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2015年8月13日

暴力  思案 ~敗戦から70年古稀・同年生まれの、娘を亡くした一人から~

井嶋 悠

初めに言い訳(開き直り?)を。
暴力とか、性といったテーマは、人間の根源、本質に係ることで、軽々に物言うことではない。
物言うからには古今東西先人の言葉を渉猟して言え、と読書家にして“教養人”は言うであろう。
しかし、天上天下唯我独尊、70年生き、33年間中高校教員(国語科)を務め、娘の死で、人・親・教師についてものの見事に自省を促された私。
天の心配りか、「自身の言葉」が、わずかな水量とは言え間欠泉そのままに湧き出始めた。ほどなく枯渇するであろうが、それでも今は、苦も併せての快を直感している。
教師生活後半で、生徒に対してやっと「生(活)きた言葉」について、彼ら彼女らの表現から具体的に言えるようになった(このことに不遜、独善との批判は当然あろうが、この言葉の私見について、ここではこれ以上触れない)、そのことと同じことを、今、自身に言っている。
ただ、表現(雑感)でのささやかな引用は、老いての恥じ隠し、無知の知など未来永劫ほど遠く、小人の虚栄そのままで、引用範囲の狭小さは如何ともし難い。

1945年(昭和20年)8月15日。敗戦をもっての終戦の日。
私の生年は、1945年8月23日。生地は、長崎市郊外。
教師稼業のいろいろが咀嚼されて来た後半期、最初のクラスで、自己紹介と称してしていたこと。
黒板に、生年月日と生地を書き、何でもいいから気づいたことを話してもらう試み。
「広島被爆から17日後、長崎被爆から14日後、敗戦から8日後、それも長崎市郊外」との、かすかに期待している発言は皆無だった。
多くあったのは、「けっこう年齢(とし)とってんだ(くってんだ)」。
(私は今もいささかそうだが、年齢不相応に若く見られることが多く、この年齢ともなると有り難さ、ご利益(りやく)はあまりない。)

戦争は、それぞれが絶対正義を掲げての最大の暴力であることは、古今東西言われ続けて来ていることである。しかし、暴力を肯定(或いは積極的に肯定)する人は、稀である。
私のような人間からすると、これが人間であるように思える。
愛すべきか、哀しむべきか、恐るべきか……。
そう言う私は、「暴力」を言下に否定する論理もなく、だからと言って肯定するわけでもなく、ことある毎に“私の暴力”について頭をもたげ、しかし今もって明快にいずれとも言えない。
マスコミ等で、「原理主義(者)」「過激派」を悪の権化として一切の疑問もなく暴力集団と糾弾する表現に出会うと、そこに或る作為のようなものを思ってしまう人間である。

「正しい目的のために暴力的手段を用いることを自明のこととみなす」考え方を、「自然法」というそうだが、私の感覚はそれに近いかとは思う。しかし広島・長崎への「原爆」投下はアメリカが言う正義で、これも「自然法」であるとするならば、私は自然法信奉者ではないと思う。

こんな私の、最後の勤務校での体験事例を一つ挙げる。当時、年功序列?で教頭だった。
私はこの事例から、教育の、教師の在りようの一端を見ている。もっとも、当時の校長の姿勢・言葉の方が、一般論として正統であろうが。

授業を終えて部屋に戻る途次に遭遇した、喧嘩中の血だらけの二人の男子高校生。両者を分けて「言いたいことがあるか」との私の問いに、両者ほぼ同時に「あるっ!」。そこで、校長室での両者の言い分聴取。要は常日頃の不仲の会話が発展しての、一方のくどい口(攻)撃に、相手側の堪忍袋の緒が切れて相手の顔面を殴打したのが始まりとのこと。
その後、校長の指示で臨時の学年集会を開くことになり、先ず校長(私より少し若年)からの暴力非難とそのことの哀しみの講話。
そして私から。要点は「人間には限界がある。それを越えた時、手を出してしまうことがある。しかしそこで襲い来るものは後悔と反省の哀しみだけである。」これは、私が観念的概念的になることを意図的に避けたい願いが背後にあってのことである。
その日の帰宅後夜、初めに殴られた方の父親から、教頭たるものが暴力を肯定するとは何事ぞ、との旨の問答無用の非難電話が1時間ほどある。
当然?校長にも私の非難が行き、翌日、やはり校長の指示で、私の謝罪のための新たな学年集会(10分ほど)が持たれ、私は「誤解を生じさせ申し訳ない」と謝罪。
生徒たちが教室に戻る時、私の背後から数人が「先生が昨日言われたことは、私たちよく理解していましたよ。でも何で今日また学年集会?」と声を掛けて来た。私は「誤解を生じさせた」との繰り返し。
初めに殴打した生徒は、その日、登校していなかったが、数日の自宅謹慎後、自身の意志で転校した。

極端な飛躍を承知で、戦争も同じではないか。
慈悲の宗教仏教も、愛の宗教キリスト教も、暴力を拒否し、否定するが、その宗教も人が編み出し、創り出した世界で、キリスト教の数多の殺戮の歴史……。

新約聖書『マタイによる福音書』第5章38節以降では、次のように言われている。

―あなたがたも聞いてのとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。―と。

理念と生身、理想と現実。歴史を思い返せば一層、非常に意味深長な言葉だと思う。

原爆開発(「マンハッタン計画」)に直接従事してはいないが、アインシュタインの日本での言行に見る姿は、大きな光明であり、恒久の平和への可能性を、当時世界の多くの人々が直覚したはずだ。
しかし、現在、9か国(アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国・インド・パキスタン・北朝鮮・イスラエル)が核保有国で「核クラブ」と称され、それぞれの正義からその会員が増える可能性もあるという、その現実が提示することは何なのか。
言葉を繰り返すことの虚しさに“限界”を痛覚し始めているひたすら平和を希う私たち、唯一の被爆国日本は、どうしようとしているのだろうか。
アメリカの核の傘を自明としての「集団的自衛権」行使こそ、政府の言う「積極的平和構築・貢献」ということなのだろうか。

今の私の至福の時の一つは、愛犬と共有の寝床(ベッド)での独り(+一匹)DVD鑑賞で、先日、中国映画『罪の手ざわり』(2013年・監督:ジャン・ジャクー、原題『天注定』・英語題『A Touch of Sin』)を観た。

中国映画には、懸命に生きる市井の人々、地方の人々の、それも女性に焦点を合わせた「愛」と「哀」を主題にした私の好きな作品が多い。(例えば、同じくジャン・ジャクー監督の『長江哀歌』や、『三姉妹~雲南の子~』『小さな中国のお針子』など)
『罪の手ざわり』もその一つで、同時に人間の他への、自への暴力を考えさせる、実際にあった事件を下敷きに創られたオムニバス映画である。
急速な近代化が進む中国社会にあって、その裂け目とも言える狭間で、感受し、もがき苦しみ、或る時思いを爆発させる市井の、別の表現で言えば底辺に生きる4人の男女の、それぞれの物語である。
近代化の正負については、私たちは日本に在って既に身をもって知らされ、知っている。
私は、「同情ほど愛情より遠いものはない」との、大学卒業論文で採り上げた、昭和10年代の癩病作家・北條民雄の叫びに痛撃されたにもかかわらず、今もってそれを己が言葉に為し得ていない貧相な人間であるが、この映画の4人の心と行動に共感し、思考を再び促された一人である。

ジャン・ジャクー氏のインタビューでの言葉を引用する。

―(中国国内での公開機会が与えられないことについて)もう10年以上映画を作り続けているので、それについてはとても穏やかになりました(笑)。今作(『罪の手ざわり』)に関しては、これまでのものを打ち破って作ったテーマで、暴力そのものが中国では容認されない題材です。外国の皆さんは、まず中国当局の圧力を考えると思いますが、保守的なのは社会の問題。観客もまたしかりなのです。受け入れられるかどうかというのは、国だけの問題ではありません。ですから、そういう中で僕はこの題材、方法を選んだので、忍耐強くいたいと思っています。―

ところで、私の限られた鑑賞体験での管見に過ぎないが、韓国映画にも職業(プロ)意識溢れる巧みさ(例えば『猟奇的な彼女』と『シュリ』)に魅了される中にあって、中国映画にはヨーロッパ映画の、韓国映画にはアメリカ映画の香りを感じたりしている。
そして残念ながら、最近、沁(し)み入る日本映画との出会いがない。

皇帝専制史、革命史、一党独裁史……、と日本とは、その国土の巨大さ、多民族等々と併せて、同じ東アジアと言っても日本とはずいぶん感覚は違うが、日本文化の源流に中国文化が影響を与えていることは、誰しも認めることである。もちろん、中国文化の複製でしかない日本文化、といった上下視線からの中国文化・日本文化のもの言いではなく、である。
その中国の、日本での印象は、現在すこぶる良くない。
多くの報道視点には、下品で、良識の無い、金の亡者国家中国、との政治的操作が働いていて、私たち“一般人”はそれを導く政治家、学者等知識人、そしてマスコミ人の術中、思惑に嵌り込んでいるようにさえ思ったりする。
韓国(北朝鮮については、ここで並列することは避ける)報道と併せて、「共生」は欧米圏とのそれで、第2の「脱亜入欧・米」と言うことなのだろうか。

一方で、中国内陸部を中心とした農村部での女性の自殺の多さ(中国政府から公表されていないので、国際機関等からの報告から)に見る、貧困、男女差別の深刻さはほとんど知らされない。
この10有余年にわたり先進国中自殺者第1位である日本が、日本を考えるためにも、もっと問題を共有して然るべきではないかと思うのだが、これも国際社会での危機意識の乏しい能天気日本人ということなのだろうか。

「暴」という漢字をぼんやり眺めていると、どろどろした情念の激しい力のようなものが浮かんで来る。
「暴力」。昼は白日下の、夜は漆黒下の、怖れとおののき。
それに「火」を偏に加えると「爆発」。「水」を加えると「瀑布」。やはり「水」は「上善」……。

因みに、白川静著『常用字解』には、次のように書かれている。

―会意。日と獣の死骸の形とを組み合わせた形。獣の死骸が太陽にさらされている形で、「さらす」の意味となり、さらけだすことから「あばく」の意味となる。(中略)。暴が暴虐、乱暴のように、「あらい」の意味に用いられるようになって、「さらす」の意味の字としてさらに日を加えた曝が使われるようになった。―

本人の意識、自覚の有無は多種多様、いずれにせよ、人は人生の多くで暴力を働いている、と私は思うし、私自身その一人である。だから、70の手習いよろしく自己表現を試み、時に仏教でいう人間の「業(ごう)」の無気味な深さに思い及んだりしている。
このことは、保守性と閉鎖性と権威性が複雑に重なった人間集団の学校[教育]世界での、教師と生徒間で、他世界との比較がないので多いとは言い切れないが、体験から少なくとも少ないとは思えない。
そのあからさまな醜態が体罰だが、「言葉の暴力」は、教師の対生徒、生徒の対教師で、確実にある。
要は、教師の生徒イジメであり、生徒の教師イジメである。
ただ、前者は我がままで、後者は反抗、との決定的違いがあるが。
教師の、教師内で発せられる生徒への、自信に満ちた罵詈雑言など日常茶飯事で、その酷評はいつしかその生徒の耳に届く。ただ、生徒も、保護者も黙って、耐え聞き流しているだけである。学校は人生の通過点の一コマ。楽しいこともあれば、辛いこともある。人生の辛さと較べれば、と。

このブログへの投稿契機の重要素の一つは、23歳で早逝した娘への供養、無念を晴らすことで、その死への原初は、娘・中学2年次でのクラス担任の娘への無視、女子生徒を取り込んでの排斥と言う、身体と言葉の暴力である。その真偽は、卒業直後、3年次の担任からの娘への呼び出しと謝罪で明らかである。
その教師の言葉。「知らなかった。すまなかった。」
この教師の良心をうれしく思う一方で、これが学校組織(教師集団)の現実、限界であるとも思う。

娘が、死の少し前、母(妻)に、父親も含め絶対に他言しないことを約束して初めて打ち明けた旨、妻(母)から聞いた。
私の激しい憤り、悲哀は、母(妻)の淡々さには到底かなわないことを全霊で知り、私は母(妻)の心を推し量るだけである。
娘と母の思いを尊び、事実確認調査とか訴訟といった直接行動は取っていない。ただ、ひたすら理不尽の怒りを伏流水にして、自身を、人々を、社会の過去と現在を、そして願いを書いている。
投稿内容に共感共振する教育関係者もいれば、異論無視する教育関係者もいる。もちろん!後者が多数である。そして、後者の教師たちを、私は徹底的に軽侮する。

私は、親として、元教師として、厳しく自省し、共感共振くださる方々(方でいい)の眼差しを力に、もう少し寄稿を続け、教師が、大人が、率先して謙虚に自問自答せずして、学校は、教育は、その背後にある社会は変わりようがない、との娘と自省から得た確信を伝えたいと願っている。
私の気質、生き様を感知、熟知し、長短すべてを受け容れていた娘は、父親への叱責を横に置き、この投稿を苦笑しながら容認してくれていることと、私は時折遠くにぼんやりと視線を送っていた生前の娘を思い浮かべ、信じている。

それにしても、娘が、「魔」の中学体験後、更に高校1年次で出会った教師不信(先ず教師不信で、そののちのこととしての学校不信)、元教師としてひしひしと得心できるだけに、あまりにも酷(むご)いと思う。これが特殊でなく、稀少でもないことを聞き及んでいる現実。
なぜこのようなことが起こるのか、局所的に、同時に大局的に考えて然るべきではないのか。日本が、文明国で、先進国で、一等国の、伝統ある国との自尊を持っているならば。