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2020年4月10日

井嶋 悠

桜は心を和ませる。その折、足元に野に咲くすみれを見出せば至福の時である。春は柔和な静だ。
桜は日本人としばしば対となる。そこに日本人の何が秘められているのだろう。
桜の黒ずんだ幹、枝が、冬を越え、桜色の花弁を生み出す。大地と自然の厳しさと優しさ。5枚の花弁は大きからず小さからず、微妙に重なり、満開時は群れをなし一樹(いっじゅ)一花(いちか)のごとし。色は日本の伝統色(名)桜色。濃からず淡からず。花茎にいつまでも執着せず、花開き数日もすれば、春風に乗って舞い落ちていく。幽かに、時には春嵐の吹雪のように。同じく伝統色(名)水色(人によっては水浅葱(あさぎ)色というかもしれない)の空を背に。散りばめられた白雲の添景。運が良ければ群れ為す桜花から響き渡る鶯の声。

童謡「さくらさくら」

さくら さくら
やよいの空は
見わたす限り
かすみか雲か
匂いぞ出ずる
いざや いざや
見にゆかん

「匂い」との言葉に現代人が失ってしまったものを感じたりする。もっとも、現代っ子はこの歌自体知らないだろう。学校でこの類の歌を知る機会がないそうだから。明治時代の滝 廉太郎の『春』はどうなのだろう?

森山 直太朗作詞・作曲『さくら』(2003年)は、若者を中心に愛唱されていて歌詞は以下である。

僕らはきっと待ってる 君とまた会える日々を
さくら並木の道の上で 手を振り叫ぶよ
どんなに苦しい時も 君は笑っているから
挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ
霞みゆく景色の中に あの日の唄が聴こえる
さくらさくら 今、咲き誇る
刹那に散りゆく運命(さだめ)と知って
さらば友よ 旅立ちの刻(とき)
変わらないその想いを 今
今なら言えるだろうか 偽りのない言葉
輝ける君の未来を願う 本当の言葉
移りゆく街はまるで 僕らを急かすように
さくら さくら ただ舞い落ちる
いつか生まれ変わる瞬間(とき)を信じ
泣くな友よ 今惜別の時 飾らないあの笑顔で さあ
さくら さくら いざ舞い上がれ
永遠(とわ)にさんざめく光を浴びて
さらば友よ またこの場所で会おう
さくら舞い散る道の上で

この歌は卒業(式)の思いを歌っているとのことで、孤独を意識する現代人の叙事歌とも言え情況が違うが、卒業から随分経った今、私は童謡「さくらさくら」の情緒に、さくらを、春を直覚する。ただ、この直覚は「生」を前提としていて、「死」を意識することも増えた老いにあっては郷愁的感慨とも言える。

と言うのは、「さくら」の歌詞に接したとき、初め私は死を、それも自死を思ったからである。私の中では、卒業→別れ→死、桜散ると結ばれ、それが私の現代人の叙事歌との表現になっている。その精神構造を裏付けるかのように、春(新暦4月5月)は自殺が多い。
その日本は以前ほどではないが、先進国にあって自殺が多い国でもある。

この自殺について付言すれば、「(悲・哀・愛)かなしみ」の重層としての自殺の批判者にはなれない、非合理を大切にしたいと思う私は、日本の自殺の多さに、自然、四季(南北に長い列島国日本とは言え)が培った感性の為せる業ではないかと思う。儒教国韓国の自殺の多さとは原因、背景が違うように思える。

平安時代の歌人紀 友則は歌っている。

「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」    

前半の柔和で光明な春溢れる姿に比し、後半は死を見つめる眼差しを感ずる。自然の新生の春と老いの或いは人の、生より死を意識せざるを得ない命との対比。
海外の地は、限られた時季の限られた街しか知らないが、この春の美、感性はやはり日本独特だと思う。
同じく平安時代の在原 業平の歌「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」に通ずることとして。

桜色は数百種あると言われる桜樹(さくらぎ)の原点とも言うべき山桜の色を表わしているとのこと。白色に限りなく近い桜色。ここでピンクと言ったり桃色と言ったりするのは野暮そのものだが、私の限られた語彙では白色に限りなく云々としか言いようがない。

江戸時代の古代文学研究者で、こよなく桜を愛した本居 宣長のやはり著名な歌。

「敷島の やまと心を 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花

「やまと心」とは、日本人の心ということだろうが、それが「朝日ににほふ 山ざくら花」と言うのだ。
私は「武士道」とも「大和魂」とも無縁な一人の日本人だが、だからこそこの表現に魅かれる。それも奈良県吉野の群れ為す山桜ではなく、かすみに煙る小高い山に一本咲き誇る山桜を思い浮かべ、私の描く日本人像と重なている。

そもそも宣長は、武士道も大和魂も言っていない。後世のそれも明治時代後半以降の帝国主義化、軍国化する中で、日本精神、大和魂そして「武士道とは云ふは死ぬことと見つけたり」との『葉隠』のこの一節だけが、作為的に利用されたのではなかろうか。あの散華との独特な言い回し。
宣長は母性の人だった。だからこそ「もののあはれ」の美を、源氏物語に、日本人に見出し、それを知ることこそ人の心を知ることであると説いたのであろう。
そう思い及ぶとき、「朝日ににほふ 山ざくら花」との秀逸な表現が心に迫り来、山あいに在って優しく、厳然と己が存在をかすみの中に主張している世界に私を導く。

平安時代後期から鎌倉時代にかけての歌人西行法師は「願はくは 花のしたにて 春死なむ その如月の 望月のころ」と歌い、念願通りその季に生を閉じたと伝えられる。

やはり桜は日本人にとって特別の花だ。日本には国花はないとのことだが、桜は国花にふさわしい。菊を言う人もあるようだが、天皇、皇室云々とは関係なく、桜の方がふさわしい。

日本人は、人は孤独であるとの自覚(それがたとえ感傷的なものだとしても)、どこまでも自然と一体であることの安堵(時に脅威)を、そこから醸し出される和み[平和]への希求を古代より学ばずして知り得ていると思える。それが大和民族の特性なのか、アイヌ等少数民族を含めた日本全体の特性なのかは不勉強でまだ私には分からないが、日本が誇ることとして言い得るように思えてならない。
だから今日の近代化の一面である、工業化、カネモノ化、軍国化、人の疎外化、またネット社会の功罪等、なぜか大国指向の日本は、大きな不安に覆われていると言っても過言ではない。老いの杞憂ならお笑い種で済むのだが、そうとも思えない私をどうしても打ち消すことができない。

これを書いている今、日本は、世界は、コロナ・ウイルスでとんでもない局面に立たされている。

2020年4月10日

多余的話 (2020年4月)   『清明』

井上 邦久

       清明時節雨紛紛 路上行人欲断魂
        借問酒家何処有 牧童遥指杏花村                   (『清明』)

 大杜と尊称される杜甫に対して、こちらは小杜と呼ばれ親しみやすい杜牧による季節の詩です。『清明』の舞台は山西省という通説もありますが、「雨紛紛」は「烟雨」と同じく、やはり江南の春の頃を感じさせます。

       千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
       南朝 四百八十寺 多少楼臺烟雨中
                 (『江南春』)

十年前くらいに「上海たより」として、上海人が使う「毛毛雨」という表現について綴った記憶があります。「毛毛雨」は、春の半ばに降る傘も要らないくらいの細い雨のことでした。小糠雨や春雨と訳しては芸がないので、色々と思案し、風呂上りに爪切りをしながら「うぶ毛雨」という表現に辿り着きました。
そして「花屋までうぶ毛雨なら傘残し」という拙句を捻りました。

東京の人形町末廣亭址の隣に、江戸天明年間から続く刃物匠「うぶけや」の爪切りを愛用しています。イタリアの関係先へ名前を彫った包丁を土産にしたこともあります。屋号の由来は赤ちゃんのうぶ毛も剃れる切れ味という初代の評判からとのことです。上海人の「毛毛雨」を江戸由来の「うぶ毛雨」として自分勝手に仲春の季語にしたわけでして、歳時記には勿論載っていません。

 杜牧の詩には酒がよく溶け込み、春の雨に倦んじてし魂の慰めに、牧童に酒家の在処を訊ね、風に揺れる新酒の旗に心を躍らせる、潤いのある春の世界を醸し出しています。先月の埋め草にした井上陽水の「情け容赦のない夕立」の夏とか日野美歌の『氷雨』の冬では別のイメージになりそうです。

二十四節気の一つである清明は、黄道座標の黄経15度、つまり春分から15日目にあたる日です。なぜ「つまり」なのかは、高校地学の教科書を思い出して、天空をイメージしてください。
地学教師の玉井先生は「玉井バッハ」という綽名で、授業前に黒板に「バッハ」と書いておけば、15分くらい西洋古典音楽の話をしてくれたことを憶えていますが、黄道の話は宇宙の彼方に消えています。

これも上海時代。清明節の頃の職員との会話は「清明節快要来、到何処掃墓?」が多かったです。清明節に何処で墓掃除(墓参り)をするかによって、上海アーバンライフをしている男女職員のルーツが分かります。杜牧の詩で四百八十寺と表現された南朝の古都南京か、牧童が指さした安徽の村か、はたまた浙江の地か・・・
ほとんどが車で家族一丸となって行くというので立派だなあ、と感じたことを思い出します。先祖の墓の前で燃やして届ける紙銭は、金塊、高級車そして住宅の紙模型にエスカレートしていましたが、その後に二酸化炭素排出削減の為に禁止されたとか。
冥界は不景気になったことでしょう。

今年の清明節は4月4日でした。中国では天安門広場をはじめ、全国で半旗が掲揚され黙祷する人の画像が流れていました。

京都のNPO作業場で、戦前の女学校の空気を吸われた方から「武漢と聞けば三鎮と続けて、武漢三鎮。ご存知?」と作業の手を止めずに話しかけられました。1937年12月、時の中華民国政府は首都南京から武漢に臨時政府を移しました。漢江が長江に合流する川口が商業港の漢口(『フレディもしくは三教街~ロシア租界にて』という長い曲、さだまさしが母親の漢口体験を偲んでいます)、漢江の南側に所在するので漢陽、そして辛亥革命の発火点となった武昌起義の地。
二つの大河の流れで三つに区切られた漢口・漢陽・武昌の街を総称して武漢三鎮。

武漢に出張した頃、天河国際空港の完全運用前には、河を挟む新旧二つの空港のどちらへ行けば目的のフライトに乗れるか再三にわたって確認を要したことを思い出します。4月8日に天河空港も閉鎖が解除されたので、待ちかねた人たちが殺到して大変な混乱が生じている模様です。元の生活に戻ろうとする希望に満ちた混乱とも言えるでしょう。

1937年11月30日の南京の下関海軍港から堀田善衛の小説『時間』は始まります。
漢口へ首都を遷す民国政府司法官の兄を見送る弟。同行を許されず一族の位牌や家財の保全と秘かに日本軍に占領された後の諜報活動を命じられた弟の物理的にも、運命的にも格差の大きい別離です。元の生活を棄てて生命の保全を一日延ばしにする希望に乏しい混乱のシーン。
すでに鎮江、丹陽など近隣の街は日本軍の支配下となり、南京包囲網は狭まり空襲も始まっている。非常事態宣言も都市封鎖もなく「問答無用」で軍事的圧迫が身近に迫るなか、心理的には既に占領されているが、現実的にはあと数日ある。何もすることが無いのでぐらつく義歯を治しに歯医者に行き、何のための歯医者通いと自問しながら、蒋介石総統夫妻が飛行機で去ったという噂を聞く。そして落城・・・と小説は続きます。
蒋介石は結局、武漢も棄てて重慶まで長江を遡り臨時政府を置きました。
2020年4月に何故この小説『時間』を読んでいるのか? 自問しています。

過日、従弟の書棚に柏原兵三作品集の第一巻が二冊あるのを見つけました。押し付けていた一冊を持ち帰り、『徳山道助の帰郷』を再読しました。

・・・第一章 徳山道助の故郷の家は、大山と呼ばれる標高千米近い山の麓にあった。大分市からローカル線で三駅目にあたるM駅で降りて、川沿いの県道を小一時間も歩くと、その麓に出る。・・・

 その川は大野川で、県道は竹田に通じると想像しています。旧家の長男が、優秀な成績で幼年学校に進み、軍隊の中でも頭角を現し、末は大将になることは間違いないと郷土の人は太鼓判を押した。日露戦争で初陣を飾り、シベリア出兵で苦心するも、第一次大戦後の欧州視察を経て、陸軍士官学校長に栄達。
しかし突然の予備役編入という挫折を経験。1937年秋に師団長として上海呉淞戦線、廬山戦の指揮を執り負傷。日本の戦争史とともに生きてきたが敗戦によって肩書も恩給も失った。
中国の体験については沈黙を通し続けた。老境に入り価値観の逆転した社会での生き方を模索している道助に故郷大分での法事への案内が届いて・・・。
平易な文章で綴られた帰郷の顛末が小説の肝になります。
前後して芥川賞を受賞した柴田翔や丸谷才一、丸山健二に比べると、柏原兵三には突出した個性や鋭角的な手法は感じませんが、ついつい読み繋いでしまう平易さは非凡なのかも知れません。
また母の実家の富山県へ縁故疎開した体験を坦々と描いた『長い道』は、藤子不二雄が漫画化し、篠田正浩監督が映画『少年時代』に仕上げ、井上陽水が主題歌をヒットさせています。

青年時代に読んだ時はストーリーを追いかけるばかりでしたが「徳山道助」と年齢が近くなって老残の想いが忍び寄り、この春に各地で縁故疎開を余儀なくされて様々な想いをした学童が身近にいたこともあり、味わいが深まり、何篇か速読しました。
帰郷話で塗されていますが『徳山道助の帰郷』の主題は1937年から1938年の中国江南での戦の酷さであり、堀田善衛の『時間』に重なります。
2020年3月、何故に柏原兵三が目の前に戻り、引き込まれて読んだのか奇妙な思いをしています。

           「清明や伯父の形見の古書守り」

 長期にわたり低迷を続けている句作ですが、久しぶりに複数の同人に拾ってもらった拙句です。
この伯父は何度か使った喩えとして、座り心地の良い椅子のような存在として子供の時から可愛がってもらいました。大阪から縁故疎開で大分県に移住し、戦中戦後の苦渋の生活を、名前の清明(きよあき)の通り清々しく明朗な生き方で凌いできました。

清明節の翌日、従弟から伯父の13回忌の法要は大分で営むのは取りやめて、東京で内輪で行うとの詫びの連絡がありました。 帰郷墓参の代わりにこの拙文を以って手向けとさせてもらいます。     (了)

2020年3月29日

東アジア  その1 範囲と心持ち

井嶋 悠

アジアに自身の根拠を置く人々[企業関係者、実業家、研究者、教育関係者等]の任意の或る研究会で、何年か前、『日韓・アジア教育文化センター』の活動の成果を話す機会を得たことがある。当日、使用機材の不具合も手伝って不本意なものとなり、参加者の一人から「どうしてアジアではないのか」と強い調子で問われ、私は間髪入れず「東アジアです」と応え、一層場を気まずくしたことが、今も心にこびりついている。
そして、あらためて東アジアとはどこを言うのか、「東」という方角以外に、中でも心の部分で今も共有し得ることはあるのか、が気にかかり始めている。

岡倉 天心(1863~1913)は、英文書『東洋の理想』(1903年・ロンドンにて刊行)の冒頭で、以下のように朗々と言う。(夏野 広・森 才子訳)

――アジアは一つである。
ヒマラヤ山脈は、二つの偉大な文明―孔子の共産主義をもつ中国文明と『ヴェーダ』の個人主義をもつインド文明を、ただきわだたせるためにのみ、分かっている。しかし、雪をいただくこの障壁さえも、究極と普遍をもとめるあの愛のひろがりを一瞬といえどもさえぎることはできない。この愛こそは、アジアのすべての民族の共通の思想的遺産であり、彼らに世界のすべての大宗教をうみだすことを可能にさせ、また彼らを、地中海やバルト海の沿岸諸民族―特殊的なものに執着し、人生の目的ではなく手段をさがしもとめることを好む民族―から区別しているものである。――

最後の2行は不勉強ゆえ実感的に理解できないが、日本の芸術を論ずることを目的としたこの書を思えば、それまでの表現に共振する私がいる。
そしてそれを端緒にして、例えば「東アジア人」なる表現が、現代に不相応な区別性は措いて、可能なのか思うのである。もちろんそう思うこと自体ナンセンスと一蹴されることも含めて。
ただ、この思いは机上の空想といったことではなく、『日韓・アジア教育文化センター』での交流活動を続ける過程で常に脳裏にあったこととして、である。すなわち、センターの構成員である、日本・韓国・中国(ここで言う中国とは、本土漢民族及び香港人である)・台湾の人々である。

そもそも東アジアを構成している国・地域はどこなのか。
ここにA4判の世界地図帳がある。その一項に見開き2ページで「東アジア」が提示されている。国、地域によっては一部分ではあるが、掲示されている諸国を東から挙げてみる。

・日本・大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・中華人民共和国・台湾・フィリピン北部・ロシア連邦東部・モンゴル・ベトナム・ラオス・タイ北部・ミャンマー・バングラデッシュ・ブータン・ネパール・インド北東部・カザフスタン

私は呆然と立ち尽くし、これは東アジアではないと思う。そこで東アジアを表題にする書にあってはどうとらえているのか、手元の二書で確認してみる。

一書は、『東アジア』[「現代用語の基礎知識」特別編集・自由国民社刊・1997年]。その中の第1章「東アジアとは」で、小島 朋之氏は、次のように記している。

――東アジア地域は民族、宗教、言語、歴史、文化、経済発展、政治体制など、いずれの面においても多様であり、「アジアは一つ」など簡単にはいえない。――として、

――本書では「東アジア」を、日本に隣接する朝鮮半島、中国大陸と台湾および香港、その周辺地域としてのモンゴルに絞ってみたい。――

もう一書は、『世界のなかの東アジア』[慶應義塾大学東アジア研究所・国分 良成編・2006年]。

その中の最初の章「東アジアとは何か」で、国分 良成氏は、日本を基点に、慶應大学の特性でもある経済視点から次のように記している。

――ASEAN[東南アジア諸国連合]+日中韓が主流となりつつあり(中略)ASEANは東南アジアで日中韓は北東アジアで、共通の集合部分は東アジアである。

――ヨーロッパの場合はキリスト教がベースにあるということは間違いない。そうした意味でアジアは何をベースにするのだろうか。…東アジア共同体の構想作業は始まったばかりで、これからさまざまな障害にぶつかりながら紆余曲折を経験することになるでしょう。――

『日韓・アジア教育文化センター』活動のキーワードは【日本語】であり、それと表裏を為す【日本文化】で、共通言語は日本語である。それは、東アジアで日本語を学んでいる人、教えている人を介して、日本を映し出し、日本を検証したいとの思いであるが、同時に東アジア諸国諸地域にとって日本が他山の石となることへの期待でもある。

例えば、海外帰国子女教育に携わった経験から言えば、この問題はとりわけ1960年代以降、日本の経済発展に伴って生じて来た教育課題であり、それへの対応、試行錯誤は東アジア諸国の教育施策に有用なものとなるであろうし、より一層日本の課題として戻ってくるはずだとの思いである。事実このことは、以前海外帰国子女教育の日本のプロジェクトで、韓国の文科省[教育部]の人と同席する機会があった。とは言え、この相互性での日本の一方性の批判を想像するが、これまでに培われた絆に甘え先に進む。

日本の東は太平洋である。その昔、日本が終着であった。西から、南から、或いは北から、様々な人々(民族)が、それぞれの文化を携えて渡来し、或る者は離れ、或る者は定着した。そして統一国家大和を形成し、少数民族は制圧され、大和民族が成立した。
21世紀の今、千数百年の間に沁み込んだ心に何度思い到ることだろう。私はそこに東アジアを見たいのである。

中国・朝鮮半島の長い通路を経て到達し、再開花し、更に発展し、時に日本の固有化した、仏教、思想、美術、文学等々の文化の宝庫を見る。正倉院には、確かにギリシャからシルクロードを経て渡来した美術品が蔵されているが、その前に私の中では東アジアがある。

先日、「アジアン・インパクト」との主題の美術展を訪ね、その印象は既に投稿したが、その展覧会でも「アジアン」は中国、朝鮮半島であり、それに衝撃(インパクト)を受けた日本人芸術家の展示であった。
やはり私の東アジアは、先の小島氏以上に絞って、中国・朝鮮半島・台湾そして日本であり、広くアジアを思い描く際にも、先ずその核となっている。

そのような東アジアの日本に生を享けた幸いを思う。
他国他地域について、その地の歴史も環境も十全に知らずして軽々に発言することは厳に慎まなくてはならないが、東アジアの国々地域は、それぞれ或る転換期にあるように思えるが、どうなのだろう。

東京オリンピックが延期されるほどに、コロナウイルスが全世界で猛威を振るい、亡くなった人の数は尋常ではない。私には驕り高ぶっている人類への「天罰」、といった宗教的視点はないが、無責任との誹りをここでも承知しながら、何か考えさせられることは否めない。

東アジアも然りである。

黄河文明をかえりみ、現在の中華文明を厳しく諫め、世界の現在を見ようとする中国のドキュメンタリー映画『河殤(かしょう)』(1988年上映・「殤」:とむらう者のない霊魂の意)の書籍版を読んだ。[現在、映像そものを観られる機会は、同じく中国の亡命者へのインタビューで構成されるドキュメンタリー映画『亡命―遥かなり天安門―』(2010年)同様、ないとのこと]。そこでは厳しい内省の姿が描かれている。

香港人との表現が象徴するように香港問題は多くの香港人を、外国人を覚醒化し、先日の台湾での総統選挙も複雑な台湾の現在の様相が顕在化した。
韓国は南北問題で見通しが立っていないように思え、北朝鮮は唯我独尊が如く猛進している。
そして日本の大国指向は、小国主義志向を善しとする私には、到底考え及ばないような展開が随所でなされ、落胆と絶望、不安が襲っている。
やはり東アジアの基層にある心[精神]を静かに問い直す時ではないか、と『日韓・アジア教育文化センター』の事績を振り返り思う。

コロナ・ウイルス問題も、世界各国が胸襟を開き、叡智を集め、一国主義に陥ることなく原因を解明し、他者への敬意と謙虚さをもって共有して欲しいと願う。

私自身はアジアの心を考える東に息する一人として、もう少し研鑽を積めればと思っている。



2020年3月16日

多余的話(2020年3月)  『春なのに』

井上 邦久

仮住まいでの生活も一ヵ月になろうとしている。
スーパーマーケットやクリーニング屋の選定も終わり会員カードを利用している、というか巧く絡み取られる日常が始まっている。南茨木駅まで徒歩20分の道にも慣れてきた。桜通りの蕾も膨らみ、あと一週間という開花予想を裏付けている。神戸の研究会から報告要旨の文章化を求められ、大幅に手直しの指導を受けた最終稿を発信して二月を為し終えた。

それより前、2月20日から日経新聞朝刊の連載小説が中断した。伊集院静がクモ膜下出血で倒れたという報道が年の初めにあり、いずれピンチヒッターが出て来るものと想像していたが、ノンシャランなイメージとは異なり、書き溜めた原稿を一ヵ月以上分ほど残して闘病した様子。意外と言っては失礼ながらその精励ぶりに驚かされた。

夏目漱石をモデルにした『ミチクサ先生』の序章と云うべき段階までであるが、正岡子規との交流を核にした青春成長小説、自己形成小説(Bildungsroman)の趣を感じとっていた。二人を描く場合、どうしても正岡子規の個性が表に出てしまいがちなので難しい。同じ伊集院静が子規に光を当てた『ノボさん』(2013年・講談社)に重なり、また関川夏央作・谷口ジロー画『「坊ちゃん」の時代』(1987年~双葉社)のシリーズの世界も甦ってきた。
3月13日の報道では予後良好で自宅でのリハビリ段階に入った由。続きを読むのを愉しみにしているものの、ゆったりとしたペースでミチクサをして戻ってきて欲しいとも思う。

伊集院静は山口県防府市の生まれで野球にも秀でていた。義兄の高橋明(川上巨人軍時代の先発投手)の紹介で、長嶋茂雄に会い「神の声」に従って立教大学野球部に進むも故障のため挫折。

防府市に隣接する徳山市には一年年下の吉田光雄が町場の少年野球界で頭抜けた才能を見せていた。吉田光雄は岐陽中学時代に柔道二段、桜ケ丘高校ではレスリングで米国遠征、専修大学時代にミュンヘンオリンピック参加した後、プロレスのリングネームを本名から長州力とし、幕末志士風の束髪を靡かせながら強烈な「リキ・ラリアート」を炸裂し続けた。
中学生になったばかりの頃、徳山小学校から続いて同級生だった吉田光雄に「なんで野球を続けなかったん?」と訊ねたら、「バカだな~。優等生は何も分かっちょらんな。学校の柔道着はタダ、あとは俺の身体だけ。道具に金が掛かる野球は坊ちゃんの遊び」と言われた事を思い出す。

伊集院静と長州力とは同郷同世代でもあり改めて思いを綴りたい。

伊集院静にはリハビリの先輩でもある長嶋茂雄と篠ひろ子令夫人に従順であって欲しい。そしてゆっくりミチクサをしたあとで、人生論をベストセラーにするのもいいけど、できれば故郷・野球・女性のことをもっと綴って欲しい。

同郷同世代といえば三十歳前に営業部へ転属となった時のK元部長が逝去し、日を置かずして野村克也が冥界に去った。二人は京都北丹後の府立峰山高校の出身。学年が一年下の野村は野球の才には秀でていたが、幼くして父親を亡くし貧しい生活の中でグレ気味で、ペシャンコの帽子で虚勢を張っていたとのこと。一方、登校せずに割烹で昼間から酒を呑むこともあったというKさんも成績は良かったものの品行は決して褒められたものではなかったらしい。しかし、野村後輩には喝を入れ説教を垂れたと云う。点取り虫の優等生タイプではなかったKさんの言葉には後輩も素直に頷いたのであろうか。

同郷の二人は大阪南部の球場と大学で基礎を作り、南海ホークスのテスト生は三冠王を獲得して監督まで上り詰め、商社に就職し強面な外観と奔放な行動で畏怖されていたKさんも専務取締役にまで昇進した。
営業の呼吸法を色々と教わった以外に、「Aへ進めとの指示があったら、Aに到達できなくともaの方向には進め。間違ってもBやZには進むな。指示に対する理解力と洞察力とベクトルを揃える能力が試されているのだ」、「住んでいる地域も含めて豊かな人間関係を作る努力を早くから続けること。会社組織だけに拘っていたら豊かな人間性を育めない」といったことを大阪ナンバの呑み屋や銀座のクラブで語って貰った。

戦後の丹後縮緬ブームでガチャ万景気に湧いていた故郷のこと、その格差社会の底辺にいた野村少年のこと、十年後の帰郷の折に峰山駅でブラスバンドが歓迎演奏をしていて「まさか俺のためではないだろう、と訝る間もなく野村三冠王が現れた」といったエピソードを喋りながら、合間に語った人間洞察には社内での雰囲気とは随分離れた味わいがあったことを思い出す。 

二人とも歳上の女性と結婚し、先立たれて失意の時間を過ごしたことも共通している。Kさんが口癖にしていた「豊かな人間関係」を作るのは容易ではないという冷徹な事実を、身を以って知らしめてくれた気がしてならない。                   (了)

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
洗濯物がぬれるから 女はひきつった顔で わめきまわる ころびまわる
男はどうした事かと立ちつくすだけ 空の水が全部落ちてる 
(中略)
計画は全部中止だ 楽しみはみんな忘れろ 嘘じゃないぞ 夕立だぞ
家に居て黙っているんだ 夏が終わるまで 君の事もずっとおあずけ

                     井上陽水 『夕立』

2020年3月7日

父としての自覚 ―再び母性・父性について―

井嶋 悠

父親なるものなって40年が経つ。よくぞ私ごときが父として来られたもんだと慰め、褒める私がいる。一昨年、長男の結婚式で、長男が“感謝の言葉”セレモニーで言った「今日まで自由にさせてくれてありがとう」との言葉が妙に残っている。
これは親子の信頼関係での言葉なのか、それとも「親はなくとも子は育つ」の彼なりの柔和な棘的表現なのか。息子のあれこれを知る私たち両親としては、前者であることを素直に取らなくてはならない。

母の方はかなりの自覚をもって子どもに接していたが、私の場合、何か父としての自覚といったこともなく、自然な流れで三人の父となったように思える。
年齢順で言えば、妻が腹膜炎に罹り妊娠七か月で死を迎えた長女。その3年後の長男。そしてその4年後の次女。
ただ、次女は中学時代の担任教師の、何人かの女子生徒を自身側に取り入れての「ネグレクト」に会い、その後の高校での教師、学校不信甚だしく、紆余曲折の人生、23歳で早逝した。したがって現在、長男は一人っ子のようなものである。
その次女の一件では、憤怒すること、同業ゆえなおさらで、今も決定的に刻まれていて、そのことに於いては、自照自省そして自覚著しく、更には私自身の学校、教師への不信感また自己嫌悪が増幅している。これらについては、以前に投稿したのでこれ以上立ち入らないが、一言加える。

社会的告発は本人、母親の、私の気質を知ってのこともあり、しなかった。したとしても経験上、学校、教育委員会の反応は、ほぼ想像がつくのでなおのことしなかった。しかし断然教師に非があると思っている。このことは、後日、別の教師から娘に直接謝罪があったことからも、決して親のエゴではないと信じている。

このように子どもに関して曲折を経験し、ここ何年か死を考え始める年齢となり、父とは一体何者ぞ、と私の父をも思い起こし、考えることが増えて来ている。

私の父は医者であった。大正6年生まれの京都人である。50歳ごろまでは勤務医であったが、それ以降享年80歳まで開業医であった。尚、戦時中は長崎勤務の海軍軍医であった。
父を尊崇する声は聞いていたが、名医であったかどうかは分からない。ただ勉強家には違いなかった。或る時、こんなことを言っていた。「ワシのような医者は、ワシで終わりだ。」
その意味することは、患者に対して、挨拶ができていないとその場で叱正し、耳学問で自己診断する患者には診察前早々追い返す等我を通すのである。そういった医者が、今も世に成り立っている自身を自覚してのことだった。

父の医者としての道程は、晩年期を除いて安泰ではなかった。要領よく兵役を逃れた者や長崎被爆での軍上層部また医師等特権階級の権力行使による戦後に備えた功利的生き方への反発は、戦後の生き様に決してプラスには作用することはなかった。そのため出身大学内人事、更には権力にへつらう人たちのしがらみの中、孤軍奮闘せざるを得なかったようだ。

そういった生き様は、「子を持って知る親の恩」そのままの親不孝者であった私でさえ、心に深く刻まれ、私の今日までに或る影響を及ぼしていると思う。例えば、結婚後、どうしても許せないとの、結局は同じ穴のムジナにもかかわらず、家族への不安、迷惑をかえりみることなく突っ走ること幾度かあった。

父は家庭にあっても、漢字「父」の成り立ちから意味する統率者然とし、家父長意識そのままに君臨していた。家族はどこか腫れ物をさわるような立ち居振る舞いの様相を呈していた。この緊張感溢れる家族生活も、私が小学校4年時での離婚、中学からの継母を迎えての新生活、そして妹の誕生といった変化に、父の加齢も加わって徐々に変容して行ったが、それでも父たる存在感は大きかった。
ところがである。私の長男と長女の生は、父らしからぬ父と変貌させた。痛々しいほどに二人に愛を注ぐ父がいた。父は祖父になったのである。古来の父性の父から母性の人になった。
その父が亡くなって23年が経ち(だから長女の死は知らない)、今では私が祖父となるかもしれない心模様をあれこれ想像する立場になっている。
私は、風貌、体型また志向性格において、その相似を妻や親戚の者から指摘されるが、父のような父とは全く異にしているように思う。父とは自立するまでの30有余年があまりに違い過ぎるからもある。

やはり、ここにあって父性・母性を考えたくなる私がいる。再び整理してみる。
『新明解国語辞典 第五版』の説明は以下である。何ともそっけないと言うか、窮しているというか。
  父性:父親(として持つ性質)  
  母性:女性が、自分の生んだ子を守り育てようとする、母親とし
     ての本能的性質。

次に、中村 雄二郎著『述語集』の、「女性原理」の項を参考にする。引用は、著者の言葉をあくまでも尊重し、適宜私の方で要約して記す。

(西洋の心理学者E・ノイマンの考えに立ち)
  母性:元型としての太母(グレート・マザー)は、包み込むこと
     の意味する、相対立する二つの側面を同時に持っている。
一つは、生命と成長を司って、懐胎し、出産し、守り、養
い、解放する一面、つまり生命の与え手の面である。
もう一つは、独立と自由を切望する者たちにしがみつき、彼
らを解放せずに束縛し、捕獲し、呑み込む一面、つまり怖る
べき死の与え手の面である。
無意識・感情

父性:断ち切ること、分割すること。
意識・理性

現代は母性の時代とも言われ、だから一部の父親、男性が(女性も?)「父性の復権」を言う。
しかし、どれほどに男性性・女性性について私たちは共有しているだろうか。「らしさ」の曖昧性、或いは固定性、大人の一方的刷り込み。
男女協働社会を考えれば、男女のそれぞれの性(らしさ)に係る自照、自問、自覚がより求められ,その上で共有があって然るべきではないかと思う。常識の呪縛から離れなくてはならない。父権制、家父長制の中で培われた常識。この裏返しとしての女性の常識。

それは、男女共同・協働意識とその現実化にあって、先進国中最下位に近い位置にある日本の緊要の課題である。いわんや先進国の矜持があるからには。

では、私自身はどうなのか。何も言えない。言えることは、男に生まれ、男の子として育ち、男性として社会人となり、ご縁があって結婚し、父となり、死を迎え、居士を与えられ(多分・・)、無と無性の世界に彷徨う・・・だけである。ジェンダー問題への思慮など言わずもがなである。

確かな男女協働社会を構築するには、どのような「らしさ」が常識としてあるべきか、学校、社会で大いに話題にして欲しいものだ。私のような無自覚な男を、父をなくして行くためにも。

2020年2月29日

多余的話(2020年2月)  『二月は逃ぐる』

井上 邦久

    足早に逃げる二月を追いかけて

 一月は往ぬる、二月は逃ぐる、三月は去る、と九州での子供時分に耳にしていました。遥かに牧歌的な時代の地方であっても,年初めの時間はそれなりに慌ただしく過ぎていたのかも知れません。それにつけても今年の二月は足早でした。

一つには同じ茨木市内の仮住まいへの引っ越しを前にして、15日までは神戸華僑華人研究会での報告準備に没頭しました。安井三吉先生や陳來幸会長を前にして晩学の者が『大阪港と川口華商』について報告しました。許淑眞名誉教授や二宮一郎先生から指導と激励を貰いながら準備に努めました。
昨春の川口居留地研究会にて、同じテーマで汗顔ものの報告を行い堀田暁生会長から「プロもアマチュアもない」、「新規発見が有るか無いかだ」、「ただプロの練度に学びなさい」という寸鉄が肝に刺さったままの一年でした。
報告のまとめの小文を事務局に送って一区切りを付けましたが、「練度」不足を改めて痛感しています。今後とも大阪市西区や山東海商の故地をひたすら歩き、足と五感を頼りに練度を上げていきたいと思っています。

16日早朝から3日間、段ボール函との格闘に集中しました。ギックリ腰にならないこと、いくら懐かしい写真や本に再会しても立ち止まらないこと、この二点に留意して何とか仕上げました。
その労力の結論は、何と多くのガラクタとツンドク書と同居していたのかという自戒の念でした。此処での若干の自己弁護としては、ほぼ40年にわたり国内外での仮住まいや出張という渡り鳥生活をしてきて、棚卸はせずに仮置きを繰り返してきた挙句の結果だと言う事です。

祖父の形見の陶器(ドイツ製ビールジョッキ)と伯父の遺した文学全集は散逸しないよう、米寿を迎えたばかりの母親に預かって貰いました。二人が愛読した『美味求真』シリーズ(木下健次郎・1925年)は手元で保管を続けています。

最寄りの駅は阪急京都線の南茨木で一昨年6月の直下型地震で壊れた駅舎の工事が続いており、階段歩行を余儀なくされています。仮住まいから徒歩20分の駅までの道は、茨木名所さくら通りと交差しているので、もうすぐ花見をしながらの朝の道や夜桜お七と花見酒の夜の道を楽しめそうです。

震源の摂津の春の仮住まい

 毎月第4水曜日は大阪市本町での「華人研」の例会日です。2月は1年半ぶりに三村光弘氏(環日本海研究所主任研究員)を新潟から迎えてお話を聴きました。世の中が今頃になって俄かに新型肺炎の対策を声高に叫び出したこともあり、講演後の立食交流は取りやめ、その時間を質疑応答にゆったり充てました。早い段階での参加申込が多く、広い会場を確保して貰ったのでスペースもゆったり取れました。
三村氏がプロの眼と足と五感で蓄積された北朝鮮についての内実開陳には、新鮮な啓発が多く、周辺諸国の実態説明を通して中国や北朝鮮の立ち位置が自ずと浮かび上がってくる構成でした。そして更には日本を合わせ鏡のように照射する多層的なお話を聴きながら、ついつい三村氏の眼を通じての朝鮮半島像が自分の眼で見てきたような錯覚に陥りそうで自戒しました。

昨年末、中国から新型肺炎の情報が洩れてきてから注視していましたが、中国政府衛生部からは1月20日まで正式公告は出ておりませんでした。
武漢三鎮は長江(揚子江)と漢江が合流する要地として古くから栄えた土地、四川盆地と上海を長江が東西に結び、長江に架かる武漢大橋により北京と廣州が南北に鉄道で繋がった、言わば中国の大動脈の十字路に位置します。それだけに人の移動による影響の大きさを危惧していました。
時はあたかも春節の直前、中央幹部は外遊をするのが習いであり、地方幹部は繰り返される新春歓迎会などに出演してテレビで報道される時期。その直下で感染は各地に蔓延して潜伏していたと想像します。

先月に綴った『軟禁』事件のあとに更に強まった「無かった事にすれば、事は無かったのだ」という隠蔽体質と一強体制が人災を世界規模にしました。

            一穴で大河の流れ変わる春

 二月の逃げ足ははやく、失った命を取り返すことができません。

2020年2月22日

和光同塵 [老子] ―若い人たちに読んで欲しい『老子』ー

井嶋 悠

和光同塵、紀元前4世紀古代中国の思想家(思索家)老子が著した『老子』に出て来る〈2回登場する〉言葉である。実に美しい言葉だと思う。人によっては彼を詩人としてみるようだが、中国の詩の規則[押韻や平仄等]に無知な私でも、なるほどと思わせる一節でもある。この言葉の個所の一つを引用する。
引用に際しては、口語文(書き下し文)の中でさえ難しい漢字は仮名に変えている。

知る者は言わず、言う者は知らず。その穴[欲望を誘い出す耳目などの感覚器官]を塞(ふさ)ぎて、その門を閉ざし、その鋭を挫(くじ)いて、その粉を解き、その光を和らげて、その塵に同ず。これを玄同[不可思議な同一:通俗的立場を乗り越えた境地]という。

平安、平和な光溢れる郷土を想い、国[祖国・母国]の姿に思い到る。
因みにこの「玄」、同書第1章で、【常に無欲にして以ってその妙[深遠で分かりにくい世界の意]を観(み)、常に有欲にして以ってその徼(きょう)[表面的ではっきりした現象世界の意]を観る。この両者は、同じきに出でてしかも名を異にす。同じきをこれを玄といい、玄[あらゆる思考を絶した深い根源的世界の意]のまた玄は衆妙[もろもろの微妙な始原の意]の門なり。]と説かれる、すべての根源を表した、老子の鍵となる語である。ここにおいても老子の詩人性が見て取れる。

私はこの老子[書『老子』に表された老子]を敬愛する。また羨望し、親愛する。そして、とりわけ次代を担う若い人に読んで欲しいと思う。孔子の『論語』とは違う文学性、論語が持つ倫理性の強い文学性とは違うものを思うからなおさらである。
昔、中国の人々は言っていたそうな。「家を出るときは孔子を着、帰れば老子に着替える」と。ここには老子の、すべての人間が持つ馥郁とした人間性と詩人性があるように思える。

なぜ若者か、幾つか例を挙げ、その理由を記す。と同時に詩人性も味わって欲しい。
そもそも老子は言う。

「人の生まるるや柔弱、その死するや堅強なり。万物草木生まるるや柔脆(じゅうぜい)[柔らかく脆(もろ)い]、その死するや枯槁(ここう)[枯れる、干からびる]なり。故に堅強なる者は死の徒にして、柔弱なる者は生の徒なり。(中略)強大なるは下に処(お)り、柔弱なるは上に処る。」

ここで書いていることは、この年齢(74歳)になっての、痛烈な自省であり、自戒である。若い時こそ地に水染み入るがごとく吸収できるが、歳を重ねる毎に心も脳も硬化し、多くは頭だけが、それも核心に到ること少なく、働き、いわんや心に到達することなく過ぎ去り、徒に時は経ち、そうこうしているうちに跡形もなく消え去ってしまう。

因みに、老子は「上善は水のごとし。水善く万物を利してしかも争わず」と言っている。

「強大なるは下に処り、柔弱なるは上に処る」に、先の和光同塵で引用した「知る・言う」を重ねてみると、上に立つ者の在りようが見事にとらえられていることに気づくではないか。学校で、社会で。少なくとも私はそうでない人たち、己を誇示し昂ぶる人たち、に多く出会って来た。

そして老子は「樸(あらき):切り出したままでまだ加工しない木材」を、素晴らしいもの、美しいものの喩えとしてしばしば用いる。だから嬰児(えいじ)が讃えられる。
とは言え、若い時(とりわけ10代から20代)は純粋であることの裏返しとして、迷い、苦悶も多い。そこで老子は言う。

「美の美たるを知るも、これ悪[醜いの意]のみ、善の善たるを知るも、これ不善のみ、云々」と。

絶対と相対。すべては相対と思うことで軽くなる肩の荷。いわんや現代は長寿化時代である。時間は十分にある。ないのは社会の、大人のゆとりと、それぞれの場で何らかの権力を有している人の慈愛、慈悲の眼差しである。

だから老子は続けて言う。「聖人は無為のことに拠り、不言の教えを行う。」

私(たち)が抱く聖人への憧れは受け身であり、非生産的である。ここにも若い人の可能性が見出せる。尚、「大器晩成」も老子の言葉である。

更に老子は自身の言葉の背景に、原理としての母性を置く。

「谷(こく)神(しん)は死せず」、これを玄雌(ぴん)という。玄雌の門、これを天地の根(こん)という。」

【口語訳:谷間の神は奥深いところでこんこんと泉を湧き起こしていて、永遠の生命で死に絶えることがない。】

あまりの牽強付会であり、加齢があってこそ共感かもしれないが、それでも或いはだからこそ若い感性で味わって欲しいと思う。

《補遺》
老子は実在しなかったという人もあるようだが、多くは実在したと言われている。ただ生没年等は不明で、中には複数で存在したという人もあるとか。

5世紀に中国で確立した民間信仰、民俗宗教の「道教」では、老子が教祖[神]として崇められている。尚、中国で発展した宗教として、「仏教」「道教」「儒教」がある。
ところで、このような伝説上の人物となると、後世の人はその人物像[姿・形・風貌]を想像力豊かに作り上げることが多い。老子も例外ではない。こんな具合だ。

―身長は九尺(中国古代では1尺は約22センチメートル)、鼻は高く秀で、眉の長さ五寸(1寸は約2センチメートル)、耳の長さ五寸、額に三本のしわがあり、足には八卦の模様をそなえ、神亀に腰かけ、白銀を階段とした金楼玉堂の内にあり、五色の雲を衣とし、重畳の冠をかむり、立派な剣を腰にする。―

2020年2月2日

「アジアン・インパクト」 《Ⅰ》 日本語教育の可能性

井嶋 悠

1か月余り前になるが、東京都庭園美術館で開催されている美術展に行った。東京都区内目黒駅から徒歩10分ほどにある。
東京は、疲労困憊する街だが同時に不思議な魅惑に満ち溢れている。文化に係ることでないものはないと言っていいほどに魔性溢れる街だ。と言う私には年齢もあって住む気力はない。
限られた都区内の都市空間、東京大空襲からも再興し、随所にある自然と芸術の総合空間。この庭園美術館もその一つである。

これらの多くは、江戸時代の高級武士や明治時代の宮家の賜物で、時代が時代なら私が如き平民が立ち入れるところではない。ありがたいことである。格差、貧困問題の現状にあって不謹慎との誹りを免れ得ないかとも思うが、高齢者割引料金で半額の500円は、あの爽やかな時間、しばしば見かける芸術を身構え、知を誇るかのような時間ではなく、自然態で浸る時間ならば決して高いとは思えない。
作品群を気の済むまで眺め、庭園の椅子に身と心を委ねれば、2時間、3時間は瞬く間だ。
高齢化時代の昨今、芸術、自然鑑賞体験の高齢者は甚だ多く、そんなゆとりの時間の競争率は激しいが、今回は幸いにも訪れる人は少なく、心和む時空間となった。

美術展の主題が『アジアン・インパクト』、副題が『―日本近代美術の「東洋憧憬」―』である。
1910年前後から1960年前後までの間で、古代中国・朝鮮(李朝)の諸作品に影響(イン)衝撃(パクト)を受けた何人かの日本人作家と、アジアを幻想する3人の現代日本人作家の作品が、以下の主題に基づいて展示されている。

 Ⅰ  アジアへの再帰 
 Ⅱ  古典復興
 Ⅲ  幻想のアジア

作品分野は、絵画・彫刻・陶磁器・漆工・竹、藤工藝にわたる。

私は在職中、校務で欧米、アジアの幾つかの都市に出かけた。訪問は一都市長くて2日前後であって、都市の一部分しか体験していないが、思えば幸いな機会であった。欧米の場合、どこか気構える私があったが、アジアは、まるで里帰りするような心持ちを何度も経験した。言葉[現地語]が分からないので、一昔前の読む書く中学高校英語を思い出し会話を図るのだが、欧米の場合、顔がこわばっている私がいて、アジアの場合、親愛的になっている私がいる。
アジアとの響きは私を心落ち着かせる。なぜなのか、おそらくアジア人のアジア人への甘えなのだろうが、未だによくわからない。ただ、それを追いかけていくと、何かがあるようにも思える。
その際、これまでの中高校国語科教師からの日本語教育と【日韓・アジア教育文化センター】の活動体験が、考える具体的契機となるように思い、今回の副題とした。

2006年、【日韓・アジア教育文化センター】主催で、「第3回日韓・アジア教育国際会議」を、特別講師に韓国の池 明観[韓国の宗教政治学者。1924年生まれ。1970年代の韓国民主化運動に携わり、「T・K生」の名で、日本にも発信し続け、後に『韓国からの通信』との書名で岩波書店より刊行]先生を招聘し、上海で開催した。その時の3日間の会議内容[項目]は以下である。

  特別講演「東アジアの過去・現在・未来」 池 明観先生
  東アジアでの日本語教育の現在 
           [韓国・上海・台湾そして日本の役割]
  日本の高校での国際理解教育
  上海日本人学校での国際教育
  東アジアでの海外帰国子女教育

同時に、上海・香港・台北・ソウルから各1名、日本から3名の、計17名による高校生交流を実施し、共通語を日本語とする彼ら彼女らの姿をドキュメンタリー映画として制作した。題名は『東アジアからの青い漣』(制作者:日本の2人の映像作家)

私たちは、アジアそれも東アジアにこだわった。東アジアに生を享けた者として、アジアを、世界を東アジアから考えてみたかったからである。
東アジアの底流に流れる心を見出すことは可能なのか、可能ならば今もそれを共有し得るのか。その時、日本語教育はどのように機能し得ているのか。

尚、東アジアは東アジアで、東亜ではない。東亜を名称に入れた組織関係者には申し訳ないが、私の中で東亜は大東亜につながり、私たち先人の過去の過誤と重なるからである。
旧知の韓国民団長の「大東亜共栄圏は、その理想にあってはよかった」との言葉も、一応肯定する私ながら、その理想にあっては、ということ自体に日本の純粋性があり得たのか甚だ疑問であるからである。机上の空論としての観念論であったのではないか、と或る自省からも思う。
いわんや現代東アジア情勢に身を置く一人としては、である。

展覧内容に戻る。
先に記したように、展覧会の意図は既に記したが、展示作品、作家は例えば以下の作品群である。ここに取り出す人々は、私の中でとりわけ心引き寄せられた作品の、それも数人の作者である。

Ⅰ.アジアへの再帰における、
雲崗の石窟と日本画家川端 龍子(りゅうし)(1885~1966)や杉山 寧(やすし)(1909~1993)、チャイナドレスと洋画家岡田 謙三(1902~1982)、静物画に採り入れられたアジアと陶芸家バーナード・リーチ(1887~1979)や洋画家岸田 劉生(1891~1929)といった人々の作品

Ⅱ.古典復興における、
中国古代青銅器と鋳造工芸家高村 豊(とよ)周(ちか)(1890~1972・詩人高村 光太郎の弟)、中国陶磁器と陶芸家石黒 宗麿(1893~1968)や中国五彩陶器と富本 憲吉(1886~1963)、また竹工芸家飯塚 琅玕(ろうかん)斎(さい)(1890~1958)、李朝白磁さらには日本の民藝運動ともつながる陶芸家河井 寛次郎(1890~1966)、古代中国漆器と漆工芸家松田 権六(1896~1986)といった人々。

Ⅲ、幻想のアジア
私にとって現代美術は、具象であれ抽象であれ、作者自身の或いは研究者等の解説があって初めて得心への道程となるほどに困惑することが多い。感性と想像力が、それも原初的なそれが、決定的に足りない。ついつい頭で見てしまうのである。観念的になり過ぎてしまう私がいる。作者の説明を読まない限り、アジアがどこにあるのかもわからない。
例えば、こんな風だ。3人の内の一人、山縣 良和(1980~)氏の政治性をもった『狸の綱引き』など。

この展覧会の意図は中国また朝鮮の美術の日本人作家への影響としての「インパクト」を確認し、そこから生ずる中国・朝鮮美術への憧憬を顧みるということなのだろうが、それだけとは思えない。

主催の庭園美術館長の樋田 豊次郎氏は、本展公式書の「はじめに」で次のように記している。

―こうした東洋憧憬は、一九六〇年頃に作品制作の表舞台からフェードアウトしますが、日本美術の根底ではいまも生きつづけているように思われます。―

そして、第Ⅰ部を『アジアへの再帰』とする。
更に樋田氏の言葉を借りれば、「アジアの古典を振り返りつつ西洋化を目指した〔再帰的近代化〕」ということなのだろうが、私はここでの「再帰」との言葉に眼を留めたい。近代化胎動から150年の今日、再度アジアを、その源泉源流に思い馳せる意義を思うのである。その時、私たちの眼前に在るのは先ず東アジアである。
とりわけ若い世代(10代後半から20代前半にかけての青年たち)が探索することで、例えば上記会議で大人たちが発した内容にどう応えるのか、それが、ドキュメンタリー映画の表題を『東アジアからの青い漣』とした思いである。

なお、会議中センターの中国側委員からあった、日本語―韓国語―中国語の高校生による相互通訳の試みと実践は、この会議の豊かさを思わせることとなった。

故きを温(たず)ねて新しきを知る、人間が人間である限り永遠の真理であり課題である。会議を主催した一人として、映画制作に関わった一人として、アジアを、東アジアを再考し、私の言葉を少しでも紡げられたらとの思いが今も残る。

2020年1月24日

多余的話(2020年1月)  『軟禁』

井上 邦久

サンフランシスコの次は南京ではなく、軟禁のことです。
去年今年貫く棒の如きもの、虚子の句を高校生時分のようには実感できずまさに虚しく歳が暮れようとしたところに、Carlos Ghosn has goneの報せ。そして、NHKでは中国関連のドラマやドキュメンタリーが続きました。

『趙紫陽 極秘回想録』 天安門事件「大弾圧」の舞台裏!
                           趙紫陽 

パオ・プー(鮑樸)/ルネー・チアン/アディ・イグナシシアス
河野純治=訳 
            光文社 2010年1月25日 初版第一刷発行

 1989年6月、全ての職を解かれてからも「党の処分を決めるための審査上の必要性」という理由で北京市内の自宅に拘束され、2005年1月17日死去するまで16年間の軟禁生活が続いています。

 2000年から2003年、監視要員に悟られぬよう、家人に累が及ばぬよう秘かに、全録音時間30数時間の口述記録をカセットテープに残し、信頼の置ける人たちの手で香港へ分散して持ち出されたとのこと。それを基に編集出版されたのが上記の本であり、ちょうど10年前に日本語版が出されています。 
「趙は録音前にメモ書きを用意していたために、語りも、論理もしっかりしていた」「父親(鮑彤・趙紫陽の最側近)の関与がなかったら、この本の出版は無理だったであろう。彼がテープを聞いて全文をチェックし、順序を入れ替えたりした」(中国語版出版元、英語版からの翻訳に当った鮑樸の言葉

経緯や時代背景は、巻末の日暮高則氏の解説に詳しく、NHKのドキュメンタリーも概ね上記の本、ということは趙紫陽の肉声を録音したテープに基づいて制作されていると思います。

 1992年10月8日、党中央は趙紫陽を中南海に呼んで審査の終了を宣言したが、それでも趙の自由回復はならなかった。ただ、これ以降の自宅軟禁について、当局は理由も提示せず、また実際に根拠をみつけることもできなかったのである、との記述もあります。

まさに多余的話で恐縮ですが、「改革開放」という言葉の使い方について個人的なコメントを繰り返します。
趙紫陽失脚以降に言われるところの改革開放とは、経済改革であり政治改革ではなく、対外開放であり対内開放ではないことを改めて感じます。

昨年の晩春、制作に携わった人が思いつめた感じで「自らの半生をかけて作ったので是非見て欲しい」と伝えてきました。そのバージョンでは、趙紫陽の遺骨が自宅に留め置きされたままにされている画像と埋葬の許可が下りないというナレーションがありました。
昨年の夏に夫婦一緒に埋葬されたとの報道があり、年末の拡大版でも一族や友人が埋葬に立ち会うシーンが映されました。また拡大版にも事件当時広場で学生と接した趙紫陽に、温家宝(当時は中央弁公庁主任)が緊張した表情で拡声器を指し出す姿が画像記録されてました。

 1月26日(日) 14:00-15:50 NHK BS1で 「NHKスペシャル」/「証言ドキュメント 天安門事件30年」の拡大版が「再・再放送」の予定との案内を貰いましたのでお伝えします。
なお、大陸に住む友人たちには番組の案内や拙文を不用意に届けると迷惑をかけるので注意します。

趙紫陽が軟禁されていた当時の北京には何度も仕事で行きました。すぐ近くで高濃度PM2.5含有の空気を共有していた事実、そして軟禁が続いた時間の長さを改めて感じています。
現在こうしている時にも、カナダで拘束されようやく審理が開始された華為技術(HUA WEI)副会長・CFOの孟晩舟氏やレバノンで咆哮(彷徨?)している人のことも連想しています。
また、高齢の鮑彤が今日も北京で軟禁状態にある事実は、歴史が現在に繋がっていることを意識させます。

                         (了)

2020年1月18日

   江戸っ子・気質

井嶋 悠

私は一応、都っ子[京都っ子]である。一応というのは、家系的には京都だが、私の人生が、子ども時代の周囲の大人の事情や後の私の意志もあって流転しているからである。
そんな私だが、江戸っ子という響きに好意性を持っている。それも山の手系ではなく、下町系の人々である。言ってみれば江戸落語或いは風流の世界かもしれない。

私は4コマ漫画以外、基本的に漫画をほとんど読まないのだが、東京生まれの漫画家にして江戸(文化)考証家で、46歳の若さで逝去した杉浦 日向子(1958~2005)は例外である。彼女の代表作の一つ『江戸雀』に接し、虜になった。描かれる男女が微笑ましく、風景が緻密で情緒深い。
以後、彼女の著作であるエッセイを読んでいる。『一日江戸人』もその一つである。入門編、初級編、中級編、上級編の章立てで、江戸人を、暮らしを、文化を、軽妙な筆致と温もり溢れる描画で紹介していて、最終項は『これが江戸っ子だ!』である。
そこに【江戸っ子度・十八のチェック】というのがあり、次の項目が挙げられている。適宜私の方で要約してそれを引用する。

①よく衝動買いをする ②見栄っ張りだ(借金をしてでも人におごる) ③早口 ④よく略語にする ⑤気が短い ⑥定食より丼飯 
⑦潔癖(濡れた箸を気味がる) ⑧下着は白で、毎日替える ⑨行きつけの床屋がある ⑩無頓着にみえるが、おしゃれにこだわりがある ⑪履物に金をかける ⑫間食好き ⑬入浴時間は15分以内、45度以上で毎日 ⑭あがり性 ⑮異性交際が下手 ⑯駄洒落好き ⑰ウソ話を本気で聞き、後で笑われる ⑱涙もろい

以上の該当数により、筆者は次のように分類する。
18   金箔付きの江戸っ子    
15以上 江戸っ子の末裔の東京っ子    
10以上 並の東京人
一桁  並の日本人
どうであろう?

上記⑤⑦⑧に通ずることとして、義侠心(男気・男勝り)、反骨精神(哲学者九鬼 周造(1888~1941)の『「いき」の構造』による“粋“の3要素【媚態・意気地・諦観】の内の意気地に通ずる意地っ張り、との江戸っ子気質を語るにしばしば登場する表現)との言葉が浮かぶ。
尚、杉浦も九鬼の著書を基に書いているが、彼女曰く、最初はちんぷんかんぷんだったが、江戸への理解が進むと、当たり前のことが当たり前に書かれている、と。
このチェック表、三代続く生まれ育ちが東京下町の、私が知る近しい女性は、ほぼ該当していて、更には義侠心、反骨精神は甚だ強い。
私は5ないしは6である。但し、反骨精神はあると自認している。

ひょっとして、私は江戸っ子=男性と思い描いていないかと自問する。私が男であるからとも言えるが、幾つかの本等からも江戸っ子というとき多くは男性がイメージされている、と思える。女性は中心にはいない。夏目 漱石の『坊っちゃん』然りである。『男はつらいよ』の寅さんの妹、おばちゃんもあくまでも脇である。
これでは明らかに今の時代にそぐわない。
これを、先の杉浦 日向子は、別の書(監修)『お江戸でござる』で、江戸の男女構成(そこには江戸時代の江戸だからこその要因、参勤交代制がある)や、そのこととも関連する結婚事情、また男女協働の実情を通して「かかあ天下―現代のウーマンズパワーーと書き、
日本近世文化研究家である田中 優子さん(1952~)は、『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?-落語でひもとくニッポンのしきたりー』との著で、落語『抜け雀』『厩火事』を通して「江戸の女は強かった」と書く。

ここに、「男があって女」ではない「女があって男」の世界を見、一方で明治維新以後の近代化の中での「男があって女」が今もって続いていることに思い及ぶ。
「江戸の世界も女は強かった」のではなく、あくまでも「江戸の女は強かった」のである。だからと言って男が弱かったのではなく、また男が勝手に女は弱いと決め込んでいたのでもなく、男女平等意識が、難しい講釈なしに自然に浸透していたと説く人もある。
なぜか。今ほどに職種はなかった時代、協働しなければ生きて行けなかったし、その時、とりわけ女性に強いと言われている地に足をつけた現実性指向は何よりも有効にして必要であった。

今はどうであろうか。
職種は多種多様で、農業国としての面影は薄くなりつつある。そして男女共同参画、協働との言説、呼び掛けはかまびすしい。しかし、その成果、内容は先進国中最下位に近い。先進国、一等国と言うにはあまりに哀しく恥ずかしい。
どうすればいいのか。

男性が、これまでの歴史をかえりみ、自身の深奥に何が見えるのか、響くことは何なのかを謙虚に問い、政治等社会を主導し、変容に与ることがより直接的な世界に、女性が果敢な自由さと柔軟さをもって参入できる雰囲気[場]の醸成が必要なのではないか。もちろんそこでは女性自身の意識改革も必要だが、先ず問われるべきは男性側の意識変革である。その時、江戸の庶民男女の躍動こそ、その方法等を考える大きな力となる。
ただ、あの吉原は、樋口 一葉の『たけくらべ』で終わりにしてほしいが、現実はフーゾク通りとして陽の高い時間から今も営業している。性はヒトへの永遠の課題の一つなのだろう。
江戸を顧みることで、女性の在りように限らず、豊かさと質の問題や東京での貧困問題を説く人も多い。
ここ数年の江戸ブームが、郷愁や感傷だけで終わることなく新たな生の力となってほしいものだ。