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2020年10月29日

「中2病」からの学校特別プログラム

—『日本国憲法』第三章【国民の権利及び義務】の一部条項を使っての自検証「—

井嶋 悠

「日本人は親切だ」「日本人はマナーが良い」「日本の街にはゴミがない」等々の高評価を聞くと日本人としてはやはり嬉しい。「好事は門を出でず、悪事は千里を行く」と言うからなおさらだ。しかし、本当にそうだろうかと思ってしまう私も一方にいる。ウチとソトの使い分けはないだろうか。表通りから一歩奥に入ったとき、また自然豊かな場所でのごみの散乱、違法放棄を見る。マナーについても例えば自動車運転と歩行者のマナーはどうか。外国人への対応も人種、民族を問わず同じ態度で接しているだろうか、等々。

ウチとソトに関連して、日本人が外国に行ったときどうだろうか。いっとき問題になった、“金持ち”日本人の横柄さはなくなっただろうか。個人的には、10年ほど前台北に行った時のこと、有名なホテル内の中華料理店で、自分のバッグから酒を出し飲み、店の人と言葉が通じないのをいいことに、一悶着起こしていた日本人老夫婦を見かけた。彼らは欧米でも、また日本でもそうするのだろうか。

大仰な副題をつけたのは、年々権利の主張の度が過ぎ、その都度政府、警察は罰則を厳しくし、私たち市民自身が彼らの管理強化に手を貸していることが多発しているように思えてならないからである。
大人は大人で「表現の自由」を御旗に勝手なことを言い、そうかと思えば、学校で(一部の?)教師は子どもや親の前で委縮し、頭上を通り過ぎるのを待とうとする。中には子どもに暴力振るう者もいる。
どこかで日本人の特性とまで言われて来た謙虚さが消え、傲慢な、しかも権利の意味を自身の中でかえりみることなく主張することが増えて来ていると思うのは少数派で、時代は権利の主張こそ近代人の証し、と言うことなのだろうか。
そもそも権利の意味をきちんと言える人はどれぐらいいるだろう?権利と義務での義務の欠如。
因みに『新明解国語辞典』では、人権を次のように定義している。
《人間に当然与えられるとされる権利》

昭和20年(1945年)8月、日本は明治維新以降台頭し、伸張させてきた帝国主義の歴史に決定的な自省を促した。海外でどれほどの日本人が「天皇陛下!万歳!」と末期の叫びをあげ、どれほどの現地人に死を与えたことだろう。そして、広島・長崎で、投下したアメリカ内でさえ不必要であったと言われている原子爆弾でどれほどの日本人が、在日朝鮮人が、中国人が、凄惨な死に向き合ったことだろう。しかし、残念なことになぜか今もこの事実は完全に反省、再考されていない。
翌1946年11月3日[現文化の日]、『日本国憲法』が公布された。その前文に何が書かれているか、私たちは共有しているだろうか。その憲法は、世界のなかで類まれなほどの理想を体現した憲法と言われ、或る一主婦のノーベル平和賞に値するとの発言を端に、現在その活動の拡大に努めている人を、私は知っている。この憲法こそ、日本再出発の原点ではないかと思う。だからこその世界観であり、それを遵守し、現在があるのではないかと思う。

ゼロからの出発からわずか半世紀で経済大国へ、そこには朝鮮戦争特需、ベトナム戦争特需があったからこそなし得たえたこととは言え、先人の和と勤勉の国民性の賜物であることには間違いない。
憲法を持ち出したのは、原点を確認し、再共有し、現在の混迷の再興の基礎になると思ったからである。何事も、混迷と混乱そして「ぼんやりとした不安」を直覚したときは、それぞれの原点[初心]に戻れと言うではないか。そこから再構築の光が視えて来る、と経験者は言う。更に戻ることを潔しとしない人は、いずれ己が首を絞め、ますます混迷度を増すことはいろいろな形で明かされている。

私たちは今コロナ禍の最中にある。ワクチンも未定で、この状態がいつまで続くのか誰も分からない。ウイルスは目に見えない。だからより恐怖であり、つい忘れがちである。多くは危機感をはらんだ不安の中でとにかく日々を送っている。自殺者が昨年9月比に比べ多く、男性の自殺が本来多い中で女性の自殺が増えている、との報道もあった。
それでなくとも日本は先進国にあって自殺者の多い国としての歴史を持っているからなおさらである。
《自殺の問題は、私自身考えさせられることが多く、以前投稿したこともあり、ここでの女性が増えた事実に心が向くが、結果だけを記すだけとする。》
自殺はぎりぎりの個と社会を反映する。理由なき自殺は無い。ふっと不安或いは虚無に襲われた自殺も、その後ろに個と社会がある。

近代化は、明治時代に原点があるのだろうが、それ以上に1945年昭和20年が原点にある、と1945年8月生まれの私はことさらに思う。
今日、憲法第二章第9条の論議が盛んに行われている。平和からの視点からすれば当然のことである。ただ、戦争も平和もヒトが為すものであり、その根底たるヒトの権利と義務を考えたく第三章を一部ではあるが、採り上げた。
対象としたのは、その中の第十条から第二十七条である。
私にそうさせたのは、コロナ下での【誹謗中傷】(「自主警察」も含めた)の壮絶さである。その中にあって、科学の時代ゆえに実現した発信者の逮捕と有罪で、今度はその逮捕者が誹謗中傷を受け、言葉の怖ろしさを身をもって知った旨の新聞記事も検証の一つの契機となっている。もちろん自身を出発点としてである。かてて加えて、差別と貧困の一層の顕在化も大きな影響を与えている。

採り上げた条文の中で、テーマの用語数は以下である。
 ・「権利」:9回  ・「義務」:2回  ・「自由」:8回
尚、各用語の意味を、人権と同じく『新明解国語辞典』で確認してお
  く。
  権利:物事を自分の意志によってなしうる資格
  義務:その立場にある人として当然やらなければいけないとされ
     る事。
  自由:他から制限や束縛を受けず、自分の意志・感情に従って行
     動すること。またその様子。

今回のテーマに係る要所を幾つか引用する。(旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めてある)

第十一条  この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことがで
      きない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えら
      れる。

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断
      の努力によって、これを保持しなければならない。又、
      国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公
      共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。

第十三条  生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利について
      は、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上
      で、最大の尊重を必要とする。

第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有
      の権利である。

第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかな
      る宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権利を
      行使してはならない。

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、
      これを保障する。

第二十三条 学問の自由は、これを保障する。

第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権
      利を有する。

第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところによりその能力に
      応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
      すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護す
      る子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育
      は、これを無償とする。

第二十七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。

どうだろうか。とりわけ太字のことは言わずもがなと思う。言葉も難しくない。

私たちは、「私」の立っている環境、地位による意見の多様を承知しながらも、原点たる憲法をただ読むだけの教科書のようになっていないか。知識としての憲法ではなく、生き方[智恵]としての憲法を見直す必要を痛感する。

では、そのことと誹謗中傷また差別や貧困をなくすことと、どうつながるのか。学校は知識を学ぶところであり、同時に人格陶冶の場である。だからこそ一貫教育の学校環境に魅力がある。しかし、現実は人格陶冶より知識の多少が、人生での次への選択に優先されているのではないか。それぞれの教師が、それぞれの学力観で、あれも知らないのかこれも知らないかと、子どもたちを追いつめていやしないか。平均寿命80歳以上と言う中で。

平均年収1000万円以上の家庭が2割以上占め(一説には平均年収2000万円以上が5割とも言われる)、通塾あってが当然になっているという日本最高峰?のT大合格者の多い高校を選んだクイズ大会[知識お披露目会]の分断を意図したかのようなマスコミの醜悪、また自慢げに参加する生徒、感嘆するスタッフ、視聴者。
これは私が遊び心のない固陋者であることを白状しているに過ぎないのか。
ただ付言すれば、もう10有余年前の全国紙の小さくではあったが社会面の記事、[T大医学部教授会の、ここの学生たちに医業を任せることへの危機感]は一体何だったのだろうか。固陋とは言え、つい時代と社会と学校制度そして「優秀」について考えてしまう。

「中2病」という言葉を最近知った。この言葉に接し最初に脳裏をかすめたのは[校内暴力等荒れた学校・最も難しいとされている14歳前後の前期思春期の屈折]であった。例えば、私の知る或る社会学者が、30年ほど前、小中高校の校内暴力を調査したところ、発生数が最も高かったのは中2であった。この傾向は今もあるという。子どもから大人へ移行する心身変容期という微妙で危うい時期。「中2病」をインターネットで検索したところ、以下のように書かれてあった。     [出典は「ヲタク文化研究会」著『オタク用語の基礎知識』]

 ・洋楽を聴き始める。
 ・旨くもないコーヒーを飲み始める。
 ・売れたバンドを「売れる前から知っていると」とムキになる。
 ・やればできると思っている。
 ・母親に対して激昂して「プライバシーを尊重してくれ」などと言
  い出す。
 ・社会の勉強をある程度して歴史に詳しくなると「アメリカって汚
  いよな」と急に言い出す。

要は大人への兆しの自己葛藤であり、その葛藤を時に反社会的行動へ移す、と言うことではないか。仮にこの要約が当たらずとも遠からず、であるならば、先の中2観と相通じているのではないか。

そこで私が考えた、誹謗中傷の減少と基本的人権、自由に係る特別教育プログラムが以下である。
〇実施期間
   小学校2年生から中学校3年生までの5年間
   可能な限り、内容を広報し、小中の連続性を持たせたい
〇実施時期 
   年2回(例えば連休前か後)及び10月から11月にかけて
   但し、中学校3年生は集約期として、年1回とする
〇実施内容 
   学齢、学校特性を考慮し、毎回ゲストスピーカーを変える
   ゲストスピーカーは、以下の制約の中で依頼する。
   理由は、経験(体験)から発せられた言葉には強い響きがあり、思春期の
   多感性に訴える力を持つと考えるので。従って、そのような経験(体験)
   のない教師や研究者、行政関係者等は招聘しない。
   尚、年齢は問わない。   
    ☆誹謗中傷を受けた経験を持つ人 
    ☆誹謗中傷をして悔悟した人
    ☆思春期前期の中で葛藤を持ち、それが今生きる力となって
     いることを子どもたちに伝えたいとの熱意を持

〇実施方法(1時限50分として)一例

  • ゲストスピーカーの紹介と当日の意図の説明(5分)
  • ゲストスピーカーの話と質疑応答(30分)
  • 生徒代表と担当教師の感想(10分)
  • ゲストスピーカー挨拶(5分)

以前、ヨーロッパの某国では、デパートのあるような大きな都会で走っている子どもを見たら日本人と思え、と言われている旨聞いたことがある。私の幾つかの経験では、悪意ある全くの嘘とも思えない。これは子どもの問題ではなく、親つまり大人の問題である。
大人一人一人が、冒頭の賞賛を自然体で受け止める、そんな日本になることで『観光立国』は十全に機能するのではないかと思う。
或る西洋人が言った「日本の田舎の老人たちは真に国際人だ」との感想も思い出される。

2020年10月11日

多余的話(2020年10月)    『少し中国の話を』

井上 邦久

年初に予定していた北京への訪問が中止になってから、種々制約の多い日本の大阪で過ごしています。大阪から移動せず、これほど長く過ごしたのは、1971年以来の回遊魚生活で初めてのことです。
移動が制限されると、空間的・地理的な横軸が拡がらないので自ずから時間的・歴史的に縦軸を掘り下げることが増えました。
その間、安否確認のような身辺雑記と読書記録を牛の涎のように綴ってきました。
今回は久しぶりに以前の筆致に戻って、中国での体験や情報を盛り込み、縦軸を掘り下げた作文を試みます。

1868年、大阪が開市開港、つまり対外開放してから今年で152年です。土砂の溜まる安治川口から天保山の築港建設へ方針転換して120年です。
天保山桟橋から朝鮮半島、山東半島そして中国東北地域を含む北東アジアへの航路が拡大し、ヒトとモノの行き来が飛躍的に伸びました。綿産業や軽工業(雑貨)が急成長を見せ、人口も211万人/1925年から299万人/1935年へと膨張し「大大阪」と称されています。
日中貿易額の半分以上を大阪が占め、なかでも大阪市西区川口を拠点とした山東系華商(川口華商と呼ばれ、華中出身の南幇公所に対して、北幇公所を組織)が対中輸出の過半を担っていました。
しかし1945年3月から6月の空襲により大阪港は機能を無くし、大阪の産業は大打撃を受け、川口華商の多くは帰国して戻らないままでした。

1949年10月に建国した新中国とは政府間の断交状態が続きました。1951年のサンフランシスコ講和会議を経て、1952年から日本が国際社会へ復帰。MADE IN OCCUPIED JAPANから脱却し自由貿易が始まりました。
この年から各国各界の名士を招いた「桜を見る会」も始まっています。

対外貿易が再開されても中国とは国交がないため、政治情勢に左右され制限の多い取引が細々と続きました。クラレ社のビニロンプラント以外は延払い輸出許可が下りず、松油由来のロジン・漆・タルクなどの中国特産品は配慮物資貿易という特別枠で輸入されました。
また、台湾・韓国との貿易をしないことを条件に認定された友好商社や華僑系の愛国商社による友好貿易が中国との関係を繋ぎ留めました。

1972年、国交正常化により一気に中国ブームが到来。宝山製鉄所等に代表される大型契約が為されましたが、中国側の資金不足の為に契約破棄の危機となり、日本からの円借款など資金協力により何とか関係を継続しました。その後、プラザ合意後の円切り上げ圧力の中で、中国への投資が続きました。
昨今、その頃に投資した合弁会社が契約期間満了を迎える時期になり、農村の都市化や環境問題などの30年間の変化による事情も絡み、簡単に合弁解消や円満撤退とはいかない例も聴きます。

1989年6月の天安門事件により、多くの取引が瞬間凍結しました。顧客から「プロジェクトは延期ではない、取消だ」と厳しい口調で通告された記憶があります。
その直後の1992年、鄧小平によるいわゆる「南巡講話」を契機に解凍が始まり、日本は世界に先駆け、深圳などの特区政策や上海浦東地区の開発に呼応し中国市場への投資を増やしていきました。この頃までが「中国の政策と日本の対策」が呼応補完する関係が続き、中国の貿易全体の中での日本のステイタスが高かった時期と言えます。

21世紀早々の2001年に中国のWTO加盟が認められたのが分岐点となりそれ以降の中国経済の流れは、奔流化し、国際的に大幅伸長が続きます。
これまで、経済成長率の下落したのは、1989年(天安門事件)・1998年(国有企業の民営化停滞)・2009年(リーマンショック直後)そして2020年(コロナショック)で、今回はマイナス成長を経験中です。従来のようなV字型恢復ができるか?「消費」「税収」の伸び悩みと、「売掛金」「在庫」の不気味な増加傾向に注視する必要があります。

2月15日に神戸華僑歴史博物館で行った「大阪港と川口華商」の報告10月21日の大阪商工会議所で予定している「中国の政策と日本の対策」と題する報告、この二つの報告の骨子だけを繋ぐと上記のような骨が刺さりそうな文章となります。

大阪ではWEBセミナー形式で上海の畏友の弁護士を繋いだ企画を立て、前座として縦軸の体験や私見報告を務め、真打の弁護士にバトンタッチをしてコロナ禍発生以降の中国状況をリアルに語って貰います。
真打講師とは、筆者が上海に赴任した2009年に現地法人の顧問弁護士に就任して頂いて以来のご縁です。京都で苦学し、大阪で弁護士修行をした骨の硬さと、阪神タイガースや半沢直樹をこよなく愛する柔軟性を併せ持つ畏友との画像越しの再会を愉しみにし、併せて個人的にも半年遅れの「蠢動」を試みるきっかけにしたいと思います。                        (了) 

2020年9月28日

ハレ[晴]とケ[褻]の間で ~現代日本の危うさ感

                           井嶋 悠

先月、75歳以上後期高齢者[1848万人・総人口[1億2593万人]の14,7%]の一員となった。

この拙文は、「新型コロナ禍」で今まで以上に外出することもなく、する際はマスク厳守(何度、忘れて取りに戻ったことか。アベノマスクは嘲笑の対象であったが、日本人のマスク習慣は、どれほどに日本礼賛につながったことか)の異常ともいえる世は、これまで機に応じて私に関心が起こさせた[晴と褻]ではどちらなのだろうと漫然と思い巡らせたことを私的に整理したものである。


65歳以上は高齢者と言われ、それを世界で見ると、日本は、高齢者の総人口での比率(28,4%)で第1位であり、平均寿命は女性が87歳で世界第2位、男性は81歳で世界第3位である。
3人に一人が高齢者で、仮に15歳から64歳までを労働可能年齢としてそれを総人口比で表すと、女性57,2%、男性61,5%となり、「男女協働社会」が、全き平等性とそれを支える育児、教育、福祉が確かな余裕性をもって機能しているならば、3人の内二人が働き手となる。そして38万㎢弱の国土の5~6割が山岳、森林すなわち居住可能地域が4~5割で、人口密度は全国平均337人/1㎢である。因みに人口密度に関して言えば、北海道が64人、東京が6,263人である。
“東京問題“は日本問題である。

四囲は海で、気候帯は北海道・東北の亜寒帯から沖縄・西南諸島の亜熱帯に到る南北に長い温帯を中心とした列島国である。温暖化による日本及び世界の自然環境の変容、破壊の問題は今措くとして、当然日本の自然環境は他に類がないほどに秀でている。
それがために人と自然に係る重い問題が頻出する。そして沖縄のように日米間に及んでいる。
一方で、というか必然的に一部亜熱帯地域を除けば四季が判然とあり、豊かな植物に恵まれている。中でも春・秋は古代にあっては主に貴族たちによって“春秋論争”が繰り広げられているほどである。


各季節の移行期には二重三重奏微妙な自然美を奏で、その自然の動きが、人の心の変容を司っている。その豊潤な自然が、繊細で濃やかな日本人の感性を長い時間を得て育んで来た。
ただ、近代化、都市化、地球温暖化は、その美を破壊することは多く、大きな社会問題であることは周知のことである。
地球温暖化の抑止、改善に日本がより積極的に発信すべきであると期待する世界の眼差しは多い。

その自然と人の調和を土壌として、2000年余りの時間[歴史]の中で創り出された多領域にわたる文化は、それぞれの時代を映しながら今に引き継がれ、新たな創意工夫も生まれ、国全体が「世界遺産」といっても過言ではないように私などには思える。
補足すれば、食文化ではフランスが刊行している年間書『ミシュラン』掲載の有無で一喜一憂するなんて滑稽である。

しかし、欧米基準の近代化は明治時代以降、富国強兵・殖産興業政策の下、急速に進み、太平洋戦争(第2次世界大戦)での敗北、復興過程にあっての戦争特需も手伝って、その影響は、古代の朝鮮、中国のそれをしのぐ勢いで、アメリカなしの日などないほどである。追従と揶揄されている。
「アメリカ人がくしゃみをすると日本人は肺炎になる」。

アメリカは、国土、経済、軍事において大国・大国主義(幾つかの辞典によれば、その基本は国土の大小・経済の高低・軍事力の強弱で、更には小にして低そして弱の「小国」に圧力をかけるとの説明がある)であり、国内の貧困や差別の問題などは二の次でもあるかのようだ。その大国の限定縮小版が日本と言ってはあまりに非愛国的であろうか。

上記大国主義にあたる国はアメリカ以外では中国、ロシアであろう。圧力を直接的世界戦略とまでする国はないとは思うが、例えば日本に対して、3国は様々な圧力をかけているのは事実である。
その時、大国間競争を融和し、地球全体の平和の実現に向けて、アメリカ追従の日本は何を発信し得ているだろうか。大臣レベルの政治家の日頃の発言を知るたびに甚だ心もとなくなり、結局のところバランス・オブ・パワー[balance of power]に収斂され、日本はますます勘違いをする。
日本国憲法論議がいかに重要か、今更ながら思い知らされる。


国連は世界連帯による平和の中核機関として創設されたが、拒否権にみる自国優先、優越は度々合意と言う道筋を挫いている。その国連の現状に、加盟国は理念から実動に関してどれほどに熱情と信頼を寄せているだろうか。言葉の虚しさを感ずることは少なくない。
その時、日本の歴史《近代での帝国主義化への反省を含めた2000年》と文化はその風土と共に、再検討されて然るべきで、それが、自主、自立した日本の姿となり、世界への発信力となるのではないか。

そう思う私は、日本の美点と同時に危うさを感ずる一人であり、同様の人は私の周囲だけでも少なからずある。「軽薄短小」は、日本の技術力を評価した言葉だが、それは過去のこととなりつつあり、頭脳流出はおびただしく、誇るアニメ文化の下降も伝えられ、いずれにせよ世相そのものが、軽・薄・短・小となりつつあるように映る。
年齢がまた世代が、老人特有の愚痴、杞憂を言わせているならばそれでよいのだが、日々の報道から直覚するに、我田引水を承知で、愚痴杞憂とは言えないようにも思えるのである。時代の動き(スピード)ついて行けないだけなのかもしれないが。

そこに世界的な【新型コロナ禍】が覆いかぶさり、半年余りが経ち、今冬以降インフルエンザとの二重性まで要注意になって来ている。地球に与えられた途方もない試練。
日本はまた大国は、「コロナ阻止」「経済再興」の両立を言い、いろいろなアイデアが出され、実行に移されているが、その結果は、これからである。天命である。天命は中国由来である。

いささか危機意識が過ぎたが、ではこの状態はハレなのか、ケなのか。私はちょうど谷間にあってもがいているのではないか、先人の日本人が考えたケ[褻]の想像を超えたのではないかと思うようになっている。
そんな折、民俗学者柳田 國男(明治8年~昭和37年)の『明治・大正史 世相編 上』(昭和8年・1933年刊)で次の言説に出会った。晴と褻に係るその部分を引用して愚文を終わりたいと思う。5年後の平均寿命無事到達のためにも・・・・・・。

――褻と晴との混乱、すなわちまれに出現するところの興奮というものの意義を、だんだんに軽く見るようになったことである。実際現代人は少しずつ常に興奮している。そうしてやや疲れてくると、初めて以前の渋いという味わいを懐かしく思うのである。――

       《注:明治・大正と併せて60年間、戦後75年である》

2020年9月21日

多余的話      (2020年9月)    『敵といふもの』

井上 邦久

先月冗長な拙文の締め括りに添えた高濱虚子の俳句について少しだけ補足をします。
たまたま正岡子規の最晩年の日誌『仰臥漫録』と森まゆみの『子規の音』を並行して読みながら、上野のお山を下った根岸のたたずまいと子規と虚子の関係を想像していました。
そんな時に、夕刊コラムの文末に川上弘美が「敵といふもの今は無し秋の月」という虚子の句を取り上げていたのが印象に残ったので、こちらもそれに倣い8月らしく文末をシャンと締めるために添えた次第です。

この句は1945年8月25日が初出だと教えて貰いました。
中之島図書館で当日の朝日新聞を調べた処、広島・長崎の原爆被災の続報や新任の東久邇首相への提灯記事の間に虚子の俳句が囲み記事として掲載されていました。
小諸にてという添え書きと四句が並び、三句目にこの「敵といふもの」がありました。当時、虚子は小諸に疎開しています。月暦を見るとその年は8月22日、23日に月が満ちていますから、ここでの「秋の月」は満月ではないかと推測します。

1941年12月8日の対米英開戦の直後から、気象情報は国家機密とされ公表されず、1945年8月22日にラジオ、23日に新聞で天気予報が再開されたようですが記録が詳らかではなく、小諸の空が晴れていたか気温はどうだったかは分かりません。

虚子が月を眺めていた同じ頃に、樺太からの引揚船がソ連の潜水艦の攻撃を受けて多くの犠牲者が出ています。
「敵といふもの」がまだ居たのです。声高に鬼畜米英と位置付けた「敵といふもの」は「今はもう無し」であるとする虚子の眼には、国内の日常生活を奪った「敵といふもの」も含めた実感ではなかったでしょうか。

75年後の今日、台湾海峡から南西諸島そして西太平洋にかけての海域からのキナ臭い報道に照らしてみると「敵といふもの今はまだ無し」であろうか? もうすぐ明確に敵と位置付けるのだろうかと考えていました。
そんな素人考えを一笑に付してくれた海自OBがいます。艦長として訪れた中国・韓国を含めた世界の海や港を知る、現場力を持つ中学校の同級生は、数々の体験的事例や情報に基づいた見識から、相互に敵とは言えないという根拠を教えてくれました。
現場から離れた場所から過剰反応をして「杞憂」状態になるのは健全ではなく、反対に「仮想敵国」とか「〇●もし戦わば」といったセンセーショナルな単語を並べ人心を煽る動きにも注意が必要です。
仮に現場のことを掌握せずに、或いは掌握していても敢えて、政治やメディアが「危機感」を醸成する振り子は落ち着かせるべきでしょう。

日清戦争でだれが勝利したのか?というテーマで書かれた『日清戦争』(大谷正・中公新書)を読み返しながら、多くの従軍記者や画家を戦地に派遣し、号外を連発する手法で、全国一位の部数を獲得した朝日新聞(大阪朝日新聞・東京朝日新聞)がメディア界の勝利者であったことは間違いないと感じました。
そこから、日露戦争・日中戦争・第二次大戦まで突き進み、1945年8月の無残な紙面に至ったありさまを一覧すると「敵といふもの」を改めて感じてしまいました。

9月10日の恒例の若冲忌。
京都深草石峰寺では感染予防対策を徹底し、事前登録の人数を絞りに絞って、本堂での法要が営まれました。庫裡に掛けられた寺蔵の若冲真筆を、手には取りませんが、手に取るように拝見できました。
マスク越しに読経を終えたばかりの住職は幾分紅潮した顔で丁寧な作品解説をしてくれました。彼岸法要は三密回避のため中止して、若冲忌の継承に注力した住職や寺の皆さんの気概も伝わりました。
伯父叔父の墓には一足早い彼岸の供花を行いましたが、自らの墓地用地の草抜きは暑いので端折り、弁柄色の丸みを帯びた山門を抜けて、隣の伏見稲荷経由の小径を歩きました。今は人通りも少ない歩きやすい径です。

下駄を鳴らして、道に迷っているばかりだった半世紀前と変わらぬ懐かしい径でもあります。

2020年8月31日

多余的話(2020年8月) 『あの本』

井上 邦久

8月7日、立秋。豊川悦司が愛読するという立原正秋の清冷な文章を読むには暑すぎました。
日々、今年一番の気温を更新する中、仮住まいのアパートから元の住所に戻りました。二年前の直下型地震や猛烈台風で傷み、隣近所に多く見られたブルーシートも無くなった時期の工事でした。
部品が届かない、作業員も集まらないという理由には事欠かず、工期は大幅に遅れ、アパート代は着実に嵩みました。
ようやく段ボール函が視界から消え、パソコンも何とか復旧しました。テレビは繋がらず無音の箱ですが、特段の支障はありません。

 大分県中津市からの夜逃げに始まって、山口県徳山市で3回、関西圏で6回の転居のあと就職先の独身寮へ。そこからは転勤・海外駐在の繰り返し、この十年だけでも上海・北京・上海・横浜への移動があり、方違えでボストンに寄り道をして3年前に大阪に戻りました。
上書き編集のできない手書きの住所録時代の知人からは「またか・」と苦情が寄せられていました。
森まゆみさんは労作『子規の音』で、終の棲家となる根岸の里に落ち着くまでの正岡子規が寄宿舎や下宿を転々とした跡を粘り強く追いかけています。

 落ち着かない時間の中で、ボリス・パステルナークの名前を何度か目にしました。
巣篭り生活に合わせた長編スペクタクル大作映画が繰り返し放映されました。『戦争と平和』『アラビアのロレンス』といった定番や、『遥か群衆を離れて』など視聴率を気にしなくてよい時期にしか選ばれない大作に挟まれて、『ドクトル・ジバゴ』も放映されました。
原作者のパステルナークや主人公ジバゴよりもヒロインのラーラの印象が残る映画です。
山口県の高校入学直後に映画館へ通い、大阪に転校してからペーパーバック版の小説を買いました。そして原作者がパステルナークであり、何故かイタリアで初出版されてから世界へ広まりノーベル文学賞に選ばれたことを知りました。
続いて映画化され、劇中に何度も流れる「ラーラのテーマ」のバラライカの調べに惹かれてレコードを買い、小樽でオルゴールを入手しました。この曲が1980年代初めの中国の長距離列車で、一方的に聞かされる車内放送で繰り返し流れていたことを思い出します。
スターリン治下の閉鎖世界を描き、雪解けと言われたフルフショフ時代でも「反革命作品」としてロシア語での出版は許されず、秘密裡に持ち出された原稿がイタリアから世界に流れていった。
作者はノーベル賞授与式に参加することが許されなかった。
「ラーラのテーマ」が西側で制作された反ソ映画の劇中曲であることを当時の中国人車掌も乗客も事情を知る由もなく無頓着でした。
「反革命楽曲」だとは知らずに聴き入る中国人を複雑な気持ちで眺めたことを憶えています。ある意味では牧歌的な時代でした。

 ところが秘密裡にイタリアへ原稿流出、迅速なロシア語や英語での出版という背景には米国CIAなどの秘密諜報機関が絡んでいたとする小説Lara Prescot :The secret we kept;吉澤康子訳『あの本は読まれているか』が4月に発売され、読了後には高校時代から抱いていた心の中の牧歌的な水彩画をかなり鋭いタッチの油絵に塗り替えられた感じがしました。
「あの本」とは言うまでもなく、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』であります。小説のなかのパステルナークは大詩人のイメージを保ちつつ、政治の世界にかなり無頓着で、生活感にも乏しい等身大の男として描かれ、周囲の女性たちに物心ともども被害を与えています。米国人の著者のLaraは本名で、母親が『ドクトル・ジバゴ』の大ファンであったので命名されたとのこと。

 雑誌『東亜』8月号チャイナ・ラビリンス195回に許章潤氏が逮捕(後に保釈)、清華大学を解雇された理由とされる論評が掲載されています。
その冒頭に、「二月、筆は嘆きを描くのに充分だ、悲しみの叫びで二月を描こう、泥濘が轟き、黒い春が燃え上がるまで」という詩文を揚げて、武漢疫禍についての鋭い論評を綴っています。それは、パステルナークの詩から引用と明記されています。
同じ中国人でも40年前の長距離列車の無頓着な人たちとは異なる、知識人の確信と勇気に満ちた文章でした。

20数回の転居にもめげず持ち続けた「あの本」が今回の家移りの間に逃亡して見つかりません。未だ日本では「あの本」の所持がご法度ではないでしょうが、不思議な気分です。

  敵といふもの今は無し秋の月  (虚子。1945年8月)

2020年8月17日

夏萩[宮城野萩] ―日本の美意識再学習 ①―

井嶋 悠

田舎(と言っても市であり、首都圏の大人たちにとっては憧憬の場所でもあるようだが)に転居して13年が経つ。年々、妻と愛犬以外の会話は限られ一層静かな生活を過ごしている。そんな中でのコロナ禍、自問することがこれまで以上に増えている。加齢の為せることとは言え、あの「自粛」或いは禍の中の騒々しさが加速させているのかもしれない。と言っても多くはその時々の断片に過ぎず、自答など到底及ばない。若い時とは意味の違う貴重な時間を無駄にしている。しかし思いがけない発見もする。

庭の夏萩の花弁に、ただただ単に大愚としか言いようのない政治家の厚顔無恥に辟易し、記録的長期の梅雨下の豪雨被害に自然と人の壮絶な関係に思い及ぼし、それでも日本が母国であることに感謝するという何ともアンビバレントな日々にあって、先日一瞬無我の境に導かれた思いをした。
何年か前、背丈50センチほどの苗を植えた夏萩。宮城野萩。今では枝垂れを上に伸ばせば2メートル余りの広がりに成長し、何本もの細い枝に1センチほどの純白の花弁を背に、数ミリの紅がかった紫の花弁が連なっている。その姿の圧倒的存在感。私と萩が占める1メートル四方の絶対静寂空間。可憐との言葉が私を覆う。

可憐:ひ弱そうな感じがして、無事でいられるよう、暖かい目で見守ってやりたくなる様子。[『新明解国語辞典 第五版』]

高校教師時代に毎年必ずと言っていいほどに講読していた、『枕草子』の「うつくしきもの」の段が甦る。清少納言がここで言う「うつくしきもの」「をかしげなる」「らうたし」「うつくしむ」といった形容語は、私の中で可憐に通ずる。昔、「愛し」を[かなし]と読んだように。

「うつくしきもの 瓜に描きたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするに、踊り来る。二つ三つばかりなるちごの、急ぎて這ひ来る道に、いと小さき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。頭は尼そぎなるちごの、目に髪のおほへるを、かきはやらで、うち傾きて、ものなど見たるも、うつくし。大きにはあらぬ殿上童の、装束きたてられてありくも、うつくし。をかしげなるちごの、あからさまに抱きてあからさまに抱きて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、いとらうたし。雛の調度。蓮の浮葉のいと小さきを、池より取り上げたる。葵のいと小さき。なにもなにも、小さきものは、皆うつくし。
(以下、略)」

やはり教師時代の思い出、アメリカの現地校に在籍していた帰国女子生徒が、日本に一時帰国し、アメリカの友人に、小さな文房具のあれこれお土産に持ち帰ったときの驚愕的喜びの話が甦る。

萩の花尾花葛花撫子の女郎花また藤袴朝顔の花

萩は「秋の七草」の一つである。先に記した夏萩とはやや趣・様態の違う山萩と思われるが、やはり赤みがかった紫の小さな花弁が群れて咲く。
その七草を決定したのは、奈良時代前期8世紀前半の『萬葉集』の歌人、山上憶良である。

『萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花(おみなえし)また 藤(ふじ)袴(ばかま)朝顔の花』
     [注:尾花;すすきの穂花  朝顔の花;今言う桔梗]

これらは研究者に言わせるに、当時の民衆及び山上憶良の好みの花々で、貴族階級は梅・橘といった外来の花樹だったそうで、そのことが貴族階級の一人であった憶良らしさを表わしていると説明する。
だからこそ『銀(しろがね)も 金(くがね)も 何せむに 勝れる宝 子に及(し)かめもや』《歌意:銀も金もまた玉とても子に勝るものが他にあろうぞ》が、憶良を代表する一首であることに私たちは得心するのだろう。
そして萩の花が最初に挙げられている。七つの花に共通する淡彩。
ここで「女郎花」の文字に眼を留めたい。女郎=売春婦・遊女との理解。
ところが、古代にあっては、「女郎」は「上臈(じょうろう)(身分の高い人の孫娘、身分の高い婦人)」から転じた言葉で、時に宗教性を有する女性の意であることが、『日本語国語大辞典』から教えられる。
これに関して、近世/近代文学・文化研究者である佐伯 順子氏(1961年~)が、自身博士課程在籍中に著し、多くの人々に賞賛された『遊女の文化史』(1987年刊)で、彼女は次のように書く。

「性」と(とりわけ10代の)コロナ禍の問題を重ねる人もあり、今、改めて人と性を再考する時機ともなり得るのではとの思いもあって、少々長くなるが引用する。

――遊女、彼女たちこそは、今や俗なるものの領域におとしめられてしまったかにみえる「性」を「聖なるもの」として生き、神々と共に遊んだ女たちであった。その舞い、歌う姿の中に、今日、音楽と言われ。あるいは演劇、文学と言われる「文化」の営みの多くが、まだ「文化」とは自覚されぬままに、若々しい姿をあらわしていたのである。しかし、自ら遊ぶ女として、聖なる力を宿していた遊女たちは、やがて遊郭の中に囲い込まれ、さげすみと憧憬というアンビバレントな社会感情を身に受けつつ、ついに遊芸と売淫との分離によって、もっぱら前者を担う「文化」人と、後者に専念する娼婦へと二極分解してゆく……この変貌の過程はそのまま、人々が「神遊び」の背後に認めていた「聖なるもの」を見失い、快楽のみを独立して求めたゆえに、「遊び」の意味内容から「聖」が脱落して、低俗な性と高尚な文化、という価値観として正反対の概念が生ずる様相を呈しているのである。――

一つ家に遊女もねたり萩と月

(注・「一つ家」は、研究者によっては字余りを承知で芭蕉の他の用例から「ひとついえ」と読んでいるようだが、もう一方の読み方「ひとつや」の方が、素人の私ながら落ち着く。)

この句は『奥の細道』に収められ、新潟県と富山県の境にある難所・親不知の宿での作とされている。しかし、随行者の曾良の日記にも、また芭蕉の他の書にもなく、旅を終えての編纂時に、芭蕉が虚構として加えたと言われている。要は創作であり、それがゆえに旅の途次とは違った芭蕉の心が想像される。

この句の背景に係る地の文の一部分を引用する。

――今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて疲れ侍れば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面(おもて)の方に、若き女の声二人ばかりと聞こゆ。年老いたる男(お)の子の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、此の関まで男(おのこ)の送りて、あすは故郷にかへす文したためて、はかなき言伝(ことづて)などしやるなり。白浪の寄する汀に身をはふらかし《さまよわせ》、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り《夜ごとに違う客と契りを交わす》、日々の業因《前世の所業》いかにつたなしと、物言ふをきくきく寝入りて、(中略)【朝を迎え、その女性から道案内を涙ながらに請われるが、「神明の加護かならずつつがなるべし」断り、旅を続ける。しかし芭蕉の心は「哀(あわ)れさしばらく止まざりけらし。」であった。そして『一つ家に 遊女もねたり 萩と月』と曾良に書きとどめさせる。――

芭蕉は、1644年伊賀の上野に武士の子として生まれ、28歳時に江戸に移り住み、1694年大坂で亡くなっている。そして奥の細道は芭蕉の死後1702年に刊行されている。
一方で、1584年に大坂、1589年に京都、そして1612年に江戸で遊郭が公設されている。

芭蕉にとって、山上憶良の秋の七草の歌も、聖と俗の世界・遊郭も承知のことであり、そこで彼の心を覆うものは「哀れさしばらく止まざり」である。そこには「いき」も「通」もない。
芭蕉が描いた、遊女、萩の花、月光はすべて女性性の心象として浮かび上がって来る。その世界を思い描くとき、私は「が」でも「は」でも「と」でもなく、「も」を持って来た芭蕉の感慨に魅かれる。一夜明ければそれぞれがそれぞれに次の時間を持ち、おそらく再び相まみえることはないであろう。今宵だけの5人の共有の時間。一層募る彼女たちへの哀しみ。生の重みをかみしめる芭蕉。

心的時間がいかに限られているかを実感する中、身辺の小さなものに日本の美しさを見直していけたらと、日本に生を得た一人として思う。

2020年8月9日

多余的話(2020年7月)   『養命酒』

井上 邦久

新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ
ラジオの声に 健やかな胸を この香る風に開けよ 
それ 一、二、三

 新しい朝のもと 輝く緑 さわやかに手足伸ばせ 土踏みしめよ
ラジオとともに 健やかな手足 この広い土に伸ばせよ 
それ一、二、三

              作詞:藤浦 洸 作曲:藤山一郎 (さすがに古関裕而の作曲ではありませんでした)

 ほぼ毎朝この曲が流れる時間に少年野球グランドに到着します。

健康的で前向きな姿勢の単語が並ぶので、命令形もあまり気にならないのかなとか、「香る風」「輝く緑」は夏の季語で「さわやか」は秋だったなとか徒然に思いながら、バラ公園を覗いてから気の向くまま、脚の向くままに歩きます。
7月になって、草刈正雄が朝起き抜けに分厚い本を広げて、詩を朗読しているCMを知り、それが「ラジオ体操のうた」の歌詞であることにも気付きました。
同世代であり、同じ豊前の生まれの草刈正雄には共感を持ち続けてきました。

小倉生れで玄海育ちの気性を甘いマスクで包んでいる草刈正雄が資生堂男性化粧品の「MG5」に起用された時期、ちょうど丸坊主から長髪になったばかりで意識過剰の高校生は、バイタリス派にならず「MG5」ブランドの男性化粧品をなけなしの小遣いで買って大切に使いました。
その後、俳優として主役から脇役へ浮き沈みの大きい中でも着実に幅を広げ、「真田丸」では真田昌幸役、「なつぞら」の祖父役では北海道の開拓魂を滲ませ好演していました。
クレージーキャッツOB谷啓から引き継いだEテレの長寿番組「美の壺」でもコミカルに美の水先案内人を務めています。

玄界灘の対岸での朝鮮戦争で米軍兵士だった父親を亡くし,極貧の少年時代を小倉で過ごしたことは薄々知っていました。
彼が生まれ、米国人の父親が戦死した頃の小倉の雰囲気は、親の世代が競って読んでいた松本清張の小説にも描かれていました。今に続く朝鮮戦争の休戦直前に彼の父親は戦死したものと推測されます。亡父の写真も残っていないという草刈正雄の「ファミリーヒストリー」は番組の題材にはなりにくいのではないかと思います。

これも夏の季語の「草刈」正雄が本を読む傍らにさりげなく置かれた古風な瓶、それが「養命酒」でした。大声で連呼するCMに辟易としている人間には一見何の宣伝か分かりにくい、ひたすら静かな朝の清浄感が心地よく思われます。
「養命酒」は丁子、芍薬,人参など漢字で書くのが相応しい漢方生薬を抽出した医薬品であり、冬場に祖母が大切に服していたのを記憶しています。
新しいCMと同時に発表された養命酒製造㈱の第102期有価証券報告書には「ポジティブエイジングケアカンパニーとして、健やかに、美しく、歳を重ねることに貢献する・・・」という事業理念がありました。とても長い片仮名表記の「Positive Aging Care Company」の意気込みに好感が湧きますが、それ以上に「健やかに、美しく、歳を重ねる」と続く素直な日本語がより「養命酒」という四百年以上続く商品を、そして企業を自然に表現しているように思えます。

「ラジオ体操のうた」のメロディと歌声を除き、歌詞だけを抽出して読むと、まさに「養命酒」のために詩人は作ったのではないかと錯覚をしてしまいます。
3月からラジオ体操に集まる人が減り続け、4月には10名前後となりました。その後徐々に増えてきて6月には60名を超える盛況となり、深めのセンターの定位置確保も難しくなっていました。ただ7月半ば以降は増加に歯止めが掛かり反転気味です。

一方、もともと少なかった交通費と交際費の支出がさらに減少しています。
会社勤めの頃、この二つの経費項目は管理可能経費であるとして、厳しく制限が掛かり、各人の努力次第で十分コントロールできるはずだとされていました。まして業績が悪化すれば削減対象として真っ先に叩かれた記憶が残っています。
ところが今年に入って早々に「家に居て黙っているんだ、夏が終わるまで」状態となったので、乗りたい電車にも乗れず、居酒屋でチョイ呑みもご法度となり、思うに任せられないことばかり。言わば管理不能経費項目になっています。
ブレーキとアクセルを一緒に踏み続けて、クラッチ操作が思うに任せられぬ事象は今どき珍しくもありません。

そんな環境下、大学は全面的に遠隔授業となったのでアドリブ講座から一転して最新資料やテキストの作成に励むことになりました。古典講読会の新しい課題を「三国志演義」に決めて頂き、老師の指示で時代背景や人間関係を整理しています。NHKラジオ木曜日のカルチャーラジオ「曹操・関羽没後1800年 三国志の世界」を大いに活用させて貰っています。京都壬生寺脇のNPO作業場は二回目の閉鎖となりました。9月10日に上海・大阪を結んだ公開セミナーを企画中。
上海の畏友であるパートナー弁護士に講演をお願いし、その前座を務める予定です。一方、華人研は開催延期を繰り返しています。

事ほど左様に個人的にも、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような思いをしています。ただ、この機会に初心に立ち返り、辞書を愚直に引くことが増えています。

「MG5」から「養命酒」まで変化し進化した草刈正雄は少年時代の初心を忘れず、世の中の不易と流行をしっかり見極めているのでしょう。                          (了)

2020年7月11日

不寛容な現代?

井嶋 悠

「新型コロナ・ウイルス禍」は人々に、人間について、社会について改めて考えさせる機会を与えていて、私もその一人である。

極限とも言える環境に置かれると。人間の本性が露わに見えて来る。自戒を込めて実感する。「自粛警察」との新語もそれを表わした一つである。
市民に求められている自粛を同じ市民が監視するとの意味。少なくとも私の感性を遥かに越えている。
私の中で警察と聞いて、感謝と敬意はあるが、一方で権力また権威を笠に着た恐怖が浮かぶ。だから自粛警察との表現に、甚だしいおぞましさを感じる。そこに正義感が加わるからなおさらである。
1945年生まれの私にとっては知識に過ぎないが、関東大震災や太平洋戦争時のことと重ねた指摘に接すると一層の激烈さが襲って来る。

コロナに感染した人を特定しネット等に曝け出し感染者を重罪人として排斥し、その人の行動経緯への誹謗中傷はもとより、「夜の××」に象徴される職業への平生は抑えていた差別感情の爆発とそこで生を紡ぐ地域住民への無配慮、そして人非人としか言いようのない、コロナ治療にあたる医療従事者たちとその家族を忌避し、例えば子息の入園を拒否する、等々。これが絶対正義であるとの恐るべき確信をもって、インターネットで、街中で、当然!匿名で広言し、市民分断を企み、ほくそ笑む人々、市民。

その実態を、例えば5月20日付け毎日新聞の社説では『コロナと不寛容さ 社会の強さが試されている』と題して記しているが、この不寛容との言葉に私は疑問を感ずる。人間はどれほどに寛容であろうか。人間は、多少の個人差はあっても、不寛容さを抱えているのが人間なのではないのか。だからこそ寛容な人への敬愛が生まれるのではないのか。
なぜ、寛容(寛大)の反対語である「苛酷」「偏狭」「狭量」を「厳格」に[東京堂版『反対語対照語辞典』より引用]使わないのか。不寛容(或いはそれよりやや強い語感の非寛容)を使うことにどのような配慮があるのだろうか。単に寛容を打ち消すことでの意味のやわらぎと明らかさを意図しているのだろうか。

言葉の力が怖ろしいことは何度も体感して来た。生涯の仕事が教師だったからなおさら実感し、思い起こせば冷や汗は今も噴き出る。生徒への言葉、生徒からの言葉、同僚同士の言葉。保護者の言葉。
一つの言葉が、人生を狂わせ、相手の喉を掻っ切る事実。だからこそ褒め、讃える言葉の生への力。
これらのことは今更言うまでもないことにもかかわらず、なぜこの無惨が起きるのか。

先の社説には「自粛生活のストレスと差別感情の助長」を言い、「社会の強さが試されている」と言う。
果たしてそれでこの恐るべき問題は解決するのだろうか。ストレスは人に限らず動物また時には植物でさえ、置かれた環境不適応から生ずる不安、恐怖、圧迫またそれらの複合としての心身の疲弊。苛立ち。それは老若問わず誰しもが、生ある限り持たざるを得ない。それがなぜ差別感情の助長になるのか、それとも人だけに特有の性(さが)なのか、私には今もってよく分からない。
そして筆者は社会の強さの必要を説くが、ここで言う社会の強さとは一体何なのか、個に帰して自問自答する己の強弱なのか、それとも社会の脆弱・強靭の意味なのか。そうだとすれば、それはどういう社会なのか、日本はまだまだ脆弱にして未熟と言うことなのか。そもそもそういう強い社会はこの現実世界に存在するのか、私の浅薄な頭はますます混乱するばかりである。

先日、社会学者西田 亮介氏(1983年~)の著書『不寛容の本質』を、その表題に魅かれて読んだが、昭和と言う時代と現在の乖離を説く氏の論説の中で、私が望む回答は見つけられなかった。ただ、次の一節に何かヒントが示唆されているように感じはした。

――過剰な楽観論と、やはり同じように過剰な悲観論が対立しているこの構図こそが現代日本の不寛容の本質ではないか。――

おぞましい流言飛語、更にはそれを内に留め過ぎて死を選ぶ人はなくなることはないだろう、と生の哀しみを思えばついそう言わざるを得ないが、量・質ともに減らすことはできるはずだ。それは幾つかの国が証明している。そこに導くのは大人の姿勢、大人が置かれている社会環境、そして大人としての教育観にかかっている。

先日、女子プロレスラーの木村 花さんが命を絶った。報道を読めば読むほど、テレビ局の、プロダクションの、そしてインターネットで誹謗中傷した大人が、彼女を殺めたとしか言いようがないではないか。よってたかっての惨殺である。そこに花さんはいても、花さんそのものは打ち消されている酷(むご)さ。テレビにはそこまで人権を蹂躙し、自己を正当化する権利が与えられているのだろうか。

先ず世の最前線にいる大人が意識を変えなくては、社会は変わらない。その時、教師の持つ意味は甚だ大きい。これも自戒を込めてのことである。
こんな教師がいた、と言うか教師にはその傾向が強く、多くは生徒愛を自認するのだが。

生徒(子ども)の思い、考えを聞いているようで聞いていない教師。結局は一方的に話し続ける教師。用意された結論へ限られた時間内で誘導する教師。中高校生の感性は瑞々しい。彼ら彼女らはとっくに帰着点を直覚している。言葉に出さない[或いは出せない]だけである。
聞き上手の教師は、本来の意味での話し上手である。能弁である必要はない。訥弁の話し上手。

そのためには時間が必要である。急いてはことを仕損じる、である。あれもこれもとあまりに忙しすぎる大人たち。それについて行かざるを得ない子どもたち。それが当たり前となっている社会。「快」を追い求め続ける社会とそれに振り回される大人。そして子ども。

今回の自粛はそれらにブレーキを、しかも強度なブレーキをかけた。自問自答の時間が増えた。自身の足りなさを他者に向けるのではなく、蛮勇をふるって自身に向けたいものだ。心の中の風通しのためにも。コロナ禍と言われるが、「禍福はあざなえる縄の如し」。それも一国レベルではなく世界レベルで。

寛容とは、元来「耐える」「我慢する」の意味だったとか。こらえ性のない大人は大人失格である。
日本は無宗教の国と言われるが、別の視点で言えば宗教に寛容な国民性と言うことではないか。

2020年6月18日

多余的話(2020年6月) 『モスラの唄』

井上 邦久

6月15日、梅雨の晴れ間。久しぶりに大阪に出て予約を一ヵ月遅らせた眼科へ。
昨年春の年一回の定期検査で緑内障と診断され、経過観察をしながら投薬や手術の相談をしましょうという穏便なプランに同意して、3か月に一度のペースで通院中でした。
文楽の桐竹勘十郎似の渋い男前の先生には十年以上にわたり、年に一度の検診をしてもらう息の長いお付き合い、毎回「特に異状はないです。来年の今ごろまた来てください」という言葉を貰って当たり前のように翌春に通うことが続きました。

2011年の春も同じ言葉がありましたが、その年は「来年も無事であったら」という前提を感じました。
その一か月前の3月に上海から東京・大阪を繋いだTV会議をしている最中に東京の画面が大きく崩れて断線、大阪の画面も気持ちの悪い大きな横揺れがして、やがて人が消えました。
詳しい事情が掴めないまま、予定していた内モンゴル自治区オルドスへの移動をして、その夜に乾燥地帯で大津波の画像を観ることになりました。

 来年の今ごろおいでと春の医者(拙)

それ以来、来年の予約という行為に「明日があるさ」思想の楽天性を感じるようになっていました。そして今年二月、別の患者が「次の検診は、コロナが終わったら参りましょう」と軽い調子で口にしたら、勘十郎先生は「感染疫病はそんなに簡単には終わりませんよ」と軽いたしなめ口調で呟きました。
今回、長期戦・持久戦・神経戦を覚悟したのはこの時期のことで、いつも激することのない眼科医師の言葉も作用したと思います。

 2011年春、大阪から派遣された岩手県上閉伊郡大槌町の工場で被災した知人は工場閉鎖後も帰任せず、全く畑違いの本屋、町で唯一の一頁堂書店を開店することになりました。開業の直後に訪ねた時、化学会社の営業マンだった知人は「本が嫌いな自分が本屋を営む」ことになった成り行きを話してくれました。
開業8周年を伝える書状には、「とにかく感染者第1号にはなりたくない」というまわりの空気が前書きにありました。続いて2019年の三陸リアス鉄道や沿岸道路の開通で復興工事が一段落した報告があり、利便性がよくなったことは、地元業者への打撃が想像を大幅に超えたものになっている現実と、感染病による追い打ちの凄まじさが綴られていました。
開業当時の子供たちが社会人になり、子供を連れて来店する姿を見守る言葉に添えて、震災で親を亡くした子供が高校を卒業するまで18年間、学校を通じて店専用図書券を届ける取り組みが8回目になったとの報告がさりげなく添えられていました。末尾の店主という文字の重みが増してきた印象があります。

6月7日、西宮震災記念碑公園で小説「火垂るの墓」記念碑の除幕式が行われました。当日は限定された人数で30分だけという圧縮形で行なわれるとの知らせと記念誌を届けて貰いました。
小説では1945年6月5日の神戸大空襲から逃れた少年とヨチヨチ歩きの妹が西宮市満池谷の親類宅に辿り着いた後、二人だけで暮らした土壁の防空壕で短い命を灯したことになっています。
野坂昭如初期の自伝風小説でありますが、地元の建碑実行委員会の粘り強い調査と関係先との折衝で、作家の親類宅や防空壕の場所が特定され、二人で暮らした様子を目撃した古老の口述記録も留めています。
関西華僑のライフヒストリーを聞き書きして出版を続ける神阪京華僑口述記録研究会があります。毎年1冊出版のペースで先日第10号を受け取りました。その活動の主軸の一人のN氏が「火垂るの墓」記念碑建碑実行委員会の事務局を担っていることで身近に繋がりました。

早稲田大学に進んだものの、とてもラグビー部に参加できる状態になかった野坂昭如が、40歳頃に「アドリブ倶楽部」というラグビー同好会を創設したことは良く知られています。
一方、ラグビー横好きでは負けない大阪府立高校OB達の倶楽部が東京のリコーグラウンドで「アドリブ倶楽部」と対戦したことがあります。前夜、3人のメンバーが拙宅に雑魚寝したこともあり一緒に観戦に行きました。
野坂氏は背番号10のスタンドオフで出場しましたが、トレードマークの黑メガネをしていたか、外していたか記憶に定かではありませんでした。今回、記念誌に倶楽部の応援歌とともに写真が掲載されており、黒メガネ姿でしたが練習風景を撮った記念写真かも知れません。

閉塞した日々に流されるように、印象的な仕事を残した人たちが静かにこの世を留守にして逝きました。勝目梓、ジョージ秋山そして宮城まり子・・・。

ねむの木学園の構想から実行に取組んでいた宮城まり子に対しパートナーの吉行淳之介が伝えた三つの約束、「愚痴を言わない」「お金がないと言わない」「やめない」。継続して実行し難い約束の意味を折にふれて反芻しています。
更に「全作品の著作権はまり子へ」という遺言で三つの約束を支えた切れ味はとても常人俗人の及ぶものではありません。

6月15日は、ザ・ピーナッツの伊藤エミ(本名:沢田日出子さん)の8回目の命日でした。
東レが岩谷時子らとタイアップしてバカンスという言葉を定着させた「恋のバカンス」は、今ものど自慢で月に一度は孫世代が歌っています。宮川泰の贅沢な編曲で輝きを増した「恋のフーガ」は、日本の音楽シーンの最高傑作だと思います。
更に東宝怪獣映画「モスラ」(原作:中村真一郎・福永武彦・堀田善衛)の主題歌「モスラの唄」にはいまだに強烈なインパクトを感じます。インドネシア語がベースと言われる歌詞と早慶・阪神巨人の応援歌や軍歌‣反戦歌・反原爆曲・オリンピックマーチまで萬承って破綻のない古関裕而の作曲です。

言わずもがな(多余的話)ですが国会議事堂での抗議デモの渦中に命を落とした樺美智子の命日も6月15日です。

                          (了)

2020年6月4日

看護師・日本

井嶋 悠

現在、看護婦とは言わない。男性にも担う人が増えている。だから「婦」を使えば差別ともなり、男女平等、協働社会の現代にあっては時代錯誤である。ただ、その意味するところはもっと深いように思う。

看護師は、絶対の母性の仕事である。
これは医師にも言える。ことさら女医との言葉があるのは何の残滓だろうか。いずれ女医との言葉は消えるだろう。では医師も母性の仕事なのだろうか。母性の側面を持つことは否定できないが、(そもそも医療自体、教育世界同様、母性の行為とも言えるが、この感覚は日本人的なのかもしれない)父性を思う。

この母性と父性について、母性=女性、父性=男性の、しばしば見受ける形式的発想を疑問に思う機会が増えている。その等号に得心が行かないのである。今更ながら、母性を女性の占有のように言う私が、非現代的偏重人と思える。母性・父性に男女性は関係がないはずだ。ただ、母は女性がなり、父は男性がなるという、その生物的だけのことではないかと思う。
そこで、手元の国語辞典[新明解国語辞典 第五版]から確認してみる。

 [母性]:女性が、自分の生んだ子を守り育てようとする、母親としての本能的性質。

 [父性]:父親として持つ性質。

個性的と言われている国語辞典でさえ、そうなのかといささか愕然とする。分かって分からない。いわんや父親の説明など思わず?が起こる。
そこで、女性・女性的、男性・男性的を同じ辞典で確認してみる。

 [女性]:おとなになった、女の人の称   

 [女性的]:やさしさ・美しさ・包容力などを備えたりしていて、女性と呼ばれるにふさわしい様子。

 [男性]:おとこになった、男の人の称

 [男性的]:たくましさや行動力を備えた上、さっぱりした性格を持っている様子。

女性的、男性的は、この辞典らしくなかなか踏み込んだ語釈かとも思うが、旧来の女性・男性のイメージに立った上での苦心が偲ばれる。中でも、「美しさ」とはなかなか微妙だ。
それに、「おとなになった」「おとこになった」の意味するところは何であろうか。
上記の説明に基づいた、女性的な男性、男性的な女性は、決して珍しくはない。とすれば母性・父性の再定義が必要になるのではないか。ここで、「女」「男」の項を見てみるが、出発点の母性・父性から離れ、堂々巡りになるようなので省く。

臨床心理学者河合 隼雄(1928~2007)は、その著『母性社会 日本の病理』の中で、母性・父性に関して次のように述べる。

―母性の原理は「包含」する機能によって示される。それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込んでしまい、そこではすべてのもが絶対的な平等性をもつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子どもの個性や能力とは関係ないことである。(中略)
これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子どもを平等に扱うのに対して、子どもをその能力や個性に応じて類別する。―

私には強い説得力がある。先の女性的な男性、男性的な女性も大いに納得できるではないか。

私はこれまでに何度も、多くの看護師に(ただ、すべて看護婦であった)世話になって来ているが、その看護師たちの仕事が私に激しく迫ったのは、わずか数分の、テレビニュースの中の一端として放映されたドキュメント映像である。
場所は、コロナ・ウイルス患者受け入れ病院の治療室である。防護服に身を包んだ何人かの看護師と何人かの医師。たまたまであろうがすべて看護師は女性で、医師は男性だった。看護師は常に患者に寄り添い、声を掛け、患者の声に耳を傾けながら、同時に医師の指示を受け、所狭しと務めに集中している。

看護師は、コロナ・ウイルス感染確率の最も高い立ち位置で、慈愛の眼差しを絶やすことなく、目まぐるしく動いているのである。その間、医師はデータを確認したり、指示を出したり、病院内部からと想像される電話に、「私たちは医療崩壊との言言葉は使いたくないんです」とやや声高に応えている。
騒然とした、しかし心を引き込まざるを得ない、何か聖なるものを直覚させる気が横溢している一室。
看護師が、出て来て防護服を脱ぎながら言った「ああっ、あついっ」の一言の重み。そして次の準備へ。

私は、無性にこみあげるものにうろたえ、ただひたすら敬愛の眼で看護師を見た。協働世界を思い、その現実、現場を重々承知しつつも、「医師あっての看護師」ではなく、「看護師あっての医師」との言葉を、思い起こした。
診察し、診断する医師の一言の影響力は途方もなく大きいが、看護師のあの自然な優しさ溢れる一言が、どれほどに生きる力を与えることか。
やはり看護師は母性の仕事であり、医師は父性の仕事であると思う。

今、医療に携わる人々またその家族に、中傷や拒絶の言葉を、人間崩壊とでも言おうか、己が正義で発している人のことが連日のように報道されている。看護師や医師の、怒りを越えた哀しみ、寂しさを、所詮他人の感傷的同情と言われようと、想像する。
ブルー・インパレスへの感謝も、見知らぬ人々からの手紙等への感謝も、確かな励みとなるであろう。また、国が待遇改善を提案することも従事する人の確かな励みとなるだろう。
その上で、看護師の、医師の、正に無償の愛と言っても過言ではない行為を改めて知ることで、世の多種多様な営み[職業]への慈しみの眼差しを忘れてはならないと、ドキュメントフィルムは語っているように私には思えてならない。

どれほどの人々が、会社・事業所が、困窮に、破産に、死の間際に、(否既にその一線を越えざるを得ない選択をした人もいる)追い込まれていることだろうか。その人たちにその責任を問うことなどあろうはずがない。その人たちに多くは、ほとんどは「弱者」「脆弱者」である。それに具体的な救いの手を差し伸べるのは、先ずその人々が所属する国家である。その国家は国民の税金の上に成り立っている。脆弱さを突き付けられた人々にその税金を使うことに誰が反対するだろうか。反対する人がいるほどに日本は腐ってはいないと信じたい。

4百数十億投じてのマスク配布を英断とし、愛犬との姿に癒しを誇示することで、国民の多くの顰蹙(ひんしゅく)をかった首相は言う。「日本ほど手厚い援助をしている国はない」と。もしそうならば多く聞かれる悲鳴、憤慨は一体何なのだろうか。切々とした声が届くには官邸は遠過ぎるのだろう。悲しいことだ。
政治家は常日頃「身を切る改革」との言葉を使う。どれほどに実行しているのか、ほとんど言っていいほどに、私たちは言葉の弄びと思っている。あの歴代首相断トツの外遊費(資料公開請求をした野党政治家があったが、国民はどれほどに周知しているだろうか)、国際化・グローバル化世界にあってリーダーシップを発揮するために或いは大国日本の責任を果たすために、との絶対正義かのような理由でどれほどの税金が使われているか、国民は心地良くそれらのことを承知しているだろうか。

「その国民が私たちを選んだのではないか」も政府の、政治家の常套句で、「嫌なら投票するな」とまで暴言を吐く人種もいる。そして議論はそこで終わる。
そんな日本の貧しさを、今回のコロナ・ウイルス禍は露わにした。

第二波、第三波も予想されている。今回について謙虚に反省[猛省]し、「あの時私は委員でなかった」といった無責任な専門家などに委託せず、看護師の、医師の献身を心に刻んでこそ彼ら彼女らへの心からのねぎらいになるのではないか。

弱者・脆弱者を一人でも出さないためには、結局は国民に借財を跳ね返す発想ではなく、何をどう削ればよいのか、その視点に向かわせる国の新たな出発点としてもらいたいものだ。新たな生活様式を考える時代としたい、と世界の良心は言っているではないか。
横に並んで食事し、食事に集中するといったことが新しい様式ではなかろう。ラッシュアワーの背景には何があるのか。オンラインで解決するのか。

弱者が切り捨てられる日本はもう十分だ。日本が母性の国と言われるその本領を、その是非或いは長所短所の観念的論議に陥ることなく、発揮してもらいたいものだ。

締めくくりとして、ナイチンゲール(1820年~1910年)の代表的著書『看護覚え書』から、看護婦の時代を経て、看護師の時代になった今日でも、真理と思われる幾つかの言葉を引用する。
尚、彼女は後半生の50年間、感染症の一つブルセラ病(マルタ熱)で病床生活を余儀なくされたが、その間、多くの著作を遺した。

「病気の行き末を決定づけるのに、注意深い看護が重大な役割を果たすということは広く経験されているところです。」

「患者は四六時中敵と顔を突き合わせ、内面でその敵と格闘し、頭の中で延々と言葉を交わしているのだということを肝に銘じてください。これは病気でないものにはわかりません。“速やかに敵から解放せよ”これが病人に対する第一原則です。」

「すべての看護婦は、頼りにされ得る、すなわち“信頼のおける”看護師であるべきだということを肝に銘じてほしいと思います。いつ何時、そのことが要求される立場に置かれるかしれないことを、看護婦は自覚できていないのです。」

「私は女性たちに、医師への絶対的な従順の必要はないと思わせようとしているわけではありません。ただ医師にも看護婦にも、知的従順ということの重視、すなわちただ従順なだけでは意味がないという認識が不十分だと言っているのです。」

優れた看護婦は厚遇すべきである。
ナイチンゲールは19世紀に既に言っている。

「構成員の自己犠牲のみに頼る援助の活動は決して長続きしない。」

「犠牲なき献身こそ真の奉仕である」

誰が優れていると判断するのか。医師であり、患者であり、病院経営者であり、それに応える国がある。
それは医師も全く同様である。それが協働だと思う。