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2015年6月11日

中国たより(2015年6月)    『港町旅情』

井上 邦久

今年の春の話題の一つに金沢への新幹線開通に伴う、北陸ブームがあります。昨年の夏、東京から長野まで新幹線で移動して信州めぐりをした折に、利便性を実感できました。
その長野からトンネルを何度か抜ければ日本海、糸魚川でちらりと海の色を見て、富山でうとうとしていると直ぐに金沢に到着するのですから驚きます。
外国人旅行者の増加もあって、空前の来訪者を迎える金沢はホテルも予約が難しく、タクシー乗務員も「水揚げが二割は増えたかなあ!」と控えめにご機嫌で、「ホテルの清掃パート職の知り合いが、休日を取らせて貰えないらしい」などといった街角情報を教えてくれました。

毎年恒例の北陸蝶理会が盛況裡に終わり、翌朝の地元紙の報道も写真入りで好意的でした。祖業の地の京都に代わって、戦前から続く企業基盤、事業基盤、人的基盤である北陸産地の方々のご支援の賜物であります。
朝から金沢在住の先輩に暖かく迎えていただき、企業卒業後の生活のヒントを教えてもらいながら、卒業論文の書き残しのような仕事を、留年して仕上げることを報告しました。
福井の先輩には、おろし蕎麦に天麩羅をつけて貰って滑らかなお喋りにして頂きました。昨年は、改築されたご自宅の巨大な仏間とお茶席を見せてもらい、猫の間だけでも苦心している我が家には真似のできるようなヒントは有りませんでした。今年は燕が巣作りに「襲来」して大変だ、とも仰っていました。
先輩は明るい表情と地声の強さを印象に残しつつ、逆に年少者を労ってくれて、燕返しの様に厳しいビジネスの現場へ車を走らせました。

要件が早く終わった福井から大阪へと移動する途中、乗り換えの敦賀駅で下車しました。敦賀始発大阪行きの新快速電車の時刻を確認してから、観光案内コーナーで地図と自転車を借りました。センバツ優勝の敦賀気比高校を訪ねる時間も気分もありませんでした。
越前一ノ宮の気比神社の近くを通って、ユダヤ難民上陸に纏わる記念館を訪ねようとママチャリ(婦人用自転車。英語の「ママ」と韓国語の「自転車」を繋いだ言葉?)を走らせました。
旧敦賀港駅舎(欧亜国際連絡列車時代の重要駅。現在は鉄道資料館になり、大阪から巴黎・倫敦行きの切符やハイカラなポスターなどに戦前の華やかな国際色を感じました)から赤レンガ倉庫を眺めながら埠頭に近づくと、目指す「敦賀ムゼウム」がありました。記念館は地元の海運会社が目立たない形で運営しているのか、入場料は「お志し」方式でした。

上海のユダヤ難民記念館に杉原千畝を顕彰するコーナーがあり、戦後外務省を「クビになった」杉原千畝のことを、案内人が「処刑された」と説明していた時期があります。
外務省を卒業したあと、杉原千畝が日ソ貿易名門の川上貿易を経て、蝶理モスクワ支店長として活躍されたことを証明する社内資料を、上海の記念館に何度も届けて、何度も誤りを正して貰ったエピソードは何度も綴りました。
「敦賀ムゼウム」を訪ねて、今度は自分の誤りを正して貰うことになりました。
事前の調べ通り、記念館には確かに杉原千畝コーナーがあり、通過ビザ発給記録・敦賀上陸難民記録、杉原千畝の略歴、ビザ署名を決断した背景などの資料・映像が展示されています。1977年に萱場道之輔フジテレビ・モスクワ支局長の取材に応じた、杉原千畝の肉声が室内に流されていました。ソ連時代の取材でもあり、盗聴を意識して音楽を流しながらの対話ということで、聴き取りにくい部分もありました。(活字になったインタビュー記録を貰いました)

しかし、杉原千畝関係の資料以上に、ユダヤ難民への敦賀市民の温かい対応についての資料が多く残されていました。
それらは記録や記憶を風化させない、敦賀は単なる通過点では無かった、という市民の矜持と綿密な調査(2006年3月から1年間)に裏打ちされた地域文化の基盤を感じさせるものでした。
1940年9月29日の天草丸から翌年6月14日の河南丸までのユダヤ難民の上陸。(総計は、3,832人から5,855人と新聞報道に差)。
苛酷な状況の中で、日本の少年が果物を配ってくれたという伝説的美談、リンゴを一齧りしては後ろの列の子供に回すユダヤ人を目撃したという複数の記憶、
そして何十年も過ぎて、その少年は自分の兄に違いないという生家が青果商だった人の証言。
港近くの朝日湯の大将は一日無料開放してユダヤ人を入浴させた、時計屋の主人は腕時計の買取りに応じた上で食べ物も渡し続けた・・・怖くて店を閉めたという酒屋の店主、朝日湯の汚れを嫌って遠くの銭湯に通った人・・・市井の記録が一冊の本になっています。『人道の港 敦賀』(井上 修・古江孝治;日本海地誌調査研究会)。

「ツルガの町が天国に見えた」「私たちは、何百年経とうと決して敦賀を忘れない」とユダヤ人が発したという言葉が、それより20年前に筑前丸や台北丸で敦賀港に上陸したポーランド孤児からも発せられたであろうと、もう一つのコーナーで感じました。
1918年から1922年にかけてのロシア革命への干渉戦争、いわゆるシベリア出兵の動乱の中で孤立無援となっていたポーランド孤児を日本政府・日本赤十字社が救援に乗り出しました。ウラジオストックからの孤児達を迎えるに当り、敦賀関係者が具体的な救護に努め、1920年7月以降に5回に分けて合計375名が上陸、東京で体力恢復後に横浜から米国へ。
第二陣は1922年8月7日から3回に分けて児童388名、付添39名の上陸受け入れ、神戸港から南回りの航路で祖国ダンツィヒ(グダニスク)へ送り届けられています。

見学帰りに記念館の方から、「人道の港 敦賀港」という理念で運営している、杉原千畝の行いも人道の一例であるが、決して杉原個人だけに焦点を当てていないことを明解そして明快に教えてもらいました。また上海のユダヤ記念館との連繋はしていないとのことでしたので、英語資料を一式揃えてもらい、上海に持ち帰りました。

地元で作られているユダヤ菓子(クッキー風の中身にはリンゴが挟まれ、箱には杉原千畝のおなじみの写真)も買い求め、句会の仲間への土産にしましたが、駄句作への評点は甘くなかったです。
上海に戻った翌週末、第73回「上海歴史散歩の会」の寧波散歩に参加しました。
会の顧問の東華大学教授の陳祖恩先生、夫人の袁雅瓊女史は、事務局と一年前から企画・下見に参加され、寧波料理のレストランやメニュー選定まで率先垂範して頂いたと聴きました。日中交流史の泰斗であり、しかも寧波人の陳先生に案内して頂けるのは、とても贅沢なこととバス1台分の定員の内に入れたことを嬉しく思っていました。

上海地下鉄2号線の駅に集合、バスで松江・平湖・嘉興から杭州湾大橋を渡り、紹興そして寧波地区へ。先ず、道元が修行したことで名高い天童禅寺の奥まった高台へ登りました。金沢市大乗寺との交流碑横の亭で、陳教授は日本と中国との深遠なる交わりを語られ、友好とか親善とかの言挙げをするまでもなく、静かな松の風が何処からともなく届くような清涼な関係を伝えようとされました。
まさにそれは『正法眼蔵随聞記』に記された、道元が入宋時に天童禅寺で、如浄師が弟子を鍛錬する言葉を思い起こさせました。道元(1200-1253)は宋から帰国して、越前に隠棲し、永平寺を開創。忠実な弟子の孤雲懐奘(1198-1280)が折に触れて接した道元の教えをメモにし、整理されたのが『正法眼蔵随聞記』です。
メモといっても読みづらく、四半世紀前に買った岩波文庫が綺麗なままです。処々に○印をしていますが、若い頃に何故その一節にマークしたかのか思い出せません。ただ今回の訪問で、道元の思想や哲学はともかく、この文庫本の中の道元もメモ魔の懐奘(年下の道元に心服し、長生きして道元の教えの伝達をした?)も少しだけ身近な存在になりました。

夕方にお邪魔した阿育王寺では、陳先生に随いて聞き歩きました。
鑑真が最後の日本渡航を試みるまで滞在した場所であることを記念する場所で、その使命感について教わりました。また二代前の北京の指導者の書が山門に掲げられ、歴史的価値のある扁額が片隅に追いやられていることを遺憾とされ、その書の品格の違いを解説されました。また、お坊さんも退勤は「下班」と我々と同様の言い方をし、「和尚」とは呼びかけず「師傅」(今では調理師、整体師、運転士もこの呼称)で良いなどという中国語も傍らで学びました。

翌朝は最近の習慣になりかかっている早起きをして、散歩と体操。公園に集う愛好家たちが小枝に下げた鳥篭を覗きながら、鳴き声の聞き比べをしました。朝食を済ませてバスに乗り、道元上陸の地から外灘の旧租界地へ。教会、英国領事館跡などが並ぶエリアを散策。
最後に寧波博物館。2012年プリッカー賞を受賞した王氏設計の見事な建物も然る事ながら、日中交流の展示は熱の入った陳先生の解説と相俟って印象深いものになりました。

倭寇についても、その構成員は多様であり日本人比率は低い集団なのに、何故にわざわざ倭寇(Japanese Pirates)と名乗りを上げたのか?の疑問も半ば解けました。
日宋貿易で博多、敦賀と寧波がそれぞれの窓口となっていた頃、平清盛は敦賀から琵琶湖を経て京都まで水運で繋ぎ、敦賀から寧波を経て運河で杭州や蘇州と結ぶ構想を持っていたと、上述の『人道の港 敦賀』の35頁に書いています。二都を結ぶ二港構想です。
北陸と水運への意識が強くなっていたせいか、5月28日付けの日経新聞文化欄に掲載された「陽明丸のロシアの子を救う」という石川県能美市の北室南苑さんの文章を見逃しませんでした。ロシア革命混乱期の1920年の史実をもとに、茅原基治船長や陽明丸船主の人道的な行動を伝える活動について綴られていました。

「グローバル」という日本語に訳されていない言葉があります(中国語では「全球的」)。古代から今に続く北陸人の姿勢や行動には、マスコミやビジネスシーンで多用される「グローバル」という言葉よりも、ずっと奥深く、壁の低い人道に沿った底力を感じました。

6月4日、敦賀で頂いた英文資料を携えて上海ユダヤ人難民記念館へ行きました。今回は二階の応接間で渉外責任者に接遇されました。以前の責任者の高女史はオーストラリアに移民されたとのことで、若返った責任者の周さんが真摯に対応してくれました。
敦賀の資料説明と杉原千畝の戦後生活、そこに蝶理がからむことを改めて理解してもらいました。敦賀の記念館、岐阜県八百津町の「杉原千畝記念館」との連繋はしていないことを確認できました。

周さんからの宿題として、敦賀に上陸したユダヤ難民の正確な人数、その中から日本を通過して上海に向かったユダヤ人の乗船港と人数を調べて欲しいと頼まれました。

容易ではない宿題の回答をしてから卒業したいものです。                                  (了)