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2016年3月19日

「眼は人間のマナコである」から “言葉”の極点 「噺家は喋っちゃアいけない」へ……

井嶋 悠

1年ほど前から眼科に月1回通院している。医師曰く「白内障です。歳相応の自然な病です。酷(ひど)くなったら手術しましょう。手術は簡単です。」数年前に開院したその医院、女医2人と老男医1人と10数名の助手、事務(すべて手際秀でた快活な女性)で構成され、1階が診療室で2階は手術室等、40人は入る1階待合室は明るく広く、連日千客(?)万来、ほぼ7割は高齢者で、私などまだまだ若輩で末席を汚している。
先日、左目の急な視力低下から検査を受けに行ったときのこと、待合室で心洗われる光景を目の当たりにし、改めて70年間生きて来た時間を思った。不意に訪れた自照自省への導き。

2歳くらいの女の子を抱いた、二十歳を過ぎたばかりであろうか、健康と若さが造り出す瑞々しく弾けんばかりの女性。母娘であることは一目瞭然。二人の日々の幸いを映し出すかのような愛くるしさ。時折、立ち上がっては壁の医療関係掲示を、その真剣な眼差しはきっと娘を思ってのことだろう、一つ一つ見入る母。助手から呼ばれ、診療室に移動して数分後のこと、二人は老医師と助手に連れられて待合室に戻って来た。

「ここなら大丈夫。泣いたのは誰かな~。ほら見せて~。」老医師の加齢が醸し出す太く優しい声の響き。周囲の老人たちの微笑み。

(微笑みの見守りを投げ掛けるのはほとんど女性。爺さんたちはどうしてああも仏頂面しかできないのだろう。それが齢(よわい)を重ねた日本男児?の意地ということなのだろうか。いやはや。もっともっと私の心に素直になろう、とここ数年、思いが強くなる私)

ことの進行が呑み込めない娘、心配げな母。娘は、老医師の手が頬に触れようものなら瞬時に母の胸に顔を寄せ、曇り顔へ。
「分かった、分かった。うーーん、どうかなあ~。」、触れる触れない薄皮一枚の距離感で診察した老医師「お母さん、大丈夫だよ」と、その理由を丁寧に説明する。一言一句聞き逃さない母の美しい眼差し。「泣いたのは誰かな~」、今度は頬を瞬間つまんで立ち去る老医師。娘は目と口一体に呆然と、立ち去る医師と助手を追っている。真と善と美のかけがえのない気の一瞬、和み。

関西都市圏生活から北関東の地方都市に移住して10年。このような出会いは、都会生活時よりはるかに多いと思う。このけたたましく乾いた現代日本での都(と)鄙(ひ)の人の情の美しさを言う人もあるかもしれない。しかし私にはまだそこまで言い得る言葉はない。今言い得るのは、加齢ゆえの琴線の顫動(せんどう)なのだろう、だけである。
少し前に読んだ稀代の落語家(噺家)・5代目古今亭志ん生(1890~1973)の随筆が思い起こされる。

「人間も六十の坂をこすと、色々な事を考へるやうになる。」と言う書き出しで始まる情味豊かな一文。『眼は人間のマナコである』。

志ん生は、或る時、或る大学の総長から「きみは哲学を知ってるね」と言われ、きょとんとしたとか。私は哲学の意味が分かって分からない一人だが、少なくとも知識量とか学歴とは無縁だと思っている。そして志ん生のこの一文が、それを証明している。志ん生の学歴は小学校卒。
その学長の自然なそしてどこまでも静かで、優しさ滲み出る“凄さ”が浮かぶ。

思考飛躍を承知で言うが、大学教員は教職世界で唯一資格要件なしと思っていたのだが、超高学歴専一の昨今を不思議と思っている。もっとも、幼稚園から高校までの要資格教員制度に時折得心が行かないこともあったが。これまた大学院修士課程中退者の自省の話。

私は60歳を越えること6年、娘の死に向き合い、自照厳しく迫られ、今在る。
先の眼科医は医師、志ん生は師匠、私は教師。「師」!
先の老医師の相手を慮っての絶妙の間合いと短く的確な言葉。私はついついしゃべり過ぎ傾向大の教師で、しかも国語担当。
志ん生は「私達の声の出し方には一つの順序がある。先ず稽古したハナシを大声で喋る。つぎに早口に これをミッチリやって、人物の表現に苦心し、仕種(しぐさ)の勉強に次いで、最後に間(マ)と取り組んで一生を費やす。この間は魔といはれるほどに中々その正体を摑み得ないもの……」と言い、
「盲目に成った柳家小せん(1883~1919)師が“噺家は喋っちゃアいけない……”といった。この言葉の意味はこの道に入ってツイ最近意味がわかってきた。」に続けて、「兎に角六十を幾つか越してやっと行く道がわかって来た。人生は六十からとはうまい言葉だ。」と言う。

私は、昨年夏古稀を迎えかろうじてわかって来た。遅過ぎるとも言えるが、ありがたいことに妻が揶揄する「病は気から」!?の体調不良だけで生きているのだからわかった時が吉日で、遅い速い或いは歳相応など気持ちの持ちよう、人それぞれと思っている。
娘の死が私に迫って以来、自照自省の証しと言わんばかりに拙悪文を書き始めて4年目の今年、自身を、私の言葉で、表わすその苦に襲われながらも悦の一瞬もあって、きっと娘は喜んでくれているだろうと霊感よろしく独り善がりになっている。
これまでに出会った人々には、当然とは言え直接に間接に口さがない人々も多いが、孔子が自身の体験から言う「耳順」の意味での馬耳東風が少しは自然にできるようになり、娘への感謝も日毎に強くある。娘に酷(むご)い話である。

「眼は人間のマナコである」は落語界での鉄則的言葉とのこと、そして「噺家は喋っちゃアいけない」。
何と怖ろしいほどに魅惑的官能的な二つの言葉。

私たち『日韓・アジア教育文化センター』は、教師が創り出した団体で、だからこそこの二つの言葉は激しく私たちそれぞれに迫る、と私は思う。
そして医師も落語家も教師も、それぞれの理由で望み、然るべき金銭を支払って来た老若と向き合い、何がしらの充足を与え、時に憤慨と哀しみを与え、それをもって生計を立て、家族を養う。概念化して言えば正に「師」の生き様……と、厚顔無恥そのままに言う、私は元中高校国語科教師。

日本近代詩の最高峰と文学史で讃えられ、私もそれを得心している詩人が、私たち日本人に、近代化の日本について気づかせ、再考を促した作家で日本研究者の小泉 八雲(ラフカディオ ハーン・1850~1904・父はアイルランド人、母はギリシャ人)について、その妻(松江の士族の娘・節子〈セツ〉)の、内助の功を得てこその八雲のこと、また二人の至福な関係を書いた文章に次のような一節がある。

「元来人間の会話というものは、動物に比して甚だ不完全なものである。……目をちょっと見合すとかいうだけで、相互の意志が完全に疎通するのに、人間は廻りくどく長たらしい会話をして、しかもなお容易に意志を通じ得ない。(中略)単に眼を見合すだけで、一切の意味が了解される恋人同士の間には、普通の意味での言葉や会話は、全く必要がないのである。」

高校時代の恩師が、私の教師着任に際してのはなむけの言葉の一つが、悪戦苦闘の教師の日々であった33年間の苦笑とともに浮かぶ。

「授業の終わりに生徒の3分の1がお前を見ていたら大正解と思え。」

そんな私の、公私人生を厳しく責め立てるがゆえに大好きな詩をまたまた引用する。茨木 のり子(1926~2006)の「こどもたち」

こどもたちの視るものはいつも断片
それだけではなんの意味もなさない断片
たとえ視られても
おとなたちは安心している
なんにもわかりはしないさ あれだけじゃ

しかし
それら一つ一つのとの出会いは
すばらしく新鮮なので
こどもたちは永く記憶にとどめている
よろこびであったもの 驚いたもの
神秘なもの 醜いものなどを

青春が嵐のようにどっと襲ってくると
こどもたちはなぎ倒されながら
ふいにすべての記憶を紡ぎはじめる
かれらはかれらのゴブラン織を織りはじめる

その時に
父や母 教師や祖国などが
海蛇や毒草 こわれた甕 ゆがんだ顔の
イメージで ちいさくかたどられるとしたら
それはやはり哀しいことではないのか

おとなたちにとって
ゆめゆめ油断のならないのは
なによりもまず まわりを走るこどもたち
今はお菓子ばかりをねらいにかかっている
この栗鼠どもなのである

「こどもたち」とは、最終連から小学生のような印象を持つが、中・高校生でも確実に私の心象に浮かぶ。大学生はどうだろう? 今の世、十分成立するのではないか。もちろん大学生の幼稚化といった類の大人風(おとなかぜ)を吹かした驕(おご)りの発想ではなく、である。
或る者たちは「ゴブラン織り」を始め、「哀しみ」に心覆われ、思い煩い、悶え、しかし時間は無色透明飄々淡々と過ぎ去り、周囲は、社会は、憐れみと言う同情を愛情のように言い、或る者は自身で自身の命に終止符を打つ。
この世に生を得、祝福され、わずか10数年にあって、「疲れた」と呟く子どもたち、そんな若者たちに私はどれほど出会って来たことだろう。
日本は世に言う“文明国”“先進国”で、自身で自身の命に終止符を打つ数が、この10年先進国第1位である。
日本の原型とはこれほどまでに非情なのか。政治家の言葉の虚しさ、言葉の偽善が、益々際立ってくる。大人たちが、教師たちが「眼は人間のマナコである」を自身の内奥に確(しか)と持ち、その自然な発露ができる自己修練時間を持っていれば、この不名誉で哀しい順位は疾うに返上していたのではないか、と自責をもって重ねて思う。

「忙しい」が言い訳の御旗(みはた)となり、そう言えることが真正「現代人」であり、選ばれた人である名誉・勲章との優位意識となり、更にはそこに自己陶酔することが“陽(ひなた)”の人生かのような世にあって、人間(じんかん)への志ん生の思いはどれほどに通ずるのだろう。
「忙しい」と言うことで、対話を封じ込め、相手の想像(力)を削(そ)ぎ、己が正当、善、真を覆いかぶせようとする傲岸極まりない意識が無意識に働いているように、現職中忙しくしていた私には思える。
心が亡くなる「忙」。いつまで繰り返される「忙」の哀しみ。死に際しての常套表現「ゆっくりお休みください」。

学校は教師も子どもも大忙しの世界である。教科(正しくは担当者の多くの?大人)それぞれが、矜持まばゆいばかりに基礎基本を言い、課外活動等々すべてが人生の基礎素と諭し、かてて加えて子どもたちは塾に、稽古ごとに……。
それに克(か)ってこその、「勝者」現代人との光輝?その道程で落後した子どもと親の悲哀に幾つも出会った。
彼らは、日本での、(更には欧米での?)競争原理世界での敗者であり、憐憫、同情は無用、「眼は人間のマナコである」? そんな“ゆとり”が次代を担う若者をひ弱にする、と指摘するほどの知勇は私にはない。
教師体験だけではなく、私の児童生徒学生時の体験からも、現行の学校在籍期間の自由選択を入れた延長等々、制度・内容の大胆な改革を思う一人だからなおさらである。

私は己が生徒・教師体験から私の言葉で教育を語ろうとするが、その限界にいつも苛(さいな)まれている。
癌をはじめとする難病との闘いを強いられている子どもたち、「特別支援」「養護」との言葉が付せられる学校世界にある子どもたちの教育について、私は概念的観念的でしか言葉を紡げない。
それでも、子どもたちの状況、環境を越えてすべての生の根底に置くべきことは、大人の、社会の受容力、包容力こそが、科学の発達と長寿化、その中での少子化日本を考える要諦ではないかと思っている。
現実を肌で知っている多くの国民を愚弄し、せせら笑っているとしか思えない「一億総活躍社会」との傲慢が、一部で誉めそやされている現代日本。

この批判は「私が」のそれではなく、マスコミ=情報、事実、との時代錯誤そのままに安住していない人たちにとっては何を今更、のことである。 当然、先日の「保育園落ちた日本死ね」発信には、私の周囲の人々を含め大いに快哉(かいさい)の雄叫びを上げた一人である。

言葉は道具である……。
言葉は生を鼓舞する、と同時に剥奪もする。教師はその言葉を生業(なりわい)の基本にしている。とりわけ国語科教師は。(ここでは音楽や美術や体育の言語……については触れない。)
教室での「眼は人間のマナコである」、生徒たちの無言の授業評価はそのときどきに明示される。そのとき終了の音(音楽)が鳴った瞬間に「えっ!もう終わった?」との生徒同士の言葉を耳にすることは、教師冥利に尽きるのではないか。私の場合、33年間で数えるほどしかないが、ある。。
40分なり50分が、彼ら彼女らの内で一瞬に凝縮された快感。恍惚。言葉は道具を超える。言葉が音楽に昇華された瞬間。神の微笑みの直覚。法悦(エクスタシー)。

「噺家は喋っちゃアいけない」
以心伝心、魂・霊性の自覚。不立文字。“ゼロ”を創り出したインドに端を発し、中国・朝鮮を経て日本で大きく開花した禅。
無為自然を説く老子の言う「玄のまた玄」。母胎の無限に思い馳せる永遠、宇宙の心象の魅惑。「玄(げん)牝(ぴん)」。
東洋的見方、考え方……。
しかし、私の薄さゆえの、言葉を重ねる矛盾と限界、そして諦め、だからこそ湧き上がる一層の憧れ。小津安二郎監督『東京物語』の、名画の名画たる由縁、私を惹きつけてやまない理由、また画中原節子と香川京子さん演ずる姉妹の会話にどこか違和感を持った私とも重なる。

国語教科書の常連、中島 敦(1909~1942)の『名人伝』(中国の、弓の名人を主題にした小説)の一節。

――至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。――

この名人の域に達し得た主人公(紀昌)の風貌について、作者は次のよう書く。

「……なんの表情も無い、木偶(でく)のごとく愚者のごとき容貌」と言い、紀昌の旧師に「これでこそ初めて天下の名人だ。」と言わせる。

志ん生をはじめ、6代目圓生(1900~1979)や3代目金馬(1894~1964)など一時代を画した落語家たちに落語を教え、「噺家は喋っちゃアいけない」と言った初代柳家小せんは、過度の廓通いから脳脊髄梅毒症を患い、更に後に白内障で失明し、1919年、36歳で世を去った。
なるほどと思う。
ふと「狂気」との言葉が過ぎりもするが、私が如き人間が人の域にあって思い巡らせる限り、「狂気なくしては生も生活も展開しない」は、甚だ不得要領で、ただ常識に囚われている自身を見るだけである。
そんな私がよくぞ33年間教師が勤まったことだ、とつまるところ家族や多くの他者の恩愛に行き着く。

ほのかな微笑みを浮かべていた娘の死に顔は、どこまでも安らかで、私たち親の前にあった。
そこには一切の言葉は昇華し、ひたすら永遠があった、と私たちには刻まれている。

因みに、5代目古今亭志ん生の次男、63歳で世を去った3代目古今亭志ん朝(1938~2001)が、後10年20年と齢(よわい)を重ねていたら、父とはまた違った意味での他に追従を許さない粋(いき)な噺家になっただろう、と惜しみ愛でる人は、京都人の私もその一人で、多い。
40代で既にその片鱗を見せてはいたが、父志ん生が60歳になって分かって来た「噺家は喋っちゃアいけない」の、絶妙の“間”のある流麗さを極めた噺家に、きっとなったことだろう。本人の眉間のしわが浮かぶ。
その氏の没後10年に刊行された語りと対談集の書名は『ついでに生きてたい』。

江戸、市井人々の生活に係る読み物を読んでいたら「虫売りは 一荷に秋の 野をかつぎ」との川柳が引用されていた。哀しくなるほどの感動が走る。
小さな籠に入れられデパートやスーパー等で陳列され売られている今の世にあって、江戸の昔の天秤棒に載せ売り歩く姿自体に風情を掻き立てられるとは言え、今、私たちに、その虫売りを見て野山に思いを馳せる心の広がりをどれほどに持てるだろう。[五・七・五]に写す技術以前のこととして。
現代人にとっては、引退隠居して初めて持てるほどに遠い郷愁でしかないのかもしれない。文明と生と人に想いが行くが、すでに世界の多くの人々の「マナコ」が語っていることである。
教師在職中以来の久しぶりに、川柳を少し紐解(ひもと)いた。
「花の雨 ねりま(練馬)のあとに 干し大根」「かみなりを まねて腹がけ やつとさせ」等々に印をつけている、そのことが、かろうじて記憶の底にあるようなないような私を見た。
ただ齢を重ねただけの野暮な私が、一層身に沁(し)み入る。