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2019年8月1日

33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から Ⅱ 中等教育[時代]前期(中学校)

井嶋 悠

東京から、再婚した父の“新家庭”西宮市に移った。広く関西で言えば“戻った”。そこには継母がいた。 父の気遣いは、幼い私でさえ容易に察せられた。新幹線のない時代、何せ母の勤務地の近くの停車駅のホームに母が居たのである。何も分かっていないのは私だけだった。
大坂駅から私鉄に乗り換え西宮に向かうのである。途中「十三」という駅があり、父に「何と読むか分かるか」と聞かれ「分からない」とかすかに答えたことが、今も残っている。
東京の小学校でそこそこの成績だったからか、当初、私立中学校を受けさせるつもりだった父は、それなりに情報を集めていたようだが、或る“有名校”で対応した教師に幻滅し、地域の公立中学校に進学することになった。

劇的!?で激動!?の中学時代の幕開けである。

入学式、数人からのグランドでの袋叩きに始まり、卒業式での同じ彼らからの1週間前死刑宣告による学校側非常態勢まで。
要は途方もなく「荒れた学校」だったのだ。そこで身をもって知らされた厳しく根の深い同和問題。
抽象より具体の体験学習の重み。この体験は私の人生観、教育観、教師観、更には歴史観に決定的とも思える翳と陽の端緒を与えたと思う。
世にはびこる善悪の吟味もないままの概念的知識を振りかざす人々への疑問、虚しさ。その私が、その概念性と正義性が頻出する教育の世界に、33年間浸ることになるとは・・・。

中学校初日(入学式・始業式)と最終日(卒業式)初めの、またその間での顛末は以下である。

ほとんどの生徒が小学校の延長上で集まる公立中学校。誰も面識者のない私は、隣席にいた生徒に親愛を込めて会話し、頭を軽くこづいた。それが、彼の、彼らの尊厳と歴史をどれほどに侮辱したかなど、つゆ知らず。それがすべての始まりだった。
帰路、待ち受けていたのが、グランド上での、彼からの連絡網で集まった数人(4、5人)の仲間からの殴る、蹴るの復讐であり、罰であった。
保護者は入学式後、既に帰宅していた。 私は隙を見て逃げ帰るだけであった。その場に居た生徒から教師に連絡が行ったのであろう。その日の午後、ホームルーム担任教師ともう一人の教師が自宅にやって来た。
そこで知った地域の問題。 一方の当事者である私は、そのことで不登校にもならず通学を始める。愚鈍な私だからできたのかもしれない。
と言うのは、教師としての最後の勤務校である不登校高校生を主に集めた学校に2年程講師生活をした経験、また娘の死へつながる彼女の体験から、中学校時代の感受性の複雑な豊かさをひしひしと思い知らされ、自身の幼さを振り返りそう思えるからである。

学校で彼らと行き違うたびに浴びせられる憎しみの視線。そうは言っても、彼らも他のことで忙しく?私への一件は、過去のこととなりつつあった。
繰り返される生徒同士の地域間抗争をも含めての争い、血を見る喧嘩、教師への暴言暴力、他校生徒の授業中の乱入、校舎裏に引っ張り込んでの定期的恐喝(カツアゲ)……。
一部教師の見て見ぬ振り、彼らへの迎合的発言、そしてそんな日々に辟易する教師たち。 コトの事情を呑み込んでいる生徒たち(先述したように大半は小学校からの延長上)の「君子危うきに近寄らず」。

この中学校は、部(クラブ)活動が盛んだったが、こんな事件もあった。 当時、サッカー部は阪神間のトップを競う戦績を挙げていて、体育の時間などサッカーをすることも多くあった。後で気づいたのだが、資質の高い隠れた選手を探している節もなきにしみ非ずで、と言うのは、どうしたことか、この私が顧問(監督)誘われたからである。
先に記した学校状況もあって、父は入部に反対であった。もっとも私自身関心もなく実現しなかった。 サッカー部は戦績からも、やはり目立つ存在で、時に「彼ら」の攻撃対象になることがあった。
こんなことが起きた。些細なことで有能な選手が、彼らから「制裁」を受け、両足を骨折したのである。
言い出せばキリがないほどに様々な事例が想い起こされるが、よほどでないかぎり表沙汰として問題化することもないほどに、私たちの心は麻痺していた。

一方で、その地域に在って、卒業後の進路差別を承知した、成績人物共に優秀な生徒。また暴力グループからの方向転換を図り立ち直ろうとする生徒。その生徒たちに強く教えられたもう一つの体験。
前者の生徒。女子生徒で卒業後進学せず就職したこと。就職する以外に選択肢はなかった彼女。それも身内の中での就職。
後者の生徒。彼の学習、生活のサポートをクラス担任から指名され手伝ったこと。
今思い返せば、なぜもっと足を踏ん張って自己学習しなかったのか、高校への進学進路指導で某国立大学付属高校受験を薦められた、ただそれだけの私だったことが悔やまれる。

卒業式学校側態勢となった背景でもある、3年次での事件と卒業式当日。
放課後の廊下で、入学式のあの連中から金銭要求を受け(額は100円前後だった)、拒否したところ羽交い絞めの暴行。それを目撃した生徒の教師への駆け込みで彼らは1週間の停学(自宅謹慎)に。
その逆恨みと彼らの3年間の鬱積が、そのような心へ導いたのか、卒業式数日前に、校舎裏に呼び出され一言。「殺したるからなっ!」
日頃、有言実行を(殺すはないが)見ていただけにその恐怖。帰宅後、親に相談し、親が学校に連絡し、学校から「正門横に親戚かどなたか若い人を待機させてください」との依頼。 そして卒業式当日、終了後、式会場の体育館から正門まで、両側に在校生や教職員が立ち並ぶ路を歩み、迎えの人と足早に帰宅。
それ以後、彼らと二度、一度は電車駅構内で、一度は知人宅近くで出くわした。駅では衆人のため睨みつけられるだけで済み、知人宅近くでは石を投げつけられ、あわててその知人宅に逃げ込んだ。
彼らのその後は伝え聞くことはあっても、実際は知らない。

この卒業校に20年ほど前勤務していた方(教師)と話す機会があり、現在、全くそのようなことはないとのこと。地区自体も様相が変わり住宅地等となっているが、一部地域では、変化は外貌だけで、その根っ子を今もって抱えている現実を伝え聞くこともある。

ヘイトスピーチが様々な領域で顕在化しつつ問題となっている。ヘイトスピーチを発する人の中には、己が発言の正当性を公然と主張する者もある。しかし、多くは疑問視し、悪行と思っている。当然である。
しかし、この哀しみは恐らく人間世界が続く限り、あり続けるのだろう。 或る友人は、差別はなくなると主張するが、私はどうしてもそう言い切れない。言葉で論を張ることと現実の乖離の痛覚。そこから生れる差別心を常に自覚する重要性に私の心は向く。
そんな私だが、歴史的、本質的に根が深過ぎる。いつ、なぜ、どういった人たちが、その根を生やしたのか。結局は、私も同じ穴の貉(むじな)・・・。

『日韓・アジア教育文化センター』の活動を続けて来たがゆえに、最近の日韓問題で思うことも多く、先日も「日韓の“溝”を考える」との表題で、拙稿を書き、韓国人の仲間がハングルに翻訳し、韓国の韓国人日本語教師の会に発信してくれた。光栄なことであるが、責任は重い。

教育世界は、倫理的側面が強いのでやむを得ないとは思うが、善的概念論が多過ぎる。教師は今もって聖職者なのである。或いは聖職者意識が強い。だからと言って、皆と同じ世俗者としての人間、と安易分類をするつもりもない。そこに教師であることの難しさを思う。
2017年3月、私の住む所にほど近い那須岳で、高校登山部の冬山訓練中、雪崩で県内数校から参加していた生徒の7人と引率教員1人が死亡し、現在係争中である。
以前投稿したことでもあるが、教師時代スキー行事の引率、指導をした経験で言えば、明らかに教師の、自然の脅威を忘れた惰性的運営、驕りが元凶にあると、私は思っている。私の場合は、たまたま事故がなかっただけのことである。

先に触れたように、私が直接に知り得た幾つかの地域で、残滓があるとは言え、かつての呪縛から解かれ、新興地として住宅や商業地が広がりつつある。それらは意識化した人々とそれに共感した人々の成果である。政治は後からである。

近代化邁進の現代、抽象的な言説からいかに具体的に、何を、どのような視点で視、若い人にどう伝えるか、あれもこれもと多忙を極める子ども達。それも速度(スピード)を求められる情報洪水時代だからなおのこと、教師の力量が試されている、と引退した無責任さは重々承知で、思う。

中学時代の、もう一つの体験。 3年次の同級に、眉目秀麗、学力優秀、温厚篤実な男子生徒がいた。私に友情を感じ、よく話し掛けて来た。私もその優しい人柄が好きだった。ただ、彼の話す言葉は、女言葉であり、動きは女性以上に女性であった。掃除中など、後ろに下げた机に私を押し倒し、口を近づける、そんな悪戯をよくして来た。
最近、その系列の男性たちが、表舞台によく登場する。その人たちを見る度に、彼は、どんな人生を歩み、今どうしているだろう、とやはり複雑な思いで振り返る。
中等教育での[LGBT]教育の現在、大人側の、それも政治家たちの根深い偏見と差別発言が繰り返されているが、生徒・教師・保護者の意識は、螺旋的に紆余曲折を経ながらも上昇しているのだろうか。

今も中学校時代、特に2年生をピークに、問題が多く噴出する。それほどにこの中等教育前期は子どもから大人への巨大な転換期なのだろう。
中高一貫の有効性を学習面から見る偏りではなく、人格陶冶の視座から[中高校8年(6年+2年)]を考え、同時併行で就職の道、進学の道に向けた中高校卒業後社会の制度的、意識的変革を、少子高齢化だからこそ為し得る千載一遇の時機、と重ねて思う。

次回は、私の学歴感(観)の原点?とも言うべき、中等教育後期、高校時代を顧みる。