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2014年11月13日

北京たより(2014年11月)   『秋休』

井上 邦久

♪♪ V・A・C・A・T・I・O・N タノシイナ。待ち遠しいのは○○休み ♪♪
英語のスペルは(西鉄)LIONSか(読売)GIANTSくらいしか知らなかった頃、弘田三枝子が元気良く唄う米国生まれの曲の衝撃は凄まじいものでした。田代みどりや青山ミチもカバーしていましたが、ぷりぷりとして健康的だった頃の弘田三枝子のパンチ力が圧倒的でした。

レジャーという言葉が使われ出し、ザ・ピーナッツの『恋のバカンス』も流行して、二宮尊徳や宮沢賢治に学ぶだけでなく、「遊んでいるヒマとカネが有ったら遊びなさい」という風潮が赦された頃のヒット曲でした。ただ、何度その曲を口ずさんでも嘘っぽいなあ、と感じたのが、二番の歌詞の、♪山に行くことも素敵なことよ、山彦が呼んでいる。待ち遠しいのは秋休み♪でした。
外国には、夏・冬・春休み以外にも秋休みがあるんじゃ、と物知り風の隣のお兄ちゃんから言われても納得できないままでした。

中国で暮らすようになって、「秋休み」への違和感がなくなりました。
中秋節そして10月1日から1週間の国慶節休暇と続く、まさに秋休みです。更に今年の北京では、APEC開催都市ということで、北京市が率先して公務員は11月7日から1週間の連休となり、民間は勝手に考えろというお達し。更にはオバマ大統領の宿泊先のウェスティンホテルの隣の発展大厦(日本を代表する企業や組織が集中する商業ビル)などが警備の余波を受けて休業を余儀なくされるケースが出ています。また域外への旅行も奨励されていて、国有企業幹部の知り合いも20℃も暖かい海南島からメールを寄越してきました。

そんな今年3回目の「秋休」の北京へ、暦通りの上海から11月7日に移動しました。

政府代表のサミット(G・G SUMMIT)に先行して、8日から開かれる経済関係者のサミット(APEC CEO SUMMIT)の登録カードを入手する為に北京空港から北京市北部のセンターへ直行を試みました。

空港快速電車と地下鉄で行こうかと思いましたが、物は試しと掲示されている「サミット情報服務コーナー」を覗いてみました。黒服のマネージャーとボランティア学生が対応してくれました。英語を使って外国人に接することが愉しくて仕方がない大学生たちを苛めるのは不本意なので、中年の黒服さんに「有名ホテルへのシャトルバス服務は分かったけど、当方は北京の南側に別宅がありホテルは無関係。北東に位置する空港から登録センターへ直接行きたい」という変化球を投げました。

「我々はホテルへの案内だけ。登録センターがあることも知らない」と大学生の英語通訳を使っての直球対応の空振りを黒服さんは繰り返しました。最終的に登録センターへ徒歩圏内のホテルへの無料バスに乗せてくれることになりました。途中から物分りの良い女子学生は「変化に対応、新たな調整」の意味を分かってくれて、「明日から応用します」と笑っていましたが、黒服さんは「あなたの中国語は上手い」という常套語のみで仏帳面でした。

ここで、日本での「秋休」のことを綴ります。

9月30日まで北京で、香港駐在員やメディアの方と連携しながら、学生連合を核とする「普通選挙」反対運動への中国政府の対応変化の分析作業をギリギリまでしました。10月1日、日本での期首集会などに顔を出してから、2日から長年の願望であった信州戸隠への旅が、戸隠を本貫とする今井常世さんのお蔭で実現しました。

東京から長野までの新幹線、「もうちょっとゆっくり行ってよ」と言いたくなる速さで、すぐに信濃路です。駅前で軽自動車を借り出し、先ずは善光寺にお参りと始動しました。

レンタカーの予約も、運転も、更には宿の選択予約も、訪問先の大まかな下調べも全て一回り年嵩の常世さんにお任せでした。数ヶ月前に「他に何かリクエストは?」と訊ねられて、「お任せです。ただ無言館には行きたいです」という後から思えば方向違いの要請により、北信濃の戸隠から遥か南方の上田市へ針路を取ってもらい、2泊目の温泉宿もその近くに変更をして頂きました。
「ただ無言館には」は決して「ただ」では無かったと反省しました。

昼食は常世さん贔屓の蕎麦屋へ。韃靼蕎麦の文字を見て、先月の失敗を思い出しました。

「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」という安西冬衛の一行詩を、俳句と記憶を違えてよく確認もせずたよりに綴ってしまいました。何か違うな、と気になり調べて貰ったら、正しくは俳句ではなく上記の一行詩でした。失礼しました。

常世さんのお父さんが、戸隠から月に「米一升」の御礼で親戚に寄宿して学んだ師範学校、現在の信州大学教育学部の前を通って戸隠を目指しました。

お父さんは、生前にウドンは食べても、蕎麦は口にしなかった。地元で教職についてから、長野に講演に来た国文学者の折口信夫に心酔。神社を守るべき家の長男でありながら上京、東京神田に教職を得て折口信夫の弟子になった・・・というお話を聴きながら、お父さんが戸隠から下った道を遡りました。

道を山手に曲がり集落に入りました。その一角に南方神社があり、常世さんのルーツでした。ご両親と常世夫妻の文字を刻んだ石柱、折口信夫(釈超空の筆名で歌人としても著名)の歌の弟子として、お父さんが故郷を詠んだ短歌と一文を刻んだ石碑、川の水を引いた手水鉢など社に囲まれた静かな世界が佇んでいました。
近くには冬の氷を夏まで保存する氷室もあるとのこと。また集落の生業は長く麻(畳表用)と蕎麦であったとのことでした。
神社から更に登った山の中腹には今井家の墓地が並び、真ん中のひときわ大きい石碑に折口信夫の歌が刻まれていました。
師弟の寄り添う光景を見ながら、常世さんの名付け親も折口信夫であったことを改めて納得しました。(『古代生活の研究』9章に「常世の国」、10章に「とこよ の意義」があり、執筆時期と常世さんの生年が重なると推測。折口信夫全集の年譜には今井氏長男に常世と命名の記述とともに赤ちゃんの絵が描かれています)

戸隠村栃原に権現山大昌寺があります。道元を宗祖とする曹洞宗の名刹です。歌舞伎や謡曲の『紅葉狩』にも伝わる鬼女紅葉と退治した平惟茂を併せて祀った位牌や石碑を守るお寺です。
訪ねると和尚さんが気持ちよく玄関をあけ、本殿に通して「好きにご覧ください。何か御用があれば声を掛けてください」と秋の季語である爽やかさを所作や言葉に感じさせて奥へ引かれました。奥への通路はぎっしりと書籍が詰まった本棚でした。『大聖寺縁起』の冊子購入代金を拝観御礼のお布施代わりに残して辞去しました。

戸隠の宿は、神社別当筋の久山家宿坊にお世話になりました。
立派な神殿の横の広い部屋に我々二人だけが泊り客でした。夕方、時雨の庭をガラス越しに見ていたら、小学校高学年の少女が濡れながら入ってきました。途中で立ち止まり、丁寧に頭を下げてから母屋へ向かいました。その時、ああ神の宿る土地の戸隠に来た、と実感しました。

大陸での緊張を温泉で流したあと、当主夫人と若女将による信州手料理を堪能しながら
「当家には小学生のお嬢さんは居ますか?雨の中でも神殿の方角に頭を下げていましたが?」と問うと、
「家の娘です。戸隠神社の祭事を担う家なので、神楽などの稽古も大変ですが、それ以上に日頃の生活の中で神を敬う気持ちを大切にするように心がけています」
という、手打ち蕎麦の美味しさは水の美味しさでもある様な爽やかで控えめな言葉でした。

食後、部屋に戻る前に居間の本棚から深い考えもなく一冊の本を取り出しました。
津村信夫の『戸隠の絵本』でした。戦前の久山家の屋敷や先代たち、神楽稽古の少女たちの描写。長逗留した家の人たちとの交流、毎日食事を運んでくれた娘とのやりとりなどが、戸隠の気象や生活とともに綴られた佳作でした。とりわけ大昌寺の住職(先代?先々代?)が村の人たちと麻加工に精を出し、肩の凝らない交流をしている恬淡とした描写により、午後にお会いしたばかりの当代住職のすっきりした姿勢をすぐに思い浮かべました。

当主が神と交流する祝詞と太鼓の音で翌朝が始まりました。
朝食後に当主のご案内で戸隠神社の歴代別当そして縁者のお墓まで木々を抜けて歩きました。沢山のお墓を前にしながら、当主は淡々と明治維新、旧幕の寄進消滅、廃仏毀釈の文化革命の嵐から戸隠神社を護った先祖への尊崇の念が伝わる説明を施してくれました。
地元で写真も挟んで編集出版されたその本を欲しいと訊ねましたが絶版とのことで、その後ようやく近代浪漫派文庫34『立原道造・津村信夫』(新学社)の古本を見つけました。

戸隠神社中宮で願掛け木札に何も書かずに持ち帰り、竹編みの店で買ったザルは上海の調理場で活用しています。
その午後,長駆南下した上田の『無言館』で館主の窪島章一郎さんに遭遇、足をのばした小諸で島崎藤村の「老獪な偽善」を再確認、千曲川の畔で舟木一夫の『初恋』を口ずさむなど、訳ありの林檎のような味わい深い体験をさせてもらいました。

折口信夫(しのぶ)と津村信夫(のぶお)を通じての戸隠も然ることながら、何よりも神を護る皆さんから感じた戸隠は貴重でした。

 直後に戻った北京で、戸隠の水と空気のありがたさを改めて感じました。その北京も「今は」人も車も空気汚染も減っています。こちらは黄葉狩と政治の季節です。

 (了)