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2019年9月12日

芸術の快に思うことつれづれ

井嶋 悠

先日、とんでもなく魅力的な女性に出会った。作品と写真の上で。 1980年生まれの女流銅版画家入江 明日香さんの個展に行った。
とんでもないと言うのは、精緻極まる技法で彫られ、描かれ、重いプレス機で印刷されている諸作品を鑑賞しての感想。フランス研修で一層磨かれた、淡く鮮やかな多色彩、幻想的な構図、そこに漂う徹底した女性の感性。
「一版多色画」という独自の技法も編み出し、今も毎年フランスに赴き修練しているという。 私は美を直覚し、それを引き出す技術にただただ感じ入った。それは以前投稿したダリが発する男性性とは違った、私が思う女性性で、感動の質は違っていた。

過酷なまでの重労働であるという制作の最中の写真も展示されていて、右手に無造作に貼られた大判の湿布薬に眼が止まった。その姿が、もの静かで、自然な表情の彼女に、なぜか強く相応して感じられた。
主に若い世代で、こともなげに「アーティスト」と言うのをよく目に、耳にするが、聞く度に、老人の固陋(ころう)な感性と分かりつつも。非常な違和感が起きる。シャラクセエと思うのである。ひどいのになると、ポピュラー音楽歌手がアーティストと自称している。ポピュラー音楽を否定しているわけではない。私たち世代に大きな影響を与えた一人、ボブ・ディランは、先年ノーベル文学賞を受け、イギリスのピンク・フロイドという特異で魅惑的なグループもあったのだから。その自称する感性が信じられないのである。 時代に取り残された老いの愚痴なのかもしれないが、私が不真面目で、自称する人が真面目過ぎるのか?
ただ、入江さんは自身をそう呼称しないだろう。と頑なに己が直感を信じている。

その芸術、技術とは表裏の関係にあって、そもそも芸術との英語ARTには、元来「困難な課題をたくみに解決しうる、特殊の熟練した技術」(『美學事典』弘文堂)との意味を併せ持っているとのこと。そして、ギリシャ時代の哲学者アリストテレスは、「必要のための技術」と「気晴らしや快楽のための技術」に分け、後者を芸術と考えたとのこと。(上記同書)また時代が下って、18世紀ドイツのやはり哲学者・カントは「効用的技術」「機械的技術」「直観的技術」と分け、更に「直観的技術」を「快適な技術」と「美なる技術」と分けたそうだ。(上記同書)
なるほどと思うが、そもそも美とは一体何ぞやとなれば、私など巨大迷路に入り込み、「直観がすべてを判ずる」と放言し、早々に引き揚げる。しかし、哲学なるものはおもしろいと思う。世には好きなことで身を立てている人が少なからずあるが、生きるからにはそうありたいものだ。

この直観については、元中高校国語科教師の立場で言えば、文学もそうだと思う。 太宰治26歳の時の、稀有な第1創作集『晩年』の各篇は芸術だと直観できるが、芥川賞作家の中でさえ、私にとって全く直観作用が起こらない人もある。
もう一人例を挙げると、自由律俳人尾崎 放(ほう)哉(さい)の、1925年ごろの代表作の一つ「咳をしてもひとり」。彼の人生遍歴に係る知識の有無とは関係なく、やはり芸術としての直観が働く。

ところがこの個人性は、映画となると、どうしようもなく不明快度が増す。映画の持つ娯楽性と芸術性。 黒澤 明監督の『七人の侍』は芸術作品として扱われるが、その西部劇版のジョン・スタージェス監督『荒野の七人』は、そのような扱いを受けることはない。
いずれも監督、脚本家の意図(主題)があり、それに従ってカメラ、照明、美術、音楽、衣装、編集等々様々な技術が結集され、フィルム(とりわけ映像フィルムだからこそ映し出せる光と影の対照、微妙な色調)としてスクリーンに映写される。そこに差違はない。しかし娯楽と芸術に分けられ、或る人は前者を軽んずる。
ジョン・フォード監督の『駅馬車』は、どうなのだろう?
因みに、『七人の侍』と『駅馬車』は白黒(モノクローム)で、『荒野の七人』はカラーである。

【余話】 1953年の制作で、ヴェネツィア国際映画祭で「銀獅子賞」を受けた(その年、金獅子賞はなし)溝口 健二監督の『雨月物語』のことを思い出した。白黒の光と影の美しい重厚な作品である。内容は、江戸時代の短編集『雨月物語』の中の2編を基にしている。 この作品が、イタリア[ヨーロッパ]で高く[確かな芸術として]評価された理由は、日本文化或いは東洋文化への関心と、映像美だったのだろうか。 私自身、率直に言って次に記す『かくも長き不在』ほどの突き刺さりはなく観終えた。
更に余話を加えれば『七人の侍』。後篇の戦闘場面について驚愕、讃辞が言われるが、個人的には前篇に漂う緊張感の方に、より見入られた一人である。


たくさんの映画を観て来て、時間とカネを無駄にしたと思わせる作品は多くある。一方で、強い感動と思考を与えられた作品も多い。どこに私の線引きはあるのだろうか。自身でも分かって分からない。 初めて芸術的感動を意識した映画は、20代前半に観た、フランスのアンリ・コルピ監督の『かくも長き不在』だった。
J・L・ゴダールの諸映画には、前衛の映画である、との頭で背伸びする自身がいて内容より音響/音楽に興味が向いた。
また小学校時代、父親によく連れられて観たディズニーのアニメーション映画は、今も心に焼き付いているが、いずれに属されるのだろう。

とどのつまり、そこにプロとしての技術が裏付けされている限り、観たときの年齢や家庭、学校等環境、社会や人間との葛藤の深浅等々が複雑に絡み合い、それぞれの場面で己が心への突き刺さり、そのことで生ずる浄化(カタルシス)の有無としか言いようがないのではないか。直観(インスピレーション)の心地良さ。清澄な刺激 美は永遠のテーマであり、だから或る人を芸術から宗教に向かわせ、芸術の宗教性に思い到るのだろう。
孔子も「礼楽」との表現で、心と音楽をすべての基に置くが、それとも通ずることではないのだろうか。

こんなエピソードを思い出した。20年ほど前の、同僚のアメリカ人男性教師との会話。 当時話題になっていた、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』の、ⅠかⅡ、どちらが、面白いかというやり取りで、私はⅠで、彼はⅡであった。
この会話、ただこれだけなのだが、それぞれの「おもしろい」の取り方に興味が湧き、いささか大げさな表現ながら、そこに日米文化相違があるのかしらん、とまで思うようになり、再度映画を観たというエピソードである。
三つのことに気づかされた。一つは芸術と娯楽。一つは近代伝統の違い、一つは個人性。 芸術と娯楽。
「おもしろい」の人それぞれの取り方 映画の娯楽性は、(娯楽性の定義は措くとして)他の諸芸術に比して群を抜いていると思う。その線引きについては先に記したが、私の中で『キル・ビル』は徹底した娯楽性との先入観があり、観ることは「私の娯楽性」の確認でもあった。
そしてⅠは、そのリズミカルな展開[編集]、難解な主題(テーマ)もなく、幾場面か酷いシーンが映し出されはするが、ひたすら荒唐無稽そのままに観る者の眼と心を跳ね回り、監督の楽しげな貌が想像されたのである。
ところが、Ⅱはうってかわって、荒唐無稽にして酷い場面はあることはあるが、どこか監督の眉間の皺が浮かんだのである。母と娘の「愛」(最後に具体的に表わされるのだが)に係る思考的感動を意識しているように思えた、残念ながらそれは私の琴線に触れなかった。だから、私には何とも中途半端な、時に退屈ささえ襲う作品であったのである。

このことは、二つ目の近代伝統の違いにも、私の中でつながっている。 映画は演劇ではない。当たり前である。舞台上でのセリフとフィルム上でのセリフは違うのではないか。欧米(特にアメリカ?)は、言葉を弄して自己を主張する。Ⅱでは、主要人物のかなり長ゼリフがあり、それも多くはカメラがその人物を正面から映し出すのである。
Ⅰの歯切れの良い娯楽性に魅き込まれた 私としては、舞台の映画版を観ているような、だからなおのこと違和感が生じ、退屈なのである。
これらは、娯楽性の高い映画を観るにしても文化的背景の違いはあるのではないか、との思いに到ったが、しかし一歩離れて思えば、彼は非常にまじめなアメリカ人で、私はお気楽な日本人とも言えるようにも思えた。
因みに、彼の夫人は落ち着いた雰囲気の日本人である。 誤解を怖れずに敢えて言えば、Ⅰ・Ⅱを作品の是非とは関係なく、私の中でⅠは抒情詩、Ⅱは叙事詩との印象が残っている。

話しを最初に戻す。 入江明日香さんの作品は、海外でも芸術としての評価が高いと言う。 直感的にその理由は想像できるのだが、何が、どこが、海外の人を、芸樹として魅了するのか、いつか機会を見つけて確認したいと思っている。それは改めて私が日本を知ることにつながることを期待して。

2019年9月4日

自然は欺かない

井嶋 悠

この「は」、口語文法解説で〈は〉、主語であることを示す格助詞で〈は〉なく、副助詞と言う項に分類され、他と区別し強調する場合に使われる、とある。(尚、「副」は添える意。) 自然は、と区別しているわけである。
自然の反対語は[人工・人為・人間]とある。【東京堂版『反対語対照語辞典』より】
自然も、その一形態の植物も動物も欺かない。殺処分直前の犬の眼を見れば一目瞭然だ。人だけが欺く。自然災害は、時に人為災害となるが、逆はない。もっとも、「地球温暖化」が太陽そのもののへの変容に言い及ぶならばこれも人為侵食である。

こんな記事に出会った。今に始まった内容ではないが、知人の若者と重なるところがあり引用する。 内容は、人との出会いを夢に社会人になった現在30代の女性が、日常的にパワハラに遭い、人間不信から会社を辞め、農業世界に入ったというもの。
そもそもヒト社会とはそういったものとの冷徹さで「甘い!」の一言で一蹴する人は意外に多いのではないか。何せ世は“合理”最優先効率社会だから。
近代化、文明化はこの哲学なしには成り立ち得ないとすればやはり哀し過ぎる。それともヒトは、ヒトを押しのけ、蹴落としてこそ人生の「勝利者」の快を得る性(さが)とでも言うのだろうか。
若い人から自然な野人性が消え、体格の良い“ガラス細工”が増えたと言われる。しかし、この言い分もどこかおかしい。そうさせたのは自然なのか人為なのか。精緻な過保護社会としての文明社会の一面。

以前,[田舎には自然はあるが、人の情はない]旨の、やはり新聞報道の一節から投稿したことがある。 と言いつつも近代化、文明化また競争原理を忌避し、否定するほどの唯我独尊、飄然(ひょうぜん)とした自身があるわけではない。それは文明の恩恵に感謝する私と、生と競争は不可欠との思いにつながっている。それでも、ヒトとしての限界を越えたもの・ことを、最近度々直覚する。 ヒトが、ヒトが編み出し創り出した環境に、道具(機械)またそこから発せられる無数の情報に、押しつぶされそうになっている今を。

チャーリー・チャプリンが『モダンタイムス』を発表したのが1936年である。それから83年経つ今、彼の意図とその作品は過去の事として在るのではない。今、ますます生きて在る。
この拙稿では、その映画の私的感想を言うことを意図していないのでこれ以上は措くが、私自身を整理する意味から一言記す。
映画の冒頭で「人間の機械化への批判と個人の幸せの追求の物語」と言葉が映し出され、前半部は機械化とその非人間性の描写が続く。しかし、後半部には映画の本質[映像と音楽そしてチャプリンが意図する娯楽性といった側面]からの展開が続く。政治プロパガンダ的な労働者の団結と闘争の描写など望んでもいないが、愛の力(この作品では男女二人)で自身達の道を切り拓こうとする明日(ロマン)の可能性、自己信頼の他に、主題に沿った別の展開はなかったのか、と思うところがある。
しかし、私に妙案、対案があるわけでもなく、結局はチャプリンが提示した個人と社会に於ける一つの、或いは全ての?在り方に帰着するのかもしれない。 私が独りで在ることの個人性に拘り、憧れつつも、“家庭”が持つ幸せに到らざるを得ないように。
過去に、また今も、家庭(家族)を棄てた無名の、有名な人は多くある。俳人種田山頭火もその一人である。ただ、山頭火は放浪、乞食(こつじき)の旅にあって、ひたすら涙を流していたと言うではないか。

ヒトは意図的に、意識的に幸いを求める。ただ、幸いの中身は個人により多様である。 或る人は自ら命を絶つことで幸いが得られると考える。苦からの解放の喜び。 ヒトは基本的に善だと思っていた。
しかし、この10有余年の中で、娘の死への経緯、近親者のこと、世の中の様々な出来事、人々から、それが揺らいで来ている。そうかと言ってヒトの性が悪であるとまでは断じ得ないが、世、環境のヒトに与える大きさにたじろぎ、先に記した自殺は、社会による社会的殺人ではないか、とさえ思うことがある。 尚、ここで「原罪」との言葉を出せる私でもないし、そもそもそんな勇気はない。

ヒトが一層信じられなくなっている私がいる。寂しいことであり、哀しいことである。どんどん人から離れて行く私を感ずることが多くなった。
ヒトは唯一欺く生きものなのかもしれない。もちろんこの私もその一人である。 近代化、機械化とその拍車化はヒトの所為である。ヒトがヒトを、自身を追いこんでいる。
マグロはその生態構造上、止まることは死を意味する。戦後の焼け跡からの復興、高度経済成長は先人たちの“マグロ的勤労”の成果とも言えるのではないか。だから現代の沈滞感に危機感が募るのかもしれない。しかし、ヒトはマグロではない。
少子化、人口減少化(一方での高齢化)と経済成長は、どこでどう折り合いをつけようとしているのか。AIの進出(或いは浸出)、外国人労働者の不可欠と雇用の不安定、ヒトを意識しない機械化、利益追求。 人々は、子どもたちは忙しげに動き、必然、心の余裕はなくなり、日々刻々緊張感を強いられる。「性」+「亡くす」=【忙しい】。因みに「亡くす」は他動詞で「心を亡くす」、「亡くなる」は自動詞で「心が亡くなる」。

運転免許返納推進対象者となった私は、「働き方改革」が、何とも残酷極まりない冗談としか思えない。
ヒトの情(じょう)への願望が、多くの人々の口の端に上る。その時、なぜか“下町”が人情厚い(篤い)地域として共有される。 東京下町生まれ、育ちの妻が、同じ東京下町育ちの独善的ヒトに放った言葉。
「下町の人間は、いき[粋・意気]を大事にする分、感謝、報恩を忘れたヒトは切って捨てるっ」

【参考】「人情」を『新明解国語辞典』第五版では、次のように説明されている。 人ならば、誰でも持っているはずの、心の働き。同情、感謝、報恩、献身の気持ちのほかに、同じことなら少しでも楽をしたい、よい方を選びたい、よい物を見聞したい、十分に報いられたいという欲望。

上の語義に立てば、下町でも山の手でも「人情」に変わりはない。しかし、情緒的に下町に濃密さを想うのはなぜだろうか。互いにヒトであることの寛容性が今も脈づいているからではないか。先の一線を越えない限り。
利己と欲望と人間(じんかん)の葛藤が人間社会の一様態とすれば、山の手の家同士の垣の明確さに思い到る。だからこそ、先の下町育ちの一言が痛烈なのだろう。
自制と謙虚が繰り返し指摘される。それほどにヒトの欲望に歯止めが利かなくなっている。詐欺犯行者はそこを突いて来る。歯止めがかからなくなっていること自体、近代化の危機であり終末ではないか。

世界で初めて、国の発展をはかる指針として、国民総生産[GNP]ではなく国民幸福量[GNH]を採り入れたブータン。その国民幸福量の4つの指針と9つの指標は以下である。
『指針』
○持続可能な社会経済開発
○環境保護
○伝統文化の振興
○優れた統治力
『指標』
○心理的幸福
○時間の使い方とバランス
○文化の多様性
○地域の活力
○環境の多様性
○良い統治
○健康
○教育
○生活水準

そのブータン。 先日の報道では、自動車ブームで、人々がローンを組む等、競って自動車(主に日本製と韓国製らしい)を求め、経済混乱や環境汚染で、幸福度が大幅に下がった由あった。 ブータン(人)はいよいよ近代化の嵐の洗礼を受け始めたということだろうか。正念場はこれからだ。
このとき、日本は『指標』の「健康」と「生活水準」以外で、どれほどに誇りを持って発言ができるだろうか。親日家の多いブータンにとって日本はどのような鏡となるのだろう。

それに引き替え、北欧諸国の幸福度の安定はどこから来るのだろうか。 ここ数年来、日本でフィンランドの教育の素晴らしさが言われているが、かつては自殺大国でもあったフィンランド。
そこには社会[国家]そのものを再考し、再構築、再創造する意識があったからこそ為し得たのではないか。その国民的意識なしにただ高税の国ならば、この安定はあり得ない。

【参考】フィンランドを含め今年の世界のしあわせ(幸福)度ランキング(調査:国連) 《調査方法》各国の国民に「どれくらい幸せと感じているか」を評価してもらった調査にGDP、平均余命、 寛大さ、社会的支援、自由度、腐敗度といった要素を元に幸福度を計る。7回目となる2019年は世界の156カ国を対象に調査。 1位は2年連続でフィンランドだった。トップ8のうち半数を北欧諸国が占めている。
日本は2018年54位、2019年58位。因みに台湾は26位、韓国は57位、中国は86位。

1. フィンランド(2年連続)
2. デンマーク
3. ノルウェー
4. アイスランド
5. オランダ
6. スイス
7. スウェーデン
8. ニュージーランド

教育は人為の最たるもので、同時に国・社会の基盤になるものである。少子化の日本での教育変革が、今もって対症療法では、本質的問題解決に到ろうはずもない。 教育の無償化、選挙権の18歳化、これらは施行に併行してある問題の意識化があれば歓迎されて然るべき施策とは思うが、
何が何でも英語教育と科学教育の早期導入を政府や御用学者や御用マスコミが煽り立て、学校給食を15分にするか20分にするかで議論し、塾産業頼りの学力観、入試選抜と学校格差。大学の乱立。資格の取れる専門学校の高学費。(“妙な”大卒より早く元が取れるとは言え)
この心の貧困状況にかてて加えて、子どもの、親の(とりわけシングルマザー、シングルファーザー)経済的貧困。
そして、来年も酷暑が予想される夏、東京を中心とした、現都知事のお好きな言葉「レガシー」(そもそもここでlegacyなる英語を使う必然性があるのだろうか)をモットーとしたオリンピックが開かれ、既に東京の一部では“バブル”的公私会話が繰り広げられている。

日本の歴史と伝統を、教科書的、左右思想的、政治的な意図性に陥ることなく、心から日本を愛する様々な領域の人々の声・言葉に耳を傾ける時が来ているのではないか。東京オリンピックをその具体的きっかけにしたいものだ。「おもてなし」はその後に自然について来る。

2019年8月27日

夏の高校野球全国大会はやはり甲子園がいい

井嶋 悠

野球観戦の趣味のない私で、息子が小学生の頃、敢えてプロ野球観戦に連れて行ったが、野球そのものよりナイターに映える芝生に感動した記憶が残っている、そんな程度である。だからテレビ中継もほとんど観ないし、観ても途中で終わる。そもそも地上波中継の大半が、あのカネがすべての巨人だから尚更観ない。
因みに、かつての“西鉄ライオンズ”というチームは非常に印象が残っている。ただ、それも稲尾がどうの、中西がどうのとか、監督三原が名将であったとか、そういった野球に直接つながることでの印象ではなく、彼ら選手たちの公私豪傑振りに強く魅かれたからとの邪道である。

ところが、加齢がそうさせたのか、今年異変が起きた。
履正社高校と星稜高校の決勝戦、最初から最後までテレビ観戦をし、高校野球の魅力に開眼した。プロ野球とは、私なりの理由から比較には相応しくないと思っているが、これについては後で触れる。
両校のレベルの高さがあったからこそ、なのかもしれないが、地方大会から決勝まで戦い抜き、全国約4000校の頂点を目指す両校の選手、監督、応援団がもたらす緊張感と昂揚感が、そこに満ち溢れていたからと私は思っている。 この緊張感と昂揚感、音楽表現で言えば心地良いリズム感である。
攻守選手のめりはりのきいた俊敏な動き、まだ幼さも残る表情(この表情について、笑顔が今では全高校?共通項のようだが、時に不自然な、また場違いなものも感じられ、笑顔のTPOがあってもいいのではないか、と個人的には思っている。)、大人への兆候が明らかになりつつある鍛えられた肉体、選手たちとの相互信頼が自然態で伝わる監督の采配、それらを鼓舞する応援団の音楽と声との融合。音楽劇的感動。

それらはプロ野球にはない。プロ野球にあるのは、職業(プロ)としての自覚と技術とそのための冷静さ、それらが醸し出す“間”である。劇的(ドラマ)性が強調されるが、強調するのはアナウンサーと同調する解説者、一部観客、そしてマスコミだけではないのか。リズム感が全く違う。2拍子と4拍子の違い?
試合の平均時間を見ても、高校とプロでは、前者が2時間前後、後者が3時間前後と自ずと違っている。 この違いは、サッカーともラグビーとも違う。これは、試合時間内と外(がい)の違いから来るのかもしれない。

解説者は難しい理屈ではなく、あくまでも聞き手に徹した実体験からの言葉をさりげなく言う人が良い。その意味でかの清原和博さんは、一度だけしか聞いたことはないが、良い解説者になると思う。あの事件で思い考えること多々あったはずで、ますます味わい深くなったかと思うので早く復帰してほしい。彼が復帰したら私のテレビ観戦が増えるかもしれない。但し、巨人戦以外で。

アメリカ大リーグのダイジェスト版を観て、日本の野球“道”との呼称に懐疑的な(野球に限ったことではなく、本来道のついているもの以外でのいろいろな場面、領域で持ち出される“道”精神)私は、大リーグの選手たちの少年性、観客のリラックス性を羨ましく。微笑ましく思う。さすが“アメリカ”の国技だけはある。
また、高校野球の関係で言えば、阪神球団“死のロード”とか自虐的言い訳などせず、自身たちの原点であろう高校野球を真っ白な心で再自覚、再自己発見してはどうか。
閑話休題。

少年野球が、サッカーに押されて減少傾向にあるとは言え、愛好者は根強くあるようだ。その野球が日本に移入されたのは明治時代とのこと。 これについては、元国語教師の牽強付会ながら、やはり正岡 子規の短歌を共有したく思う。
明治35年、子規は結核と脊椎カリエスによる3年間の壮絶な苦闘の末(その時の様子は『六尺病床』に詳しい)、35歳で亡くなったが、その2年後に刊行された歌集『竹乃里歌』に、「ベースボールの歌として」との題で9首が収められている。その中で2首を紹介する。

「久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも」
「うちあぐる ボールは高く 雲に入りて 又落ち来る 人の手の中に」

子規にとってスポーツは全く無縁だったそうだが、野球を知るや熱中した由。21歳の時である。捕手の実践体験も持つ。
その子規が、夏の甲子園大会を観れば、さぞかし強い感銘を持ったことだろうと思う。

因みに、子規の絶筆は三句で、高校の教科書にもよく採られている。
「糸瓜(へちま)咲(ざき)て 痰(たん)のつまりし 仏かな」
「痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず」
「をとといの へちまの水も 取らざりき」

夏の甲子園は8月に行なわれる。 15日の正午、試合中であっても黙祷が捧げられる。また6日は広島、9日は長崎の被爆の日である。
15日はなぜか、燦々と降り注ぐ陽射(ひざ)し、突き抜ける碧空、躍動する白雲、の印象が濃い。平和への私たち、すべて?の人々の祈念を象徴するかのように。

彼らの雄姿の巨大さに気づかされた、酷暑の2019年8月だった。 夏の高校野球全国大会は甲子園がふさわしい。それを最もよく知っているのは、当日の選手たちであり、元選手たちであり、プロ野球で活躍した、している選手たちであろう。
だからなおのこと、その裏面、例えば甲子園に出場することでの膨大な経費の調達、選手と一般生徒の在校中、卒業後の進路のこと、学費(特待生、寮制度を含め)に係ること、日々の学業との両立、主に私立校での監督の地位の現在と未来、更には勝つためには手段を選ばず的指導、学校運営等々、大人社会の至難な諸問題を克服してこその感動であることに思い到らなくてはならないだろう。 そうでなければ、きれいごとで終わってしまう。
しかし、それらは栄光と感動のための、大人そして生徒の、必然的に求められる心身労苦であり現実である、との考え方になって行くのだろうが、私としてはどこか寂しさが残る。
そうかと言って、出場公立高校への脚光に、学校の都鄙格差を思えば一概に与する私でもない。

私は、33年間中高校教師生活を過ごし、74年間生き、様々なことでの表裏、現実と理想に、驚かされ、打ちのめされ、今、これを書いている。

2019年8月19日

多余的話(2019年8月)  『新聞記者』

井上 邦久

・・・三都のうちで一ばん暑くて人と家とが詰って樹木の少い大阪は 九月になっても秋らしい気分が見當たらない。・・・

山がないから鳥も虫もゐない、虫はゐても南京虫では仕方がない、山はあっても天保山では八文にも通用しない。・・・街路樹はあるが煤煙で黒くなって春でも秋でも同じやうな色で、落葉しないのは常盤樹であるためではない、枯れて落ちる勢ひなく枝にしがみ付いてゐるのである。 浪花風景としては川端柳が風に揺曳して、一と吹き毎に一とつかみの枯葉を散らして掃除夫を困らせてゐる。・・・  

1931年8月2日肺炎で早世した「炎のスプリンター」人見絹枝に少し先行して同年7月26日腹膜炎で逝った「炎のジャーナリスト」(大谷渉氏の評伝題名)北村兼子の絶筆『大空に飛ぶ』(改善社)の一節に綴られた78年前も暑かった大阪のスケッチです。
これに続く「大阪風物詩」の章には、満州事変の前夜、日貨排斥などの緊迫した日中間にあっても、川口居留地跡を拠点とする華商と浪花商人が仲よく対策を講じている様子がユーモラスに描かれています。  
北村兼子は、創成期の同志社で教えた祖父北村龍象から続く漢学の家に生れ、居留地の外国人から技術を習得し大阪初の洋服学校を経営する母北村勝野のもと府立梅田高等女学校(大手前高女)を卒業。官立大阪外国語学校英語科から関西大学初の女子聴講生として法学を履修(当時女性の本科生進学は不可)。続いて高等文官試験の受験を志すも司法・行政ともに請願は叶わず、女性への門戸開放はされていません。
しかし、発表した法学論文がきっかけとなり関西大学在籍のまま朝日新聞に招聘され、瞬く間に花形記者となっています。  

大阪開港・居留地・川口華商を調べている過程で北村兼子を知り、中之島図書館に戦前から保管されている作品を閲覧してきました。 歯切れよい文体と小気味よい論旨の文章を発表し、市川房枝らと汎太平洋婦人会議や世界婦人参政権会議にも参加しています。台湾・香港や上海・南京レポートも含めて先駆的な文章群ですが、大谷渉氏の著作を除けば忘れられた存在であることを残念に思っていました。
ところが8月4日朝日新聞が「夭折の女性記者 色あせない勇気」と題して北村兼子の個性的な略歴を紹介し先駆的な主張を高く評価していました。
ただ一見正論に見えそうなその記事には大切な一点が抜け落ちていることに気付きました。
1929年在欧中の北村兼子は世界一周途上の飛行船ツェッペリン伯号でドイツから霞ケ浦へ飛ぼうと、「若い筆で飛行船アジア入りの一番筆をやってみたいと、乏しい旅費のうちから6月12日にツェッペリン坐席預約料を支拂った」(『新台湾行進曲』1930年婦人毎日台湾支局)。
自費で自席を確保した北村兼子に対し、体験取材記事の独占を狙った東京毎日と大阪朝日の有志連合が妨害工作を画して横槍を入れ、多勢に無勢の北村兼子を引摺り下ろしてしまいます。人気と筆で敵わないなら組織力と金銭力で、という印象が残ります。
この汚点に今の朝日新聞の後輩が触れないのは残念であり、恣意的に避けたとすれば正論の骨格がオカラ構造(2010年頃、中国で頻発した「豆腐渣・オカラ」の如き手抜き工法)に見えてきます。
因みに傷心の北村兼子を癒したのは、欧州在住の支援者たちで、なかでも藤田嗣治は北村兼子の肖像画を描き、後にこの絵は『新台湾行進曲』の表紙に載せられています。  

多くの読者や支援者を得ることで、小面憎く思われることに本人も自重自戒する文章を書いているのですが、溢れんばかりの才気と行動力と健筆を目障りに思う同業者たちからは辛辣な批判を浴びています。
出る釘は打たれ、出過ぎた杭は引っこ抜かれるこの国の習い。
単独飛行操縦のライセンスを取得し、三菱に発注した自家用飛行機で欧州の大空に飛ぶ直前に早世したのは無念であったと思います。  

話題の映画『新聞記者』を立見席で観ました。
東京新聞の記者が書いた原作は読んでいませんが、映画は自立したエンターテイメントの要素も含めて中だるみのないものでした。北村有起哉が演じる新聞社社会部デスクにリアリティを感じました。
中だるみのない展開といえば、米国映画の『ガラスの城の約束』も素晴らしい骨格と主張が心地よい緊張感をもたらせてくれました。
著名なコラムニスト、ジャネット・ウォールズの回顧録の映画化で、米国社会の常識に「まつろわぬ民」であった一家の生き方に奇妙な共感を覚えました。

 「不易と流行」を見極めることなく、浅薄な付和雷同に陥りがちな 昨今の日本の日常のなかで、北村兼子の自立的な生き方を知り、北村有起哉の勁草のような演技に己の硬直した心身を反省し、米国社会で孤立を怖れず面倒な生き方を選択する人が居ることを頼りにして、決して簡単には「イイネ」のボタンを押さず「ただそれだけではない」と考える姿勢を大事にしたいと思います。                                          (了) 

2019年8月1日

33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から Ⅱ 中等教育[時代]前期(中学校)

井嶋 悠

東京から、再婚した父の“新家庭”西宮市に移った。広く関西で言えば“戻った”。そこには継母がいた。 父の気遣いは、幼い私でさえ容易に察せられた。新幹線のない時代、何せ母の勤務地の近くの停車駅のホームに母が居たのである。何も分かっていないのは私だけだった。
大坂駅から私鉄に乗り換え西宮に向かうのである。途中「十三」という駅があり、父に「何と読むか分かるか」と聞かれ「分からない」とかすかに答えたことが、今も残っている。
東京の小学校でそこそこの成績だったからか、当初、私立中学校を受けさせるつもりだった父は、それなりに情報を集めていたようだが、或る“有名校”で対応した教師に幻滅し、地域の公立中学校に進学することになった。

劇的!?で激動!?の中学時代の幕開けである。

入学式、数人からのグランドでの袋叩きに始まり、卒業式での同じ彼らからの1週間前死刑宣告による学校側非常態勢まで。
要は途方もなく「荒れた学校」だったのだ。そこで身をもって知らされた厳しく根の深い同和問題。
抽象より具体の体験学習の重み。この体験は私の人生観、教育観、教師観、更には歴史観に決定的とも思える翳と陽の端緒を与えたと思う。
世にはびこる善悪の吟味もないままの概念的知識を振りかざす人々への疑問、虚しさ。その私が、その概念性と正義性が頻出する教育の世界に、33年間浸ることになるとは・・・。

中学校初日(入学式・始業式)と最終日(卒業式)初めの、またその間での顛末は以下である。

ほとんどの生徒が小学校の延長上で集まる公立中学校。誰も面識者のない私は、隣席にいた生徒に親愛を込めて会話し、頭を軽くこづいた。それが、彼の、彼らの尊厳と歴史をどれほどに侮辱したかなど、つゆ知らず。それがすべての始まりだった。
帰路、待ち受けていたのが、グランド上での、彼からの連絡網で集まった数人(4、5人)の仲間からの殴る、蹴るの復讐であり、罰であった。
保護者は入学式後、既に帰宅していた。 私は隙を見て逃げ帰るだけであった。その場に居た生徒から教師に連絡が行ったのであろう。その日の午後、ホームルーム担任教師ともう一人の教師が自宅にやって来た。
そこで知った地域の問題。 一方の当事者である私は、そのことで不登校にもならず通学を始める。愚鈍な私だからできたのかもしれない。
と言うのは、教師としての最後の勤務校である不登校高校生を主に集めた学校に2年程講師生活をした経験、また娘の死へつながる彼女の体験から、中学校時代の感受性の複雑な豊かさをひしひしと思い知らされ、自身の幼さを振り返りそう思えるからである。

学校で彼らと行き違うたびに浴びせられる憎しみの視線。そうは言っても、彼らも他のことで忙しく?私への一件は、過去のこととなりつつあった。
繰り返される生徒同士の地域間抗争をも含めての争い、血を見る喧嘩、教師への暴言暴力、他校生徒の授業中の乱入、校舎裏に引っ張り込んでの定期的恐喝(カツアゲ)……。
一部教師の見て見ぬ振り、彼らへの迎合的発言、そしてそんな日々に辟易する教師たち。 コトの事情を呑み込んでいる生徒たち(先述したように大半は小学校からの延長上)の「君子危うきに近寄らず」。

この中学校は、部(クラブ)活動が盛んだったが、こんな事件もあった。 当時、サッカー部は阪神間のトップを競う戦績を挙げていて、体育の時間などサッカーをすることも多くあった。後で気づいたのだが、資質の高い隠れた選手を探している節もなきにしみ非ずで、と言うのは、どうしたことか、この私が顧問(監督)誘われたからである。
先に記した学校状況もあって、父は入部に反対であった。もっとも私自身関心もなく実現しなかった。 サッカー部は戦績からも、やはり目立つ存在で、時に「彼ら」の攻撃対象になることがあった。
こんなことが起きた。些細なことで有能な選手が、彼らから「制裁」を受け、両足を骨折したのである。
言い出せばキリがないほどに様々な事例が想い起こされるが、よほどでないかぎり表沙汰として問題化することもないほどに、私たちの心は麻痺していた。

一方で、その地域に在って、卒業後の進路差別を承知した、成績人物共に優秀な生徒。また暴力グループからの方向転換を図り立ち直ろうとする生徒。その生徒たちに強く教えられたもう一つの体験。
前者の生徒。女子生徒で卒業後進学せず就職したこと。就職する以外に選択肢はなかった彼女。それも身内の中での就職。
後者の生徒。彼の学習、生活のサポートをクラス担任から指名され手伝ったこと。
今思い返せば、なぜもっと足を踏ん張って自己学習しなかったのか、高校への進学進路指導で某国立大学付属高校受験を薦められた、ただそれだけの私だったことが悔やまれる。

卒業式学校側態勢となった背景でもある、3年次での事件と卒業式当日。
放課後の廊下で、入学式のあの連中から金銭要求を受け(額は100円前後だった)、拒否したところ羽交い絞めの暴行。それを目撃した生徒の教師への駆け込みで彼らは1週間の停学(自宅謹慎)に。
その逆恨みと彼らの3年間の鬱積が、そのような心へ導いたのか、卒業式数日前に、校舎裏に呼び出され一言。「殺したるからなっ!」
日頃、有言実行を(殺すはないが)見ていただけにその恐怖。帰宅後、親に相談し、親が学校に連絡し、学校から「正門横に親戚かどなたか若い人を待機させてください」との依頼。 そして卒業式当日、終了後、式会場の体育館から正門まで、両側に在校生や教職員が立ち並ぶ路を歩み、迎えの人と足早に帰宅。
それ以後、彼らと二度、一度は電車駅構内で、一度は知人宅近くで出くわした。駅では衆人のため睨みつけられるだけで済み、知人宅近くでは石を投げつけられ、あわててその知人宅に逃げ込んだ。
彼らのその後は伝え聞くことはあっても、実際は知らない。

この卒業校に20年ほど前勤務していた方(教師)と話す機会があり、現在、全くそのようなことはないとのこと。地区自体も様相が変わり住宅地等となっているが、一部地域では、変化は外貌だけで、その根っ子を今もって抱えている現実を伝え聞くこともある。

ヘイトスピーチが様々な領域で顕在化しつつ問題となっている。ヘイトスピーチを発する人の中には、己が発言の正当性を公然と主張する者もある。しかし、多くは疑問視し、悪行と思っている。当然である。
しかし、この哀しみは恐らく人間世界が続く限り、あり続けるのだろう。 或る友人は、差別はなくなると主張するが、私はどうしてもそう言い切れない。言葉で論を張ることと現実の乖離の痛覚。そこから生れる差別心を常に自覚する重要性に私の心は向く。
そんな私だが、歴史的、本質的に根が深過ぎる。いつ、なぜ、どういった人たちが、その根を生やしたのか。結局は、私も同じ穴の貉(むじな)・・・。

『日韓・アジア教育文化センター』の活動を続けて来たがゆえに、最近の日韓問題で思うことも多く、先日も「日韓の“溝”を考える」との表題で、拙稿を書き、韓国人の仲間がハングルに翻訳し、韓国の韓国人日本語教師の会に発信してくれた。光栄なことであるが、責任は重い。

教育世界は、倫理的側面が強いのでやむを得ないとは思うが、善的概念論が多過ぎる。教師は今もって聖職者なのである。或いは聖職者意識が強い。だからと言って、皆と同じ世俗者としての人間、と安易分類をするつもりもない。そこに教師であることの難しさを思う。
2017年3月、私の住む所にほど近い那須岳で、高校登山部の冬山訓練中、雪崩で県内数校から参加していた生徒の7人と引率教員1人が死亡し、現在係争中である。
以前投稿したことでもあるが、教師時代スキー行事の引率、指導をした経験で言えば、明らかに教師の、自然の脅威を忘れた惰性的運営、驕りが元凶にあると、私は思っている。私の場合は、たまたま事故がなかっただけのことである。

先に触れたように、私が直接に知り得た幾つかの地域で、残滓があるとは言え、かつての呪縛から解かれ、新興地として住宅や商業地が広がりつつある。それらは意識化した人々とそれに共感した人々の成果である。政治は後からである。

近代化邁進の現代、抽象的な言説からいかに具体的に、何を、どのような視点で視、若い人にどう伝えるか、あれもこれもと多忙を極める子ども達。それも速度(スピード)を求められる情報洪水時代だからなおのこと、教師の力量が試されている、と引退した無責任さは重々承知で、思う。

中学時代の、もう一つの体験。 3年次の同級に、眉目秀麗、学力優秀、温厚篤実な男子生徒がいた。私に友情を感じ、よく話し掛けて来た。私もその優しい人柄が好きだった。ただ、彼の話す言葉は、女言葉であり、動きは女性以上に女性であった。掃除中など、後ろに下げた机に私を押し倒し、口を近づける、そんな悪戯をよくして来た。
最近、その系列の男性たちが、表舞台によく登場する。その人たちを見る度に、彼は、どんな人生を歩み、今どうしているだろう、とやはり複雑な思いで振り返る。
中等教育での[LGBT]教育の現在、大人側の、それも政治家たちの根深い偏見と差別発言が繰り返されているが、生徒・教師・保護者の意識は、螺旋的に紆余曲折を経ながらも上昇しているのだろうか。

今も中学校時代、特に2年生をピークに、問題が多く噴出する。それほどにこの中等教育前期は子どもから大人への巨大な転換期なのだろう。
中高一貫の有効性を学習面から見る偏りではなく、人格陶冶の視座から[中高校8年(6年+2年)]を考え、同時併行で就職の道、進学の道に向けた中高校卒業後社会の制度的、意識的変革を、少子高齢化だからこそ為し得る千載一遇の時機、と重ねて思う。

次回は、私の学歴感(観)の原点?とも言うべき、中等教育後期、高校時代を顧みる。

2019年7月20日

天才・その“相対”を超えた存在 ~サルバドール・ダリ鑑賞~

井嶋 悠

福島県磐梯会津高原の中程にある、サルバード・ダリ(1904~1989)の作品所蔵で世界的に著名な『諸橋近代美術館』に、妻と行った。
ダリの絵画、彫刻作品の鑑賞2回目である。 ダリの、私が前回行った時と違ったテーマでの、新たな展示である。
[美術館の表示は、『開館20周年記念展 次元を探しに ダリから現代へ』である。
大学で陶芸を学んだ妻は何度か観ていて、本人曰く「ダリは好きだ。この美術館も好きだ」
静寂の漂う林間地にある瀟洒で風格のある近代建物で、その建物の前には広い池があり、横を幅3mほどのせせらぎが流れ、その周りは芝生で美しく整えられている。そこには近代の人為性があるが、取り囲む磐梯連峰、森林が、人為性をも包み込んだ久遠の自然の安らぎを与える。

亡き娘は(享年23歳)ダリを愛で、諸事情から母と私より一足先に関西から今の地に転居したことで、その美術館に母娘で何度か足を運んでいる。親ばかと言われようと、彼女の可能性を傍で実感していただけに、早逝は甚だ口惜しい。その一因が、教育に係る事ゆえ尚更であるが、前にその経緯背景は投稿しているので、ここでことさら立ち入らない。

初めて観たときから引きずっていたことがあった。どこか気構えて観ようとする私への疑問。なぜか。
例えば作品に付けられた表題に寄り掛かっての「理解」と言う観方。そのことに加わっての難解な作品との勝手な或いは先入的思い込み。鑑賞ではなく学習といった感覚。
しかし、画集すなわち写真ではなく、作品本体に向かい合うこと2回目にして、やはり私の鑑賞が大きな誤りであることに決定的に気づかされ、大海を前にした大らかさと自身の小ささに気づいて行った。
その自己を止揚するような中で、一枚の絵が私をとらえた。ダリの“永遠の人”であったガラの顔を描いた、B5判ほどの大きさのペンのデッサンに接した時である。そこには、ピカソのデッサンを観た時と同様の感動があった。
いつしかあの気構えは消え、虚心にダリの作品群を観る私がいた。どれほどの時間が経っただろうか。
美術館を出て、駐車場に向かう時、芝生で座って作業をする三人の女性が視野に入った。楽しげに会話しながら、雑草処理でもしているのだろうか、中年の女性たちであった。 その時、ダリならこの風景をどう見るのだろうか、否、最初からそのような志向を一切持たないのだろうか等々との思いの中で、先程まで見入っていたダリの作品群と彼女たちが重なった。不思議な感覚であった。それが何であるか、私にも分からなかった。それは今も分からない。

この文章は、そんな経験からあらためてダリを、シュールレアリズムを想い、そこから天才について思い巡らせた一端を書いたものである。己が人生の自照の契機としても……。
もっとも、『シュールレアリズム宣言』を著した、アンドレ・プルドン(1896~1966)は、老いと言う年齢になってのこのような行為の虚しさ、愚かさといったようなことを書いてはいるが。

人間は等しく孤独に苛まれ、狂気をかろうじて抑制している。だから夢は人間にとって悦楽となるのだろうが、時に夢は人間を呪縛することもあって、一転恐怖ともなる。
天才は、現実を超えている。と同時に、孤独と狂気を一瞬であっても極限まで、しかも無意識下に自覚する。そこに年齢は関係ない。天才が早熟、早逝のイメージを与えるのはそのせいかもしれない。
凡人と天才が決定的に違うのはそこではないか、と凡人の私は思う。
「十歳(とお)で神童、十五歳(じゅうご)で才子、二十歳(はたち)過ぎればただの人」は、短いようで長く、長いようで短い人生での凡人の言い訳に過ぎない。 天才も10歳から凡人と同じに齢を加えるが、感性は10歳を基底に理智いや増し、ますます研ぎ澄まされて行く。その時、その天才を代表するような作品が創り出される。

と考え始めると、どうしても老子の「天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ」が浮かぶ。
美醜、善不善、有無、難易、長短、高下、音声、前後すべては相対的で、それゆえ「聖人は無為の事に処り、不言の教えを行う。」と言う。
この「  」の部分、研究者金谷 治氏の現代語では次のように記されている。

――それゆえ「道」と一体になった聖人は、そうした世俗の価値観にとらわれて、あくせくとことさらな仕業をするようなことのない「無為」の立場に身をおき、ことばや概念をふりまわして真実から遠ざかるようなことのない「不言」の教訓を実行するのである。――

老子は無為を、不言を言うために文字(言葉)を使う。その自己矛盾に何度呵責の時間を経験したことだろう。同様に、天才画家は絵具で無為不言を表わす。 0(ゼロ)。無であることが永遠であること。

ダリは、己が作品への様々な批評、評価とは全く関係ないところで、言葉を紡ぐ人を視ている。私自身、それがすべてと思うが、自照のために拙い言葉を紡ぐ。当然、その言葉はダリ作品の批評であろうはずがない。

夏目漱石は『夢十夜』を著した。その第六夜は、運慶が仁王を彫刻する話[夢]である。
運慶が、鑿(のみ)と槌(つち)を自在に使って彫るのを、漱石は他の明治の人たちと見ている。その自在さに感心しているときに、或る若い男が言う。「あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と。 漱石は家に戻り薪を使って試みるが、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。」と書く。

ダリは運慶なのだ。 ダリは現実に生き、抑え難い欲求から想像力をかきたてられ、狂気溢るる集中力と愛(アガペー)で精緻なデッサンを重ね、絵筆を、鑿を動かす。霊感と創造の至福の結合。
運慶は鎌倉時代であり、ダリは20世紀のスペインである。鎌倉時代が仁王を彫らせたように、20世紀の西ヨーロッパが、シュールレアリズム[超現実主義]の作品を創らせた。
そこに共通して在ることは、現実の究極としての、或いは現実を超えたところでの、宗教[仏教とキリスト教]である。 運慶は人々の守護たる仁王像を創ったが、ダリはスペインの、西洋の血・文化・歴史からの霊感で、彼の具象を描き、時に彫刻した。
漱石は運慶に天才を見た。その慧眼(けいがん)。

先の『シュールレアリズム宣言』の中で、アンドレ・プルドンはシュールレアリズムを次のように定義している。

――男性名詞。思考の実際の働きを、口頭ないしは筆記ないしは他のあらゆる手段によって表現しようとするもくろみのための方法としての純粋の心的自動運動。理性によって実施されるあらゆる統制の存在しないところ、すなわち、美的ないしは道徳的なあらゆる配慮の埒外での思考の書取り。――

「美的ないしは道徳的なあらゆる配慮の埒外での心的自動運動」。
解放された自由の中での想像力の飛翔。
私は、更に男性名詞とすることに関心が向く。 「理性によって実施されるあらゆる統制の存在しないところ」、全き解放と安息の場所としての母胎内。現実(主義)を超えることでの安息の志向。母性への憧憬。

ダリはフロイドを敬愛していた。フロイドは精神分析で「性」を考え、人間の根底を考えた。私はフロイドの夢に係る論考の一部を読んだが、ただ眼で追っただけでフロイドについては何も言えない。

ダリは、20歳前後から印象主義、点描法、未来派、立体派、ネオ・キュビズムを吸収しながら、シュールレアリズムの世界に向かった、と解説するフランスの研究者(ロベール・デシャノレヌ)は、ダリの代表作の一つとして1951年作(47歳時)『十字架の聖ヨハネのキリスト』挙げている。
彼のシュールレアリズムの画家としての活動は、20代後半から50代と考えられる。そしてこの時期が、ダリの天才が華開いた時ではないかと思う。
この時間と精緻極まる仕事ぶりからも、彼が強靭な天才であることが見て取れる。ひたすらガラへの愛を支えにして。
因みに、『欲望の謎、わが母、わが母、わが母』を描いたのは、1929年、25歳の時である。

デッサンは絵画の、彫刻の核であって、××主義とかそういったことでぶれることはない。そこには画家の、彫刻家の“樸(あらき)”がある。だから運慶は眉や鼻を掘り出し得た。ダリは緻密なデッサンで彼の夢・霊感を徹底して描いた。

夢は「個人的なドキュメンタリー映画のようなもの」との言説に触れたことがある。映画の人為性(例えば画面を切り取ると言う人為)を思えばなるほどと思う。 静かな激しさに溢れた夢・超現実の具象。ダリの個人的ドキュメンタリー映画。
私が以前に強い感銘を受けたシュールレアリズムの画家、ジョルジョ・デ・キリコ(1886~1978)の、ギリシャ・ローマ時代を思い起こす建造物と真昼が醸し出す静謐との違いと共有性。

相対評価の人間社会にあって唯一絶対と直覚させる人、それが天才だと思う。そこでの鑑賞の「難易」はない。難易は理屈の世界である。
ダリをあらためて観、心のわだかまりが消えたのは、そこに今更ながら気づいたからだと思う。これも加齢の為せる業なのだろう。
明治の画家で28歳にして失意と孤独の中、早逝した青木 繁の『海の幸』を観て、彼を天才と直覚したことが甦る。 同じ“具象画”でもダリと青木では全く違う。しかし、それはダリが主義の前に「超現実」」が付され、青木には「ロマン」が前に付されるという美術史上の分類に過ぎず、本質は全く同じ美である。 二人の天才、ダリの真善美と青木の真善美の同一性。あまりにも当たり前のことだが。

天才であることの苦しみ、哀しみは、その天才でしか分からない。しかし、天才は私たちに安息を与える。天才は天に指名された、私たち凡人の救い主である、と信じたい。

【付記】 今回の展示で、新たに私の心をとらえたのは、『哲学者の錬金術』と『ダンテの新曲煉獄編、地獄篇』の、幾つかのリトグラフ作品であった。

2019年7月10日

多余的話 (2019年7月)   『水無月』

井上 邦久

毒含む言葉なきまま五月尽  

ハーバード大学での記念講話で、「うそが真実で、真実がうそに」すり替えられる世界に於いて市民生活がいかに損なわれるか警告し、 「思いつき」で行動する前に立ち止まってよく考えた方がいいだろうという発言をしたメルケルは、一ヵ月後の大阪での首相同士の対話で「良い友達を選びなさい」と言ったとか。
五月一日、東京新聞を除いて各紙の一面が不気味なくらいに同じ構成だったことに驚きましたが、その後もメルケルばりの直言や諷刺は見つかりません。せめて蒸留水の如き紙面に毒を潜める職人技によって、留飲を下げさせ、紙価を貴めて頂きたいものです。

メルケル講話の日本語全訳と中国語報道と抄訳を届けて頂きました。六日の菖蒲として付記します。
https://logmi.jp/business/articles/321396   https://www.storm.mg/article/1343589          

今年また短か夜の闇ロクヨン忌  

毎年この寝苦しい季節の夜明け前、読書で眼を疲れさせるのが習いです。30年目のロクヨン忌に合わせ発行された中津幸久氏渾身の『北京1998 中国国外退去始末記』を読んで眼が冴え渡りました。         

パラソルに催涙弾の雨が降る  

諦めていた格安航空券が取れたこともあり、急な旅支度で澳門へ向かいました。馬車に乗りながら宗主国ポルトガルの残り香を吸って以来の澳門を歩き、旧式砲台が並ぶ砦の跡を活用した歴史博物館と実業詩人の第一人者と称される鄭観應(1842~1921.上海実業界と文学界の勃興期に活躍)の旧跡を訪ねました。孫文や毛沢東たちが愛読したという代表作『盛世危言』を編述したのも澳門の実家だったとのことで、目下旧宅や資料館を修理整備中でした。
「買弁」の先駆者としても興味があり、改めて訪ねてみたい場所ですが、今回は澳門の故きを温めるより、香港の新しきを知ることが先でした。
主催者側発表で100万人余りのデモの9日、衝突があった12日のあと、200万人デモとされる16日の前日に香港入りしました。 香港人同士は武力衝突をしない、という共同幻想が破れて問題がこじれたため、「反送中」勢力が振り上げた拳をどのように下すか、香港政府からすると下ろさせるかの判断が難しい段階でした。
決起は血気でも可能となるが、収束には冷静さが必要、ということは分かっていても、勢いに任せた動きが加速し、それに乗じて煽られた人たちが「暴徒化」する前車の轍を踏んでしまうことを危惧していました。
赤ん坊を抱いてデモに加わる夫婦や視覚障碍者(警官から白杖を武器と見做されたことで記事になっていました)が参加する無防備なデモと立法府へのヘルメットでの乱入が同じ指揮体系や目的意識から生まれるとは想像しにくいものがあります。
メルケル発言の最終章「希望の6ヶ条」を再読して香港の動きに重ね合わせて考えています。
壊すべき壁は立法府のガラスではないことは明らかです。更に、本土の民主化運動に香港では共感を寄せてきたけれど、香港の動きに本土は概して冷ややかであることがこの30年の変化だと思います。香港では「一国二制度」を堅持する最後の機会とする危機感が満ちている一方、本土の40歳以下の人たちの多くは「一国二制度」そのものを知らない、この大きな温度差。     

令の字につきまとわれし兵の日日  知る人ぞ知る今も夢路に (鈴木七郎)  

春から続いた「△△で最後の・・・」、「✕✕で最初の・・・」という騒音に近い、しかし、かなり恣意的な大合唱もようやく終息したかと思い始めた6月14日に、岩波文庫から『文選』全6冊の最終巻が発売されました。付録として張衡の『帰田賦』がシレっと添えられていました。
昨年末に『張衡の天文学思想』(汲古書院)の新刊広告を見かけたこともあり、著者である高橋あやめ氏のエッセイを掲載した4月11日付の東京新聞を友人から送って貰いました。 そこには、「4月1日に俄かに張衡の『帰田賦』が話題になったことはエイプリルフールの冗談ではないか」と冷静に、且つユーモアを交えて綴られていたので安堵しました。
この項は舌足らずですので、続きは岩波文庫の『文選』詩論(六)に挟み込まれた付録を立ち読み頂くか。図書館で東京新聞を閲覧願います。

大阪を真空にして虎が雨  

空梅雨で終わるのかと思いきや、G20と小台風が湿気を土産にやってきて、大阪の街は遠隔地ナンバーの警察車両と道案内が不得手な警察官が角々に立つ姿だけが目立ちました。郊外に位置する茨木のタクシー運転手さんは「こんな地域まで人出も車出も絶えてしまい不気味な雰囲気。商売?エエ訳ないやろ!」と一瞬怒ったふりをしながらも、「仕方ないわな・・・」と中国人が「没辨法(メイ・バン・ファ)」と言う時と同じ口調で絞り出していました。

        夏草を巨象二頭が踏みつぶし         

    水無月をまだ売る店に買いに行く

2019年7月4日

爺さん[達]は怒っている ―無党派爺の悪口雑言―

井嶋 悠

婆さん[達]も怒っている。

現居住地県には世界遺産日光がある。自宅から車で1時間余りである。 日光には[見ざる・言わざる・聞かざる]が、安置されている。この人生訓を無視し、見て、聞いて、言う(怒る)ことにした。 余りにひど過ぎるから。国情が、世相が、欺瞞が。いかにもうるさい爺さん向きの社会状況ではある。

現代日本社会に、狭い言い方をすれば政治に、怒っている。それも大いに怒っている。 この頃では、権力と言う腐臭さえ漂いつつあるようで、怒ると併行して鼻栓が必要なまでになっている。
私は74歳(韓国流で言えば75歳。韓国では生まれた時が1歳で日本の数え年に当たる。しかし、母胎内での生命時間、またゼロの意味を考えるとすばらしいと思う)の立派な?爺さんである。
ただ、爺さんが爺さんに怒ることもある。これは私の生き方がそうさせるのである。 高齢者運転に関して、心身への現在自覚もなく過去を美化し運転への自信を得々と言う爺さん。老いを御旗に同情を起こさせ、尊大な言動をする爺さん。他人(ひと)のことを聞いているようで聞かず結局は自身の考えだけを言う聞き下手の話し下手の爺さん、政治だけでなく様々な場面で迎合と寛容をない交ぜる爺さん、等々。
これらは、もちろん爺さんを婆さんにいつでも置き換えられる。

では、お前と言う爺はどうなのだ?もちろん、こうならないよう細心の注意を払っている。ただ、小人のかなしさ、随所で漏れを指摘されているとは思う。

そんな私は若者を、とりわけ10代から30代にかけての、歯がゆく、苛立たしく思うのである。いずれ多くの自身が、路頭に迷うがごとき困惑と不安に襲われるのは眼に見えて明らかなのだから。 香港のデモを、その現象も本質も対岸の火事と漫然と眺め、欧米の同世代の若者の表面だけをなぞっているのが何と多いことか、などと言えば若者から叱責を受けるだろうか。
昔は云々との老人言葉は避けたいが、どこかあまりに軽佻浮薄が目立つのは私だけか。目立つから軽佻浮薄と思うのかもしれない。地味に日々を積み上げている若者を知っているだけに。

何でもかんでも自己責任を金科玉条とする潔(いさぎよ)さ?で、政治に眼を向けるのは暇人、好き者のすることとわきまえ、カッコヨク生きることに専心し、ふと気づけば早三十路、孔子の言う而立(自立)どころか、そこに醸し出されて来る虚しさと将来不安。老人の杞憂? 引きこもり=犯罪者を、ヘイト言説を、いつしか肯定する自身に気づき狼狽(うろた)える。こんなはずではなかったと。

1950年代、イギリスの演劇『怒りを込めて振り返れ』を端に、“怒れる若者たち”との言葉が広がった。その頃、日本では60年安保問題で、若者の大きな揺り動かしがあった。私が15歳、中学生の頃である。その10年後、私は大学院生であった。70年安保等、日本社会再考のうねりの時で、「全共闘」云々とは措いて、若者に何らかの意思表示を社会が求めた。
私はその波を直接に、間接に浴びた一人であったが、周囲が私に寄せるほどの存在はなかったに等しい。ただ、当時の全共闘現役世代から、なぜかあれこれと依頼(モーション)があったことは事実である。
私は私にできる限られた中で自身を考えたが、思考と行動を合致できなかった。要は、脱落者(ノンポリ)であった。そのことは私に様々な陽と翳を投げ掛け、自身を考える契機(きっかけ)となった。それが私の人生の、+になったのか-になったのかは今もって分からない。当然のことながら?
しかし、私自身は陽翳いずれも、積極的に作用したと今思っている。 それほどに複雑な心が巡るので、私より少なくとも数年若い世代が、安直に全共闘世代を讃美的に言うことには、無性に腹が立つ。これも爺さんならではの為せる業。 恐らく、私の社会への怒りの原点はその辺りにあるのではないかと思っている。

それから50年、自然な爺さんとなり怒り、歯がゆく思っているのである。 なぜか。日々の現実を、余命との響きの中で思えば思うほど、次代に託し、つなぐにしては余りにも無責任ではないかと思うのである。

具体的に挙げる。 初めに、ここ数年《内を視る》ことの重要性を思っている私ゆえ、国際[外交]を挙げる。
現首相の外交力が、一部か多数かは知らないが、誉めそやされ、本人もその気らしく、これまでどれほどの国費(数百億円)を使い、どこに行ったかについては以前投稿した。 私には信じられない。 前東京都知事のアメリカ出張費が、辞任の一端となったのは未だ記憶に新しいかとも思うが、それと較べれば〔象と蟻〕がごとき差の莫大な国費(国税)を使っての外交成果に何があったのか、あるのか。直近で言えば先日のイラン訪問は一体何だったのか。「トランプと言うボスの。小間使い。」日本と言う国の代表の誇りなど微塵もない。(政治家お得意の美辞麗句ではあるようだが、政治家のそれほど醜悪で残酷なものはない)だからなおのこと、その大統領就任式前に得々と行ったゴルフ外交が過(よ)ぎる。日本(人)へのあまりの恥辱醜態と私は確信する。 また、領土問題に係る対中国、韓国、ロシア、経済問題に係る対EU、イギリス、アメリカ、石油に係る対アラブ圏等々、そして拉致問題を「絶対の使命」とまで言う対北朝鮮、との成果はどれほどに伸展したのか。
虎の威を借りた狐。抽象的でも理念的でもはたまた弁解的でも、更には感傷的でもなく、私たち国民に確かで具体的説得力を持った言葉が、どれほどに発せられ、私たちはそれを聞いただろうか。

【余談】 私の学校現場での経験から言えば、内を治めきれない権威指向の人格乏しい者(校長)に限って、外に眼を向け。その成果(多くは理念だけの)を上滑りの言葉で言うのは定番である。

先のことと関連あることとして、その人たちの中では一筋通っているのだろうが、一人の主婦の発言からノーベル平和賞候補とも言われる『日本国憲法』の、しかも第9条に手を加えようと首相は、自衛隊員の誇りを謳(うた)い目論んでいる。どこまで私物化すれば気が済むのだろう。

以下、内政に関して怒りを書く。 先ず、私に直接関係ある領域から。
教育と福祉。
教育の無償化。政府は鬼の首を取ったかのように自画自賛するが、現状の歪みの変革なしの実施が格差の上塗りとなることは周知とさえなっている。 無償化そのものを否定していない。なぜ塾・予備校あっての小中高大、との現実に眼を向け、足を踏み入れないのか。無償化する前に塾予備校不要の教育社会実現を目指すべきである。 それは、小中高大の教員意識の、学校教育の、その入り口である入試方法の在りよう、すべてにつながって来る。
ただ、外国人子女教育等々、諸事情から学力補充が必要な場合もあろうかと思う。その場合は、在籍校と連携した「補習塾」を運営するという方法は必要になろう。
公私立問わず学校に一度ついたレッテル、印象(イメージ)を払拭するには時間がかかる。しかし、塾・予備校を除外して再建し、息がつまりそうな現行の[六・三・三]にあって、伸びやかにそれぞれ生徒が未来の自身のために学校時間を生きている学校は幾つもある。校長以下、教職員・保護者のそして生徒たちの汗の結晶として。
尚、今の少子化高齢化時代を機会とする小中高校6・6+2年制の、私は支持者である。 一方で、経営が下降線に入ったのか、世に言う有名私立大学傘下に入り、青息吐息の、存続が唯一絶対使命的学校もある。

私自身を含め、私が出会った一部の教師たちだけかもしれないが、入試問題作成にあたって、入試科目各教科では、それまでの阿吽(あうん)がごとき学力観で(時に惰性的情緒的に)作成、実施して来なかったか。
そして多くの教師・大人が悲憤慷慨する。「学力低下」を、「こんなことも知らないのか」と。 この心の動き、どこか本末転倒ではないか。
塾・予備校で補われ、養われた学力を基に、各年度の入試問題批評がにぎやかに行なわれ、マスコミは日ごろの個の尊重、学歴疑問論を忘れた有名校入学者発表の見事なまでの節操なき二枚舌。
その塾・予備校を取り外したら、日本の教育は壊滅するのだろうか。変えるのは、教師であり、保護者であり、立法府であり、行政府であり、マスコミであり……要は大人達である。
元関西の私立中高校教師経験から関西に限定して言うが、兵庫県の神戸高校、大阪府の北野高校、京都府の洛北高校の風格はどの学校も太刀打ちできない。歴史の重み。結果としての進路進学。
少子化まっしぐらである。千載一遇の機会ではないのか。始まりがあって歴史があるという自明。 それとも現状の学校教育現実をそのままに「学歴無用(論)」を推し進めるほうが効率的なのだろうか。

もう一つ、教育と言うか、教育を動かす[背景・母体]に関して。 「森友問題」「加計問題」。前者は係争中とのことだが、この両問題は過去完了ということなのか。 信じられない。 国民を愚弄するのもほどほどにしてもらいたい。

福祉。
高齢化は医療医学の進歩があってのことだから、喜ばしいとも言える。しかし、このままなら先行き不安から絶望と生の拒否の悲哀に変わるのではないか。 高齢者の基本は人である。国家の人への基本は基本的人権の尊重である。確かに自身から死に向かう人もいる。哀しいことである。それでも懸命に生きようとする人もある。その多少、軽重を問わず、国を築いたのは一人一人の人である。年金は月々一時的に預け、運用依頼した報労金である。 人間らしい生活とは、人によってその内容は様々だろう。ただ、衣食住と生の余韻感得の平均値的な姿は、その国の経済力で概ね想像できるのではないか。それを国が保証する。当然過ぎる義務である。
にもかかわらず、官僚性丸出しの老後自助資金報告書を出し、こともなげに2000万とか3000万と言い、紛糾している。当たり前である。そして報告書を受け取らぬとまで言っている。国としての責任逃避であり、義務放棄である。
政党スローガンで「日本を守り抜く!」というのを見たことがある。何を守り抜くのだろう。高齢者は怒りを通り越して、泣いている。そしてこの国に生まれたことを悔やんでいる。
消費税を10%にすると言う。福祉への財源がないから、と。なんでないのだ?対国内、対国外の収支から、ない理由、事情を庶民の金銭感覚で分かるように、精細に、どれほど説明されたか。幾重に重なる本末転倒。

私たち日本人はあまりにも優し過ぎる、おとなし過ぎる。この優しさは優しさではない。私たちは権力者からなめられているのである。
北朝鮮が、中国が、韓国が、はたまたロシアが侵攻して来る、イスラム圏諸国のテロが起こる。日本は、グローバル社会での存在感を誇示しようとしているから危険度は大きいと言う。だから防衛費は何兆円とかかって当然と言う。その日本は世界NO,1レベルの借金大国である。
百歩譲って+2%の増税分すべての収支表を公表し、福祉に徹底して使用するとなぜ明言しないのか。 私が馬鹿で暢気で世間(世界)知らずだからだろう。この政治のムチャクチャが信じられないのである。

働き方改革。うんっ!?
どれほどの人がその恩恵を、身をもって受けているのか。その日その日の仕事の時間と成果との闘い、企業自体存続の不安を抱えての産休また有給休暇での現状。更には、夕方以降が勤務の職業、職務への働き方改革など聞いたことがないのは私だけか。
政治家と一部官僚、大企業だけでの高慢はいずれ叛乱を呼び、“スローガン”は中途半端なまま消え去る。

男女協働社会。
当たり前のことを新発想語かのごとき言うが、一向に眼に見えて確実化し得ない理由は、すべて男(社会)にある、と言っても過言ではない。
働く能力差に男女は関係ない。体験から絶対的自信をもって言える。妊娠、出産は女性だけの力であり痛みである。ただ、その選択は当事者[母と父]に委ねられることである。その上で、出産を希望する女性には、またその家族には最大限の保障がされて然るべきで、国の存亡に係る。
男は、もっと自身に、女性に謙虚にならなくてならない。今もって、その女性を軽んじる、モノ的に見る輩がいることが、信じられない。
協働、共に力を合わせて働く。しかし何らかのやむを得ない事由で片方が働けないときは片方が働くのも協働。 この最低限が、共有されてこその施策であり、だからこそ自由の尊重と自由の責任の上に立って、それぞれの自由な選択、判断が生まれるのではないか。

と、爺さんが“ご託”を並べる前に、と婆さん(達)は一言いう。
「収入低迷、諸物価高騰、なんだかんだ理由をつけての政府収入増加策、いい加減にせいっ!」

先日、ハーバード大学の卒業式講演で、ドイツのメルケル首相が招かれた。その日本語翻訳全文を、旧知の方のご厚意で読むことができた。内容云々の前に三つのことが過ぎった。
○ハーバード大学は、なぜメルケル氏を招聘したのだろうかということ。
○言葉の重み。(あくまでも己が生を顧みての、そこから生れる静かな強さの言葉)ということ。
○まかり間違っても日本の現首相が招かれることはないだろう、ということ。

2019年7月1日

雨 七夕 日本・韓国・中国

井嶋 悠

雨は聴くもののように思える。 幼い頃、夕立や雷雨の夜、当時まだ使われていた蚊帳の中に入って寝ころびながら雨を想像し、遠雷を独り聞いて、どこか心静まっていた。もっとも、間近な雷には静まる余裕などなかったが。
この身勝手な恍惚は今もあって、蚊帳はないが、とりわけ深夜の、雨と遠雷の音は想像を巡らせる。

緑雨、紅雨とか小糠雨、霧雨とか、見ているように思えるが、私たちはその雨を見ていながら、つまるところ天に想い及ぼし、耳をひたすら働かせ、想像しているのではなかろうか。
日本語で雨に係る言葉は400種以上あるとかで、その中に「神立(かんだち)」と言う語があるように。
※「神立」:神様が何かを伝えていると信じられていた「雷」を指す言葉から転じて、夕方、雷雨の意。  
この感性は、雲がないのに細かい雨が降ってくることを「天泣(てんきゅう)」ということと通ずるように思う。

」三好達治(1900~1964)の有名な詩に『大阿蘇』というのがある。その後半部は以下である。 その最終2行はことのほか耳にする詩句である。そこで使われている「蕭々(しょうしょう)と」は、耳であろうか、眼であろうか。耳でもあり眼でもあり、眼でもあり耳でもあるように思える。阿蘇の放牧された馬を覆う天の声としての雨。そこから醸し出される寂寥の気。 あたかも眼前の雨を介し、耳をそばだて音楽を聴くように。

空いちめんの雨雲と  
やがてそれはけじめもなしにつづいている  
馬は草を食べている  
草千里浜のとある丘の  
雨にあらわれた青草を 彼らはいっしんにたべている  
たべている  
彼らはそこにみんな静かにたっている  
ぐっしょりと雨に濡れて 
いつまでもひとつところに 彼らは静かに集まっている  
もしも百年が この一瞬の間にたったとしても何の不思議もないだろう  
雨が降っている 雨が降っている  
雨は蕭々と降っている  

※「蕭々」:(雨が降ったり、風が吹いたりして)肌寒く、寂しさを感じる様子
【備考】この最後2行で使われている「が・は」は、助詞の使い分け説明にしばしば引用されている。

このように雨は、歌や詩の中で、切ない寂しさを表現するのによく使われる。 歌謡曲から二つ例を挙げる。
一つは、『雨の酒場で』(作詞:清水 みのる、歌;ディック・ミネ、石原 裕次郎、1954年)の1番
並木の雨の ささやきを   
酒場の窓に ききながら   
涙まじりで あおる酒  
「おい、もうよせよ」飲んだとて  
 悩みが消える わけじゃなし   
酔うほどさびしく なるんだぜ

もう一つは、『長崎は今日も雨だった』(作詞:永田 貴子、歌:内山田洋とクールファイブ、1969年)の3番
頬にこぼれる なみだの雨に   
命も恋も 捨てたのに   
こころ こころ乱れて   
飲んで 飲んで酔いしれる   
酒に恨みは ないものを   
ああ長崎は 今日も雨だった

もう一つ、私の好きな詩から。
北原 白秋(1885~1942)の全八連の詩『落葉松』から3つの連を抄出する。 一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。

からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

例外的にそうでないものもある。同じく北原白秋の童謡(1925年)『あめふり』 あめあめ ふれふれ かあさんが/じゃのめで おむかい うれしいな/ピッチピッチ チャップチャップ/ランランラン

しかし、上記引用した歌詞、詩歌の根底には、対象への、また自己への愛がある。そして先人・古人の感性に思い到る。哀しと愛(かな)しの表裏性。 そして雨は涙へと導く。「雨に濡れる」「涙に濡れる」。涙雨。 この雨―かなしみ更にはその涙、との発想は、日本的音楽[演歌]で多く採り入れられていて、そういう意味で日本的なのかもしれない。
それは日本を構成する主な民族、大和民族の自然への心が生みだした農耕につながる、「甘(かん)雨(う)」「慈雨」との美しい言葉とも重なっているように思える。
今回、雨の呼称を調べていて「男梅雨」「女梅雨(あめ)」なる言葉を知った。前者の意味は「雨が降るときは激しく振り、雨が止むときはすっきり晴れる」で、後者は「しとしととした、雨脚の弱い梅雨」とのことだそうだが、これも男女へのいかにも日本的な感覚だと思う。

先に記した涙雨の意味は「涙のようにほんの少しだけ降る雨」とのことなのだが、やはり新たに二つの表現を知った。「酒(さい)(催)涙雨(るいう)」「洗車(せんしゃ)雨(う)」。
共に七夕、織女(織姫)と牽牛(彦星)に係る雨とのこと。後者は、7月6日に降る雨のことで、牽牛が織女と会うため牛車を洗い準備している様を。
前者は、当日雨で二人が会えなくなり流している涙とのこと。きっと、当日、「鉄砲雨」「ゲリラ豪雨」が二人を襲ったのだろう。
実に微笑ましい神話伝説の世界に私たちを誘う。
ところが、これが韓国に行くと、当日雨だとそれは二人の再会のうれし涙で、次の日も雨ならば二人が別れを惜しむ涙とか。
これが韓国の国民性なのかどうか分からないが、やはり微笑ましさに溢れている。

ここで、中国・台湾・韓国・日本での節句の一つである七夕について、良い機会なので確認しておく。 『源流の説話』[出典:ウキペディア「七夕」]
――こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。 織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルである。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。 このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。 星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。 また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。 ――

催涙雨、何と夢をかきたてる言葉。 カササギ(鵲)、日本では北九州のごく一部地域以外見られない鳥だが、韓国では度々、それも群生して飛ぶ優美な姿を目にした。そのカササギと織女と牽牛の永遠の愛。 百人一首の「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」を想い起こす人も多いかと思う。

今日、源流の中国でさえ、七夕はあの惰性的でさえある「バレンタインデー」的様相になっているようで、日本も観光客誘致や商戦広告に使われることも多く、古人の想いから離れつつある。 それは時の流れとしてやむを得ないのかとも思うが、星座を見て、古代東西の人々の想像力と叡智に思いを馳せるように、底流の神話文化に心を向け、東アジア文化(或いは共同体?)について考えるのも、今の時代だからこそ必要なことのように思うが、どうだろうか。

梅雨になって、久しぶりに、深夜、床の中で雨の音に触発された。国土の6割が山岳で森林である日本の、雨があって水明であり、稲作である、そんな日本文化を考えてみた。

2019年6月20日

    [教 育 私 感 ] 33年間の中高校教師体験と 74年間の人生体験から  

井嶋 悠

                       はじめに

私の限られた経験だが、教育者は教育を語る、語り合うことを甚だ好む傾向にある。教職意識が高い(強い?)と言うことなのだろう。私も30代40代頃は、そういう意味では教育者の一人だったかと思う。しかし、公私流転の人生にあって50代後半からそれが疎ましく思うようになった。なぜなら、教育そのものが分からなくなったからである。 これでも中等教育での、国語科教育は当然のこと、他に日本語教育、国際教育としての海外・帰国子女教育、外国人子女教育、更には国際理解教育に手を染めた。ほんの一部の人々とは言え、私に良い評価を与えて下さる方もなくはない。それは今も生きる支えになっている。
しかし、私が語ると私の中で騙(かた)るに堕してしまいそうなところがある。だから?時折、居直り的に発言が激しくなることが多い。私的には本質的(ラディカル)発言と思ってはいるのだが。
例えばどんな発言(提言)かが問われるかとは思うが、以前の投稿と重なるので立ち入らない。

ただ、一つ新しい問題について触れる。 学校教育の無償化が新たな或いは更なる歪みを生みだすことは、既に指摘されている。無償化[要は家庭経済の負担減]の前に、塾産業撤廃案をなぜ打ち出さないのか。それこそ、小学校前から大学までの初等・中等・高等教育の「教育」について、また教師の在りようについて、学力観、学歴観は言わずもがな、人生観、社会観まで途方もなく大きな課題を突きつける契機となるように思えるのだが、やはり一笑に付されるだけだろうか。

高齢者運転問題で、テレビのインタビューや何かの折に知る、自身の運転或いは体力への自信等を言う高齢者。その人々を無性に腹立たしく思う同世代の、日常的に運転しなければ生活できない地域に住んでいる私の心の自然な動きなのか、教育について整理する時機が来ていると思うようになった。 33年間と74年間の体験からの私の言葉として。このブログ投稿の基底にある自照自省。
その時、私の脳裏を過ぎった言葉(キーワード)は「屈折」である。 その屈折、意味、用法から三つに分類されるとのこと。以下それを引用する。
① 相手に対する感情が複雑に入り混じっているさま[例語:愛憎ないまぜの]
② 性格が素直でなくいじけているさま[例語:素直でない、へそ曲がり]
③ 考え方などが偏っていたり狭かったりすること[例語:偏狭な、料簡が狭い]

何年か前のこと、旧知の方とただ漫然とした会話をしていたとき、その方が「どうしてそんなに屈折してるの?!」と笑顔で切り裂いて来た。そこでは、この人とはもう会うことはないなと思った私がいたが反論する私でなく、どこか同意する私がいた。そして、今も相当な力で心の、頭の中に留まっている。正に屈折?
なぜ同意できたのか。生まれ持った要素(井嶋親族で共通する要素との意味も含め)として直覚したのかもしれない。しかし、今改めて思うに“私”と言う人生がその要素を培ったと言えるのではないか。 先の分類に従えば、その方の私への用法は、三つの意味が微妙に重なっているように思える。「ように思える」では落ち着きが悪過ぎる。
そこで、20代後半に高校時代の恩師により教職に導かれた一人として、教育観に翳を落した或いは逆に陽を当てた、と私が思う、幼少時からの「事実」を客観的に振り返ってみることにした。 良いとか悪いと言った善悪単純二分法ではなく、そもそも人間は屈折の動物とさえ思うからこそ幼子(おさなご)を慈しむし、多くの動物を愛おしむと考えている、そんな「私」の屈折を炙り出してみたい。 そのことで、家庭であれ、学校であれ、私の「教育」感(観)が視えて来る、そんな期待を寄せて。

教 育 私 感
33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から
Ⅰ 初等教育[時代]

小学校前半までは、京都・賀茂川の近くで、虫採り、魚採り等遊びの天才だった向かいの中学生を英雄視し、彼を真似た痛快な思い出が幾つもある、昔ならどこにでもいた一人である。ただ、違ったのは、小学校入学前後から父親の地方赴任に伴う母子家庭だった。母親は純粋な人だったが、家庭的なことが全くと言っていいほどに駄目でいつも心は外に向いていた。そのことによる私の心の隙間を埋めてくださったのは、近所に住む伯父(父の兄)伯母と6歳年上の従姉妹であった。

大人事情は世の常とは言え、後に分かることだが、父母の離婚話が進行中のこともあって、小学校後半時から東京の伯父伯母(父の姉)宅に預けられた。伯父の社会的地位によるのだろう、その家は邸宅(おやしき)と言うにふさわしく、お手伝いさん夫婦が住み込んでいた。 母は結婚前の職種、看護婦となり、関東の地で独り生活を始めた。母への慕情が募り始めたとの記憶はない。ただ、何かぎくしゃくしたような不自然なものがあったように記憶の片隅にある。

伯母の能楽[主に小鼓]や茶道(茶室があった)への傾倒も手伝ってか、伯父の関係者、能楽関係者等々、それも30代から40代の人たちの出入りが非常に多かったが、子どもは私一人だった。伯父伯母に子どもはなかった。時に月に何度もその人たちによる夕食の会が行われ、活気を呈する家だったが、お手伝いさんの心遣いもあって、独り夕食を台所でとることもしばしばであった。しかし、寂しいとの心情はなく、こんなものだと思っていたのだろう。
庭も広く、また当時まだ普及していなかったテレビもあり、小学校の同窓生もそれらがあってしばしば遊びに来ていたが、私の中ではほとんど記憶が残っていない。
ただ、伯父方の親戚家族が時折来て、その中で幼少の男の子二人、特に兄の方、の子守的なことをしたのは、懐かしい思い出として今もある。

私の中では、どちらかと言うと大人社会にいた3年間のような印象が強い。 その象徴的事件?に、泥酔と二日酔いの小学校5年生(11歳時分)での体験がある。先述の大人たちの夕食会で、酒を大いに勧められ、嬉々として?受け容れた結果である。大人たちからすればかっこうのおもちゃがごとき相手だったのだろう。その時も、お手伝いさんが苦笑しながら介抱してくれた様子が薄っすらと残っている。

そういった酒食の会では、男女の性の話題も多く、或る時、その人たちが話題にしていた単語の意味が分からず素朴に質問したところ、場を一瞬凍らせたことが今も残っている。しかし、今日の小学校での或いは広く学校での「性教育」の現状ではお笑いぐさであろう。
森 鷗外の、自身の6歳からドイツに留学する21歳までの性に係る経験を描いた『ヰタ・セクスアリス』(ラテン語で性欲的生活の意・47歳時執筆発行)では、6歳から12歳の間にあって、既に幾つか兆しを直覚していて、私がいかに奥手か、また感受性に乏しかったが分かる。
このことは、ここ年々、人生最大の難題であり、本質的問題は「性」ではないか、と老いと共に性に対し時に嫌悪感さえ抱くこともある複雑さを持ち始めた私の、遅さにつながっているように思える。
鷗外は先の著の最後の方で「永遠の氷に掩(おお)われている地極の底にも、火山を突き上げる猛火は燃えている。」と記しているが、以下の老人男女のことは正にその現実なのかもしれない。
老人介護施設職員の談話で、80代と90代の男女が、下半身を露出してベッドに在った旨聞いたときの、私の途方もない衝撃、驚愕。

この晩熟(おくて)は、3年間と言う限られた中とはいえ、血気盛んな大人たちと、それも開放的な夜の時間にいたことがかえってそうしたとも思ったりもするが、やはり個人生来のゆえなのかもしれない。
自身の生来と後の周囲の環境によるこの自覚は、現在の年少者への性教育について必要との理屈(説明)は理解できるのだが、今もって違和感がある。私の「理解」と言う理屈(論理)の言葉の一つ。
保守性のあらわれ?とは言え、性教育推進者が革新的とも思わないが。 併せて、中学校に進学して一層重い課題となるジェンダー教育の端緒は、今どのように意識して為されているのだろうか。

転校した小学校は、東京都大田区内の分校的な小規模校であった。一学年25人×2クラスの50人ほど。 発する言葉の音調は、当然京都弁。今から60年余り前のこと。
今様に関西弁(特に大坂弁或いは河内弁?)が、広く認知されていない時代、子どもたちにとって不思議で、可笑しな響きに聞こえたのだろう。 イジメではないが、他意のないからかい、笑いの対象になることもあった。
そこで、クラス担任の女性のM先生の放課後東京音調補習がなされることとなった。私の東京弁学習。小規模校ならではの補習?
因みに、私の発する日本語は、その特訓に加えて、20代の2年間の東京放浪生活と国語科教育での読み、話すでの共通語(標準語)指導が加わって、時に聞く人にとって奇妙な日本語となっている。

すべての人々の生活語は方言、と言っても未だに東京弁=共通語(標準語)社会の日本にあって、だからこそ生活と生と言葉での方言の魅力は誰も否めない。それも読むことより聞くことに於いて。(読むのは至難である)
海外・帰国子女教育に係わる中で知った「言語臨界説」、11歳前後でその人の生涯の主言語(第1言語)が決まるとの説に立てば、私の日本語はあの小学校での環境、補習が方向性を決めた、とも言えなくはない。もちろんこれはM先生を非難しているのではない。
その延長上と言うのもおかしな、或いは甚だ偏見に満ちた勝手なことなのだが、男性が話す大阪弁(広く関西弁)は、私の中での特別な人〈例えば、上方歌舞伎俳優や笑福亭 仁鶴氏レベルの落語家、また私が敬意を表する人たち〉を除いて、印象が良くない、少なくとも心地良さはない。
一方で、谷崎 潤一郎の『細雪』の姉妹の会話の言葉は鮮烈で、実に美しいと思った。

尚、この時代に塾は在ったのかどうかと言うほどの存在で、当然のことながら行ってなかった。ただ、稽古事(京都時代、ピアノとバイオリンを習っていた)は、転校で途切れた。これは父母と伯父伯母との考え方の相違のようで、後に憂き世日々の中にあっていかに音楽が大きな力を持つかを実感することになるに及び、残念な気持ちが湧いた。それは今もある。

小学校、次項に記す中学校教育での。英語教育〔個人的には狂(・)育の感さえある〕等“主要”5教科教育との表現での主要の呪縛から脱け出し、音楽教育は言うにおよばず、美術教育、書道教育、保健体育教育、技術家庭教育の充実を強く願う。人生と言う巨大な時間の滋養の土壌として。これは思春期前期の中学校に進学するに及んでますます重要性が問われることになる。 その意味でも、少子化、高齢化は時機を得ていると常々確信している。学校制度の一大改革である。