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2014年2月11日

北京・上海たより  2014年『春節』点描 その1 ー 旧暦「除夕」(大晦日)ー [嗚呼、爆竹]

井上 邦久

除夕の昼下がり、遠雷のように爆竹や花火の音が聞こえ始めました。

北京事務所から見える西大望路の車の流れが速くなるに連れて、音はだんだんと近づいてきました。北京の交通渋滞は凄まじく、巳年の初めには「CHINA DAILY」紙にLIKE SNAKEと揶揄されました。
渋滞のため超低速度を余儀なくされてきた車も春節期間は「流れ」と表現できる程度の速度となり、巳年も残りわずかになりました。

農暦(太陰暦、月暦、旧暦)の一年の終わりの12月30日が除夕
昨年までは休日でしたが、なぜか今年は出勤日にするという政府通達が直前にありました。ほとんどの民族系企業が休日、或いは午後休業としているので、ビルの保安部から「あと何人居るのか?」と圧力を受けながらの仕事でした。
日本時間での終業時間の16;30に合わせて、北京人の職員も帰宅させて店仕舞。他社のオフィスは灯りを落とし、扉という扉には保安部名での封印が貼られていました。
封印貼りは面白くて、「牡丹灯篭」や「耳なし芳一」を連想しました。幽霊に憑かれたり、トイレまでも封鎖されると困るので早々にビルを出ました。

日頃なら退勤混雑のピークとなる17;30前後。
地下鉄は閑散としていて、最寄りの大望路駅から王府井駅まで座って行けました。この地下鉄1号線は長安街を中心に東西に一直線、東単・天安門・西単などを結ぶ中央幹線です。
2号線も歴史は古く、北京城市の城壁のあった場所を、地上には環状2号道路、地下には地下鉄2号線がほぼ四角形に走っています。駅名も前門・和平門・阜成門・西直門・東直門などの門の名前が多く、城壁に囲まれた都市であったDNAを感じます。
初めて北京を訪れた1971年には、まだ城壁取り壊し作業から日も浅かった記憶がぼんやりあります。今は幾つかの門と記念公園のような形で城壁跡がわずかに残されています。

広東語や閩南語が北京語を圧するかのような王府井では、観光客以外は人出も少なく、目当ての帽子屋や書店も18;00までで早めの閉店でした。
往時から北京超一級ホテルの格式を誇る北京飯店には、中国第1号の本格日本料理店『五人百姓』があり、天安門に最も近い日系合弁企業でもあります。ベテラン総経理はワイシャツを袖まくりして「19;00にお節料理が仕上がるので、それをご贔屓さんに配達」とのことで、書き入れ時の邪魔をしないよう、年末の挨拶を簡単に済ませました。

中国での大晦日の夕食は年夜飯と呼ばれ、大勢で円卓を囲みます。倹約令下の今年は「家宴」が多く、大盤振る舞いの公的宴会は、少なくとも政府のお膝元の北京飯店では無さそうでした。
ホテル地下の「食街(FOOD STREET)」で年越しの餃子麺を注文。紹興酔魚を肴に、小瓶のビールも久しぶりに解禁しました。一人では食べきれない料理はいつものように「打包」です。どの店にもプラスティックのケースが準備されていて、快く詰めて、箸は何膳分と聞いてくれます。時には店の名前を大書した洒落た紙袋を持たされ、歩く宣伝員をやらされます。

中華料理は残さなければ主人の面子を潰す、といったテーブルマナーは、賢い消費者やECO重視の思想によって時代遅れになりそうです。

社宅の庭に紅い灯篭(ランタン)が宵闇に浮かぶ頃、爆竹や花火は間歇的に聞こえました。
以前とは異なり、時間と場所の点火指定が守られているようで、胡同の角から爆竹が飛んでくるような悪戯には遭遇できなくなりました。
20;00前に猛烈な勢いで「集中砲火」が上がり、その後は休戦状態となりました。
中央テレビが長年高視聴率を誇る国民的番組『春節聯歓晩会』が始まる時刻でした。総合司会者が世界中の華人への呼び掛けと決まり文句の挨拶をしたら、サブ司会者が公安・軍への感謝が足りないと軽く咎めた事と、注目の幕開け役がウイグル族の男性歌手であった事の他は印象に残らず、転寝をしていました。

ところが深夜、直撃弾が至近距離で炸裂し始め、ビルの側面を閃光が走り、市街戦の映画を観るようでした。
そして00;00近くには間断なく轟音が響き、安眠妨害といった生易しいものではありませんでした。それから、明け方まで寝たり起きたりの時間に、雑誌を見ていたら春節の心得が載っていました。
それには、春節は旧暦12月23日の「小年」から始まり、24日は大掃除、25日からはそれぞれ豆腐・豚・鶏・麺・饅頭の準備の日が決まっているようです。
そして30日の爆竹の音響の中、家族一丸となって飲み食い、歌舞音曲で夜を徹する「除夕之夜守歳」に備えて、数日前から十分に睡眠を取っておく事・・・と書いていました。