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2013年11月22日

東アジア・心の交流に向けて ―「徳感良民(りょうみん とくに かんず)」―

二宮 聡

(二宮 聡先生との出会いは、
先生が広域制私立通信制・単位制高等学校八洲学園の校長をされている少し前の時代ですので、10有余年前のことになります。
それは、「関西日本語国語教育研究会」であり、「帰国子女教育を考える会」であり、「日韓・アジア教育文化センター」の活動の場で、でした。
私にとって通信制高校は、千里国際学園在職時に生徒の転向希望で初めて具体的に知ることとなり、7年前には娘が、教師からのいじめや無気力な教育姿勢等で退学を決
意した時に直接知ることとなりました。
そして、先生や現場の先生方を通じて、昔風の通信制高校イメージが通じないこと、また憐憫や同情で見ることの傲慢など、改めて“現代日本”について教えられました。
その二宮先生は、今春から大阪YMCA学院高等学校に移られ、積み重ねられた実績を基に、学校広報や生徒獲得といった運営面及び国語指導、更には居合道8段を活か
して時には体育でも指導されています。)                                                                                                                                                                                                                [井嶋 悠]

徳感良民

表題の言葉は、私の父(85歳・昭和2年生)の実家・私の本籍地(広島県山県郡北広島町)に残る、父の兄(故人)が戦後復員した際、出征した中国の村の長老から贈られた書の言葉です。表装され広間に飾られていたので、幼少の頃から此処を訪れた時は必ず目にしていました。

この敷地内に曽祖父母・祖父母の墓があり、毎年お盆には墓参していますが、伯母(昨年逝去)やいとこ達は、この中国山地の山奥から広島市内など都会に移住しているため、今年8月15日終戦の日(2011年)、私のいとこ(伯父の長男)が掃除に来ていたので久しぶりに家の中に入り、6年ぶりにこの書を見ることが出来ました。

 「徳感良民」

日本軍の警備隊として、中国の村(郷)を守った伯父に贈られた書の言葉。伯父の背嚢に当たり軍隊手帳に突き刺さった八路軍の銃弾とともに、今でも此処に残っています。

生前の伯父の話では、他部隊がある村に入った際、村を挙げて歓待を受けた料理・酒などに毒を盛られ全滅した噂話が流布し、この村でも村の長の住宅で最初に接待を受けた際、その懼れがあったが、意を決して出された酒肴を何事もないように食したので、それから一気に友好関係が築けたと述懐していました。
その村を警備した月日と友好の証としてその書を贈られたそうです。「良民」は中国の民を差し、その民が徳を感じている相手は、敵国の日本軍警備隊長だった伯父とその隊でした。良民と伯父たち日本軍の交流。

今ではその事実を知る由もありません。しかし、「良民」や「徳感」という言葉からは、少なくともマイナスなイメージは湧いてきません。

しかし、中国をはじめアジアでは、今でも日本に対する敵意に満ちています。2006年、上海で開催された「第3回日韓・アジア教育国際会議」に、パネリストの生徒と共に参加した際でも、日本の過去に対するネガティヴなイメージは前提に置かれ、日本とアジアの歴史を語るには、まずここから入ると言っても過言ではないでしょう。

私は広島で生まれ育ちました。父は被爆者なので、私は被爆二世です。平和の尊さはいつも強く感じていますし、東日本大震災で起こった原発の被害は他人事ではありません。そして、世界中に広島で起こった悲劇を伝えなければならないと思っています。

   「感じる」

この感覚が東アジアのこれからを考え行動する上で必要ではないでしょうか。東アジアには「感じる」「共感する」「感じあう」、言葉だけではなく、このような心のふれあいこそが大切なのです。戦火のアジア大陸で、伯父と中国の良民とが「徳感」しあったように。

過去の恩讐や歴史を超えて、東アジアの地に集い、交流する素晴らしい空間。

 その空間と交流の歴史を若い人たちに残さなければなりません。

 そんな空間になるように日韓・アジア教育文化センターの活動と歩調が合わせられればと思いますと同時に、通信制高校で出会った呻吟する高校生たち、更には広く教師の姿勢について、この場等を通して発信できれば、と願っています。