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2020年3月16日

多余的話(2020年3月)  『春なのに』

井上 邦久

仮住まいでの生活も一ヵ月になろうとしている。
スーパーマーケットやクリーニング屋の選定も終わり会員カードを利用している、というか巧く絡み取られる日常が始まっている。南茨木駅まで徒歩20分の道にも慣れてきた。桜通りの蕾も膨らみ、あと一週間という開花予想を裏付けている。神戸の研究会から報告要旨の文章化を求められ、大幅に手直しの指導を受けた最終稿を発信して二月を為し終えた。

それより前、2月20日から日経新聞朝刊の連載小説が中断した。伊集院静がクモ膜下出血で倒れたという報道が年の初めにあり、いずれピンチヒッターが出て来るものと想像していたが、ノンシャランなイメージとは異なり、書き溜めた原稿を一ヵ月以上分ほど残して闘病した様子。意外と言っては失礼ながらその精励ぶりに驚かされた。

夏目漱石をモデルにした『ミチクサ先生』の序章と云うべき段階までであるが、正岡子規との交流を核にした青春成長小説、自己形成小説(Bildungsroman)の趣を感じとっていた。二人を描く場合、どうしても正岡子規の個性が表に出てしまいがちなので難しい。同じ伊集院静が子規に光を当てた『ノボさん』(2013年・講談社)に重なり、また関川夏央作・谷口ジロー画『「坊ちゃん」の時代』(1987年~双葉社)のシリーズの世界も甦ってきた。
3月13日の報道では予後良好で自宅でのリハビリ段階に入った由。続きを読むのを愉しみにしているものの、ゆったりとしたペースでミチクサをして戻ってきて欲しいとも思う。

伊集院静は山口県防府市の生まれで野球にも秀でていた。義兄の高橋明(川上巨人軍時代の先発投手)の紹介で、長嶋茂雄に会い「神の声」に従って立教大学野球部に進むも故障のため挫折。

防府市に隣接する徳山市には一年年下の吉田光雄が町場の少年野球界で頭抜けた才能を見せていた。吉田光雄は岐陽中学時代に柔道二段、桜ケ丘高校ではレスリングで米国遠征、専修大学時代にミュンヘンオリンピック参加した後、プロレスのリングネームを本名から長州力とし、幕末志士風の束髪を靡かせながら強烈な「リキ・ラリアート」を炸裂し続けた。
中学生になったばかりの頃、徳山小学校から続いて同級生だった吉田光雄に「なんで野球を続けなかったん?」と訊ねたら、「バカだな~。優等生は何も分かっちょらんな。学校の柔道着はタダ、あとは俺の身体だけ。道具に金が掛かる野球は坊ちゃんの遊び」と言われた事を思い出す。

伊集院静と長州力とは同郷同世代でもあり改めて思いを綴りたい。

伊集院静にはリハビリの先輩でもある長嶋茂雄と篠ひろ子令夫人に従順であって欲しい。そしてゆっくりミチクサをしたあとで、人生論をベストセラーにするのもいいけど、できれば故郷・野球・女性のことをもっと綴って欲しい。

同郷同世代といえば三十歳前に営業部へ転属となった時のK元部長が逝去し、日を置かずして野村克也が冥界に去った。二人は京都北丹後の府立峰山高校の出身。学年が一年下の野村は野球の才には秀でていたが、幼くして父親を亡くし貧しい生活の中でグレ気味で、ペシャンコの帽子で虚勢を張っていたとのこと。一方、登校せずに割烹で昼間から酒を呑むこともあったというKさんも成績は良かったものの品行は決して褒められたものではなかったらしい。しかし、野村後輩には喝を入れ説教を垂れたと云う。点取り虫の優等生タイプではなかったKさんの言葉には後輩も素直に頷いたのであろうか。

同郷の二人は大阪南部の球場と大学で基礎を作り、南海ホークスのテスト生は三冠王を獲得して監督まで上り詰め、商社に就職し強面な外観と奔放な行動で畏怖されていたKさんも専務取締役にまで昇進した。
営業の呼吸法を色々と教わった以外に、「Aへ進めとの指示があったら、Aに到達できなくともaの方向には進め。間違ってもBやZには進むな。指示に対する理解力と洞察力とベクトルを揃える能力が試されているのだ」、「住んでいる地域も含めて豊かな人間関係を作る努力を早くから続けること。会社組織だけに拘っていたら豊かな人間性を育めない」といったことを大阪ナンバの呑み屋や銀座のクラブで語って貰った。

戦後の丹後縮緬ブームでガチャ万景気に湧いていた故郷のこと、その格差社会の底辺にいた野村少年のこと、十年後の帰郷の折に峰山駅でブラスバンドが歓迎演奏をしていて「まさか俺のためではないだろう、と訝る間もなく野村三冠王が現れた」といったエピソードを喋りながら、合間に語った人間洞察には社内での雰囲気とは随分離れた味わいがあったことを思い出す。 

二人とも歳上の女性と結婚し、先立たれて失意の時間を過ごしたことも共通している。Kさんが口癖にしていた「豊かな人間関係」を作るのは容易ではないという冷徹な事実を、身を以って知らしめてくれた気がしてならない。                   (了)

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
洗濯物がぬれるから 女はひきつった顔で わめきまわる ころびまわる
男はどうした事かと立ちつくすだけ 空の水が全部落ちてる 
(中略)
計画は全部中止だ 楽しみはみんな忘れろ 嘘じゃないぞ 夕立だぞ
家に居て黙っているんだ 夏が終わるまで 君の事もずっとおあずけ

                     井上陽水 『夕立』

2020年3月7日

父としての自覚 ―再び母性・父性について―

井嶋 悠

父親なるものなって40年が経つ。よくぞ私ごときが父として来られたもんだと慰め、褒める私がいる。一昨年、長男の結婚式で、長男が“感謝の言葉”セレモニーで言った「今日まで自由にさせてくれてありがとう」との言葉が妙に残っている。
これは親子の信頼関係での言葉なのか、それとも「親はなくとも子は育つ」の彼なりの柔和な棘的表現なのか。息子のあれこれを知る私たち両親としては、前者であることを素直に取らなくてはならない。

母の方はかなりの自覚をもって子どもに接していたが、私の場合、何か父としての自覚といったこともなく、自然な流れで三人の父となったように思える。
年齢順で言えば、妻が腹膜炎に罹り妊娠七か月で死を迎えた長女。その3年後の長男。そしてその4年後の次女。
ただ、次女は中学時代の担任教師の、何人かの女子生徒を自身側に取り入れての「ネグレクト」に会い、その後の高校での教師、学校不信甚だしく、紆余曲折の人生、23歳で早逝した。したがって現在、長男は一人っ子のようなものである。
その次女の一件では、憤怒すること、同業ゆえなおさらで、今も決定的に刻まれていて、そのことに於いては、自照自省そして自覚著しく、更には私自身の学校、教師への不信感また自己嫌悪が増幅している。これらについては、以前に投稿したのでこれ以上立ち入らないが、一言加える。

社会的告発は本人、母親の、私の気質を知ってのこともあり、しなかった。したとしても経験上、学校、教育委員会の反応は、ほぼ想像がつくのでなおのことしなかった。しかし断然教師に非があると思っている。このことは、後日、別の教師から娘に直接謝罪があったことからも、決して親のエゴではないと信じている。

このように子どもに関して曲折を経験し、ここ何年か死を考え始める年齢となり、父とは一体何者ぞ、と私の父をも思い起こし、考えることが増えて来ている。

私の父は医者であった。大正6年生まれの京都人である。50歳ごろまでは勤務医であったが、それ以降享年80歳まで開業医であった。尚、戦時中は長崎勤務の海軍軍医であった。
父を尊崇する声は聞いていたが、名医であったかどうかは分からない。ただ勉強家には違いなかった。或る時、こんなことを言っていた。「ワシのような医者は、ワシで終わりだ。」
その意味することは、患者に対して、挨拶ができていないとその場で叱正し、耳学問で自己診断する患者には診察前早々追い返す等我を通すのである。そういった医者が、今も世に成り立っている自身を自覚してのことだった。

父の医者としての道程は、晩年期を除いて安泰ではなかった。要領よく兵役を逃れた者や長崎被爆での軍上層部また医師等特権階級の権力行使による戦後に備えた功利的生き方への反発は、戦後の生き様に決してプラスには作用することはなかった。そのため出身大学内人事、更には権力にへつらう人たちのしがらみの中、孤軍奮闘せざるを得なかったようだ。

そういった生き様は、「子を持って知る親の恩」そのままの親不孝者であった私でさえ、心に深く刻まれ、私の今日までに或る影響を及ぼしていると思う。例えば、結婚後、どうしても許せないとの、結局は同じ穴のムジナにもかかわらず、家族への不安、迷惑をかえりみることなく突っ走ること幾度かあった。

父は家庭にあっても、漢字「父」の成り立ちから意味する統率者然とし、家父長意識そのままに君臨していた。家族はどこか腫れ物をさわるような立ち居振る舞いの様相を呈していた。この緊張感溢れる家族生活も、私が小学校4年時での離婚、中学からの継母を迎えての新生活、そして妹の誕生といった変化に、父の加齢も加わって徐々に変容して行ったが、それでも父たる存在感は大きかった。
ところがである。私の長男と長女の生は、父らしからぬ父と変貌させた。痛々しいほどに二人に愛を注ぐ父がいた。父は祖父になったのである。古来の父性の父から母性の人になった。
その父が亡くなって23年が経ち(だから長女の死は知らない)、今では私が祖父となるかもしれない心模様をあれこれ想像する立場になっている。
私は、風貌、体型また志向性格において、その相似を妻や親戚の者から指摘されるが、父のような父とは全く異にしているように思う。父とは自立するまでの30有余年があまりに違い過ぎるからもある。

やはり、ここにあって父性・母性を考えたくなる私がいる。再び整理してみる。
『新明解国語辞典 第五版』の説明は以下である。何ともそっけないと言うか、窮しているというか。
  父性:父親(として持つ性質)  
  母性:女性が、自分の生んだ子を守り育てようとする、母親とし
     ての本能的性質。

次に、中村 雄二郎著『述語集』の、「女性原理」の項を参考にする。引用は、著者の言葉をあくまでも尊重し、適宜私の方で要約して記す。

(西洋の心理学者E・ノイマンの考えに立ち)
  母性:元型としての太母(グレート・マザー)は、包み込むこと
     の意味する、相対立する二つの側面を同時に持っている。
一つは、生命と成長を司って、懐胎し、出産し、守り、養
い、解放する一面、つまり生命の与え手の面である。
もう一つは、独立と自由を切望する者たちにしがみつき、彼
らを解放せずに束縛し、捕獲し、呑み込む一面、つまり怖る
べき死の与え手の面である。
無意識・感情

父性:断ち切ること、分割すること。
意識・理性

現代は母性の時代とも言われ、だから一部の父親、男性が(女性も?)「父性の復権」を言う。
しかし、どれほどに男性性・女性性について私たちは共有しているだろうか。「らしさ」の曖昧性、或いは固定性、大人の一方的刷り込み。
男女協働社会を考えれば、男女のそれぞれの性(らしさ)に係る自照、自問、自覚がより求められ,その上で共有があって然るべきではないかと思う。常識の呪縛から離れなくてはならない。父権制、家父長制の中で培われた常識。この裏返しとしての女性の常識。

それは、男女共同・協働意識とその現実化にあって、先進国中最下位に近い位置にある日本の緊要の課題である。いわんや先進国の矜持があるからには。

では、私自身はどうなのか。何も言えない。言えることは、男に生まれ、男の子として育ち、男性として社会人となり、ご縁があって結婚し、父となり、死を迎え、居士を与えられ(多分・・)、無と無性の世界に彷徨う・・・だけである。ジェンダー問題への思慮など言わずもがなである。

確かな男女協働社会を構築するには、どのような「らしさ」が常識としてあるべきか、学校、社会で大いに話題にして欲しいものだ。私のような無自覚な男を、父をなくして行くためにも。

2020年2月29日

多余的話(2020年2月)  『二月は逃ぐる』

井上 邦久

    足早に逃げる二月を追いかけて

 一月は往ぬる、二月は逃ぐる、三月は去る、と九州での子供時分に耳にしていました。遥かに牧歌的な時代の地方であっても,年初めの時間はそれなりに慌ただしく過ぎていたのかも知れません。それにつけても今年の二月は足早でした。

一つには同じ茨木市内の仮住まいへの引っ越しを前にして、15日までは神戸華僑華人研究会での報告準備に没頭しました。安井三吉先生や陳來幸会長を前にして晩学の者が『大阪港と川口華商』について報告しました。許淑眞名誉教授や二宮一郎先生から指導と激励を貰いながら準備に努めました。
昨春の川口居留地研究会にて、同じテーマで汗顔ものの報告を行い堀田暁生会長から「プロもアマチュアもない」、「新規発見が有るか無いかだ」、「ただプロの練度に学びなさい」という寸鉄が肝に刺さったままの一年でした。
報告のまとめの小文を事務局に送って一区切りを付けましたが、「練度」不足を改めて痛感しています。今後とも大阪市西区や山東海商の故地をひたすら歩き、足と五感を頼りに練度を上げていきたいと思っています。

16日早朝から3日間、段ボール函との格闘に集中しました。ギックリ腰にならないこと、いくら懐かしい写真や本に再会しても立ち止まらないこと、この二点に留意して何とか仕上げました。
その労力の結論は、何と多くのガラクタとツンドク書と同居していたのかという自戒の念でした。此処での若干の自己弁護としては、ほぼ40年にわたり国内外での仮住まいや出張という渡り鳥生活をしてきて、棚卸はせずに仮置きを繰り返してきた挙句の結果だと言う事です。

祖父の形見の陶器(ドイツ製ビールジョッキ)と伯父の遺した文学全集は散逸しないよう、米寿を迎えたばかりの母親に預かって貰いました。二人が愛読した『美味求真』シリーズ(木下健次郎・1925年)は手元で保管を続けています。

最寄りの駅は阪急京都線の南茨木で一昨年6月の直下型地震で壊れた駅舎の工事が続いており、階段歩行を余儀なくされています。仮住まいから徒歩20分の駅までの道は、茨木名所さくら通りと交差しているので、もうすぐ花見をしながらの朝の道や夜桜お七と花見酒の夜の道を楽しめそうです。

震源の摂津の春の仮住まい

 毎月第4水曜日は大阪市本町での「華人研」の例会日です。2月は1年半ぶりに三村光弘氏(環日本海研究所主任研究員)を新潟から迎えてお話を聴きました。世の中が今頃になって俄かに新型肺炎の対策を声高に叫び出したこともあり、講演後の立食交流は取りやめ、その時間を質疑応答にゆったり充てました。早い段階での参加申込が多く、広い会場を確保して貰ったのでスペースもゆったり取れました。
三村氏がプロの眼と足と五感で蓄積された北朝鮮についての内実開陳には、新鮮な啓発が多く、周辺諸国の実態説明を通して中国や北朝鮮の立ち位置が自ずと浮かび上がってくる構成でした。そして更には日本を合わせ鏡のように照射する多層的なお話を聴きながら、ついつい三村氏の眼を通じての朝鮮半島像が自分の眼で見てきたような錯覚に陥りそうで自戒しました。

昨年末、中国から新型肺炎の情報が洩れてきてから注視していましたが、中国政府衛生部からは1月20日まで正式公告は出ておりませんでした。
武漢三鎮は長江(揚子江)と漢江が合流する要地として古くから栄えた土地、四川盆地と上海を長江が東西に結び、長江に架かる武漢大橋により北京と廣州が南北に鉄道で繋がった、言わば中国の大動脈の十字路に位置します。それだけに人の移動による影響の大きさを危惧していました。
時はあたかも春節の直前、中央幹部は外遊をするのが習いであり、地方幹部は繰り返される新春歓迎会などに出演してテレビで報道される時期。その直下で感染は各地に蔓延して潜伏していたと想像します。

先月に綴った『軟禁』事件のあとに更に強まった「無かった事にすれば、事は無かったのだ」という隠蔽体質と一強体制が人災を世界規模にしました。

            一穴で大河の流れ変わる春

 二月の逃げ足ははやく、失った命を取り返すことができません。

2020年2月22日

和光同塵 [老子] ―若い人たちに読んで欲しい『老子』ー

井嶋 悠

和光同塵、紀元前4世紀古代中国の思想家(思索家)老子が著した『老子』に出て来る〈2回登場する〉言葉である。実に美しい言葉だと思う。人によっては彼を詩人としてみるようだが、中国の詩の規則[押韻や平仄等]に無知な私でも、なるほどと思わせる一節でもある。この言葉の個所の一つを引用する。
引用に際しては、口語文(書き下し文)の中でさえ難しい漢字は仮名に変えている。

知る者は言わず、言う者は知らず。その穴[欲望を誘い出す耳目などの感覚器官]を塞(ふさ)ぎて、その門を閉ざし、その鋭を挫(くじ)いて、その粉を解き、その光を和らげて、その塵に同ず。これを玄同[不可思議な同一:通俗的立場を乗り越えた境地]という。

平安、平和な光溢れる郷土を想い、国[祖国・母国]の姿に思い到る。
因みにこの「玄」、同書第1章で、【常に無欲にして以ってその妙[深遠で分かりにくい世界の意]を観(み)、常に有欲にして以ってその徼(きょう)[表面的ではっきりした現象世界の意]を観る。この両者は、同じきに出でてしかも名を異にす。同じきをこれを玄といい、玄[あらゆる思考を絶した深い根源的世界の意]のまた玄は衆妙[もろもろの微妙な始原の意]の門なり。]と説かれる、すべての根源を表した、老子の鍵となる語である。ここにおいても老子の詩人性が見て取れる。

私はこの老子[書『老子』に表された老子]を敬愛する。また羨望し、親愛する。そして、とりわけ次代を担う若い人に読んで欲しいと思う。孔子の『論語』とは違う文学性、論語が持つ倫理性の強い文学性とは違うものを思うからなおさらである。
昔、中国の人々は言っていたそうな。「家を出るときは孔子を着、帰れば老子に着替える」と。ここには老子の、すべての人間が持つ馥郁とした人間性と詩人性があるように思える。

なぜ若者か、幾つか例を挙げ、その理由を記す。と同時に詩人性も味わって欲しい。
そもそも老子は言う。

「人の生まるるや柔弱、その死するや堅強なり。万物草木生まるるや柔脆(じゅうぜい)[柔らかく脆(もろ)い]、その死するや枯槁(ここう)[枯れる、干からびる]なり。故に堅強なる者は死の徒にして、柔弱なる者は生の徒なり。(中略)強大なるは下に処(お)り、柔弱なるは上に処る。」

ここで書いていることは、この年齢(74歳)になっての、痛烈な自省であり、自戒である。若い時こそ地に水染み入るがごとく吸収できるが、歳を重ねる毎に心も脳も硬化し、多くは頭だけが、それも核心に到ること少なく、働き、いわんや心に到達することなく過ぎ去り、徒に時は経ち、そうこうしているうちに跡形もなく消え去ってしまう。

因みに、老子は「上善は水のごとし。水善く万物を利してしかも争わず」と言っている。

「強大なるは下に処り、柔弱なるは上に処る」に、先の和光同塵で引用した「知る・言う」を重ねてみると、上に立つ者の在りようが見事にとらえられていることに気づくではないか。学校で、社会で。少なくとも私はそうでない人たち、己を誇示し昂ぶる人たち、に多く出会って来た。

そして老子は「樸(あらき):切り出したままでまだ加工しない木材」を、素晴らしいもの、美しいものの喩えとしてしばしば用いる。だから嬰児(えいじ)が讃えられる。
とは言え、若い時(とりわけ10代から20代)は純粋であることの裏返しとして、迷い、苦悶も多い。そこで老子は言う。

「美の美たるを知るも、これ悪[醜いの意]のみ、善の善たるを知るも、これ不善のみ、云々」と。

絶対と相対。すべては相対と思うことで軽くなる肩の荷。いわんや現代は長寿化時代である。時間は十分にある。ないのは社会の、大人のゆとりと、それぞれの場で何らかの権力を有している人の慈愛、慈悲の眼差しである。

だから老子は続けて言う。「聖人は無為のことに拠り、不言の教えを行う。」

私(たち)が抱く聖人への憧れは受け身であり、非生産的である。ここにも若い人の可能性が見出せる。尚、「大器晩成」も老子の言葉である。

更に老子は自身の言葉の背景に、原理としての母性を置く。

「谷(こく)神(しん)は死せず」、これを玄雌(ぴん)という。玄雌の門、これを天地の根(こん)という。」

【口語訳:谷間の神は奥深いところでこんこんと泉を湧き起こしていて、永遠の生命で死に絶えることがない。】

あまりの牽強付会であり、加齢があってこそ共感かもしれないが、それでも或いはだからこそ若い感性で味わって欲しいと思う。

《補遺》
老子は実在しなかったという人もあるようだが、多くは実在したと言われている。ただ生没年等は不明で、中には複数で存在したという人もあるとか。

5世紀に中国で確立した民間信仰、民俗宗教の「道教」では、老子が教祖[神]として崇められている。尚、中国で発展した宗教として、「仏教」「道教」「儒教」がある。
ところで、このような伝説上の人物となると、後世の人はその人物像[姿・形・風貌]を想像力豊かに作り上げることが多い。老子も例外ではない。こんな具合だ。

―身長は九尺(中国古代では1尺は約22センチメートル)、鼻は高く秀で、眉の長さ五寸(1寸は約2センチメートル)、耳の長さ五寸、額に三本のしわがあり、足には八卦の模様をそなえ、神亀に腰かけ、白銀を階段とした金楼玉堂の内にあり、五色の雲を衣とし、重畳の冠をかむり、立派な剣を腰にする。―

2020年2月2日

「アジアン・インパクト」 《Ⅰ》 日本語教育の可能性

井嶋 悠

1か月余り前になるが、東京都庭園美術館で開催されている美術展に行った。東京都区内目黒駅から徒歩10分ほどにある。
東京は、疲労困憊する街だが同時に不思議な魅惑に満ち溢れている。文化に係ることでないものはないと言っていいほどに魔性溢れる街だ。と言う私には年齢もあって住む気力はない。
限られた都区内の都市空間、東京大空襲からも再興し、随所にある自然と芸術の総合空間。この庭園美術館もその一つである。

これらの多くは、江戸時代の高級武士や明治時代の宮家の賜物で、時代が時代なら私が如き平民が立ち入れるところではない。ありがたいことである。格差、貧困問題の現状にあって不謹慎との誹りを免れ得ないかとも思うが、高齢者割引料金で半額の500円は、あの爽やかな時間、しばしば見かける芸術を身構え、知を誇るかのような時間ではなく、自然態で浸る時間ならば決して高いとは思えない。
作品群を気の済むまで眺め、庭園の椅子に身と心を委ねれば、2時間、3時間は瞬く間だ。
高齢化時代の昨今、芸術、自然鑑賞体験の高齢者は甚だ多く、そんなゆとりの時間の競争率は激しいが、今回は幸いにも訪れる人は少なく、心和む時空間となった。

美術展の主題が『アジアン・インパクト』、副題が『―日本近代美術の「東洋憧憬」―』である。
1910年前後から1960年前後までの間で、古代中国・朝鮮(李朝)の諸作品に影響(イン)衝撃(パクト)を受けた何人かの日本人作家と、アジアを幻想する3人の現代日本人作家の作品が、以下の主題に基づいて展示されている。

 Ⅰ  アジアへの再帰 
 Ⅱ  古典復興
 Ⅲ  幻想のアジア

作品分野は、絵画・彫刻・陶磁器・漆工・竹、藤工藝にわたる。

私は在職中、校務で欧米、アジアの幾つかの都市に出かけた。訪問は一都市長くて2日前後であって、都市の一部分しか体験していないが、思えば幸いな機会であった。欧米の場合、どこか気構える私があったが、アジアは、まるで里帰りするような心持ちを何度も経験した。言葉[現地語]が分からないので、一昔前の読む書く中学高校英語を思い出し会話を図るのだが、欧米の場合、顔がこわばっている私がいて、アジアの場合、親愛的になっている私がいる。
アジアとの響きは私を心落ち着かせる。なぜなのか、おそらくアジア人のアジア人への甘えなのだろうが、未だによくわからない。ただ、それを追いかけていくと、何かがあるようにも思える。
その際、これまでの中高校国語科教師からの日本語教育と【日韓・アジア教育文化センター】の活動体験が、考える具体的契機となるように思い、今回の副題とした。

2006年、【日韓・アジア教育文化センター】主催で、「第3回日韓・アジア教育国際会議」を、特別講師に韓国の池 明観[韓国の宗教政治学者。1924年生まれ。1970年代の韓国民主化運動に携わり、「T・K生」の名で、日本にも発信し続け、後に『韓国からの通信』との書名で岩波書店より刊行]先生を招聘し、上海で開催した。その時の3日間の会議内容[項目]は以下である。

  特別講演「東アジアの過去・現在・未来」 池 明観先生
  東アジアでの日本語教育の現在 
           [韓国・上海・台湾そして日本の役割]
  日本の高校での国際理解教育
  上海日本人学校での国際教育
  東アジアでの海外帰国子女教育

同時に、上海・香港・台北・ソウルから各1名、日本から3名の、計17名による高校生交流を実施し、共通語を日本語とする彼ら彼女らの姿をドキュメンタリー映画として制作した。題名は『東アジアからの青い漣』(制作者:日本の2人の映像作家)

私たちは、アジアそれも東アジアにこだわった。東アジアに生を享けた者として、アジアを、世界を東アジアから考えてみたかったからである。
東アジアの底流に流れる心を見出すことは可能なのか、可能ならば今もそれを共有し得るのか。その時、日本語教育はどのように機能し得ているのか。

尚、東アジアは東アジアで、東亜ではない。東亜を名称に入れた組織関係者には申し訳ないが、私の中で東亜は大東亜につながり、私たち先人の過去の過誤と重なるからである。
旧知の韓国民団長の「大東亜共栄圏は、その理想にあってはよかった」との言葉も、一応肯定する私ながら、その理想にあっては、ということ自体に日本の純粋性があり得たのか甚だ疑問であるからである。机上の空論としての観念論であったのではないか、と或る自省からも思う。
いわんや現代東アジア情勢に身を置く一人としては、である。

展覧内容に戻る。
先に記したように、展覧会の意図は既に記したが、展示作品、作家は例えば以下の作品群である。ここに取り出す人々は、私の中でとりわけ心引き寄せられた作品の、それも数人の作者である。

Ⅰ.アジアへの再帰における、
雲崗の石窟と日本画家川端 龍子(りゅうし)(1885~1966)や杉山 寧(やすし)(1909~1993)、チャイナドレスと洋画家岡田 謙三(1902~1982)、静物画に採り入れられたアジアと陶芸家バーナード・リーチ(1887~1979)や洋画家岸田 劉生(1891~1929)といった人々の作品

Ⅱ.古典復興における、
中国古代青銅器と鋳造工芸家高村 豊(とよ)周(ちか)(1890~1972・詩人高村 光太郎の弟)、中国陶磁器と陶芸家石黒 宗麿(1893~1968)や中国五彩陶器と富本 憲吉(1886~1963)、また竹工芸家飯塚 琅玕(ろうかん)斎(さい)(1890~1958)、李朝白磁さらには日本の民藝運動ともつながる陶芸家河井 寛次郎(1890~1966)、古代中国漆器と漆工芸家松田 権六(1896~1986)といった人々。

Ⅲ、幻想のアジア
私にとって現代美術は、具象であれ抽象であれ、作者自身の或いは研究者等の解説があって初めて得心への道程となるほどに困惑することが多い。感性と想像力が、それも原初的なそれが、決定的に足りない。ついつい頭で見てしまうのである。観念的になり過ぎてしまう私がいる。作者の説明を読まない限り、アジアがどこにあるのかもわからない。
例えば、こんな風だ。3人の内の一人、山縣 良和(1980~)氏の政治性をもった『狸の綱引き』など。

この展覧会の意図は中国また朝鮮の美術の日本人作家への影響としての「インパクト」を確認し、そこから生ずる中国・朝鮮美術への憧憬を顧みるということなのだろうが、それだけとは思えない。

主催の庭園美術館長の樋田 豊次郎氏は、本展公式書の「はじめに」で次のように記している。

―こうした東洋憧憬は、一九六〇年頃に作品制作の表舞台からフェードアウトしますが、日本美術の根底ではいまも生きつづけているように思われます。―

そして、第Ⅰ部を『アジアへの再帰』とする。
更に樋田氏の言葉を借りれば、「アジアの古典を振り返りつつ西洋化を目指した〔再帰的近代化〕」ということなのだろうが、私はここでの「再帰」との言葉に眼を留めたい。近代化胎動から150年の今日、再度アジアを、その源泉源流に思い馳せる意義を思うのである。その時、私たちの眼前に在るのは先ず東アジアである。
とりわけ若い世代(10代後半から20代前半にかけての青年たち)が探索することで、例えば上記会議で大人たちが発した内容にどう応えるのか、それが、ドキュメンタリー映画の表題を『東アジアからの青い漣』とした思いである。

なお、会議中センターの中国側委員からあった、日本語―韓国語―中国語の高校生による相互通訳の試みと実践は、この会議の豊かさを思わせることとなった。

故きを温(たず)ねて新しきを知る、人間が人間である限り永遠の真理であり課題である。会議を主催した一人として、映画制作に関わった一人として、アジアを、東アジアを再考し、私の言葉を少しでも紡げられたらとの思いが今も残る。

2020年1月24日

多余的話(2020年1月)  『軟禁』

井上 邦久

サンフランシスコの次は南京ではなく、軟禁のことです。
去年今年貫く棒の如きもの、虚子の句を高校生時分のようには実感できずまさに虚しく歳が暮れようとしたところに、Carlos Ghosn has goneの報せ。そして、NHKでは中国関連のドラマやドキュメンタリーが続きました。

『趙紫陽 極秘回想録』 天安門事件「大弾圧」の舞台裏!
                           趙紫陽 

パオ・プー(鮑樸)/ルネー・チアン/アディ・イグナシシアス
河野純治=訳 
            光文社 2010年1月25日 初版第一刷発行

 1989年6月、全ての職を解かれてからも「党の処分を決めるための審査上の必要性」という理由で北京市内の自宅に拘束され、2005年1月17日死去するまで16年間の軟禁生活が続いています。

 2000年から2003年、監視要員に悟られぬよう、家人に累が及ばぬよう秘かに、全録音時間30数時間の口述記録をカセットテープに残し、信頼の置ける人たちの手で香港へ分散して持ち出されたとのこと。それを基に編集出版されたのが上記の本であり、ちょうど10年前に日本語版が出されています。 
「趙は録音前にメモ書きを用意していたために、語りも、論理もしっかりしていた」「父親(鮑彤・趙紫陽の最側近)の関与がなかったら、この本の出版は無理だったであろう。彼がテープを聞いて全文をチェックし、順序を入れ替えたりした」(中国語版出版元、英語版からの翻訳に当った鮑樸の言葉

経緯や時代背景は、巻末の日暮高則氏の解説に詳しく、NHKのドキュメンタリーも概ね上記の本、ということは趙紫陽の肉声を録音したテープに基づいて制作されていると思います。

 1992年10月8日、党中央は趙紫陽を中南海に呼んで審査の終了を宣言したが、それでも趙の自由回復はならなかった。ただ、これ以降の自宅軟禁について、当局は理由も提示せず、また実際に根拠をみつけることもできなかったのである、との記述もあります。

まさに多余的話で恐縮ですが、「改革開放」という言葉の使い方について個人的なコメントを繰り返します。
趙紫陽失脚以降に言われるところの改革開放とは、経済改革であり政治改革ではなく、対外開放であり対内開放ではないことを改めて感じます。

昨年の晩春、制作に携わった人が思いつめた感じで「自らの半生をかけて作ったので是非見て欲しい」と伝えてきました。そのバージョンでは、趙紫陽の遺骨が自宅に留め置きされたままにされている画像と埋葬の許可が下りないというナレーションがありました。
昨年の夏に夫婦一緒に埋葬されたとの報道があり、年末の拡大版でも一族や友人が埋葬に立ち会うシーンが映されました。また拡大版にも事件当時広場で学生と接した趙紫陽に、温家宝(当時は中央弁公庁主任)が緊張した表情で拡声器を指し出す姿が画像記録されてました。

 1月26日(日) 14:00-15:50 NHK BS1で 「NHKスペシャル」/「証言ドキュメント 天安門事件30年」の拡大版が「再・再放送」の予定との案内を貰いましたのでお伝えします。
なお、大陸に住む友人たちには番組の案内や拙文を不用意に届けると迷惑をかけるので注意します。

趙紫陽が軟禁されていた当時の北京には何度も仕事で行きました。すぐ近くで高濃度PM2.5含有の空気を共有していた事実、そして軟禁が続いた時間の長さを改めて感じています。
現在こうしている時にも、カナダで拘束されようやく審理が開始された華為技術(HUA WEI)副会長・CFOの孟晩舟氏やレバノンで咆哮(彷徨?)している人のことも連想しています。
また、高齢の鮑彤が今日も北京で軟禁状態にある事実は、歴史が現在に繋がっていることを意識させます。

                         (了)

2020年1月18日

   江戸っ子・気質

井嶋 悠

私は一応、都っ子[京都っ子]である。一応というのは、家系的には京都だが、私の人生が、子ども時代の周囲の大人の事情や後の私の意志もあって流転しているからである。
そんな私だが、江戸っ子という響きに好意性を持っている。それも山の手系ではなく、下町系の人々である。言ってみれば江戸落語或いは風流の世界かもしれない。

私は4コマ漫画以外、基本的に漫画をほとんど読まないのだが、東京生まれの漫画家にして江戸(文化)考証家で、46歳の若さで逝去した杉浦 日向子(1958~2005)は例外である。彼女の代表作の一つ『江戸雀』に接し、虜になった。描かれる男女が微笑ましく、風景が緻密で情緒深い。
以後、彼女の著作であるエッセイを読んでいる。『一日江戸人』もその一つである。入門編、初級編、中級編、上級編の章立てで、江戸人を、暮らしを、文化を、軽妙な筆致と温もり溢れる描画で紹介していて、最終項は『これが江戸っ子だ!』である。
そこに【江戸っ子度・十八のチェック】というのがあり、次の項目が挙げられている。適宜私の方で要約してそれを引用する。

①よく衝動買いをする ②見栄っ張りだ(借金をしてでも人におごる) ③早口 ④よく略語にする ⑤気が短い ⑥定食より丼飯 
⑦潔癖(濡れた箸を気味がる) ⑧下着は白で、毎日替える ⑨行きつけの床屋がある ⑩無頓着にみえるが、おしゃれにこだわりがある ⑪履物に金をかける ⑫間食好き ⑬入浴時間は15分以内、45度以上で毎日 ⑭あがり性 ⑮異性交際が下手 ⑯駄洒落好き ⑰ウソ話を本気で聞き、後で笑われる ⑱涙もろい

以上の該当数により、筆者は次のように分類する。
18   金箔付きの江戸っ子    
15以上 江戸っ子の末裔の東京っ子    
10以上 並の東京人
一桁  並の日本人
どうであろう?

上記⑤⑦⑧に通ずることとして、義侠心(男気・男勝り)、反骨精神(哲学者九鬼 周造(1888~1941)の『「いき」の構造』による“粋“の3要素【媚態・意気地・諦観】の内の意気地に通ずる意地っ張り、との江戸っ子気質を語るにしばしば登場する表現)との言葉が浮かぶ。
尚、杉浦も九鬼の著書を基に書いているが、彼女曰く、最初はちんぷんかんぷんだったが、江戸への理解が進むと、当たり前のことが当たり前に書かれている、と。
このチェック表、三代続く生まれ育ちが東京下町の、私が知る近しい女性は、ほぼ該当していて、更には義侠心、反骨精神は甚だ強い。
私は5ないしは6である。但し、反骨精神はあると自認している。

ひょっとして、私は江戸っ子=男性と思い描いていないかと自問する。私が男であるからとも言えるが、幾つかの本等からも江戸っ子というとき多くは男性がイメージされている、と思える。女性は中心にはいない。夏目 漱石の『坊っちゃん』然りである。『男はつらいよ』の寅さんの妹、おばちゃんもあくまでも脇である。
これでは明らかに今の時代にそぐわない。
これを、先の杉浦 日向子は、別の書(監修)『お江戸でござる』で、江戸の男女構成(そこには江戸時代の江戸だからこその要因、参勤交代制がある)や、そのこととも関連する結婚事情、また男女協働の実情を通して「かかあ天下―現代のウーマンズパワーーと書き、
日本近世文化研究家である田中 優子さん(1952~)は、『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?-落語でひもとくニッポンのしきたりー』との著で、落語『抜け雀』『厩火事』を通して「江戸の女は強かった」と書く。

ここに、「男があって女」ではない「女があって男」の世界を見、一方で明治維新以後の近代化の中での「男があって女」が今もって続いていることに思い及ぶ。
「江戸の世界も女は強かった」のではなく、あくまでも「江戸の女は強かった」のである。だからと言って男が弱かったのではなく、また男が勝手に女は弱いと決め込んでいたのでもなく、男女平等意識が、難しい講釈なしに自然に浸透していたと説く人もある。
なぜか。今ほどに職種はなかった時代、協働しなければ生きて行けなかったし、その時、とりわけ女性に強いと言われている地に足をつけた現実性指向は何よりも有効にして必要であった。

今はどうであろうか。
職種は多種多様で、農業国としての面影は薄くなりつつある。そして男女共同参画、協働との言説、呼び掛けはかまびすしい。しかし、その成果、内容は先進国中最下位に近い。先進国、一等国と言うにはあまりに哀しく恥ずかしい。
どうすればいいのか。

男性が、これまでの歴史をかえりみ、自身の深奥に何が見えるのか、響くことは何なのかを謙虚に問い、政治等社会を主導し、変容に与ることがより直接的な世界に、女性が果敢な自由さと柔軟さをもって参入できる雰囲気[場]の醸成が必要なのではないか。もちろんそこでは女性自身の意識改革も必要だが、先ず問われるべきは男性側の意識変革である。その時、江戸の庶民男女の躍動こそ、その方法等を考える大きな力となる。
ただ、あの吉原は、樋口 一葉の『たけくらべ』で終わりにしてほしいが、現実はフーゾク通りとして陽の高い時間から今も営業している。性はヒトへの永遠の課題の一つなのだろう。
江戸を顧みることで、女性の在りように限らず、豊かさと質の問題や東京での貧困問題を説く人も多い。
ここ数年の江戸ブームが、郷愁や感傷だけで終わることなく新たな生の力となってほしいものだ。

2019年12月26日

多余的話(2019年12月)  『サンフランシスコ』

井上 邦久

 先月は1951年のサンフランシスコ講和会議を持ち出して、made in occupied Japanの世代であることを伝えました。
その年の紅白歌合戦では紅組のトリとして渡辺はま子が『桑港のチャイナタウン』を唄っています。桑(中国語ではsang)港と日系人・日本人は呼び、中国人からは旧金山と呼ばれるSan Francisco。1849年のゴールドラッシュの頃、多くの中国人移民が西海岸に赴き(或いは無理やり連れていかれ=小文字のshanghai)、鉄道建設などに従事した頃は金山と呼ばれ、その後にオーストラリアで金鉱が発見されてからは旧金山となったとか(新金山はメルボルン)。
続いて大リーグのSFジャイアンツのメイズやセペダなどの名前を語りだすと、歌謡曲・中国語・野球というお定まりの「多余的話」の転落コースに陥ります。

これを綴っているのは聖夜であり、信者は祈りをする頃ですので、少し敬虔な口調で別方向からSan Franciscoを語ってみます。  
二年前、イタリア映画『法王になる日まで(原題Chiamatemi Francesco ll Papa dellagente)』を観ました。バチカンから最も遠い位置にいたアルゼンチン国籍のベルゴリオが法王になる実話に基づく良質な作品でした。
イエズス会で修業を積んだ若い日「日本へ行きたい」と呟くシーンが印象的でした。
軍事政権下の複雑な環境を生き抜き、ドイツで覚醒し、アルゼンチンに帰国した後は異例の昇進を遂げて、ついには延々と続く「コンクラーベ(根比べ?)」投票を経て2013年に法王に選ばれるまでを描いた作品に感銘を受けました。
16年前からローマ特派員としてバチカン取材を続ける郷 富佐子さんの2005年のベルゴリオに関する取材ノートには「若手神父らに『教会の外に出ろ』と勧め、貧困地区の活動に力を入れるばりばりの現場派。ブエノスアイレス大司教ながら移動はバスや地下鉄。食事は自炊」「弱点はイエズス会。社会問題ではリベラルで、保守派官僚との衝突は必至」と記録されているとのこと。
さらに具体的で詳細な行動については「初代聖ペテロから数えて266代目となる教皇フランシスコは、約2100年の長い歴史の中で生じた教会内の腐敗を一気に改革しようとしている。」というインパクトの強い冒頭の一文から始まる 松本佐保『バチカンと国際政治 宗教と国際機構の交錯』(千倉書房2019)の 第7章「教皇フランシスコの闘い」に明解に記述されています。

地球環境問題への挑戦として、2015年の世界的な気象・環境学者とのシンポジウムから3週間後に発表された回勅ラウダート・シは「宗教と科学との融合」として衝撃を与え、「地球と貧者の叫びを聞きなさい」の一文はモラル・ボイスとして広まった由。
これに対して米国共和党の有力者から「我々はカトリック信者なので教皇を敬っているが、それは宗教的にであって、教皇といえども環境問題については素人の筈だ」と語ったことを受け、フランシスコは「この回勅は環境問題の専門家である多数の科学者のアドバイスを受けており、私自身も化学の修士号を持っている」と反論した、という段落を読んで、その当意即妙のやり込め方に感銘を受けました。  

日本滞在中も同様のアドリブやジョークが多く報道されましたが、広島での 「核兵器の保有も倫理に反します。それは2年前にすでに言った通りです」というスピーチは原稿にはないアドリブであったようで反響を呼んでいます。
前述の郷さんも、「被爆地で核兵器の使用も所有もモラルに反すると言った。『平和』という究極のモラルに向き合い、だれにも忖度せず、真っ当な主張を堂々と説いて回ったことが今の日本ではとても新鮮に映ったからかもしれない」と締めくくっています。  
それより先、山口英雄・大ローマ布教所長はヴァチカン便り・41号(Glocal Tenri Vol。20,No.12) に「31度目の司牧の旅へ」と題した文章を寄せました。
教皇が2019年9月4日から10日までモザンビーク・マダカスカル・マウリティヌスを巡ったことの報告でした。4回目のアフリカ訪問を果たし、暴力がいかなる集団にも未来をもたらさないこと、若者を鼓舞して、貧困者に近づき協調すること、とりわけ宗教者は地に足をつけ、活動することだと述べた由。
そして32度目の司牧の旅が11月のタイと日本という仏教国への訪問でした。 バチカン市国のエリート官僚出身の前教皇は、たしかアジア・アフリカへは足を踏み入れていなかった記憶があります。伝記的映画の通りであれば若い日のアジア願望が揺らぐことなく具現化していることを感じます。
ただ、数年前から バチカン市国官僚と北京からの幹部が度々接触していることなど関係樹立の動きが漏れ聞こえてきています。
欧州で唯一台湾と国交を持つバチカン市国の面積は小さくとも影響力はとても大きいので注視を続けます。

長崎市でのミサに招待された韓国人被爆者一行が、福岡空港での入国審査で別室に移され5時間足止めされたとの記事を読みました。
「忖度」以前の「品性」の問題ではないかと呆れてしまいました。事ほど左様に、教皇の至極真っ当な言葉がとてもピュアに思え、新鮮に聞こえるのは、この十年の日本社会のなかで煤けた硝子越しに物を見ることに馴らされてきたせいかも知れません。
聖夜に「自らが変われ」という教皇からのメッセージが届きました。   (了)

2019年12月6日

老いに係る私への覚え書き “なりたい”《動》から“ありたい”《静》へ

井嶋 悠

81,09歳と87,26歳。前者が日本男性の、後者が日本女性の平均寿命。
ほとんどが平均寿命前後と思われる50人ほどの患者で、連日待合室が溢れる眼科医院で、白内障の手術を受けた。喜寿まで後3年と思うと老いの真っ只にいる自身が何か不思議だった。
齢を重ねることで実感して来る一日の、一週間の、一か月のそして一年の経つことの速さからすれば、3年は瞬く間だ。死や死後への想像がごく当たり前になりつつある。自然なことなのだろう。 やはり、かつてのような“なりたい”ではなく、“ありたい”と考える域に来ているのかもしれない。

父母は私に健康な体を遺してくれた。しかし年齢数字で感慨は持つが、寿ぐことにはいささかの関心もないし、身内や他の人に負担を掛けてまで長生きしたいとは思っていない。そうかと言って“ぽっくり寺”に篤く参詣するでもない。更には、ホスピスについても無頓着である。身勝手な話しである。

清少納言は、「遠くて近きもの」との段で三つ挙げている。 ―極楽・舟の道(船の道中)・人の仲(一説によれば男女の仲)。― 改めて彼女の才を思う。 尚、清少納言は28,9歳で出仕し、彼女の才能が見事に開花されることになる中宮定子と出会う。7年後、定子(当時皇后)の死去(24歳)に伴い退出。以後不幸な晩年を過ごし亡くなったとのこと。没年は不詳。因みに平安時代の平均寿命は30歳とのこと。

企業等事業勤務者の定年が、最近65歳が増えたとは言え、概ね60歳。私の定年は60歳だった。知人の企業(中小企業)では、役職者は55歳、一般職は60歳とのこと。 定年から平均寿命まで男女平均で言えばおおよそ24年。0歳、10歳、20歳……からの20年とは全くと言っていいほどに意味が違う。はてさてどうするか。
働きの継続を希望する人も多い。しかし条件、体力、資格等々で容易ではない。一方で「もう十分だ」と言う人も多い。
先日、旧知の研究一筋、無趣味の大学教員が定年[65歳]を迎えた。彼がなかなか意味深長なことを、いささかの溜息交じりで言っていた。「定年後の時間を過ごすのは一苦労だね」。
私の1歳上の従兄弟で見事なまでに元大手企業戦士は、戦士たる負の勲章、五臓六腑ぼろぼろとなって、定年後、通院以外ほとんど自宅で生を紡いでいる。彼は言う。「あのような仕事は金輪際したくない。」
と言う私は、元中高校国語科教師で、7年前に襲った娘の23歳での死を契機に自照自省重なり、同時に2001年から続けている『日韓・アジア教育文化センター』の灯を消したくなく、そのH・Pのブログに、拙稿をほぼ定期的に投稿している。金銭的価値はゼロで、要は一低額年金生活者である。

国は、定年後の「働き方」を人生百年の時代にあってと声高に奨め、CMでは笑顔あふれる演技者が豊かな老後を頻りに演じている。その度に、行政も政治家も広告関係者も、「お気楽なもんだ」と腹が立つ。
一方では、働かざるを得ない高齢者もたくさんいる。年金では食えないのである。その国からは福祉財源が限界と言われ、老人施設に入るには云千万円用意しとけと脅かされ、政府、行政には自省という言葉がないかの如く一般国民に責を押し付け、様々に裏画策し、国民からの増収入の方途を考えている。
憤りの後に虚しさが襲って来る。一刻も早く後進国から脱け出す政治を、と。

因みに、白内障手術は保険適用の2割負担で片目約30,000円。これが、視野・視力の改善を考えて安いのか高いのか分からない。ただ、世界に冠たる日本の保険制度の問題点が、外国人問題も含め指摘される中で、高齢者自己負担額(率)増案が検討されている、と聞けば思わず不機嫌に首を傾げたくなる。
多領域で、とどのつまり出てくる[財源]の無さはにわかに信じ難く、政府(国)の深謀遠慮のなさ、その場しのぎの対症療法の本末転倒を直覚するのである。

かの一休禅師は、「世の中は食うて糞して寝て起きて、さて、その後は、死ぬるばかりよ。」と達観し、平均寿命が戦乱や飢饉が重なり15歳だったと言われる室町時代にあって87歳まで生きた。しかも、後小松天皇の御落胤ということも手伝ってか、功成り名遂げての人生。その禅師、最晩年、愛人森盲女の膝枕で「まだ死にとうない」と言ったとか。
どこまでもなりたい自分像が、心の奥に燃えていたのだろう。途方もない生命力、精神力である。
禅師の歌「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」の心境は、先の少納言の極楽同様同感できるが、そもそもそう感ずる私が、めでたいのかめでたくないのかがよく分からない。
ただ、禅師の言う「めでたさ」の心持ちが自ずと沁み入る私がいることは間違いない。 そうかと言って、彼のように「なりたい」とも「ありたい」とも思わない。そもそもその資質ゼロの身を自覚しているから「思わない」ではなく「思えない」のだ。
その一休さんなら今の日本の世をどう見るのだろう?

仏教[日蓮宗]に帰依した作家で詩人の宮沢 賢治(1896年~1933年)は37歳で没し、その死後発見された手帳に、晩年の理想の姿とも思える詩を書き遺している。『雨ニモマケズ』である。前半と最後の部分を引用する。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
(中略)
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボウトヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ ナリタイ

恐らく死からそんなに遠くない時期の作と考えられるから35歳前後であろうか、彼は老いの自身の「なりたい」姿を描いたのである。
常に農民と共にあって、しかし自己顕示など遠い世界の人で、老子が言う「和光同塵」の人。
彼の2倍生きている今、“なりたい”から“ありたい”へと心動かされ強く共感するが、しかし今もって世俗にまみれている自身がいる。このブログ投稿も、私は書きたいから書くのであってどこまでも自照自省のためなのだが、その証しなのかもしれない。
賢治は37歳で早逝した。もし喜寿まで生きていれば、1940年代から1970年代の日本にどんな眼差しを注ぎ、彼が“なりたい”晩年にどれほどに近づき、“ありたい”自身に心和ませることができだろうか。

晩年と言う言葉には、泥岩を濾過した透明な響きがある。しかし、実際は心身の萎えにもがき、孤独と不安に苛まれている。だからこそ静穏と安寧に焦がれる。
太宰 治(1909年~1948年)は、太宰27歳の時、[第1創作集]を著した。表題は『晩年』である。15の作品が収められていて、初めに筆者は次のように記している。

―「晩年」は、私の最初の小説集なのです。もう、これが、私の唯一の遺著になるだろうと思いましたから、題も、「晩年」として置いたのです。―

彼は、他の人が前を見ながら歩む人生ではなく、「遺著」を心に置き、背を前に、“ありたい”自身を求めながら進んだ。当然、危険極まりない。何度もつまずき、死を懐手にしながら自身を責めた。しかし常に真剣で純粋であった。
その姿、心根を、私は彼が発し得た感性も勇気も才能もないが、『晩年』所収の『葉』や『魚服記』に見る。そこには、彼の“ありたい”姿が思えるのである。

老いは古語では「老ゆ」。老いとの言葉自体、二つの母音から優しい響きを感ずるが、老ゆとなると、や行音の柔和さが加わって、一層「久方の光のどけき(春の日)」の静穏な映像が広がる。
しかし実際は苦しく、厳しく、辛い時間で、だからこそそれぞれに我が身を振り返り“なりたい”老い、“ありたい”老いに考え及ぶのではないか。少なくとも私はそうである。 心身萎え、しかし智慧は若い頃よりはいくばくか増え、立つ鳥跡を濁さずに思案する。
一休禅師は「死にとうない」と彼女に告白したとのことだが、私は死は安らぎと思えてならず、死(直)後からの不安の方が大きい。いったいどうなるのか。魂の永遠的飛遊はどうなのだろうか、などなど。
そして、この齢に到り、“なりたい”ではなく“ありたい”老いを夢想する。再び先人の言葉[智慧]を借用する。吉田兼好の『徒然草』からである。

――是法(ぜほう)法師は浄土宗にはぢずといへども(浄土宗の見識で誰にも劣らないけれども)、学匠(学者)をたてず(自身を学者として自負するのではなく)、ただ明け暮れ念仏して、やすらかに世を過ごすありさま、いとあらまほし。――

最後の「あらまほし」は、「あり」(ある)に希望の意を表わす助動詞「まほし」をつなげた語で、口語に言い換えれば“ありたい”である。その心の鍵としての安らか。
帰依者には到底及ばないが、私は仏教に親しみを持つ。そんな私だが今仏教への帰依、信仰といったことから離れても兼好法師の感慨に共感する。私にとっての「明け暮れの念仏」とは何か、ただどこまでも独り(だけ)の行・業として。
喜寿まで3年。平均寿命まで7年。とんでもない所に立っている自身に気づかされる。その時、「冬蜂の 死にどころなく 歩きけり」(村上鬼城)の衝撃を忘れることなく、ありたい私を見つけたいものだ。
尚、兼好法師は、平均寿命24歳の鎌倉時代から安土桃山時代にかけての人で、69歳で没したそうである。

2019年11月27日

多余的話(2019年11月) 『米と菊』

井上 邦久

今年も越前福井の友人から「いちほまれ」が届きました。
競走馬の血統図風に書くと、父親:イクヒカリ(越南176号・コシヒカリの孫) 母親:テンコモリ(富山67号・コシヒカリの曾孫)であり、 父系のもっちりした粘りと母系のきれいな粒を結合させた「いちほまれ(越南291号・コシヒカリの玄孫)」は、整粒率が70%以上、粒厚1.9mm以上、玄米タンパク質6.4%以下の基準に合格したものだけが称することができる、そして産地出荷以外の個人販売はないと説明書に書いています。  
新米を丁寧に研ぎ、硬め好みに合わせた水加減で炊きました。実に旨い米であり、削って削って酒にしたくない、千枚漬けや生卵の黄身といつまでも食べ続けたくなりました。

あたかも新嘗祭のころ。この天皇家の祭祀を行う11月23日を、敗戦後に勤労感謝の日と名付けた官僚は米国のThanksgiving Dayを意識したのでしょうか?
一昨年、ボストン近郊のプリマス港を訪ねた折に米国感謝祭起源に関する諸説を聞きましたが、先住民が餓死寸前の入植者を救ったことへの感謝という美談だけではなかったようです。たかだか400年前、1620年代の米国建国前史のお話です。
一方、日本でも出雲の千家と並ぶ古い家の一連の祭祀は、宗教的秘儀も含めて内々に身の丈でやるべきでしょう。

 越前米への御礼電話をした折、地元北陸の美男力士の遠藤が横綱白鵬のかち上げで流血したことに相撲好き(美男好み)の奥さんが 抗議の投書を出したとか、出そうとしているとかの話になりました。
NHKのアナウンサーは「荒々しい相撲で白鵬が勝ちました」と表現した一番を観戦していて、白鵬の姿が隣国の習近平政権にダブりました。実力権力に自信を失くし、勝ちにこだわる姿勢が「荒々しい、或いは粗々しい手段」を選ばせているのではないか?
吉岡編集委員は香港のベテラン記者の弁として「習近平政権はあいまいさを許さない。敵と味方に二分する手法は文化大革命の時代を思わせる」と伝えています。(「金の卵」を恫喝するな:朝日新聞「多事奏論」より)  
一方で、アリババの香港株式市場への上場が迫っています。公募価格が決定し、1.2兆円の調達見込み。機関投資家を中心に募集の5倍の申込の由。2014年にニューヨーク証券取引所に既に上場済みでありながら何故? 深圳でも上海でもない株式上場は何故? 八月に不穏な状況を理由に挙げて香港上場を見合わせたのが何故今になって? 
北京とアリババにとって政治的・経済的な計算は?・・・ 香港は恫喝しようと恫喝されようと、やはり「金の卵」なのでしょう。  

日韓の摩擦が一息入れました。些か旧聞に属することなので恐縮しながらこの機に綴ります。
文大統領が日本に対して「盗人猛々しい」という表現を含む発言をしたと報道されたことを受けて、8月18日付の日経文化欄に掲載された宮下奈都さんの「言葉という生きもの」を読み返しました。
チョクパンハジャン、漢字で表現すると「賊反荷杖」で、「居直る」という意味合いのハングルを「文大統領がどんな意図で選んだのか、わからない。まるで日本を『盗人』と呼んだかのような誤解を招きかねない訳にした新聞やテレビの意図もわからない。わからないところにロマンがあるとは、私にはとても思えなかった」と綴った言葉・外国語・翻訳・文化に関する根源的な問題提議の文章です。
宮下さんは福井出身であり、越前米同様にふっくらした文体でしっかりした意思を伝えてくれる文章家です。  

再読と言えば「2018年8月25日、白井聡」と著者サインを貰った『国体論 菊と星条旗』(集英社新書)を一年ぶりに手にしました。
・・・「アジアの先進国は日本だけでなければならない」という、戦後の「平和と繁栄」という明るいヴィジョンに隠された暗い願望がある。それは、明治維新以来の日本人の欧米に対するコンプレックスとほかのアジア諸国民に対するレイシズム(人種差別)の表出に他ならない・・・ (第二章 国体は二度死ぬ 50頁)  

10月号で触れたおたふく手袋㈱が設立された1951年10月19日には日本製品はMade in Japanとして輸出はできず、Made in occupied Japanと表記する必要があったことを各処で話しています。
1951年9月のサンフランシスコ講和会議、条約締結、そして1952年4月の条約批准発効を待って日本は独立、晴れてMade in Japanと表示できるようになりました。
時の吉田茂首相が新生国家を代表して各国の外交代表や日本を代表する文化功労者らを招いた第一回「櫻を観る会」を開いたのも講和条約発効の年の四月でした。                                     (了)