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2020年8月31日

多余的話(2020年8月) 『あの本』

井上 邦久

8月7日、立秋。豊川悦司が愛読するという立原正秋の清冷な文章を読むには暑すぎました。
日々、今年一番の気温を更新する中、仮住まいのアパートから元の住所に戻りました。二年前の直下型地震や猛烈台風で傷み、隣近所に多く見られたブルーシートも無くなった時期の工事でした。
部品が届かない、作業員も集まらないという理由には事欠かず、工期は大幅に遅れ、アパート代は着実に嵩みました。
ようやく段ボール函が視界から消え、パソコンも何とか復旧しました。テレビは繋がらず無音の箱ですが、特段の支障はありません。

 大分県中津市からの夜逃げに始まって、山口県徳山市で3回、関西圏で6回の転居のあと就職先の独身寮へ。そこからは転勤・海外駐在の繰り返し、この十年だけでも上海・北京・上海・横浜への移動があり、方違えでボストンに寄り道をして3年前に大阪に戻りました。
上書き編集のできない手書きの住所録時代の知人からは「またか・」と苦情が寄せられていました。
森まゆみさんは労作『子規の音』で、終の棲家となる根岸の里に落ち着くまでの正岡子規が寄宿舎や下宿を転々とした跡を粘り強く追いかけています。

 落ち着かない時間の中で、ボリス・パステルナークの名前を何度か目にしました。
巣篭り生活に合わせた長編スペクタクル大作映画が繰り返し放映されました。『戦争と平和』『アラビアのロレンス』といった定番や、『遥か群衆を離れて』など視聴率を気にしなくてよい時期にしか選ばれない大作に挟まれて、『ドクトル・ジバゴ』も放映されました。
原作者のパステルナークや主人公ジバゴよりもヒロインのラーラの印象が残る映画です。
山口県の高校入学直後に映画館へ通い、大阪に転校してからペーパーバック版の小説を買いました。そして原作者がパステルナークであり、何故かイタリアで初出版されてから世界へ広まりノーベル文学賞に選ばれたことを知りました。
続いて映画化され、劇中に何度も流れる「ラーラのテーマ」のバラライカの調べに惹かれてレコードを買い、小樽でオルゴールを入手しました。この曲が1980年代初めの中国の長距離列車で、一方的に聞かされる車内放送で繰り返し流れていたことを思い出します。
スターリン治下の閉鎖世界を描き、雪解けと言われたフルフショフ時代でも「反革命作品」としてロシア語での出版は許されず、秘密裡に持ち出された原稿がイタリアから世界に流れていった。
作者はノーベル賞授与式に参加することが許されなかった。
「ラーラのテーマ」が西側で制作された反ソ映画の劇中曲であることを当時の中国人車掌も乗客も事情を知る由もなく無頓着でした。
「反革命楽曲」だとは知らずに聴き入る中国人を複雑な気持ちで眺めたことを憶えています。ある意味では牧歌的な時代でした。

 ところが秘密裡にイタリアへ原稿流出、迅速なロシア語や英語での出版という背景には米国CIAなどの秘密諜報機関が絡んでいたとする小説Lara Prescot :The secret we kept;吉澤康子訳『あの本は読まれているか』が4月に発売され、読了後には高校時代から抱いていた心の中の牧歌的な水彩画をかなり鋭いタッチの油絵に塗り替えられた感じがしました。
「あの本」とは言うまでもなく、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』であります。小説のなかのパステルナークは大詩人のイメージを保ちつつ、政治の世界にかなり無頓着で、生活感にも乏しい等身大の男として描かれ、周囲の女性たちに物心ともども被害を与えています。米国人の著者のLaraは本名で、母親が『ドクトル・ジバゴ』の大ファンであったので命名されたとのこと。

 雑誌『東亜』8月号チャイナ・ラビリンス195回に許章潤氏が逮捕(後に保釈)、清華大学を解雇された理由とされる論評が掲載されています。
その冒頭に、「二月、筆は嘆きを描くのに充分だ、悲しみの叫びで二月を描こう、泥濘が轟き、黒い春が燃え上がるまで」という詩文を揚げて、武漢疫禍についての鋭い論評を綴っています。それは、パステルナークの詩から引用と明記されています。
同じ中国人でも40年前の長距離列車の無頓着な人たちとは異なる、知識人の確信と勇気に満ちた文章でした。

20数回の転居にもめげず持ち続けた「あの本」が今回の家移りの間に逃亡して見つかりません。未だ日本では「あの本」の所持がご法度ではないでしょうが、不思議な気分です。

  敵といふもの今は無し秋の月  (虚子。1945年8月)

2020年8月17日

夏萩[宮城野萩] ―日本の美意識再学習 ①―

井嶋 悠

田舎(と言っても市であり、首都圏の大人たちにとっては憧憬の場所でもあるようだが)に転居して13年が経つ。年々、妻と愛犬以外の会話は限られ一層静かな生活を過ごしている。そんな中でのコロナ禍、自問することがこれまで以上に増えている。加齢の為せることとは言え、あの「自粛」或いは禍の中の騒々しさが加速させているのかもしれない。と言っても多くはその時々の断片に過ぎず、自答など到底及ばない。若い時とは意味の違う貴重な時間を無駄にしている。しかし思いがけない発見もする。

庭の夏萩の花弁に、ただただ単に大愚としか言いようのない政治家の厚顔無恥に辟易し、記録的長期の梅雨下の豪雨被害に自然と人の壮絶な関係に思い及ぼし、それでも日本が母国であることに感謝するという何ともアンビバレントな日々にあって、先日一瞬無我の境に導かれた思いをした。
何年か前、背丈50センチほどの苗を植えた夏萩。宮城野萩。今では枝垂れを上に伸ばせば2メートル余りの広がりに成長し、何本もの細い枝に1センチほどの純白の花弁を背に、数ミリの紅がかった紫の花弁が連なっている。その姿の圧倒的存在感。私と萩が占める1メートル四方の絶対静寂空間。可憐との言葉が私を覆う。

可憐:ひ弱そうな感じがして、無事でいられるよう、暖かい目で見守ってやりたくなる様子。[『新明解国語辞典 第五版』]

高校教師時代に毎年必ずと言っていいほどに講読していた、『枕草子』の「うつくしきもの」の段が甦る。清少納言がここで言う「うつくしきもの」「をかしげなる」「らうたし」「うつくしむ」といった形容語は、私の中で可憐に通ずる。昔、「愛し」を[かなし]と読んだように。

「うつくしきもの 瓜に描きたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするに、踊り来る。二つ三つばかりなるちごの、急ぎて這ひ来る道に、いと小さき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。頭は尼そぎなるちごの、目に髪のおほへるを、かきはやらで、うち傾きて、ものなど見たるも、うつくし。大きにはあらぬ殿上童の、装束きたてられてありくも、うつくし。をかしげなるちごの、あからさまに抱きてあからさまに抱きて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、いとらうたし。雛の調度。蓮の浮葉のいと小さきを、池より取り上げたる。葵のいと小さき。なにもなにも、小さきものは、皆うつくし。
(以下、略)」

やはり教師時代の思い出、アメリカの現地校に在籍していた帰国女子生徒が、日本に一時帰国し、アメリカの友人に、小さな文房具のあれこれお土産に持ち帰ったときの驚愕的喜びの話が甦る。

萩の花尾花葛花撫子の女郎花また藤袴朝顔の花

萩は「秋の七草」の一つである。先に記した夏萩とはやや趣・様態の違う山萩と思われるが、やはり赤みがかった紫の小さな花弁が群れて咲く。
その七草を決定したのは、奈良時代前期8世紀前半の『萬葉集』の歌人、山上憶良である。

『萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花(おみなえし)また 藤(ふじ)袴(ばかま)朝顔の花』
     [注:尾花;すすきの穂花  朝顔の花;今言う桔梗]

これらは研究者に言わせるに、当時の民衆及び山上憶良の好みの花々で、貴族階級は梅・橘といった外来の花樹だったそうで、そのことが貴族階級の一人であった憶良らしさを表わしていると説明する。
だからこそ『銀(しろがね)も 金(くがね)も 何せむに 勝れる宝 子に及(し)かめもや』《歌意:銀も金もまた玉とても子に勝るものが他にあろうぞ》が、憶良を代表する一首であることに私たちは得心するのだろう。
そして萩の花が最初に挙げられている。七つの花に共通する淡彩。
ここで「女郎花」の文字に眼を留めたい。女郎=売春婦・遊女との理解。
ところが、古代にあっては、「女郎」は「上臈(じょうろう)(身分の高い人の孫娘、身分の高い婦人)」から転じた言葉で、時に宗教性を有する女性の意であることが、『日本語国語大辞典』から教えられる。
これに関して、近世/近代文学・文化研究者である佐伯 順子氏(1961年~)が、自身博士課程在籍中に著し、多くの人々に賞賛された『遊女の文化史』(1987年刊)で、彼女は次のように書く。

「性」と(とりわけ10代の)コロナ禍の問題を重ねる人もあり、今、改めて人と性を再考する時機ともなり得るのではとの思いもあって、少々長くなるが引用する。

――遊女、彼女たちこそは、今や俗なるものの領域におとしめられてしまったかにみえる「性」を「聖なるもの」として生き、神々と共に遊んだ女たちであった。その舞い、歌う姿の中に、今日、音楽と言われ。あるいは演劇、文学と言われる「文化」の営みの多くが、まだ「文化」とは自覚されぬままに、若々しい姿をあらわしていたのである。しかし、自ら遊ぶ女として、聖なる力を宿していた遊女たちは、やがて遊郭の中に囲い込まれ、さげすみと憧憬というアンビバレントな社会感情を身に受けつつ、ついに遊芸と売淫との分離によって、もっぱら前者を担う「文化」人と、後者に専念する娼婦へと二極分解してゆく……この変貌の過程はそのまま、人々が「神遊び」の背後に認めていた「聖なるもの」を見失い、快楽のみを独立して求めたゆえに、「遊び」の意味内容から「聖」が脱落して、低俗な性と高尚な文化、という価値観として正反対の概念が生ずる様相を呈しているのである。――

一つ家に遊女もねたり萩と月

(注・「一つ家」は、研究者によっては字余りを承知で芭蕉の他の用例から「ひとついえ」と読んでいるようだが、もう一方の読み方「ひとつや」の方が、素人の私ながら落ち着く。)

この句は『奥の細道』に収められ、新潟県と富山県の境にある難所・親不知の宿での作とされている。しかし、随行者の曾良の日記にも、また芭蕉の他の書にもなく、旅を終えての編纂時に、芭蕉が虚構として加えたと言われている。要は創作であり、それがゆえに旅の途次とは違った芭蕉の心が想像される。

この句の背景に係る地の文の一部分を引用する。

――今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて疲れ侍れば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面(おもて)の方に、若き女の声二人ばかりと聞こゆ。年老いたる男(お)の子の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、此の関まで男(おのこ)の送りて、あすは故郷にかへす文したためて、はかなき言伝(ことづて)などしやるなり。白浪の寄する汀に身をはふらかし《さまよわせ》、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り《夜ごとに違う客と契りを交わす》、日々の業因《前世の所業》いかにつたなしと、物言ふをきくきく寝入りて、(中略)【朝を迎え、その女性から道案内を涙ながらに請われるが、「神明の加護かならずつつがなるべし」断り、旅を続ける。しかし芭蕉の心は「哀(あわ)れさしばらく止まざりけらし。」であった。そして『一つ家に 遊女もねたり 萩と月』と曾良に書きとどめさせる。――

芭蕉は、1644年伊賀の上野に武士の子として生まれ、28歳時に江戸に移り住み、1694年大坂で亡くなっている。そして奥の細道は芭蕉の死後1702年に刊行されている。
一方で、1584年に大坂、1589年に京都、そして1612年に江戸で遊郭が公設されている。

芭蕉にとって、山上憶良の秋の七草の歌も、聖と俗の世界・遊郭も承知のことであり、そこで彼の心を覆うものは「哀れさしばらく止まざり」である。そこには「いき」も「通」もない。
芭蕉が描いた、遊女、萩の花、月光はすべて女性性の心象として浮かび上がって来る。その世界を思い描くとき、私は「が」でも「は」でも「と」でもなく、「も」を持って来た芭蕉の感慨に魅かれる。一夜明ければそれぞれがそれぞれに次の時間を持ち、おそらく再び相まみえることはないであろう。今宵だけの5人の共有の時間。一層募る彼女たちへの哀しみ。生の重みをかみしめる芭蕉。

心的時間がいかに限られているかを実感する中、身辺の小さなものに日本の美しさを見直していけたらと、日本に生を得た一人として思う。

2020年8月9日

多余的話(2020年7月)   『養命酒』

井上 邦久

新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ
ラジオの声に 健やかな胸を この香る風に開けよ 
それ 一、二、三

 新しい朝のもと 輝く緑 さわやかに手足伸ばせ 土踏みしめよ
ラジオとともに 健やかな手足 この広い土に伸ばせよ 
それ一、二、三

              作詞:藤浦 洸 作曲:藤山一郎 (さすがに古関裕而の作曲ではありませんでした)

 ほぼ毎朝この曲が流れる時間に少年野球グランドに到着します。

健康的で前向きな姿勢の単語が並ぶので、命令形もあまり気にならないのかなとか、「香る風」「輝く緑」は夏の季語で「さわやか」は秋だったなとか徒然に思いながら、バラ公園を覗いてから気の向くまま、脚の向くままに歩きます。
7月になって、草刈正雄が朝起き抜けに分厚い本を広げて、詩を朗読しているCMを知り、それが「ラジオ体操のうた」の歌詞であることにも気付きました。
同世代であり、同じ豊前の生まれの草刈正雄には共感を持ち続けてきました。

小倉生れで玄海育ちの気性を甘いマスクで包んでいる草刈正雄が資生堂男性化粧品の「MG5」に起用された時期、ちょうど丸坊主から長髪になったばかりで意識過剰の高校生は、バイタリス派にならず「MG5」ブランドの男性化粧品をなけなしの小遣いで買って大切に使いました。
その後、俳優として主役から脇役へ浮き沈みの大きい中でも着実に幅を広げ、「真田丸」では真田昌幸役、「なつぞら」の祖父役では北海道の開拓魂を滲ませ好演していました。
クレージーキャッツOB谷啓から引き継いだEテレの長寿番組「美の壺」でもコミカルに美の水先案内人を務めています。

玄界灘の対岸での朝鮮戦争で米軍兵士だった父親を亡くし,極貧の少年時代を小倉で過ごしたことは薄々知っていました。
彼が生まれ、米国人の父親が戦死した頃の小倉の雰囲気は、親の世代が競って読んでいた松本清張の小説にも描かれていました。今に続く朝鮮戦争の休戦直前に彼の父親は戦死したものと推測されます。亡父の写真も残っていないという草刈正雄の「ファミリーヒストリー」は番組の題材にはなりにくいのではないかと思います。

これも夏の季語の「草刈」正雄が本を読む傍らにさりげなく置かれた古風な瓶、それが「養命酒」でした。大声で連呼するCMに辟易としている人間には一見何の宣伝か分かりにくい、ひたすら静かな朝の清浄感が心地よく思われます。
「養命酒」は丁子、芍薬,人参など漢字で書くのが相応しい漢方生薬を抽出した医薬品であり、冬場に祖母が大切に服していたのを記憶しています。
新しいCMと同時に発表された養命酒製造㈱の第102期有価証券報告書には「ポジティブエイジングケアカンパニーとして、健やかに、美しく、歳を重ねることに貢献する・・・」という事業理念がありました。とても長い片仮名表記の「Positive Aging Care Company」の意気込みに好感が湧きますが、それ以上に「健やかに、美しく、歳を重ねる」と続く素直な日本語がより「養命酒」という四百年以上続く商品を、そして企業を自然に表現しているように思えます。

「ラジオ体操のうた」のメロディと歌声を除き、歌詞だけを抽出して読むと、まさに「養命酒」のために詩人は作ったのではないかと錯覚をしてしまいます。
3月からラジオ体操に集まる人が減り続け、4月には10名前後となりました。その後徐々に増えてきて6月には60名を超える盛況となり、深めのセンターの定位置確保も難しくなっていました。ただ7月半ば以降は増加に歯止めが掛かり反転気味です。

一方、もともと少なかった交通費と交際費の支出がさらに減少しています。
会社勤めの頃、この二つの経費項目は管理可能経費であるとして、厳しく制限が掛かり、各人の努力次第で十分コントロールできるはずだとされていました。まして業績が悪化すれば削減対象として真っ先に叩かれた記憶が残っています。
ところが今年に入って早々に「家に居て黙っているんだ、夏が終わるまで」状態となったので、乗りたい電車にも乗れず、居酒屋でチョイ呑みもご法度となり、思うに任せられないことばかり。言わば管理不能経費項目になっています。
ブレーキとアクセルを一緒に踏み続けて、クラッチ操作が思うに任せられぬ事象は今どき珍しくもありません。

そんな環境下、大学は全面的に遠隔授業となったのでアドリブ講座から一転して最新資料やテキストの作成に励むことになりました。古典講読会の新しい課題を「三国志演義」に決めて頂き、老師の指示で時代背景や人間関係を整理しています。NHKラジオ木曜日のカルチャーラジオ「曹操・関羽没後1800年 三国志の世界」を大いに活用させて貰っています。京都壬生寺脇のNPO作業場は二回目の閉鎖となりました。9月10日に上海・大阪を結んだ公開セミナーを企画中。
上海の畏友であるパートナー弁護士に講演をお願いし、その前座を務める予定です。一方、華人研は開催延期を繰り返しています。

事ほど左様に個人的にも、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような思いをしています。ただ、この機会に初心に立ち返り、辞書を愚直に引くことが増えています。

「MG5」から「養命酒」まで変化し進化した草刈正雄は少年時代の初心を忘れず、世の中の不易と流行をしっかり見極めているのでしょう。                          (了)

2020年7月11日

不寛容な現代?

井嶋 悠

「新型コロナ・ウイルス禍」は人々に、人間について、社会について改めて考えさせる機会を与えていて、私もその一人である。

極限とも言える環境に置かれると。人間の本性が露わに見えて来る。自戒を込めて実感する。「自粛警察」との新語もそれを表わした一つである。
市民に求められている自粛を同じ市民が監視するとの意味。少なくとも私の感性を遥かに越えている。
私の中で警察と聞いて、感謝と敬意はあるが、一方で権力また権威を笠に着た恐怖が浮かぶ。だから自粛警察との表現に、甚だしいおぞましさを感じる。そこに正義感が加わるからなおさらである。
1945年生まれの私にとっては知識に過ぎないが、関東大震災や太平洋戦争時のことと重ねた指摘に接すると一層の激烈さが襲って来る。

コロナに感染した人を特定しネット等に曝け出し感染者を重罪人として排斥し、その人の行動経緯への誹謗中傷はもとより、「夜の××」に象徴される職業への平生は抑えていた差別感情の爆発とそこで生を紡ぐ地域住民への無配慮、そして人非人としか言いようのない、コロナ治療にあたる医療従事者たちとその家族を忌避し、例えば子息の入園を拒否する、等々。これが絶対正義であるとの恐るべき確信をもって、インターネットで、街中で、当然!匿名で広言し、市民分断を企み、ほくそ笑む人々、市民。

その実態を、例えば5月20日付け毎日新聞の社説では『コロナと不寛容さ 社会の強さが試されている』と題して記しているが、この不寛容との言葉に私は疑問を感ずる。人間はどれほどに寛容であろうか。人間は、多少の個人差はあっても、不寛容さを抱えているのが人間なのではないのか。だからこそ寛容な人への敬愛が生まれるのではないのか。
なぜ、寛容(寛大)の反対語である「苛酷」「偏狭」「狭量」を「厳格」に[東京堂版『反対語対照語辞典』より引用]使わないのか。不寛容(或いはそれよりやや強い語感の非寛容)を使うことにどのような配慮があるのだろうか。単に寛容を打ち消すことでの意味のやわらぎと明らかさを意図しているのだろうか。

言葉の力が怖ろしいことは何度も体感して来た。生涯の仕事が教師だったからなおさら実感し、思い起こせば冷や汗は今も噴き出る。生徒への言葉、生徒からの言葉、同僚同士の言葉。保護者の言葉。
一つの言葉が、人生を狂わせ、相手の喉を掻っ切る事実。だからこそ褒め、讃える言葉の生への力。
これらのことは今更言うまでもないことにもかかわらず、なぜこの無惨が起きるのか。

先の社説には「自粛生活のストレスと差別感情の助長」を言い、「社会の強さが試されている」と言う。
果たしてそれでこの恐るべき問題は解決するのだろうか。ストレスは人に限らず動物また時には植物でさえ、置かれた環境不適応から生ずる不安、恐怖、圧迫またそれらの複合としての心身の疲弊。苛立ち。それは老若問わず誰しもが、生ある限り持たざるを得ない。それがなぜ差別感情の助長になるのか、それとも人だけに特有の性(さが)なのか、私には今もってよく分からない。
そして筆者は社会の強さの必要を説くが、ここで言う社会の強さとは一体何なのか、個に帰して自問自答する己の強弱なのか、それとも社会の脆弱・強靭の意味なのか。そうだとすれば、それはどういう社会なのか、日本はまだまだ脆弱にして未熟と言うことなのか。そもそもそういう強い社会はこの現実世界に存在するのか、私の浅薄な頭はますます混乱するばかりである。

先日、社会学者西田 亮介氏(1983年~)の著書『不寛容の本質』を、その表題に魅かれて読んだが、昭和と言う時代と現在の乖離を説く氏の論説の中で、私が望む回答は見つけられなかった。ただ、次の一節に何かヒントが示唆されているように感じはした。

――過剰な楽観論と、やはり同じように過剰な悲観論が対立しているこの構図こそが現代日本の不寛容の本質ではないか。――

おぞましい流言飛語、更にはそれを内に留め過ぎて死を選ぶ人はなくなることはないだろう、と生の哀しみを思えばついそう言わざるを得ないが、量・質ともに減らすことはできるはずだ。それは幾つかの国が証明している。そこに導くのは大人の姿勢、大人が置かれている社会環境、そして大人としての教育観にかかっている。

先日、女子プロレスラーの木村 花さんが命を絶った。報道を読めば読むほど、テレビ局の、プロダクションの、そしてインターネットで誹謗中傷した大人が、彼女を殺めたとしか言いようがないではないか。よってたかっての惨殺である。そこに花さんはいても、花さんそのものは打ち消されている酷(むご)さ。テレビにはそこまで人権を蹂躙し、自己を正当化する権利が与えられているのだろうか。

先ず世の最前線にいる大人が意識を変えなくては、社会は変わらない。その時、教師の持つ意味は甚だ大きい。これも自戒を込めてのことである。
こんな教師がいた、と言うか教師にはその傾向が強く、多くは生徒愛を自認するのだが。

生徒(子ども)の思い、考えを聞いているようで聞いていない教師。結局は一方的に話し続ける教師。用意された結論へ限られた時間内で誘導する教師。中高校生の感性は瑞々しい。彼ら彼女らはとっくに帰着点を直覚している。言葉に出さない[或いは出せない]だけである。
聞き上手の教師は、本来の意味での話し上手である。能弁である必要はない。訥弁の話し上手。

そのためには時間が必要である。急いてはことを仕損じる、である。あれもこれもとあまりに忙しすぎる大人たち。それについて行かざるを得ない子どもたち。それが当たり前となっている社会。「快」を追い求め続ける社会とそれに振り回される大人。そして子ども。

今回の自粛はそれらにブレーキを、しかも強度なブレーキをかけた。自問自答の時間が増えた。自身の足りなさを他者に向けるのではなく、蛮勇をふるって自身に向けたいものだ。心の中の風通しのためにも。コロナ禍と言われるが、「禍福はあざなえる縄の如し」。それも一国レベルではなく世界レベルで。

寛容とは、元来「耐える」「我慢する」の意味だったとか。こらえ性のない大人は大人失格である。
日本は無宗教の国と言われるが、別の視点で言えば宗教に寛容な国民性と言うことではないか。

2020年6月18日

多余的話(2020年6月) 『モスラの唄』

井上 邦久

6月15日、梅雨の晴れ間。久しぶりに大阪に出て予約を一ヵ月遅らせた眼科へ。
昨年春の年一回の定期検査で緑内障と診断され、経過観察をしながら投薬や手術の相談をしましょうという穏便なプランに同意して、3か月に一度のペースで通院中でした。
文楽の桐竹勘十郎似の渋い男前の先生には十年以上にわたり、年に一度の検診をしてもらう息の長いお付き合い、毎回「特に異状はないです。来年の今ごろまた来てください」という言葉を貰って当たり前のように翌春に通うことが続きました。

2011年の春も同じ言葉がありましたが、その年は「来年も無事であったら」という前提を感じました。
その一か月前の3月に上海から東京・大阪を繋いだTV会議をしている最中に東京の画面が大きく崩れて断線、大阪の画面も気持ちの悪い大きな横揺れがして、やがて人が消えました。
詳しい事情が掴めないまま、予定していた内モンゴル自治区オルドスへの移動をして、その夜に乾燥地帯で大津波の画像を観ることになりました。

 来年の今ごろおいでと春の医者(拙)

それ以来、来年の予約という行為に「明日があるさ」思想の楽天性を感じるようになっていました。そして今年二月、別の患者が「次の検診は、コロナが終わったら参りましょう」と軽い調子で口にしたら、勘十郎先生は「感染疫病はそんなに簡単には終わりませんよ」と軽いたしなめ口調で呟きました。
今回、長期戦・持久戦・神経戦を覚悟したのはこの時期のことで、いつも激することのない眼科医師の言葉も作用したと思います。

 2011年春、大阪から派遣された岩手県上閉伊郡大槌町の工場で被災した知人は工場閉鎖後も帰任せず、全く畑違いの本屋、町で唯一の一頁堂書店を開店することになりました。開業の直後に訪ねた時、化学会社の営業マンだった知人は「本が嫌いな自分が本屋を営む」ことになった成り行きを話してくれました。
開業8周年を伝える書状には、「とにかく感染者第1号にはなりたくない」というまわりの空気が前書きにありました。続いて2019年の三陸リアス鉄道や沿岸道路の開通で復興工事が一段落した報告があり、利便性がよくなったことは、地元業者への打撃が想像を大幅に超えたものになっている現実と、感染病による追い打ちの凄まじさが綴られていました。
開業当時の子供たちが社会人になり、子供を連れて来店する姿を見守る言葉に添えて、震災で親を亡くした子供が高校を卒業するまで18年間、学校を通じて店専用図書券を届ける取り組みが8回目になったとの報告がさりげなく添えられていました。末尾の店主という文字の重みが増してきた印象があります。

6月7日、西宮震災記念碑公園で小説「火垂るの墓」記念碑の除幕式が行われました。当日は限定された人数で30分だけという圧縮形で行なわれるとの知らせと記念誌を届けて貰いました。
小説では1945年6月5日の神戸大空襲から逃れた少年とヨチヨチ歩きの妹が西宮市満池谷の親類宅に辿り着いた後、二人だけで暮らした土壁の防空壕で短い命を灯したことになっています。
野坂昭如初期の自伝風小説でありますが、地元の建碑実行委員会の粘り強い調査と関係先との折衝で、作家の親類宅や防空壕の場所が特定され、二人で暮らした様子を目撃した古老の口述記録も留めています。
関西華僑のライフヒストリーを聞き書きして出版を続ける神阪京華僑口述記録研究会があります。毎年1冊出版のペースで先日第10号を受け取りました。その活動の主軸の一人のN氏が「火垂るの墓」記念碑建碑実行委員会の事務局を担っていることで身近に繋がりました。

早稲田大学に進んだものの、とてもラグビー部に参加できる状態になかった野坂昭如が、40歳頃に「アドリブ倶楽部」というラグビー同好会を創設したことは良く知られています。
一方、ラグビー横好きでは負けない大阪府立高校OB達の倶楽部が東京のリコーグラウンドで「アドリブ倶楽部」と対戦したことがあります。前夜、3人のメンバーが拙宅に雑魚寝したこともあり一緒に観戦に行きました。
野坂氏は背番号10のスタンドオフで出場しましたが、トレードマークの黑メガネをしていたか、外していたか記憶に定かではありませんでした。今回、記念誌に倶楽部の応援歌とともに写真が掲載されており、黒メガネ姿でしたが練習風景を撮った記念写真かも知れません。

閉塞した日々に流されるように、印象的な仕事を残した人たちが静かにこの世を留守にして逝きました。勝目梓、ジョージ秋山そして宮城まり子・・・。

ねむの木学園の構想から実行に取組んでいた宮城まり子に対しパートナーの吉行淳之介が伝えた三つの約束、「愚痴を言わない」「お金がないと言わない」「やめない」。継続して実行し難い約束の意味を折にふれて反芻しています。
更に「全作品の著作権はまり子へ」という遺言で三つの約束を支えた切れ味はとても常人俗人の及ぶものではありません。

6月15日は、ザ・ピーナッツの伊藤エミ(本名:沢田日出子さん)の8回目の命日でした。
東レが岩谷時子らとタイアップしてバカンスという言葉を定着させた「恋のバカンス」は、今ものど自慢で月に一度は孫世代が歌っています。宮川泰の贅沢な編曲で輝きを増した「恋のフーガ」は、日本の音楽シーンの最高傑作だと思います。
更に東宝怪獣映画「モスラ」(原作:中村真一郎・福永武彦・堀田善衛)の主題歌「モスラの唄」にはいまだに強烈なインパクトを感じます。インドネシア語がベースと言われる歌詞と早慶・阪神巨人の応援歌や軍歌‣反戦歌・反原爆曲・オリンピックマーチまで萬承って破綻のない古関裕而の作曲です。

言わずもがな(多余的話)ですが国会議事堂での抗議デモの渦中に命を落とした樺美智子の命日も6月15日です。

                          (了)

2020年6月4日

看護師・日本

井嶋 悠

現在、看護婦とは言わない。男性にも担う人が増えている。だから「婦」を使えば差別ともなり、男女平等、協働社会の現代にあっては時代錯誤である。ただ、その意味するところはもっと深いように思う。

看護師は、絶対の母性の仕事である。
これは医師にも言える。ことさら女医との言葉があるのは何の残滓だろうか。いずれ女医との言葉は消えるだろう。では医師も母性の仕事なのだろうか。母性の側面を持つことは否定できないが、(そもそも医療自体、教育世界同様、母性の行為とも言えるが、この感覚は日本人的なのかもしれない)父性を思う。

この母性と父性について、母性=女性、父性=男性の、しばしば見受ける形式的発想を疑問に思う機会が増えている。その等号に得心が行かないのである。今更ながら、母性を女性の占有のように言う私が、非現代的偏重人と思える。母性・父性に男女性は関係がないはずだ。ただ、母は女性がなり、父は男性がなるという、その生物的だけのことではないかと思う。
そこで、手元の国語辞典[新明解国語辞典 第五版]から確認してみる。

 [母性]:女性が、自分の生んだ子を守り育てようとする、母親としての本能的性質。

 [父性]:父親として持つ性質。

個性的と言われている国語辞典でさえ、そうなのかといささか愕然とする。分かって分からない。いわんや父親の説明など思わず?が起こる。
そこで、女性・女性的、男性・男性的を同じ辞典で確認してみる。

 [女性]:おとなになった、女の人の称   

 [女性的]:やさしさ・美しさ・包容力などを備えたりしていて、女性と呼ばれるにふさわしい様子。

 [男性]:おとこになった、男の人の称

 [男性的]:たくましさや行動力を備えた上、さっぱりした性格を持っている様子。

女性的、男性的は、この辞典らしくなかなか踏み込んだ語釈かとも思うが、旧来の女性・男性のイメージに立った上での苦心が偲ばれる。中でも、「美しさ」とはなかなか微妙だ。
それに、「おとなになった」「おとこになった」の意味するところは何であろうか。
上記の説明に基づいた、女性的な男性、男性的な女性は、決して珍しくはない。とすれば母性・父性の再定義が必要になるのではないか。ここで、「女」「男」の項を見てみるが、出発点の母性・父性から離れ、堂々巡りになるようなので省く。

臨床心理学者河合 隼雄(1928~2007)は、その著『母性社会 日本の病理』の中で、母性・父性に関して次のように述べる。

―母性の原理は「包含」する機能によって示される。それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込んでしまい、そこではすべてのもが絶対的な平等性をもつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子どもの個性や能力とは関係ないことである。(中略)
これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子どもを平等に扱うのに対して、子どもをその能力や個性に応じて類別する。―

私には強い説得力がある。先の女性的な男性、男性的な女性も大いに納得できるではないか。

私はこれまでに何度も、多くの看護師に(ただ、すべて看護婦であった)世話になって来ているが、その看護師たちの仕事が私に激しく迫ったのは、わずか数分の、テレビニュースの中の一端として放映されたドキュメント映像である。
場所は、コロナ・ウイルス患者受け入れ病院の治療室である。防護服に身を包んだ何人かの看護師と何人かの医師。たまたまであろうがすべて看護師は女性で、医師は男性だった。看護師は常に患者に寄り添い、声を掛け、患者の声に耳を傾けながら、同時に医師の指示を受け、所狭しと務めに集中している。

看護師は、コロナ・ウイルス感染確率の最も高い立ち位置で、慈愛の眼差しを絶やすことなく、目まぐるしく動いているのである。その間、医師はデータを確認したり、指示を出したり、病院内部からと想像される電話に、「私たちは医療崩壊との言言葉は使いたくないんです」とやや声高に応えている。
騒然とした、しかし心を引き込まざるを得ない、何か聖なるものを直覚させる気が横溢している一室。
看護師が、出て来て防護服を脱ぎながら言った「ああっ、あついっ」の一言の重み。そして次の準備へ。

私は、無性にこみあげるものにうろたえ、ただひたすら敬愛の眼で看護師を見た。協働世界を思い、その現実、現場を重々承知しつつも、「医師あっての看護師」ではなく、「看護師あっての医師」との言葉を、思い起こした。
診察し、診断する医師の一言の影響力は途方もなく大きいが、看護師のあの自然な優しさ溢れる一言が、どれほどに生きる力を与えることか。
やはり看護師は母性の仕事であり、医師は父性の仕事であると思う。

今、医療に携わる人々またその家族に、中傷や拒絶の言葉を、人間崩壊とでも言おうか、己が正義で発している人のことが連日のように報道されている。看護師や医師の、怒りを越えた哀しみ、寂しさを、所詮他人の感傷的同情と言われようと、想像する。
ブルー・インパレスへの感謝も、見知らぬ人々からの手紙等への感謝も、確かな励みとなるであろう。また、国が待遇改善を提案することも従事する人の確かな励みとなるだろう。
その上で、看護師の、医師の、正に無償の愛と言っても過言ではない行為を改めて知ることで、世の多種多様な営み[職業]への慈しみの眼差しを忘れてはならないと、ドキュメントフィルムは語っているように私には思えてならない。

どれほどの人々が、会社・事業所が、困窮に、破産に、死の間際に、(否既にその一線を越えざるを得ない選択をした人もいる)追い込まれていることだろうか。その人たちにその責任を問うことなどあろうはずがない。その人たちに多くは、ほとんどは「弱者」「脆弱者」である。それに具体的な救いの手を差し伸べるのは、先ずその人々が所属する国家である。その国家は国民の税金の上に成り立っている。脆弱さを突き付けられた人々にその税金を使うことに誰が反対するだろうか。反対する人がいるほどに日本は腐ってはいないと信じたい。

4百数十億投じてのマスク配布を英断とし、愛犬との姿に癒しを誇示することで、国民の多くの顰蹙(ひんしゅく)をかった首相は言う。「日本ほど手厚い援助をしている国はない」と。もしそうならば多く聞かれる悲鳴、憤慨は一体何なのだろうか。切々とした声が届くには官邸は遠過ぎるのだろう。悲しいことだ。
政治家は常日頃「身を切る改革」との言葉を使う。どれほどに実行しているのか、ほとんど言っていいほどに、私たちは言葉の弄びと思っている。あの歴代首相断トツの外遊費(資料公開請求をした野党政治家があったが、国民はどれほどに周知しているだろうか)、国際化・グローバル化世界にあってリーダーシップを発揮するために或いは大国日本の責任を果たすために、との絶対正義かのような理由でどれほどの税金が使われているか、国民は心地良くそれらのことを承知しているだろうか。

「その国民が私たちを選んだのではないか」も政府の、政治家の常套句で、「嫌なら投票するな」とまで暴言を吐く人種もいる。そして議論はそこで終わる。
そんな日本の貧しさを、今回のコロナ・ウイルス禍は露わにした。

第二波、第三波も予想されている。今回について謙虚に反省[猛省]し、「あの時私は委員でなかった」といった無責任な専門家などに委託せず、看護師の、医師の献身を心に刻んでこそ彼ら彼女らへの心からのねぎらいになるのではないか。

弱者・脆弱者を一人でも出さないためには、結局は国民に借財を跳ね返す発想ではなく、何をどう削ればよいのか、その視点に向かわせる国の新たな出発点としてもらいたいものだ。新たな生活様式を考える時代としたい、と世界の良心は言っているではないか。
横に並んで食事し、食事に集中するといったことが新しい様式ではなかろう。ラッシュアワーの背景には何があるのか。オンラインで解決するのか。

弱者が切り捨てられる日本はもう十分だ。日本が母性の国と言われるその本領を、その是非或いは長所短所の観念的論議に陥ることなく、発揮してもらいたいものだ。

締めくくりとして、ナイチンゲール(1820年~1910年)の代表的著書『看護覚え書』から、看護婦の時代を経て、看護師の時代になった今日でも、真理と思われる幾つかの言葉を引用する。
尚、彼女は後半生の50年間、感染症の一つブルセラ病(マルタ熱)で病床生活を余儀なくされたが、その間、多くの著作を遺した。

「病気の行き末を決定づけるのに、注意深い看護が重大な役割を果たすということは広く経験されているところです。」

「患者は四六時中敵と顔を突き合わせ、内面でその敵と格闘し、頭の中で延々と言葉を交わしているのだということを肝に銘じてください。これは病気でないものにはわかりません。“速やかに敵から解放せよ”これが病人に対する第一原則です。」

「すべての看護婦は、頼りにされ得る、すなわち“信頼のおける”看護師であるべきだということを肝に銘じてほしいと思います。いつ何時、そのことが要求される立場に置かれるかしれないことを、看護婦は自覚できていないのです。」

「私は女性たちに、医師への絶対的な従順の必要はないと思わせようとしているわけではありません。ただ医師にも看護婦にも、知的従順ということの重視、すなわちただ従順なだけでは意味がないという認識が不十分だと言っているのです。」

優れた看護婦は厚遇すべきである。
ナイチンゲールは19世紀に既に言っている。

「構成員の自己犠牲のみに頼る援助の活動は決して長続きしない。」

「犠牲なき献身こそ真の奉仕である」

誰が優れていると判断するのか。医師であり、患者であり、病院経営者であり、それに応える国がある。
それは医師も全く同様である。それが協働だと思う。

2020年5月22日

多余的話 (2020年5月)  『煤渡り(ススワタリ)』

井上 邦久

5月半ば、本来なら、サツキとメイの学童姉妹が大暴れする季節です。
お母さんの居る結核療養所まで無理をすれば徒歩でも行ける村へ、新緑の田舎道をオート三輪車で引越しするシーンから『となりのトトロ』は始まります。
埃と煤の溜まった古家の雨戸を開け、二階の奥に風を通すと、二人の眼には真っ黒なコロコロした球体が見えてきます。これが家に住み着く妖怪「煤渡り」です。

「煤渡り」は人に悪さをせず「いつの間にかいなくなる」タチの良い妖怪ですが、世界を席巻している新型ウィルスは生易しくありません。レソト国に1名の感染者が見つかり、ついにアフリカ全土に感染マークが拡がりました。石鹸どころか飲み水にも事欠く地域での防疫の難しさ、それへの想像力を持つこともまた容易ではありません。

2月から「基礎体力の維持増強」と「深く良質の睡眠」を念仏のように唱え、歯医者のお世話にならないように普段より二割がた丁寧に口腔ケアをしました。
3月の一斉休校により、神奈川県からの「縁故疎開」の学童と暮らすことになり、自然に規則正しい食生活が始まり、生活習慣の改善に繋がる予感がしています。たとえ外出自粛で「ヤクが切れても」しばらくは持ちそうです。
感染疫病とは、長期戦・持久戦・神経戦と相場が決まっているので、4月も終息の気配はないと判断し、諦念よりも科学的な達観と工夫の時期だと心得ました。

台湾付近からやって来る低気圧が本州の南岸を通過するたびに花は移ろい、陽気が充ちてきました。
サツキと躑躅の紅白戦が終了した後、ばら戦争が勃発。昨日の雨でランカスター家の赤薔薇は衰退し、ヨーク家の白薔薇は善戦中です。
仮住いから徒歩5分の若園薔薇公園に通いつめ、この3か月で一生分の薔薇を眺めた気分がします。
傷んだ家の建替え工事は「中国からの資材到着遅れの為?」大幅に遅れて入居は八月以降になるとのこと。それでも秋の薔薇をこの無観客公園で観ることはもう無く、来年のばら戦争観戦のために早朝からやって来ることも無いでしょう。
「一期一会」の薔薇の香りを感じながら散歩、ラジオ体操・そしてストレッチ体操。体操には老年十数名が少年野球場に集まります。定位置は深めのセンター、右中間と左中間を広く開けて深呼吸をしています。

 高校時代の友人に「中国からの資材到着遅れ」の話をしたら、事実かも知れないし、そうでなくても客を納得さやすいから業界ではよく使う弁明だと内輪話をしてくれました。
1980年代、中国からの輸入品を日本の顧客に販売する際、「中国からの輸入ですので納期遅延の場合もあることを予めご承知ください」という文言を売買契約書に添えることを先輩から指示されたことを思い出し、ずいぶん古典的な手法が今も残っていることに苦笑しました。古典的と言えば、内憂を外患で糊塗する手法が多くの国で頻発しています。内在していた矛盾や課題が疫病由来の経済停滞で表面化し、内部からの不満や批判をかわすために外部「危機」を煽る手法。
その陳腐化を知らないフリをしているのでしょうか?

そんな折、イタリアからの薬品原料の業務でお世話になり、フィレンチェには共通の友人を持つ先輩からパオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』(飯田亮介訳)を教えて貰いました。
イタリアが危機的状況にあった3月頃までの新聞投稿を纏め、モントットーネ村に在住の飯田氏(雲南民族学院留学時代にベネチア大学からの女学生と知り合い後に結婚)が翻訳して、早川書房HPで4月10日から限定無料公開、4月24日に出版、という迅速な過程を踏んで日本に届いた本でした。(作者あとがきはHP無料公開継続中)。
神田駅からほど近い所にある早川書房ビルにはレアメタル業界で評価の高い友人の会社も入っており、前に訪ねた時はカズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞直後で注目を集めていました。
早川書房は演劇・SF・推理小説の草分けとして著名です。個人的には熱心なハヤカワ・ミステリーファンとは言えませんが、ディック・フランシスの競馬小説群やジョージ・オーウェルの『1984年』は愛読してきました。

ノーベル賞に関しては、カズオ・イシグロの後塵を拝した感じもあるかも知れない村上春樹の『1Q84』第3巻を10年ぶりに開きました。
先発(書棚入り)・中継ぎ(段ボール入り)・抑え(委託保管)・戦力外(寄贈・廃棄)に仕分けて引越ししたつもりでした。
冗長さに疲れて曖昧な印象しか残っていなかった『1Q84』が仮住まいの書棚に残ったのは題名のせいかも知れません。更に言えば「Q」のご縁でしょう。

先月、柏原兵三と堀田善衛の日中戦争を題材にした小説を読んだ後、湖南省南部での逃避行を描いた駒田信二の『脱出』に繋がり、続いて評論集『対の思想』を読むことで、増田渉から魯迅へ遡っていったのは自然な成り行きでした。
本の棚卸が終わったところに外出自粛の要請発令(この辺の用語矛盾を実感しています)があり、図書館閉鎖も重なって、その後の閉門蟄居の間に書棚が身近なものになりました。

ⓆQQQQQQ・・・魯迅の『阿Q正伝』の「Q」について、早稲田大学を辞したばかりの新島淳良先生から「Q」でなければダメだ、「Q」だの「Q」の活字を無頓着に使っている翻訳本は捨ててしまいなさい、と教わりました。
辮髪を後ろから見た様子を「Q」で表して中国人の象徴としているという説明でした。
『魯迅を読む』(1979・晶文社)のあとがきに新島先生は1977年5月から毎週火曜日夜に「魯迅塾」を始めた、と書かれています。ちょうど入社して3年目で勤め人生活にフィットできない気分の活路を探していた頃でした。別の恩師の紹介で駒田信二先生宅を訪ねたのもその頃だったと思います。

ところが、改めて魯迅選集(1973・岩波書店・第一巻は竹内好の翻訳担当)で見ると、題名は「阿Q」本文は「阿Q」と活字へのコダワリがないことに今さらながら気付きました。
『魯迅文集』(1977・筑摩書房)は竹内好の個人訳であり、遺著ともなったものですが、そこでは「阿Q」に統一されています。手元にある中国での出版物も「阿Q」となっています。

村上春樹は初期佳作の『中国行きのスローボート』をはじめ、陰に陽に中国に関係する小説を書き繋いでいます。村上春樹が早稲田大学在学中に新島先生の謦咳に接したかどうかは知りませんが『1Q84』の背表紙を見るたびに新島先生を思い出し、小説にも新島先生の影を感じています。

『1Q84』の主人公、天吾・青豆・ふかえりは三者三様の理由で、隔離や閉じこもりの生活をする時間をそれぞれが工夫しながら耐えています。ここでも又小説が現在の状況を先取りしていることに気付かされます。とりわけ、ヒロインの青豆が一歩も外出せず、気配も悟られず、ひたすら基礎体力の維持増強に努める姿は象徴的です。

虫眼鏡で観察するような活字の話ばかりで恐縮でした。
大相撲の虫眼鏡の話で最後にします。
番付表に慣れない内は、幕下より下位力士の醜名(四股名)を見つけるには虫眼鏡が必要です。幕下の下の三段目、山梨県出身の勝武士幹士関は入門後から二十八歳まで太文字で書かれることはなく、虫眼鏡の世界のままで終わりました。来場所の番付にはその名はありません。
相撲部屋の三密の環境や糖尿病が重篤化の理由として強調されていますが、検査も入院も思うようにさせて貰えなかったことが永遠の黒星に繋がったのではないか?誤解せず確認したいと思っています。
茲に哀悼の意を表します。                (了)

2020年4月10日

井嶋 悠

桜は心を和ませる。その折、足元に野に咲くすみれを見出せば至福の時である。春は柔和な静だ。
桜は日本人としばしば対となる。そこに日本人の何が秘められているのだろう。
桜の黒ずんだ幹、枝が、冬を越え、桜色の花弁を生み出す。大地と自然の厳しさと優しさ。5枚の花弁は大きからず小さからず、微妙に重なり、満開時は群れをなし一樹(いっじゅ)一花(いちか)のごとし。色は日本の伝統色(名)桜色。濃からず淡からず。花茎にいつまでも執着せず、花開き数日もすれば、春風に乗って舞い落ちていく。幽かに、時には春嵐の吹雪のように。同じく伝統色(名)水色(人によっては水浅葱(あさぎ)色というかもしれない)の空を背に。散りばめられた白雲の添景。運が良ければ群れ為す桜花から響き渡る鶯の声。

童謡「さくらさくら」

さくら さくら
やよいの空は
見わたす限り
かすみか雲か
匂いぞ出ずる
いざや いざや
見にゆかん

「匂い」との言葉に現代人が失ってしまったものを感じたりする。もっとも、現代っ子はこの歌自体知らないだろう。学校でこの類の歌を知る機会がないそうだから。明治時代の滝 廉太郎の『春』はどうなのだろう?

森山 直太朗作詞・作曲『さくら』(2003年)は、若者を中心に愛唱されていて歌詞は以下である。

僕らはきっと待ってる 君とまた会える日々を
さくら並木の道の上で 手を振り叫ぶよ
どんなに苦しい時も 君は笑っているから
挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ
霞みゆく景色の中に あの日の唄が聴こえる
さくらさくら 今、咲き誇る
刹那に散りゆく運命(さだめ)と知って
さらば友よ 旅立ちの刻(とき)
変わらないその想いを 今
今なら言えるだろうか 偽りのない言葉
輝ける君の未来を願う 本当の言葉
移りゆく街はまるで 僕らを急かすように
さくら さくら ただ舞い落ちる
いつか生まれ変わる瞬間(とき)を信じ
泣くな友よ 今惜別の時 飾らないあの笑顔で さあ
さくら さくら いざ舞い上がれ
永遠(とわ)にさんざめく光を浴びて
さらば友よ またこの場所で会おう
さくら舞い散る道の上で

この歌は卒業(式)の思いを歌っているとのことで、孤独を意識する現代人の叙事歌とも言え情況が違うが、卒業から随分経った今、私は童謡「さくらさくら」の情緒に、さくらを、春を直覚する。ただ、この直覚は「生」を前提としていて、「死」を意識することも増えた老いにあっては郷愁的感慨とも言える。

と言うのは、「さくら」の歌詞に接したとき、初め私は死を、それも自死を思ったからである。私の中では、卒業→別れ→死、桜散ると結ばれ、それが私の現代人の叙事歌との表現になっている。その精神構造を裏付けるかのように、春(新暦4月5月)は自殺が多い。
その日本は以前ほどではないが、先進国にあって自殺が多い国でもある。

この自殺について付言すれば、「(悲・哀・愛)かなしみ」の重層としての自殺の批判者にはなれない、非合理を大切にしたいと思う私は、日本の自殺の多さに、自然、四季(南北に長い列島国日本とは言え)が培った感性の為せる業ではないかと思う。儒教国韓国の自殺の多さとは原因、背景が違うように思える。

平安時代の歌人紀 友則は歌っている。

「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」    

前半の柔和で光明な春溢れる姿に比し、後半は死を見つめる眼差しを感ずる。自然の新生の春と老いの或いは人の、生より死を意識せざるを得ない命との対比。
海外の地は、限られた時季の限られた街しか知らないが、この春の美、感性はやはり日本独特だと思う。
同じく平安時代の在原 業平の歌「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」に通ずることとして。

桜色は数百種あると言われる桜樹(さくらぎ)の原点とも言うべき山桜の色を表わしているとのこと。白色に限りなく近い桜色。ここでピンクと言ったり桃色と言ったりするのは野暮そのものだが、私の限られた語彙では白色に限りなく云々としか言いようがない。

江戸時代の古代文学研究者で、こよなく桜を愛した本居 宣長のやはり著名な歌。

「敷島の やまと心を 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花

「やまと心」とは、日本人の心ということだろうが、それが「朝日ににほふ 山ざくら花」と言うのだ。
私は「武士道」とも「大和魂」とも無縁な一人の日本人だが、だからこそこの表現に魅かれる。それも奈良県吉野の群れ為す山桜ではなく、かすみに煙る小高い山に一本咲き誇る山桜を思い浮かべ、私の描く日本人像と重なている。

そもそも宣長は、武士道も大和魂も言っていない。後世のそれも明治時代後半以降の帝国主義化、軍国化する中で、日本精神、大和魂そして「武士道とは云ふは死ぬことと見つけたり」との『葉隠』のこの一節だけが、作為的に利用されたのではなかろうか。あの散華との独特な言い回し。
宣長は母性の人だった。だからこそ「もののあはれ」の美を、源氏物語に、日本人に見出し、それを知ることこそ人の心を知ることであると説いたのであろう。
そう思い及ぶとき、「朝日ににほふ 山ざくら花」との秀逸な表現が心に迫り来、山あいに在って優しく、厳然と己が存在をかすみの中に主張している世界に私を導く。

平安時代後期から鎌倉時代にかけての歌人西行法師は「願はくは 花のしたにて 春死なむ その如月の 望月のころ」と歌い、念願通りその季に生を閉じたと伝えられる。

やはり桜は日本人にとって特別の花だ。日本には国花はないとのことだが、桜は国花にふさわしい。菊を言う人もあるようだが、天皇、皇室云々とは関係なく、桜の方がふさわしい。

日本人は、人は孤独であるとの自覚(それがたとえ感傷的なものだとしても)、どこまでも自然と一体であることの安堵(時に脅威)を、そこから醸し出される和み[平和]への希求を古代より学ばずして知り得ていると思える。それが大和民族の特性なのか、アイヌ等少数民族を含めた日本全体の特性なのかは不勉強でまだ私には分からないが、日本が誇ることとして言い得るように思えてならない。
だから今日の近代化の一面である、工業化、カネモノ化、軍国化、人の疎外化、またネット社会の功罪等、なぜか大国指向の日本は、大きな不安に覆われていると言っても過言ではない。老いの杞憂ならお笑い種で済むのだが、そうとも思えない私をどうしても打ち消すことができない。

これを書いている今、日本は、世界は、コロナ・ウイルスでとんでもない局面に立たされている。

2020年4月10日

多余的話 (2020年4月)   『清明』

井上 邦久

       清明時節雨紛紛 路上行人欲断魂
        借問酒家何処有 牧童遥指杏花村                   (『清明』)

 大杜と尊称される杜甫に対して、こちらは小杜と呼ばれ親しみやすい杜牧による季節の詩です。『清明』の舞台は山西省という通説もありますが、「雨紛紛」は「烟雨」と同じく、やはり江南の春の頃を感じさせます。

       千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
       南朝 四百八十寺 多少楼臺烟雨中
                 (『江南春』)

十年前くらいに「上海たより」として、上海人が使う「毛毛雨」という表現について綴った記憶があります。「毛毛雨」は、春の半ばに降る傘も要らないくらいの細い雨のことでした。小糠雨や春雨と訳しては芸がないので、色々と思案し、風呂上りに爪切りをしながら「うぶ毛雨」という表現に辿り着きました。
そして「花屋までうぶ毛雨なら傘残し」という拙句を捻りました。

東京の人形町末廣亭址の隣に、江戸天明年間から続く刃物匠「うぶけや」の爪切りを愛用しています。イタリアの関係先へ名前を彫った包丁を土産にしたこともあります。屋号の由来は赤ちゃんのうぶ毛も剃れる切れ味という初代の評判からとのことです。上海人の「毛毛雨」を江戸由来の「うぶ毛雨」として自分勝手に仲春の季語にしたわけでして、歳時記には勿論載っていません。

 杜牧の詩には酒がよく溶け込み、春の雨に倦んじてし魂の慰めに、牧童に酒家の在処を訊ね、風に揺れる新酒の旗に心を躍らせる、潤いのある春の世界を醸し出しています。先月の埋め草にした井上陽水の「情け容赦のない夕立」の夏とか日野美歌の『氷雨』の冬では別のイメージになりそうです。

二十四節気の一つである清明は、黄道座標の黄経15度、つまり春分から15日目にあたる日です。なぜ「つまり」なのかは、高校地学の教科書を思い出して、天空をイメージしてください。
地学教師の玉井先生は「玉井バッハ」という綽名で、授業前に黒板に「バッハ」と書いておけば、15分くらい西洋古典音楽の話をしてくれたことを憶えていますが、黄道の話は宇宙の彼方に消えています。

これも上海時代。清明節の頃の職員との会話は「清明節快要来、到何処掃墓?」が多かったです。清明節に何処で墓掃除(墓参り)をするかによって、上海アーバンライフをしている男女職員のルーツが分かります。杜牧の詩で四百八十寺と表現された南朝の古都南京か、牧童が指さした安徽の村か、はたまた浙江の地か・・・
ほとんどが車で家族一丸となって行くというので立派だなあ、と感じたことを思い出します。先祖の墓の前で燃やして届ける紙銭は、金塊、高級車そして住宅の紙模型にエスカレートしていましたが、その後に二酸化炭素排出削減の為に禁止されたとか。
冥界は不景気になったことでしょう。

今年の清明節は4月4日でした。中国では天安門広場をはじめ、全国で半旗が掲揚され黙祷する人の画像が流れていました。

京都のNPO作業場で、戦前の女学校の空気を吸われた方から「武漢と聞けば三鎮と続けて、武漢三鎮。ご存知?」と作業の手を止めずに話しかけられました。1937年12月、時の中華民国政府は首都南京から武漢に臨時政府を移しました。漢江が長江に合流する川口が商業港の漢口(『フレディもしくは三教街~ロシア租界にて』という長い曲、さだまさしが母親の漢口体験を偲んでいます)、漢江の南側に所在するので漢陽、そして辛亥革命の発火点となった武昌起義の地。
二つの大河の流れで三つに区切られた漢口・漢陽・武昌の街を総称して武漢三鎮。

武漢に出張した頃、天河国際空港の完全運用前には、河を挟む新旧二つの空港のどちらへ行けば目的のフライトに乗れるか再三にわたって確認を要したことを思い出します。4月8日に天河空港も閉鎖が解除されたので、待ちかねた人たちが殺到して大変な混乱が生じている模様です。元の生活に戻ろうとする希望に満ちた混乱とも言えるでしょう。

1937年11月30日の南京の下関海軍港から堀田善衛の小説『時間』は始まります。
漢口へ首都を遷す民国政府司法官の兄を見送る弟。同行を許されず一族の位牌や家財の保全と秘かに日本軍に占領された後の諜報活動を命じられた弟の物理的にも、運命的にも格差の大きい別離です。元の生活を棄てて生命の保全を一日延ばしにする希望に乏しい混乱のシーン。
すでに鎮江、丹陽など近隣の街は日本軍の支配下となり、南京包囲網は狭まり空襲も始まっている。非常事態宣言も都市封鎖もなく「問答無用」で軍事的圧迫が身近に迫るなか、心理的には既に占領されているが、現実的にはあと数日ある。何もすることが無いのでぐらつく義歯を治しに歯医者に行き、何のための歯医者通いと自問しながら、蒋介石総統夫妻が飛行機で去ったという噂を聞く。そして落城・・・と小説は続きます。
蒋介石は結局、武漢も棄てて重慶まで長江を遡り臨時政府を置きました。
2020年4月に何故この小説『時間』を読んでいるのか? 自問しています。

過日、従弟の書棚に柏原兵三作品集の第一巻が二冊あるのを見つけました。押し付けていた一冊を持ち帰り、『徳山道助の帰郷』を再読しました。

・・・第一章 徳山道助の故郷の家は、大山と呼ばれる標高千米近い山の麓にあった。大分市からローカル線で三駅目にあたるM駅で降りて、川沿いの県道を小一時間も歩くと、その麓に出る。・・・

 その川は大野川で、県道は竹田に通じると想像しています。旧家の長男が、優秀な成績で幼年学校に進み、軍隊の中でも頭角を現し、末は大将になることは間違いないと郷土の人は太鼓判を押した。日露戦争で初陣を飾り、シベリア出兵で苦心するも、第一次大戦後の欧州視察を経て、陸軍士官学校長に栄達。
しかし突然の予備役編入という挫折を経験。1937年秋に師団長として上海呉淞戦線、廬山戦の指揮を執り負傷。日本の戦争史とともに生きてきたが敗戦によって肩書も恩給も失った。
中国の体験については沈黙を通し続けた。老境に入り価値観の逆転した社会での生き方を模索している道助に故郷大分での法事への案内が届いて・・・。
平易な文章で綴られた帰郷の顛末が小説の肝になります。
前後して芥川賞を受賞した柴田翔や丸谷才一、丸山健二に比べると、柏原兵三には突出した個性や鋭角的な手法は感じませんが、ついつい読み繋いでしまう平易さは非凡なのかも知れません。
また母の実家の富山県へ縁故疎開した体験を坦々と描いた『長い道』は、藤子不二雄が漫画化し、篠田正浩監督が映画『少年時代』に仕上げ、井上陽水が主題歌をヒットさせています。

青年時代に読んだ時はストーリーを追いかけるばかりでしたが「徳山道助」と年齢が近くなって老残の想いが忍び寄り、この春に各地で縁故疎開を余儀なくされて様々な想いをした学童が身近にいたこともあり、味わいが深まり、何篇か速読しました。
帰郷話で塗されていますが『徳山道助の帰郷』の主題は1937年から1938年の中国江南での戦の酷さであり、堀田善衛の『時間』に重なります。
2020年3月、何故に柏原兵三が目の前に戻り、引き込まれて読んだのか奇妙な思いをしています。

           「清明や伯父の形見の古書守り」

 長期にわたり低迷を続けている句作ですが、久しぶりに複数の同人に拾ってもらった拙句です。
この伯父は何度か使った喩えとして、座り心地の良い椅子のような存在として子供の時から可愛がってもらいました。大阪から縁故疎開で大分県に移住し、戦中戦後の苦渋の生活を、名前の清明(きよあき)の通り清々しく明朗な生き方で凌いできました。

清明節の翌日、従弟から伯父の13回忌の法要は大分で営むのは取りやめて、東京で内輪で行うとの詫びの連絡がありました。 帰郷墓参の代わりにこの拙文を以って手向けとさせてもらいます。     (了)

2020年3月29日

東アジア  その1 範囲と心持ち

井嶋 悠

アジアに自身の根拠を置く人々[企業関係者、実業家、研究者、教育関係者等]の任意の或る研究会で、何年か前、『日韓・アジア教育文化センター』の活動の成果を話す機会を得たことがある。当日、使用機材の不具合も手伝って不本意なものとなり、参加者の一人から「どうしてアジアではないのか」と強い調子で問われ、私は間髪入れず「東アジアです」と応え、一層場を気まずくしたことが、今も心にこびりついている。
そして、あらためて東アジアとはどこを言うのか、「東」という方角以外に、中でも心の部分で今も共有し得ることはあるのか、が気にかかり始めている。

岡倉 天心(1863~1913)は、英文書『東洋の理想』(1903年・ロンドンにて刊行)の冒頭で、以下のように朗々と言う。(夏野 広・森 才子訳)

――アジアは一つである。
ヒマラヤ山脈は、二つの偉大な文明―孔子の共産主義をもつ中国文明と『ヴェーダ』の個人主義をもつインド文明を、ただきわだたせるためにのみ、分かっている。しかし、雪をいただくこの障壁さえも、究極と普遍をもとめるあの愛のひろがりを一瞬といえどもさえぎることはできない。この愛こそは、アジアのすべての民族の共通の思想的遺産であり、彼らに世界のすべての大宗教をうみだすことを可能にさせ、また彼らを、地中海やバルト海の沿岸諸民族―特殊的なものに執着し、人生の目的ではなく手段をさがしもとめることを好む民族―から区別しているものである。――

最後の2行は不勉強ゆえ実感的に理解できないが、日本の芸術を論ずることを目的としたこの書を思えば、それまでの表現に共振する私がいる。
そしてそれを端緒にして、例えば「東アジア人」なる表現が、現代に不相応な区別性は措いて、可能なのか思うのである。もちろんそう思うこと自体ナンセンスと一蹴されることも含めて。
ただ、この思いは机上の空想といったことではなく、『日韓・アジア教育文化センター』での交流活動を続ける過程で常に脳裏にあったこととして、である。すなわち、センターの構成員である、日本・韓国・中国(ここで言う中国とは、本土漢民族及び香港人である)・台湾の人々である。

そもそも東アジアを構成している国・地域はどこなのか。
ここにA4判の世界地図帳がある。その一項に見開き2ページで「東アジア」が提示されている。国、地域によっては一部分ではあるが、掲示されている諸国を東から挙げてみる。

・日本・大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・中華人民共和国・台湾・フィリピン北部・ロシア連邦東部・モンゴル・ベトナム・ラオス・タイ北部・ミャンマー・バングラデッシュ・ブータン・ネパール・インド北東部・カザフスタン

私は呆然と立ち尽くし、これは東アジアではないと思う。そこで東アジアを表題にする書にあってはどうとらえているのか、手元の二書で確認してみる。

一書は、『東アジア』[「現代用語の基礎知識」特別編集・自由国民社刊・1997年]。その中の第1章「東アジアとは」で、小島 朋之氏は、次のように記している。

――東アジア地域は民族、宗教、言語、歴史、文化、経済発展、政治体制など、いずれの面においても多様であり、「アジアは一つ」など簡単にはいえない。――として、

――本書では「東アジア」を、日本に隣接する朝鮮半島、中国大陸と台湾および香港、その周辺地域としてのモンゴルに絞ってみたい。――

もう一書は、『世界のなかの東アジア』[慶應義塾大学東アジア研究所・国分 良成編・2006年]。

その中の最初の章「東アジアとは何か」で、国分 良成氏は、日本を基点に、慶應大学の特性でもある経済視点から次のように記している。

――ASEAN[東南アジア諸国連合]+日中韓が主流となりつつあり(中略)ASEANは東南アジアで日中韓は北東アジアで、共通の集合部分は東アジアである。

――ヨーロッパの場合はキリスト教がベースにあるということは間違いない。そうした意味でアジアは何をベースにするのだろうか。…東アジア共同体の構想作業は始まったばかりで、これからさまざまな障害にぶつかりながら紆余曲折を経験することになるでしょう。――

『日韓・アジア教育文化センター』活動のキーワードは【日本語】であり、それと表裏を為す【日本文化】で、共通言語は日本語である。それは、東アジアで日本語を学んでいる人、教えている人を介して、日本を映し出し、日本を検証したいとの思いであるが、同時に東アジア諸国諸地域にとって日本が他山の石となることへの期待でもある。

例えば、海外帰国子女教育に携わった経験から言えば、この問題はとりわけ1960年代以降、日本の経済発展に伴って生じて来た教育課題であり、それへの対応、試行錯誤は東アジア諸国の教育施策に有用なものとなるであろうし、より一層日本の課題として戻ってくるはずだとの思いである。事実このことは、以前海外帰国子女教育の日本のプロジェクトで、韓国の文科省[教育部]の人と同席する機会があった。とは言え、この相互性での日本の一方性の批判を想像するが、これまでに培われた絆に甘え先に進む。

日本の東は太平洋である。その昔、日本が終着であった。西から、南から、或いは北から、様々な人々(民族)が、それぞれの文化を携えて渡来し、或る者は離れ、或る者は定着した。そして統一国家大和を形成し、少数民族は制圧され、大和民族が成立した。
21世紀の今、千数百年の間に沁み込んだ心に何度思い到ることだろう。私はそこに東アジアを見たいのである。

中国・朝鮮半島の長い通路を経て到達し、再開花し、更に発展し、時に日本の固有化した、仏教、思想、美術、文学等々の文化の宝庫を見る。正倉院には、確かにギリシャからシルクロードを経て渡来した美術品が蔵されているが、その前に私の中では東アジアがある。

先日、「アジアン・インパクト」との主題の美術展を訪ね、その印象は既に投稿したが、その展覧会でも「アジアン」は中国、朝鮮半島であり、それに衝撃(インパクト)を受けた日本人芸術家の展示であった。
やはり私の東アジアは、先の小島氏以上に絞って、中国・朝鮮半島・台湾そして日本であり、広くアジアを思い描く際にも、先ずその核となっている。

そのような東アジアの日本に生を享けた幸いを思う。
他国他地域について、その地の歴史も環境も十全に知らずして軽々に発言することは厳に慎まなくてはならないが、東アジアの国々地域は、それぞれ或る転換期にあるように思えるが、どうなのだろう。

東京オリンピックが延期されるほどに、コロナウイルスが全世界で猛威を振るい、亡くなった人の数は尋常ではない。私には驕り高ぶっている人類への「天罰」、といった宗教的視点はないが、無責任との誹りをここでも承知しながら、何か考えさせられることは否めない。

東アジアも然りである。

黄河文明をかえりみ、現在の中華文明を厳しく諫め、世界の現在を見ようとする中国のドキュメンタリー映画『河殤(かしょう)』(1988年上映・「殤」:とむらう者のない霊魂の意)の書籍版を読んだ。[現在、映像そものを観られる機会は、同じく中国の亡命者へのインタビューで構成されるドキュメンタリー映画『亡命―遥かなり天安門―』(2010年)同様、ないとのこと]。そこでは厳しい内省の姿が描かれている。

香港人との表現が象徴するように香港問題は多くの香港人を、外国人を覚醒化し、先日の台湾での総統選挙も複雑な台湾の現在の様相が顕在化した。
韓国は南北問題で見通しが立っていないように思え、北朝鮮は唯我独尊が如く猛進している。
そして日本の大国指向は、小国主義志向を善しとする私には、到底考え及ばないような展開が随所でなされ、落胆と絶望、不安が襲っている。
やはり東アジアの基層にある心[精神]を静かに問い直す時ではないか、と『日韓・アジア教育文化センター』の事績を振り返り思う。

コロナ・ウイルス問題も、世界各国が胸襟を開き、叡智を集め、一国主義に陥ることなく原因を解明し、他者への敬意と謙虚さをもって共有して欲しいと願う。

私自身はアジアの心を考える東に息する一人として、もう少し研鑽を積めればと思っている。