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2018年3月30日

「天賦の才」 ~自己発見の悦びと未来への可能性~

井嶋 悠

スポーツは観るより為(す)る方が好きだったが、加齢もあってか、観ることで心洗われることが増えて来ている。スポーツそのものを観るのは当然のことながら、それを為る人に心揺さぶられる私がいる。
ラグビーは、実践経験はないが、好きなスポーツで、若い時は観ることで羨望の感涙を起こしていた。しかし、2015年のワールドカップで、南アフリカに劇的勝利等快進撃で私たちを興奮のるつぼに落とし込んだ、[田中 史郎選手][堀江 翔太選手][五郎丸 歩選手]ら、鍛え抜かれた肉体、磨き上げられ高い技術、チームとしての構成の流麗さはもちろんのこと、併行して彼らの個性・人間的魅力に心惹きつけられ、観る醍醐味を知ったように思う。
スポーツに限らず芸術全般等、観るなら、聴くなら、読むなら「一流に接せよ」である。
その観ることで私はいろいろなことに気づき、考える機会を得た。今回の投稿はその一端である。

このことを決定づけたのが、今回の「平昌オリンピック・パラリンピック」での、[小平 奈緒選手][高木(姉)菜那選手/(妹)美帆選手][村岡 桃佳選手]である。

小平選手の謙虚な大人(たいじん)性、高木選手の姉の社会性を弁えた広量性、妹の天衣無縫の質朴、村岡選手の父の献身と絆、三人に共通してある、或る時に己が天賦の才を自覚し、そのきっかけをつくった人・事があり、彼女たちの、ひたすらの精進を支えた人々、導いた人々、そしてそれを更なる精進の源泉とする心。厳しい鍛練に打ち克つ意志が創り上げた、肉体、研ぎ澄まされた技術。無心の集中力、果断の力。日本人らしい和の構想力。そこに到る心の浮沈、軌跡と克己。

オリンピックや世界選手権といった場になると、必ず起こるメディア主導の、代表になるまでの人生、鍛練での制約、障壁等一切なかったかのような無責任極まるメダル狂騒。繰り返される、選手の精神的圧迫と結果と日本人性の話題。無責任の幾重もの塗擦、そして忘却……。

そのメダル。
今回のオリンピックでの獲得総数は13で、小平選手の2、高木選手姉の2、妹の3をそれぞれ1と数えれば、延べ20人の内、女性が15人、パラリンピックでは、獲得総数10で、獲得選手は4人、村岡選手が一人で5獲得し唯一の女性である。彼女たちの偉業は想像を絶する。あの羽生 結弦選手の偉業が、かすんでくるほどだ。

余談ながら、14世紀に吉田兼好法師は随筆『徒然草』の中で、一つのことに秀でた「道」(茶道・華道・歌道・弓道等々)の人を採り上げ、その人たちのモットー(指針・信条)を記している。
(例えば、高校の教科書でしばしば登場するのが『高名の木登り』。木登りの名人が、高い木から降りる人に、「下るる時に、軒(のき)長(たけ)ばかりになりて」掛けた言葉「あやまちすな。心して下りよ」の箇所)
「スケート道」?「スキー道」?に秀でた彼ら彼女らのことを兼好なら何と批評するだろう?

因みに、日本人はその「道」が好きな国民性だとはよく聞くところで、「武士道」にはじまり、「相撲道」「野球道」「芸道」はたまた「パチンコ道」?等々。

恥ずかしながら、この歳になるまで、私は「天賦の才」とは、天が或る特定の人だけに与えた特別の才能・資質、「天才」「英才」と同列に考えていたが、間違いだと気づき始めた。そのきっかけの一つにも『平昌オリンピック・パラリンピック』がある。
天(広義の神)は絶対正義であり、絶対公正の存在であるはずだ。でなければ、「天網恢恢、疎にして失せず」との表現は生まれないのではないか。
この言葉は、老子の言葉であるが、東洋学者金谷 治(1920~2006)の、『老子』の訳注、解説によれば、次のように説明されている。引用する。

――人間のさかしらによって、利害にとらわれた立場で裁断することをやめて、無為自然の天の摂理にゆだねるのがよい。――

無為自然に人の好悪、美醜、善悪等は一切ない。絶対透明の世界。それがゼロの世界観につながると私は思っている。これは「老いの幼児帰り」につながるとも思う。幼児はその生そのものが透明であり、老いは意図的に透明に戻ろうとし、自然に没入しようとする。「隠棲」は老いの世界のことである。そして死を迎える。久遠の静寂世界への旅立ち。死後の世界があったとしても、それは無色透明霊魂の世界である。
と、考えれば、やはり「天賦の才」に特別、特殊の意を込めるのは矛盾する。
誰しもが天賦を“与えられ”生まれている、と考えなくては直覚でも理でも通らない。

しかし、そう思う私は一方で、「障害をもって生まれて来た子どもはどうなのだろう?」と止まり、前へ進めない。たまたま障害を持たずに生まれ来た者が、障害を抱え日々刻々過ごす本人、家族、医師、看護師等々の厚意を心に留めて過ごすことで免罪されるとも思えない。
身近に障害を持っている子ども(すでに40代)と共に過ごす母親(80歳になろうとしている)があるだけになおのことを思うし、己が脆弱さに思い到るだけである。
それでも、天賦の才はすべての生命に注がれ、すべての人が世に生れ出てきていると思いたい。

この強引さの上で、今、日本に求められていることは、子どもたちの「時間」ではないか。
学校授業、長期休みの形骸化しつつある宿題、学校課外活動、塾、稽古事、スポーツ活動、遊び、子どもによっては家庭経済補助のためのアルバイト……と。
教師の多忙、過労(死)が緊要の課題とされ、改革が為されつつあるが、子どもたちもあまりに忙し過ぎるのではないか。それも1+1=2をすべてとする合理的?実利的?の思考にして指向を善しとした、人生の“幸い”に行く着くための土壌造り期20歳前後までの考え方の、溢れる現実にあって。
その中で、己が天賦の才の自己発見は可能なのだろうか。
それは違う、多事多忙だからこそいろいろな場面に、人に遭遇するのだから天賦の才を自覚する機会は多いはずだとの反論もあるかもしれない。

学校世界の旧態然としたピラミッド構造は崩れつつあるとは思うが、一方で「学校格差」はより深刻になっているのも現実ではないか。
入試方法が、各学校教育段階で変わりつつあるが、その現実化で生じて来る困難な問題を前に、塾産業は今以上に子どもたち・保護者たちに頼られるのではないか。「対症療法」に対する塾産業の実績と歴史は、学校世界が到底太刀打ちできるものではない。その理由には今は立ち入らない。

少子化、高齢化の真っ只中にある日本だからこそ、学校世界の構造、本質の根治治療の千載一遇の時機ではないか、と再び思うが、所詮私の独り善がりか。
その私なりの学校社会の制度、内容の変革については、以前に投稿したのでここでは要点だけを記す。
尚この私見は、神戸・大阪の大都市圏での私立中高校教師と言う限られた体験からのものであるから、環境、風土によっては既に当然のこととして改革されているかもしれないし、いかにも都鄙の格差を忘れた大都会的発想との批判を受けるかもしれない。

○義務教育としての学校教育期間を、初等教育(小学校)・中等教育(中学/高校)に2分する。
[注:この「義務」との言葉はどうも抵抗があるが、他に思い当たらないのでこのままとする。]

○初等教育期間は現状と同じく6年間とし、中等教育期間を6年~8年とする。

○初等・中等教育機関では、初歩・基礎・応用・実習・体験等、2年を1サイクルとする。
その際、各教科が主張する「基礎・基本」内容の再構築、再整理を図り、「必修科目」を最小限に留め「選択〔必修・自由《特に自由選択》〕を大幅に採り入れる。
課外学習、体験学習充実のために、各地域のコミュニティ・クラブを拡大、充実させ、そこでの専門家と学校教師との連携を強化する。必要な諸経費、予算は税金で運用し、原則無償とする。
そのためにも教育と福祉での税金運用と他領域での税金運用を徹底して整理、明確化する。

○「遊び」についての、その多面的意味、重要性を再考、再確認する。

○最長20歳で高校卒業とし、例えば4年制大学は「教養課程」を基本廃し、廃した講座を高校段階におろす。要は「高等教育」の本来に戻した専門教育機関とする。その上での大学院とする。
尚、18歳~20歳の間の卒業年齢、及び大学卒業、専門学校卒業、就職での社会的視点を再検討する。

○入学(選考)に関して、各学校教育機関での教科学習を含め日々の活動を重視し、諸々推薦制度での形骸化した「内申書」や事前提出「小論文」を廃し、各学校教育での学習で対応できる「入試問題」を課す。

 

『平昌オリンピック・パラリンピック』での、ここで名前を挙げなかった彼女たちも含めその存在感は、私の中で途方も大きなものであった。
羽生選手のフリーでの、最後の音楽と彼の演技(技術)と気魄に鬼気迫るものを直覚したが、にもかかわらず私の中ではその存在感は女性群にあった。

直近の時代に日本で、政治・社会・経済の委員会等ニュース報道に、多くの女性たちが、欧米のように、ごく自然態で登場することを願わざるを得ない。男女共同参画社会日本として。「共同」が平等、対等の上に立った競争であることにおいて。
その意味からも旧態のままで“男”立場にしがみつく男性にとって大きな警鐘になったのでは、と一人一人が天賦の才を自覚する端緒に少なからず関わる教師の一人でいた男の私は自照自省する。後悔先に立たず。

駄文に加えて蛇足の二重愚を。

選手たちのオリンピック出場に到る、いわんや入賞、更にはメダル獲得への道程での、心身の計り知れない労苦に思い及ぼし、一部の政治家、CM企業を含めたマスコミ関係の、賞讃と労わりの言葉の結果的に利己的善意が、またストーカーまがいの“追っ掛け”が、どれほどに選手たちの休養と平安に土足で踏み込むことになり、未来を阻害することになるか、慮りたいものである。