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2016年4月8日

中国たより(2016年4月) 『渡海人』

井上 邦久

この一ヶ月も色々な方とお会いし、お話を聴かせてもらいました。

上海静安区の朱實老師のお宅をまたまた訪問しました。そして漢俳(漢字だけで五七五、十七字、季語に当る言葉を使い俳句的な世界を醸し出します)の作品をお預かりしました。

一雷驚百蟲 万象更新春意濃 耕種微雨中  瞿麦(朱實)

(拙訳:啓蟄や万象めざめる微雨のなか)

冬を乗り越え啓蟄を迎えたことを歓び、春気が濃くなる微雨のなかで土を耕し、新たな種を植えていこう、という明るい内容の作品でした。卒寿の春を迎えて、なお一層創作に意欲的な句意を喜ばしく思いました。
この漢俳に朱實老師からの献辞を添えた色紙は、三月末に山田洋次監督にお渡しできました。
翌日の2015年度大連日本商工会文化事業イベントで「ぼくと大連と寅さん」と題する講演をされる予定の山田監督と同じフライト、しかも機内では近くの席に座る巡り合わせの良さがありました。「朱さん、お幾つになった? 90歳!」と気さくに対応いただいたので、漢俳の大意は『母と暮らせば』『家族はつらいよ』を仕上げたばかりの山田監督への、朱老師からの激励のようですとお伝えできました。

大佛次郎賞受賞記念講演会が満員札止めの横浜市開港記念会館で行われました。第42回目の本年度は、詩人金時鐘氏の回想記『朝鮮と日本に生きる―済州島から猪飼野へ』(岩波新書)が受賞対象でした。昨年9月の「中国たより」に、金時鐘氏の済州島脱出について少しだけ触れた拙文『済州島』を綴りました。受賞作の回想記を通じて、1948年4月3日から1954年まで続いた(完全終息は1957年?)「四・三事件」について、よりリアルに知ることができました。その流れに沿って、実体験をご本人の肉声で聴きたいと思い、講演会への申し込みをしました。

淡々とした関西なまりの金氏は、文章では表現し尽くせない臭いや粘り気を我々に伝えようとされていると思いました。知的好奇心とか歴史への興味からの姿勢だけでは吸収しにくい精神のオリ(澱・滓)の塊(=魂?)を伝えようとしているのかとも思いました。
金氏は21世紀になって、ようやく済州島に戻ることができました。故郷で金氏は両親や事件で亡くなった人たちの「魂(霊)寄せ」の祭祀を主宰したとのことです。もともと自分は唯物論的な発想をする人間ですと断りながら、金氏は祈ることで救いを得たと最後に語りました。

台湾と朝鮮の若い詩人が、同じ1949年に密かに海を渡っていることに気付きます。

一人は日中戦争終息後の国民党による台湾支配のなかで、2.28事件のあとも民主文化運動の挺身。ついには身分証明書を偽造して基隆港から脱出し、英国船籍の貨物船で大陸に渡った朱實老師。

一人は朝鮮半島で南北政権が対峙するなか、済州島での民主化運動に参画。4・3事件の緊張下で身を潜め、父親が極秘裏に手配した漁船で済州島を夜陰にまぎれて脱出し、神戸市の須磨海岸あたりにたどり着き、大阪市の猪飼野に棲みついた金時鐘氏。

お二人が同じ年に両親や故郷と別れて、海を渡った背景には国民党・中華民国と共産党・中華人民共和国の対立や大韓民国と朝鮮民主人民共和国の対峙があり、更には米国とソ連を盟主とする冷戦構造の亀裂が鋭角化する朝鮮戦争のまさに前夜のことでした。

朱老師、金氏と同じく海を渡った人の肉声を聴く機会が3月にもう一度ありました。

台湾原住民作家シャマン・ラポガン氏を挟んで作家の高樹のぶ子さん、台湾文学者の魚住悦子さんによる公開鼎談が東京虎の門の日本財団ビルでありました。シャマン・ラポガン氏は1957年台東県蘭嶼という離島の生まれ。台湾原住民16族のなかで唯一の海洋民族であるタオ(ヤミ)族の漁民。国立清華大学修了。人類学修士。台北でタクシー運転手などの就業をしたあと蘭嶼島に戻り、伝統的な漁をしつつ作家活動を続けている由。

新作の下村作次郎訳『空の目』(草風館)を訳者自身から届けてもらい、その夜の公開鼎談のあとも下村さんからシャマン・ラポガン氏について色々と教わりました。核廃棄物の貯蔵施設設置に対する反対運動家でもあること、翌日は同氏夫妻の希望に沿って三浦半島の漁港を案内すること・・・「読む前に知る」のは場合によっては、先入観が強くなることもありますが、この夜のシャマン・ラポガン氏の中国語による発言はウィットに富み、知的で論理的でありながら原初的で荒削りな魅力に溢れていました。無駄のない直裁な表現内容をシャマン・ラポカン氏は短いセンテンスで区切り、卓抜な女性通訳者との相乗効果を生み出していました。

英語圏でも翻訳本が出版されているというシャマン・ラポカン氏は流暢な英語も口にしていたようでしたが、日本語はできないようです。氏の父親世代たちは逆に中国語を学びきれなかったものの、日本語は話せるとのこと。朱老師や金時鐘氏世代に当るのでしょう。

新作『海洋文学――父の物語』の一節に、漁場での印象的な箇所がありました。

・・・わしらはマグロやロウニンアジを何匹か釣り上げた。叔父がわれらの漁獲はこれで充分だ。十匹以上とってはいけないと言った。海に魚が「いつまでも」いるというわしらの信仰は貪欲さを受け入れないというのだ。わしらはその信念を受け入れ、帰るために舟を漕ぎはじめた・・・

同じ時期に、BS画像で台湾の対岸である浙江省の漁業関係者の生活を見ました。つい数年前までの鮮魚需要拡大に上滑りした感じの好景気、御殿のような家並みが続く町。
若いやり手の船長のニヒルな言葉を曖昧に記憶しています。

「乱獲競争のため漁獲は減り、収入は減るばかり。そして網の目は益々小さくなり、水揚げされるのは小ぶりの魚ばかり。小魚の段階で獲ってしまい、成魚になるまで待つ自己規制が機能していない。他の漁船に根こそぎ獲られてしまうから」

浙江省の船長が、台湾蘭嶼島の漁民作家の小説を手にすることは当面ないでしょう。                      (了)