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2019年12月6日

老いに係る私への覚え書き “なりたい”《動》から“ありたい”《静》へ

井嶋 悠

81,09歳と87,26歳。前者が日本男性の、後者が日本女性の平均寿命。
ほとんどが平均寿命前後と思われる50人ほどの患者で、連日待合室が溢れる眼科医院で、白内障の手術を受けた。喜寿まで後3年と思うと老いの真っ只にいる自身が何か不思議だった。
齢を重ねることで実感して来る一日の、一週間の、一か月のそして一年の経つことの速さからすれば、3年は瞬く間だ。死や死後への想像がごく当たり前になりつつある。自然なことなのだろう。 やはり、かつてのような“なりたい”ではなく、“ありたい”と考える域に来ているのかもしれない。

父母は私に健康な体を遺してくれた。しかし年齢数字で感慨は持つが、寿ぐことにはいささかの関心もないし、身内や他の人に負担を掛けてまで長生きしたいとは思っていない。そうかと言って“ぽっくり寺”に篤く参詣するでもない。更には、ホスピスについても無頓着である。身勝手な話しである。

清少納言は、「遠くて近きもの」との段で三つ挙げている。 ―極楽・舟の道(船の道中)・人の仲(一説によれば男女の仲)。― 改めて彼女の才を思う。 尚、清少納言は28,9歳で出仕し、彼女の才能が見事に開花されることになる中宮定子と出会う。7年後、定子(当時皇后)の死去(24歳)に伴い退出。以後不幸な晩年を過ごし亡くなったとのこと。没年は不詳。因みに平安時代の平均寿命は30歳とのこと。

企業等事業勤務者の定年が、最近65歳が増えたとは言え、概ね60歳。私の定年は60歳だった。知人の企業(中小企業)では、役職者は55歳、一般職は60歳とのこと。 定年から平均寿命まで男女平均で言えばおおよそ24年。0歳、10歳、20歳……からの20年とは全くと言っていいほどに意味が違う。はてさてどうするか。
働きの継続を希望する人も多い。しかし条件、体力、資格等々で容易ではない。一方で「もう十分だ」と言う人も多い。
先日、旧知の研究一筋、無趣味の大学教員が定年[65歳]を迎えた。彼がなかなか意味深長なことを、いささかの溜息交じりで言っていた。「定年後の時間を過ごすのは一苦労だね」。
私の1歳上の従兄弟で見事なまでに元大手企業戦士は、戦士たる負の勲章、五臓六腑ぼろぼろとなって、定年後、通院以外ほとんど自宅で生を紡いでいる。彼は言う。「あのような仕事は金輪際したくない。」
と言う私は、元中高校国語科教師で、7年前に襲った娘の23歳での死を契機に自照自省重なり、同時に2001年から続けている『日韓・アジア教育文化センター』の灯を消したくなく、そのH・Pのブログに、拙稿をほぼ定期的に投稿している。金銭的価値はゼロで、要は一低額年金生活者である。

国は、定年後の「働き方」を人生百年の時代にあってと声高に奨め、CMでは笑顔あふれる演技者が豊かな老後を頻りに演じている。その度に、行政も政治家も広告関係者も、「お気楽なもんだ」と腹が立つ。
一方では、働かざるを得ない高齢者もたくさんいる。年金では食えないのである。その国からは福祉財源が限界と言われ、老人施設に入るには云千万円用意しとけと脅かされ、政府、行政には自省という言葉がないかの如く一般国民に責を押し付け、様々に裏画策し、国民からの増収入の方途を考えている。
憤りの後に虚しさが襲って来る。一刻も早く後進国から脱け出す政治を、と。

因みに、白内障手術は保険適用の2割負担で片目約30,000円。これが、視野・視力の改善を考えて安いのか高いのか分からない。ただ、世界に冠たる日本の保険制度の問題点が、外国人問題も含め指摘される中で、高齢者自己負担額(率)増案が検討されている、と聞けば思わず不機嫌に首を傾げたくなる。
多領域で、とどのつまり出てくる[財源]の無さはにわかに信じ難く、政府(国)の深謀遠慮のなさ、その場しのぎの対症療法の本末転倒を直覚するのである。

かの一休禅師は、「世の中は食うて糞して寝て起きて、さて、その後は、死ぬるばかりよ。」と達観し、平均寿命が戦乱や飢饉が重なり15歳だったと言われる室町時代にあって87歳まで生きた。しかも、後小松天皇の御落胤ということも手伝ってか、功成り名遂げての人生。その禅師、最晩年、愛人森盲女の膝枕で「まだ死にとうない」と言ったとか。
どこまでもなりたい自分像が、心の奥に燃えていたのだろう。途方もない生命力、精神力である。
禅師の歌「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」の心境は、先の少納言の極楽同様同感できるが、そもそもそう感ずる私が、めでたいのかめでたくないのかがよく分からない。
ただ、禅師の言う「めでたさ」の心持ちが自ずと沁み入る私がいることは間違いない。 そうかと言って、彼のように「なりたい」とも「ありたい」とも思わない。そもそもその資質ゼロの身を自覚しているから「思わない」ではなく「思えない」のだ。
その一休さんなら今の日本の世をどう見るのだろう?

仏教[日蓮宗]に帰依した作家で詩人の宮沢 賢治(1896年~1933年)は37歳で没し、その死後発見された手帳に、晩年の理想の姿とも思える詩を書き遺している。『雨ニモマケズ』である。前半と最後の部分を引用する。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
(中略)
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボウトヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ ナリタイ

恐らく死からそんなに遠くない時期の作と考えられるから35歳前後であろうか、彼は老いの自身の「なりたい」姿を描いたのである。
常に農民と共にあって、しかし自己顕示など遠い世界の人で、老子が言う「和光同塵」の人。
彼の2倍生きている今、“なりたい”から“ありたい”へと心動かされ強く共感するが、しかし今もって世俗にまみれている自身がいる。このブログ投稿も、私は書きたいから書くのであってどこまでも自照自省のためなのだが、その証しなのかもしれない。
賢治は37歳で早逝した。もし喜寿まで生きていれば、1940年代から1970年代の日本にどんな眼差しを注ぎ、彼が“なりたい”晩年にどれほどに近づき、“ありたい”自身に心和ませることができだろうか。

晩年と言う言葉には、泥岩を濾過した透明な響きがある。しかし、実際は心身の萎えにもがき、孤独と不安に苛まれている。だからこそ静穏と安寧に焦がれる。
太宰 治(1909年~1948年)は、太宰27歳の時、[第1創作集]を著した。表題は『晩年』である。15の作品が収められていて、初めに筆者は次のように記している。

―「晩年」は、私の最初の小説集なのです。もう、これが、私の唯一の遺著になるだろうと思いましたから、題も、「晩年」として置いたのです。―

彼は、他の人が前を見ながら歩む人生ではなく、「遺著」を心に置き、背を前に、“ありたい”自身を求めながら進んだ。当然、危険極まりない。何度もつまずき、死を懐手にしながら自身を責めた。しかし常に真剣で純粋であった。
その姿、心根を、私は彼が発し得た感性も勇気も才能もないが、『晩年』所収の『葉』や『魚服記』に見る。そこには、彼の“ありたい”姿が思えるのである。

老いは古語では「老ゆ」。老いとの言葉自体、二つの母音から優しい響きを感ずるが、老ゆとなると、や行音の柔和さが加わって、一層「久方の光のどけき(春の日)」の静穏な映像が広がる。
しかし実際は苦しく、厳しく、辛い時間で、だからこそそれぞれに我が身を振り返り“なりたい”老い、“ありたい”老いに考え及ぶのではないか。少なくとも私はそうである。 心身萎え、しかし智慧は若い頃よりはいくばくか増え、立つ鳥跡を濁さずに思案する。
一休禅師は「死にとうない」と彼女に告白したとのことだが、私は死は安らぎと思えてならず、死(直)後からの不安の方が大きい。いったいどうなるのか。魂の永遠的飛遊はどうなのだろうか、などなど。
そして、この齢に到り、“なりたい”ではなく“ありたい”老いを夢想する。再び先人の言葉[智慧]を借用する。吉田兼好の『徒然草』からである。

――是法(ぜほう)法師は浄土宗にはぢずといへども(浄土宗の見識で誰にも劣らないけれども)、学匠(学者)をたてず(自身を学者として自負するのではなく)、ただ明け暮れ念仏して、やすらかに世を過ごすありさま、いとあらまほし。――

最後の「あらまほし」は、「あり」(ある)に希望の意を表わす助動詞「まほし」をつなげた語で、口語に言い換えれば“ありたい”である。その心の鍵としての安らか。
帰依者には到底及ばないが、私は仏教に親しみを持つ。そんな私だが今仏教への帰依、信仰といったことから離れても兼好法師の感慨に共感する。私にとっての「明け暮れの念仏」とは何か、ただどこまでも独り(だけ)の行・業として。
喜寿まで3年。平均寿命まで7年。とんでもない所に立っている自身に気づかされる。その時、「冬蜂の 死にどころなく 歩きけり」(村上鬼城)の衝撃を忘れることなく、ありたい私を見つけたいものだ。
尚、兼好法師は、平均寿命24歳の鎌倉時代から安土桃山時代にかけての人で、69歳で没したそうである。

2019年11月27日

多余的話(2019年11月) 『米と菊』

井上 邦久

今年も越前福井の友人から「いちほまれ」が届きました。
競走馬の血統図風に書くと、父親:イクヒカリ(越南176号・コシヒカリの孫) 母親:テンコモリ(富山67号・コシヒカリの曾孫)であり、 父系のもっちりした粘りと母系のきれいな粒を結合させた「いちほまれ(越南291号・コシヒカリの玄孫)」は、整粒率が70%以上、粒厚1.9mm以上、玄米タンパク質6.4%以下の基準に合格したものだけが称することができる、そして産地出荷以外の個人販売はないと説明書に書いています。  
新米を丁寧に研ぎ、硬め好みに合わせた水加減で炊きました。実に旨い米であり、削って削って酒にしたくない、千枚漬けや生卵の黄身といつまでも食べ続けたくなりました。

あたかも新嘗祭のころ。この天皇家の祭祀を行う11月23日を、敗戦後に勤労感謝の日と名付けた官僚は米国のThanksgiving Dayを意識したのでしょうか?
一昨年、ボストン近郊のプリマス港を訪ねた折に米国感謝祭起源に関する諸説を聞きましたが、先住民が餓死寸前の入植者を救ったことへの感謝という美談だけではなかったようです。たかだか400年前、1620年代の米国建国前史のお話です。
一方、日本でも出雲の千家と並ぶ古い家の一連の祭祀は、宗教的秘儀も含めて内々に身の丈でやるべきでしょう。

 越前米への御礼電話をした折、地元北陸の美男力士の遠藤が横綱白鵬のかち上げで流血したことに相撲好き(美男好み)の奥さんが 抗議の投書を出したとか、出そうとしているとかの話になりました。
NHKのアナウンサーは「荒々しい相撲で白鵬が勝ちました」と表現した一番を観戦していて、白鵬の姿が隣国の習近平政権にダブりました。実力権力に自信を失くし、勝ちにこだわる姿勢が「荒々しい、或いは粗々しい手段」を選ばせているのではないか?
吉岡編集委員は香港のベテラン記者の弁として「習近平政権はあいまいさを許さない。敵と味方に二分する手法は文化大革命の時代を思わせる」と伝えています。(「金の卵」を恫喝するな:朝日新聞「多事奏論」より)  
一方で、アリババの香港株式市場への上場が迫っています。公募価格が決定し、1.2兆円の調達見込み。機関投資家を中心に募集の5倍の申込の由。2014年にニューヨーク証券取引所に既に上場済みでありながら何故? 深圳でも上海でもない株式上場は何故? 八月に不穏な状況を理由に挙げて香港上場を見合わせたのが何故今になって? 
北京とアリババにとって政治的・経済的な計算は?・・・ 香港は恫喝しようと恫喝されようと、やはり「金の卵」なのでしょう。  

日韓の摩擦が一息入れました。些か旧聞に属することなので恐縮しながらこの機に綴ります。
文大統領が日本に対して「盗人猛々しい」という表現を含む発言をしたと報道されたことを受けて、8月18日付の日経文化欄に掲載された宮下奈都さんの「言葉という生きもの」を読み返しました。
チョクパンハジャン、漢字で表現すると「賊反荷杖」で、「居直る」という意味合いのハングルを「文大統領がどんな意図で選んだのか、わからない。まるで日本を『盗人』と呼んだかのような誤解を招きかねない訳にした新聞やテレビの意図もわからない。わからないところにロマンがあるとは、私にはとても思えなかった」と綴った言葉・外国語・翻訳・文化に関する根源的な問題提議の文章です。
宮下さんは福井出身であり、越前米同様にふっくらした文体でしっかりした意思を伝えてくれる文章家です。  

再読と言えば「2018年8月25日、白井聡」と著者サインを貰った『国体論 菊と星条旗』(集英社新書)を一年ぶりに手にしました。
・・・「アジアの先進国は日本だけでなければならない」という、戦後の「平和と繁栄」という明るいヴィジョンに隠された暗い願望がある。それは、明治維新以来の日本人の欧米に対するコンプレックスとほかのアジア諸国民に対するレイシズム(人種差別)の表出に他ならない・・・ (第二章 国体は二度死ぬ 50頁)  

10月号で触れたおたふく手袋㈱が設立された1951年10月19日には日本製品はMade in Japanとして輸出はできず、Made in occupied Japanと表記する必要があったことを各処で話しています。
1951年9月のサンフランシスコ講和会議、条約締結、そして1952年4月の条約批准発効を待って日本は独立、晴れてMade in Japanと表示できるようになりました。
時の吉田茂首相が新生国家を代表して各国の外交代表や日本を代表する文化功労者らを招いた第一回「櫻を観る会」を開いたのも講和条約発効の年の四月でした。                                     (了)

2019年11月14日

つかずはなれず、飄々(ひょうひょう)淡々(たんたん)と~“人間(じんかん)”生と孤独と愉しみと~

井嶋 悠

夏目漱石の傑作『草枕』の冒頭の有名な一節。 「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
で、つかず離れずこそ人間、己が気持ちよく生きる知恵だと74年間顧みて痛感する。
しかし、今もってその人生体験訓をきれいさっぱり忘れて、悔やむこと、若い時ほど多くはないがある。 或る人は「それって寂しい考えだね、孤独だね」と憐れみ、蔑(さげす)むかもしれないが、生まれるときも死ぬときも独りなんだから、それが一番自然態なのでは?と、いささかの意地を張る。
若いときはそうは行かないかもしれない。が、この身勝手さで中庸では、と当事者の葛藤を慮(おもんばか)りながらも、青年時に出会った人々、また息子・娘を見ていてそうと思う。 だから「絆」との言葉、「ああ、あれね、絆創膏の絆ね。」と茶化したりする。
もっとも、漢和辞典で絆を確認すると字義に「自由を束縛するもの」とあって、我が意を得たり…、とニンマリしている。

「いじめ」は、言ってみれば、つき過ぎの、徹頭徹尾の悪である。
ただ、いじめ=子ども同士、或いは大人同士の視野から離れるべきだ。教師の子どもへのいじめの何と多いことか。教師自身が自覚していない無意識?なそれも多々ある。中にはそれを教師愛と思っている輩(やから)さえいる。いかにも教師らしい?そして私は元その中高校教師だった。

地球の東西文化で、人と人の在りようについて、その能動性と受動性、積極性と消極性が言われる。
「己の欲するところを人に施せ」 『聖書』
「己の欲せざるところは人に施すなかれ」 『論語』
やはり私は儒教心をどこかに秘める東洋人、より限定すれば東アジア人、なのかと思う。 根拠は、前者を言われれば、「そうとは思いますが、私にはどうも…、距離を置く指向で…」とか煙に巻いて逃げる。

とは言え、「つく」と「はなれる」の境は微妙に難しい。まさしく阿吽(あうん)の機微だ。これも「東洋的調和」かもしれぬ。 この人と人の延長上に、地域と地域、国と国もあるのではないか。
とすれば、日本の今日、対アメリカ、対韓国、対中国……はどうなのだろう。
対アメリカ、これはもう「つく」の極みで、流されっぱなし。角立ちっぱなし。 そのアメリカ(アメリカだけではなく欧米?)の教育を倣(なら)って、主体性(アイデンティティ)確立のための、ディスカッションがどうの、ディベートがどうの、と小学校から喧伝され、実践されている。
と言う私は、現職時代からどこか胡散臭い芝居性を感じたり、なんでそのアメリカで暗殺が多いのか?(だからアメリカで暗殺が多い?)と幼稚な疑問を持ったりしていた。今もそれはあまり変わっていない。

対韓国。 最近ひどく感情的で、それはお互い様とは言え、機微とか間(合い)など立ち入る余地もなく、情や智云々以前の混沌(カオス)状態とも言える。 このへんについては、既に2回投稿した。ただ、簡単に要約すれば、何かと疑義の生ずること必定なのでその内容については省略する。
ここで言えることは、『日韓・アジア教育文化センター』が発足でき、20年間続けられた人(その韓国人)との出会いの幸いである。 或る在日韓国人(大韓民国民某地区団長)が私に言った。
「井嶋さんは良い韓国人と出会った」と。ここで言う良いの意味は難しいが、私の中で韓国・朝鮮の「恨」の文化―その背景にある31年間(正しくは41年間)の日本による植民地支配―が、私の心の棘となっていることが根底にあることが、より繋がりを深めているのかもしれないと思っている。
そこにあるのは、「己の欲せざるところは人に施すなかれ」である。


因みに、もう30年も前のことだが、アメリカからの、ベネズエラからの、タイからの、私の最初の勤務高校への留学生(女子で、1年間)が制作した日本語による[創作絵本]で、彼女たちが日本(人)に、何を伝えたかったのか、あらためて観て欲しいと希う。 今も彼女たちのメッセージは確実に生きている。《その絵本は、日韓・アジア教育文化センターのホームページ[http://jk-asia.net/]「活動報告」の「教育事業」で確認できます。》

かつての日本の首相吉田 茂は、「元気の秘訣は?」と聞かれ、「人を食ってるからだ」と応えたとか。
もちろんこれは、「嘲(あざけ)る、馬鹿にする」といった侮蔑的な意味はなく、彼のイギリス仕込みからのユーモア(ウイット?)である。 そのユーモアとウイットの違いは、前者は情緒的で、後者は理知的、日本語になおすと前者は「諧謔(かいぎゃく)」後者は「機知」とのこと。
とすれば、この合理と理知尊重の現代、ユーモアはウイットの下位? したがって「ダジャレ」「親爺ギャグ」は、下位の中の最下位…。 このギャグ、英語にして「gag」、漢字にして先の「諧謔」の「謔」の貴重な掛け言葉?で、私は現職中、授業でこれを発作的に連発することがあり、乙女たちの(最初の勤務校が女子校)「先生!もうやめてください!お腹が痛くて胃が飛び出しそう!」と言わしめた実績がある。
もっとも、冷めた理知高い生徒は正に侮蔑の視線で眺めていたが。

そして今、政治と歴史知らずの私は吉田 茂に敬意を表する。
もっと身近な人では誰だろう?と巡らせてみたが、出会った人でそれに近い人は何人かいるが、意中の人はいない。
「かなしみ」[悲劇]より「おかしみ」[喜劇]の難しさとの証左かもしれない。
身近ではないが、作家の田中 小実昌(1925~2000)とか俳優の小沢 昭一(1929~2012)を思い浮かべてエッセイを読んでみた。
前者は非常な真面目さが行間に漂っていて、その点後者も真面目さは変わらないのだが、日常のことを採り上げたエッセイに人を食ったおかしみを感じた。40年続いたラジオ番組『小沢昭一的こころ』(通算10355回)は何度か聴いたことはあるが、ただただ氏の軽妙洒脱、秀逸な話芸に感嘆、抱腹絶倒し、それが何によったのかは記憶がない。話芸の神髄?

「退廃」(『言わぬが花』所収)という氏の短いエッセイがあり、氏曰く「文化は爛熟の果てに退廃するものである」と書いているのだが、単語によってはカタカナを使い、腹をよじられること必定の名文。
氏が喜劇「社長シリーズ」で、中国人役で出ていたことを思い出した。フランキー堺(1929~1996)もよく出ていたし、何と言っても彼の場合『幕末太陽伝』(1957年・川島 雄三監督)[この映画で小沢は脇役で出ていた]での演技は神業的だったが、氏が写楽の研究家で、映画『写楽』の制作者でもあり、大学教授という社会的地位に就いたこともあってか、小沢昭一のあのおかしみは、どうしても浮かんで来ない。そもそも氏の文章を読んだことがない。申し訳ない。

おかしみとしての「人を食ったような」の類語、連想語として40語ほど挙げてあるものを見つけた。 その中で、私が共感同意した言葉は以下である。
【孤独・どこか哀しい・さびしげ・飄々とした・しみじみとした】
つかず離れずが、飄々淡々に通ずることの、或いは飄々淡々と在ることの奥義には、つかず離れずあり、との発見。
そう言えば、小沢昭一は酒を呑まず食べることを愛し、独り食べ物屋に行くことも多かったそうだが、俳優の哀しい定めで、行けば店主や客からあれこれ話し掛けられる災いを書いていた。 私は俳優でもテレビに顔出す人種でもないその他大勢の一人だが、氏の気持ちに共振している。
職人に憧れる若者が増えているらしい。人間(じんかん)のならい、ヒトとヒトの関わりに疲れたのだろうか。
私も妻も次の生、どうしても人ならば、職人になりたいと思っているところがある。理由は、その技の妙もあるとは思うが、先ずヒト相手に仕事をしなくて済む魅力である。
民藝運動の推進者にして、「民藝」との言葉を編み出した人、柳 宗悦(むねよし)流に言えば「無心・無想の美」。 やはり漱石は偉大だった。

学校(私の場合、職業体験からの言葉として言えるのは中学高校)の一方の主役、教師はその人と人の機微をもっと察知、演技!して欲しい、と少なからず思う。もちろん自省を込めてである。 そして、保護者も自身を振り返り、なんでもかんでも学校、要は教師に、学校に何でも委ねる発想は、子ども・生徒たちにとって二重三重のマイナスになることに気づいて欲しい。
そもそもユーモアとかウイットに必要不可欠なことは「聞き上手は話し上手・話し上手は聞き上手」ではないのか。 教師には子どもの立場、心理お構いなしの一方的饒舌家が多い。これも自省自戒である。

と書いて来た私は、長男(兄)が生後直ぐに死去し、幼少時は次男にして一人っ子で、両親離婚により小学校後半は親戚に預けられ、中学校から父と継母との生活。高校時代に妹ができ、その妹は38歳にして癌で旅立つ。異母兄妹。したがって人生の基本は長男。こういう10代から20代は、先述の考え方に何か影響するのかどうかと思い、以下の説明を知り、なるほどと思った。 私は、なかなか複雑、めんどうな?ヒトのようだ……。

第1子の性格<性格の特徴>
• 人に気を遣いがち • 神経質 • 我慢強く、主張を飲みこみがち • 面倒見が良い • 責任感が強い • 真面目で努力家ゆえに学業優秀な場合が多い • 認められたい願望が強いがゆえにハイレベルなポジション目指す場合が多い
末っ子の性格<性格の特徴>
• 圧倒的にモテる人気者 • 天性の甘え上手で依存心が強い • 喜怒哀楽が激しい • 好き嫌いが多い • わがままで自分勝手 • 要領がよく世渡りがうまい • 負けん気やチャレンジ精神が強い
1人っ子の性格<性格の特徴>
• 執着心や物欲が弱い • マイペースでのんびり屋 • 争いごとが苦手 • 好意を示されると弱い • 自分大好き人間 • 世界観が独創的 • こだわりが強い

2019年11月1日

多余的話(2019年10月)  『序に代えて』

井上 邦久

 長年にわたり拙文を編集してくれた方から、そろそろ自分でおやりなさい、と言われ製本を試みた文集をお届けします。 ご笑覧いただければ幸いです。

中国駐在のころから一貫して読みにくい悪文を綴ってきました。現地当局の 翻訳官を解読不能にしたいという企みが悪癖となり、日本の方にも文意が通じにくい綴り方が続いています。
駐在中はメディアには載らない現地情報や熱門話題が中心でしたが、帰国後は身辺雑記や個人的趣味の話が多くなりました。
もし卑近な事柄を通じて中国そして世界につながる発想を維持できれば幸いだと思っています。

この一年はずいぶん騒々しいことであった、と改めて感じます。
従来から西暦末尾に「9」が付く年は物騒なことが多発しているなと思っていたところ、ジンクス通り香港・カシミール・ウイグル・中東で困難な問題が起こり、多くの国で内向きの強権思考に陥っているように思います。
為政者の物言いや姿勢が自分勝手でゾンザイになっていることを感じます。 白を黒と言い含め、黒を白と偽るような、筋の通らぬことばかり・・・ 学生時分に流行った鶴田浩二の状況的な唄を思い出しています。
そんな中で『上海の戦後(1945~1949)』が8月に発売され、編集委員のご好意でグレーゾーンに光を当てた拙文を載せて頂き嬉しく思いました。 
(2019年双十節) という小文を表紙と目次に添えて、昨年11月の『11月3日』から本年9月の『望郷』までを冊子にしてもらいました。まず、恩師への近況報告として届けます。
また副教材として学生に配布し授業で使います。また、毎月パソコンで読むことが不便な方にも届けています。  
2009年から集中講座を受け持ち、駐在先から夏休みを使って帰国出講していました。そのテキストとして、一年分の拙文(「上海たより」「北京たより」「中華街たより」)を大学の研究室で冊子にまとめてもらっていました。
その名残で、秋に一年分を整理、修正を施し、併せて題材に因んだ画像を添付して冊子にしています。
誕生月でもある10月に冊子の発送が終わると一区切りがついて、過ぎた一年を振り返って軽い哀歓が湧いてくることもあります。  

この春から大阪商工会議所で中国関連の相談手伝いをさせて貰っています。大阪の産業振興の先達である五代友厚初代会頭や中興の祖の土居通夫、そして稲畑勝太郎の立像を見上げて商工会議所の玄関に入ります。
某日、本町橋を渡り堺筋本町に向かう途中「おたふく手袋」の大看板が目に入りました。
本町橋西詰にあるエクレアと珈琲が美味しい喫茶店「濱田屋」のビルの屋上に据えられていたのを長く見落としていました。おたふく手袋は子供の頃から馴染んだ老舗であり、お多福のお面の商標を堅持されています。しかしホームページを覗くと、ずいぶん若さに溢れた躍動的なイメージチェンジをされています。
看板設置場所が本店所在地であった事、昨年9月の台風で破損した事、改修に際し協議を経て従来通りのお多福のお面の看板を掲げた事を知りました。 そして創業は大正年間でありますが、敗戦後の会社設立日が筆者の誕生日と全く同じである事を知りました。
町歩きによる発見と言えるでしょうか。 !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

   

   多余的話     言わずもがなの記       Ⅸ          
                2018年11月~ 2019年9月            井上 邦久      
        Ku-inoue@mbr.nifty.com   

目  次

序に代えて   
2018年11月    『11月3日』
2018年12月    『犬も歩けば(serendipity)』
2019年 1月    『隔世の感』
2019年 2月    『空と風と星と詩』
2019年 3月    『修学旅行』
2019年 4月    『桜花春天』
2019年 5月    『4月30日、舞洲にて』 未採録
2019年 6月    『雲上快晴』
2019年 7月    『水無月』
2019年 8月    『新聞記者』
2019年 9月    『嘉風』

2019年10月26日

日韓の“溝”を考える Ⅱ 『日韓・アジア教育文化センター』体験

井嶋 悠

先日、現在も悶悶(もんもん)とした中に在る[日韓の溝]について、『日韓・アジア教育文化センター』での20年来の交流で得た私見を投稿した。これはその続編で、やはりセンターでの貴重な体験が基にある。

前回の主点は二つにあった。 一つは、日本の植民地支配の歴史からの日本人である私の心の棘(とげ)で、もう一つは、韓国の『怨と恨の文化―その文化創造のエネルギー―』である。
後者は、韓国人学者たちの鼎談(ていだん)による『韓国文化のルーツ―韓国人の精神世界を考える―』(国際文化財団(韓国・ソウル)編・サイマル出版)との書に啓発されてのことで、例えばその中の次のような発言である。

――恨の「結ぶ」と「解く」は、喪失と回復に置き換えることができ、植民地化での母親喪失意識や祖国喪失意識、南北分断をテーマとした文学作品等に表われた故郷喪失意識である。(中略)絶対的状況に陥った原因が相手にあると信じて恨みを抱くのだが、同時に自分にも責任があるのだと、自己省察に戻る。これは相手を愛するがゆえの感情である。相手を恨みながら、同時に自分を恨むと言う愛と憎悪の感情。恨の感情が複合的なのは、絶望と未練、恨みと愛、この二対の感情が互いに矛盾しながら混在しているからである。――

前者について、言わずもがなではあるが、1910年の「日韓併合」からの36年間[より厳密に言えば、1905年の「日韓保護条約」からの41年間]の植民地支配の事実とその負の側面であり、これは一部で頻(しき)りに言われる「自虐史観」ではない。私の中では「自愛史観」である。

そして今回、この機会に私の歴史への疎(うと)さを補正しながら歴史の中で発せられた言葉を確認し、私自身の立ち位置を少しでも明確にさせたく投稿することにした。
1965年の『日韓基本条約』では、現北朝鮮の扱いが問題となったようだが、ここでは私の交流があくまでも現在国交のある大韓民国なので、韓国のみを意識して表現している。

人間は他の動物と違って様々な能力を有し、時代を切り拓き、歴史を創造して来た。そして今、100年前のほとんどの人が想像しなかった文明の恩恵に浴している。しかし、その主体者で創造者はあくまでも人間であって完全完璧(かんぺき)などあろうはずがない。従って創造された文明も歴史も完全完璧ではなく、必ずや瑕疵(かし)がある。私などその瑕疵の多さで私自身に辟易(へきえき)している。
日韓で馴染みの深い中国古代の思想家孔子は言っている。

「過(あやま)ちては則(すなわ)ち改たむるに憚(はばか)ること勿(な)かれ。」

過ちに気づけば直ぐに訂正せよ、それが徳のある人間らしい人間であるということだ。治者ならばなおさらその勇気が求められる。
もちろんここに日韓での、更には世界での別はない。

私が最前提として確認しておきたいことは、明治時代1900年前後での日本の「征韓論」に始まり、1945年韓国「光復説」に到る対韓国40有余年の歴史の是非である。瑕疵の大元(おおもと)になることである。
そうでなければ、次のような日本の首相[内閣総理大臣]による、閣議決定を経た公的談話による謝罪があろうはずがないからである。そしてこの談話は、現在も引き続き継承されていることになっている。
それは、1995年8月15日、時の総理大臣村山 富市氏より出された『戦後50周年の終戦記念日にあたって』とのいわゆる「村山談話」である。その一部を抄出する。(抄出に際し一部改行している) なお、その文中で村山氏は終戦ではなく「敗戦」と明確に使っている。

――とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。 政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、(中略)また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。(中略) わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤(あやま)ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。―

ここで言う「支援する歴史研究」とは、善政もあったとの「も」を使う歴史研究ではなかろう。その上での信頼関係の構築でなくしては、非統治国民にとっては単なる政治言語による美辞麗句に過ぎない。そうでないからこそ「戦後処理問題」について「誠実に対応」するとの言葉が強く響いて来るのではないか。
また、「わが国は」以下2行での表現の率直さ、厳しさに、戦争を知らない世代であっても素直に同意したいし、「疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し」に、強い説得力を持っていると信ずるのである。
この談話を、談話の30年前1965年『日韓基本条約』と切り離して考えることはあり得ない。 しかし、2019年の今、日韓関係はこじれにこじれている。なぜか。
条約成立過程での日韓での意思疎通はどうであったのか。互いに国民の総意を得て条約成立に到ったのか、だからその問題は解決済みととらえ、こじれること自体に疑義を投ずるのか、それとも双方で或いは一方で、確かな相互理解、信頼が不十分であると思っているのか。
現日本政府は「完全かつ最終的にして不可逆的」に合意したことを議論の前提に置いているので、慰安婦問題であれ、徴用工問題であれ、これらの要求は国際道理・倫理にもとるものであるとし、共通理解が成り立つ最基盤さえない。 そうであるならば、どうすればこじれた糸を解(ほぐ)すことができるのか。

そもそも私たち日本国民は、日韓間に関してどのような歴史[近現代史]を共有しているだろうか。
一般書店の雑誌コーナーで度々見掛ける「嫌韓」「反韓」の歴史なのか、それとも真逆にある朝鮮への蔑視、植民地支配を謙虚に受け止める歴史なのか。
例えば、植山 渚氏著『日本と朝鮮の近現代史―「征韓論」の呪縛150年を解く―』の推薦文を草した歴史研究者渡辺 治氏の「共有するべき常識を示し、同時に私たちがいま、国民的に論議すべき問題」との考え方があることをなぜマスコミは報じないのか。
学校教育、とりわけ小中高校教育、では近現代史はどのような視野で教えられているのであろうか。
文明開化や殖産興業と併行して、例えば征韓論の意識的無意識的背景に福沢諭吉が、その著『脱亜論』の中で言う「朝鮮・中国=悪友」があったことはどのように言及されているのだろうか。

今、両者に和解点はまず見い出せない。それでも和解点を見い出す社会的合意の形成に向かわない限り、両国の対立は不毛なままで、結局は時が流れ、次代に委ねるとの責任回避、無責任に堕する、その繰り返しではないか。

では、日韓基本条約が成立した1965年とは、両国にとって一体どのような時代だったのか。
条約は、1965年6月22日に調印された。しかし、その成立過程を知る時、非常に複雑な思いに駆られる。 まず日本。12月に発効する直前に強行採決で成立している。次に韓国では、調印1年前から反対デモが激しくなり、非常戒厳令が出される中で調印され、8月には野党議員が総辞職し、与党のみで単独承認されている。
両国とも余りにもいびつな過程を経て調印、成立に到っている。これを、国政選挙で選ばれた国会議員によるものだから、多数決の暴力ではないと言い得るか。私には言えない。何となれば、選挙時の争点に「日韓基本条約」があったとすれば言いづらさが残るが、そうでなければ、更には国と国の間と言う新たな大きな問題を強行採決するのは、民主主義の根幹に係ることであるから。
では、この条約成立に向けて、それほどまでに急がせたのはなぜなのか。 そこにアメリカと日韓の経済の影が見えて来る。 アメリカのベトナム戦争への過度の介入と1965年2月韓国のベトナム派兵問題。
そしてそれ以前に韓国は、1950年からの3年間、半島を、民族を分断する朝鮮戦争(動乱)を経験している。
その時日本は、各地が、焼け野原と化した敗戦からわずか20年の1964年前後に高度経済成長を遂げている。これは朝鮮戦争特需と日米安全保障条約があったからのことである。

このような歴史を前にして、人間が歴史を創って行く、創って行かざるを得ない?虚(むな)しさと哀しみまた寂しさを思う。
私はここにおいて、日本は2000年来の交流を重ねる隣国、一衣帯水の国、韓国との未来の出発点とするために、明治時代から1945年及び1965年までの歴史事実を前提に、「日韓基本条約」に対して日本の首相・韓国の大統領をはじめとして社会的要職にあった或いはある人物がどのような発言をしたのか、『事実』を国民に整理し示していただきたいと願う。
私が調べただけでも、日韓で“揺れ”が多い。 このような願いは、その都度見解を述べて来たとする統治者からすれば、私の国民としての義務の怠慢との誹(そし)りを免れ得ないとは思う。
しかし、日本の植民地支配と侵略の傷の深さは、その先人の後を継ぐ「戦争を知らない」世代の一人としては重過ぎる。慰安婦問題、徴用工問題、サハリン残留韓国人問題、韓国人原爆被害者問題、徴兵での軍属従事と戦後の国籍及び補償問題等々、そしてこれらは条約と個人請求権や国際法の領域にもつながって来て、かてて加えて三権分立と国家、国家間と、余りにも問題が多岐で専門的過ぎる。

マスコミは、人々に事実を知らせると同時に、その事実が備え持つ経過を人々に、わかり易く知らせることも重要な職責であろう。その時、マスコミ事業体の自由な個性があって然るべきで、そこから諸情報を統合、総合して謙虚に己が判断を持つ自覚も生まれる。

先日、日本の前外務大臣が、韓国の駐日大使を召喚しての会話中、大使の言葉を遮(さえぎ)って「無礼だ!」と叱責した。ここに到る歴史経緯及び相互理解のための公人の会話として、許容されるのかどうか私たちはどれほどに考えたであろうか。場合によっては、世にはびこる「ヘイト・スピーチ」と同次元に堕する可能性もある叱責である。そしてその大臣は新内閣で別の大臣となり、何もなかったように時は移ろいで行く。

民間交流の有用性は言うまでもないことだが、私たち『日韓・アジア教育文化センター』での交流体験から、私たちの非力を受け止めつつも、或る限界を感じたりする。 それでも、多くの日本人、韓国人、中国人、香港人、台湾人の協力により、交流を重ねて行く過程で、教師間に、生徒間に篤い友愛は確実に生まれた。
そんなわずかな体験ではあるが、「親○」「知○」「克○」「反○」「嫌○」と言っている間は、相互信頼は生れないと実感的に言える。それらの言葉を越えたところに確かな、真の、しかも自然な信頼がある。
これは、古代中国の思想家の言葉を借りたまでのことである。
その意味からも、先に引用した韓国の国文学者の「愛と憎悪」に係る発言の意味は重く深い。 と同時に、 日本人学者が言う
――「併合」と言う用語は、韓国が「全然廃滅(はいめつ)に帰して帝国領土の一部となる」意味を持たせて作った新語であった。したがって「韓国併合」は「韓国廃滅」の本質を隠蔽(いんぺい)した用語であった。―― [君島 和彦氏「韓国廃滅か韓国併合か」『日本近代史の虚像と実像 2』所収] が、
日本を愛するが故の言葉としてどれほどに受け入れられるか、真摯に考えるべきことと思う。

言葉は、人を天に翔(か)け昇らせるほどの生を、一方で心臓を一刺しするほどの死を与える。ここまで記して来た人々の言葉は、それぞれ嘘偽りのない言葉のはずである。それらの言葉をどのように受け取るかは、それぞれに委ねられている。自問し、自答しなくてはならない。 今日の日韓の溝を前に、前回、日本語を指導する韓国人、韓国語を指導する日本人、への期待に触れた。他者に期待する前に私自身はどうなのか。前回から今回へ、私の内にあっては、問題の全体像が鮮明になったと思っている。機会を見出し、深みへと自身を導けることを思う。

2019年10月14日

33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から Ⅲ 中等教育[時代]後期(高等学校) その2

井嶋 悠

前回、全体的な事と高校卒業して10年後に、我が師となる国語科の先生二人のことを書いた。
今回は、他教科の何人かのやはり個性豊かな先生方に登場していただき、それらを通して、高校教育について考えを馳せてみたい。
劣等生であったがゆえに、ひょっとして考える好材料になるかとの期待も込めて。

【英語】  何人かおられたが、すべて男性日本人教師だった。  
精緻に文法を教授される若手の先生がおられた。先生は、黒板を一杯に活用し、何色かのチョークを使い、時に自問自答を含め、見事なほどに教えられるのであるが、私など到底ついて行けず、ただただ呆然と黒板を眺めていた。多くの生徒は、あの先生はいずれ大学に移るだろう、と大学の授業内容も知らずに勝手に言っていた。そしてどうなったかは知らない。

ここで、別のやはり真面目な婚約中とおぼしき男性英語教師へのちょっとした悪戯を紹介する。 その先生の授業は、見開き1ページで1課構成の英文解釈参考書であった。
先生は、毎時間初めに前回の小テストをされ、その上で次に入って行かれるのだが、「今日は誰にしようかなあ」と呟きながら指名される。そこには、何ら統一性がなく、はてさてどういう形で指名されるのか、一部で話題になった。
そこで、或る生徒の「前回のテスト優秀者が当たるのではないか」との発言が妙に説得力を持ち、その正否を証明しようということになり、実験台に指名されたのが私だった。
授業前日、懸命に復習等小テストに備え用意万端整え、稀有なことに授業を待った。
そして当日。何とそれまで一度も指名されたことがないにもかかわらず、いつもの「誰にしようかなあ」との呟きの後、私が指名されたのである。
数人の私たちの微笑みの眼が行き交った。

【日本史】 50代前後とおぼしき先生がしばしば毅然とした口調で言われた「歴史はうねりだ」との言葉は、その前後は覚えていないが、強く心に残っている。暗記モノの、知識の日本史ではなかったのである。 考えることに大きな影響を与えたが、大学受験とは別だった。
因みに、某私立大学受験で日本史を選択したが、当日見返しも含め最短の30分で退室した。その大学には合格した。

【世界史】 若手(30代だったように思う)の先生は、教科書として某出版社の大部な受験参考書を使い、それで授業をされ、生徒に質問し、答えるとそれは参考書の何ページのどこに書かれているかを確認され、正解だといたく満足げな表情をされていたのが印象に残っている。

他教科にも個性甚だしき先生方がおられたが、際限がないので、最後に数学から一人登場していただく。尚、音楽、美術は教えを受けたのかどうかすら記憶がない。  
その先生は大変きれい好きで、チョークをそれ用の金属の筒状のものに差し込み、黒板消しも静かに使われていた。ただ、私たち生徒から少々軽んじられていた。と言うのは、問題集授業で優れ者の生徒が入手した、「教師用解答書」そのままに、生徒の黒板解答を説明されていたからである。

【英語を第1言語・母語とする外国人教師[Native Speaker]の授業】   
なかったと記憶している。要は、英語の授業は、文法・読解・作文であった。  中高校時代、外国人英語教師に限らず外国人との出会いは皆無であった。
そんな人間が、教師としての最後の10年間、インターナショナル・スクールとの協働校に勤務するとは…!  ただ、そこで「公立英語学習」と“好奇心”が、会話することに有効であったことを実感し、外国人との会話は分不相応に増えた。もっとも懶惰(らんだ)な私、飛躍的進歩とは程遠かったが。

体育館は戦時中の工場跡そのままで、どうひいき目に見ても体育館にはほど遠く、部活動、生徒会活動 も低調で、小高い丘の上にあると言えば聞こえはいいが、登校時は往生した。
そして紹介した個性豊か な先生たち。今と違って(と思いたいが)、先生は先生、生徒は生徒のタテ社会。
受験生としての「四当五落」を切実に信じ、苦悩していた友人。
試験の点数ばかりを気にして、得意と する生徒に点数を確認し(因みに、私のところには国語、それも主に現代文で確認に来ていた)勝った、 負けたの狂騒動の、修学旅行で布団蒸しにされた同窓。
ガールフレンドができて休み時間はいつも二人 で過ごしている同窓男子を横に見て、サッカーや野球で発散していた私たち(一部)。
少々悪さが越して 他校に転校した中学からの同窓男子。
多くの男子生徒が憧れる“マドンナ”から、誰が年賀状をもらえ たか、何でお前がもらえたんだとやっかむ者もいて…。言い出せばキリがないのでこのへんで止める。
まあ青春時代と言えばそうだが、先の附高=不幸が甦る。 そんな中、それぞれに進路を決めて、それぞれぞれの道に。 私は浪人。仕事柄、74歳の今も現役がいる。

思い返せば思い返すほど、我ながらどこまで晩熟(おくて)で、お人好しなんだ、とつくづく感じ入る。情けない 話しである。
小学校、中学校、高等学校、それぞれに色彩があり、高校など灰色イメージがあるが、どうしてどうし て見ようによっては最も色彩豊かに浮かび上がって来る。とは言え、高校時代に戻りたいなどとは微塵 も思わないが、あの3年間は、大人への脱皮の一直線だったのだろう。だからその分憂鬱でもあったの かもしれない。

2019年10月3日

33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から Ⅲ 中等教育 [時代]後期(高等学校) その1


井嶋 悠

Ⅲとあるのは、個人的体験から「学校教育」を考える愚文の、小学校篇中学校篇に続く、第Ⅲ篇:高校篇との意味である。
個人的体験とは、自身の生徒時代及び33年間の私学中高校3校(33年間)での国語教師時代、そして23歳で世を去らざるを得なかった娘の学校不信であり、それらからの私の学校教育に係るホンネである。
このような気持ちに到らしめたのは、74歳という年齢になったことが私に何かを働き掛けているのだろうが、一番初めに記したように、旧知の友人でない或る方の私への一言が、大きく作用している。
いろいろなことがあり、いろいろな人に会い、いろいろな思いに駆られ、今日まで様々な人々の友愛、恩顧があってこそこんな私が来られた、と自照自省している過程で、その言葉は発せられた。
その言葉は何かを意図するものではない、当人の素直な感想なのだが、私にとって余りに痛烈であった。

「どうしてそんなに屈折してるの?!」

今後、その方とお会いすることはないとまで思わせたほどの、きつく突き刺さったこの言葉。非難するのではなく、人生を振り返る契機(きっかけ)をつくって下さったとの意味で感謝している。
本題に入る。

就職する生徒も多い時代、特に意識することなく高校進学の道にいた。そのための「進路指導」が、特にあったわけではなかった。
ただ中学3年次の修学旅行[当時は新幹線などなく、“修学旅行列車”で車内泊をし、東京方面に行った。]の列車内でクラス担任が行なっていた。“個人情報”など関係なく生徒たちがわさわさしている中で。このゆるやかさは好きだ。良い時代だったと思う。
一言で指導は終わった。「池附、受けたらどうや」。
池附とは、大坂教育大学付属高等学校池田校舎の略称である。他に学年で10人余りが受験することになった。
今回は、その高校で得た教育私感である。

高校になると、生徒も教師も中学以上に個性的だったとの印象が残っている。ただ「進学校」で、である。要は、全員が大学進学を前提としている高校である。
私は自身の教師体験から私学進学校は苦手である。高校時間=問題集解読時間のように思えてならないからである。
もっともその進学校と言っても2種類あることは知った。一つは、余裕ある進学校。一つはただ進学校で、私が最初に教師になった私学は前者であったので少しは私自身心に余裕があった。しかし二つ目の学校は後者で、これはどうにもついて行けず2年で退職した。
以前に投稿した、家族共々地獄の3年である。

立ち戻って、生徒自身の時。
私は合格の歓喜もなく、漫然と時に流れに身を置いていたといった風情であった。ただ、合格手続きに行った際、事務室窓口で入学式までの大量の課題には唖然、呆然した。 (尚、その課題の後始末は、入学早々の試験で確認され、校舎入口に全員の成績と氏名が、成績順に大きく公表された。学習(主に理数系)嫌いな私の自業自得とは言え、最初の屈辱である。)
賢い(≠勉強ができる)同窓は、入学間もなく、付高=不幸と看破していた。教科学習、課外活動等々含めての学校時間と考えれば、なるほどと後に得心した。

と言うことで、今日当然のように言われる「個の教育」を考えることを目的に、私にとって個性的教師を何人か取り上げる。
もちろん生徒にも多種多様な思い出深い存在はあるが、学校教育の主要素は教師にある、と教師体験からの自省と教師に係る娘の悲鳴があるからである。
教科全体(特に「5教科」)で言えることだが、「進学校」の標榜がそうさせるのか、概ね教科書学習は2年次に終わり、後は多くが問題集(それも高程度の)をすることが多かった。(この記憶は、かなり大雑把ではあるが、そういった印象、記憶が濃い)。
また2年次後半から(一学年三クラス×50人前後)三クラスは『国立文系』『国立理系』『その他』の組に分けられた。あくまでも“られた”であって、自主的選択ではなかったように覚えている。

【私に係る余談】
初め『国立文系』のクラスであったが、数学に全くついて行けず、或る日、勝手に『その他』クラスに移った。しかし、事前に伝えていなかったため、或る教師が逃避行(さぼり)と思ったらしく、『その他』クラス生徒に確認され、そうでないことが判明、私は叱正の難を免れた。
それにしても、「その他」とは、今日では到底考えられない呼称である。ただ、前二者の名称を考えれば、単純明快名ではあるが。

以下、強く心に残っている個性的教師数人を紹介する。
高校の教師像を考える一資料として。進学校と言う制約があるが。劣等生の私のこと、授業内容に係る記憶はほとんどない。
尚、表現に際して尊敬語表現に不備な点が多々あるが了解いただきたい。
圧倒的に男性教師が多く、ここではすべて男性教師である。
現在、その母校は進学校としての地位を一層定着させているが、仄聞では私たちの時代とは比較にならないほどに変わったようで、教科学習、課外学習併せて、自由な佳き校風にあるとのことである。

【国語】二人紹介したい。
◎一人は、生徒に非常に怖れられていた40代前半の教師で、古典を専らにされていた。先生は、いつも教科書を用いて授業をされていた。
何でも大学院で能楽を学び、剣道4段とかで、4,50センチほどの竹棒を携帯し、実に姿勢よく且つ朗々とした声で、黒板の文字も颯爽と授業をされていた。 先生は、教室に立っておられるだけで、近寄り難い緊張感を漂わされていたのである。
しかしなぜか、私をかわいがってくださり、時に私が後方に座っていると、「井嶋!前に座れ」と、かの竹棒で教卓の真ん前をさされるのであった。
この私への愛情が、後に、三つのことで深くつながるなど、誰が想像し得ただろうか。その三つのこととは、  
 一つは、私を非常に嫌悪していた(その理由は今もって分からない)或る教師が、職員会議で私の退学(放校)を持ち出し、先生が抗弁くださり、その動議は当然のことながら否決された旨、他の教師から伝え聞いたこと。  
 一つは、先生に乞われて長期休暇中の身の回りの世話をすることとなった。 先生は、旧家の子息で、老母と同居され、結婚、長女の出生、離婚と目まぐるしい流転もあり、私が大学進学後も世話は続いた。 そこで直面したこと。先生はアルコール依存症であり、ギャンブル依存症でもあったのである。そして長期休暇中は、ほとんど入院されるのである。しかし、私の中で反発、批判する気持ちは微塵もなく、可能な限り世話をした。  
 一つは、先生は後に公立高校に異動され、私が大学院生の時、一学期だけであったが、その高校の非常勤講師を仰せつかった。その数年後(この数年間のことは私の身辺事情の変容であり、ここでは省略する)、私が27歳の時、私を私立中高校の教育の世界に導いてくださったのである。   
つまるところ、この先生の導きがなければ、今の私はいないのである。恩師である。

◎もう一人は、いつも気難しい表情の50歳代の教師である。
教科書も指導されたのであろうが、私には難問問題集(現代文)の先生との記憶が強い。ただ、どういう問題に取り組もうが、必ずと言っていいほどに、女子生徒がいるにもかかわらず我関せず、終わりはストリップの話しで落ち着くのである。「赤や青のスポットライト云々」と始まるのである。私を含め多くの男子生徒は、おっ来たとほくそ笑むが、誰も軽蔑していなかった。
やはり近寄り難い人格がそうさせたのであろう。   
修学旅行(南九州)でこんなことがあった。先生は引率責任者として来られた。或る夜、就寝時間後、日頃私たち数人から、試験の点数競争ばかりする嫌な奴と思われていた生徒一人に“布団蒸し”の罰?を加えたところ、襖を破ってしまった。更には恒例?の枕投げを部屋越しにし、欄間を壊してしまった。
先生は、翌朝出発前に旅館に謝罪され、私たちを一切咎められなかった。無言である。その時、怖れが畏れに変わった。   
私が教師になってから、年賀状を出すようになった。いただく年賀状には、常に短い漢文・漢詩が添えられていた。私が劣等生であることを承知されてか鉛筆で返り点、振り仮名がつけられていた。劣等生が国語教師になったことへのご配慮なのであろう。   
或る時、一冊の書が送られて来た。『芸道の研究』である。私は二度畏れた。   
先生が亡くなって後、息子さんと会う機会があった。北海道の高校で教師(体育)をされ、20有余年が経つ。

次回は他教科の先生方のことを、その 2として記す。

2019年9月23日

自殺は哀しい・・・・・

+井嶋 悠

自殺は哀しい。しかしヒトが社会を構成している限り、自殺が無くなることはない。 自殺は人間だけの、生きると言う苦行[憂き世]での課題の一つである。

こんな言葉に出会った。19世紀から20世紀にかけての、フランスの社会学者デュルケームの『自殺論』に係る啓蒙書にあった一節である。(筆者は宮島 喬氏)

「自殺は、それ自体で病的なものともいえない。むしろ、日常のわれわれの行動とある場合には、類似したものであり、ある場合には内通したものである。」

そしてこの考え方を、社会的、道徳的な視点でとらえ、そのことから社会的、道徳的動物である人間の自殺という行為を視ている。
個人的には、自殺という何者も侵すべからざる領域について「論ずる」ことの疑問を持っている一人だが、この言説に説得力を感じた。
ただ、犯罪者の自殺については、そこに悔悟の情があったにせよ、上記の視点に同様に含めることには、私の中で未だ明確にできない。

自殺は自身を「殺める」こと。なぜ殺めるのか、理由は様々だが、精神的自己放棄は共通している。ということは、放棄せざるを得なくしたのは誰か。自分自身か。或いは先の言を敷衍すれば、社会であり、道徳か。と牽強付会を承知で言えば自殺は「社会的・道徳的殺人」とも言い得るのではないか。
とすれば自殺者は、加害者であり被害者である。そこを明確にしなくては、ただ哀しい一事で終始してしまう。それでは自殺者の供養にならないことに今更ながら気づく。
私は自殺を誉め讃えようと言うのではない。やはり哀しい。しかしただ哀しいのではない。もう一つの 「愛し(い)」があっての「哀・悲し(い)」に思い及ばさなくてはならないと思うのだ。

自殺で宗教を持ち出す人は多い。ユダヤ教では、キリスト教では、イスラム教では、ヒンズー教では、そして仏教では、……と。 信仰とは、己が信ずる神(仏)に心身を委ねることだから、その委ねているにもかかわらず自身で命を絶つことは明らかに神(仏)に背くことになる。 その意味では唯一神信仰は、自殺を厳しく戒めることが想像できる。

それをキリスト教でみてみる。 『項目聖書』(聖文舎)[現代に生きる私たちが出会うさまざまな問題を項目別にあげ、それに関する聖書の箇所を、本文そのままに並べたもの《まえがき、より引用》]で「自殺」の項目がある。
その中で、【新約聖書】の[マタイによる福音書]から、2か所採り出す。

◎青年の、永遠の命を得るには、どんな善いことをすれよいのでしょうか、との問いに対して、 イエスが答えた言葉「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」

◎イエスを裏切ったユダの描写で、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言って、首をつって死んだ。

前者は、自身を殺すな、まで含まれていると考えられるのだろうか。これは、解釈上、次の姦淫するなとの言葉の意味をどう取るかとも重なるように思う。また、後者は、社会的道徳的に許せない自身の懺悔の証しとして縊首自殺は自然とは思え、先にも記したが、私が採り上げる自殺からは外に出ている。

慈悲の仏教では、その主旨から、積極的に肯定も否定もせず静かに見守る、との姿勢のように思える。
イスラム教の場合、キリスト教以上に唯一絶対神性が強いように思え、その中にあって「殉教」という自殺[他者を巻き込むのでテロの一つの形としてとらえられているが]は、どのような見方が正当なのであろうか。
私の中では、明治天皇崩御での乃木希典夫妻の殉死、また三島由紀夫の切腹とも通ずることで、自殺の範疇とは違うのではないか、とも思ったりする。私の言う自殺は、もっと個人性の強いこととしてある。

19世紀のドイツの哲学者ショーペンハウエルに『自殺について』との著書がある。 そこには、30代の時と60歳前後の、かれの自殺観が書かれている。
両者に調子の強弱はあるものの、基本的に自殺を排斥していないし、キリスト教の牧師たちを痛罵している。
例えばこんな具合だ。 「死はわたしたちに必要な最後の隠れ場所であり、この隠れ場所に入るのに、わたしたちは、なんで坊主どもの命令や許可などを、受けなければならないのであろうか。」
また、ギリシャ時代の哲学者たちの一派であるストア学者の「自殺を一種の高貴な英雄的行為として讃美している」ことに触れ、引用している。

このギリシャ文化(ヘレニズム)とキリスト教文化(ヘブライズム)は、欧米(主にヨーロッパ)の思想家たちの間で、自殺擁護と排斥で常に意見が分かれている。ショーペンハウエルは前者である。
私は先にも記したが、自殺を讃美するほどの器量はない。しかし、否定し批判することはあり得ない。自殺者は死をもって、真実の最後の叫びを発しているのだから。だからなおのこと、かなしい。


日本は自殺が多い。数年前まで、世界の上位10カ国に登場していたが、ここ何年か減少傾向にあり、今は10位以内から外れてはいる。それでも毎年2万人余り(男女比はほぼ2:1)が自ら命を絶っている。 そして最近の傾向として、2000年前後から若者[15歳~24歳]の自殺が鋭いカーブで増えている。
因みに、現在、韓国は第2位となっていて、また日本同様、若者のそれが急激に増えている。 韓国の自殺理由は、日本と程度の差があるとは言え、重なることがあるが(例えば超学歴社会、超受験社会。高齢化者社会等)、ここでは日本について考える。

日本は四季折々の自然の恩恵を受けた山紫水明の国である。それらは人々の心に清澄さと繊細さを増幅させる。このことは『歳時記』の存在をかえりみれば一目瞭然である。しかし、一方で近代化を邁進し、常にその狭間で葛藤を持っている。その時、体感する疲労感は非常に大きいのではないだろうか。 今日(こんにち)にあっても、私は、謙虚であること、繊細であることのそこに“日本人性”を見たい。「私が、私が」「私は、私は」と前に出ての自己主張が自然態でできない、苦手である……。

そもそも、英語から入った3人称は別にして、1人称、2人称は表立って使わないし、1人称2人称両方で使われる「自分」などと言う表現もある日本語。 現代若者日本語はどうなのだろうか。
自己と他者の意識が強いとも思えなくもないが、どうなのだろう。 最後の勤務校で、こんな帰国子女(女子生徒)に出会ったことがあって考えさせられた。 彼女はアメリカの現地校に高校1年次まで在学し、帰国しクラスに入り、ホッとしたというのだ。教室でおとなしく、静かに座っていると評価されるから。アメリカでは己が存在を示す(アピールする)に大変で、ほとほと疲れた自身がいたから、と。
これは、典型的(と周囲から言われていた)インターナショナル・スクールのアメリカ人男性教師の日本愛(彼の場合、それは日本人女性愛へつながるのだが)ともつながるのだが、これは以前書いたことでもあり省略する。
ただ、彼はよく言っていた。「疲れた」と。

子どもたちを取り巻く学習環境は「塾あっての学校・学力」の観さえある。国際語英語でJUKUとして登録されているとか。加えて塾学習以外の、稽古事、習い事。あれもこれもで、忙し過ぎる。 大人も子ども疲労困憊の世界。
深謀遠慮なく、官僚的そのままの「働き方改革」「授業料無償」に視る微視的施策。情報過剰。溺死危険性さえある世界。都市部での(地方には都市部のような交通機関がない)電車、バス乗客のスマホ集中の異様な風景。そしてどんな言葉より頻度高く使われる国民的共有語「ストレス」。
これらと先の日本人性或いは風土は、どこでどう補完し合っているのだろうか。
若者と、新卒優先社会、それも何でもいいから大卒との歪んだ構造と大学の大衆化の負の側面、女性の社会進出の言葉(理念)と現実の乖離、やり直しを許さないかのような硬直化した社会……。
良いか悪いかは措き、日本人のもう一つの特性、「諦めの良さ」とは、この場合どういう意味合いで使われるのだろうか。
若者の自殺の増加は、大人(要は社会を動かし、形作っている大人)にあるのではないか。社会的殺人、道徳的殺人と謂われる所以である。

日本は無宗教の国と言われて久しい。結婚式はキリスト教で(最近は神道も増えつつある)、葬儀は仏教で、と信仰篤い国内外の人々から苦笑、揶揄される。 しかし、日本人は、本来(本質に持っているものとして)信心深い。すべての宗教を受け容れる、との意味で「無」宗教だと考えれば得心できる。ただ、眼に視える形で日常出さないだけのこととも言える。
信仰心は篤いのだが、確かな信仰者までには到らない。だから、独り懊悩し、心身動きがとれず、困憊した時、神(仏)に委ねず、自身で解決しようともがく。 現代社会に精神科、心療内科受診者が増えているのもそういうところにあるかもしれない。と同時に、そういう医療機関に行くことに、どこか抵抗感、恥じらい感がある若者も多い。
電話等で相談できる場が多く設けられつつあるが、例えば心から尊崇する、敬愛する恩師といった立場の人ならいざ知らず、優れた相談員と聞いていても、自身が他人に相談することに躊躇する若者もいる。
そして一切を自身で解決しようとする。

自殺と遺書。行動と言葉。 私は遺書に激しく心打たれる。極限の彼/彼女がそこにいる。極限を超えた“自然”の透明さがある。
近代史に一つの存在感を持ち、しかし自殺した二人を引き出す。
一人は1964年の東京オリンピックマラソンで銅メダルを獲得した円谷 幸吉。1968年1月に自殺。28歳だった。
その遺書で、ひたすらに親族に感謝の言葉を記した後、続けてこう書いている。

「父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。 何卒、お許しください。 気が安まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。 幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。」

(この後に、自衛隊関係者への言葉が続き、最後「メキシコオリンピックの御成功を祈り上げます」で終わる。)

もう一人は、童謡詩人・金子 みすゞ。 破廉恥極まりない放蕩無頼の夫と1930年離婚したが、娘を連れ戻しに来るとの手紙が来て、
「その前日、彼女は自分の写真を写真館でとり、桜もちを買って帰り、娘と風呂に入った。童謡を歌ってすごした。その晩、睡眠薬自殺。26歳。」 (勢古 浩爾氏著『日本人の遺書』より引用)
三通(夫・母・弟)の遺書の内、母へのものから一部を同書から引く。
「主人は、私と一緒になっても、ほかで浮気をしていました。浮気をしてもとがめたりはしません。そいうことをするのは、私にそれだけの価値がなかったからでしょう。また、私は妻に値する女ではなかったのでしょう。ただ、一緒にいることは不可能でした。」
「くれぐれもふうちゃん(娘の名)のことをよろしく頼みます。」
「今夜の月のように私の心も静かです。」
勢古氏は、この後にこんなことを書いている。書くというよりか叫びに近い。 「金子みすゞは弱かったのだろうか。(中略)死ぬ気になればなんでもできるのに、というのもウソである。」私は勢古氏に共振する。

今私は、疲れたと一言残し、自ら死出の旅に立った或る人物のことを思い浮べている。 きっと労苦からすっかり解放されたことだろう。

2019年9月18日

多余的話(2019年9月)    『望郷』

井上 邦久

 アジアモンスーンの蒸し器の中で精神修養をしているような暑さから一転して、朝の風を爽やかに感じました。
そして、その夕方に元関脇の嘉風の引退が伝えられました。夜、相撲番付を見ながら随分と細い文字になってしまった西十両七枚目の嘉風雅継の名も今場所で見納め、併せて大分県出身の関取が居なくなることに寂しさを感じました。
大分県佐伯市出身、県立中津工業高校から日体大に進学し、教師になるつもりだった小柄(といっても身長177㎝)な大西雅継青年は角界入り後、新入幕から59場所(10年)かけての関脇昇進は史上二番目の遅さ。「真っ向勝負・飾らぬ姿」で「年齢を重ねるごとに歓声が大きくなった」力士になりました。

同じ中津工業高校出身に中日・日ハムで活躍した大島康徳さんが居ます。
39歳10か月、2290試合を要して2000本安打に辿り着いた遅咲きの選手と言われています。43歳で打率3割、22打点を残しながら戦力外通告を受け引退しています。      
番付表を精読後久しぶりに個人ブログ『ズバリ!大島くん』を検索しました。『ガンでも人生フルスイング』という著書の題名どおり、手術後もNHKに出演し、明るい笑顔と軽妙な豊前弁で語り掛ける大島くんの日常を覗けます。
大島少年の才能を地元の相撲大会?で発見し野球部に勧誘したのが中津工業高校の小林監督でありました。その小林監督が立命館大学を卒業して社会科教師として赴任したばかりの頃、生家の井上茶舗の二階に下宿し、その家の軟弱な小学生を野球小僧に仕立て上げてくれました。
以来、高校野球の地方予選の報道が始まると真っ先に「中津工」の小さな文字を探しています。  

そんな故郷中津の赤壁合元寺の住職さんから盆前に頂いた便りに一冊の本が紹介されていました。檀家の一人でもある植山渚さんの新著『日本と朝鮮の近現代史「征韓論」の呪縛150年を解く』です。
小倉タイムス「街かど歴史カフェ」欄に連載された肩の凝らない短文が集成材かパッチワークのように交流史として構築されています。
「私たち日本人が態度決定する際に、少なくともこれだけは知っておくべきという、共有すべき常識を示し」(渡辺治一橋大学名誉教授の推薦文より)、150年前・100年前の交流や折衝そして葛藤が現在に繋がっていることを知らされます。  

折しも大阪開催G20でのモノ別れから始まる両国間の批判葛藤が「政治的断絶」→「経済的制裁」→「外交的齟齬」→「軍事的離反」へ向かい、止まらない汽車に乗ってしまったように関係が悪化した時期に重なりました。
植山さんの著作と経済産業省発表の安全保障貿易管理に関する通達を冷静に読み返すことが増えました。  

大阪高島屋での山口蓬春展で『望郷』を観ました。今回は小下図・小下絵そして本画を三枚並べて展示されているので制作過程がよく分かりました。
両極に棲むシロクマとペンギンが、同じ場所に居ることは自然界にはありえないことですので、この絵の成り立ちについての解釈には諸説あるようです。
ここは素直に上野公園での光景を描いたという説と、遠い故郷を思うシロクマとペンギンの淋し気な視線に『望郷』という画題を託したとの説を受けとめます。
1943年8月からの戦時猛獣処分対象にホッキョククマも含まれており、1942年から山口蓬春も南方戦線に従軍して戦争画を描いています。10年後の動物園でどんな想いで『望郷』の構想をしたのか?
また『望郷』といえば、今では湊かなえのベストセラーや映画が連想されるのでしょうが、高校の頃は黒板に『望郷』と落書きしただけで江田島海軍兵学校卒の高木先生や予科練出身の飯塚先生は機嫌よく反応して小半時、ジャン・ギャバン主演、植民地アルジェリアを舞台にしたフランス映画のエトランゼ気分方向に脱線してくれました。
なお、山口蓬春は小下図を名優中村歌右衛門へ贈り、小下画を後進の東山魁夷の新築記念に届けたとのことです。

前号『新聞記者』で触れた1931年に早世した北村兼子について、第一稿で命日を9月18日と誤記していることをご指摘いただきました。お詫びして以下に補足訂正させて頂きます。
 1931年7月6日 飛行士免許を得る     
      7月13日 盲腸炎の手術のため、慶応病院に入院     
            7月26日 腹膜炎のため死去。享年27歳。  
     8月2日  人見絹江、肺炎のため死去。享年24歳     
            9月18日 中華民国奉天(瀋陽)郊外の柳条湖 関東軍が南満州鉄道
                      線路を爆破                                                                                                                                                (了)

2019年9月12日

芸術の快に思うことつれづれ

井嶋 悠

先日、とんでもなく魅力的な女性に出会った。作品と写真の上で。 1980年生まれの女流銅版画家入江 明日香さんの個展に行った。
とんでもないと言うのは、精緻極まる技法で彫られ、描かれ、重いプレス機で印刷されている諸作品を鑑賞しての感想。フランス研修で一層磨かれた、淡く鮮やかな多色彩、幻想的な構図、そこに漂う徹底した女性の感性。
「一版多色画」という独自の技法も編み出し、今も毎年フランスに赴き修練しているという。 私は美を直覚し、それを引き出す技術にただただ感じ入った。それは以前投稿したダリが発する男性性とは違った、私が思う女性性で、感動の質は違っていた。

過酷なまでの重労働であるという制作の最中の写真も展示されていて、右手に無造作に貼られた大判の湿布薬に眼が止まった。その姿が、もの静かで、自然な表情の彼女に、なぜか強く相応して感じられた。
主に若い世代で、こともなげに「アーティスト」と言うのをよく目に、耳にするが、聞く度に、老人の固陋(ころう)な感性と分かりつつも。非常な違和感が起きる。シャラクセエと思うのである。ひどいのになると、ポピュラー音楽歌手がアーティストと自称している。ポピュラー音楽を否定しているわけではない。私たち世代に大きな影響を与えた一人、ボブ・ディランは、先年ノーベル文学賞を受け、イギリスのピンク・フロイドという特異で魅惑的なグループもあったのだから。その自称する感性が信じられないのである。 時代に取り残された老いの愚痴なのかもしれないが、私が不真面目で、自称する人が真面目過ぎるのか?
ただ、入江さんは自身をそう呼称しないだろう。と頑なに己が直感を信じている。

その芸術、技術とは表裏の関係にあって、そもそも芸術との英語ARTには、元来「困難な課題をたくみに解決しうる、特殊の熟練した技術」(『美學事典』弘文堂)との意味を併せ持っているとのこと。そして、ギリシャ時代の哲学者アリストテレスは、「必要のための技術」と「気晴らしや快楽のための技術」に分け、後者を芸術と考えたとのこと。(上記同書)また時代が下って、18世紀ドイツのやはり哲学者・カントは「効用的技術」「機械的技術」「直観的技術」と分け、更に「直観的技術」を「快適な技術」と「美なる技術」と分けたそうだ。(上記同書)
なるほどと思うが、そもそも美とは一体何ぞやとなれば、私など巨大迷路に入り込み、「直観がすべてを判ずる」と放言し、早々に引き揚げる。しかし、哲学なるものはおもしろいと思う。世には好きなことで身を立てている人が少なからずあるが、生きるからにはそうありたいものだ。

この直観については、元中高校国語科教師の立場で言えば、文学もそうだと思う。 太宰治26歳の時の、稀有な第1創作集『晩年』の各篇は芸術だと直観できるが、芥川賞作家の中でさえ、私にとって全く直観作用が起こらない人もある。
もう一人例を挙げると、自由律俳人尾崎 放(ほう)哉(さい)の、1925年ごろの代表作の一つ「咳をしてもひとり」。彼の人生遍歴に係る知識の有無とは関係なく、やはり芸術としての直観が働く。

ところがこの個人性は、映画となると、どうしようもなく不明快度が増す。映画の持つ娯楽性と芸術性。 黒澤 明監督の『七人の侍』は芸術作品として扱われるが、その西部劇版のジョン・スタージェス監督『荒野の七人』は、そのような扱いを受けることはない。
いずれも監督、脚本家の意図(主題)があり、それに従ってカメラ、照明、美術、音楽、衣装、編集等々様々な技術が結集され、フィルム(とりわけ映像フィルムだからこそ映し出せる光と影の対照、微妙な色調)としてスクリーンに映写される。そこに差違はない。しかし娯楽と芸術に分けられ、或る人は前者を軽んずる。
ジョン・フォード監督の『駅馬車』は、どうなのだろう?
因みに、『七人の侍』と『駅馬車』は白黒(モノクローム)で、『荒野の七人』はカラーである。

【余話】 1953年の制作で、ヴェネツィア国際映画祭で「銀獅子賞」を受けた(その年、金獅子賞はなし)溝口 健二監督の『雨月物語』のことを思い出した。白黒の光と影の美しい重厚な作品である。内容は、江戸時代の短編集『雨月物語』の中の2編を基にしている。 この作品が、イタリア[ヨーロッパ]で高く[確かな芸術として]評価された理由は、日本文化或いは東洋文化への関心と、映像美だったのだろうか。 私自身、率直に言って次に記す『かくも長き不在』ほどの突き刺さりはなく観終えた。
更に余話を加えれば『七人の侍』。後篇の戦闘場面について驚愕、讃辞が言われるが、個人的には前篇に漂う緊張感の方に、より見入られた一人である。


たくさんの映画を観て来て、時間とカネを無駄にしたと思わせる作品は多くある。一方で、強い感動と思考を与えられた作品も多い。どこに私の線引きはあるのだろうか。自身でも分かって分からない。 初めて芸術的感動を意識した映画は、20代前半に観た、フランスのアンリ・コルピ監督の『かくも長き不在』だった。
J・L・ゴダールの諸映画には、前衛の映画である、との頭で背伸びする自身がいて内容より音響/音楽に興味が向いた。
また小学校時代、父親によく連れられて観たディズニーのアニメーション映画は、今も心に焼き付いているが、いずれに属されるのだろう。

とどのつまり、そこにプロとしての技術が裏付けされている限り、観たときの年齢や家庭、学校等環境、社会や人間との葛藤の深浅等々が複雑に絡み合い、それぞれの場面で己が心への突き刺さり、そのことで生ずる浄化(カタルシス)の有無としか言いようがないのではないか。直観(インスピレーション)の心地良さ。清澄な刺激 美は永遠のテーマであり、だから或る人を芸術から宗教に向かわせ、芸術の宗教性に思い到るのだろう。
孔子も「礼楽」との表現で、心と音楽をすべての基に置くが、それとも通ずることではないのだろうか。

こんなエピソードを思い出した。20年ほど前の、同僚のアメリカ人男性教師との会話。 当時話題になっていた、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』の、ⅠかⅡ、どちらが、面白いかというやり取りで、私はⅠで、彼はⅡであった。
この会話、ただこれだけなのだが、それぞれの「おもしろい」の取り方に興味が湧き、いささか大げさな表現ながら、そこに日米文化相違があるのかしらん、とまで思うようになり、再度映画を観たというエピソードである。
三つのことに気づかされた。一つは芸術と娯楽。一つは近代伝統の違い、一つは個人性。 芸術と娯楽。
「おもしろい」の人それぞれの取り方 映画の娯楽性は、(娯楽性の定義は措くとして)他の諸芸術に比して群を抜いていると思う。その線引きについては先に記したが、私の中で『キル・ビル』は徹底した娯楽性との先入観があり、観ることは「私の娯楽性」の確認でもあった。
そしてⅠは、そのリズミカルな展開[編集]、難解な主題(テーマ)もなく、幾場面か酷いシーンが映し出されはするが、ひたすら荒唐無稽そのままに観る者の眼と心を跳ね回り、監督の楽しげな貌が想像されたのである。
ところが、Ⅱはうってかわって、荒唐無稽にして酷い場面はあることはあるが、どこか監督の眉間の皺が浮かんだのである。母と娘の「愛」(最後に具体的に表わされるのだが)に係る思考的感動を意識しているように思えた、残念ながらそれは私の琴線に触れなかった。だから、私には何とも中途半端な、時に退屈ささえ襲う作品であったのである。

このことは、二つ目の近代伝統の違いにも、私の中でつながっている。 映画は演劇ではない。当たり前である。舞台上でのセリフとフィルム上でのセリフは違うのではないか。欧米(特にアメリカ?)は、言葉を弄して自己を主張する。Ⅱでは、主要人物のかなり長ゼリフがあり、それも多くはカメラがその人物を正面から映し出すのである。
Ⅰの歯切れの良い娯楽性に魅き込まれた 私としては、舞台の映画版を観ているような、だからなおのこと違和感が生じ、退屈なのである。
これらは、娯楽性の高い映画を観るにしても文化的背景の違いはあるのではないか、との思いに到ったが、しかし一歩離れて思えば、彼は非常にまじめなアメリカ人で、私はお気楽な日本人とも言えるようにも思えた。
因みに、彼の夫人は落ち着いた雰囲気の日本人である。 誤解を怖れずに敢えて言えば、Ⅰ・Ⅱを作品の是非とは関係なく、私の中でⅠは抒情詩、Ⅱは叙事詩との印象が残っている。

話しを最初に戻す。 入江明日香さんの作品は、海外でも芸術としての評価が高いと言う。 直感的にその理由は想像できるのだが、何が、どこが、海外の人を、芸樹として魅了するのか、いつか機会を見つけて確認したいと思っている。それは改めて私が日本を知ることにつながることを期待して。