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2022年1月27日

多余的話(2022年1月)   『骨正月』

井上 邦久

正月早々の題名にしては少々物騒ですが、正月用の鯛や鰤の骨を食べ尽くして、正月気分に区切りをつける二十日正月を骨正月と呼ぶようです。関東での正月も幾度か過ごしましたが、骨正月は聞いたことがありませんでした。
大阪日本橋、文楽劇場の正月興行では舞台の高い処に一対の大きな鯛が向かい合わせに飾られ(張りぼてです)、ロビーには本物の鯛が睨み合って置かれています。
元は江戸時代の京や大坂の商家の「始末」の習慣の名残でしょうか、骨まで愛されれば鯛も本望でしょう。

人形浄瑠璃の近代化は繁華な道頓堀から大阪市西区に座を移させ松島文楽座と命名した1872年1月を画期とする、その強引な移転は新政府の渡辺昇(大村藩。1872年~権知事、1877年~知事)の威嚇誘導による、との後藤静夫さんの説を聴かせてもらい共鳴しました。されば、今年は文楽座命名150年となります。

川口居留地址から木津川を挟んだ江之子島には大阪府庁址の石碑があります。府庁舎も渡辺昇知事により本町橋の西町奉行所(現マイドーム大阪・商工会議所)から西区へ移設、正面玄関もあえて大阪港、川口居留地という開国開化側に開き、旧大阪市街に背を向けていたことは以前に触れました。
幕末の剣豪で、桂小五郎や新選組とも縁のあった渡辺昇の大阪近代化過程での剛腕ぶりが想像されます。
その渡辺昇の名も出てくる『五代友厚傳』(五代龍作著)の一節に「当時君は大阪開港の為め、内外百般の重要事務を一身に負ひ、威望勢力遙かに知事を凌げると、松島遊郭の設置に関しては、之に反対せる者尠なからざりし・・・」とあります。
1868年、慶応から明治へ、京都から東京へ時代が激変する中、五代友厚は神戸事件や堺事件という外国人殺傷問題の対応収拾に奔走し、大坂開市開港にともなう外事・税関を束ね、外国人居留地運営の傍ら、年末に松島遊郭を設置しています。
居留地近くの松島に遊郭を集約化させる行動が出身地薩摩の保守派・武断派に燻っていた五代友厚への嫉妬・羨望を批判・炎上に繋げたようです。
19世紀の半ば、欧州から極東にやってくる海千山千の外交官や冒険商人そして兵隊の実態について、堺事件を通じて思い知った五代流外国人封じ込め策が居留地隣接の松島遊郭設置でなかったかと邪推しています。

一年前、大河ドラマに連動して渋沢栄一周りの話題が増え、映画『天外者』により五代友厚にも注目が集まりました。
途中報告でも伝えた渋沢栄一の聞き語り『雨夜譚』や『徳川慶喜公伝』を丁寧になぞった大森美香の脚本は実直な書きぶりで好感を持ちました。
脇役扱いの五代友厚については豊子夫人が保存した書簡と、葬儀にも名を連ねた片岡春卿(来歴不詳)による略伝を基にしていました。

山に降った雨が数日の内に海に注ぐ国には大陸のような大河はありません。そんな島国での「大河ドラマ」であります。ドラマであって歴史ではないことは「多余的話(言わずもがなの話)」です。

東京商工会議所を創設した渋沢と大阪商工会議所の初代会頭となった五代を大まかに眺めると、まず寿命の長短の差が大きく、遺した著作の多い渋沢と書簡私信だけの五代の違いがあります。
財閥とは言えなくとも企業グループを形成した渋沢家と養子の龍作らも実業界には雄飛しなかった五代家後継の流れは交わっていません。

1868+77=1945 1945+77=2022

維新から坂を登り続けて77年、分水嶺から転げ落ちてから今日に至るまでの77年、足し算は単純ですが、歴史的には少し考え込んでしまう77年の重みです。
旧真田山陸軍墓地も文楽座も保存や支援が必要になっています。
この国にも疫禍の過程で蛻変と始末が必要だと思っています。
今年は「蛻変(ぜいへん)」と「始末」について書き下したいと考えています。

2022年1月17日

『老子』を読む(二)

井嶋 悠

今回は『老子』の第2章から第5章までです。

第2

 美の美たるを知るも、これ悪(醜)のみ、善の善たるを知るも、これ不善のみ。
有無。難易。長短。高下(高低)。音(楽器の音色)声(肉声)。前後。
聖人は無為(無為を為す)のことに拠り、不言の教えを行う。
辞(ことば)せず。有せず。恃まず。居らず。(栄光・誉)去らず。

◇絶対評価と相対評価。凡々たる人間教師が絶対評価することの難しさ。「秀」としたいが、何をもってそうできるか。平生評価と試験(レポート等提出を含め)評価、例え25人学級でも可能か。それが1学年3クラスとして75人。絶対評価に挑むことで高まる教師力?
偏差値評価の再学習の必要?或いは「ヒトがヒトを評価する」ことの必然性と成績評価について。
教師と生徒、その一期一会は可能か。平凡な教師と非凡な教師、と考えた時、私が出会った非凡な教師は唯一人?

第3

賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争そわざらしむ。
無為を為せば、即ち治まざるなし。←民をして無知無欲ならしめ、その知者をして敢えて為さざらしむ。

◇教育における欲望とは何か。上になること。競争という欲望。そこで問われる学力観。塾・予備校の学力観は、社会の、学校社会の学力観があって成り立つはずであるが、今逆転しているのではないか。
敢えて塾・予備校を廃し(禁止)すれば、そこに何が起きるだろうか。教師一人一人の、学力観、競争観が問われることになるのではないか。その時こそ、客観的且つ総合的入学試験改革が視えて来る。

第4章

道は虚しきも、これを用うればまた満たず。淵(えん)として万物の宗たるに似たりその光を和らげて、その塵に同す。⇔「和光同塵」

◇真に優れた者は、際立ったことを為さない。50年ほど前、数学の研究者を目指す、長崎県の離島出身の人物と出会い、懇意になった。温厚篤実、実に穏やかな人物であった。親しく話さない限り、彼が途方もない優秀な道程を歩み、だからこそ苦悶することもあった人物であることを誰も気づかなかっただろう。彼は10年後任地で没した。

第5

 天地は仁ならず、万物を以って芻狗(すうく)と為す。聖人は仁ならず、百姓を以って芻狗と為す。多言はしばしば窮す。⇒「学を絶てば憂いなし」、中を守るに如かず。

◇「あの学年は、クラスは云々だった」と学年やクラス概評を教師はよくするが、これほど“個”を切り捨てた表現はないとも言える。
多言(おしゃべり)は醜い。生徒は黙って瑞々しい感性で見抜いている。生徒たちの馬耳東風。先の話題も多言の一変形。

2021年12月22日

『老子』《老子道徳経》を読む

井嶋 悠

小学校時代は前半が母子家庭、後半は伯母夫婦宅預り、中学時代は反抗期に加えて新しい母との折り合い悪く、また学校では被差別部落問題が絡んでの暴力事件の多発、高校は某国立大学附属に進学するも勉学、生き様の要領の悪さも手伝って「青春?嘘でしょ?!」の日々、悲惨な浪人一年、高校教師の訳のわからぬ大学評価の煽りを食らっての、との責任転嫁よろしく鬱陶しい大学生活、というかほとんど登校せずの日々、にもかかわらず試験や卒論は二人分を、時には三人分を請け負い、父の私の非社会性?を案じてか大学院進学を奨め、何も考えずに受験したところ何と合格!しかし大学院入学直後からの全共闘時代。ノンポリよろしく遠巻きに見たり、時に先輩後輩からデモ、アジ、占拠の勧誘もあったりで、ただただ直感的共感にもかかわらず優れた闘士に倣って?1年で自主退学。その後、家を飛び出し東京での放浪生活。

かような劣等人があろうことか、教師に到る道程で経験した四つの不可思議を記す。

27歳での、第一の不可思議。

高校時代のアルコール依存症の恩師(国語科)の突然の電話で、西宮にある大学併設の名門女子中高校国語科の、半年間契約の非常勤講師に。
続いて第二、第三の不可思議。

非常勤講師の一年延長、更には延長後の翌年に専任教師に。真っ当に職に就いたのが30歳。
授業や生徒指導は、知的に高度な生徒に鍛えられ、校務は先輩教師に“お仕置き部屋”での説諭も度々、更には保護者会なるものの存在感も教えられ、「なでしこジャパン」草創期の女子サッカー部顧問(監督)に10年ほど心身一途の打ち込み。
夜はほぼ毎日の痛飲。もっとも教師仲間の酒席は、生徒と同僚と保護者の品定め会で、“放浪”経験者としては、ほとほと嫌になり喧嘩も重なり数年後に一抜けし、女性教職員の私の将来を案じての愛情あふれる憂慮が功を奏したか、33歳にして結婚。

その後、体よくいえば時々の感情、意思の高揚に導かれ、幸いにもいろいろな人々の支えと何よりも私を知る人々から「よくぞ離婚されずに済んだな」と讃えられるカミさんの理解と協力を得て、最初の勤務校に17年間奉職するも、夢を追い、吹聴者に欺かれたのも含め、生涯三校の私学を渡り歩く。
とりわけ二校目では理想[国際の標榜、個性重視等々]と現実[塾あっての学校運営、大学進学がすべての進学教科指導粉骨砕身教師=優秀教師等々]を全身で知らされ、2年で白旗。
カミさんと二人の子どもを抱えての2年間の浪人生活。時に年齢40代後半。

第四の不可思議。

インターナショナル・スクールと日本私学一条校が協働する日本最初の学校に。
そこで10年。しかし、権威と独善を正義とする2代目校長を含めた一部日本人教師との軋轢と憤慨。60歳半年前に退職し、不登校高校生を集めた某私立高校に非常勤講師勤務。

そこに父親の遺産問題並びに我が家の住宅ローン問題、実母と継母との疲れる関係が重なって江戸っ子カミさんの英断。転居先は栃木県北部。先ずカミさんが。娘と私は数年後追いつく。

その娘、後で知る中学校時代の教師のネグレクト(いじめ)、持ち前の意地と理解ある教師の支えもあって乗り越え、高校へ。しかし、自身の意思で進学した公立高校の、学校の、教師のいい加減さに幻滅し、在籍校の指示[「進路変更」]通りの退学届けを提出。通信制高校へ。そこで卒業。
母の元に行き、某有名私立大学通信課程に合格。これは彼女の資質の発揮。
彼女の死について、「後で知った」から社会への告発をしなかったわけではない。すべては、娘本人、母の希望であり、かつまた私の性向を知ってのこと。何度か告発しようかとも思ったが、周囲の、相手の反応等も予測が立ち、母曰く「必ずその教師には天罰が下る」に矛先も緩む。

その中学2年次の教師による傷は深く、悪戦苦闘の日々が濃い心身の疲労感へと変貌へ。母娘2人3脚で続く、車で往復3時間ほどの病院通い。娘が心休まる医師との出会い。
しかしそれも空しく、2012年4月 娘、悪戦苦闘空しく他界。享年23歳。

いろいろな事が起こるは世の常……。
私は私で人生の自照、自省の始まり。2000年前後から始めた『日韓・アジア教育文化センター』のNPO法人活動(2019年、法人を撤退)が、生きる意思の支えに。

老子の断片が頭を過ぎるようになり、精読へと私を誘う。そこで始めた「教育」経験者の私の「[老子]を読む」がこれ。

老子道徳経[上篇]

第1

道・名
無欲は妙(微妙な始源)、有慾は徼(きょう)(表面的現象世界)
玄(深淵)のまた玄は衆妙の門

無名=道=始源→→→有名=天地=母[母胎]→万物

◇学校は母性社会だと思う。包み込む社会。女性の母性と男性の母性が融合する場所。有名進学校、受験塾・予備校は父性社会だと思う。断ち切る社会。

◇キリスト教主義の全国の中高校教員研修会(於:御殿場)に参加した時の二つの印象的なこと。
・結石持ちが多いのは女子校教師
・昼休みにソフトボール等運動を積極的にするのは女子校教師

◇男女共学化が進む中で、男子校が共学になるのと、女子校が共学になるのでは、教師の対応困難さが違う。
そして男性は母性を憧憬し、女性は父性を憧憬する。その調和が、平和を、動的な静態を生み出す。

2021年12月22日

多余的話(2021年12月) 『carry-over』

井上 邦久

堀田暁生先生から旧陸軍真田山墓地の保存に関する資料を頂いた。大阪の上町台地を大阪城から南へ玉造・桃谷の辺りを歩いたときに墓地の一角に立ち寄り、町中のエアポケットのような印象が残った。
後日NHK「ファミリーヒストリー」で桂文枝(深夜ラジオ族の頃に馴染んだ桂三枝)の実父銀行員の河村清三氏は、徴集されるも結核を発症し一人っ子を残して陸軍病院で亡くなったとのこと。
その遺骨が何故か真田山墓地に残されていたことが番組取材で判明して、久々の親子の「再会」をしたことを知った。

今回の資料に接することで、1871年に設けられた旧陸軍真田山墓地について、西南戦争前の「生兵」(徴兵され訓練中の兵)から清国・ドイツの俘虜も含めて1945年までの戦争の歴史が凝縮された場所であることを知った。
戦時下でない兵舎で若い命を失った「生兵」や病死した兵のように戦死者以外の人たちも葬られている。
画像資料のなかには墓地参拝を続けている府立清水谷女学校の大正と昭和の女学生の写真が眼を惹く。
和装の女学生がゆったりしたスペースでお参りをしていた大正時代、憧れの清水谷ブルーチーフのセーラー服が、隙間なく並ぶ墓石の間にぎっしりと並んだ昭和初期の写真、わずか十数年と想像される時間の変化を如実に物語って余りある。

大手前、清水谷と並ぶ大阪市内の府立夕陽丘女学校の卒業生である赤松良子さんが12月1日から日経「私の履歴書」を連載中。
毎月の執筆者のパターンは、ほぼ似ていて、親や家の話から始まり、幼児期、学齢期、社会人としての苦闘期、そして成功の道筋が始まる後半生、引退して家族の話を済ませたら月末という流れで、これまで読んできた500人余りの中で作家の安岡章太郎だけが時系列編年体を排していたと記憶する。
歳を拾うと苦労話には共感を寄せても、他人の成功談や恋愛成就の話には「ああ、そうですか」という感じがして、毎月15日以降は読み飛ばすことが多い。
しかし、戦時下から戦後の夕陽丘女学校で英語学習を渇望し、津田塾で英語を学ぶのだという執念を実らせ、その後の東京大学・労働省への進路は女性にとって「狭き門」どころか、当時の労働省婦人少年局以外の政府機関には「門」さえも無かった時代らしい。労働省官僚から国連公使となり男女均等法への道筋造りに悪戦苦闘したことを連日書かれている。

赤松良子さんのIQはとても高いだろう、EQも優れているだろう、それ以上にWQが人並み外れたレベルだったことが半生記を読んで伝わる。(Will Quotientは商社の管理職になった頃に、自分勝手に定義した造語)

今回は月末まで熱心な読者となる予感がする。ここまでたまに見え隠れする。
夫君とご長男についてどのような内容をどのように綴られるか?或いは軽く触れる程度にされるか興味深く見守っている。 

日経新聞といえば、日曜版に吉田博/ふじを夫妻の画業について新たな視角から切り取った連載があった。上海史研究会では、金子光晴/森美千代夫妻の研究報告を聞かせてもらった。二組の男女に共通するのは鬼(夫/男)の居ぬ間の女性の才能の開花であった。
戦後、吉田博を見送ったあとの抽象画『赤い花』『黄色い花』は実にのびやかで、セクシャルでもあり、どこかジョージア・オキーフの作品を思い起こす。
金子光晴夫妻の上海、仏印、パリなどへの流れ旅の回想録は高度成長期になって『どくろ杯』などに結実する。だが、実際は森美千代の記述や記憶に依るところが多くあるという見解に至った研究者趙怡さん。
自らの語りかけによって、説得力が増し、著書『二人旅 上海からパリへ―金子光晴・森三千代の海外体験と異郷文学』にも興味が湧いた。

茨木千提寺キリシタン遺物に続いて、戦国河内キリシタンの本拠が四條畷の飯盛(山)城周辺にあり、四條畷高校時代に通ったバス停の地名がキリシタン遺跡に繋がる事に驚いた。
また茨木の福井村は日本最大の罌粟の産地であった事を記す資料に再度触れた。50年前に南茨木駅工事で発見された東奈良弥生遺跡の記念講演で「弥生人は右利きであった」と言う深沢芳樹さんの話は楽しかった。事ほど左様に身近に好奇心を刺激する材料が多く、来年に積み残しとなります。

米中韓が基軸である太平洋航路のコンテナ輸送での積み残しは、貨物だけでなく日本の存在そのものが積み残しにならないように祈る毎日です。(了)

2021年11月30日

多余的話(2021年11月)   「小春おばさん」

井上 邦久

10月後半からひと月近く穏やかな日和が続きました。小春日和。初冬の季語。中国語では陰暦10月を小春(xiao chun)と呼び、小春日和は小陽春(xiao yang chun)。
勤め人になった年、井上陽水のLP『氷の世界』を買いB面の「小春おばさん」を繰り返し聴いたことを思い出します。
感染が拡大した一年半前。基礎体力を維持し、免疫力を強化するのみと覚悟を決めた頃には夢の中でも、同じ井上陽水の「夕立」の歌詞~計画は全部中止だ~家に居て黙っているんだ、夏が終わるまで~のリフレインでした。
二度目の夏にも終熄せず、中国で躺平族(tang ping/寝そべり族)と呼ばれる若者のように黙って寝ていました。ところがNobody knowsのまま感染減少の小春がやってきて、時ならぬ「啓蟄」の虫のように蠢いています。

勤め人を止して上海・横浜から大阪に戻り、西区川口の居留地址を何度も歩いています。居留地研究の先生方や港湾関係の皆さんから、キリスト教布教活動や川口華商の活動について教わっています。
居留地址の隣の九条新道で繁盛している「吉林菜館」の女傑からは、国共内戦以降の大阪中華学校の創設経緯について縺れた糸を解きほぐしてもらっています。大阪へ越す前に住んだ横浜中華街福建路でも開港・居留地・華僑文化そして孫文に関する旧跡に触れました。その中華街を舞台にした映画『華のスミカ』を九条商店街の映画館で見ました。
横浜の中華学校を核として、中国革命・文化大革命、そして関帝廟焼失の渦中で華僑や華人が経験した対立と和解の歴史を政治から一歩引いた華僑4世が追いかけたドキュメンタリーでした。中華街の紅衛兵だった父親。家のルーツを知った十代半ばから「中国というもの」を避けてきた息子。父と子が対話するラストシーンが印象に残りました。https://www.hananosumika.com

子供の頃に町内の豪商の三男坊が東京で洋画家になったと聞かされていた、糸園和三郎の生誕110周年展を大分県立美術館で見たあと、中津に帰郷して、菩提寺で二年ぶりの墓参り。
村上医家史料館では1850年の牛痘接種記録と高野長英を匿ったという土蔵を見せてもらいました。
いつも立ち寄る木村記美術館で中山忠彦の作品を独占鑑賞してから、南部小学校の楠の大木に再会しました。100年前に難病治療のため小学校を去った糸園和三郎が心の道標とし、最晩年に描いた楠の大木。60年前に同じ小学校に心を残して去った小生も共鳴しました。
茨木山間部にキリシタンの里があったことを時々耳にしていました。現在は神戸市立博物館の所蔵となっている着色ザビエル像が千提寺の東家で秘蔵された信仰の対象であったことまでは聞いていました。

小春日和のドライブに誘われて朝採りの野菜の即売場で地産地消の定食に満足したあと、ローギアでしか登れないキリシタン遺物資料館に連れて行ってもらいました。
駐車場からの坂道の脇の石碑に「北摂キリシタン遺物発見最初の家」とあり、東さんのお宅でした。整理された資料群と内容の濃い解説書(2018年初版)で啓発されたことは、稿を改めます。
当日の発見は下り坂の路傍にありました。奇妙な縄張りをしている一角があり、片隅にマリア像が囲われていました。説明書を読むと、最初の遺物発見から間もない1923年に大阪川口教会のビロー主任司祭が信者を訪ね、1928年までに千提寺教会を建てた跡地とありました。ローマ教会と大阪川口居留地と茨木人キリシタンが繋がった厳粛な一瞬でした。
啓示、啓発を多く受けた小春の「啓蟄」でした。

映画、医学史、美術そして信仰の足跡という精神生活の刺激もさることながら、何にも増して大分の叔母が病を克服して迎えてくれたことが大きな慶びでした。煎茶の家元として卒寿には見えない背筋を真っ直ぐにした一人暮らしを続けています。昔話をしながら、幾度も美味(甘)い煎茶を淹れて貰いました。
戦時下に、大阪から疎開転校したもう一人の叔母や母親の女学校時代の話も聴かせて貰える大切な「小春おばさん」との再会でした。(了)

2021年11月27日

自殺

井嶋 悠

新型コロナ禍にあって、日本では自殺が、それも若い人の、増えているという。
日本の自殺は、ほんの数年前まで世界の、とりわけ先進国と言われる中にあって、上位一桁内にあった。様々な対策等が公・民で行われ減少し、ここ1,2年は世界10位外にまでなっていた中での増加である。コロナ禍がもたらす社会、個人への負の波及の大きさは、終息後すぐに解決するとは思えない。

そもそも「自殺」という言葉は、実におぞましく、忌々しい。どこにも救いがない。
私の知る、不登校[登校拒否]に陥った生徒を主体にした高校で、一人の生徒が自殺した。その時、その高校創設に尽力された或る教員が絞り出した言葉。「つくづく無力を実感した。」
その学校は、現在、この先の見えない社会にあって一層の必要性を痛感すると同時に、大きな壁を前に暗然としている旨聞いた。
私自身がかつて携わった学校も類似の課題の前にあり退職者が増えている。

「自分から積極的にそうすることを表わす」『新明解国語辞典』「自ら」、自身に刃を突き付ける行為。己への怨嗟(えんさ)。自殺。
或る人は生死一如として「自死」と言う。そこには静謐さが漂うが、私はそれを採らない。自殺の激情に怖れおののき、己の小人性の再認識を促す「殺」に得心性を持つ。理解ではない。
この発想には、自身の若い時代の苦悶、また近しい人の自殺からの、やはり体験が大きく影響していることは否めない。

因みに、英語では[suicide]で、この語根の[cide]は「殺し」を意味しているとのこと。最近見聞きする機会が多い「genocide」(民族大虐殺)ジェノサイドのcide《サイド》である。

こうしてみれば、殺の非人間性に導かれ、自殺と言うことへの躊躇は否定しがたいが、それでも私の中では、自死ではなく自殺である。

自殺は、しばしば倫理上の問題として採り上げられる。
欧米社会でのユダヤ教をも視野にしたキリスト教圏、アラブ圏のイスラム教にみる唯一絶対神の考え方からすれば、神から与えられた命を蔑(ないがし)ろにするとの意味合いにおいて当然非難の対象であり否定されるべき行為であろう。
慈悲と無の自覚の宗教、仏教にあっては、当然、死への洞察は多いが、自殺までに言及することはほとんどない。それが仏教慈愛の所以なのかもしれないが、その寄る辺なさが自殺への無抵抗感覚を増殖しているとも思える。信仰者が驚嘆する無宗教の脆さかもしれない。

そういった中にあって、19世紀のドイツの思想家、ショウペンハウエルは、冒頭「私の知っている限り、自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ教の宗教の信者達だけである。」にはじまる、その著『自殺について』の中で次のように述べる。

――キリスト教はその最内奥に、苦悩(十字架)が人生の本来の目的である、という真理を含んでいる。それ故にそれは自殺をこの目的に反抗するものとして排斥するのである。――

――深刻な精神的苦悩は肉体的苦悩に対して我々を無感覚にする、……我々は肉体的苦悩を軽蔑するのである。否、もしかして肉体的苦悩が優位をしめるようなことでもあるとしたら、それこそ我々にとっては一種心地良い気保養なのであり、精神的苦悩の一種の休止である。ほかならぬこういう事情が自殺を容易なものにしている。即ち並はずれて激烈な精神的苦悩に責めさいなまれている人の眼には、自殺と結びつけられている肉体的苦痛などは全くもののかずでもないのである。――

ショウペンハウエルは自説の肉付けに、古代ギリシャの思想家の言説を引用しているが、それらの中で2つ孫引きする。

「神は人間に対しては、かくも多くの苦難に充ちた人生における最上の賜物として、自殺の能力を賦与してくれた。」

「善人は不幸が度を超えたときに、悪人は幸福が度を超えたときに、人生に訣別すべきである。」

そして、今日も多くの!?人が逡巡し、中には決行の準備をしている……。

「自らの思想の立脚点を「ふつうの人」の立場におき、「自分」が生きていくことの意味を問い続ける」(著者紹介文より)、1947年生まれの文筆家勢(せ)古(こ)浩爾氏に『日本人の遺書』という著作がある。氏はその中で、様々な死を迎えた、あるいは追った80名ほどの人を採り上げ、その人たちの遺書に言及している。
遺書は死を前提にして書かれる、いわばその人の人生の集成が凝縮された文で、その背景を氏は以下の12に分類している。

〇煩悶  〇青春  〇辞世  〇戦争  〇敗北  〇反俗  
〇思想  〇疲労  〇憤怒  〇絶望  〇悔悟  〇愛情

ことさらにこの書を採り上げたのは、上記[疲労][絶望]に、このコロナ禍に生きる一人としてとりわけ心引き寄せられたからである。少なくとも私には、この二つの章で採り上げられた人々の言葉が、今に重なってあるように思えた。その中から3人引用する。

◇金子 みすゞ(童謡詩人)26歳で自殺
 死に際しての遺書が三通あり、その内母宛の遺書を引用する。

  「主人と私とは気性が合いませんでした。それで、主人を満足さ
  せるようなことはできませんでした。主人は、私と一緒になって
  も、ほかで浮気をしていました。浮気をしてもとがめたりはしま
  せん。そういうことをするのは、私にそれだけの価値がなかった
  からでしょう。(中略)今夜の月のように私の心も静かです。
  (後略)

その金子 みすゞを介して、勢古氏は次のように言う。
「人間評価の便宜として、強い人とか弱い人ということはある。けれど人間は、その意味をほんとうには知らない。なんのための強さであり、弱さであるかを、知らない。なぜ自殺をすることがよくないことなのかを、ほんとうにはいえない。」
私は「今夜の月のように私の心も静かです」に、みすゞの激情の沪過された清澄な心を思う。

◇太宰 治(作家)39歳で情死
妻への遺書は有名で、とりわけ「あなたを きらひになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです」の一節はしばしば引用される。
勢古氏はその一節について次のように書く。
「もしこれが本心ならば、それはほとんど、生きて行くのが嫌になったからです、という意味であろう。「小説を書く」ことはすなわち、生きること、だったはずだからである。」
太宰は、懶惰(らんだ)を自認していた。と同時に売れっ子作家でもあった。自殺を否定し、責める人はこの一事をもって、きっと太宰を非難し、嫌悪するであろう。いわんや妻がありながらの情死である。
しかし私は、太宰の心情に響くものを持ち、一方でマスコミの有名人への過干渉を批判的に思う。

◇秋元 秀太(大学生)19歳で自殺

彼の遺書は一篇の詩である。だからそのまま転用する。彼が死を意識したのは、当時いた合宿所での金銭問題での混乱からであって、彼の不祥事だったかどうかは誰も分からない。

   ――もうつかれた
     人にうたわれることにも/人をうたがうことにも
     もっと好きなことにのめりたかった/もっといろんなことが 
     やりたかった
     でも もうつかれた
     こんな弱い自分にいやけがさした/
     もっともっと強い人間になりたかった
     親を泣かせた自分がキライだ
     死ぬのはこわい
     罪はかんたんにつぐなえるものではない
     もっとおやじと楽しいさけをのみたかった
     みんなごめん
     みんな大好きだ/もっといっしょに居たかった
     強い心がほしかった――

私にも「青春」があり、「煩悶」があり、「憤怒」があり、いささかの「反俗」精神もあった。しかし、怠惰な私は決意することなく時を打っちゃり76歳を迎えた。その年齢から来る「疲労」を、時に「絶望」さえ交えながら思うことはある。
生きることを自身に問うにふさわしい新たな時機を迎えているのかもしれない。

2021年10月21日

多余的話(2021年10月) 『牛の話』

井上 邦久

9月に触れた『僕の訪中ノート1971』(編集工房ノア)は、1971年2月20日、(晴)から始まる。
10時、香港最北駅の羅湖に到着。橋を一人ずつ歩いて渡り、深圳側の人民解放軍兵士が機敏な動作でパスポートチェック。
広州行きの列車待ちの深圳駅前には水田が広がり水牛が緩慢に動いているように見えた。その日が晴か曇りか記憶にないが、初めて接した兵士と水牛はよく憶えている。

水牛の角を見て、岡本太郎デザインの近鉄バッファローズの帽子を連想した。読売巨人軍の背番号3を長嶋茂雄に譲り、関西の鉄道会社系の近鉄パールズの監督に就任した千葉茂。その現役時代の愛称として親しまれた猛牛にちなんでバッファロー(ズ)としてイメージ一新を図った。
その後変遷を経て、オリックスバッファローズとなり、今まさかの変身を遂げつつある。近鉄バッファローズは系列の航空貨物会社のアメリカンフットボールチーム名として健在であることを、北京駐在時代に飛び込みセールスしてきた「牛突猛進」タイプの営業マンから教えて貰った。

J&J須賀川工場のある福島県中部は「中どおり」と呼ばれ、今井工場長夫人がMidwayと訳された記憶がある。
三春町の張り子細工とともに、会津の張り子の赤べこは実に可愛い。ただ赤い牛の黒の斑点には注意を払わないままだった。

この数ヶ月、天然痘のことを香西豊子さんから学んだ。
昨年来の疫禍について専門家諸氏が百家争鳴し、科学的とは思えない言説もある中で、医療系社会学者の香西さんの新聞発言に注目した。
近作の『種痘という〈衛生〉近世日本における予防接種の歴史』(東京大学出版会)は8,800円+税という価格もさることながら、果たして読み通せるか自信がなく思案した。

市立図書館には置いて居らず、ダメ元で購入申し込みをしたら、府立図書館の蔵書を期限付きで仲介貸出してくれた。期限が限られていると意外な集中力が上がるもので、日本における天然痘の歴史は、蘇我氏物部氏の対立の頃から始まるという文章の流れに何とか乗ることができた。
江戸時代まで頻繁に発生し、子供が罹りやすく命を落とすこともあった。隔離手法や漢方人痘療法もあったが、達磨などの赤色の玩具、源為朝の疫病退治図、赤飯、茜木綿の病衣などにより、赤色は天然痘の発疹の赤を制して取り去ると信じられた。滝沢馬琴日記などを引用して、子供達の発症、闘病、快復(或いは夭逝)の記録解説が詳しい。

罹ることは仕方ないが、なるべく軽めに済ませたいという「With天然痘」の習しがあったことに着目した。また無痘地域として、八丈島・熊野・岩国・大村などが知られおり、岩国藩主は明治まで誰一人罹患しなかったという。城下から錦川で隔てられた山城で生涯隔離されていたのだろうか?
その岩国藩から池田瑞仙錦橋という治痘医師が幕府の奥医師に異例の抜擢をされ、実子池田京水、二代目瑞仙霧渓(平岡晋)が「池田痘科」の名を成した。

1849年を画期として牛種痘の時代に入る。
ジェンナーの美談(?)として知られる牛種痘法は18世紀末にイギリスで実用化され、1802年にインド、1804年にはバタヴィア、1805年にマニラそして広東/マカオに伝来した。イギリスが中国に阿片を持ち込み、天然痘の種痘法を伝えた時期はほぼ同じであるとの事。

日本では天然痘とは長い付き合いで、民間では怖れつつも手なづけ、「池田痘科」一門の人痘ウィルスの施術効果もあって、牛由来の舶来手法の必要を渇望することも少なく、外来物への保守的な風土も邪魔をした。しかし、1849年長崎オランダ商館医のモーニケと佐賀藩侍医の楢林宗建の連携でバタヴィアからの牛痘苗が一人の児童に活着して情況は大変化。
1849年から1850年の短期間に桑田立斎らが十指に余る種痘奨励書・手引書を出版している。このあたりの動きの速さには驚嘆する。

各地に種痘所が設けられ、江戸は神田の種苗採取所が後の東京大学医学部に繋がるとの事。更に佐賀藩と並んで先駆的だった福井藩侍医の笠原良策や大阪の緒方洪庵らの活動を経て、蝦夷地や琉球も含めた津々浦々に牛痘接種が普及し罹患者が減少したとの事。
牛の天然痘(牛痘)が牝牛(vacca)乳房に発し、そのウィルスを使う牛痘種痘(vaccination)がワクチン(疫苗)の語源で、パスツールがジェンナー顕彰の為に、牛痘由来以外の免疫抗原をも広くワクチンと呼び一般名称にしたとの事。

折よく、仏教大学OLC(OpenLearningCenter)講座が10月から始まり、香西教授の『「疫病」に向きあうー日本列島における治療と予防の歴史』全6回も開講。
初回は都合でオンライン受講、来月は教室に向かう予定なので、上述に繰り返した「・・・との事」接種の受け売りが増殖することは必至。

疫禍の下、巣籠もりしながら感染病の基礎知識の一端を囓ることで、若い時から読みあぐねていた森鴎外の『渋江抽斎』を今回は一気に読了できた。
また、夏目漱石が生涯気にしていた「痘痕(あばた)」も幕末までの子供の通過儀礼であったと知った。
どちら事も得がたい副反応効果と捉えている。

2021年10月6日

日本から米国へ、韓国から日本へ ―大谷 翔平選手・春日王元幕内力士-

井嶋 悠

Ⅰ:大谷 翔平選手

以下のアメリカ大リーグにかかわる発言は、下記書物からの引用転載で、その部分は「 」で示している。伊東 一雄・馬立 勝著の『野球は言葉のスポーツ―アメリカ人と野球―』

私には夢が一つある。いや、この年齢となればよほどの環境変動がない限り、あったの方が正しい・・・。
それは、アメリカ大リーグの試合[公式試合ならどのような組み合わせでも構わない。ただジャイアンツは避けたい。日本のジャイアンツが嫌いなので。]を観ることである。但し、希望条件があって芝生の外野席で、陽光を燦燦と浴び、好きな所に座り、アメリカのビールを片手に、あのパサパサのパンのホットドッグとポテトチップをほおばることのできる球場でなくてはならない。
現職時代、出張でロスアンジェルスとサンフランシスコに行ったことがあったが、あそこ(カリフォルニア)の陽光は、現地の日本人が言うには、カリフォルニアは年中春で、言わば人を確実に鈍化させるほどに平和と温和さを兼ね備えた陽光の地である、と。だから屋外球場であることが最前提である。これについて、シカゴ・カブスのオーナーは言っている。

「野球とは陽光を浴びてプレーすべきもので、電灯の光のもとでプレーするものではない。」

こんな言葉もある。

「屋根付き球場は自然の中で楽しむ本来のスポーツから外れた、ビジネスとしてのスポーツの要請から生まれた施設だ。野球を室内競技に変えた不自然さが生んだ、まことに不自然きわまる出来事だった。」

(編著者の言葉)


観覧するチームに日本人選手がいればもちろん応援したいので、一応国旗を携えて行く。

もっとも夏のナイターもまんざらではないことは経験上否定しないが、やはり陽光の方がいい。そうかと言って高校野球を観に行きたいとは思わない。理由は単純である。あの野球があってその学校があると言う営業性があまりに多いのと、高校生=純粋無垢との性善説が苦手なのである。だからそれらの逆が登場すると結構テレビ観戦に向かう。

妻は、高校野球には大いに関心を示すが、プロ野球にはとんと興味がない。かてて加えて海外旅行など全くと言っていいほどに関心はない。しかしパサパサのパンを非常に好む習癖があるから、この企画には恐らく乗ってくるかも、と想像するが確率は限りなくゼロに近い。

そんな似非プロ野球ファンと言うか少しは知っている程度で、それも選手名で言えば田中 将大君で私の知識は休眠状態にある。
そんなところに、選手として人格として欠点がないのが欠点との印象を持つ大谷 翔平君の出現である。エンゼルス初期の頃のインタビューで、今までの野球生活の中で、最も記憶に残る試合は何か問われ、しばらく考えた後、小学校時代にピッチャーをしていたことです、とか、日本人の取材で趣味はと聞かれ、岩手には何にもないしなーと応える、見事なまでに余裕がある20代なのだ。彼の行くところすべてにほのかな笑みの気が漂う。
ホームラン王を争っているレゲーロ選手も言うように、母の胎内に神の手で送り込まれたとしか、それも可能な限り人間らしく振舞うどこにでもいる人間として、送り出したとしか思えない今シーズンなのだ。来シーズンも、そしていつか地球を立ち去るまで成長して欲しいと思わざるを得ない。その時こそ彼は真に天才の「天」と言う語を自己のものとし、人間として余生を送るだろう。
尚、ここで天才との言葉を使っているが、「天才とは1%の才能と99%の努力」との、確かエジソンだったかの、言葉を思いながら使っている。

今も根強くあると幾つかの場面で言われる、アメリカの人種差別[有色人種蔑視、侮蔑の感情をもってアジア人と一括りにする発想]またパールハーバー襲撃を憎悪し続ける心が、アメリカ中南部を中心にあったとしても大谷選手は軽々とそれらを乗り越える天性を備えている。否、乗り越えるといった人為性ではなく馬耳東風であるように思える。

イチロー[鈴木 一朗]氏も、10有余年のアメリカ大リーグ生活の中で、多くの記録を塗り替えた選手だが、私には大谷選手とは全く別なものを思う。
イチロー氏はどこか古武道士の印象が漂い、それは日本代表チームを「サムライ」と言うに近いもので、やはり天賦の才に恵まれたのであろうが、私の中では天才が放つ陽明性、少年性がないのだ。
巨人でプレーしたことがあるレジ―・スミス氏がこんなことを言っているそうだ。

「ベースボールはプレー(遊び)だが、野球はワーク(働き)だ」と。

大谷選手は日本人の好む「道」とは無縁で、どこまでも遊びの域に貫かれている。遊びの天才と野球道の天才。そして私は野球に「道」を求めたいとも思わないし、だから「サムライ」との名づけにも違和感を持っている。
野球は老若男女が人生とは?といった哲学に心かき乱されることなく一心に楽しめる娯楽であると私は思うし、だから陽光が必要不可欠なのである。ホームランは当然賞賛に値するも、その丁度裏返しの三振王でも何ら責めない。アメリカのアメリカたる所以と思う。

大谷選手は、来季の契約でアメリカ的に莫大な契約をするのだろうが、イチロー氏は既に億万長者に到達している。そして、大谷選手はカード一枚に何億もの金を畳み込む天才性を想像するが、イチロー氏の場合何十冊もの整理された通帳に留めおくそんな天才性を思ったりする。一野次馬としては、大谷選手の契約更改で彼が何を言うか興味津々である。イチロー氏の時はどうでもよかった。尚、初めに引用した同じ人物[オーナー]の言葉に次のものがある。

「大リーグ野球はビジネスというにはスポーツでありすぎ、スポーツというにはビジネスでありすぎる。」

尚、大リーグへの先駆者とも言える1968年生まれの、大リーグ在籍12年の野茂 英雄氏がいるが、大谷選手とは26歳の年齢差があり、私自身西鉄黄金時代のあの奔放性とか大洋のホーム球場での野次は絶品とか野球そのものとは関係がないことだけに興味があっただけのことで、ここで氏には立ち入らない。

野球はアメリカの国技の一つで、その国技で当事者たるアメリカ国民を熱狂させた二人。とりわけ大谷選手への熱狂。彼には、異文化理解も異文化間葛藤もほとんどない、なかったのではないか。体中の感性がアメリカに融合した外国人の大谷選手。またそれを支えた日本人通訳の水原 一平氏の気配りと謙虚さ。
国技の国アメリカから日本の野球に入る選手も多いが、それはあくまでも「助っ人」としてである。
大谷選手は一日本人として、アメリカの国技に熱風を、アメリカに限らず世界に吹き込んだのである。

Ⅱ:春日王関

では、日本の国技と言われる大相撲(法令上国技として登録されているわけではないが、古代からの歴史と伝統から国技として扱われている)ではどうか。多くの日本人を熱狂させた外国人力士はいるだろうか。高見山関を思い浮かべる人もあるだろうが、大谷選手ほどの熱狂さはなかった。
やはりモンゴル勢かとは思うが、相撲協会、NHKまたそれに肩入れする人にとって、大相撲はあくまでも聖なる競技であり、当然「道」の完遂こそ目指すべきこととして見られるのでどうしても?がつく。
例えば、将来それらの記録を破る力士はないだろうと言われる白鵬関。横綱前半期は、その片鱗を感じさせたが、後半期はあくまでも勝つことを至上とすることで批判を一身に受けた。
そこでは結果がすべて、勝てば官軍風潮の、現代社会の世相から抜け出すことができず、白鵬にいいように振り回された感を私は持っている。

それは相撲をどうとらえるかということであろう。私は、ここ何年か前から、相撲協会、NHKの姿勢に疑問を持っている。場所数の問題。地方巡業の在り方、財政問題等、私が想う伝統文化の姿ではない、商業性もっと強く言えば拝金性に陥っているように思えてならない。
白鵬関は今年(2021年)7月場所の千秋楽で照ノ富士関と競ったが、結果は白鵬関でも、内容は同じくモンゴル出身の照ノ富士関に横綱の風格を思ったのは私だけだろうか。
その相撲はスポーツとして扱われるが、はたして例えば野球とは同じスポーツではないように思えてならない。それは相撲SUMOで、しかも大相撲である。

モンゴル人力士は26人で、内直近の横綱5人の内モンゴル人が4人占めている。
しかし、ここでは『日韓・アジア教育文化センター』として、また二国間交流史の最も長い隣国、一衣帯水の国韓国からの挑戦者を思い起こしたい。

韓国には、4,5世紀からの歴史を持つ、韓国(朝鮮)相撲伝統競技「シルム」があり、そのシルムの漢字表記が「角力(すもう)」であるとのこと。これからも近似性に考えが及ぶが、ただシルムは組手から始め、相手を倒すことで勝負が決まる。韓国からの現時点で唯一の力士が、シルム出身の元幕内力士春日王関である。
以下、経歴等『ウキペディア』から適宜引用転載する。

春日王 克昌(かすがおう かつまさ、1977年生まれ– 現44歳)は、韓国・ソウル市出身。本名キム・ソンテク(金成澤、김성택)
3歳の時に父を亡くし、ソウル市から仁川市に移り、母子で裕福ではない生活を送る。小学校4年生の時にシルムにテコンドーから転向した。中学校、高校、大学でシルムに精進し、大学3年生の時に大統領旗統一壮士大会無差別級で優勝した。
その後20代春日山(元幕内・春日富士)に誘われ1998年春日山部屋からの誘いに応じ、大学を退学し入門。
稽古熱心で素直に指導を受ける努力家であったため、相撲文化の吸収も早く、時を経ずしてネイティブ並みの日本語を話すほどになった。
順調に出世して2000年1月場所に幕下昇進、幕下優勝も経験して、初土俵以来23場所後の2002年7月場所には十両に昇進し、初の韓国出身関取となった。十両3場所目の2002年11月場所では十両優勝を遂げ、翌2003年1月場所の新入幕では早々に10勝5敗の好成績を挙げて敢闘賞を受賞した。
この活躍を受けて、一旦は「日韓共同未来プロジェクト」の名のもと2003年にソウル市の蚕室(チャムシル)体育館(ソウルオリンピックの会場の一つ)で戦後初の「大相撲韓国公演」を開催することが決定されたが、中国などでのSARS流行にともなう渡航自粛で延期となった。
延期されていた韓国公演は2004年2月14~15日にソウル市の奨励体育館で、同年2月18日にプサン市の社稷(サジク)体育館で開催された。
この際の春日王の番付は十両であったため、本来なら海外公演には参加できないところ、相撲協会の特別の配慮で参加できることとなり横綱朝青龍以下の幕内力士40名に春日王を加えた41名の力士により行われた。
横綱春日王は土佐ノ海関らとともに、ソウル市内や釜山市内にある地元初等学校や日本人学校小学部を親善訪問して生徒たちに稽古をつけたりした。
また公演のプログラムでは、観衆に対し大相撲について解説するスピーチを行なったり、本人以外全て幕内力士で構成されたトーナメントで横綱朝青龍を破るなど善戦し、地元の観客を大いに沸かせた。
その後、膝の怪我から十両と幕内を往復する中、2011年十両優勝を果たした。しかし、その年に起こった八百長問題に連座し、引退。

【人物像】について、やはりウキペディアから一部を引用する。

  ◎性格が非常に温和で、土俵や稽古場を離れると良く人に気遣い
   が行き届き、ニコニコと笑顔を絶やさずに人当たりがよく、来
   日わずか数年とは思えないほど流暢な日本語を話すことなどか
   ら、後援会や春日山部屋周辺住民をはじめとしてファンの人気
   は絶大で、好調時はもちろんのこと本場所で連敗が続いた場合
   には、部屋にファンからの激励の手紙やファックスが多数舞い
   込む。

   ◎早くに父親を亡くし、幼少時から母親が掃除婦などをしながら
   身を粉にして自分を育てるのを見てきたため、母想いは人一倍
   である。初来日して春日山部屋での稽古を見るなどして相撲の
   迫力に触れ「ここで成功すれば、親孝行できるのではないか」
   と考えたのが角界入りを決心した動機であり、またその後の精
   進の原動力になっている。
  入門後は一切無駄遣いをせずに貯めたお金で母親のために住宅を
   購入してプレゼントしたほか、母親が入院・手術した際にはす
   ぐに飛行機で里帰りして見舞い、万一手術後の予後が芳しくな
   い場合には日本に呼び寄せて近くで看護したいと願い出てい
   る。

  ◎力士養成員(幕下以下のいわゆる「取的(とりてき)」)時代
  から、部屋が主催する地元川崎市内の教育機関や地域奉仕への催
  事に精力的に参加し、2002年6月11日に川崎市役所を表敬訪問し
  た際には、川崎市長から「春日王関は地元の誇り」とまで言わし
  めている。反面、ひとたび土俵に上がると真剣そのものでプロ気
  質に富んでおり、今まで何回も怪我をしてきたものの決して泣き
  ごとは言わず、観客の見つめる本場所の土俵上では多少の怪我程
  度では絶対にサポーターや包帯を付けないという信念の持ち主で
  もある。

春日王は八百長に連座し引退した。それから10年が経つ。罪を犯せば罰がある。その罪はその人の死後まで消えることはないのだろうか。私はそうは思わない。そこに罰に生きる重みがある。
春日王の人柄が、上記の言説通りならば、その苦しみは本人が最もよく心に留めているはずだ。
今、実績のある彼の働きが求められているのではないか、と【日韓・アジア教育文化センター】の一人として思うし、センターで得た韓国人の友人たちも同じではないかとさえ思う。
日韓関係は、1965年の日韓基本条約ですべて解決済みと日本側は言う。しかし、韓国は謝罪を求め、日本はその話しは済んだはずだと言う堂々巡り。ここにはいわゆる「政治」が跋扈(ばっこ)しているように思えてならない。そして中にはそのことから嫌韓、反韓日本人になる人もある。同時に韓国でも嫌日、反日に油を注ぐ人は絶えないのではないか。

韓国の映画技術は、また入場料を取って観せる姿勢は日本より勝っていると思う。韓国ポップ音楽に、韓国ドラマに心酔している人も多い。東京・新大久保、大阪・鶴橋を歩けば韓国に浸っている若者を数多く見ることができる。
モンゴルや西側諸国もいいが、かてて加えて主にシルムに励む若者にも眼を注いで欲しい。
そのことで、力士の粋な浴衣姿、個性あふれる化粧まわし、行司の装束の絢爛(けんらん)豪華、天井から吊り下げられた伊勢神宮の形式をかたどった屋根等、力士の取り組みの勝ち負けだけではない、いろいろな発見が改めて気づかされるだろう。そのことで何千年の文化交流史にみる共通性、相違性に気づかされ、間欠泉ではない真の友好国関係に貢献するのではないか。

隣人を愛すことは難しい。しかし、今時の若者は清々(すがすが)しい、と思いたい。

2021年9月19日

多余的話(2021年9月) 『厳修』

井上 邦久

盆と彼岸の途中の9月10日は若冲忌です。
疫禍のため打ち揃っての彼岸法要は今年も中止する旨の連絡が届きましたが、若冲忌は厳修(ごんしゅ?)します、とのことで朝から伏見深草の石峰寺へ向かいました。
盆に暑さを言い訳にしてパスしたので、春の彼岸以来の伯父・叔父の墓参でもあり供花を剪定してもらいながら、この二人には地元の「玉の光」を献上する方が喜ばれるなあといつもの様に思いました。
先に墓参りをして自分用の更地の草を抜いてから、若冲忌法要の末席に並びました。
この日だけ公開される石峰寺所蔵の若冲の真筆を住職の解説とともに拝見するのも毎年の習いとなりました。
今年は9月になって澤田瞳子さんの『若冲』を読んで、付け焼き刃の耳学問が増えたこともあり、小説の舞台での気分が昂揚しました。恙なく法要が厳修され、裏山の五百羅漢を巡り、山門を抜ける前に伯父・叔父から日本酒の「下賜(おさがり)」を厳修しました。

この夏に逝った今井常世さんは、米国留学や外資系経営で培った合理精神と信州戸隠神道の家風が見事に混合された方でした。
加えて折口信夫(釈超空)の高弟だった尊父の来歴を語ってやみませんでした。折口全集の年譜に「常世」と命名という記述とともに手書きの赤ん坊の絵が書かれていますねと伝えた時、高名な国文学者/民俗学者が身近になり、常世さんの含羞を感じました。

赤ん坊必需品のベビーパウダー(天花粉)の開発で、ジョンソン&ジョンソン本社や須賀川工場の皆さんとの交流が続き、中国南部の広西壮族自治区の桂林をベースキャンプとして奥地の滑石鉱区へ日米合同調査隊が何度も訪れました。
1980年代初頭の中国は「地方分権」「外資・先進技術利用」「外貨獲得」が奨励される掛け声先行の時代でした。
出張先で言葉と文化の橋渡しを担う今井さんの助手役として、田舎町で葡萄酒を捜し回り、ワイングラスを見つけては小躍りして一緒に磨き上げるような牧歌的な交流が続きました。
J&J本社の研究トップのアシュトン博士は龍勝県政府の宴席でバイオリンを奏で、山村の子供達にはゴム風船を配って人気者になっていました。一方でNASAの航空写真を内々に開示して桂林地区に良質の鉱脈が存在する根拠を教えてくれました。
また、滑石(タルク)鉱区にはアスベスト鉱が混在するケースがあること、アスベストの針状結晶の顕微鏡写真を示して発癌性リスクのメカニズムを強調されました。
中国の処女鉱区と米国の先進技術を繋ぎ、日本が「補償貿易」形式でトラックと滑石鉱石を交換する。秘密の花園での幸福な日米中合作の時代でした。

毎年の誕生日に合わせて、下鴨神社の糺の森での古本市と大文字送り火を楽しみにしてきた荒川清秀さん、今年は上洛を果たせず昇天されました。正月早々唐突に「余命数ヶ月」の連絡があり、愛知大学の豊橋キャンパスでの恒例の花見にかこつけ会食もできましたが、7月の押しかけ見舞いには「自主的に面会忌避・謝絶したい」との意向を受け、豊橋一歩手前の岡崎で引き返しました。
二十歳頃からの学兄です。着実緻密に中国語用例カードを蓄積し、その成果が中日大辞典にも採用されていました。後に東方書店「東方中国語辞典」の編纂に従事し、『近代日中学術用語の形成と伝播 地理学用語を中心に』で清末・幕末/明治の漢語交流を日本由来/中国由来の両面から分析して博士号を取得。
単純で粗雑な日本からの一方的な新語授与説に一石を投じました。ラジオ/テレビで講師を務め、今年も「テレビで中国語」テキストに連載寄稿をしています。

9月号は購入して「あの人の文章にしては珍しく余白が広い」と言う奥さんの言葉を思い出しながら余白の意味を味わっています。「12月号までの原稿は書きためているよ」というご本人の律儀な言葉も耳に残っています。

清末民初の教育学者に厳修(Yan Xiu・げんしゅう)がいます。天津での家塾を育てて南開大学の始祖の一人となり、海外の教育制度導入に注力し幼児教育・女子教育そして師範学校を設立しています。
恩師の高維先先生の思い出を綴るときに、恩師が天津で受けた百年前の教育事情や横浜の大同学校との関連について、厳修や教育史に詳しい朱鵬先生から教わりました。直前まで壮健そのものだった天津出身の朱鵬教授も昨年9月12日に東京で急逝されました。

「関西で唯一の文芸専門出版社主・涸沢純平が綴る、表現者たちとの熱い交わり模様、亡き文人たちを語る惜別のことば。奥さんと二人の出版物語。」と清楚な装幀をキリリと締めた帯が語る『編集工房ノア著者追悼記 遅れ時計の詩人』を著者・発行者のご夫婦から直に購入しました。
正直に言うと『1971年 僕の訪中ノート』を入手する目的で編集工房を訪ねたのでしたが、涸沢さんの語り口に曳き込まれ、帰宅後はなだらかな文章に惹かれました。
この散文詩のような追悼記を読んで、生きていくとは、去る人や逝く人をしっかりと見送り、その人を忘れないで、心の中で一緒に生き続けていくことなのだと思い定めました。落ち込むことなく9月を迎えています。

9月9日は毛沢東、9月10日は日本で最初のBSE罹患牛、9月11日はNYの3000人近い人たちの命日です。無反省に生き返らせたり、20年戦争を続けたりしてはなりません。牛のことは来月に綴ります。 (了)

2021年9月5日

日韓・アジア教育文化センター 回帰? ―私の5か月の空白から私に問う―

井嶋 悠

今年3月以来の投稿です。

私(わたし)的には2か月くらいの空白時間と思っていましたが、5か月経っています。光陰矢の如しです。
ひたすら驚いています。11か月後に迎える喜寿は、何事もなければ、これまで以上にいや増して速いものになるかもしれません。ますます厳しく時間と体力が問われることでしょう

表現に必要な諸々は底をついていますが、それでも投稿し、『日韓・アジア教育文化センター』の新たな継続の可/不可を自身に叱咤し、これまでに関わった人々に意見を聞く願いが、今回の主題です。

「隠れ○○」との表現があります。周知のそれに「隠れキリシタン(切支丹)」がありますが、私の場合は、その衝撃度からも教師体験で得た「隠れ帰国子女」を借用することが多かったです。その「隠れ○○」を模しますと「隠れ日韓アジア・教育文化センター:ブログファン」がおられたことを思い知らされました。何とその方(旧知の方ではあるのですが)から、つい先日に「3月30日をもってぷっつりですが云々」の便りをいただいたのです。

その方はドイツ系の血を持ち、私の悪評高き文章[長い!屈折している!理屈っぽい!等々との鋭角評を少しは改善したつもりなのですが]を読んでくださっていたのです。小躍りしました。
とは我田引水ではないか、この数年毎月、日中文化・社会を様々な視点で、今日までに蓄積された叡智からのぶれない投稿『多余的話』をくださる井上 邦久氏(元商社マン、現若い人への還元と更なる蓄積に東奔西走されています)のファンと言うのを躊躇され(その隠れファンと井上さんとは面識がありません)、私への配慮からそう書かれたのではないか、との思いに到ったのです。事実、井上さんのブログ投稿を楽しみにしておられる方があることを承知していますので。

5か月の空白は、心と身体が加齢について行けずの息切れによるものですが、76歳の誕生日[8月23日]以降歯車への給油(もちろん軽油です)も徐々にでき始め、錆びつき、部品の破壊も緩み、今回に到った次第です。

ありがとうございます。お二人にひたすら感謝しています。

『日韓・アジア教育文化センター』発足は、1994年に神戸で開催した『日韓韓日教育国際会議』に遡りますが、その背景の一つに中高校の一国語科教師であった私の日本語教育への関心がありました。
それは日本語以外の言語を第一言語とする人のための、第二言語としての日本語教育[JSL]という言わばタテの関係を、ヨコの関係からみようとするものでした。
私には、その視点が国語科教育をより豊かにするように思えたのです。そこで私的な研究会を立ち上げ、いささかの活動を始めますと、共感する人が何人か出て来ました。
そのような折、ソウルで日韓国際理解教育に係る国際会議があることを知りました。好奇心だけは一人前の私は、当時属していた学校法人理事長に打診したところ何と許可くださり、校(公)務出張で行けることになりました。

そしてせっかく行くなら外国での日本また日本語の実状をこの眼で確かめたく、人間(じんかん)発想そのままにソウルでの韓国人日本語教育教師との出会いを求めました。1993年のことでした。
決まるときは決まるものです。そのときの韓国人日本語教師の一人は、その方なくしては本センターの存立は考えられないほどまでに、学校での要職と併行し尽力くださっています。

そこから数年後、日韓中台による会議と発展させ、一時期NPO法人にまで昇格?させる等紆余曲折ありましたがとにもかくにも今日に到っています。
尚、会議開催の数年後、台湾との縁は切れました。中国本土は北京と香港の日本語教師とネットワークができたのですが、「香港問題」を含め諸事情から現在は疎遠になっています。

このような活動途次で出会った青年映画人等の尽力で制作されたドキュメンタリー映画【東アジアからの青い漣】など、詳細は、その映画制作者たちの手になる本センターホームページ《jk-asia.net》を見ていただければ理解いただけると思います。

世界の科学者が新型コロナの収束に向けて奮闘されていますから、きっと来年には収束するのでは、と期待していますが、そうなれば本センターも是非活動を、空白期の時間をエネルギー充填期ととらえ、新たな展開がならないかそれとも役割は終わったのか、いずれかを一層考えるようになりました。
もし再興できるならば、とこれまで続けて来た事実を大切に、勝手に思い巡らせていますが、いざ意見をと言っても容易に出て来ない、集まらないのも世の常です。

そこで個人的仮想を挙げます。
この発想は今も続く、時にはこれまで以上に叩き合いの予感もある日韓の軋轢、日本での(日本だけではないですが)コロナ禍での誹謗中傷、差別はなぜ起こるのかを自問するところに根っ子があります。こんな仮想です。

以下の主題による学生[高校生か大学生]同士、教員[大人]同士によるシンポジュームです。

◎主題は、老若を越えてどこかたがが外れたとも思える一見自由な社会にあって、Lookism[外見尊重或いは外見至上主義]と整形文化について、両国の若者と社会人(大人)で意見交換し、そこから共有できること、できないことを確認し、それぞれの「現在」を見るというものです。
ここでの講師[基調講演兼コメンテーター]招聘は思案中です。

もう一つは、
◎両国の、或いはいずれかの、先進的取り組みを行っている高校訪問です。
ただ、ここで言う「先進的」の意味・内容については、類語としての「イノベーション」とも関わり、事前に日韓・アジア教育文化センター(理事)間で、「私にとってのイノベーションとは?」といったことについて意思疎通を図る必要があります。

会場はシンポジュームとも関係しますが、韓国が良いようにも思います。いずれにせよ助成金獲得との難題が待ち構えています。

いかがでしょうか。

私は冒頭に記しましたように後期高齢者で、ことさら口出すことではないとも思ったりはしますが、一方で、1994年来続けて来た交流、とりわけ日韓交流が、一つの成果を持ち得ているように思いますこともあって、今ここで完了とするのはもったいないような気持ちがどうしても起こって来ます。

是非ご意見をお聞かせください。