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2014年2月23日

「体罰・学校・問題行動―学校世界の暴力事例から学校を再考する―」 序

[寄稿者のご紹介] (井嶋 悠)

二宮先生は、昨年(2013年)11月22日公開で、『東アジア・心の交流に向けて ―

「徳感良民(りょうみん とくに感ず」―)と題して、寄稿くださり、その際、私との

出会いを記しましたので、重複を避け、一言、お伝えします。

先生は、その貴重な教師体験から、2年前、私の娘の死に到るその経緯に、実感の言葉を伝え

てくださった一人です。静かに、淡々と、寡黙に。

親であり、教師であった私にとって、どんなにか生きて行く励みになったことでしょう。

今回から、表題のテーマで、或る定期性をもって寄稿くださいます。

二宮 聡

(YMCA学院高等学校・教諭(前八洲学園高等学校・校長)

昨年末の新聞報道などで、「体罰処分訓告を受けた教員は計2253人」という数字が公表された。異常である。
体罰は法治国家の我が国では禁じられている。それにも関わらず、「訓告」である。しかも、少なくとも2253人もの教員である者が、である。
昨年のこのころには、大阪の高校で部活動における顧問教師による体罰が原因で、部員である生徒が自殺し、その教師は逮捕された。

私は体罰をはじめ、学校・教育現場における暴力はすべて排除しなければならないと思っている。
生徒や児童による対教師への暴力も含めてである。
体罰を含めた教師の対生徒・児童への暴力は、抵抗できないものへの暴力であり、人権の完全否定であると位置づけなければならない。
体罰での報道のたびに必ずと言っていいほど出てくる、「体罰擁護論」がある。その中の一つに、指導するにあたっての「愛の鞭」と呼ばれる暴力がある。

一方、公立中学校の多くでは、成立しない授業・教室に入らない生徒など、問題行動や指導が成立しないという事態がおこっているという。
また、所謂「茶髪」などの染髪・長髪、ピアス・変形制服などの「異形」の生徒については、教室・校内に入れないという決まりがある学校もあると、学校側・生徒側双方から聞いている。
異形をした生徒が校内にいると規律が保てない、いや存在自体を排除しなければならないということなのか。
私はその「異形」について、肯定はしないし、奨励もしない。
どちらかというと、否定したい方だが、基本的に個人に関する事項であると考えるので、少なくとも性格や人柄と結び付けることはない。

しかし、その異形だけで、義務教育である小中学校、しかも市町村区の教育委員会が管轄する「公立学校」で起きていること、これが、体罰の多発と関連していないとは言い切れないのではないだろうか。
いや、寧ろ「異形」の者を排除するという点では、相通じることなのでは?とも思うのである。

(ここでは、公立学校のことをあげたが、「私学はそうでない」と言い切れないのである。これについては別に筆を割きたいと思っている。)

つまり、自らの基準、自分の指導に従順なもの、自らが考える基準の髪型・服装であること、これに当てはまらない人間を排除する、この究極が体罰であり、登校・授業拒否ではないのか。
私の周りでは、前述のような「判りやすい」事例はほとんどない。
しかし、生徒のこころの機微の中に時折引掛りのある言動が現れることがある。

教育の最前線にいる中で、少しずつこの場をお借りして、事象を開陳していきたいと思う。