ブログ

2015年5月11日

中国たより  (2015年5月) 『青島余聞』

商社マンの井上 邦久氏の、『上海たより』『北京たより』の定期的転載投稿を
楽しみにしておられるこのブログの読者は多いですが、
今回からより視野を広げて標題を『中国たより』に変更されました。
一層楽しみが増えそうです。
その第1回は青島の「たより」です。     (井嶋)

井上 邦久

1989年から1992年の山東省青島市に駐在しました。北京の化学品部門との兼務でした。毎週の北京への移動には夜行列車を多く利用しました。航空便も週に何便か就航していましたが、軍用飛行場と同居しているせいか、機材が乏しい時代だったせいか、単機千里を走り各地を転々として青島に立ち寄る便は、大幅な遅延が常態化していました。
チェックインカウンターの黒板に手書きで四文字「没有時間」と書かれると持久戦の気分になりました。「時間がない→いつ来るか分からない→今夜は来ないかも知れない」と読解するわけです。文庫本とウォークマンと甘納豆が殺風景な待合室での三種の神器でした。
それならば、約束事が目的地にある時は特に、平均速度が時速百キロ以下で済南など途中駅での停車時間も長いけれど、確実に目的地に向かう夜行列車を選びました。業務を終えた夕方に青島駅から乗車して12時間から14時間で朝の北京に到着です。

父親がインシュリン注射後に倒れて昏睡状態になった時、1ヵ月後に危篤続いて葬儀の相談の電話が届いた時、前者は夜行列車で、後者は飛行機で北京に向かいました。日本人居留者が20人、日本への直行便がなかった頃のことです。

その青島の地下鉄工事が大幅に遅れています。
地下鉄駅近くに建設された高級ホテルやマンションは玄関口で工事が続けられて大誤算でしょう。当社の事務所のスタッフにも、あと1年以上はバス通勤をしてもらうことになりそうです。想定以上に岩盤が固い難工事なのか?予算管理が軟らか過ぎたのか?理由は不詳です。

3月末までに終わらなかった監査の為に、4月に入ってから青島に出張しました。監査講評のあと邦銀支店を訪ね、旧知の副支店長との定点観測のような会話。
今年は日本人学校の生徒数を質問しました。

「70人を切りました。月謝は5,000元にまで上がりました」。意図を汲んで日本円換算で10万円の月謝は世界の日本人学校で一番高いことも教えてくれました。
中国経済の成長期、日本からの進出が旺盛な時期に、300人の生徒数を見込んで建てられた立派な校舎、その借入金返済や教師招聘費用などの負担が大変であることは、昨春の全国日本商会総会でも報告され衝撃を与えました。
その折には、世界で三番目の高額月謝であること、駐在員子弟の教育費を全額負担してくれる恵まれた企業ばかりではなく、ましてや自営業の子弟に於いておや、という議論でした。
インターナショナルスクール或いは地元の学校で学ぶか、更には家族を日本に残して単身赴任の選択をするかの切実な問題が、青島に典型として表れています。

もう一つの話題は、ゴルフ場の閉鎖命令問題です。
数年前からの新規建設認可を下ろさない政策は、高級ホテルや大型分譲住宅にゴルフコースを併設させるという対策で潜り抜けられてきました。それが昨年の夏くらいから、環境保全と違法建設取締りという当局の方針が打ち出され、閉鎖命令が為されたゴルフ場も出てきたということです。当然、高額な会員権は紙切れ同然になるのは必至なので、円安で見かけ上は膨らんだ価値を評価替えしなければならないという話を聞きました。

本件は全国各地での運用がどうなっているのかの調査ができておらず何とも言えません。環境保全については、列島改造が進んだ頃の日本でも、保水力低下や農薬被害、更には生態系や地域集落社会への影響などが問題にされました。ただ、今回の中国では公務員のゴルフ禁止令が出てから、当局の締め付けが厳しくなったという穿ったコメントもありますから、ローカルルールの把握が必要でしょう。
1989年6月までは、北京北郊の十三陵ゴルフ場で何度か遊んだことがあります。
クラブハウスに掲げられた名誉会員のプレートの最上段に、時の首相でゴルフ好きだった趙紫陽氏の名前があったことを思い出します。

その後、上海動物園前でのタクシー同士の追突事故で歯を三本無くし、左手の握力が60%減となる頚椎症のためゴルフはドクターストップ、ついでに車の運転も控える前のことです。そろそろピアノの練習などで遅まきながらのリハビリをしたいと思っています。

青島の小学校校長の三男として、1931年に生まれた中村八大の家にはグランドピアノがあったことが、自伝的な書物の『ぼく達はこの星で出会った』黒柳徹子・永六輔編(講談社)に載せられた天井の高い応接間でピアノに向かう写真で分かります。
ポーランド生まれのユダヤ系ドイツ人のヘルス先生に、中村八大はクラッシック音楽の美の片鱗を教わりました。ある日、日本将校(「商工」の誤記ではありません)倶楽部で、「敵性外国人」ヘルス先生が即興で弾いた「荒城の月」と「さくらさくら」の大変奏曲が、軍人を含めた聴衆、そして八大少年に感動を与えたとのこと。この青島時代の体験が、早稲田大学時代から頭角を現し、ジャズピアノのスターへの路に繋がったようです。
その後、永六輔・坂本九との6・8・9トリオによる「上を向いて歩こう」などの名曲や、ジェリー藤尾「遠くへ行きたい」、西田佐知子「故郷のように」などの曲は、従来の粘着型歌謡曲とは異なる、ちょっと乾いた音楽の世界を拡げてくれたと感じています。

お名前の「八大」は東洋のニースとも呼ばれた青島の海岸線のなかでも、有数の景勝地、別荘地である「八大関」の地名にちなんで名付けられたのではないか?と思いつき、副支店長にも伝えたのですが、上述の著書の「父を想う」という一節に以下の文章があり、ご本人が別の説明をしています。

・・・三人の男の子の名前に、親父は二大(じだい)、又大(ゆうだい)、八大(はちだい)とすべて大の字をつけた。長男なのに何故「二」としたのか。「トップにはなるな、二番目でいけ。二番目でトップの人を助けなさい」というのが、親父の思想だった。謙譲の美徳を身につけさせたかったのだろう。又大、八大となると、字画を五にするためと、末広がりの意味をもたせたらしい・・・

京都人が「先のいくさ」と言えば「応仁の乱」であると言われると何を大げさな、と思ってしまいそうですが、古い商家に生まれ、祇園祭には稚児として山車に登ったという高校時代の友人から、「うちは先のいくさの時に伊勢へ逃げたのが響いて、町内でのランクが低い」と聞いたことがあります。
今の日本の政治家が「先の大戦」と言えば、第二次世界大戦を意味するのでしょうが、ヨーロッパで単に「大戦」と言えば、第一次世界大戦を指すのがむしろ一般的である、ということから説き起こす奈良岡聡智の著作『「八月の砲声」を聞いた日本人 第一次大戦と植村尚浩「ドイツ幽閉記」』には、1914年8月に勃発した第一次世界大戦直下のドイツに在住した800名近い日本人(重光葵、河上肇、小泉信三など後に著名になる人たち。医学関係者が圧倒的に多く、続いて林銃十郎、寺内寿一、梅津美治郎、永田鉄山らの軍人たち。意外だったのは曾我廼家五郎、伊藤道郎らの有名無名の芸人・ダンサー・軽業師の多さ)について書かれています。
1914年8月23日に日本がドイツに宣戦布告するまでの経緯も興味深く読みました。

欧州での火事場のどさくさに紛れて、9月2日に陸軍は山東半島への上陸、11月9日に青島のドイツ軍を降伏させています。(山口県徳山小学校の映画鑑賞会で観た東宝映画、佐藤允主演の『青島要塞爆撃命令』によって青島という地名を知りました)。並行して海軍は10月7日にパラオ島、10月中旬までにトラック島、サイパン島などのドイツ領南洋諸島を占領しています。

その後、中国に対して山東省におけるドイツ権益の継承など二十一項目の要求を突きつけ、1915年5月9日に受諾させました。この「対華二十一カ条要求」は、アヘン戦争から始まる中国への諸外国からの軍事圧力、権益拡大が「反英」「反独」などから、一気に「反日」に集約される契機となり、現在でも5月9日は「国恥記念日」として語り継がれて、今年で100年になります。

折しも、北京支局駐在だった吉岡桂子記者(今は偉くなって論説委員)による、奈良岡聡智教授の新著『対華二十一カ条要求とはなんだったのか 第一次大戦と日中対立の原点』への書評が好意的でした。市民からの購入貸出の要請にノーと言わない図書館に向かいました。
その自転車での往還に、昨秋までの水田が掘り起こされ、「秋普請穂積の里の稲田消え」と残念に思っていた所を通りました。春までに瀟洒な住宅となり、人も住み、その一角にはハナミズキが植えられていて、樹木説明の札には日本に渡来したのは1915年であると書かれていました。
黒船来航のあとの日米修好条約から50周年の記念に、日本から米国に届けた櫻はワシントンのポトマック河畔に植えられ、春の風物詩になっているようです。米国からはハナミズキが贈られ、今では普通の樹木として日本各地に根を張っています。

記念樹交換から100年、櫻とハナミズキの記念切手で祝うくらいの普通の関係で良いと思います。               (了)