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2019年3月14日

自由律俳人の幾つかの作品鑑賞 俳句再発見・再学習 最終回[二]

~「自由」の心地よさ、為難さ~

井嶋 悠

良い機会なので自由律俳句を、上田 都史の書での引用句や他の書から、幾つか味わってみた。共感もあれば困惑もあった。抄出し、寸感[各句※部分]を添え、数回にわたる[俳句再発見・再学習]拙稿を終えたい。
自由の伸び伸びした世界への夢想の快、自由を知情意で己が血肉とする難しさを思いながら。

自由律俳人を言う場合、河東 碧(へき)梧桐(ごとう)(1873~1937)を源流に、その碧梧桐を師とする荻原 井泉水(1884~1976)そして井泉水を師とする種田 山頭火(1882~1940)そして尾崎 放哉(1885~1926)らを、大きな流れとしてとらえているようなので、はじめにその4人の句を幾つか抄出する。

【河東 碧梧桐】

『蔭に女性ありのびのびのこと枯柳』
※艶なる句とも思ったりするが、だめだ。

『相撲乗せし便船のなど時化(しけ)となり』
※私が描くのは、相撲取りと船と時化の妙なのだが……。

『草をぬく根の白さ深きに堪へぬ』
※「堪へぬ」の語感が、園芸に心傾く私には感慨深い。

 

【荻原 井泉水】

『夏の日寂寞(せきばく)と法堂をきざむ斧(おの)のおと』
※『閑(しず)かさや 岩にしみ入る 蝉の声』を思い浮かべた。

『水車ことかたと浪音に遠きこころ哉』
※独り静かに想い馳せる時間。

『窓を絶えずよ番(つが)い蜻蛉の流るる日』
※やはり秋空を背に泳ぐ赤とんぼがふさわしい。

『かつこう鳴けば淋しかつこう彼方に答え』
※この4句の中で最も好きな句。

 

【種田 山頭火】[『定本 種田山頭火句集所収【草木塔】』より抄出]
抄出に際しては、私なりに山頭火を感じ且つ共感したものを幾つか選んだ。

《山頭火の背景・略歴
家業の破産、妻子との離別、弟の自殺、自殺未遂等、辛酸をなめ、42歳で得度し、雲水姿で諸国を乞食で漂泊し句作に勤しむ。享年58歳。》

以下、◎はとりわけ響いた句。

◎『分け入っても分け入っても青い山』
※爽快な自然と激する一人の男。青山到るところに在り…。

『鴉啼いてわたしも一人』 ※前書きに「放哉居士の作に和して」とある。

『木の葉散る歩きつめる』 ※「つめる」に迫り来るものを思う。

『しぐるるや死なないでゐる』
※どこかしら漂う自棄的な山頭火に心動かされ。

『けさもよい日の星一つ』 ※「星一つ」か。さすがだ。

『枝をさしのべてゐる冬木』 ※山頭火の慈愛と生きようとする姿。

◎『雨ふるふるさとははだしであるく』
※故郷のあるようでない私だが直感的共振する。

◎『ゆふ空から柚子の一つをもらふ』
※野暮な愚者の感想など全く必要のない句。

『ひつそりかんとしてぺんぺん草の花ざかり』
※「ひっそりかん「ぺんぺん草」。詩人。

◎『てふてふうらからおもてへひらひら』
※ひらかなと擬態語の絶妙なハーモニー

『けふもいちにち風をあるいてきた』
※思わず山頭火の写真の貌が浮かぶ。

『しようしようとふる水をくむ』
※「しようしようと」「くむ」の孤愁の響き。

◎『お月さまがお地蔵さまにお寒くなりました』
※辛酸を経たが故の優しさ溢れる句。

『どうしようもない私が歩いている』
※この自虐性がますます酒に向かわせる壮絶な孤独。

◎『笠にとんぼをとまらせてあるく』
※孤独の中の心和むひととき。瞬間の安らぎ。

◎『まっすぐな道でさみしい』 ※ロマンと表裏為す孤独。

◎『生えて伸びて咲いてゐる幸福』 ※開花した花々の微笑みが視える。

『ひとりひつそり竹の子竹になる』
※「ひつそり」が卑俗性を消している…。

『重荷を負うてめくらである』
※やはり今の時代では使えない言葉であることを思いつつも。

『ともかくも生かされてゐる雑草の中』
※乞食漂泊者でない限り分からない実感。

『よい道がよい建物へ、焼場です』 ※強烈な静寂が漂う。

『日かげいつか月かげとなり木のかげ』
※我が身を白日の下で確認したいができない生の宿命。

『草のそよげば何となく人を待つ』
※悟道に向かう山頭火と野卑な小人振りの私。

『何を求める風の中ゆく』
※[何を・風の中]と[求める・ゆく]が導く爽快な想像。

『あるけばかつこういそげばかつこう』 ※自然と共に生きること。

◎『みんなかへる家はあるゆふべのゆきき』
※前書きに「大阪道頓堀」とある。

『こころおちつけば水の音』
※山頭火は己が境涯を「淡如水」と言っている。

◎『わたしと生れたことが秋ふかうなるわたし』
※秋の醸し出す世界と人。

◎『月からひらり柿の葉』 ※ただただ美しい幻想世界。

『やつぱり一人はさみしい枯草』
※「やつぱり」・・「は」・・「枯草」に滲み出る山頭火の人恋しさ。

◎『しみじみ生かされてゐることがほころび縫ふとき』
※どれほどに驕り高ぶる人を見て来たことか。

『足は手は支那に残してふたたび日本に』
※前書きに「戦傷兵士」とある。

『だまってあそぶ鳥の一羽が花のなか』
※山頭火の鳥との一体化の瞬時の快。

『風の中おのれを責めつつ歩く』
※途方もなく多い共感者を思い浮かべる。

『死はひややかな空とほく雲のゆく』
※西に向かっていく雲を追うばかりの人の性。

『そこに月を死のまへにおく』 ※生があるがゆえの死へのもがき。

『枯枝ぽきぽきおもふことなく』 ※孤愁。

◎『窓あけて空いつぱいの春』
※冬になると、冬が近づくと過ぎる北国(雪国)の人々の心。

『霜しろくころりと死んでゐる』 ※前書きに「行旅病死者」とある。

『どこでも死ねるからだで春風』 ※この覚悟があってこその春の風。

◎『寝床まで月を入れて寝るとする』 ※独りだが至福のいっとき。

『死ねない手がふる鈴をふる』 ※前書きに「老遍路」とある。

◎『しみじみしづかな机の塵』 ※sImIjIm IsI・・・tIrIの絶妙。

『鳥とほくとほく雲に入るゆくへ見おくる』 ※孤独がゆえの心の余裕。

『いちにち物いはず波音』 ※地球の久遠と独りの人と。

『しんしん寒の夜の人間にほふ』 ※「にほふ」は人間?寒の夜?

『おちついて死ねさうな草枯るる』
※「死ぬることは生れることよりもむつかしいと、老来しみじみ感じない
ではゐられない。」との言葉が句の後にある。

『かへりはひとりの月があるいつぽんみち』 ※月は山頭火の後ろにあるのだろうか、前だろうか。

『なければないで、さくら咲きさくら散る』 ※読点一つの絶妙な効果。

◎『空腹(すきぱら)を蚊にくはれてゐる』
※ユーモアは心に余裕がないかぎり生まれない…。

『ひろびろひとり寝る月のひかりに』 ※ひろびろひとり寝る、孤独を知り得た者だけの直情。

◎『蠅を打ち蚊を打ち我を打つ』 ※仏教帰依者だからこその説得力。

『夕焼雲のうつくしければ人の恋しき』
※妻子?弟?それともとにかく人だろうか。

『蛙になりきつて跳ぶ』
※同一化の愛とそれを客観的に視るおかしみの自身。

 

【尾崎 放哉】[村上 護編『尾崎放哉全句集』より抄出。]尚、略歴は前回記したので省略する。
抄出に際しては、下記[Ⅰ・Ⅱ]二つの時期での、私なりに放哉を感じ且つ共感したものを選んだ。
以下、◎はとりわけ響いた句。その◎をつけた句のみ寸評を記した。

Ⅰ.俗世の時代(1915年~1923年)

○児等と行く足もと浪がころがれり

○浜つたひ来て妻とへだたれる

○休め田に星うつる夜の暖かさ

◎妻が留守の障子ぽつとり暮れたり
※「ぽつとり」が響く静けさと無心の放哉

◎夜店人通り犬が人をさがし居る ※私は猫より犬を好む。

○嵐の夜明け朝顔一つ咲き居たり

◎昼深深と病室の障子
※北條民雄のことで長島・愛生園に行ったことを想い出す。

◎犬が覗いて行く垣根にて何事もない昼
※犬の眼は実に慈愛と孤独に満ちている。

 

Ⅱ.遁世以後(1924年~1926年)

◎ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる ※何と平安の時間。

○一日物云はず蝶の影さす

◎たつた一人になり切つて夕空
※「なり切つて」に詩人ならではの魂を直感する。

◎昼寝起きればつかれた物のかげばかり ※昼寝の功罪。

○空に白い陽を置き火葬場の太い煙突

○氷がとける音がして病人と居る

◎落葉木をふりおとして青空をはく
※天空を見上げてこそ可能な描写。

◎何か求むる心海へ放つ
※昔海と言う漢字には母があった、を思い出す。

○仏にひまをもらつて洗濯してゐる

◎こんなよい月を一人で見て寝る
※快を詠っているのだろうか、それとも寥だろうか。

○灰の中から針一つ拾ひ出し話す人もなく

○今日も生きて虫なきしみる倉の白壁

○ふところの焼芋のあたたかさである

◎なんにもない机の引き出しをあけて見る
※独りぼっちのひととき、しかし心落ち着くとき。

◎風が落ちたままの駅であるたんぼの中
※まさに絵画である。幻想的絵画。

○ころりと横になる今日が終つて居る

○海が少し見える小さい窓一つもつ

○なん本もマツチの棒を消し海風に話す

◎をそい月が町からしめ出されてゐる ※月は放哉?

○切られる花を病人見てゐる

○障子あけて置く海も暮れ切る

○入れものが無い両手で受ける

◎静かに撥が置かれた畳
※和服の女性の面影と三味の余韻が一層引き立たせる。

○墓のうらに廻る

○掛取も来てくれぬ大晦日も独り

◎肉がやせてくる太い骨である ※人間であることの驚愕。

◎やせたからだを窓に置き船の汽笛
※「窓に置く」との表現の静けさ、寂しさ。

○春の山のうしろから烟が出だした ※辞世の句とのこと。

 

【蛇足補遺③】

私は、山頭火に辛苦をひたすら受け止める者が為し得る濾過された情を、放哉に才智ゆえの孤独な知を直覚する。と言う私は、あまりにも浅薄な感傷の情と切り貼り的知で今日まで来たように思える。
私は放哉の知より、山頭火のぎりぎりの情に魅かれる。しかしそれに近づくことさえ私にはできない。

【現代俳人の作品から】

[藤井 千代吉] 『蝶になれば僕たち花園に住めるね』(1987年)

[松宮 由多可] 『引き算の平生それから先の雪囲(ゆきかこい)』(1990
年)

[和田 美代]  『明日はひらく音するように蓮を描く』(1990年)

[古川 克巳]  『自閉症児とくらい鶏いて木が友だち』(1988年)

 

【蛇足補遺④】

―自作の試み―

人生の後半「苦」を重ねられた恩師で、個人的に親愛の情を寄せていた方が亡くなった時、その方の苦しみ、抗いの幾つかの言葉を思い出して。

『疲れたと言って逝ってしまわれた』

 

【蛇足補遺⑤】

今更ながら、私たち日本人の底流にはひらかなが脈々と流れていることを、今回体感した。
短歌を「三十一(みそひと)文字」とも言うが、俳句同様、人によっては、31音、17音と音数で定型を説明する。確かに、漢字・仮名時にはローマ字さえ使う日本語にあっては、その方が誤解を招かないかとは思うが、日本人の私たちは、心ではひらかなで読み、聞いている。(聞くの場合、同音異義語の多い日本語
だから確認すること多々あるが)表意としての文を表音文字に瞬時に置き換え感じ考える。
こんな(人によっては当たり前のことだろうが)ことを思ったのは、自由律俳句の不安定さを感じながら読んでいて「自由な律」に、定型俳句と同様の音楽性を感じたからである。
俳人[詩人]の俳人[詩人]たる所以。その音楽性に引込まれて行く読者、私たち。
本文中で引用した上田 都史の「自由律で俳句を書く」との言葉が、改めて思い出される。

芭蕉・蕪村・一茶そして自由律俳句を主題に4回の再発見、再学習の投稿をした。
カタカナ言葉を連ねるが、ボーダレス[レスト]、インターナショナリズム[リスト]、ナショナリズム[リスト]といった難しいことを離れ、単に一人の日本人で、33年間、中高校国語科教師であった私にとって、今回の投稿は、日本を再自覚する機会ともなった。
どういう形であれ外国人の存在は、ごく当たり前になり、今年4月以降、外国人労働者が日本経済を支えるため一層増えることになる。
また「ダブル(ハーフ)」も、年々各分野で大きな活躍、仕事をする人が増え、22歳での「国籍選択」で日本を採るのか、もう一方を採るのか、或る意味日本が試されている。
次代を創る若い人たちは、日本の舵をどのような方向に持って行くのだろうか。

 

 

2019年3月5日

2019年2月・沖縄県民投票 ―今、「インテリ」って何だろう?―

井嶋 悠

沖縄の米軍基地の普天間から辺野古への移転に関する県民投票が行われた。
統計の数字は、それを見る人の立場、信条等によってとらえ方は変わり意見も変わるが、同じ国の一員として、基地問題の根源にあることも含め己が考えを明確にすべき時であろう。
投票率、賛否率等から、沖縄県民の「反対」意志表示は明確な事実である、と私は思う。
また、『日韓・アジア教育文化センター』で培われた人とのつながりに於いても、それぞれの意思表示は必要なことであると個人的には考えている。

「結果に法的規制はない」との一見!合理的説明を突きつけられる虚しさは推して知るべしである。否、民意を示し得ただけで十分で、後は国民一人一人の良心である、と沖縄県人から言われれば、私はどう応えれば良いのか、狼狽える私が浮かぶ。
今回の選択肢「どちらでもない」の投じた人々の心情にあるもどかしさ、そして寂しさ。
江戸期の、近現代の沖縄の歴史と現在を知れば知るほど、私たち日本人としての良心が問われているのではないか。

「同情ほど愛情より遠いものはない」との表現は、昭和10年代に、小説『いのちの初夜』で、川端康成が世に知らしめた“癩病(戦後の表現はハンセン病)”作家北條民雄の言葉で、私が20代の頃に、心に突き刺さった棘の一つとして今もある。
この同情と愛情、相手・対象への気持ち時間の長短と、そのことで自身は何をし得たか、に違いがあるように現時点では思っているが、これで言えば今回の県民投票についても私は自己矛盾を犯している。同情すれど愛情なしとしか言い得ない、との意味で。「同情するなら金をくれ」と、どう違うのか。

投票結果に関して、全国紙A紙とM紙の論説を痛烈に批判している、著名人の文章に触れることがあった。
私はその方の考え方、対話方法或いは話し方に、以前から違和感を持つ一人だが、それはそれとして、その人は持論を展開するにあたって「インテリ」との言葉を何度か使っていた。その時、私に過ぎったことは、この人はひょっとして、現代日本人にとってインテリとは何ぞや、と問うているのではないか、と。そして、漠然と流されるままに使って来た、私の言葉で説明できない私を見た。

今日の情報社会にあって、知識は到る処で溢れかえっているから、辞書で時に見掛けるインテリ=知識人などあてにならない。例えば、学歴不要観(論)がある一方で、今もってT大を頂点とする大学進学優先社会[それも多くは塾産業の力を借りての]で、そのT大進学を競う高校数校の生徒(インテリの卵?扱いの)を集めた「クイズ大会」といったテレビ番組がある馬鹿げた世相にあってはなおのこと、知識人の図式など傲慢ささえ臭ってくる。大事なのは知識より智恵である。だから高学歴者がインテリとは限らない。

その前に、そもそもインテリなる言葉自体死語であるとの考えを持つ人もあろうかとも思う。しかし私の中でインテリと言う言葉はまだ生きているし、インテリの良し悪しで社会は変わるとも思っている。
そこで、大概のことは分かるパソコン(ネット)社会、その中でも小中高大レポート・小論文での、また私自身恩恵大で、或る漫才師はそのフレーズを使うことで受けていたから世に定着しているのだろう【ウキペディア】を引いてみると、幾つか問題ありとの前提付で以下のように書いてあった。
元の表現を基に整理して引用する。

因みに、そういう安易性を嘆いている大学教師(インテリ?)の言葉に接したことがあるが、鵜呑みは何事でも危険で、自分で考える一つのきっかけとして十分に存在価値を持っている、と私は思っている。

――知識階級とも表現されるこの社会的な階層を指し、以下のような働きをする。
学問を修め、多くの現象を広い見識をもって理解して、様々な問題を解決する知恵を提供する。
その知識によって発見・発明された成果物を提供することによって、社会から対価を得て生活する。
具体的には、
社会や経済を知識によって先導する政治家や経営者、
文化的な創作活動によって、社会に新しい価値観を育む芸術家やクリエイター、
学者として各々の分野を深く探求した学者、
教育の場で他を指導する立場を担う教師、
道徳やモラルに関する警告を発して社会を律したりする報道関係者や評論家、たちである。
その一方で、単に高学歴であるというだけの意味にも使われるケースもある。――

これを読んでどれほどの人が納得するのだろうか。少なくとも私には、現代日本、要はほとんどの人がインテリにあたるのではないかと思える。更には上記説明者に従えば、私は正しくインテリなのである。であった。ウキペディア監修者の注文はもっともである。元教師の自身から離れてもどこか偏り、狭小を感じ、可能な限り事典[エンサイクロペディア]に近づくには疑問が残る。そして全国紙を排斥した人もインテリなのである。
日本の?近現代政治家の好きな標語発信、例えば『一億一心』『一億総中流』、最近では『一億総活躍時代』『オールジャパン』になぞらえれば、『一億総インテリ時代』としての現代ということになるのではないか。だから先に記したインテリと言う言葉自体を否定、黙殺している人の先見と叡智を思う。

死語でないなら一体どういう人たちを指すのか。私は人格者であることの有無が、すべてであると思う。人格に学歴も職域も、そして対価も関係がない。信をもって或る人がその人を信ずる直覚を持つか否かがすべてである。
人は一人の人格を持つが不完全である。だから結局のところ世人はすべてインテリなのである。ただ、その多少度の高低でより真に存在感を持った人格者となる、それがつまりインテリなのではないか。
そう考えれば、教師でも作家でも他の職域でも、インテリもいれば全く埒外の人もいる。
政治家に、私の知る限りとの限定ながら、今インテリはいないと思う。
昔はいたかどうか。石橋 湛山(1884~1973:第55代首相)の幾つかの論説を読んだ経験では、彼はインテリであったように思う。しかし病を得て、わずか在位2か月の短命であった。

首相は誰でもいいのである。周囲が御しやすい、扱いやすい党派人で権力指向の強い人を選べばいいのである。そもそも人格者は政治家を、観念的には目指しても現実的には目指さない。現政治家にも人格者はいるはずであろうが、私が知らないだけであろう。しかし、そういう人は表に出られないのが日本の政治世界のようにも思える。
現我が国首相はどうか。その内政と外交のあまりのほころびの酷さにもかかわらず在位期間が長いことが、上記を立証しているのではないか。そうさせたのは「あなたがた国民だ」との応えを想像して思う。
全国紙を批判した氏も、この表現を愛用している。

そのような人格者は、幼少時からその雰囲気を醸し出しているかどうかは、私の体験では「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」ほどには分からないが、あるように思う。
最初の勤務中高校はキリスト教主義の自由な校風を大切にする女子校で、とりわけ関西では、学校側の期待と理想とは別に大学進学校として名高く、毎朝、パイプオルガンの設けられた講堂で礼拝が持たれ、10分ほどの講話では卒業生も話者として招かれる。
私が奉職してさほど経っていないころ、世に言う或る有名(名門)大学に入学した卒業生が招かれた。
彼女の話の主点は「入試に関係のない科目の授業であれ、すべての授業、先生方の言葉(話)は、入試に際してどれほど有効であったかを実感した。」というものであり、それは“内職”に励み、予備校に頼り、進学がすべてのような考えの後輩が増えつつあることへの警鐘であった。
どれほどの在校生が、そのことに気づかされたかどうかは聞いていないが、私の中で今も鮮やかに残っている。その彼女の、授業中の凛然とした着席の姿勢とともに。その彼女はもう何年かで還暦を迎えるはずだ。

「名門校」と言う表現もよく使われるが、何をもって名門なのか、これまた多様と言うか曖昧である。しかし、先のような彼女が輩出する学校こそ名門校であろう。人格者を育むと言う意味において。
因みに、先の批判者は私が思う名門高校出身者である。「例外のない規則はない」。例外中の例外卒業生…。

政治は、社会を、教育を動かし、揺らす。
人格豊かな政治家が、大人が、つまり「インテリ」が、世に溢れることで、この非常にきわどい時期を迎え、疑問と不安ばかり山積しつつある日本を導き、次代を担う若者を叱咤して欲しいと思う。
その時、沖縄県人の大きな声は、時の経過とともに、いつものように上辺の声だけで消え去ることなく、日本の問題として、熱しやすく冷めやすい国民性の負の側面から離れて、確かな力になるはずである。

2019年3月1日

多余的話(2019年2月)   『空と風と星と詩』

井上 邦久

春の椿事が出来しました、という常套語からの書き出しです。
3月9日(土)、大阪女学院にて開催予定の大阪川口居留地研究会で報告することになりました。一年半前から居留地跡を中心に大阪市西部の福島・西・此花・港・大正の各区を歩いて来ました。その間、基本的な「居留地の歩き方」の心得や初心者コースを西口忠先生に教わってきました。その西口先生が事務局長を務める会の催しでの報告です。
アマチュアであることを先刻ご承知の監督からオールドルーキーがピンチヒッターに指名された感じです。辻久子女史なら競馬新聞の下馬評の文字数制限に随って簡潔に「未出走未勝利馬競走の員数合わせ」と表現されるでしょう。

個人的にはまさに椿事ですが、オッズは期待値の低い3桁以上なので入れ込む必要もないと判断し、ともかく限られた日数枠で簡潔に準備することにしました。
まず図書館でコピーしてもらった戦前の資料や偶然見つけた資料を取捨選択しました。コピーしたら読み終わった気分になり、頭には残っていないことは良くある話でして、専用ノートに筆記するのが基本であることを改めて反省し認識しています。そのような低次元のことですので椿事というには烏滸がましい報告でした。

開港後の大阪川口居留地から欧米系貿易商の多くや広東系買弁が神戸へ鞍替えした後にその跡地が基督教布教の橋頭堡になっています。その中の流れの一つに現在のプール学院の祖型があります。

イギリス聖公会系:永生女学校(18794番)→プール女学校(189012番)→東成区天王寺村勝山(1916/7)→聖泉高女(1940)→プール学院(1947~)
4番や12番とは、1868年の居留地26区画(後に10区画追加造成)の番号です。
1940年の聖泉高女への改称(英国人A.W.Poole主教にちなむカタカナの校名から漢字)は戦時下での「時代の要求・圧力・忖度」からでしょう。その聖泉高女時代の卒業生の一人に八千草薫さんがいます。

「今どき、二人に一人が癌になるのだから・・・」と言われても、癌になった者には何の慰めにも励ましにもなりませんでした。
八千草薫さんより70歳若い女子水泳選手が血液癌になったとの速報に、高校の同級生が「神様は・・・」と絶句したのが印象的でした。日頃、未来の都市計画やコミュニティについて歯切れのよい結論を出すことの多い人なので実に印象的でした。50歳代前半で骨髄ドナーの登録の戦力外通告をされたあとは賛助会員になっていること、移植可能なドナーと合致するケースが少ないこと、根本の問題として登録母数が少ないことを友人に話しました。
一過性に終わらせず骨髄ドナー登録や献血の活動が根付くことを祈ります。

2月22日、京都シネマで『空と風と星と詩』を観ました。
2016年に韓国で制作されたモノクロ映画の印象はとても深いものでした。立教大学英文科から同志社大学英文科に移るも卒業することが出来なかった尹東柱(創氏改名により平沼東柱)の短い一生(1917年12月30日、間島:現在の吉林省延辺朝鮮族自治区にて出生~1945年2月16日、福岡刑務所にて獄死)を描いた作品でした。祖父が村の基督教会長老を務める信仰の篤い一家に育ち、基督教系中学校に進学しています。
1944年2月22日、京都で従兄の宋夢奎とともに治安維持法違反容疑のため起訴されており、その取調べシーンを軸とした服役に至るまでの道程がカットバックの手法で説得力を生んでいました。

映画のタイトルとした詩集の題名を、詩的とは言えない表現をすると「故郷と家族と信仰と詩作」ではないかと感じました。
「言葉と文を失い、名前まで失った時代」にはこの四つを守り通すことは困難と葛藤を伴うものであったと考えます。
従兄は学徒動員を逆手に取って、軍隊内の反軍活動から武力独立運動への行動で葛藤を断ち切ろうとします。従兄は個人の尊厳や心情を大切にする尹東柱を理解し、愛情をもって運動や闘争から遠ざけます。そして、立教や同志社の関係者による協力で、尹東柱詩集を英文化して英国で出版する試みも発送直前に逮捕され挫折します。しかし、法的には整った形で作り上げた調書に自署を強要する取調官(どこか左翼運動からの転向者の匂い)の欺瞞と論理の矛盾を突きます、しかしそれを伝える言葉も日本語でした。

ここで、二人の詩人のことを添えます。
一人は、上海の朱實(瞿麦)老師(1926年9月30日~)。
昨秋「戦後初期の移動の軌跡」をテーマとした短文の準備をしました。
上海駐在時代からご本人に接してお聴きして知った1949年に台湾基隆港を脱出して天津港への移動、それに至る政治行動と高校時代からの文芸・音楽活動の軌跡をたどたどしく綴りました。

・・・一九三七年の中国語禁止と一九四六年の日本語禁止という台湾における苛酷な言語政策に象徴される「言語を跨ぐ世代」(孫芳明『新台湾文学史』)の一人として大戦直後の台湾文学の一翼を担った朱實青年の「勁草知疾風」の行動と表現の足跡を辿りました。

もう一人は、ユーリー・ジバゴ。
パステルナークの発禁小説が秘かにイタリアに持ち出されて翻訳出版、ノーベル文学賞を授与されるもソ連政府の圧力で「辞退」という今も繰り返されている事件の発端になった作品。
詩人の魂を持つ医師ユーリー・ジバゴがその小説の主人公でした。1965年、デビッド・リーン監督により『ドクトル・ジバゴ』は映画化され、1966年6月に日本で公開されています。2月25日にBSで放送され、1966年7月に山口県の映画館に何度も通ったことを思い出しました。
大阪の高校に転校して同級生が英語のペーパーバック版の小説(カポーティ『冷血』など)を鞄に入れているのに刺激されました。梅田旭屋書店(今のヒルトンホテル辺り?)を教えて貰い『ドクトル・ジバゴ』を買ったまま未読死蔵しています。主演のオマー・シャリフが心臓発作で逝去した新聞記事を見て、ジバゴと同じ死因だと思ったのは2015年でした。

尹東柱に戻ると、NHKディレクター時代の1995年「NHKスペシャル」でドキュメンタリー『空と風と星と詩―尹東柱・日本統治下の青春と死』を手掛け、その後も研究を重ねてきた多胡吉郎氏の文章の一節と良書の紹介に留めます。

・・・何もかもが「大日本帝国」の遂行する戦争に総動員され、朝鮮の文学者たちの少なからぬ人々が日本語での時局迎合的な作品に手をそめることになったこの時期、朝鮮語でのみ詩を書き続けた尹東柱は、韓国文学の暗黒期に燦然と輝くかけがえのない「民族詩人」として称揚される。

『生命の詩人・尹東柱『空と風と星と詩』誕生の秘蹟』(影書房)より
1919年から100年目の3月1日直前に、モノクロ映画と、詩人たちと、闘う人たちへの祈りを思いました。                     (了)

2019年2月24日

自由律俳句『咳をしてもひとり』 俳句再発見・再学習 最終回[一]~「自由」の心地よさ、為難さ~

井嶋 悠

束縛、制約があっての自由。束縛も制約もないところでは自由という言葉自体ありようがない。人間は2,3歳ころから束縛、制約を自覚し始め、歳を増すごとにその度数は上がり、自由に憧れ、自由を求め始め、悟得者以外多くの人は死で解放され自由を得る。しかし、その時本人が自覚したかどうかは、人類誕生以来誰も?知らない。

俳人尾崎 放(ほう)哉(さい)の代表句の一つ『咳をしてもひとり』が、高校の教科書に採り上げられていた時、説明に困った覚えがある。10代後半の生徒にどう得心まで持って行くのか。俳人の略歴を先に説明すれば、その先入観、知性と理性で句を味わうと言う本末転倒を思うから。もっとも、生徒自身の中で、自身の心を含めた諸状況、環境から、瞬時にこの句に移入した者もあったかもしれない。しかし、それを教室と言う場で自身から、或いは教師が言わせることは、私には辛く痛みの経験があり考えられない。

『古池や 蛙とびこむ 水の音』とか『菜の花や 月は東に 日は西に』とか『痩せ蛙 まけるな一茶 是に有り』なら、想像もいろいろでき、その想像を素にあれこれ問答し、私は10代の感性を愉しみながら、全体像に迫ることができるが、『咳をしてもひとり』はそうは行かない。
現職時代の私の授業に係る想像力無さを白状していると言われればそうで、私の心に強い響きで飛び込んで来たのがここ数年のことである。想像力は生の積み重ねの多少で変質、培養するのかもしれない。そこに放哉の生涯全体から想像できることを重ねると、到底私にはできない勝手な憧憬の意も込めて、共感する私が今居る。

ここで放哉の略歴を記す。
1885年 鳥取県生まれる
1909年 東大法学部卒業
高校は旧制一校で、卒業までの間で、夏目漱石の英語講義を聞き、傾倒する。また、後の俳句の師となる荻原 井泉水に出会う。(井泉水については、後で触れる)
1923年 大学卒業後、或る保険会社に就職し、後に別の保険会社に転職するも、1923年免職。妻去る。
1924年~1926年
自由律俳句への造詣を深める一方で、京都・神戸・福井・小豆島の寺男になるが、金の無心、酒癖の悪さ、東大出の誇示等、各地での評判は甚だ不評で、最後の小豆島で病死。享年41歳。

【備考】

放哉の歴史の中で、死の2年前、数か月の間だったようだが、社会奉仕団体『一燈園』(京都・山科)で修養を積んだことには心が動く。
一燈園は1904年に開かれた、己が懺悔をもって無所有奉仕の生を実践し学ぶ所で、現在も平和の願行の一環として、近隣の便所掃除奉仕を続けていると言う。この修養については、放哉が随筆『灯』の中で書いているが、自身が言う「大の淋しがりや」の彼としては、なかなか厳しい時間だったようだ。
尚、ここには小中高校もあり、一燈園の考えに共感する子ども[保護者]が在籍していることを初めて知り、元教師としても関心が向いた。

放哉のような俳句を「自由律俳句」と呼んでいる。「自由」な「律」の「俳句」。
律;①おきて ②一定の標準により測る ③音楽の調子、リズム

俳人であり俳句研究者でもある上田 都史(1906~1992)は、その著『自由律俳句とは何か』(1992年刊)の中で、こんなことを言っている。

「自由律を書くのではなく、自由律で俳句を書くのである。」と。

そして動物生存地境界線を応用して、数字的な面から俳句の規定を試みている。それによれば、17音を基準(標準)として12音から22音までを俳句としている。氏は放哉への傾倒者であったが、その基準に照らせば『咳をしてもひとり』は9音で、俳句として認めないと言う。
おもしろい俳句定義の試みではある。[あ・んとうなずく]なんか面白そうだが…。
もちろん季語や切れ字といった束縛も制約もない。

そもそも俳句とはいったい何なのかとこの年齢になってあらためて思う。5・7・5と17音並べれば、まずは俳句となるのか。川柳とはどう違うのか。俳句は元来俳諧と言われ、その諧謔性、風刺性において、両者はどう違うのか。考え始めたら際限ない。いつもの袋小路である。やはり先人の知恵を借りるのが一番だ。

俳句は、和歌(やまとうた)の一つの形連歌から派生し、短歌31音[みそひと文字]の前半部を独立させた詩である。と、考えれば先ず『古今和歌集』(905年)の仮名序に触れておきたい。

【その冒頭部分】(適当に漢字を交えた)

――やまとうたは、人の心をたねとして、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にあるひとことわざしげきものなれば、心におもふ事を、みるもの、きくものにつけて言ひ出だせるなり。花になくうぐひす、水すむ蛙(かはず)の声をきけば、いきとしいけるものいづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにかみ)をもあはれと思はせ、男(をとこ)女(をむな)のなかをも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。――

言う。自然の彩り、躍動を見て、歌心(ごころ)が芽生えない人などありようか。歌は天地に、霊界にそして人間界すべてに美と慈しみを奏でる、と。
歌を何も和歌や詩に限定する必要はない。歌を言葉と置き換えて何が問題だろう。或る西洋の詩人が、言っていた。「一語が人の喉をかっ切る」と。もちろん逆も絶えずある。「一語が愛を生みだす」。「ああ」否「あ」だけでも、一語で詩となることもある。
聴き手、読み手と話し手、書き手との想像力の対話が決める言葉の軽重。言葉の無限の力。
因みに、最も軽いのが政治家や官僚の、或いは一部のマスコミ人の垂れ流す言葉。
では重い言葉、心に突き刺さってくる言葉の共通性とは何だろう。

【蛇足補遺①】

以前投稿したオノマトペの世界、[onomatopoeia]に綴られたpoem・詩的世界。もっとも、人によってはその原初性から否定する人もあるが、私はそれには与しない。

とは言え、俳句が主題なのだから俳句に沿って、先の言葉[歌]を考えてみたい。
芭蕉と幼なじみで同じ伊賀藩に仕え、後に芭蕉を師として敬慕した服部 土(ど)芳(ほう)が著した、芭蕉が確立させた俳句[俳諧](蕉風)論『三(さん)冊子(ぞうし)』の冒頭から一部分を抄出する。

――それ俳諧といふこと始まりて、代々利口のみに戯れ、先達つひに誠を知らず。(中略)亡師芭蕉翁、この道に出でて三十余年、俳諧実(まこと)[実質の意・反対は虚名]を得たり。(中略)まことに代々久しく過ぎて、このとき俳諧に誠を得ること、天まさにこの人の腹[真の俳人の出現の意]を待てるなり。――

ここでは「まこと」が、三つの意味で使い分けられている。
一つは、真実の姿。一つは、実質としての名声。一つは、実にといった副詞用法。
では、その核である真実の姿の「誠」とは何なのか。

芭蕉44歳時、東海道・吉野・須磨・明石への旅をまとめた俳文紀行『笈(おい)の小文(こぶみ)』の冒頭から抄出する。

――(中略)西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道する物は一なり。しかも、風雅におけるもの、造化に随(したが)ひて四時を友とす。(中略)夷狄(いてき)を出で、鳥獣を離れて、造化に随ひ、造化に帰れ、となり――

最後の「造化に随ひ、造化に帰れ」の人の在るべき姿への警鐘とも言える言葉。命あるもの、自然一切、万物を創造した神への人としての謙譲の自覚。その時に生ずる全霊を傾けた己が言葉。それを受け止める他者。両者間に厳としてある誠。誠実。
近代俳人の言葉を借用する。

――(中略)言葉には表すことのできない感動を発する俳句に出会ふ。(中略)作者の人間全体を感じてしまふのである。それはまるで肉体的な衝撃さへあたへる。――(石田 波郷〈1913~1969〉)

しかし、それは俳句に限らない。先にも触れたように日々の生活の中で私たちは、この言葉の力をどれほどに痛感しているか、ことさら言うまでもないだろう。にもかかわらずなぜ俳句なのか。やはり俳人の言葉が必要だ。

――(中略)光の印象は稲妻のやうに刹那的に輝くものである。それを捉へるには短くして鋭い詩形でなければならぬ。力の印象は疾風のやうにとっさに発するものである。それを捉へるには緊張したる言葉と強いリズムとを以ってしなければならぬ。ここに於いて、私は俳句といふ詩形を選ばねばなくなる。印象の詩として存立する純なる芸術は俳句であると思ふ。――

こう言ったのは、自由律俳句での先駆的俳人であり尾崎 放哉や種田 山頭火らを育てた荻原 井泉水(せいせんすい)(1884~1976)である。

ここには自由であること、拠るべき定型がないこと、の清々しさと苦しさの両極で揺れる自由律俳人の姿が出ているように思える。
読み手である私(たち)は、その瞬間の言葉を受け止めなくてはならない。しかし、私にはそれが思うに任せない。年輪は重ねたにもかかわらず想像力はいや増すどころか狭小化しつつある、と言えばそれまでであるが、日本の「律」に染まりきっている私がいるのかもしれない。

5音、7音は古来日本人の無意識下での自然なリズム(生命感)であることは多くの人が認めるところである。幼稚園児でさえあの天使の指をたたみながら5・7・5と数え、例えば(交通)標語等を創り出す。
その音楽性と助詞[てにをは]の言葉日本語が組み合わさって、私たちを何か自ずととりあえずの段階かもしれないが理解の方向に導いたり、理解できたような錯覚に陥らされたりするようにも思える。

【蛇足補遺②】

この5音7音について、南太平洋[南アジア・ポリネシア地方]の、或る部族に同傾向がある旨のことを以前聞いて、日本の4つか5つのルートを経て到達した人々が培った「原文化」への関心に、わくわくした気持ちで想像を広げたことがある。

自由の難しさ。定型・規範の安心感。また「際」のもどかしさ、煩わしさ。
例えば帰国子女を[(小さな)国人]と呼称する大人たちと当事者の戸惑いにも通ずることとして。

この日本人ならではの?心の微妙な揺れと自由律俳句について、先の上田 都史は先に引用した同じ書の中で次のように述べている。

――心の表現に誠実でありたいと希うから五七五調十七音から離れるのでる。離れざるを得ないのである。心を第一義として心のおもむくままに書くから、その形式は定型を離れるのである。それが、自由律俳句である。――

私が、『咳をしてもひとり』に、かつてになかった感銘を受けた理由を、上記の先人たちの言葉に重ねた時、どうなのか。私は、放哉のぎりぎりの言葉、全人的言葉としての誠を、先の略歴を知れば知るほど、感じずにはおれない。酒と学歴矜持で人間(じんかん)を放棄し、憐れを拒否し、自己絶対心の虚栄に生きた人間の孤独。
私には到底為し得ないがゆえのある種の羨望にも似た感情も込めた共感からの、彼の孤愁。

私は、或る時期から「理解」との言葉の使用には慎重になっている。理知性の強さを思うからで、だからと言って、吟味、考究のない感性をすべてとも思わない。それは「分かる」との語でもそうである。
放哉の『咳をしてもひとり』は、受け手の私の全人性から得心できたのではないか、と今思っている。

 

2019年2月16日

雪 螢―俳句再発見・再学習― Ⅲ 小林 一茶

井嶋 悠

【よりかかる 度(たび)に冷(ひや)つく 柱哉(かな)】

この句は、一茶41歳の時の句である。怖ろしいほどまでに漂う孤独感、孤愁。前書きには「首を掻いて踟蹰(ちちゅう)す」とある。(踟蹰(ちちゅう)す、とはためらいがちに行きつ戻りつすること)
専門家の解説によれば、一茶は、当時、中国最古の詩集『詩経』(BC9世紀~7世紀)の俳訳の試みを始めていて、この前書きも『詩経』からとのこと。
今から33年前、私が41歳時にこの孤独感を言い表し得ただろうか。主情的感傷的には表現し得たかもしれないが、この冷徹なまでの孤独表現が生まれようはずもない。

一茶は、1763年、長野県柏原の貧しい家に生まれ、3歳で母は死に、15歳で江戸に奉公に出され、この後10年間は「動向不明」と略年譜にある。そして、25歳前後から俳句活動や旅の記録が残っている。
39歳で父が病没し、母の死後の継母との不仲等あって、これ以後、天涯孤独の身を自覚するようになる。上記の俳句は、その2年後の作である。

51歳で江戸生活を切り上げ、故郷柏原に定住し、65歳の死出の旅まで俳句生活を過ごすが、その間、父の遺産問題、三度の結婚等幾つもの苦悶、憂悶を背負う。
このあたりのことに関して、或る専門家は「その長い生涯は不遇と災厄の連続であったことが痛ましい」と記し、52歳から65歳終焉までの身辺を以下のように整理している。

・52歳  「きく」(28歳)と結婚
・54歳  長男誕生。しかし1か月後に死亡。
・56歳  長女誕生。
・57歳  長女死亡。
・58歳  次男誕生
・59歳  次男死亡。
・60歳  三男誕生。
・61歳  妻病死。三男死亡。
・62歳  「雪」(38歳)と再婚。3か月後に離婚。
・64歳  「やを」(32歳)と結婚。
・65歳  一茶死去。
・没後1年 次女誕生。

この人生後半期と先の句とはつながらないが、あたかも一茶の人生を暗示しているようでもある。
このような生が、一茶の心根を育むに及んだ影は想像に難くない。或る“屈折”にも似た心根。

一茶との号が出始めたころ、27歳前後の句が残っている。

【今迄は 踏まれて居たに 花野かな】

人間と言う動物は不思議で勝手な生きものである。
孤独を愛するかと思えば集団を愛する。そうかと思えば、孤独を忌避するかと思えば集団を忌避する。
そう言う私は、私なりの生々流転がそうさせたのだろうが、確実に孤独に重点が移っている、と感じている。そう、まだ感じている段階とはいえ、人間は孤独であることを確(しか)と自身の言葉で言えつつある。
その証しなのだろう、以前に増して動物や草花、樹々への愛(かな)しみ度が強くなりつつある。しかし、ここでストレスと癒しとの現代多用語彙を持ち出すつもりは毛頭ない。それどころか、いとも安易にそれら語に収斂する世相に嫌悪感、拒否感さえ持っている。と同時に、精神論、根性論を持ち出すのは、先の用語以上に思いもよらない。

【我と来て 遊べや親の ない雀】

周知された句の一つだ。一茶、57歳時に発刊された句文集『おらが春』に収められている、自身の幼少時を顧みての作とのこと。
この句の前書きがまたいい。切々としてこの句を引き立てている。少々長いが引用する。

――親のない子はどこでも知れる。爪をくはえて門(かど)に立つ、と子どもらに唄はるるも心細く、大かたの人交りもせずして、うらの畠に木(き)萱(かや)など積みたる片陰にかがまりて、長の日をくらしぬ。我が身ながらも哀れ也けり。――

親の死はやるせない。私の場合も、幾つかの複雑な要因が絡み合っているとは言え、また世に決して少なくないこととは言え、切なさが沸き起こる。一茶は、父と母への思いを次のような句で残している。

【馬の子の 故郷はなるる 秋の雨】
(一茶は15歳で江戸に奉公として出された)

【露じもや 丘の雀も ちゝとよぶ】(父は、一茶39歳の時に病没)

【亡き母や 海見る度に 見る度に】(母は、一茶3歳の時に病没)

 

孤独は自己への、他者への慈しみ、優しさを滲み出す。私自身は、まだまだそこに達し得ていないが、一茶は数十年の日々によって、自然に17音に編み出している。一茶自身が崇拝する芭蕉や、また蕪村とは違った形で自身の言葉を紡いでいる。前回借用した、芭蕉の「道」、蕪村の「芸」そして一茶の「生」である。

まるで少年のような慕情について、或る研究者の一節を紹介し、小動物への一茶の慈愛、慈悲の心が、映じている、或いは己を投影している、幾つかの句を挙げ、それらの句に私的寸評を加え、『私的俳句再発見・再学習―一茶編―』の駄文を終わりたい。句の後の《  》が私的寸評。

研究者の一節。
――世路の艱(かん)苦(く)に泥まみれになりながらも、一茶の魂の原郷に璞(あらたま)のような素(そ)醇(じゅん)な光彩が宿っていたのだろうか。――(栗山 理一『鑑賞 日本古典文学』)

初めに、一茶58歳の時の、自身を蛍に託して投影した句を引く。

【孤(みなしご)の 我は光らぬ 螢かな】

《孤をみなしごと詠ませ、蛍のはかない生と幻想的な美しさを自己に投射し、己が人生を顧みる一茶。》

【行水の 音聞きすます とんぼ哉】

《とんぼのあの眼を思い浮かべるとますます溢れる慈しみ、優しさ。鳩の歩く後ろ姿を思索家に見た詩を想い出す。》

【夕月や 流れ残りの きりぎりす】

《洪水の後の風景を詠った句とのこと。生の厳粛、非情に思い及ぶ。その意味では「イソップ童話」とも相通ずる?》

【草陰に ぶつくさぬかす 蛙(かはづ)哉】

《芭蕉の句を知っているだけに、より蛙への親愛感が伝わって来る。》

【鳴け鶉(うずら) 邪魔なら庵(いほ)も たたむべき】

《一茶の貧しさと苦しみの中での隠遁的生活にもかかわらずこぼれ落ちる心のゆとり、優しさ》

【花さくや 目を縫はれたる 鳥の鳴く】

《この句については注釈が必要だろう。当時、雁や鴨は貴人の酒食を喜ばすために、床下で飼うことで首の長さを抑えたり、眼を縫いつぶして意図的に肥え太らせるためにする職業があったとのこと。一茶は、前書きで、当然その哀れと憤りを表わしている。それがゆえに「花さくや」の言葉が、痛烈に響く。

【螢火や 蛙もちらと 口を明く】

《専門家は「機智や戯画化が先走って、印象は浅く横すべりしてしまう」と酷評しているが、鳥獣戯画を持ち出すまでもなく、やはりこのような俳句は、俳句の“風流(美)”がないということなのだろうか。

【夕不二に 尻を並べて なく蛙】

《この場合、専門家は「小を大に、大を小にという極端な価値の顛倒が対照されることによって、ユーモラスな一茶世界が描き出されてくる、いわば、不調和な対照のもたらす意外性に俳諧の諧謔味も生まれる」と評価している。そして葛飾 北斎の『富嶽三十六景』をも引き合いに出している。
俳句の或いは作品創作の技法に未熟な私としては、なるほどとしか言いようがない。》

【かたつぶり そろそろ登れ 富士の山】

《上記『螢火や』同様、これも専門家から断じられている句であるが、この慈愛の眼差しが良いと思うのだが。》

【春雨や 喰はれ残りの 鴨が鳴く】

《先の『花さくや』と或る共通性がある句でもあり、やはり専門家の注釈が必要だろう。鴨は渡り鳥であるにもかかわらず春の今も居るということは、仲間と飛んで行けない理由がある。怪我(例えば、銃で羽を打たれたとか)や病気なのかもしれない。それらの多くは人為性が高いかもしれない。それを一茶は「喰はれのこり」と表わしたところに、私は皮肉溢れる慈愛を想う。》

【痩せ蛙 まけるな一茶 是に有り】

《日本美術史に異色の輝きを遺す平安時代末期から室町時代にかけて完成した『鳥獣戯画』。鳥羽僧正の作と言われているが、何人かの僧侶の手によって創られたとのこと。動物などに託して、世相を憂いつつ、ときには慈愛の眼差しで身近な動物たちを活写している。一茶も知っていて、己が人生をその僧の一人に託したのだろう、と想像すると愉しい。専門家は全く別の鑑賞[性闘争としての蛙合戦と50歳過ぎるまで独身であった一茶]をしているが…。》

【秋の蝉 つくつく寒し 寒しとな】

《私たちは、つくつくぼうしの声を聴くと、ああ夏も終わりだとの感慨を持つが、一茶のような苦労人からすれば、自身が蝉になっての別の感慨に思い及ぶ。》

まとめて三句。

【寝返りを するぞそこのけ きりぎりす】

【うしろから ふいと巧者な 藪(やぶ)蚊(か)哉】

【やれ打つな 蠅が手をすり 足をする】

苦労に苦労を重ねた人は優しく、驕らず、自然な笑みを内に絶やさない。

一茶に【蓮の花 虱を捨つる ばかり也】という句がある。29歳ころの作である。前書きがある。

「我がたぐひは、目ありて狗(いぬ)にひとしく、耳ありて馬のごとく、初雪のおもしろき日も、悪いものが降るとて謗り、時(ほと)鳥(とぎす)のいさぎよき夜も、かしましく鳴くとて憎み、月につけ、花につけ、ただ徒(いたずら)に寝ころぶのみ。是あたら景色の罪人ともいふべし。」と。

貧困や家庭等環境また人生で辛苦を重ねた人故のひがみ、屈折した自身を見る表れと取るのか、それとも29歳にして謙虚さをすでにどこかに持っている“はにかみ屋”と見るのか、私は、とりわけ年々“人不信”が増して来ているとはいえ、両方の要素を思いつつも後者が勝っていると思いたい。
これは、年少時に辛酸を経た人の中で時折見受けられる、自身の過去から他者の痛み、哀しみを慮(おもんばか)ることなく、いわば逆に権威指向、自己絶対正義性になっている人とも会ったり、知ったりする中で得た、自省からの思いである。

2019年2月8日

イギリスとアメリカと、そして日本 (二)

井嶋 悠

今回、教師になって以降出会った英語圏教師や保護者、帰国子女等から刻まれた幾つかの印象を基に、イギリスとアメリカについて思い巡らせ、私的に、現在と次代の日本の在りように思い到ってみたい。
英語圏と言っても、イギリスとアメリカ、更にはオーストラリアやカナダ等では、語法や発音、使用者の背景に在る意識も違うようだが、中高校での半世紀以上前の“典型的”公立学校英語しか経験がない私なので、大雑把に英語と表現する。
それに関する映画鑑賞経験を一つ。
アメリカの劇作家ニール・サイモン(1927~2018)の『おかしな二人』の映画化(1968年公開、ウオルター・マッソー、ジャック・レモン主演)を観た時、二人がイギリス人女性二人と会話する場面で、両者の英語の違いが、痛烈な皮肉を込めて際立って表わされていた、ように思う。ここにはアメリカから見たイギリスがあるのだろう。

また、イギリス・アメリカと言っても、どの地域を主眼に思い描いているのかでも変わるかとも思う。
イギリスの場合、連邦の四つの地域でイングランド及びスコットランドからのイギリスが、アメリカの場合、東部的要素も加えた西部地域のアメリカの印象が、幾つかの作品、幾人かのとの出会いから私には強いように思える。
ただ、極私的には、或る本に書いてあったアメリカ中部にあって、一年中ビーチサンダルで過ごす若者の話や、仕事で訪ねた或る日本人から聞いたこととして、太平洋戦争を全く知らず過ごしていた老人の話などに、広大なアメリカを感じ、いささか憧れたりもする。

尚、私が直接に訪ねた都市は、校務出張[帰国子女対象の学校説明会、日本人学校訪問、日本の塾への挨拶及び海外入試実施]での、それぞれ多くて2,3日の限られた滞在ではあるが、以下である。(都市によっては複数回訪問)

《イギリス》 ロンドン・カーディフ
《アメリカ》 ニューヨーク・デトロイト・ロスアンジェルス・サンフランシスコ・ヒューストン

それでも、空港で、ホテルで、駅で、街で、どことはなしに違いを感じたりはするが、所詮皮相的一面的である。やはり子どもであれ、大人であれ、生活を持ち得た人からの印象には確かさがある。

今回、結論を先に記し、それへの過程を幾つかの私的体験例から検証してみたい。
結論は、心底にあると想像される、イギリスの「静」の文化とアメリカの「動」の文化の確認が、戦後これほどまでにアメリカ化(ナイズ)している現代日本に必要なことであり、そのことが日本を顧みる重要な契機になる、という視点である。
例えば、諺「転がる石に苔むさず」は、英語で[A rolling stone gathers no moss]であるが、英米では解釈が正反対で、イギリスは日本と同様で、そもそもアメリカには苔への美意識はないとのこと。しかし、今日本でアメリカ的解釈が増えているのではないか。[転職のすすめ]情報が示す情況とは?或いは[あくなき挑戦][上昇志向]のイギリス的意味とアメリカ的意味そして日本的意味は同じなのかどうか。

「静」と「動」の意味内容を、事の善し悪しとは関係なく、簡単に確認しておきたい。
【静と聞いて連想される幾つかの、インターネット情報も参考に、浮かんだ言葉群】

しとやか・もの静か・穏和・穏やか・不動・静謐・無言(無口)・アポロン的・女性化

【動と聞いて連想される幾つかの、インターネット情報も参考に、浮かんだ言葉群】

快活な・挑戦的な・精力的・強気・攻撃的な・ディオニュソス的・男性化・饒舌・可変

一応、各々9語にしたが、「動」の方は非常に多くある。いかに動が、生にとって、否、現代にとって?優先されているかということなのだろう…。

私にとって最後の職場(日本私学校とインターナショナルスクール[略称:IS]の協働校)の10年間で出会った、後者側の学校で英・米人の各3人(女性1人、男性2人)の教師・保護者。
6人とも魅力あふれる人格を持つ人たちで、私自身交流が深かった人たちである。
彼ら彼女らを、上記語群と重ねると不思議なほどに、見事合致している。イギリスの静・アメリカの動。
上記にない言葉を付け加えれば、イギリス人のはにかみ(シャイ)。

アメリカ人の非常に興味深かった例を一つ挙げる。中堅男性教員の例である。
彼は同僚から典型的アメリカ人と親しみをもって言われ、国際バカロレア[略称:IBという欧米の教育制度の一つで、ここ10年程、日本でも注目されている]の、勤務校での責任者もしていた人物だった。
インター校教師の多くが世界を移動し、最後に祖国に戻るように、彼も在職数年してアジアの他のIS(その国で最も大きなIS)に異動し、日本に戻って来た時のことである。曰く、
「アメリカ人の世界は疲れる。会議でも、僕が、私が、と自己の考え、実績を主張、誇示する。それに引き替え、日本は静かでいい。」と。
彼は、日本人女性と家庭を持つことを夢みていたが、どうなっただろう?

私が在職中、ISでは校長も数年もすれば異動して行くが、或る期の校長は女性アメリカ人で、先の言葉群とは違って非常に温厚、穏和な方だった。そして夫のアメリカ人教師は、実に挑戦的で饒舌だった。日本在職期間中に離婚し、彼女はアメリカに戻り、彼はヨーロッパのISに異動した。

一方で、イギリス人女性教師は「初めて日本に来たが、日本はアメリカのようににぎやかだ」と驚いていた。

ここで、ロンドンで直接見た同じ日本人として憤りすら覚える或る男性のことを。
その人物は教育関係者で、一つの領域では名を知られ、私自身も知っている、イギリスを讃美している人物(男性)である。
逗留先のホテルのフロントでの一幕。ニューヨークヤンキースの帽子をかぶり、ひどくくだけた、時には優越的な様子でフロントスタッフと会話をしていた。パスポートで日本人であることを承知していたはずのスタッフはどう思っただろう?

かつてイギリスは、七つの海、全世界を支配する大英帝国と言われ、正に動の国として君臨していたが、今では過去の言葉であり、今日「連合王国」として、その王たるエリザベス2世は、国内はもちろん、世界中から敬愛され、かの故ダイアナ妃の死を悼んだ人は世界中に広がっている。
賛否いろいろな考えがあろうかと思うし、私自身浅学故誤解を招く言い方になるとは思うが、同じ植民地支配でも、被支配者への対応で、日本と英国では違いがあった旨、聞いたことがある。
大雑把なとらえ方だが、この発言が仮に当たらずとも遠からずならば、状況は違うとはいえ、香港の知人が言った「これでは、イギリス統治時代の方が良かった」との言葉に真実味を感ずる。尚、その知人は自身を中国人とは言わず、明らかに敢えて香港人と言っていた50歳前後の人物である。
ここには、動より静のイギリスに想いを馳せる私がいる。

このことは私の好きな音楽ともつながり、重なって来る。
例えば、ポピュラー音楽としても頻(しき)りに歌われる『アメージング・グレース』[Amazing Graceすばらしき恩寵の意]。この曲は、作曲者は不明だそうだが、作詞者は、18世紀後半のイギリス人で、初めは奴隷貿易に携わっていたが、後改心し、牧師となったジョン・ニュートンで、今日では代表的讃美歌となっている。
もう一つの例、クラッシック音楽。私はヘンデルの幾つかの曲をこよなく愛で続けていて、その大半はアダージオやラールゴの部分である。そのヘンデルはドイツ人で、同じドイツ人のバッハ共々イギリス宮廷に招かれ活躍し、後にイギリスに帰化したとのこと。

60年以上も前の小学校時代の音楽室に掲示してあった何人かの作曲家の肖像画。バッハは音楽の父とあり、ヘンデルは音楽の母とあった。
父性と母性の原理的なことで言えば、やはりアメリカは前者で、象徴的人物を挙げればジョン・ウエイン、一方イギリスは後者でエリザベス女王、と言えばあまりに偏り過ぎか・・・。
これは、クラッシクを本業とするオーケストラが、ポピュラー音楽を演奏する場合、編曲方法や演奏形態にあって、イギリスのロイアル・フィルハーモニーとアメリカのボストン交響楽団の[ボストン・ポップス]とでは、やはり前者の静、後者の動を感ずる。

高校で学ぶ「小論文」。
書き方として、序論―本論―結論、或いは漢詩からの応用、起承転結といった大枠を話した後、結論を先に述べその結論を立証する[演繹法]と、序はあくまでも序(前書き)で、そこから立証を進めて行く[帰納法]について、それぞれの一長一短を含め説明するのだが、読む側聞く側からすれば、前者にはディオニュソス的挑戦性を思い、後者にはアポロン的穏和性が漂う。
或るアメリカ現地校からの帰国高校生(女子)の言葉。「教室では決死的覚悟で発言し(英語力と言った問題ではなく)、自身の存在を教師、他の生徒に示していたが、日本に帰って来てどれほどほっとしたことか。」
その日本で、今優位的に教授されるのは演繹法ではないだろうか。自己PR[自己推薦]。プレゼンテーション等々において。
先の“典型的アメリカ人”と言われていた男性教師は、これをどう受け止めるのだろうか。

今年、ラグビーのワールドカップが日本で開催される。4年前、名将エディ・ジョーンズ氏(母は日系アメリカ人)コーチに率いられた統制のとれた素晴らしき野武士軍団日本が、強豪南アフリカに逆転勝ちしたこともあって、にわかファンも含め、楽しみにしている人が多い。
そのラグビー・フットボール。発祥の地はイギリス。それも[パブリックスクール]の名門校の一つラグビー校と言われている。
格闘技的要素の強いスポーツで、円錐形のボールを後ろへ後ろへと展開しながら、キックを交え15人全員が攻撃と防御を繰り広げ、芝生の上を疾走する。試合が終われば、選手たちは互いに讃え合い、ノーサイドとなる。
将来イギリス社会を担う若者たち[gentleman/lady(gentlewoman)]を養成することを目的とした、上流階級や裕福な家庭の子弟子女への規律厳しい中等教育学校パブリックスクール。
いかにも貴族たちが考え出しそうな競技と思えないか。

一方、アメリカでは、アメリカン・フットボール。 1試合で出場できる46人の防具で身を固めた選手が、基本的には攻撃と防御の役割分担の中でひたすら前へ前へと激しくぶつかり合いながら展開する。因みに日本語では鎧球(がいきゅう)(鎧(よろい))。
両方とも、同様に激しい動の競技ではあるのだが、ラグビーの方にどこか静的な要素、自然性を想い、アメリカンの方にいかにもアメリカ的動、現代的人為性を想うのは、やはりこれまたあまりに牽強付会か…。そうとも思えないが。

こうして限られた中ではあるが、イギリスとアメリカを私的体験から見て来た。
では、現代の日本はどうなのだろうか。
今、社会に、個人にダイナミズムを直覚している人は少数派だと断定的にさえ思える。停滞観、閉塞観、麻痺観・・・。それらに苛(さいな)まれ、苛立っている人々。老若を問わず。極度の清潔志向と退廃の混在。
日々見聞きすることがないほどに使われ、様々な問題原因をそこに収斂させるかのような言葉「ストレス」とその対応語「癒し」。それがためにこれらの語を敢えて意識的に使わない人も増えている。
身体と精神を厳しく鍛え、確かな成果を見出した或る競技選手が、今したいことは?とのインタビューに、しみじみと応えていた。
「静かな場所で独り過ごしたい」と。共感同意する人は多いのではないか。

井嶋家の菩提寺は曹洞宗である。その祖道元は「只管打座」を言った。ただただひたすら座禅し、心を一つに無念無想を目指せよ、と。
平成がもう直ぐ終わる。現天皇は日本の曲がり角を、その直覚から身をもって示されたようにも思える。
英語英語英語・・・国際国際国際・・・も結構だが、このままでは教育において、福祉において、男女協働において等々、いつまでも後進国のままで、徒労感と空虚感が溜まるだけではないのか。

日本が疲弊重篤、疲労骨折する前に、英語と国際の主人公、イギリスとアメリカを見つめ直すことは、日本を映し出す鏡となり、次代につながるように思うのだが、どうだろうか。
更に加えれば、そこからオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、はたまたアフリカの独立国等々の英語圏の行き[生き]様(よう)も視えて来るかもしれない。
複数のもの・ことから調和と創造を図って行く伝統は日本の美点【和】ではないか。高世代だけの感想かもしれないが、今日本を覆っている軽佻浮薄に休止符を打つ時機と思えてしかたがない。

老子は言っている。
「足ることを知れば辱(はずかし)めあらず、止(とど)まることを知れば危うからず。以って長久なる可(べ)し。」と。

2019年1月31日

多余的話     『隔世の感』  (2019年1月)

井上 邦久

昨年末から冬眠をしていました。
犬が歩かないとどうなるのか?大学生の登山競走や橄欖球遊び(ラグビー)のテレビ観戦もほどほどにして部屋に籠りました。結果は「小人閑居して不善は為さず、また善も為さず」でありました。

万歩計が微動だにしない日もあるなかで、恩師の足跡を辿りながら、1925年頃の天津の進取的な初等教育や1935年頃の青島を支配した政治権力の移動を想像し、1945年前後の東京における中国人留学生(旧満州帝国系、モンゴル徳王系、汪兆銘南京政府系そして台湾からの旧内地進学系など)の動きの一端を知ることができました。
また、1967年のNHKテレビ中国語講座の立ち上げ経緯や日中国交正常化(1972年)前後の「中国語学習運動」を記録した資料を参考にして当時の事象を反芻しました。
「中国語を学ぶ事は闘うことだ」「君はなぜ中国語を学ぼうとするのか」といったことを問われる、まさに「運動」の季節から半世紀、まさに隔世の感があります。

政治と歴史の背景を調べながら恩師の足跡を綴りましたが、素人の思い込みや消化しないままの事柄を羅列しただけの拙文で終わりました。「不善」ではないけど、「拙」であり、「善」とは言えない所以です。
閉門蟄居の間にも興味深い記事や資料を届けて貰いました。お蔭で体は停滞していても、意識は遠い時空を駆け巡ることができました。
上海の信頼するパートナーから、1月3日の浙江省企業家フォーラムでの馬雲(アリババ董事局主席)の写真と発言抜粋記事が届きました。先ず精彩にかける写真が印象的で、同席していたパートナーも「こんな元気のない馬さんは見た事がない」とコメントをしています。
タイトルは「トランプを変えようと想うな、汝自らを改めよ」。
発言の要点をまとめると、
①中米貿易の発展に矛盾が生じるのは当たり前、矛盾がない方が不正常
②発展のスローダウンは悪い事ではなく、心地よいものである
③ご自分の企業を少し小さくし、少しスローダウンし、少し愉しくやるだけのことだ

上海のパートナーとは従来から「国」と「民」の関係について話し合っており(コインの裏表か?接着剤での貼り合わせか?溶融合金化されているか?)トップランナーとしての馬雲氏のことは常に話題にしていました。年初早々にこの記事を送ってくれた意図は十分に伝わりました。
昨年11月26日、日経新聞大阪で開かれた「深圳スピードとは何か?」と題するフォーラムで記録した、劉仁辰・深圳清華大学研究院副院長のハーフシリアス的な発言「日本の『慢』に学んでいる」というコメントを思い出しました。
鄧小平が初来日の折、新幹線の「スピード:『快』」に背中を押されている気がした、という正直なコメントから半世紀、『慢』と『快』が交差した両国でした。

環日本海経済研究所名誉研究員の辻久子さんから、「ロシアNIS調査月報」に連載されている玉稿を届けていただきました。
『ヤマルLNGに湧く北極海航路』と題した最新情報です。北極海に面したヤマル半島(北方遊牧民族のネネツ族の言葉で、ヤマルとは「世界の果て」の謂いのようです)。そこに多く分布する大型ガス田を開発し、LNGとして北極海航路を利用して輸出することを念頭に置いたプロジェクトである、と簡潔に説明されています。
事業会社の株主構成比率は、NOVATEK(露:50.1%)、トタル(仏:20%)、CNPC(中:20%)、シルクロード基金(中:9.9%)とあります。発電所やプラントの建設には日揮や千代田化工が加わり、砕氷船は韓国の大宇造船海洋社が建造。輸送サービスには商船三井やCOSCO(中国)が参画しているとのこと。
東航路はベーリング海を通ってアジア消費地へ、西航路は砕氷船を利用してベルギー経由で運ぶ構想。
初歩的な理解では、ロシアの資源に中国の資金・日本の建設物流ノウハウ・韓国の造船力が「荷担」(「加担」)している構図が見えてきます。

偶然ながら、清水稔先生(元佛教大学副学長)による近代中国史講座の初講義のテーマが「ロシアの南下政策」であり、当然ながら「不凍港」確保のための南下政策について詳しく教わりました。辻女史の今日的な「ロシアの北上政策」の報告と考察を拝読して、ここでも隔世の感を覚えました。

続いて、網走市からの3枚目の年賀状と『Arctic Circle』(北海道北方民族博物館友の会・機関誌)109号が届きました。
御縁のある網走には度々訪れ、お世話になっています。また高級魚の養殖用飼料の買い付けの為、真冬のハバロフスク経由でカムチャッカ半島に行ったことがあります。しかし、更に北の大地や漁場(猟場)にはなかなか行けません。
そこで北島三郎や細川たかしの唄を口ずさみながら、機関誌に掲載された北方民族の様々な写真やレポートを眺めて、北緯45度(稚内市)以北の各地(ヤマル半島は北緯72度)を思う事になります。
以前に北極海航路のことも報告されていましたが、今号の特集は「変わりゆく北極-環境・経済・社会 第3回」でした。
表紙には戸川覚さん(動物文学の戸川幸夫の孫)が知床羅臼町から撮影した国後島の作品に「羅臼町からわずか25キロの距離にあり、沖縄本島よりも面積が大きいことを知るものは今も少ない」という添え文がありました。

1月9日付の歴史作家のコラムを届けて貰いました。
能登半島沖の海上でトラブルを起こした韓国海軍駆逐艦「クァンゲト・デワン」、その艦名が高句麗の「広開土大王」に由来することから、北の強国で南への圧迫を加え倭軍とも交戦した高句麗と現在の北朝鮮を絡めた蘊蓄文章でした。
このことを韓国海軍との折衝体験が豊富な方に訊くと、この駆逐艦命名は北寄りの政策を採った金泳三大統領によるもので、軍部には非常に大きな不満があった、同様の不満が現在の政権にも向けられているとのこと。背景には様々な要因があるようです。

広開土王(クァンゲト・デワン)に触発されて、「ファーウェイ」というカタカナ表示について一言補足します。
正式社名は華為技術有限公司(Huawei technologies Co.,Ltd.)であり、中華の為にという元軍人の創業者の思いが籠っているはずです。カタカナ表記をせず華為技術(HUAWEI)と表示しているニュースレターを発信する京都大学東アジアセンターの見識に敬服しています。
韓国駆逐艦の名前も「広開土王(クァンゲト・デワン)号」と報道されていたら、もう少し意識や想像の幅が広がっていたと思います。多余的話(言わずもがなの話)でした。

七草粥で温まった頃から食材の買出しを再開、京都のボランティア作業場(「壬生の屯所」と自称)にも初出して、初場所初日の13日の住吉連句会から本格始動し、その夜は飲酒を解禁しました。
その初日から稀勢の里は三敗(惨敗)。弱い下半身を上半身の力でカバーしてきた取り口のツケが回った無残さを感じました。
稽古の基本である四股の大切さを改めて感じて、稀勢の里引退の日から四股を踏み始めました。青島駐在時代にテニス場で四股を踏み続けて顰蹙を買って以来のことです。
正しい重心の掛け方で、ゆっくりと四股を踏むのはとても難しいのですが、地鎮の祈りも込めて、保健体育の課目に加えています。(了)

2019年1月24日

雪 螢―俳句再発見・再学習―Ⅱ 与謝 蕪村

井嶋 悠

雪螢」との出会いが、教師時代の昔を顧み、幾つかの俳句“授業”の、今の齢での私的再学習を試みることで、明日の私につなげられたらと思い、Ⅰで、松尾 芭蕉を採り上げた。
続いて、与謝 蕪村、小林 一茶、更には自由律俳句を採り上げて行くことにする。

専門家からすれば、芭蕉・蕪村・一茶と並べるなど呆然唖然苦笑失笑以外何ものでもないだろうが、そこは素人(中高校国語科教師とは言え、主は現代文で、古典〔古文・漢文〕は従であった)の、怖れを知らない暴挙。かてて加えて、それぞれ限られた俳句の中からの採り出し。
そのような限りなき不節制にあってのことながら、蕪村の俳句は私にとって難しく、直感的に飛び込んで来る句は非常に限られている。芭蕉の『石山の石より白し秋の風』のように、初めて蕪村を知った際、直覚的に心に入ったのは、『春の海 終日のたり のたり哉』くらいである。

どうしてなのだろうか。単に鑑賞力不足で片づけるのはいささか口惜しい。そこで『徒然草』曰く、「少しの事にも先達はあらまほしき事なり」で、先人の鑑賞を芭蕉の時とは少し違う形で参考にして、蕪村の句を鑑賞し直すことにした。

早々に釘付けにされた、或る専門家の論考『芭蕉・蕪村・一茶』の中の次の表現。

――(三者の作品を)各一字によって暗示するとすれば、芭蕉は「道」、蕪村は「芸」、一茶は「生」であろうか。――

求道者としての芭蕉、生活者としての一茶に比べ、「芸」の意味の多様性。技芸の芸、芸術の芸。蕪村が難しいはずだ、と勝手に納得する。

創作者は、見たり、聞いたり、触れたり等で得た直感を研ぎ澄まし、想像力でその直感を広げ、深め、それぞれの技術を駆使し作品を編み出すわけだが、蕪村の場合、他の俳人とは違うことに気づかされる。
蕪村が人を、自然を見るとき、先ず画人(美術)の彼があって、その次に俳人(文学)の彼がいるのではないか、或いは時に両者が同時に機能しているのではないか、と。
そう考えて、5・7・5の凝縮されたそれぞれを一枚の絵として思い描き、それを統合することで情感を読み取れるのではないか、と思い、幾つかの俳句を再鑑賞すると見えて来るものがある。

そこには明らかに、それまでとは或いは古今一般的印象(イメージ)として私たちの中に焼き付けられている、“わび”や“さび”、はたまた“枯淡の境(きょう)”と違ったものがある。
それは何か。何に起因するのか。やはり先ず画人としての蕪村の眼があるからではないか。
その蕪村の絵心は、江戸時代、池(いけの) 大雅(たいが)と共に完成させた老荘や禅を背景とする水墨画につながるが、しかし墨の濃淡だけでなく、淡彩画的要素をも持つ『南(宋)画』である。

そのあたりのことを、近代の詩人・萩原 朔太郎は、その論考『郷愁の詩人与謝蕪村』の中で、次のように記している。

――蕪村の句の特異性は、色彩の調子が明るく、絵具が生生(なまなま)して居り、光が強烈であることである。(中略)特殊な俳句心境を全く理解しない人、そして単に、近代の抒情詩や美術しか知らない若い人たちでも、かうした蕪村の俳句だけは、思ふに容易に理解することができるだろう。(中略)一言にして言へば、蕪村の俳句は「若い」のである。丁度萬葉集の和歌が、古来日本人の詩歌の中でも最も「若い」情操の表現であったやうに、蕪村の俳句がまた、近世の日本に於ける最も若い、一の例外的なポエジイだった。そしてこの場合に「若い」と言ふのは、人間の詩情に本質してゐる。一の本然的な、浪漫的な、自由主義的な情感的青春性を指してゐるのである。――

我が意を得たり、とにんまりする私がいると同時に、いつしか固定観念に染め込まれた老いの固陋(ころう)性に寄り掛かっていることに気づかされる。

萩原 朔太郎は、上記論説に際し六句挙げているが、内二句と私が絵画性を想った幾つかの句を挙げ、私的鑑賞を記す。

【萩原 朔太郎の引用句から】

○陽炎や 名も知らぬ虫の 白き飛ぶ

私の俳句再学習のきっかけとなった雪螢とは季節が違うが[陽炎・春の季語]、春の或いは新暦夏の光を受けてゆるやかに立ち上る陽炎と白い虫の飛行の組み合わせは、淡彩画の叙情を思い起こさせる。私は勝手に白い虫をモンシロチョウの純白の輝きとして、あの和紙が持つ純白さを活かした線と余白の美を思い描いている。

○愁ひつつ 岡に登れば 花茨

蕪村には「花いばら 故郷の路に 似たる哉」との句があり、解説では中国の陶淵明の詩を心に留めての句作旨書かれてあり、この季語「花茨・夏」は俳人に多く取り上げられた由。
晴れた夏の碧空の下、白い花をいっぱいにつけた花茨の横にたたずむ人。郷愁が滲み出ている後ろ姿を描いた自然の中の花と人の油彩画の雰囲気が浮かぶ。

【私が絵画的と直覚した幾つかの句】

○柳ちり 清水かれ石 ところどころ (季語「柳ちる」・秋)

私の美術鑑賞経験は甚だ狭小で、しかも多くは画集体験であり、絵画的と言うこと自体に蔑(ないがしろ)さがあるのだが続ける。
20代の折、イタリア人現代画家ジョルジュ・デ・キリコ(1888~1978)20代中頃の、幾つかの作品に衝撃を受けたことがある。作品『出発の苦悩』『イタリア広場』『占い師の報酬』の、ギリシャかイタリアの古代?建築をモチーフに、真夏の午後の沈黙、静寂(しじま)を感じさせる、光と影の形而上的絵画で、その乾いた画面に妙に惹きこまれた。
この句は、秋の寂寥を、それも感傷でなく詠っているように思える。散った柳、かれた清水、そこに露わに石が幾つかある、この組み合わせが、秋の清澄な大気の中での寂寥を生み出している。その感覚がキリコの絵を浮かばせた。静謐な孤独の描写。

ところで、この句と同様の感慨を得たものに次の句がある。

○水にちりて 花なくなりぬ 岸の梅』

この句には、梅の樹下の落花が散り敷いた光景から、春の気配の名残りの情の深さが漂う中、この一木のような梅があるとの前書きがあり、専門家は、この句は失敗作であり画家の眼ではなく、詩人の眼がとらえたものである旨、記されてあった。
個人的には、先の句と同趣を感じた私は、落花した幾本かの梅の樹々、その中にあって河岸の一本だけは、落花は川の流れに運び去られ、樹下にはない。その花の有と無と川の流れの組み合わせを思い描くとき、失敗作かどうかは分からないが、文学的なのだろうか。

○物焚いて 花火に遠き かゝり舟

この句では、三つの光が描かれている。かがり火を焚いている小舟と夕食の準備であろうか、何か焚き物している人(影)、そして遠方の花火。近景と遠景の17音の中での光の調和(ハーモニー)。
江戸期に一つの時代を創った安藤広重の『東海道五十三次』や幾つかの浮世絵の世界が浮かび上がって来る。

○不二ひとつ 埋みのこして 若葉哉

○菜の花や 月は東に 日は西に

○水仙に 狐あそぶや 宵月夜

この三句には濃厚な油彩画の輝き、幻想性を感ずる。

一句目の、不二の(斜め)上から眺めたかのような、瑞々しい自然の息吹きの壮大な光景。

二句目の、一面に広がる菜の花畑の鮮やかな黄色を包むように、東から淡い金色の月が貌を出し、西には茜色の太陽が沈まんとしている、満月のころ、東と西の空で繰り広げられるこの絢爛な大自然の交響美。

三句目では、ロシア出身の画家マルク・シャガールの豊潤な色彩美と幻想美を思い起こさせる。尚、この句の前書きにある「古丘」。これは故郷の丘を表わすとのこと。蕪村の郷愁。

一方で、次のような非常に現代(モダン)性豊かなデザイン的絵画を彷彿とさせる句がある。名月に映し出される露に濡れた樹々、枝葉、草花、石、土、時に虫の類をも映し出す一滴の露を、その露の眼からとらえた一瞬。

○名月や 露にぬれぬは 露斗(ばかり)

 

蕪村は画人[南(宋)画家]であり、俳人[詩人]であった。その蕪村の俗[世俗]との距離は、或いは眼差しはどうであったのか。専門家の一節を引用する。

――「俳諧は俗語を用いて俗を離るるを尚(たっと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法最もかたし」《蕪村の言葉》という、矛盾する雅と俗の概念を止揚するのが詩であり、広くは読書による教養から得られた美意識である。(中略)これはまさに「高く心を悟りて俗に帰るべし」(『三冊子』芭蕉の俳論をまとめたもの)の、新しい文人的解釈であろう。――

そもそも水墨画や南(宋)画を観れば、俗に生きながらも己が意志的修養を通して俗を離れて[脱俗・超俗]生きる作者の姿を想いうかべる。だからこそ描かれた主題の、また線の。濃淡の、そして南画の静かな淡彩は、俗に在って俗に苦悶する私たちを魅きつける。
ユーモアを、ウイットを自在に、飄然と操れる人は、人を、社会をしかと観ている。心に余裕がある。
蕪村は、画人の眼と俳人の二つの眼で観る志向と修養を積み、自然な洒脱さを醸し出す。
と同時に、深い情愛に包んだ生の、力、孤愁、瞑想を詠う句がある。「愛し(かなし)」の感情である。
私も次のような句にそれらを見る。私的な寸評(【  】の部分)を加えて挙げる。

○青梅に 眉あつめたる 美人かな

【あつめ、が絶妙だ】

○夏川を 越すうれしさよ 手の草履

【専門家は、蕪村の少年時への郷愁、清純な少年詩性の天真流露を言うが、浴衣姿の若い女性を思い描く私は、汚れちまった俗な大人の発想なのだろうか。】

○さくら花 美人の腹や 滅却す

【美人と滅却、このおかしみは、さすがである】

○大鼾(おおいびき) そしれば動く なまこかな

【上の句と同様、心にゆとりなくしては創り出せない世界】

○学問は 尻からぬける ほたる哉

【世の学識者の方々、どう受け止めますか】

 

○飛かはす やたけ心や 親すずめ [やたけ心:勇猛果敢な心]

【動物の親、とりわけ母親の姿・眼差しの慈愛の美しさ】

○葱(ねぎ)買うて 枯木の中を 帰りけり

【昔、或る禅僧が敬慕する禅僧に会いに行ったとき、その寺の方から葱一片が流れて来るのを見て引き返した旨の話を想い出した】

○凩(こがらし)や 何に世わたる 家五軒

【ひっそりと、懸命に生きる人々への慈しみの眼差し】

○月天心 貧しき町を 通りけり

【貧しい町と大自然。凄み漂う美の描画】

○凧(いかのぼり) きのふの空の 有りどころ

【哲学とは、の定義に使えそうな一句】

 

私にとって難解な蕪村の諸俳句だったからか、思いもかけず駄文が一層冗長になってしまったが、最後に原点に戻って『春の海 終日のたり のたり哉』を確認したい。
擬声語と擬態語は違うので、最近ではまとめて「オノマトペ」と言われている。英語の[onomatopoeia]が源である。
以前、この英語に含まれる「poem・詩」を指摘した言葉に接し、ひどく感動したことがある。擬声語は言ってみれば自然太初的とも言えるが、擬態語は人為性を持った自然性がある。そして他言語と違って日本語は擬態語が豊富だと聞き、誇らしく思った。
この「のたりのたり」はその一つだ。「ゆっくり・ゆったり」の意味の「のたり」を重ねた言葉。畳語(じょうご)。

春の海―終日〔ひねもす〕―のたりのたり―かな。

この言葉群の音の響きと季節・情景の絶妙なハーモニー。これは画人と俳人の完璧なまでの融合と思う。やはり蕪村は偉大な術家である。
ひょっとしたら、現代日本人、老いも若きも、欠けているもの、忘れ去ったものが、蕪村にあるのかもしれない、とも思ったりする。
「軽薄短小」は、日本(人)の技術への讃辞であるが、これらの漢字それぞれを心・精神にあてはめたような現代日本。老いであることの幸い?雪螢との昨年秋の新たな出会いへの感謝。

2019年1月10日

ふるさと―江戸っ子カミさんと無故郷の私―

井嶋 悠

 

後1年半で、自動車運転に際して老人マークをつけなくてはならない年齢ともなる中で新年を迎えると、我が故郷(ふるさと)・原郷はどこなのだろう、とつい思い及ぼしてしまう。
妻は自身の故郷(ふるさと)をはっきりと内に持っている。それは同時に原郷でもある。夫たる私は、その故郷に係る言葉を、それも些細な断片でさえ、聞くたびに羨ましく思う。

こんな表現に出遭った。或る女流作家の言葉である。

「生れた土地を夜更けに出て来て、その後は古里に古里らしいつながりを失ってしまったものが、せめて、生活の情緒の最初の場所に、その故郷を感じようとしているのである。」

今40代以上の人で、童謡(唱歌)『ふるさと』を想い出す人も多いかと思う。(若い世代の人は、小学校時代に唱歌といった歌は習わない、と聞いたことがあるので。今もそうなら残念に思う。)

その『ふるさと』の歌詞は以下である。

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて、

忘れがたき 故郷(ふるさと)
如何(いか)に在(い)ます
父母 恙(つつが)なしや
友がき 雨に風に つけても 思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷

この歌詞と先の作家の「生活の情緒の最初の場所」を重ねれば、故郷は10代前後から20歳前後までに心に沈潜するのではないだろうか。幼少期を経て、思春期前後半期が終わるころまでの時間と空間。
因みに、出だしの「兎追いし」、妻は長らくの間「兎は美味しいんだ」と思い込んでいたとのこと。

 

私の思春期前期。
私たち井嶋家の菩提寺は、京都市今出川近くにある。私の出生地は長崎市郊外のK町である。父が海軍軍医として京都から長崎に赴任していたためで、母は長崎人である。生年月日は1945年(昭和20年)8月23日。とんでもない日に凄い場所で生まれている。
生後1年も経たないうちに松江市に移り、その2,3年後に、京都市内に戻って来た。そのまま京都で、子ども時代を全うしていれば、私の人生も今とは違っていたものなっていたかもしれないが、変転は世の常。
小学校入学前後から、父がN県に単身赴任となり、小学校3年の後期から、大人の事情で在東京の伯父・伯母宅に預けられる。
預けられるまでの母子家庭生活で、母は私への音楽(音感?)教育には熱心だったが、外向的人間だったようで、学校から帰っても不在が多く、近所に居た父の兄夫婦にお世話になることが多かった。
今から思えばさびしい話だが、私の鈍感さからか、独り家の壁を相手にキャッチボールをしていたことや、独り星空を眺めていたことが、さびしさとは関係なく鮮明に記憶されている。
以前も何かに触れて書いたが、向かいの家に父子家庭の中学生くらいの男の子が居て、その少年を英雄視していた。老いを思わせる白髪まじりの父親にいつも怒鳴られ、勉強は全く埒外の少年だったが、虫採り、魚採り等々遊びの天才で、ついて回ったことが度々あった。また、銭湯は私や近所の子ども(ガキ)たちのプールで、何度、銭湯主からどやされたことか。

小学校卒業後、父は私を引き取り、西宮市に連れて行った。そこで待っていたのは新しく母となる人であった。小学校前半期の独りぼっちの多かった時間と併行して、離婚話が進んでいたわけである。
中学校は地元の公立中学校へ。入学式当日に体験した数名の生徒による運動場での“袋叩き”の驚愕、恐怖そして不可解。その日の担任教師の来宅で知る地域問題。
袋叩きとなった理由と背景を知らされ続ける3年間の、また継母との葛藤、齟齬の始まり。

私の思春期後期。
高校は世に言う進学校で、1学年3クラス、男女比3:1。課外活動はほとんどなく、教師たちの多くは、それぞれに自己を主張し、大学格差そのままの発言をする教師も。生徒もばらばら。そこで私がしたことと言えば、何人かの教師への悪だくみと反感。かと思えば、“個性的”教師の極的存在で生徒から怖れられていた男性国語教師からの庇護と情愛。

一年間の、ただ浪人していると言う日々。大学進学後の引きこもり的生活と酒と音楽といささかの美術と文学の、己が不明生活。心のデラシネ?父親と大学の或る教師の薦めもあって大学院受験をし、合格。
「全共闘」運動の高揚期。院生1年次、大学封鎖。中退し、東京での彷徨生活2年余り。人間の孤独と己の傲慢さの痛覚。そして帰宅。26歳ごろ。

子を持って知る親の愛。その実母実父は今はなく、継母は数年前、介護施設に。父死後、妹(義妹)の若くしての癌と死、また新たに起こる、今度は私も含めての大人の事情。
東京での時間は非常に濃密で、帰宅後、先の個性派教師の高配で教師への道へ進み、以後33年間の教師生活にあって確かな糧の一つとなる。

いくら晩稲(おくて)とは言え、私の「生活の情緒の最初の場所」とは、どこなのだろうか。
唱歌を踏まえれば、あの遊びの天才との時空かとも思うが、あまりにも短期間過ぎるし、父母との記憶が断片的過ぎる。そうかと言って小学校後半時はいびつだ。その後も……。
考えようによっては、住んだ場所すべてが故郷とも言える。全有は無?それとも無は全有?
これが、今も自己確認[personal identity]に揺れ動いている一因のようにも思ったりする。

故郷と言える場所が在る人は幸いである。孤独で弱い人間の最後の救い場所になると思うから。
随分昔のことだが、テレビ報道で、ホームレスが何かで取り調べられ、「お前の故郷はどこだ?」と聞かれ「ないです」とぽつりと言ったとき、問うたベテラン男性刑事が一瞬の間をおいて嗚咽する姿が思い出された。

妻は、生まれ育ち、大学を出るまで、東京・新橋のままである。しかも三代続く根生いの“江戸っ子”である。
寿司はつまむもの、そばは飲みもの。こはだ・さば・あじや赤貝をはじめ貝類を愛し、まぐろは赤身が王道でとろは猫もまたぐものと心得ている。今の時代、旬の時季はあってないようではあるが、鰹等々、初物にはどこかこだわりがある。なお、主に関西ものである松茸にはこだわりはない。
着る物も無地を好み、濃い茶や紺系の色を、また黒系を好む。
「一日一生」(一日生涯との表現もあるが、宗教を言う意図はないので、ここでは「日々是好日」に重なるものとしての一日一生を使う。)を人生訓とし、金への執着はなく「何とかなるさ」で、かの「江戸っ子は宵越しの金は持たぬ」を地で行っている。

当然、好奇心は旺盛で、テレビ等々の広告で食品や日用品の新製品情報を得ると早々に購入する、と言うより購入しないと落ち着かないようだ。だから、それが不味いものであったり、直ぐに壊れたりした時の、妻の落胆度は大きく、横で見ていて、広告の大げさ、結果詐術(ペテン)紛(まが)い、またテレビの脅威に憤怒すること多々ある。
ただ、新発売の購入も速いが、失望させられたり、気に入らないと冷め、忘れ去るのも速い。
妻の味覚に関して一つ加える。
彼女の関西時間が、新橋時間の2倍有余となったこと、それに加齢そして大病が加わったことで、今では京風の薄味をこよなく好み、郷愁以外東京風の濃い味を避けるようになっている。

歩く速度と比例し、話し聞くも速く、京風?におっとり話したり、話者が心遣いで丁寧に話せば、先々を見越し言葉を発し、それは失礼ではと言えば、だって言いたいことが疾(と)うに分かっているのに、話し続けられればまどろっこしくって、それこそ慇懃無礼よっ、と返す。しかしそこに他意、悪意はなく、要は「五月の鯉の吹き流し、口先ばかり はらわたは無し」と、本人も自覚しているのだが、時にその慮(おもんばか)りが外れることも少なくはない。結論が最後に来る日本語の難しさ?韓国語も?
結婚して40年、やっとそのことが分かって来た次第。
衣食異文化の理解は或る程度容易だが、精神異文化の理解はやはり時間がかかる……。

新橋は下町。100万人都市江戸にあって、武家はその半数近く。その住居はいわゆる山手(やまのて)にあって、独立心の強い下町人、つまるところ多くの江戸っ子連は反骨心も旺盛で、反権威精神を受け継いだのか、妻は政治家を非常に忌み嫌っている。とりわけ現首相には痛烈でテレビにその顔が出ると直ぐにチャンネルを替える。
また、妻の母校でもある銀座の小学校でのブランド制服、
(そもそも銀座は下町だがどれほどの人が承知しているのだろうか。それとも、たちまちに変貌の時間を過ごすのが日本の、日本人の国民性なのだろうか。明治・大正・昭和を生きた作家永井荷風は、明治44年に、エッセイ『銀座』で、次のように書いている。
これは明治と言う時代がそうさせたとも考えられるが、昨今の都市の変容を見ていてそうとも思えないが、どうだろうか。

――現代の日本ほど時間の早く経過する国が世界中にあろうか。(中略)再びいう日本の十年間は西洋の一世紀にも相当する――)

や、
寺の鐘の音(ね)を騒音とし寺の移転を求めたり、保育所設置への子どもたち喧騒懸念からの設置反対、はたまた幼少者の相談センター開設に際しての「××(都区内山の手の2,3の地名)ブランド」が下がるとの理由からの反対運動等に、甚だしい不快感と痛憤、疑問を抱いている。
「何様のつもり!?」と断罪の一言。
これは、江戸っ子気質と東京人気質の違いとも言え、全国(今では世界)各地からの多種多様な人々の集合都市の東京を思えば、一応京都人の私も共感同意する。一極集中施策の負の側面としても。

現首相への痛烈さは、大坂、神戸の「ママ友」も同じで、江戸っ子ゆえだけではない、女性、とりわけ主婦や母親層、の直感力、動物的勘の為せる業、と私は喝采している。
もっとも、人情の機微には異文化はないと思うが、日本の場合、下町人の方が長けているようにも思える。だから、たとえ同じ東京・下町人でもそれを直覚し得ない人物は直ぐに忘れ去られる。
妻曰く「下町の人間は怖いぞ」。
その怖い一人である妻は、娘23歳時6年前に、その娘を死出の旅に送っている。妻は、原因をすべて呑み込み、己が身を棄て娘の介護に奔走奮闘した。一切の弱音も愚痴もなく、五月の緋鯉のように。少なくとも私の前では涙も見せず。これぞ江戸っ子の神髄、と言うのは、江戸っ子ではない私の贔屓の引き倒しだろうか。

私たちは今、首都圏の人々が憧憬する地の一つでもあり、リゾート地とも呼称される所に住んでいる。ということもあり、首都圏からのリタイア組も多い。場所によっては[東京村]なるものさえある。
「上から目線」の諸例はしばしば知らされ、気づかされる。私たちも気づかぬうちに犯しているかもしれない。そんな中で、別荘として家を構えている東京下町育ちの70代の男性が、その上からの横暴を批判するのだが、その人物自体がその一人であることに気づいていない。
妻も私もひょんなことから何度か話したことがあるが、自身がすべての人で、私は不愉快さをいささか引きずり、懲りもせず会えば話しをする。妻はその人物を論外の一人として見、とうに記憶から消し去っている。

先に記した自己確認[personal identity]のアイデンティティは、ここ数年繁く使われる外来語だが、日本語で言えば「主体的個性」だろうか。
それは思春期前期から後期にかけての、学校、家庭、社会教育が非常に大きな意味を持つ。現実はどうだろうか。この少子化時代にあって、意識化された取り組みが為されているのかどうか。
「考える力」「表現する力」の、とりわけこの国際化社会での重要性が言われ、入試内容と方法の改革が実際化されつつあるが、入学志望者を受け止める側[学校教師集団]の【研究観ではなく教育観】【優秀の意味、内容に係る学力観】が大同小異で、結局は塾産業に拠りかかっているのではないか。これは、極端に言えば、進学であれ補習であれ、塾(産業)全廃止を仮定すれば明白に想像できるはずだ。

これら日々の切々と苦々しい現実を超えたところに故郷がある。生きる心の拠点として。だから「ないです」と答えたホームレスに接した刑事は胸を締め付けられたのだろう。
そう言う私もあるようでない“無故郷”だが、20代後半時まで住んだ場所を、それぞれに、私の故郷・原郷だ、と勝手な自己確認として思うようにしている。
そう思えば、これからもどこに居ても、行っても、いつまでも老け込まずおられる……。そう思いたい。

2018年12月26日

多余的話(2018年12月)  『犬も歩けば(serendipity)』

井上 邦久

横浜での単身生活からボストンを経て、大阪府茨木市に着地してから1年が過ぎました。長年の単身赴任生活・駐在生活はすべて集合住宅(マンションという語源から程遠い20平米から100平米まで様々でした)で生活しました。
着地した茨木市で阪神淡路大地震以来の激震に遭遇し、その後の台風や猛暑のため変則三階建ての陋屋は「一部損壊」の認定を受けました。数年前の補修の効果か、風向きのせいか雨漏り被害はありませんでした。
町の屋根にはブルーシートが残り、多くの家の修理や建替え工事は年を越すことでしょう。
大嘗祭費用関連の論議と比べるほどの大げさなことではありませんが、庶民にも傷みは残ります。

北摂の半分青い梅雨の屋根

そんな夏が過ぎ、ようやく定住生活のペースが出来つつあります。小学校の課目に例えると、
最優先は「保健体育」。この3年に二回受けた手術後の検査とリハビリテーションの経過は順調です。転移や再発は見つからず、生活の中での自然な快癒を勧める外科医の指導に従い、よく食べ、よく歩き、よく寝ています。

そこで「家庭科」。食いしん坊で市場散歩が好きなので、食材を求めてスーパーマーケットをハシゴし、海藻・野菜・青魚の市場価格に詳しくなりました。単身生活時代のまま「調理」は依然として大切な趣味です。

「理科」「算数」は当然飛ばして、「国語」はヤッツケ仕上げの連句や俳句です。先日、神奈川近代文学館での公開連句会に、今年も「文学と山岳」を友として暮らしている先輩と参加しました。辻原登館長や歌人の小島ゆかりさんとの相撲談義の遣り取りも愉しかったです。

続いての課目「外国語」。集中講座ではなく毎週出講し「ビジネス中国語」の単位認定を意識しています。
ビジネスとは何か?今週のホットトピックスは?など新聞を読まない今どきの大学生に噛み砕いて話しています。

次は「歴史」。昨年秋からのテーマ「大阪川口居留地・川口華商」について、堀田暁生会長(大阪市史編纂室長)や長崎華僑研究の地元各位の御指導を頂き、少しずつ歴史探索をしています。
晩学初学ですので「あれもこれも」と広く浅くなりがちなことを反省しています。先ずは関係する現場を歩き回り、五感六感の錆び落としをすることが脚部関節手術のリハビリテーションに繋がれば幸い、というレベルです。遠い道のりになるでしょう。

最後は「図画工作」、中津市自性寺での池大雅や沖縄の佐喜眞美術館長の講話が印象に残りました。映画は塚本晋也監督・自演の『野火』。オマケの制作映像での独白に注目しました。NPO「ロバの会」での封筒作りでは、糊貼りに特化して、苦手なハサミ作業は先輩方にお願いしています。

「音楽」はサボって、今年は舟木一夫コンサートにも行っていません。

          小春日の阿蘭陀坂に西の風

酷暑が過ぎてからは戌年らしくよく歩きました。11月15日も自宅から歩いて通える立命館大学茨木キャンパスでの講義のあと、東奥日報特別編集委員の松田修一さんと再会。
お初天神の亀寿司は津軽の魚には及びもつかず、美々卯のうどんすきも又にして、福島天満宮脇の花鯨のおでんにしました。覚悟していた30分の行列では春の弘前以来のことをお喋りするつもりでした。
しかし、来阪目的は東奥日報連載中の「斗南藩」取材であり、戊辰戦争を「勝てば官軍」とは逆の視点から綴る為に会津藩・斗南藩ゆかりの末裔の方を訪ね歩いている、今回は会津戦争娘子隊の中野竹子・優子姉妹の末裔、優子のひ孫の高蘭子さんの取材と聞いて衝撃を受けました。松田さんは「やはり高さんをご存知でしたか・・・」と翌朝の奈良ホテルでの面談取材への同席を承知してくれました。

短歌結社を主宰し、奈良県唯一の定期月刊誌『山の辺』の発行者として著名な高蘭子さんは、恩師である高維先先生の奥さんです(先生は革命後の現代中国語で「愛人・ai ren」と呼んでいました)。2011年の会合で高夫妻とご挨拶してから御無沙汰が続いていた処に青森の松田さんを介しての再会でした。
一人娘で俳句・短歌を教える珠實さんも交えた取材の邪魔にならないように慎みながら、会津・函館・青森とつながる一族の苦難の歴史を聴かせていただきました。ハルピンでの飛躍を企図した尊父と多くを語り継ごうとはしなかった母堂とともに大陸へ渡り、女学校では中国語も習った蘭子さん。敗戦直後の東京で、山東省青島市から渡日して東京大学に在籍していた高維先先生と巡り合った経緯は初めてお聴きすることばかりでした。

1967年、NHK中国語講座の放送が始まった翌年、高校二年生で読み始めたテキストには、講師の相浦杲望月八十吉、ゲストの金毓本高維先王蕙茹の各位の名前がありました。とりわけ高維先先生の温顔と丁寧な発音は印象的でした。それが中国語と高先生とのご縁の始まりでした。
初級で暗記した美しい「梅花開了、桃花開了、胡蝶飛来飛去」のフレーズは折に触れて甦ってきます。

「井上さん、先生は来月100歳になるのよ。日本政府から顕彰状が届いたわ」と蘭子さんからお聴きして、恩師の長寿を喜びました。NHK中国語講座が既に50周年を超えたことにも気付かされ感無量となりました。100歳の顕彰状の送り主が、会津藩士を辺境の斗南に押し込めた薩長藩閥政府の末裔であることは牽強付会に過ぎ、言わずもがな(多余的話)のことでしょう。

12月15日付けの東奥日報には、松田さんがあれもこれも書きたい思いを削りに削った文章が高さん母子のカラー写真付きで大きく掲載されていました。20日には届いた新聞と印画した写真を持参して手渡しました。その折、秘かに蘭子さんが見せてくれた昭和20年発行の東京大学の学生証には、若くきりりとした青年の写真がありました。お祝いの拙句をしたためお渡し致しました。

        山の辺に落地生根紀寿の春            (了)