自然の極的姿。
オリンピック選手も然り。ましてやメダル等上位となれば、超一流であり、神の領域に近いとも言える。
だからこそ、私たち観る者の心を揺さぶり、我が身を振り返らせる時間となる。
かつてギリシャ人が、そこに崇高を見出したように。

しかし、一方にある政治性、商業性の喧騒、狂騒。猥雑な人間世界の現実。
そこにまみれ、流されている私たちの日々とそれがための苛立ちに、ついつい彼ら彼女らを時に偶像化してしまっていることも事実である。
文明?社会の縮図?  象徴?

彼ら彼女らに重圧(プレッシャー)こそ勝利への、メダルへの道」かのような、同情ほど愛情より遠いものはないとの意味での、同情の言葉群。その残酷に麻痺している多くの私たち。
その残酷を国民の総意と牽強付会するかのようなマスコミ、芸能人、芸能人を目指す?一部の元選手やメダリストたち、それに便乗する政治家たち、そしてそれを支える企業、受信料支払い者の私たち。

そんな中にあって、今回、私の心に強く焼き付いている二人の日本人がいる。
その理由は、競技終了後の二人の言葉への感動である。

一人は、浅田 真央さん、一人は、葛西 紀明さん。

浅田 真央さん。

妖精ティンカーベルの雰囲気そのままに世界の、中でもここ数年、不可解な困惑を漂わしている東アジア日韓中の妖精であることを示した彼女。もちろん本人の意図とか意志と全く関係なく。
フリー終了直後に見せた天を仰いでの涙。
そしてインタビューでの、ショートプログラムでのことはなかったように爽やかに、驕りの対極にある人々への感謝の優しさ溢れる言葉。
それが自然な心の発露であることが伝わる表情、眼差し。

その彼女に共感、共有し、同様に涙した日韓中の人々。引退する好敵手韓国のキム ヨナさんの彼女への感謝と励まし。
天は、彼女にその使命を、彼女に気づかれることなく植え付け、世に、日本に遣わしたのだろう。
と言っても、人為が関わることのない天性の自然ゆえ、今後も彼女に何の変化もないと思う。だから言える。

自己絶対を猛進する首相や取り巻く政治家、学識者、マスコミが、彼女を悪利用しないことを祈るばかりだ。日韓中、そういった人たちに眉をひそめる人が多いことも知る人は知っていて、杞憂とは思うが。


葛西 紀明さん。

西洋社会では、彼のような経歴、実績を持ち、40歳を越えてメダルを獲得する人物には敬意をもって「legend(レジェンド)伝説、伝説的な人物」と言うそうで、日本のマスコミは例によって早速「レジェンド、レジェンド」の大騒ぎである。

その葛西さん。団体戦の日本最終ジャンパーとして果敢に、しかも冷静に飛び、銅メダル獲得に貢献した、その直後のインタビューで。
「若い彼らが頑張ってくれたおかげ」と、個人戦後にはなかったこみ上げるものを抑えきれず言った、その優しさ溢れる“おじさん”の言葉。人柄。文(言葉)は人なり。言葉の美しさ。
葛西さんの着地後、駆け寄って来たその若い人たちの姿が、そこに到るすべてを表わしている、
言葉無用の一瞬。

 

敬愛の形容語が正に相応しいスポーツ選手たち(いつの頃からかアスリートと呼ぶが、やはり昨今音楽家をアーティストと自他共に呼ぶことと同様、滑稽さ漂う不可解を思うのは、これまた老世代の愚痴なのだろうか、は措くとして)が躍動する、スポーツのテレビ中継番組。

そこで繰り広げられる、男女アナウンサー(或いは、知的さの見栄えをよくしたいのか、今はキャスター?)の、はたまた芸能人(タレント)の、更には何らかの元全日本代表やメダリストであることを錦の御旗にして、素人でも言えることを得々と言う一部の解説者たちによる騒音公害。“たぬき”も唖然呆然のメダル獲得予想に見る井の中讃辞。他国への無礼。ひいきの引き倒し。
視聴者への、選手への、無神経。無視。言葉の暴力。

とりわけ民放局。NHKも大同小異である。強制受信料制ゆえ、一層質が悪いとも言える。ただ、民放にはない落着き、安定感のことについては後で触れる。

多くの視聴者は、選手の心身鍛錬の成果を、熱く、静かに、見つめたい思いにもかかわらず、間断なく垂れ流される、画像説明や選手や監督、コーチの私的人情噺等々による自己陶酔の興奮、喚き(わめ)

しかも、何局もが、何人もの上記人物やスタッフを派遣し、我が局独占とか称して競い放送する。
その経費の出所は、スポンサー企業であり、受信料ではないのか。そのツケは、結局国民に、消費者に回って来るのではないのか。行政等の無駄遣いを指弾する姿勢とは、どう整合するのだろう?

これは、ことオリンピックに限らない。
国内のさまざまなスポーツ中継でも同じである。或るスポーツ愛好者は、音声を切って観るという。
もっとも、その人はNHKの中継では切らない。理由は簡単。静かだからである。解説者も要を得ていることが多い。
このことは、多くの人が認めていることだろう。スマートなのだ。
もっとも、大相撲中継では、国技意識からなのか、妙に倫理観の強いアナウンサーが、視聴者を意識して解説者(元力士)を我が田に引き込もうとする尊大さに出会うことはあるが。

学校教育に相通ずるところがある。(これについては、以前このブログに書いた。)先生はアナウンサーで、解説者で、生徒は視聴者。

私はNHK信奉者ではないし、この技術高等社会にあって、なぜ、今も視聴番組、時間だけの受信料にしないのか、不思議に思っている一人である。
それに、数十年前、受信料契約に際し、当時70歳くらいの、太平洋戦争兵役経験者から「非国民」との恫喝を受けた者としては、複雑なものがある。
この時代様相は、言葉への畏敬の現代版なのだろうか、それとも単に言葉の軽侮なのだろうか。

ヨーロッパ留学の経験があり、首都圏の大学で教鞭をとる1946年生まれ(私は1945年生まれ)の哲学者(男性)が、『うるさい日本の私』なる書を、1996年に著している。言葉の氾濫と轟音に苛まれ、反骨露わに抵抗している自身をルポルタージュ的に書いた書である。
ただ、その対策法については、やはり西洋文化経験者がそうさせるのか、私の毛穴に円滑に入っては来ないのだが、氏の神経逆撫での日々には大いに同意する私である。

1968年(昭和43年) 川端 康成は、ノーベル賞受賞(66歳)講演で『美しい日本の私』と題して、言葉と日本文化と個我の追及について、禅と文学、芸術から語り、6年後の1972年、72歳で自殺した。

1994年(平成6年) 大江 健三郎氏は、ノーベル賞受賞(59歳)講演で『あいまいな日本の私』と題して、森での対話や息子光の小鳥との会話と音楽について、また自身の社会への眼差しについて、川端康成の存在を認めた上で語り、憲法9条擁護、反核などを基軸に国内外に社会的言葉を発信している。

2014年。
二人が、自己の生から世界に向けて発した言葉を入口に、今改めて日本観、言葉観を考えるに良い機会、時機ではないか、と川端の個我追求の姿勢に憧憬が強くなりつつあるも、同時に大江氏の社会的姿勢にも共感する、そんな私は思ったりする。

そもそも人間はどれほど進歩したのか、それ以前に私にとっての進歩とは?もままならないのだが、と思う一人としてはなおさらである。