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2015年9月18日

2015年・敬老の日/お彼岸の“シルバーウイーク” ――母性と父性に再び思い巡らす――

井嶋 悠

「親に先立つは不孝」
先立たれた親は多い。私もその一人である。娘が3年前、23歳の時に天上に旅立った。私が67歳、妻が65歳の時である。既にその経緯やそこからの教師観、学校観は書いたのでことさら立ち入らないが、娘の死は「非業の死」であり、だからこそ私を襲う。

「孝」

白川 静『常用字解』での解説(要約)。
――長髪の老人を横から見た形「老」に、子どもが老人によく仕える意味。孔子に始まる儒家は、礼教(儀礼と教化)の基本の徳目として最も重んじる。――

その孔子は次のように言っている。
――孝悌(こうてい)(弟)はそれ仁を為すの根本なるか。――『論語・第一巻・学而篇』
(孝行で従順だなと言われること、それが仁の徳を完成する根本といってもよかろうね。)
〈貝塚 茂樹訳〉

道徳(倫理)に乏しい私ではあるが、娘の一事を以ってして三つの疑問が湧く。罵詈雑言を受けることを承知で記す。
一つは、子の、孝行したくともできずに死を迎えたことの苦しみはどうなのか。
一つは、死を迎えたことで得た安らぎ(永久(とわ)の眠り)との見方は生きて在る者の驕りなのか。
一つは、孝行される親・老人はどれほどのその対象となっているだろうか。

私は今も自問する。
孝行されておかしくない父親であったかと。娘の最晩年の、私と母への感謝の言葉を知るとはいえ。

これは、中でも上記三つ目は、教師・生徒についてもそのまま言い得ると思う。
人の世に“絶対”などあろうはずもなく、大の大人が「みんな」と言う軽薄さを思い知るから、すべてから尊敬・敬愛を受ける教師はいないとのこととして、である。
だから、私を教師生活に導いた、高校時代の恩師の、私への次の助言は大きな支えとなった。もっとも、師の言葉を十全に自身のものとするまでには相当の時間がかかったが。

「授業終了時に、お前の顔を見ている生徒が、3分の1以上あれば大成功と思え。」

ただ、娘とは違って、今では自問することはほとんどない。それは、尽きせぬ後悔は私の中を廻り続けるが、それでも私なりにやり遂げたとの幽かな自尊があるからかもしれない。

そんな折、「釈迦は慈父、弥陀は悲母なり」という、親鸞の先輩である聖覚法印なる高僧の言葉に触れた。
子に喜びを与えたいと願う父のこころと子の苦しみを除きたいと願う母のこころを言っているとのこと。
慈悲の宗教仏教にあってなるほどとは思う一方で、どこか自然に沁み入らない私がいる。

そこには、幼少時の体験がどこかで影響し、私の一部分になっている中で、
鈴木大拙(1870~1966・禅を核とした仏教学者)の説く「欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。(中略)父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。」(『東洋的な見方』)に直覚的に心揺さぶられた私が、
教師生活の初め17年間奉職した学校が明治時代にアメリカ人女性プロテスタント宣教師によって新しい時代の女性育成を掲げ創設された学校での毎日の礼拝や校務等から学んだ私が、
明治維新以降の近代化の落伍者の私が、
そしてそれらの複合の私があるからなのか、と思ったりする。

礼拝で必ず生徒たちと共に歌った讃美歌に、そのメロディの甘美さも手伝って私も愛唱する曲『讃美歌312番 いつくしみ深き[What a Friend We Have in Jesus]』がある。その歌詞は以下である。

いつくしみ深き 友なるイェスは / 罪科(つみとが)憂いを 取り去り給う / 心の嘆きを 包まず述べて / などかは下ろさぬ 負える重荷を

いつくしみ深き 友なるイェスは / 我らの弱きを 知りて憐れむ / 悩み悲しみに 沈めるときも / 祈りに応えて 慰め給わん

いつくしみ深き 友なるイェスは / 変わらぬ愛もて 導き給う / 世の友我らを 捨て去るときも / 祈りに応えて 労(いたわ)り給わん

イェスは父であり、その父はひとり、私たちの重荷を、悩み悲しみを慰め、労わる、いつくしみ(慈しみ)深い存在と言う。
母マリアは、少なくともプロテスタントではほとんど登場しない。
キリスト教は人としての原罪、罪を言い、先の讃美歌にあるように、生きることの苦しみの自覚は仏教と同じであるが、仏教は母を、すべてを受け容れる存在として積極的に言う。そしてそれは生きることへの大きく、不可欠な支えとなる。

釈迦の柔和な表情とイェスの柔和な表情はどこかちがう。釈迦は同時に母であるが、イェスはどこまでも父であるように私には映る。父には慈父と厳父との言葉があるが、母は慈母だけである。

人は、命あるものはすべて母から生まれ、大地・大海、母の元に戻る。その死は、キリスト教では神の下への旅立ちであり、仏教では成仏(仏となる)への旅立ちである。
そこにキリスト教の父性と仏教の母性を観る。男性/女性とイコールに結び付けるのではなく、思う。

そして、日本は母性の国だと思う。だから私が如きは明治維新以降の、戦後の高速欧米化について行けないのかもしれない。これは落伍者の言い訳であり、ごまめの歯ぎしりである。それでも、江戸時代・文化への共感者の増大は、私のような心の持ち主がいるのではとも思ったりする。

聖覚法印は「悲母」と言う。「悲」心を引き裂く。母は子のその苦しみを除く。しかし、すべてを受け容れることで守ることの積極性を私は思い、そこに母の「哀しみ」と「愛(かな)しみ」を見、美を直覚する。
古稀を迎えたこともあるのか、最近、乳児を胸に抱いた或いは背にに負うた母子の姿は、一切の例外なく美しいと思う私がいる。
私は直接に度々あった「教育ママ」は否定するが、母性の極度の異常な変形と見られなくもない。ただ、父母に区別なくある「モンスターペアレンツ」は、母性とか父性とは何ら関係のない、虚飾日本の或る象徴のように思える。

最初に孔子の言葉を引用した。『論語』には心引きつけ、自省を促す言葉が多い。孔子は理知の、合理の人であると思う。
それに引き替え、老子は直覚(直感)の人と思う。
老子は「無為」を唱える。無為にして有為、有為にして無為ほど強い意志力・心の力を求めるものはない。だから老子から永遠、自由の心象が広がる。Aのゼロ乗が1になる不思議さのように。更に老子は「上善は水のごとし」「柔弱は剛強に勝つ」……と言い、「大道廃れて仁義有り。慧(けい)智(ち)出でて、大偽有り。六親和せずして孝子有り。国家昏乱して忠臣あり。」と。
「玄のまた玄(黒、すべての色が混ぜ合わされた色・黒、奥深い神秘性、玄人(くろうと)の世界)、衆妙(あらゆる妙(たえ))の門」と第1章で言い、第6章で「玄牝の門、是れを天地の根と謂う」と言う。

老子は母性の人で、孔子は父性の人だと思う。
更に駄弁を加えれば、内面は風貌に表われる。老子は母で、孔子は父で、老子の姿は私の愛する動物・森の哲人オランウータンの母子の風体に相通ずる。

昔、中国では家の外に出れば儒教、家に帰れば道教と言われていたそうだし、文化大革命で儒教は否定され孔子廟など破壊されたが、近年、儒教の再興が進んでいると言う。進み過ぎると再び老子の出番になるのではないか。

人と合理と非合理に思い及び、合理が不得手の私は、そこから「ことばとこころ」のことを考え、例えば「以心伝心」といった表現に愛着を持つ。ここでも現代コミュニケーションの周回遅れの指摘を受けるとは思うが、時代に合わせば自身の寂しさが募るばかりであろう。
教職最後の10年間務めた、日本唯一のインターナショナルスクールとの協働校での、イギリス人の「私(たち)はアメリカ人ではない。人との対話ではいつもどきどきしている。」との言葉は、「転がる石に苔むさず」と同様、安堵させられた一人ではある。
因みに、キリスト教ではことばは神(唯一絶対の神)であり、その神は父性・男性である。

今年の敬老の日とお彼岸がある週はシルバーウイークと名付けられ、それはいぶし銀の銀であり、娘が好んだ銀でもあり拙文を重ねた。

私の卒業小学校は、東京都大田区内の公立校で、幾つかの懐かしい思い出の一つに音楽の鑑賞がある。音楽教師はいつも三つ揃いを着た40歳代の、今で言う“おネエ系” の紳士で(60年ほど前のことなので記憶違いかもしれないが)、鑑賞中、うっとりして机に伏せている私の頭を軽く叩き、仰ぎ見る私に頭を横に振って注意された。
その音楽室に何人かの作曲家の肖像絵が貼ってあり、音楽の父・バッハ、母・ヘンデルと書いてあったのだが、何年か前、映画『アマデウス』を観て、その子がモーツアルトとすればなるほど、と音楽上のことは楽譜も読めない私で分からないが、人間的なことで妙に得心した。

私は、クラシック音楽の古典派(クラシック)とバラード系ロックを好んで聞くが、その中でヘンデルのアダージオやラールゴはことのほか心の琴線を揺さぶる。
いつかそんな私の音楽体験から、母性と父性と私と日本といったことで(いささか大仰にして誇大妄想も甚だしいが)投稿できればと思ったりもしながらシルバーウイークを迎える。