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2019年8月1日

33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から Ⅱ 中等教育[時代]前期(中学校)

井嶋 悠

東京から、再婚した父の“新家庭”西宮市に移った。広く関西で言えば“戻った”。そこには継母がいた。 父の気遣いは、幼い私でさえ容易に察せられた。新幹線のない時代、何せ母の勤務地の近くの停車駅のホームに母が居たのである。何も分かっていないのは私だけだった。
大坂駅から私鉄に乗り換え西宮に向かうのである。途中「十三」という駅があり、父に「何と読むか分かるか」と聞かれ「分からない」とかすかに答えたことが、今も残っている。
東京の小学校でそこそこの成績だったからか、当初、私立中学校を受けさせるつもりだった父は、それなりに情報を集めていたようだが、或る“有名校”で対応した教師に幻滅し、地域の公立中学校に進学することになった。

劇的!?で激動!?の中学時代の幕開けである。

入学式、数人からのグランドでの袋叩きに始まり、卒業式での同じ彼らからの1週間前死刑宣告による学校側非常態勢まで。
要は途方もなく「荒れた学校」だったのだ。そこで身をもって知らされた厳しく根の深い同和問題。
抽象より具体の体験学習の重み。この体験は私の人生観、教育観、教師観、更には歴史観に決定的とも思える翳と陽の端緒を与えたと思う。
世にはびこる善悪の吟味もないままの概念的知識を振りかざす人々への疑問、虚しさ。その私が、その概念性と正義性が頻出する教育の世界に、33年間浸ることになるとは・・・。

中学校初日(入学式・始業式)と最終日(卒業式)初めの、またその間での顛末は以下である。

ほとんどの生徒が小学校の延長上で集まる公立中学校。誰も面識者のない私は、隣席にいた生徒に親愛を込めて会話し、頭を軽くこづいた。それが、彼の、彼らの尊厳と歴史をどれほどに侮辱したかなど、つゆ知らず。それがすべての始まりだった。
帰路、待ち受けていたのが、グランド上での、彼からの連絡網で集まった数人(4、5人)の仲間からの殴る、蹴るの復讐であり、罰であった。
保護者は入学式後、既に帰宅していた。 私は隙を見て逃げ帰るだけであった。その場に居た生徒から教師に連絡が行ったのであろう。その日の午後、ホームルーム担任教師ともう一人の教師が自宅にやって来た。
そこで知った地域の問題。 一方の当事者である私は、そのことで不登校にもならず通学を始める。愚鈍な私だからできたのかもしれない。
と言うのは、教師としての最後の勤務校である不登校高校生を主に集めた学校に2年程講師生活をした経験、また娘の死へつながる彼女の体験から、中学校時代の感受性の複雑な豊かさをひしひしと思い知らされ、自身の幼さを振り返りそう思えるからである。

学校で彼らと行き違うたびに浴びせられる憎しみの視線。そうは言っても、彼らも他のことで忙しく?私への一件は、過去のこととなりつつあった。
繰り返される生徒同士の地域間抗争をも含めての争い、血を見る喧嘩、教師への暴言暴力、他校生徒の授業中の乱入、校舎裏に引っ張り込んでの定期的恐喝(カツアゲ)……。
一部教師の見て見ぬ振り、彼らへの迎合的発言、そしてそんな日々に辟易する教師たち。 コトの事情を呑み込んでいる生徒たち(先述したように大半は小学校からの延長上)の「君子危うきに近寄らず」。

この中学校は、部(クラブ)活動が盛んだったが、こんな事件もあった。 当時、サッカー部は阪神間のトップを競う戦績を挙げていて、体育の時間などサッカーをすることも多くあった。後で気づいたのだが、資質の高い隠れた選手を探している節もなきにしみ非ずで、と言うのは、どうしたことか、この私が顧問(監督)誘われたからである。
先に記した学校状況もあって、父は入部に反対であった。もっとも私自身関心もなく実現しなかった。 サッカー部は戦績からも、やはり目立つ存在で、時に「彼ら」の攻撃対象になることがあった。
こんなことが起きた。些細なことで有能な選手が、彼らから「制裁」を受け、両足を骨折したのである。
言い出せばキリがないほどに様々な事例が想い起こされるが、よほどでないかぎり表沙汰として問題化することもないほどに、私たちの心は麻痺していた。

一方で、その地域に在って、卒業後の進路差別を承知した、成績人物共に優秀な生徒。また暴力グループからの方向転換を図り立ち直ろうとする生徒。その生徒たちに強く教えられたもう一つの体験。
前者の生徒。女子生徒で卒業後進学せず就職したこと。就職する以外に選択肢はなかった彼女。それも身内の中での就職。
後者の生徒。彼の学習、生活のサポートをクラス担任から指名され手伝ったこと。
今思い返せば、なぜもっと足を踏ん張って自己学習しなかったのか、高校への進学進路指導で某国立大学付属高校受験を薦められた、ただそれだけの私だったことが悔やまれる。

卒業式学校側態勢となった背景でもある、3年次での事件と卒業式当日。
放課後の廊下で、入学式のあの連中から金銭要求を受け(額は100円前後だった)、拒否したところ羽交い絞めの暴行。それを目撃した生徒の教師への駆け込みで彼らは1週間の停学(自宅謹慎)に。
その逆恨みと彼らの3年間の鬱積が、そのような心へ導いたのか、卒業式数日前に、校舎裏に呼び出され一言。「殺したるからなっ!」
日頃、有言実行を(殺すはないが)見ていただけにその恐怖。帰宅後、親に相談し、親が学校に連絡し、学校から「正門横に親戚かどなたか若い人を待機させてください」との依頼。 そして卒業式当日、終了後、式会場の体育館から正門まで、両側に在校生や教職員が立ち並ぶ路を歩み、迎えの人と足早に帰宅。
それ以後、彼らと二度、一度は電車駅構内で、一度は知人宅近くで出くわした。駅では衆人のため睨みつけられるだけで済み、知人宅近くでは石を投げつけられ、あわててその知人宅に逃げ込んだ。
彼らのその後は伝え聞くことはあっても、実際は知らない。

この卒業校に20年ほど前勤務していた方(教師)と話す機会があり、現在、全くそのようなことはないとのこと。地区自体も様相が変わり住宅地等となっているが、一部地域では、変化は外貌だけで、その根っ子を今もって抱えている現実を伝え聞くこともある。

ヘイトスピーチが様々な領域で顕在化しつつ問題となっている。ヘイトスピーチを発する人の中には、己が発言の正当性を公然と主張する者もある。しかし、多くは疑問視し、悪行と思っている。当然である。
しかし、この哀しみは恐らく人間世界が続く限り、あり続けるのだろう。 或る友人は、差別はなくなると主張するが、私はどうしてもそう言い切れない。言葉で論を張ることと現実の乖離の痛覚。そこから生れる差別心を常に自覚する重要性に私の心は向く。
そんな私だが、歴史的、本質的に根が深過ぎる。いつ、なぜ、どういった人たちが、その根を生やしたのか。結局は、私も同じ穴の貉(むじな)・・・。

『日韓・アジア教育文化センター』の活動を続けて来たがゆえに、最近の日韓問題で思うことも多く、先日も「日韓の“溝”を考える」との表題で、拙稿を書き、韓国人の仲間がハングルに翻訳し、韓国の韓国人日本語教師の会に発信してくれた。光栄なことであるが、責任は重い。

教育世界は、倫理的側面が強いのでやむを得ないとは思うが、善的概念論が多過ぎる。教師は今もって聖職者なのである。或いは聖職者意識が強い。だからと言って、皆と同じ世俗者としての人間、と安易分類をするつもりもない。そこに教師であることの難しさを思う。
2017年3月、私の住む所にほど近い那須岳で、高校登山部の冬山訓練中、雪崩で県内数校から参加していた生徒の7人と引率教員1人が死亡し、現在係争中である。
以前投稿したことでもあるが、教師時代スキー行事の引率、指導をした経験で言えば、明らかに教師の、自然の脅威を忘れた惰性的運営、驕りが元凶にあると、私は思っている。私の場合は、たまたま事故がなかっただけのことである。

先に触れたように、私が直接に知り得た幾つかの地域で、残滓があるとは言え、かつての呪縛から解かれ、新興地として住宅や商業地が広がりつつある。それらは意識化した人々とそれに共感した人々の成果である。政治は後からである。

近代化邁進の現代、抽象的な言説からいかに具体的に、何を、どのような視点で視、若い人にどう伝えるか、あれもこれもと多忙を極める子ども達。それも速度(スピード)を求められる情報洪水時代だからなおのこと、教師の力量が試されている、と引退した無責任さは重々承知で、思う。

中学時代の、もう一つの体験。 3年次の同級に、眉目秀麗、学力優秀、温厚篤実な男子生徒がいた。私に友情を感じ、よく話し掛けて来た。私もその優しい人柄が好きだった。ただ、彼の話す言葉は、女言葉であり、動きは女性以上に女性であった。掃除中など、後ろに下げた机に私を押し倒し、口を近づける、そんな悪戯をよくして来た。
最近、その系列の男性たちが、表舞台によく登場する。その人たちを見る度に、彼は、どんな人生を歩み、今どうしているだろう、とやはり複雑な思いで振り返る。
中等教育での[LGBT]教育の現在、大人側の、それも政治家たちの根深い偏見と差別発言が繰り返されているが、生徒・教師・保護者の意識は、螺旋的に紆余曲折を経ながらも上昇しているのだろうか。

今も中学校時代、特に2年生をピークに、問題が多く噴出する。それほどにこの中等教育前期は子どもから大人への巨大な転換期なのだろう。
中高一貫の有効性を学習面から見る偏りではなく、人格陶冶の視座から[中高校8年(6年+2年)]を考え、同時併行で就職の道、進学の道に向けた中高校卒業後社会の制度的、意識的変革を、少子高齢化だからこそ為し得る千載一遇の時機、と重ねて思う。

次回は、私の学歴感(観)の原点?とも言うべき、中等教育後期、高校時代を顧みる。

2019年7月20日

天才・その“相対”を超えた存在 ~サルバドール・ダリ鑑賞~

井嶋 悠

福島県磐梯会津高原の中程にある、サルバード・ダリ(1904~1989)の作品所蔵で世界的に著名な『諸橋近代美術館』に、妻と行った。
ダリの絵画、彫刻作品の鑑賞2回目である。 ダリの、私が前回行った時と違ったテーマでの、新たな展示である。
[美術館の表示は、『開館20周年記念展 次元を探しに ダリから現代へ』である。
大学で陶芸を学んだ妻は何度か観ていて、本人曰く「ダリは好きだ。この美術館も好きだ」
静寂の漂う林間地にある瀟洒で風格のある近代建物で、その建物の前には広い池があり、横を幅3mほどのせせらぎが流れ、その周りは芝生で美しく整えられている。そこには近代の人為性があるが、取り囲む磐梯連峰、森林が、人為性をも包み込んだ久遠の自然の安らぎを与える。

亡き娘は(享年23歳)ダリを愛で、諸事情から母と私より一足先に関西から今の地に転居したことで、その美術館に母娘で何度か足を運んでいる。親ばかと言われようと、彼女の可能性を傍で実感していただけに、早逝は甚だ口惜しい。その一因が、教育に係る事ゆえ尚更であるが、前にその経緯背景は投稿しているので、ここでことさら立ち入らない。

初めて観たときから引きずっていたことがあった。どこか気構えて観ようとする私への疑問。なぜか。
例えば作品に付けられた表題に寄り掛かっての「理解」と言う観方。そのことに加わっての難解な作品との勝手な或いは先入的思い込み。鑑賞ではなく学習といった感覚。
しかし、画集すなわち写真ではなく、作品本体に向かい合うこと2回目にして、やはり私の鑑賞が大きな誤りであることに決定的に気づかされ、大海を前にした大らかさと自身の小ささに気づいて行った。
その自己を止揚するような中で、一枚の絵が私をとらえた。ダリの“永遠の人”であったガラの顔を描いた、B5判ほどの大きさのペンのデッサンに接した時である。そこには、ピカソのデッサンを観た時と同様の感動があった。
いつしかあの気構えは消え、虚心にダリの作品群を観る私がいた。どれほどの時間が経っただろうか。
美術館を出て、駐車場に向かう時、芝生で座って作業をする三人の女性が視野に入った。楽しげに会話しながら、雑草処理でもしているのだろうか、中年の女性たちであった。 その時、ダリならこの風景をどう見るのだろうか、否、最初からそのような志向を一切持たないのだろうか等々との思いの中で、先程まで見入っていたダリの作品群と彼女たちが重なった。不思議な感覚であった。それが何であるか、私にも分からなかった。それは今も分からない。

この文章は、そんな経験からあらためてダリを、シュールレアリズムを想い、そこから天才について思い巡らせた一端を書いたものである。己が人生の自照の契機としても……。
もっとも、『シュールレアリズム宣言』を著した、アンドレ・プルドン(1896~1966)は、老いと言う年齢になってのこのような行為の虚しさ、愚かさといったようなことを書いてはいるが。

人間は等しく孤独に苛まれ、狂気をかろうじて抑制している。だから夢は人間にとって悦楽となるのだろうが、時に夢は人間を呪縛することもあって、一転恐怖ともなる。
天才は、現実を超えている。と同時に、孤独と狂気を一瞬であっても極限まで、しかも無意識下に自覚する。そこに年齢は関係ない。天才が早熟、早逝のイメージを与えるのはそのせいかもしれない。
凡人と天才が決定的に違うのはそこではないか、と凡人の私は思う。
「十歳(とお)で神童、十五歳(じゅうご)で才子、二十歳(はたち)過ぎればただの人」は、短いようで長く、長いようで短い人生での凡人の言い訳に過ぎない。 天才も10歳から凡人と同じに齢を加えるが、感性は10歳を基底に理智いや増し、ますます研ぎ澄まされて行く。その時、その天才を代表するような作品が創り出される。

と考え始めると、どうしても老子の「天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ」が浮かぶ。
美醜、善不善、有無、難易、長短、高下、音声、前後すべては相対的で、それゆえ「聖人は無為の事に処り、不言の教えを行う。」と言う。
この「  」の部分、研究者金谷 治氏の現代語では次のように記されている。

――それゆえ「道」と一体になった聖人は、そうした世俗の価値観にとらわれて、あくせくとことさらな仕業をするようなことのない「無為」の立場に身をおき、ことばや概念をふりまわして真実から遠ざかるようなことのない「不言」の教訓を実行するのである。――

老子は無為を、不言を言うために文字(言葉)を使う。その自己矛盾に何度呵責の時間を経験したことだろう。同様に、天才画家は絵具で無為不言を表わす。 0(ゼロ)。無であることが永遠であること。

ダリは、己が作品への様々な批評、評価とは全く関係ないところで、言葉を紡ぐ人を視ている。私自身、それがすべてと思うが、自照のために拙い言葉を紡ぐ。当然、その言葉はダリ作品の批評であろうはずがない。

夏目漱石は『夢十夜』を著した。その第六夜は、運慶が仁王を彫刻する話[夢]である。
運慶が、鑿(のみ)と槌(つち)を自在に使って彫るのを、漱石は他の明治の人たちと見ている。その自在さに感心しているときに、或る若い男が言う。「あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と。 漱石は家に戻り薪を使って試みるが、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。」と書く。

ダリは運慶なのだ。 ダリは現実に生き、抑え難い欲求から想像力をかきたてられ、狂気溢るる集中力と愛(アガペー)で精緻なデッサンを重ね、絵筆を、鑿を動かす。霊感と創造の至福の結合。
運慶は鎌倉時代であり、ダリは20世紀のスペインである。鎌倉時代が仁王を彫らせたように、20世紀の西ヨーロッパが、シュールレアリズム[超現実主義]の作品を創らせた。
そこに共通して在ることは、現実の究極としての、或いは現実を超えたところでの、宗教[仏教とキリスト教]である。 運慶は人々の守護たる仁王像を創ったが、ダリはスペインの、西洋の血・文化・歴史からの霊感で、彼の具象を描き、時に彫刻した。
漱石は運慶に天才を見た。その慧眼(けいがん)。

先の『シュールレアリズム宣言』の中で、アンドレ・プルドンはシュールレアリズムを次のように定義している。

――男性名詞。思考の実際の働きを、口頭ないしは筆記ないしは他のあらゆる手段によって表現しようとするもくろみのための方法としての純粋の心的自動運動。理性によって実施されるあらゆる統制の存在しないところ、すなわち、美的ないしは道徳的なあらゆる配慮の埒外での思考の書取り。――

「美的ないしは道徳的なあらゆる配慮の埒外での心的自動運動」。
解放された自由の中での想像力の飛翔。
私は、更に男性名詞とすることに関心が向く。 「理性によって実施されるあらゆる統制の存在しないところ」、全き解放と安息の場所としての母胎内。現実(主義)を超えることでの安息の志向。母性への憧憬。

ダリはフロイドを敬愛していた。フロイドは精神分析で「性」を考え、人間の根底を考えた。私はフロイドの夢に係る論考の一部を読んだが、ただ眼で追っただけでフロイドについては何も言えない。

ダリは、20歳前後から印象主義、点描法、未来派、立体派、ネオ・キュビズムを吸収しながら、シュールレアリズムの世界に向かった、と解説するフランスの研究者(ロベール・デシャノレヌ)は、ダリの代表作の一つとして1951年作(47歳時)『十字架の聖ヨハネのキリスト』挙げている。
彼のシュールレアリズムの画家としての活動は、20代後半から50代と考えられる。そしてこの時期が、ダリの天才が華開いた時ではないかと思う。
この時間と精緻極まる仕事ぶりからも、彼が強靭な天才であることが見て取れる。ひたすらガラへの愛を支えにして。
因みに、『欲望の謎、わが母、わが母、わが母』を描いたのは、1929年、25歳の時である。

デッサンは絵画の、彫刻の核であって、××主義とかそういったことでぶれることはない。そこには画家の、彫刻家の“樸(あらき)”がある。だから運慶は眉や鼻を掘り出し得た。ダリは緻密なデッサンで彼の夢・霊感を徹底して描いた。

夢は「個人的なドキュメンタリー映画のようなもの」との言説に触れたことがある。映画の人為性(例えば画面を切り取ると言う人為)を思えばなるほどと思う。 静かな激しさに溢れた夢・超現実の具象。ダリの個人的ドキュメンタリー映画。
私が以前に強い感銘を受けたシュールレアリズムの画家、ジョルジョ・デ・キリコ(1886~1978)の、ギリシャ・ローマ時代を思い起こす建造物と真昼が醸し出す静謐との違いと共有性。

相対評価の人間社会にあって唯一絶対と直覚させる人、それが天才だと思う。そこでの鑑賞の「難易」はない。難易は理屈の世界である。
ダリをあらためて観、心のわだかまりが消えたのは、そこに今更ながら気づいたからだと思う。これも加齢の為せる業なのだろう。
明治の画家で28歳にして失意と孤独の中、早逝した青木 繁の『海の幸』を観て、彼を天才と直覚したことが甦る。 同じ“具象画”でもダリと青木では全く違う。しかし、それはダリが主義の前に「超現実」」が付され、青木には「ロマン」が前に付されるという美術史上の分類に過ぎず、本質は全く同じ美である。 二人の天才、ダリの真善美と青木の真善美の同一性。あまりにも当たり前のことだが。

天才であることの苦しみ、哀しみは、その天才でしか分からない。しかし、天才は私たちに安息を与える。天才は天に指名された、私たち凡人の救い主である、と信じたい。

【付記】 今回の展示で、新たに私の心をとらえたのは、『哲学者の錬金術』と『ダンテの新曲煉獄編、地獄篇』の、幾つかのリトグラフ作品であった。

2019年7月10日

多余的話 (2019年7月)   『水無月』

井上 邦久

毒含む言葉なきまま五月尽  

ハーバード大学での記念講話で、「うそが真実で、真実がうそに」すり替えられる世界に於いて市民生活がいかに損なわれるか警告し、 「思いつき」で行動する前に立ち止まってよく考えた方がいいだろうという発言をしたメルケルは、一ヵ月後の大阪での首相同士の対話で「良い友達を選びなさい」と言ったとか。
五月一日、東京新聞を除いて各紙の一面が不気味なくらいに同じ構成だったことに驚きましたが、その後もメルケルばりの直言や諷刺は見つかりません。せめて蒸留水の如き紙面に毒を潜める職人技によって、留飲を下げさせ、紙価を貴めて頂きたいものです。

メルケル講話の日本語全訳と中国語報道と抄訳を届けて頂きました。六日の菖蒲として付記します。
https://logmi.jp/business/articles/321396   https://www.storm.mg/article/1343589          

今年また短か夜の闇ロクヨン忌  

毎年この寝苦しい季節の夜明け前、読書で眼を疲れさせるのが習いです。30年目のロクヨン忌に合わせ発行された中津幸久氏渾身の『北京1998 中国国外退去始末記』を読んで眼が冴え渡りました。         

パラソルに催涙弾の雨が降る  

諦めていた格安航空券が取れたこともあり、急な旅支度で澳門へ向かいました。馬車に乗りながら宗主国ポルトガルの残り香を吸って以来の澳門を歩き、旧式砲台が並ぶ砦の跡を活用した歴史博物館と実業詩人の第一人者と称される鄭観應(1842~1921.上海実業界と文学界の勃興期に活躍)の旧跡を訪ねました。孫文や毛沢東たちが愛読したという代表作『盛世危言』を編述したのも澳門の実家だったとのことで、目下旧宅や資料館を修理整備中でした。
「買弁」の先駆者としても興味があり、改めて訪ねてみたい場所ですが、今回は澳門の故きを温めるより、香港の新しきを知ることが先でした。
主催者側発表で100万人余りのデモの9日、衝突があった12日のあと、200万人デモとされる16日の前日に香港入りしました。 香港人同士は武力衝突をしない、という共同幻想が破れて問題がこじれたため、「反送中」勢力が振り上げた拳をどのように下すか、香港政府からすると下ろさせるかの判断が難しい段階でした。
決起は血気でも可能となるが、収束には冷静さが必要、ということは分かっていても、勢いに任せた動きが加速し、それに乗じて煽られた人たちが「暴徒化」する前車の轍を踏んでしまうことを危惧していました。
赤ん坊を抱いてデモに加わる夫婦や視覚障碍者(警官から白杖を武器と見做されたことで記事になっていました)が参加する無防備なデモと立法府へのヘルメットでの乱入が同じ指揮体系や目的意識から生まれるとは想像しにくいものがあります。
メルケル発言の最終章「希望の6ヶ条」を再読して香港の動きに重ね合わせて考えています。
壊すべき壁は立法府のガラスではないことは明らかです。更に、本土の民主化運動に香港では共感を寄せてきたけれど、香港の動きに本土は概して冷ややかであることがこの30年の変化だと思います。香港では「一国二制度」を堅持する最後の機会とする危機感が満ちている一方、本土の40歳以下の人たちの多くは「一国二制度」そのものを知らない、この大きな温度差。     

令の字につきまとわれし兵の日日  知る人ぞ知る今も夢路に (鈴木七郎)  

春から続いた「△△で最後の・・・」、「✕✕で最初の・・・」という騒音に近い、しかし、かなり恣意的な大合唱もようやく終息したかと思い始めた6月14日に、岩波文庫から『文選』全6冊の最終巻が発売されました。付録として張衡の『帰田賦』がシレっと添えられていました。
昨年末に『張衡の天文学思想』(汲古書院)の新刊広告を見かけたこともあり、著者である高橋あやめ氏のエッセイを掲載した4月11日付の東京新聞を友人から送って貰いました。 そこには、「4月1日に俄かに張衡の『帰田賦』が話題になったことはエイプリルフールの冗談ではないか」と冷静に、且つユーモアを交えて綴られていたので安堵しました。
この項は舌足らずですので、続きは岩波文庫の『文選』詩論(六)に挟み込まれた付録を立ち読み頂くか。図書館で東京新聞を閲覧願います。

大阪を真空にして虎が雨  

空梅雨で終わるのかと思いきや、G20と小台風が湿気を土産にやってきて、大阪の街は遠隔地ナンバーの警察車両と道案内が不得手な警察官が角々に立つ姿だけが目立ちました。郊外に位置する茨木のタクシー運転手さんは「こんな地域まで人出も車出も絶えてしまい不気味な雰囲気。商売?エエ訳ないやろ!」と一瞬怒ったふりをしながらも、「仕方ないわな・・・」と中国人が「没辨法(メイ・バン・ファ)」と言う時と同じ口調で絞り出していました。

        夏草を巨象二頭が踏みつぶし         

    水無月をまだ売る店に買いに行く

2019年7月4日

爺さん[達]は怒っている ―無党派爺の悪口雑言―

井嶋 悠

婆さん[達]も怒っている。

現居住地県には世界遺産日光がある。自宅から車で1時間余りである。 日光には[見ざる・言わざる・聞かざる]が、安置されている。この人生訓を無視し、見て、聞いて、言う(怒る)ことにした。 余りにひど過ぎるから。国情が、世相が、欺瞞が。いかにもうるさい爺さん向きの社会状況ではある。

現代日本社会に、狭い言い方をすれば政治に、怒っている。それも大いに怒っている。 この頃では、権力と言う腐臭さえ漂いつつあるようで、怒ると併行して鼻栓が必要なまでになっている。
私は74歳(韓国流で言えば75歳。韓国では生まれた時が1歳で日本の数え年に当たる。しかし、母胎内での生命時間、またゼロの意味を考えるとすばらしいと思う)の立派な?爺さんである。
ただ、爺さんが爺さんに怒ることもある。これは私の生き方がそうさせるのである。 高齢者運転に関して、心身への現在自覚もなく過去を美化し運転への自信を得々と言う爺さん。老いを御旗に同情を起こさせ、尊大な言動をする爺さん。他人(ひと)のことを聞いているようで聞かず結局は自身の考えだけを言う聞き下手の話し下手の爺さん、政治だけでなく様々な場面で迎合と寛容をない交ぜる爺さん、等々。
これらは、もちろん爺さんを婆さんにいつでも置き換えられる。

では、お前と言う爺はどうなのだ?もちろん、こうならないよう細心の注意を払っている。ただ、小人のかなしさ、随所で漏れを指摘されているとは思う。

そんな私は若者を、とりわけ10代から30代にかけての、歯がゆく、苛立たしく思うのである。いずれ多くの自身が、路頭に迷うがごとき困惑と不安に襲われるのは眼に見えて明らかなのだから。 香港のデモを、その現象も本質も対岸の火事と漫然と眺め、欧米の同世代の若者の表面だけをなぞっているのが何と多いことか、などと言えば若者から叱責を受けるだろうか。
昔は云々との老人言葉は避けたいが、どこかあまりに軽佻浮薄が目立つのは私だけか。目立つから軽佻浮薄と思うのかもしれない。地味に日々を積み上げている若者を知っているだけに。

何でもかんでも自己責任を金科玉条とする潔(いさぎよ)さ?で、政治に眼を向けるのは暇人、好き者のすることとわきまえ、カッコヨク生きることに専心し、ふと気づけば早三十路、孔子の言う而立(自立)どころか、そこに醸し出されて来る虚しさと将来不安。老人の杞憂? 引きこもり=犯罪者を、ヘイト言説を、いつしか肯定する自身に気づき狼狽(うろた)える。こんなはずではなかったと。

1950年代、イギリスの演劇『怒りを込めて振り返れ』を端に、“怒れる若者たち”との言葉が広がった。その頃、日本では60年安保問題で、若者の大きな揺り動かしがあった。私が15歳、中学生の頃である。その10年後、私は大学院生であった。70年安保等、日本社会再考のうねりの時で、「全共闘」云々とは措いて、若者に何らかの意思表示を社会が求めた。
私はその波を直接に、間接に浴びた一人であったが、周囲が私に寄せるほどの存在はなかったに等しい。ただ、当時の全共闘現役世代から、なぜかあれこれと依頼(モーション)があったことは事実である。
私は私にできる限られた中で自身を考えたが、思考と行動を合致できなかった。要は、脱落者(ノンポリ)であった。そのことは私に様々な陽と翳を投げ掛け、自身を考える契機(きっかけ)となった。それが私の人生の、+になったのか-になったのかは今もって分からない。当然のことながら?
しかし、私自身は陽翳いずれも、積極的に作用したと今思っている。 それほどに複雑な心が巡るので、私より少なくとも数年若い世代が、安直に全共闘世代を讃美的に言うことには、無性に腹が立つ。これも爺さんならではの為せる業。 恐らく、私の社会への怒りの原点はその辺りにあるのではないかと思っている。

それから50年、自然な爺さんとなり怒り、歯がゆく思っているのである。 なぜか。日々の現実を、余命との響きの中で思えば思うほど、次代に託し、つなぐにしては余りにも無責任ではないかと思うのである。

具体的に挙げる。 初めに、ここ数年《内を視る》ことの重要性を思っている私ゆえ、国際[外交]を挙げる。
現首相の外交力が、一部か多数かは知らないが、誉めそやされ、本人もその気らしく、これまでどれほどの国費(数百億円)を使い、どこに行ったかについては以前投稿した。 私には信じられない。 前東京都知事のアメリカ出張費が、辞任の一端となったのは未だ記憶に新しいかとも思うが、それと較べれば〔象と蟻〕がごとき差の莫大な国費(国税)を使っての外交成果に何があったのか、あるのか。直近で言えば先日のイラン訪問は一体何だったのか。「トランプと言うボスの。小間使い。」日本と言う国の代表の誇りなど微塵もない。(政治家お得意の美辞麗句ではあるようだが、政治家のそれほど醜悪で残酷なものはない)だからなおのこと、その大統領就任式前に得々と行ったゴルフ外交が過(よ)ぎる。日本(人)へのあまりの恥辱醜態と私は確信する。 また、領土問題に係る対中国、韓国、ロシア、経済問題に係る対EU、イギリス、アメリカ、石油に係る対アラブ圏等々、そして拉致問題を「絶対の使命」とまで言う対北朝鮮、との成果はどれほどに伸展したのか。
虎の威を借りた狐。抽象的でも理念的でもはたまた弁解的でも、更には感傷的でもなく、私たち国民に確かで具体的説得力を持った言葉が、どれほどに発せられ、私たちはそれを聞いただろうか。

【余談】 私の学校現場での経験から言えば、内を治めきれない権威指向の人格乏しい者(校長)に限って、外に眼を向け。その成果(多くは理念だけの)を上滑りの言葉で言うのは定番である。

先のことと関連あることとして、その人たちの中では一筋通っているのだろうが、一人の主婦の発言からノーベル平和賞候補とも言われる『日本国憲法』の、しかも第9条に手を加えようと首相は、自衛隊員の誇りを謳(うた)い目論んでいる。どこまで私物化すれば気が済むのだろう。

以下、内政に関して怒りを書く。 先ず、私に直接関係ある領域から。
教育と福祉。
教育の無償化。政府は鬼の首を取ったかのように自画自賛するが、現状の歪みの変革なしの実施が格差の上塗りとなることは周知とさえなっている。 無償化そのものを否定していない。なぜ塾・予備校あっての小中高大、との現実に眼を向け、足を踏み入れないのか。無償化する前に塾予備校不要の教育社会実現を目指すべきである。 それは、小中高大の教員意識の、学校教育の、その入り口である入試方法の在りよう、すべてにつながって来る。
ただ、外国人子女教育等々、諸事情から学力補充が必要な場合もあろうかと思う。その場合は、在籍校と連携した「補習塾」を運営するという方法は必要になろう。
公私立問わず学校に一度ついたレッテル、印象(イメージ)を払拭するには時間がかかる。しかし、塾・予備校を除外して再建し、息がつまりそうな現行の[六・三・三]にあって、伸びやかにそれぞれ生徒が未来の自身のために学校時間を生きている学校は幾つもある。校長以下、教職員・保護者のそして生徒たちの汗の結晶として。
尚、今の少子化高齢化時代を機会とする小中高校6・6+2年制の、私は支持者である。 一方で、経営が下降線に入ったのか、世に言う有名私立大学傘下に入り、青息吐息の、存続が唯一絶対使命的学校もある。

私自身を含め、私が出会った一部の教師たちだけかもしれないが、入試問題作成にあたって、入試科目各教科では、それまでの阿吽(あうん)がごとき学力観で(時に惰性的情緒的に)作成、実施して来なかったか。
そして多くの教師・大人が悲憤慷慨する。「学力低下」を、「こんなことも知らないのか」と。 この心の動き、どこか本末転倒ではないか。
塾・予備校で補われ、養われた学力を基に、各年度の入試問題批評がにぎやかに行なわれ、マスコミは日ごろの個の尊重、学歴疑問論を忘れた有名校入学者発表の見事なまでの節操なき二枚舌。
その塾・予備校を取り外したら、日本の教育は壊滅するのだろうか。変えるのは、教師であり、保護者であり、立法府であり、行政府であり、マスコミであり……要は大人達である。
元関西の私立中高校教師経験から関西に限定して言うが、兵庫県の神戸高校、大阪府の北野高校、京都府の洛北高校の風格はどの学校も太刀打ちできない。歴史の重み。結果としての進路進学。
少子化まっしぐらである。千載一遇の機会ではないのか。始まりがあって歴史があるという自明。 それとも現状の学校教育現実をそのままに「学歴無用(論)」を推し進めるほうが効率的なのだろうか。

もう一つ、教育と言うか、教育を動かす[背景・母体]に関して。 「森友問題」「加計問題」。前者は係争中とのことだが、この両問題は過去完了ということなのか。 信じられない。 国民を愚弄するのもほどほどにしてもらいたい。

福祉。
高齢化は医療医学の進歩があってのことだから、喜ばしいとも言える。しかし、このままなら先行き不安から絶望と生の拒否の悲哀に変わるのではないか。 高齢者の基本は人である。国家の人への基本は基本的人権の尊重である。確かに自身から死に向かう人もいる。哀しいことである。それでも懸命に生きようとする人もある。その多少、軽重を問わず、国を築いたのは一人一人の人である。年金は月々一時的に預け、運用依頼した報労金である。 人間らしい生活とは、人によってその内容は様々だろう。ただ、衣食住と生の余韻感得の平均値的な姿は、その国の経済力で概ね想像できるのではないか。それを国が保証する。当然過ぎる義務である。
にもかかわらず、官僚性丸出しの老後自助資金報告書を出し、こともなげに2000万とか3000万と言い、紛糾している。当たり前である。そして報告書を受け取らぬとまで言っている。国としての責任逃避であり、義務放棄である。
政党スローガンで「日本を守り抜く!」というのを見たことがある。何を守り抜くのだろう。高齢者は怒りを通り越して、泣いている。そしてこの国に生まれたことを悔やんでいる。
消費税を10%にすると言う。福祉への財源がないから、と。なんでないのだ?対国内、対国外の収支から、ない理由、事情を庶民の金銭感覚で分かるように、精細に、どれほど説明されたか。幾重に重なる本末転倒。

私たち日本人はあまりにも優し過ぎる、おとなし過ぎる。この優しさは優しさではない。私たちは権力者からなめられているのである。
北朝鮮が、中国が、韓国が、はたまたロシアが侵攻して来る、イスラム圏諸国のテロが起こる。日本は、グローバル社会での存在感を誇示しようとしているから危険度は大きいと言う。だから防衛費は何兆円とかかって当然と言う。その日本は世界NO,1レベルの借金大国である。
百歩譲って+2%の増税分すべての収支表を公表し、福祉に徹底して使用するとなぜ明言しないのか。 私が馬鹿で暢気で世間(世界)知らずだからだろう。この政治のムチャクチャが信じられないのである。

働き方改革。うんっ!?
どれほどの人がその恩恵を、身をもって受けているのか。その日その日の仕事の時間と成果との闘い、企業自体存続の不安を抱えての産休また有給休暇での現状。更には、夕方以降が勤務の職業、職務への働き方改革など聞いたことがないのは私だけか。
政治家と一部官僚、大企業だけでの高慢はいずれ叛乱を呼び、“スローガン”は中途半端なまま消え去る。

男女協働社会。
当たり前のことを新発想語かのごとき言うが、一向に眼に見えて確実化し得ない理由は、すべて男(社会)にある、と言っても過言ではない。
働く能力差に男女は関係ない。体験から絶対的自信をもって言える。妊娠、出産は女性だけの力であり痛みである。ただ、その選択は当事者[母と父]に委ねられることである。その上で、出産を希望する女性には、またその家族には最大限の保障がされて然るべきで、国の存亡に係る。
男は、もっと自身に、女性に謙虚にならなくてならない。今もって、その女性を軽んじる、モノ的に見る輩がいることが、信じられない。
協働、共に力を合わせて働く。しかし何らかのやむを得ない事由で片方が働けないときは片方が働くのも協働。 この最低限が、共有されてこその施策であり、だからこそ自由の尊重と自由の責任の上に立って、それぞれの自由な選択、判断が生まれるのではないか。

と、爺さんが“ご託”を並べる前に、と婆さん(達)は一言いう。
「収入低迷、諸物価高騰、なんだかんだ理由をつけての政府収入増加策、いい加減にせいっ!」

先日、ハーバード大学の卒業式講演で、ドイツのメルケル首相が招かれた。その日本語翻訳全文を、旧知の方のご厚意で読むことができた。内容云々の前に三つのことが過ぎった。
○ハーバード大学は、なぜメルケル氏を招聘したのだろうかということ。
○言葉の重み。(あくまでも己が生を顧みての、そこから生れる静かな強さの言葉)ということ。
○まかり間違っても日本の現首相が招かれることはないだろう、ということ。

2019年7月1日

雨 七夕 日本・韓国・中国

井嶋 悠

雨は聴くもののように思える。 幼い頃、夕立や雷雨の夜、当時まだ使われていた蚊帳の中に入って寝ころびながら雨を想像し、遠雷を独り聞いて、どこか心静まっていた。もっとも、間近な雷には静まる余裕などなかったが。
この身勝手な恍惚は今もあって、蚊帳はないが、とりわけ深夜の、雨と遠雷の音は想像を巡らせる。

緑雨、紅雨とか小糠雨、霧雨とか、見ているように思えるが、私たちはその雨を見ていながら、つまるところ天に想い及ぼし、耳をひたすら働かせ、想像しているのではなかろうか。
日本語で雨に係る言葉は400種以上あるとかで、その中に「神立(かんだち)」と言う語があるように。
※「神立」:神様が何かを伝えていると信じられていた「雷」を指す言葉から転じて、夕方、雷雨の意。  
この感性は、雲がないのに細かい雨が降ってくることを「天泣(てんきゅう)」ということと通ずるように思う。

」三好達治(1900~1964)の有名な詩に『大阿蘇』というのがある。その後半部は以下である。 その最終2行はことのほか耳にする詩句である。そこで使われている「蕭々(しょうしょう)と」は、耳であろうか、眼であろうか。耳でもあり眼でもあり、眼でもあり耳でもあるように思える。阿蘇の放牧された馬を覆う天の声としての雨。そこから醸し出される寂寥の気。 あたかも眼前の雨を介し、耳をそばだて音楽を聴くように。

空いちめんの雨雲と  
やがてそれはけじめもなしにつづいている  
馬は草を食べている  
草千里浜のとある丘の  
雨にあらわれた青草を 彼らはいっしんにたべている  
たべている  
彼らはそこにみんな静かにたっている  
ぐっしょりと雨に濡れて 
いつまでもひとつところに 彼らは静かに集まっている  
もしも百年が この一瞬の間にたったとしても何の不思議もないだろう  
雨が降っている 雨が降っている  
雨は蕭々と降っている  

※「蕭々」:(雨が降ったり、風が吹いたりして)肌寒く、寂しさを感じる様子
【備考】この最後2行で使われている「が・は」は、助詞の使い分け説明にしばしば引用されている。

このように雨は、歌や詩の中で、切ない寂しさを表現するのによく使われる。 歌謡曲から二つ例を挙げる。
一つは、『雨の酒場で』(作詞:清水 みのる、歌;ディック・ミネ、石原 裕次郎、1954年)の1番
並木の雨の ささやきを   
酒場の窓に ききながら   
涙まじりで あおる酒  
「おい、もうよせよ」飲んだとて  
 悩みが消える わけじゃなし   
酔うほどさびしく なるんだぜ

もう一つは、『長崎は今日も雨だった』(作詞:永田 貴子、歌:内山田洋とクールファイブ、1969年)の3番
頬にこぼれる なみだの雨に   
命も恋も 捨てたのに   
こころ こころ乱れて   
飲んで 飲んで酔いしれる   
酒に恨みは ないものを   
ああ長崎は 今日も雨だった

もう一つ、私の好きな詩から。
北原 白秋(1885~1942)の全八連の詩『落葉松』から3つの連を抄出する。 一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。

からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

例外的にそうでないものもある。同じく北原白秋の童謡(1925年)『あめふり』 あめあめ ふれふれ かあさんが/じゃのめで おむかい うれしいな/ピッチピッチ チャップチャップ/ランランラン

しかし、上記引用した歌詞、詩歌の根底には、対象への、また自己への愛がある。そして先人・古人の感性に思い到る。哀しと愛(かな)しの表裏性。 そして雨は涙へと導く。「雨に濡れる」「涙に濡れる」。涙雨。 この雨―かなしみ更にはその涙、との発想は、日本的音楽[演歌]で多く採り入れられていて、そういう意味で日本的なのかもしれない。
それは日本を構成する主な民族、大和民族の自然への心が生みだした農耕につながる、「甘(かん)雨(う)」「慈雨」との美しい言葉とも重なっているように思える。
今回、雨の呼称を調べていて「男梅雨」「女梅雨(あめ)」なる言葉を知った。前者の意味は「雨が降るときは激しく振り、雨が止むときはすっきり晴れる」で、後者は「しとしととした、雨脚の弱い梅雨」とのことだそうだが、これも男女へのいかにも日本的な感覚だと思う。

先に記した涙雨の意味は「涙のようにほんの少しだけ降る雨」とのことなのだが、やはり新たに二つの表現を知った。「酒(さい)(催)涙雨(るいう)」「洗車(せんしゃ)雨(う)」。
共に七夕、織女(織姫)と牽牛(彦星)に係る雨とのこと。後者は、7月6日に降る雨のことで、牽牛が織女と会うため牛車を洗い準備している様を。
前者は、当日雨で二人が会えなくなり流している涙とのこと。きっと、当日、「鉄砲雨」「ゲリラ豪雨」が二人を襲ったのだろう。
実に微笑ましい神話伝説の世界に私たちを誘う。
ところが、これが韓国に行くと、当日雨だとそれは二人の再会のうれし涙で、次の日も雨ならば二人が別れを惜しむ涙とか。
これが韓国の国民性なのかどうか分からないが、やはり微笑ましさに溢れている。

ここで、中国・台湾・韓国・日本での節句の一つである七夕について、良い機会なので確認しておく。 『源流の説話』[出典:ウキペディア「七夕」]
――こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。 織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルである。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。 このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。 星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。 また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。 ――

催涙雨、何と夢をかきたてる言葉。 カササギ(鵲)、日本では北九州のごく一部地域以外見られない鳥だが、韓国では度々、それも群生して飛ぶ優美な姿を目にした。そのカササギと織女と牽牛の永遠の愛。 百人一首の「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」を想い起こす人も多いかと思う。

今日、源流の中国でさえ、七夕はあの惰性的でさえある「バレンタインデー」的様相になっているようで、日本も観光客誘致や商戦広告に使われることも多く、古人の想いから離れつつある。 それは時の流れとしてやむを得ないのかとも思うが、星座を見て、古代東西の人々の想像力と叡智に思いを馳せるように、底流の神話文化に心を向け、東アジア文化(或いは共同体?)について考えるのも、今の時代だからこそ必要なことのように思うが、どうだろうか。

梅雨になって、久しぶりに、深夜、床の中で雨の音に触発された。国土の6割が山岳で森林である日本の、雨があって水明であり、稲作である、そんな日本文化を考えてみた。

2019年6月20日

    [教 育 私 感 ] 33年間の中高校教師体験と 74年間の人生体験から  

井嶋 悠

                       はじめに

私の限られた経験だが、教育者は教育を語る、語り合うことを甚だ好む傾向にある。教職意識が高い(強い?)と言うことなのだろう。私も30代40代頃は、そういう意味では教育者の一人だったかと思う。しかし、公私流転の人生にあって50代後半からそれが疎ましく思うようになった。なぜなら、教育そのものが分からなくなったからである。 これでも中等教育での、国語科教育は当然のこと、他に日本語教育、国際教育としての海外・帰国子女教育、外国人子女教育、更には国際理解教育に手を染めた。ほんの一部の人々とは言え、私に良い評価を与えて下さる方もなくはない。それは今も生きる支えになっている。
しかし、私が語ると私の中で騙(かた)るに堕してしまいそうなところがある。だから?時折、居直り的に発言が激しくなることが多い。私的には本質的(ラディカル)発言と思ってはいるのだが。
例えばどんな発言(提言)かが問われるかとは思うが、以前の投稿と重なるので立ち入らない。

ただ、一つ新しい問題について触れる。 学校教育の無償化が新たな或いは更なる歪みを生みだすことは、既に指摘されている。無償化[要は家庭経済の負担減]の前に、塾産業撤廃案をなぜ打ち出さないのか。それこそ、小学校前から大学までの初等・中等・高等教育の「教育」について、また教師の在りようについて、学力観、学歴観は言わずもがな、人生観、社会観まで途方もなく大きな課題を突きつける契機となるように思えるのだが、やはり一笑に付されるだけだろうか。

高齢者運転問題で、テレビのインタビューや何かの折に知る、自身の運転或いは体力への自信等を言う高齢者。その人々を無性に腹立たしく思う同世代の、日常的に運転しなければ生活できない地域に住んでいる私の心の自然な動きなのか、教育について整理する時機が来ていると思うようになった。 33年間と74年間の体験からの私の言葉として。このブログ投稿の基底にある自照自省。
その時、私の脳裏を過ぎった言葉(キーワード)は「屈折」である。 その屈折、意味、用法から三つに分類されるとのこと。以下それを引用する。
① 相手に対する感情が複雑に入り混じっているさま[例語:愛憎ないまぜの]
② 性格が素直でなくいじけているさま[例語:素直でない、へそ曲がり]
③ 考え方などが偏っていたり狭かったりすること[例語:偏狭な、料簡が狭い]

何年か前のこと、旧知の方とただ漫然とした会話をしていたとき、その方が「どうしてそんなに屈折してるの?!」と笑顔で切り裂いて来た。そこでは、この人とはもう会うことはないなと思った私がいたが反論する私でなく、どこか同意する私がいた。そして、今も相当な力で心の、頭の中に留まっている。正に屈折?
なぜ同意できたのか。生まれ持った要素(井嶋親族で共通する要素との意味も含め)として直覚したのかもしれない。しかし、今改めて思うに“私”と言う人生がその要素を培ったと言えるのではないか。 先の分類に従えば、その方の私への用法は、三つの意味が微妙に重なっているように思える。「ように思える」では落ち着きが悪過ぎる。
そこで、20代後半に高校時代の恩師により教職に導かれた一人として、教育観に翳を落した或いは逆に陽を当てた、と私が思う、幼少時からの「事実」を客観的に振り返ってみることにした。 良いとか悪いと言った善悪単純二分法ではなく、そもそも人間は屈折の動物とさえ思うからこそ幼子(おさなご)を慈しむし、多くの動物を愛おしむと考えている、そんな「私」の屈折を炙り出してみたい。 そのことで、家庭であれ、学校であれ、私の「教育」感(観)が視えて来る、そんな期待を寄せて。

教 育 私 感
33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から
Ⅰ 初等教育[時代]

小学校前半までは、京都・賀茂川の近くで、虫採り、魚採り等遊びの天才だった向かいの中学生を英雄視し、彼を真似た痛快な思い出が幾つもある、昔ならどこにでもいた一人である。ただ、違ったのは、小学校入学前後から父親の地方赴任に伴う母子家庭だった。母親は純粋な人だったが、家庭的なことが全くと言っていいほどに駄目でいつも心は外に向いていた。そのことによる私の心の隙間を埋めてくださったのは、近所に住む伯父(父の兄)伯母と6歳年上の従姉妹であった。

大人事情は世の常とは言え、後に分かることだが、父母の離婚話が進行中のこともあって、小学校後半時から東京の伯父伯母(父の姉)宅に預けられた。伯父の社会的地位によるのだろう、その家は邸宅(おやしき)と言うにふさわしく、お手伝いさん夫婦が住み込んでいた。 母は結婚前の職種、看護婦となり、関東の地で独り生活を始めた。母への慕情が募り始めたとの記憶はない。ただ、何かぎくしゃくしたような不自然なものがあったように記憶の片隅にある。

伯母の能楽[主に小鼓]や茶道(茶室があった)への傾倒も手伝ってか、伯父の関係者、能楽関係者等々、それも30代から40代の人たちの出入りが非常に多かったが、子どもは私一人だった。伯父伯母に子どもはなかった。時に月に何度もその人たちによる夕食の会が行われ、活気を呈する家だったが、お手伝いさんの心遣いもあって、独り夕食を台所でとることもしばしばであった。しかし、寂しいとの心情はなく、こんなものだと思っていたのだろう。
庭も広く、また当時まだ普及していなかったテレビもあり、小学校の同窓生もそれらがあってしばしば遊びに来ていたが、私の中ではほとんど記憶が残っていない。
ただ、伯父方の親戚家族が時折来て、その中で幼少の男の子二人、特に兄の方、の子守的なことをしたのは、懐かしい思い出として今もある。

私の中では、どちらかと言うと大人社会にいた3年間のような印象が強い。 その象徴的事件?に、泥酔と二日酔いの小学校5年生(11歳時分)での体験がある。先述の大人たちの夕食会で、酒を大いに勧められ、嬉々として?受け容れた結果である。大人たちからすればかっこうのおもちゃがごとき相手だったのだろう。その時も、お手伝いさんが苦笑しながら介抱してくれた様子が薄っすらと残っている。

そういった酒食の会では、男女の性の話題も多く、或る時、その人たちが話題にしていた単語の意味が分からず素朴に質問したところ、場を一瞬凍らせたことが今も残っている。しかし、今日の小学校での或いは広く学校での「性教育」の現状ではお笑いぐさであろう。
森 鷗外の、自身の6歳からドイツに留学する21歳までの性に係る経験を描いた『ヰタ・セクスアリス』(ラテン語で性欲的生活の意・47歳時執筆発行)では、6歳から12歳の間にあって、既に幾つか兆しを直覚していて、私がいかに奥手か、また感受性に乏しかったが分かる。
このことは、ここ年々、人生最大の難題であり、本質的問題は「性」ではないか、と老いと共に性に対し時に嫌悪感さえ抱くこともある複雑さを持ち始めた私の、遅さにつながっているように思える。
鷗外は先の著の最後の方で「永遠の氷に掩(おお)われている地極の底にも、火山を突き上げる猛火は燃えている。」と記しているが、以下の老人男女のことは正にその現実なのかもしれない。
老人介護施設職員の談話で、80代と90代の男女が、下半身を露出してベッドに在った旨聞いたときの、私の途方もない衝撃、驚愕。

この晩熟(おくて)は、3年間と言う限られた中とはいえ、血気盛んな大人たちと、それも開放的な夜の時間にいたことがかえってそうしたとも思ったりもするが、やはり個人生来のゆえなのかもしれない。
自身の生来と後の周囲の環境によるこの自覚は、現在の年少者への性教育について必要との理屈(説明)は理解できるのだが、今もって違和感がある。私の「理解」と言う理屈(論理)の言葉の一つ。
保守性のあらわれ?とは言え、性教育推進者が革新的とも思わないが。 併せて、中学校に進学して一層重い課題となるジェンダー教育の端緒は、今どのように意識して為されているのだろうか。

転校した小学校は、東京都大田区内の分校的な小規模校であった。一学年25人×2クラスの50人ほど。 発する言葉の音調は、当然京都弁。今から60年余り前のこと。
今様に関西弁(特に大坂弁或いは河内弁?)が、広く認知されていない時代、子どもたちにとって不思議で、可笑しな響きに聞こえたのだろう。 イジメではないが、他意のないからかい、笑いの対象になることもあった。
そこで、クラス担任の女性のM先生の放課後東京音調補習がなされることとなった。私の東京弁学習。小規模校ならではの補習?
因みに、私の発する日本語は、その特訓に加えて、20代の2年間の東京放浪生活と国語科教育での読み、話すでの共通語(標準語)指導が加わって、時に聞く人にとって奇妙な日本語となっている。

すべての人々の生活語は方言、と言っても未だに東京弁=共通語(標準語)社会の日本にあって、だからこそ生活と生と言葉での方言の魅力は誰も否めない。それも読むことより聞くことに於いて。(読むのは至難である)
海外・帰国子女教育に係わる中で知った「言語臨界説」、11歳前後でその人の生涯の主言語(第1言語)が決まるとの説に立てば、私の日本語はあの小学校での環境、補習が方向性を決めた、とも言えなくはない。もちろんこれはM先生を非難しているのではない。
その延長上と言うのもおかしな、或いは甚だ偏見に満ちた勝手なことなのだが、男性が話す大阪弁(広く関西弁)は、私の中での特別な人〈例えば、上方歌舞伎俳優や笑福亭 仁鶴氏レベルの落語家、また私が敬意を表する人たち〉を除いて、印象が良くない、少なくとも心地良さはない。
一方で、谷崎 潤一郎の『細雪』の姉妹の会話の言葉は鮮烈で、実に美しいと思った。

尚、この時代に塾は在ったのかどうかと言うほどの存在で、当然のことながら行ってなかった。ただ、稽古事(京都時代、ピアノとバイオリンを習っていた)は、転校で途切れた。これは父母と伯父伯母との考え方の相違のようで、後に憂き世日々の中にあっていかに音楽が大きな力を持つかを実感することになるに及び、残念な気持ちが湧いた。それは今もある。

小学校、次項に記す中学校教育での。英語教育〔個人的には狂(・)育の感さえある〕等“主要”5教科教育との表現での主要の呪縛から脱け出し、音楽教育は言うにおよばず、美術教育、書道教育、保健体育教育、技術家庭教育の充実を強く願う。人生と言う巨大な時間の滋養の土壌として。これは思春期前期の中学校に進学するに及んでますます重要性が問われることになる。 その意味でも、少子化、高齢化は時機を得ていると常々確信している。学校制度の一大改革である。

2019年6月11日

多余的話(2019年6月)    『雲上快晴』

井上 邦久

昨年の直下型地震・長雨・台風という体験から一年になろうとしています。
「天変地異」とか「驚天動地」というある種の畏れを持つことなく、地球温暖化と南海トラフ・プレート活動によるものだと受容し達観する姿勢が良いのかどうか?また、本来ならもっと驚くべきこと、許しがたいことが大量のCMのようなメディア操作によって、奇妙な既視感となり「そういうこともあるか・・・」と、納得と言う名の諦念で流されていく日々はやはり拙いだろうと思います。

4月末から5月にかけて、そのようなことを徒然に考えていたら、行く川の水のように時が流れてしまいました。源氏物語41帖の次は、『雲隠』というタイトルだけで本文が遺されていないことは知られています。
拙文5月号は『4月30日、舞洲にて』のタイトルでした。NPO「ロバの会」の視覚障碍者支援活動で舞洲に行きました。テーマパークUSJで賑わう桜島から橋を渡ったゴミ焼却場のある埋立地です。視覚障碍教師の会が催された会場施設でのお手伝い、舞洲から新大阪までの移動介助体験を中学生日記風に綴りました。サポートした教師は国立大学院で博士号を獲得し、米国留学を果たしてから現在は工業高等専門学校で健常者生徒に対して教鞭を執っているという経歴の人でした。闊達に話が弾む中で見えない世界で観えてくるものを教わりました。
視覚障碍教師との交流体験を通して感じた「言うべきこと」「伝えたいこと」を多く盛り込んだ文章でしたので「多余的話(言わずもがなの話)」としての発信を控えました。

4月29日も5月6日も月曜日の通常授業であり、ボランティア活動の2日間を加えると、実質的にはちょうど程よい4連休でした。かつて「アルバイト情報センター」とか「レジャーランド」と揶揄された時期もある大学の様変わりについては、藤代裕之さんが詳しく報告しています。
少しだけ内側から体験してみると、授業日数の確保・シラバス(授業計画・判定基準)の明確化・受講者が少ない講座お取り潰しなど、文科省の補助金行政の「投資対効果」目的が顕かになり、それを具現化して管理する大学もご苦労なことです。
そして、月曜日が祝日でも学生の出席率が高いことにも驚かされます。休日ダイヤで出講することに居心地の悪さを感じるのは新米教師だけのようで、「我々は一回生の頃から習慣化しています」と女子三回生にたしなめられたこともあります。

雲上快晴、雲下春霖のボストンに降り立ち、12℃まで冷え込んだ 夕暮れの街は大渋滞でした。二年ぶりの街並みを感慨深く眺めていたら「築85年のアパートもまだ新しいねと言われる街だから、二年くらいでは表面的な変化は見つけにくい」と言われました。
冷静な声の主である娘自身は、留学数年で運転技術とともにキャリアも進路も大きく変化させました。翌日にカレッジの卒業式、翌々日は大学全体の卒業式。メルケル首相の記念講演を目の当たりにする幸運にも恵まれました。
午前の卒業式では祝辞、名誉博士号授受とコーラスが延々と続いて退屈そうにしていたメルケル首相でしたが、午後からの講演では冒頭は英語で始め、詩人の言葉からドイツ語でオーラを高めていきました。
トランプ大統領の名を一度も口にしないトランプ批判演説と評されており、卒業生や父兄たちのスタンディングオベーションが続いたと報道されています(記憶では5回)。
同じく記憶では「CHINA」という単語も同様に発していません。午後の進行役が10年前の卒業生のMs.Wangと紹介されたこと、留学生のなかに中国人が目立って多かった記憶が残っています。
講演冒頭部分訳を添えます。メルケル首相が発したかった最大の「壁」とは? ベルリン?長城?ホワイトハウス?はたまた、各人の心の中の「壁」?https://courrier.jp/news/archives/163081/            (了)  

2019年6月10日

30年前、彼女たちが日本に伝えたかったこと――3人の高校留学生の創作絵本――

井嶋 悠

子どもであれ、大人であれ、自身の宝物を、唯一無二或いは幾つかの唯一無二、持っている人は多い。私のその一人で、その一つが現職中[私立K女学院高等部]に、高校留学生[公的仲介機関から指定された留学生で1年間2年次に在籍]への日本語指導の機会を得、制作した、彼女たちの創作絵本である。 学校の了解を得て、現在、その原本を私が保管している。これが私の宝物の一つである。

絵本創作の環境は以下である。
留学当初に本人の意思、意向を確認し、了解を得、留学終了2か月くらい前から創作に入る。 物語(ストーリー)も描画も創作とし、本文は日本語で、自身の母語の挿入は自由とする。 私の役目は、材料の調達、日本語への助言また同窓生での協力者が必要な場合、その探索と依頼である。 最初に試みたのは1982年のことである。未完もあるが、5年間実施した。

今回、その最初の絵本と、次年度の絵本を採り上げ、表題に係る私見を記すことにする。 尚、これら作品群《上記2作品及びもう1作品の3作品》は、このブログが掲載されている『日韓・アジア教育文化センター』のホームページ[http://jk-asia.net/]の一部門[活動報告]の「教育事業」で、スライド形式で確認することができる。 ただ、文字部分で不鮮明な個所もあり、この機会に内容を再確認できる幸いも思っている。

紹介する二作品の概要。
① 『動物たちのゆめ』1982年 
             アメリカからの留学生 文:ベブ・ケンプ/
                            絵:スーザン・オライリー

② 『きっと どっかに』1983年  
                  ベネズエラからの留学生と
       ベネズエラからの帰国生徒             
                文・描画  エミリア・マス  (協力)金田 摂子
       (この作品は、日本語とスペイン語の併記)

以下、両作品の【物語文(日本語)】と【私見等補足】を記す。
尚、私見等補足では、日本語教育関係者にとっては、幾つか気に掛かることも多いかとは思うが、主にその領域以外での私見を記す。

【物語文本文】(日本語)、数字はページ番号。

 『動物たちのゆめ』
1、 表紙
2、 日本の町の動物たちが住んでいました。犬とねことねずみとうさぎとせきせいいんこがいました。動物たちは自分のゆめを持っていました。皆動物たちはちょっとふまんがありました。
3、 犬はとても小さな家に住んでいました。毎日毎日同じでつまらないです。いつも五時五十分におきます。六時十分に朝食を食べます。五分さんぽに行きます。そしてさんぽを終わったら二メートルくらいの犬小屋へはいります。 夜の六時十分にまた食べます。そして七時ごろねます。一日中毎日同じです。だからおもしろい所へ行きたいです。走る事とかほうぼくとかしたいです。それができたらほんとにうれしくなります。
4、 ねこは毎日お米と古い魚食べていました。ぼくじょうに行きたいです。そして一日牛乳飲みたいです。
5、 ねずみは小さな家に住んでいました。その小さな家のすみからすみまで知っていました。だから大きな家に住めればおもしろいなあと思っていました。 6、 うさぎはいつも草を食べていました。とてもまずいです。大きいやさいばたけへ行きたいです。
7、 せきせいいんこはいつもかごの中にいます。皆は外にいます。だからせきせいいんこも外でとびたいです。
8、 ふねで動物たちは会いました。動物たちはとてもびっくりしました、皆はひとりでアメリカへ行くと思っていました。でも皆いっしょです。だからひとりぼっちではありません。乗ったふねはアメリカへ行きました。
9、 二しゅう間かかってアメリカにつきました。でもアメリカは日本で日本で思った国とはちがいました。
10、 犬は仕事があります。広いからたいへんしんどいです。そしてもし仕事ができなければ食事がもらえせん。犬はこんなにたいへんとは思いませんでした。
11、 ねこも仕事があります。ねずみと虫を取る事です。アメリカのねこはいつもそうします。もしいっぱいねずみを取ればたくさん牛乳もらえます。でもねことねずみが仲よしになったらもらえません。
12、 ねずみは大きい家に住む事ができますけれど嬉しくないです。なぜなら虫しかくもしかいろんな気持ちわるい虫がいっぱいいました。だからねずみはこの家に住みたくないです。
13、 うさぎはやさいばたけに住む事ができました。たくさんやさいが食べられました。でもうさぎのやさいばたけではありません。のうふはすごく怒りました。なぜならうさぎはのうふのやさいを食べてしまいました。
14、 せきせいいんこは今かごの中にいません。でも不孝です。なぜなら外はとても寒いです。それから食べ物をさがす事がむづかしいのでいつもおなかが空いていました。せきせいいんこはたいへんさびしかったです。せきせいいんこはかごの中のほうがいいと思っています。
15、 動物たちは皆日本へ帰りたいと思いました。アメリカはたいへんですから。たとえば食べ物がさがしにくいとか寒いとか虫が多いですから。だから帰りたいです。皆は同じふねで日本へ帰りました。
16、 動物たちはアメリカから帰って来ました。皆喜びました。動物たちの仲はとてもよかったです。

【私見・補足】
そもそもアメリカは、国内に時差があるほどに広大な国である。或る知人が数十年前、アメリカ中央部の田舎に行った時、そこの老人は太平洋戦争(第2次世界大戦)を知らなかったとのこと。 留学生の彼女たちもしきりに言っていた。ねずみでもとにかく大きい。家も大きいが、空き部屋或いは放置した部屋が幾つもあって、その分、不快生物も多い、と。 人間もモノもとにかく大きいとのイメージは概ね共通しているのではないか。そして彼女たちは、その母国イメージを基に物語を組み立てている。
一方、彼女たちの知った日本(日本に初めて来て数か月・生活場所は阪神間)の印象は街並みの狭小さや雑多さであり、そこで生きる(或いは飼われている)動物たちの境遇への彼女たちの視点である。
彼女たちはその対比を、動物たちのアメリカでの夢実現を通して、母国アメリカと外国(在留国)日本を見ている。 難しく言えば、個の確立と義務と権利。アメリカの合理と厳しさ。日本の曖昧さからの温もり。
もちろん彼女たちの日本へのリップサービスもあるかもしれない。しかし、生まれ育った国について、このように観るアメリカ人もいることを、その善し悪しではなく、伝え、日本に、自身たちの母国アメリカについて思い巡らせることを促しているように思える。
彼女たちは現在50代である。今の日米関係について、また日本のアメリカ化について、どう思っているか、関心が向くが確認する方法はない。何年か前、仲介の機関〔AFS〕や当時の勤務校等に連絡してみたが、分からずじまいだった。

上記以外にもう一つ、思い知らされたことは、描画者の描画(デッサン)力である。 その素晴らしさに感嘆していたが、美術系大学を卒業した旧知の人の言によれば、これこそ欧米の美術教育の優れた一つの面で、少なからぬ子どもたちがこの程度(レベル)の描画力を持っているとのこと。 そうならば、なぜこのような差が生まれているのか、学校教育全体からも考えなくてはいけないことではないか。このことは、次の作品についても言えることである。  

『きっと どっかに』
1、 表紙
2、 平和は宇宙のかなたに去ってしまいました。もう誰も戦争がいつ、そしてなぜ始まったのかも知りません。そしていつ終るのかも・・・・・
3、 大人達が始めた、大人達の憎しみ合い。その中で生まれた世界中の子供達は平和の来る日を待っていました。
4、 一人の日本の子が鶴に乗って飛び立ちました。アフリカにはきっと平和があるだろうと。その子はアフリカの子に今まで見たことのない美しい桜を手渡しました。
5、 二人はいろんな動物をひきつれて南アメリカに向って、いかだの帆を一杯に張りました。南アメリカには、きっと平和があるだろうと。
6、 二人は南アメリカの子に果物をたくさんもらいました。そして三人は亀とかたつむりに乗って北アメリカに行きました。北アメリカにはきっと平和があるだろうと。
7、 畑で野菜をつくっている北アメリカの子に種をもらいました。そして四人はスキーでヨーロッパに入りました。ヨーロッパにはきっと平和があるだろうと。 8、 陽気なスペインの子は家畜の育て方を教えてくれました。牛と羊とにわとりをつれて五人は進みました。きっとどこかに平和があるだろうと。
9、 五人は一生懸命穴を掘りました。その先から頭を出すと、そこには平和な島がありました。
10、 五人は世界に向かって「仲良くしよう!」と叫びました。
11、 子供達の小さな力で世界がだんだん一つになりました。
12、 今日では地球は平和な星になりました。

【私見・補足】
先日、ベネズエラの第2の都市マラカイボの惨状[3か月に及ぶ停電、経済政策の失敗による食糧難等で骨と皮だけでベッドの横たわる人]報道に接し、作者エミリア・マスのことを改めて思い起こした。
彼女は今50代になっているはずだが、先のアメリカからの留学生同様、快活で、理知的な女性であった。 彼女は首都カラカスから来ていたが、今、どうしているのだろう? 彼女は、帰国近くなって我が家に遊びに来て、妻と私に言っていた。「帰国したくない。ベネズエラでは18歳になると結婚させられるから。」「どうするの?」「帰ったらヨーロッパに留学しようと思っている。」といったやり取りを、私たちは鮮明に覚えている。
南アメリカ大陸の北端、北東部はカリブ海に面するが、4カ国と隣接する、ベネズエラの歴史は四方海で囲まれた日本の比ではない。 16世紀のスペイン植民地時代に始まり、独立戦争を経て19世紀の独立、その後の内戦と軍事独裁時代、度重なるクーデター、暴動……。
つい最近までの歴史概要に眼を通してみたが、あれこれあり過ぎて、老いの脳力では到底ついていけないほどに変化し、常時と言っていいほどに問題を抱えている。 世界第3位の産油量で、一時は経済大国ともなるが、石油価格の下落や失政と混乱で、今では貧困国家となり難民も多く出ているとのこと。

彼女の10代、1980年前後は、先の石油での潤いの一方、貧富格差問題、政治の腐敗等で、混乱の時代でもあった。 それらを肌で直覚していた人物が、『きっと どっかに』(この「どっか」は、本文では「どこか」とし、口語話し言葉と書き言葉を使い分けている)と平和を、世界の視点から希求するとき、その着想、展開等、成立への背景を私たちは素直に読み取れるのではないか。
と併せて、カリブ海に面した南国人の鮮やかな色彩感覚にも得心すると思う。 これに関して懐かしい思い出を一つ。
3ページの絵で暗い雰囲気を出すためどうしたものか困っていて、私が黒灰色で背景を塗ってしまえば、と安直に言った時の彼女の、また帰国生徒の驚きと困惑の表情は未だに残っている。したがってこの絵本で、3ページの黒灰色背景だけは、彼女たち、とりわけエミリアには甚だ不本意なことになっている。

主人公は、留学先の日本の少女だが、彼女を和装姿で、おかっぱ頭、それに鶴との飛行、メッセージを手渡す枝を桜とすることで、作者が日本への期待を大きく持っている、と考えるのは、現代日本に疑問の多い私の余りの牽強付会にして我田引水か、もしくは非現実的日本観でしないだろうか。   
また、作者は、地球上のどこかとせず、穴を掘って或る島に辿り着く発想で物語を締めくくるが、これは日本を含め理想郷はないとの思いの、彼女の母国の苦難がそうさせているのかもしれない。
それは5世紀の中国の詩人・陶 淵明の『桃花源記』、すなわち「桃源郷」に相通ずることとして、彼女は地球上で地球上ではない或る場所を設定し、子ども達による平和世界の実現に想い馳せたのだろう。
尚、桃源郷は英語のユートピア、彼女の母語であるスペイン語のエルドラド等と話される場合もあるが、それぞれ背景、内容で違った要素が多いので、このことには立ち入らない。   

この外国人留学生による創作絵本の時間は。教育が国境、異文化また世代を越えて「教え、育む」と、同時に「教えられ、育まれる」ことを改めて思い知らされ、私の掛け替えのない宝物となっている。   

2019年6月2日

「跡」に想う

井嶋 悠

日本の一大転換期、鎌倉時代に書かれた軍記物語『平家物語』の冒頭部分は、現18歳以上のほとんどの国民が知っている名調子である。
私自身、教えている時でさえいささかの観念的理解でしかなかったと思うが、歳を重ね、様々な人々と出会い、森羅万象のほんの一端を知り、冒頭文にある中国と日本の歴史上人物について誰一人知らなくとも、しみじみと、しかも重く、深く心に沁(し)み込んで来るものがある。
中高校時代の「知る」ことと、加齢を経て「味わう」ことを思えば、“教科書を学ぶ”も“教科書で学ぶ”もそれぞれに一理あることが視えて来る。

その冒頭部は以下である。

「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、是等は皆舊主先皇(せんおう)の政にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌(いさめ)をもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁る所をしらざしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかゞふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、おごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅の入道前の太政大臣平の朝臣淸盛公と申し人のありさま、傳承るこそ心も詞も及ばれね。」

「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。」
生々流転、無常の世、日々刻々の自己を謙虚に受け止め生きること、その至難さを切々と知らされる。
「人生100年時代」とかで、相も変らぬ能天気さで喧伝する政治家、それに追従するマスコミに、苛立てば苛立つほど、虚しさ症候群は悪化の一途をたどるではないか。閑話休題。

これまた高校で必ずと言っていいほどに見る松尾 芭蕉『奥の細道』の一節。

「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一理こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。(中略)泰衡等が旧跡は衣が関隔てて南部口をさし堅め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。―国破れて山河あり、城春にして草青みたり―と、笠打ち敷きて時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡 」

 注:「大門の跡」;毛(もう)越寺(つうじ)の南大門(正門)のことか。   
  :―  ―の部分、杜甫の五言律詩『春望』の冒頭   
  :「笠打ち敷きて……侍りぬ」(口語);笠を敷いて座り、いつまでも懐旧の涙にくれていた。

芭蕉は、江戸時代に弟子の曽良と、徒歩で出掛けたが、私は、令和時代に妻と、高速道路を利用して車で、毛越寺と中尊寺に出かけた。
世界遺産登録で混雑も予想されたが、平日だったこともあって、思いのほか静かであった。
毛越寺境内に茶店があり、五月の爽やかな風を受けながら、もりそばを食した。腰のあるそばで、香りをほのかに残し、江戸っ子の「そばは飲み物」と言う妻も満足げであった。30代とおぼしき夫婦二人で店を切り盛りしているようで、二人とも口数少なくもの静かで、一層心和むひとときが過ごせた。 ふと、数十年後のこの夫婦の図を、私たち40年間の夫婦姿と重ね思い浮かべながら。心洗われる時間。

毛越寺は9世紀の僧・慈覚大師[円仁]が開山とのこと。寺の栞には境内の見どころとして、先の芭蕉の句[句碑]も含め17か所が記載されている。 内7か所は[跡]で、背丈10㎝ほどの叢に、それぞれの建物の礎石が見える。 何気なく見ているうちに或る感慨に襲われた。
「もし、多くがそのまま(は難しいかとは思うが)或いは再建されて目前にあったらどうだろう?」と。 それはそれで感動が起こるのだろうが、跡を見つめることで想い巡らされる、「講堂」を出入りする僧侶たち、「南大門」を行き来する人々、子どもたち、店や家々を想像することの快に思い及ぶ。 現在の時を離れて、跡でない時代のどこかに、3人称入り込んでいる私。フラッシュバックするかのように巡る人々の姿、貌そしてその人たちの生。

芭蕉は、中尊寺で藤原家の「兵」の「夢の跡」を見、杜甫は安禄山の戦いでの家族との離別に、悠久の自然と時間を対比することで涙した。
しかし、私は勝手に思い巡らせた人々の生を、[哀しみ]と[愛(かな)しみ]をないまぜ眺め、自身に立ち返る、そんな偶然の時を得た。無常観をここで言うつもりはない。
以前にも引用した、吉田兼好の「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。」ではないが、それにも通ずる(と思う)、栄枯盛衰、もの・ことがいついかなる時であれ、すべてに在る美と真への想い。その想いへの眼差しが焙(あぶ)り出すその人の生き方、歴史への見方。と自身を措いて頭を巡る。
芭蕉が、杜甫が涙したそれとは違う感情。すべての人に名があるが“無名”と言われる人々への慈しみからの涙に近い情愛と自省に浸った私。

木材を切り出し、石を掘り出し、運び、建築家の指導を得、僧侶や武家たちとの協働で創られて行く寺院に最も間近に勤しむ市井の人々。それを支えた信仰と人々の信頼関係。その美しい時空を思い浮べる。 実際はどうだったのだろうか。
奈良時代、文化の栄華が咲き誇った。それにどんな人々が、どれほどに、莫大な時間を費やしたのだろうか。
信仰を基底に、天皇への絶対的崇拝と信頼があってこその東大寺大仏殿であり、法隆寺であり……。一方で知らされる、山上 憶良が表わした『貧窮問答歌』での市井の人々の姿。また防人の哀しみ。
身分、階級、階層を越えた途方もない数の人々の一大協働(ハーモニー)としての文化。

ここ数年来、世界文化遺産とか日本文化遺産とかが賑やかに報道される。過程があっての結果、無名があっての有名、と重々承知していてもついつい結果に、有名に眼が向いてしまう私。
「一将功成りて万骨枯る」の遺産であっては文化に値しない。
私は現職時代数校で、それぞれ「将」も「功」もことわざに出るほどの大きさはないが、直接に、間接にこの先人の言葉を身近に接し、学校文化をその面から知らされた。公私立の違いとは全く関係なく。

私が今生活する那須の原では、明治時代の元勲貴族たちの功として、疏水の開拓や洋風の館(やかた)群が、日本文化遺産として登録された由。結果としてのそれらに眼を奪われるだけでなく、この機会に、元勲たちへの敬意と同時に、地を掘り、山から水を引き、大地を潤わせ、豊かな農作を実現した、その現場の人々に想い及ぼしたいと願う。

高校時代、或る先生が授業(先生が誰か曖昧で、何の授業であったか覚えていない失礼なことなのだが)の関連でこんなことを言われた。55年以上前のことながら鮮明に私の中に残っている。ただ残っているだけであるが。
――或る建築家が、随行者たちと鉄道での旅の途次、鉄橋を渡った折、こう言ったそうだ。「この鉄橋は僕[私]がつくったんです」と。随行者たちは感嘆したそうな。しかし、この建築家にはその後、仕事の依頼が来なくなった。――

慈覚大師が、開山、再興した寺院は、関東地方に209寺、東北地方に331余りの寺に及ぶと言う。恐らく大師への帰依、心からの信頼感と大師の人柄が、人々にそうすることを求めさせたのだと思う。(大師は唐での数年間の苦難等、多くの難儀を経た高僧であったが、温厚な人柄であった旨伝えられている。)

一方、中尊寺はどうなのか。 岩手平泉の地に、砂金と北方貿易で栄耀栄華を極めた藤原家。それを象徴する金色堂。 中尊寺は、藤原 清衡が合戦で亡くなった命を平等に供養し、仏国土を建設するために大伽藍を造営した、と中尊寺の栞にある。 また、「判官びいき」との言葉まで生み、日本人から愛され続けている源 義経。その義経を兄・頼朝から守った三代藤原秀衡の死後、子息四代藤原泰衡は守り切れず、藤原家滅亡に向かわせた、その歴史を思えば、藤原家の人々と臣下と市井の人々の絆は篤かったであろうことが推測される。
しかし、復元された金色堂等、或る感銘はもちろんあるが、毛越寺で沁み入ったものが湧き出で来なかった。それは、今日的観光繁栄に圧倒されたからかもしれない。 当時の武家の、時に凄惨とさえ思える生き様に触れ、その世界に生きた武家たちの苦渋、忍耐、克己に思い及ばすことなく、ただ私には到底できないと逃げ込み、市井の幸いを思うだけであった。

今日、日本との限られた枠組みではなく、世界はカネ・モノ文明を邁進している。だからなおのこと、教育への明確な眼差しが求められている。
「個の教育」「一人一人の個を大切に育てる」。このことを否定する人はいない。しかし、果たして今、それはどうであろうか。
例えば、英語教育が言われれば、それまでにあった他の時間を削り、英語教育に向かわせ、小学校で昼食時間を15分か20分で議論すると言うとんでもないことを聞く。何のためにそれをするのか。時代に乗り遅れて経営難に陥らないために……。
あれほど期待された「横断的総合的学習」は疾うに消え去り、学習の大半を塾に頼り(思考力、表現力をみたいとのことで、これまで以上に作文表現、発話表現が求められる入試が果たされつつあるが、どれほどの学校が自前で対応できているのだろうか)、結果がすべてでひたすら時を削って行く。
そうかと思えば、子どもや若者を受け容れる側の学校や会社等の大人たちは彼ら彼女らの想像力の欠如を嘆き、基礎学力についての侃々諤々(かんかんがくがく)は今も続いている。そして世は少子化、高齢化である。

中尊寺で見かけた中学校修学旅行とおぼしき生徒たちの忙しいこと忙しいこと。不登校等で参加しなかった生徒たちもあるかもしれない。イジメを受けている生徒たちもいるかもしれない。出会った生徒たちの中に、そういった生徒に思い巡らせている生徒たちもあるかもしれない。しかし、弾ける笑い声。 中尊寺、金色堂までは、上りの坂道を20分ほど歩くのだが、随所に売店、ご朱印授かり所がある。
私などそのことを知らず、金色堂等目的地に向かい、ご朱印は帰路としていたから良かったものの、正直に初めからしていれば7,8か所になっていただろう。弁慶堂とか、薬師如来とか少し変えてあるだけで、すべては中尊寺である。だから一枚で良いとも言える。一枚300円×1か300円×7か8。えらい違いだ。 先の中学生たちの中に、本堂へ行く随分手前の売店で、早々に何かおみやげらしきものを買っていたが、大丈夫だったかしらん?それとも誰かを想い、いの一番に購入したのだろうか。

毛越寺と中尊寺への小旅行。思いもかけず、毛越寺の「跡」が、私にあらためて想う心地良さと重さを教えたように思える。

2019年5月26日

若い時の純粋から老いの純粋へ

井嶋 悠


19世紀のフランスの、恋多き男装の麗人作家にしてフェミニストのジョルジュ・サンド(1804~1876)が、老いについてこんなことを言っている。

――老年を下り坂と考えるのは全く誤りである。人は歳をとるにつれてだんだん高く、それも驚くほど大またで上へ上って行く。――

彼女の生涯は72年間で、時代が違うとはいえ、私は現在74歳であるから、高齢化日本にあってなおのこと彼女の言葉には考えさせられる。自照自省の大きなきっかけとなる言葉である。

最近、高齢者の自動車事故・事件加害者が増えている。中には、自身の過失を認めない者もいる。一人で歩くことさえままならないにもかかわらず。 彼女が言う真逆の老人たちである。運転に自信気の笑みを浮かべインタビューに応える輩(やから)も含め。

老いは若い時代の延長上にある。当たり前のことである。老いを終焉と考えるから頭の中がもつれる。老いは一つの経過点に過ぎないと考えればいいのである。難しい極みだが。私には仏教信仰はあるが、仏教徒ではない。しかし、人類誕生以来、だれも死の後を知らないはず?だから、経過点と考えることは許されるのではないか。因みに、私は死後、肉体は土となり、霊魂は宇宙を駆け廻ると思いたい派であるが、未だ不十分段階だ。人間、次の指標があると生き甲斐があるというものだ。閑話休題。

若い時は苦悶の連続で、先人に言わせればその苦悶が人生の肥やしになると。時が経ち顧みれば、美的哀調さえ醸し出した他人事のようになるが、当時は悪戦苦闘の日々である。しかし、時[時間]の力、老いと共に自然に、或いは意図的に苦悶は削ぎ取られ、澄明さが増して来る。恬淡にして枯淡の境。と言うのは一つの理想で、多くは残滓が何やかやと心底に蠢(うごめ)き、頭をもたげようとしているではないか。おぬしはいずれかと問われれば、まだまだ後者である。だから私は一休禅師に親愛の情を寄せる。

仏教では「五慾」「十悪」との、人間探索の言葉がある。
五慾での、「食慾」「色慾」「睡眠慾」「財慾」「権力慾」、「十悪」での殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語等々。これらは何も仏教に限ったことではない。
人間をとらえようとする時、最もと言っていいほどに複雑にして厄介なことが、「色欲」-「邪淫」ではないか。それは、人間にあって最善、最上に位置付けられる「愛」と、時に表裏に論ぜられるがゆえに。
「エロス」・「エロティシズム」。
現代日本語としてある「エロ・エロい」から、時を、葛藤を経て、老いに向かう道程(みちのり)で直覚し、自問し始める「エロス」「エロティシズム」への昇華。そこでの新たな葛藤…。
ただ、私が使う「エロス」・「エロティシズム」について、澁澤 龍彦(1928~1987・フランス文学者・評論家・小説家)の書『エロティシズム』から引用、補足しておく。

「セクシュアリティとは生物学的概念であり、エロティシズムとは心理学的概念である」
「(プラトンの言葉を引用する形で)エロスとは神がかりであり、魂の恍惚であり、一種の狂気である」
「ドン・ファンの純粋を求める姿勢を、カザノヴァのような、陽気で野卑な漁色家のそれと混同してはなるまい。現実原則に逆らって、永遠の女性(母親像)を求めつつ、つねに裏切られている男の心理を、精神分析学でドン・ファン・コンプレックスと呼んでいる(以下略)」

白人の白は白ではないと思う。アジア人の白こそ白だと思う。タイに行った時、透き通る白い膚をした若いタイ女性を数多く見て感嘆した。日本人も、中国人も、韓国朝鮮人も然りである。 雪白(せっぱく)を思わせる寒色なのだが温もりで包まれた暖色の白。微塵の汚れも感じさせない人肌の白。純白。

作家の優劣は女性描写で決まる、との言説に昔接した記憶がある。なるほど、だから夏目漱石は一流なのだと思ったから、この記憶は間違いないと思う。 作家を志すなら好きな作家のすべての作品を筆写せよ、と説く人があったが、私には作家への志はなかったから頭でその言葉を聞いていた。今にして思えば、作家云々とではなく、人生として、漱石の女性描写だけでも筆写しておれば、私の人生、もう少し彩りが備わったかなと思ったりもする。
かてて加えて、美術・工藝の世界で、完成された作品以上にその作家たちの素描に魅かれる私がいる。例えば、ルネッサンス時の画家たち、シュールレアリストの画家、彫刻家、陶芸家たちにそれを見る。

神田の古本屋街を特に何かを探し求めると言うのではなく彷徨っていて、1994年3月号の『芸術新潮』、特集「常識よさらば―日本近代美術の10章」なるものに目が留まった。店頭に雑然と並べてある雑誌の一冊である。価格は100円。
その中の一章[彫刻史に仲間外れにされた人形・置物]と、もう一章[貧乏画家の飯の種は何だったのか?]で、釘付けにされた二つの作品(写真)。
一つは、人形作家・平田 郷陽(二代)(1903~1981)の『生人形・粧』と、一つは、洋画家・渡辺 与平(1888~1912)の挿絵「キッス」。 前者から放たれている清楚な妖艶。後者の赤子をあやす女性の無償の愛の姿。

『粧』は、浮世絵に材を得て、江戸時代後期の20代半ばの商家の新妻をイメージして創作された由。 丸髷に、「顔は弥生の桜花の吉野の山に馨れるが如く、眉は中秋の新月の明石の浦に出づるに似たり」(興津 要『日本の女性美』所収「目の美しさ」より江戸期の作家・曲亭 馬琴の言葉を孫引き)で、目は無表情の下向き加減、「口紅は、矢張り、指先で軽く溶いて月の輪形に下唇にさし」(同上書での「くちびる・くち紅」の項での『おつくり上手』(平山芦江著・大正5年刊)より孫引き)、右足の膝からほんのわずか大腿下部がのぞく左立て膝姿とその足指。家事を重ねていることを示すふくよかな、左手は左膝に静かに置かれ、右手は挿したかんざしに添えられている。着物は麻の単衣で幽かに両の乳房が見て取れる。
何という清楚なエロティシズム。美。

後者は、明治時代に正岡 子規によって創刊され、夏目 漱石が『吾輩は猫である』『坊ちゃん』を発表した俳句雑誌『ホトトギス』に掲載された挿し絵。一筆書きがごとき見事な筆致で、赤子を慈しむ母をとらえている。プロの画家としての技がきらめき躍動する線と面、そして対象への愛に、私は思わず魅き寄せられた 。
その二つに共通するものとは何だろうか。
一つは、女性への慈愛の眼差し。
一つは、余計な装飾がどこにもない、必要にして十分なものだけで構成され、決定的美が醸し出されていること。

幾つもの呻吟を経て、己が人間的心から、何をどれほどに削ぎ落としていくことができるか。
若木の樸(あらき)から老木の樸へ。青い樸から玄(くろ)い樸へ。
歳を経ているがゆえに錯綜する幾つもの葛藤。苦悶。 だからこそ、ジョルジュ・サンドの先の言葉、一休禅師が最後に愛した盲目の女性森女に言った辞世の言葉とも言われる「死にとうない」が、響いて来る。

やはり老いは難しい。 高齢化社会をひた進む日本。個人の集合体としての社会が、今までの考え方、発想で通ずるとすることでの大きな不安と危険を思ったりする。言葉だけの同情の氾濫世情。 老いの一人の戯言、杞憂ならいいが。