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2014年8月24日

私が「学校」「教育」を“語る”ことの大切さと虚しさと疾(やま)しさと  その3   A.教師原点習練期

井嶋 悠

    A―Ⅰ 

私の言葉の背景

       国語科教育〔付:日本語教育〕

今回のA「教師原点習練期」[Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ]と、その後の原点校ではない、B「新たな教師挑戦期」は、
59歳までの33年間の私立中高校国語科教師生活の、その時々に在って、生徒、保護者、教師からの、私に教育を考えさせた幾つかの言葉であり、その時、またその後数十年の中で培養した私感である。

その今回及び次回以降の何回かの体験からの言葉が、具体的にどの場での体験を基に紡ぎ出されたのかを明確にするために履歴を記す。

【専任教諭として】

・アメリカ人女性宣教師によって120年前に創設された女子中高校[17年間勤務]《原点校》

・「国際」を標榜し国際都市で新たに創設された女子中高校[2年間勤務]《新挑戦校》

・インターナショナルスクールとの協働校「新国際学校」として創設された中高校[10年間勤務]

《新挑戦校》

【非常勤講師として】

・裕福な家庭の子女で、大学付設の学力に不安な女子高校[1年間勤務]

・短大、4年制大学付設の学力に不安な女子高校[1年間勤務]

・不登校高校生を主対象とした学校[2年間勤務]

【別項】

・中学生対象の塾講師[2年間勤務]

・インドシナ難民定住促進センター(日本語教師)[2年間勤務]

 

今回と次回の言葉は、最初の勤務校「アメリカ人女性宣教師によって120年前に創設された女子中高校」(西宮市)でのそれであり、この17年間は正に教師としての原点を構築した時でもある。そのせいか、ここ数年見る教師体験の夢の80%強は、この時のものである。

そこでの教師の職務としては、概ね次のことであった。

☆教科学習活動指導

☆課外学習活動指導[クラブ活動、野外活動(スキー、登山等)]

☆校務分掌活動[教務や生活指導等、職員会議運営、保護者会関係等]

原点構築期の勤務校での体験の、後の「挑戦期」でのその有意性は計り知れない。とは言え、上記職務それぞれから記すことは余りに冗長であり、本意でもない。

そこで、今回と次回の標記項目以外については、幾つかのトピックだけをここで記す。

◇課外活動、校務分掌は、基本的に希望調査があっての、校務各部長、教頭、校長による調整

◇管理職選挙はもちろん、校務各部長、職員会議議長も選挙制

後の勤務校2校共、校長職をはじめすべて“トップ ダウン”方式で、その人による良し悪しを実感することになる。インターナショナルスクールも“トップ ダウン”方式 であるが、それと違って日本の場合、例えば校長人事など、任命者・被任命者の個人差があるとは言え、陰性さが    あり、そこからも学校世界の、閉鎖性、保守性を体感する。
選挙制の負の側面も知ったが。

因みに、私の好悪とは関係なく、原点校には組合があったが、他はなかった。

◇職員会議議長の経験(数年にわたって経験)

校則のほとんどない非常に自由な校風で、それは教師間でもそうで、会議は談論風発、その舵取り体験は、私の性(さが)と過去を気づかせ、知る機会となった。

◇クラブ活動指導

10年ほど、「なでしこジャパン」誕生の萌芽期とも言える、女子サッカー部の監督(顧問)を務める。
関西では4校の女子校が積極的に活動し、監督4人で定期戦等を企画し行う。

その最強学校の監督は、非常に厳しい指導を徹底し、後に「なでしこジャパン」の初代監督に就任されるとともに、サッカーを通して学校教育に誠心されるが、
後に健 康を害され人生の転換を経験される。その姿を拝見し、生について考えさせられた。

◇生徒会(高校)指導

数年行う。
「井の中の蛙大海を知らず」。いわんや私学の、有名、伝統校。他校交流を積極的に展開する。
そこでの愉快なエピソード。“やんちゃ”な私学男子校の生徒会との交流でのこと。

その男子校会長曰く、「プライドが高く、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけている人ばかりかと思っていたが、普通の女の子でほっとした。」その時の、勤務校会長の  明るい笑顔ガ忘れられない。
また学院創立100周年にも立ち会え、卒業生の寄稿をお願いしたり、生徒会としての記念誌を発行する。

 

平均寿命が、高齢化の心の問題と高度医療との幸せな融和を課題として持ちつつも、男も80歳を越え、文明社会が更に進んだ感を持つ。
そして、私たちの日々は、静止など別世界のことかのように、駆け巡る無尽の情報で埋め尽くされ、人々は時に無性に静寂に焦がれる。
そこでは、内容の文字化が至難にもかかわらず、「自由」と「権利」が自明のごとく語られる。

生を経て老いを歩み始め、人生を「苦」ととらえることに、また識者が言う「文明進歩の宿命」としてある人生の享楽化の警鐘に頷く(うなづく)、現代社会!不適応!の私のような人間には“距離”を感ずる現代。

前者の融和については、全霊深奥から天・神仏に自身を委ねるにはまだまだ遠く、罰当たりながら長寿=幸福なのか、で諸手を挙げて朗報とは思えず、
後者の怒涛の情報化は、社会問題に識者?は切れ味鋭く狼煙(のろし)を上げるが、和解への配慮など微塵もない罵詈雑言、「聞く耳持たず」の対立者排斥の独善で、それが若者に議論の大切さを言う大人たちの所業ゆえ、益々以って絶望感が漂い、呆然寂寥する。

社会主義国家の過去と現在から、社会主義更には共産主義に希望を託すこともないから、不安は脅威となる。

そして私は、「虚」(→主観・理想・抒情)と「実」(→客観・現実・叙事)の間に彷徨(さまよ)う生を実感する。
社会性あっての人間であろうかとは思うが、それに背を向ける自身に苛立ち、社会の病に打ち込む人々をちらりと眺めつつ、自然美、芸術美を憧憬し、遁走を企てる。

そんな私だからなのだろう、芥川 龍之介の『蜜柑』(大正8年〈1919年〉作者27歳の時の作品)の「私」に、それは“知識人”或いは“ブルジョア”の感傷(センチメンタル)、おぞましさと言われれば否定できないのだが、感情移入する。

作品は「或る曇った冬の日暮れ」(以下、「  」は作者の表現)の横須賀線の、車中での1時間ほどの間にあったできごとである。

「講和問題、新婦新郎、涜職(とくしょく)事件、死亡広告」の、「不可解な、下等な、退屈な人生の象徴」の「平凡な記事に埋まっている夕刊」を「云いようのない疲労と倦怠」にあった「私」が、「機械的に眼を通し」ていた時、同じ車中に駆け込んで来た「あたかも卑俗な現実を人間にしたような面持」の「大きな風呂敷包みを抱えた」「皸(ひび)だらけの頬をした」東京と思われる「奉公先へ赴こうとしている」「小娘」の鮮烈な動作、印象を語ったものである。

「隧道へなだれこむと同時に」窓を開けた「小娘」は、隧道を抜け踏切に差し掛かった時、待ち構えていた3人の弟に、「蜜柑」を「五つ六つ」「見送りに来た弟たちの労に報いる」ために投げた。それを見た「私」は、「昂然(こうぜん)と頭を挙げて、まるで別人を見るようにあの小娘を注視し」、最後にこう結んでいる。

「私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうして不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである。」

何と冷静で知的で洗練された感情表現であろう。作家の文字表現だから当然なことなのだろうが。

その芥川は、8年後の昭和2年(1927年)、「ぼんやりした不安」を言い、35歳で、愛妻と二人の愛児(子)(本人の自己表現は「悪夫・悪子・悪親」の「阿呆」)を置いて、自死を選んだ。

20年ほど前から、高校或いは中学の現代国語の教科書に『蜜柑』が採り上げられるようになったのは、選者(編集者)の現代観の反映、若者へのメッセージなのだろうか。

私の言葉の後ろに在ることは、上記『蜜柑』の「私」に、或る後ろめたさを抱えながらも共振する私であり、小学生の10代から20代でのとんでもない紆余曲折であり、その後の予想だにしなかった展開であり、そして高校時代の恩師に始まり幾多の人々の教示と救いである。

このような発言は、無恥極まりないことであるが、それらは私の自照自省の具体的契機の事実であり、人々に学校(中高校)教育を考える、一つ(・・・・)の視点、参考になればとの期待でもある。

嘲笑、冷笑、せいぜいで憫笑の対象としかなりようがないが、しかし娘だけは無言でスッと受け入れてくれると信じている。

 

◎勤務して間もなくの1970年代前半、魯迅の『故郷』授業で、言葉の意味を間違えたその時間終了直後に来た生徒に、私が「意味を間違え、ごめん」と言った時の言葉。

「そんなことどうでもいいんです。辞書を調べればいいんですから。それより先生の作品への考えを聞きたい。」

その生徒は、文学少女でもなんでもなく、九州から入学し寮生活をしていた。会計士になった旨後年聞いたが詳しくは知らない。現在、50代後半である。

その学校、30年位前から、併設の大学にはほとんど進学せず、「有名大学」を目指し、学校はいわば、休息と社交場で、ほぼ全員が予備校に通学し、極端な言い方をすれば、言葉の意味を間違えるような教師は論外で、と言うか、集中して授業と向き合わないのがほとんどである。

その学校を卒業した、私と同年代の数学教師の嘆き。
「数学の授業でさえ、レベルの低さを言って内職している。注意しても馬耳東風。信じられない。」
尚、その教師は国立大学出身である。

辞書を引くことの大切さを否定する人はまずない。いわんや国語科教師は。しかし、あれもこれも(多くは“主要”5教科)の学校、世間にあって、その正論は、国語科教育はすべての教科教育、課外教育での基礎との論が許容されたとしても、物理的に非現実的、夢想なのではないか。
各教科の主張をすべて認めていれば、学校は成り立たない。
その現実をどうするか、そこに学校の特性の明確化のカギがあるのではないか。

「日本語教育」で中上級教科書は、精選と語彙等の精緻な記述が、必然的に求められる。
私は、或る時、教科書“虎の巻”の、個人もしくはグループで、卒業生から在校生への譲渡を前提に、所有することを、生徒たちに提案した。
虎の巻は、語彙説明だけでなく、構成、主題等、至れり尽くせりである。

それらを利用し、その上に立っての、学校特性、生徒の学力による展開にこそその学校の授業になるなのではないか。
私の母校高校での、大部な参考書を教科書として展開された世界史授業の逆の発想として。

そこにも教師の独善が見え隠れする。

古典の場合、注釈本も含めて浸透しているにもかかわらず、現在も音読、語彙・文法説明、口語訳、そして一言の鑑賞に終始しているのではないかとも思うが、私の先の提案は、教師、保護者は無論のこと、生徒からも無視、黙殺された。

帰国子女教育を介して「新しい学力観」を言う人は、かねてより多い。
しかし、私は「国語科教育での新しい学力観」は、と聞かれた時、応えられるようで応えられない。
言い訳との非難を思いつつも、国語科教育にあっては、古いも新しいもないのでは、とふと思うから。

因みに、東大進学実績を誇り、生徒の自我意識も強い某私学の卒業生によれば、「母校での国語、社会の学習度、指向は非常に低い」とのこと。

その学校について、参考に付記すれば、2013年度卒業生の2014年5月現在の進学状況は以下である。(1学年 220人)
・東大 76人 ・他の国公立大学 52人 ・私立大学 26人(内4人はアメリカの大学)[計154人]

その高校卒業生には、著名な作家や、或る教師の一言がきっかけで破天荒な高校生活を過ごし、デカダン的作家に徹した人生を送った傑物がいる。

冒頭に記した校務分掌での、高校生徒会(自治会)を数年担当した時のもう一つの爽やかな経験。。上記高校生徒会とも交流を持った折のこと(何せ、東大で、勤務校の生徒は、その東大進学生徒送り出し校卒業生の口コミ?で有名な旨、私の小学校時代からの東大卒友人に聞いたことがある)、

同じく、但し東大に限定しない、進学実績の高い男子校生徒会長が言い放った一言は、気概と爽快さを刻印した。

「○○高校と一緒にするのはやめてくださいっ!」

その時、それに強く共感した勤務校の会長は、付設の大学を卒業後、公立高校の英語教師となった。

尚、中学部の英語教育は、アメリカから派遣(任期は3年ほど)された宣教師も兼ねた二人の女性教員と日本人教員がチームを組み、週5日制にもかかわらず6回、宣教師兼任女性教師のみ・日英両教師・卒業生の日本人教師の授業を組み合わせ、長年かけて作り上げた自製教科書を基に展開している。
社会人になって(と断ったのは30年程前から“有名”他大学進学者が圧倒している彼女たちの中では大学受験への有効性に疑問があるようなので)卒業生の多くが言うように、また門外漢の私も、当時からそして今も、日本で最高峰だと思う。(これについては、以前のブログに投稿した)