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2022年8月17日

『老子』を読む(九)

井嶋 悠

第36

 ……将にこれを奪わんと欲すれば、必ずしばらくこれを与えよ。是れを微(び)名(めい)(微妙に隠された明智)と謂う。柔弱は剛強に勝つ

◇生徒には必ずと言っていいほどに“点取り虫”がいる。結果がすべての合理的発想とも取れなくはないが、中には、「誰々に勝った」と誇る者もいる。しかしこのような人物は概ね嫌われ者である。ただ、世間では優秀者として見られ、本人は頓着しない?
試験など無くし、語学以外は大学のようにレポート形式にすれば良いと言う人もあるが、はたしてどうだろうか。
これを実践し、評価できる教師は、はたしてどれぐらいいるだろうか。私にはそんな器量はなく、せいぜいで、授業復習試験と論述試験の相乗りだったが、それとて採点と受講生徒人数で、生徒から採点苦情が出ないよう、四苦八苦していた。

第37

 道は常に無為にして、而も為さざるは無し。……無名の樸《道》は、夫れ亦将に無欲ならんとす。欲あらずして以て静ならば、天下将に自ら定まらんとす。

◇今もって事細かな校則を作り、それを生徒指導の名目で教師を“指導”する学校は少なからずある。流行は時代と共に変化するから対応も一苦労だろう。もっとも、流行は繰り返すとも言うが。実際、校則を作り、それを遵守させる方が、教師は楽とも思える面は無きにしも有らずだが、幸か不幸か?私は自由校に勤務した。その中で、例えば服装、女子校で最も効果的なのは、生徒自身がいうに生徒同士の批評だそうだ。
或る「学力」の低い生徒が集まっている学校(女子校)の教師が言うのには、それを実施したらとんでもないことになる、と言っていた。
この言葉、生徒の、自己尊重―学力(或いは学習評価)の悪循環を表わしているように思え、私の幸いを思ったことがあった。

【下篇】徳経

第38

 上徳は徳とせず。[徳=得。生来及び以後の中で身に着けた能力:道教の無為にみる実践性、儒教に見る道義性]是を以って徳あり。下徳は下徳は徳を失わざらんとす。是を以って徳なし。上徳は無為にして、而して以て為すとするなし。上仁はこれを為して、而して以て為すとするなし。
……道を失いて而して後に徳あり。徳を失いて而して後に後に仁あり、仁を失いて而して後に義あり、義を失いて而して後に礼あり。……前識(さかしらの智恵)なる者は、道の華[あだ花]にして、而して愚の始めなり。

◇社会が不安定になり、諸事にほころびが生じ始めるとしきりに標語やスローガンが街路や壁に登場する。だからそれを見ると、今何が問題かが分かる。
学校も同様である。ただ、そこには2種類ある。一つは、学校応募者の減少や質的マイナス変容での危機感が、出始めると何かと外に向けて広報を出す。無為無言で「待つ」心の余裕がなくなるのだろう。
もう一つは、学内生徒間等で諸問題が出ると、教室や廊下にそれに係る掲示が増える。その時、生徒会(自治会)が積極的な役割を果たすが、内容によっては教師たちとの協働性による成果となり、学内は良い雰囲気になる。ただ、自由指向の現代社会にあっての「義」《人としての正義》「礼」《人としての礼儀》は、「徳」や「仁」との精神性とは違って難しい問題である。
儒教、仏教、キリスト教…に基づく学校は多いが、道教に基づく学校と言うのはあるのだろうか。『道家道学院』という、教室的な学校は、全国に何か所かあるようだが。やはり、道教は「教」と言っても宗教のそれではない?

第39

 夫れ貴(たっと)きは賤しきを以って本と為し、高きは下(ひく)き以って基(もとい)と為す。是を以って侯王は自ら孤(孤児)・寡(独り者:寡徳。寡人。)・不穀(ろくでなし・不善)と謂う。此れ賤しきを以って本と為すに非ずや、非ざるか。故に数々の誉れを致せば、誉なし。琭琭(ろくろく)(立派な)として玉の如く、珞珞(らくらく)として石の如きを欲せず。…………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これを致すは一(いつ)[道]なり。

◇謙称としての「弊校」、敬称としての「貴校」。第2章の「美の美たるを知るも、これ悪(醜)のみ、善の善たるを知るも、これ不善のみ。」との、老子の考えからすれば、この謙称も敬称も「一」に帰さなくてはならない。日本人の感覚としてどうなのだろうか。私個人は、内容では老子で、形式では日本語表現なのだが。

第40

 大器は晩成し、大音(たいおん)は希声(きせい)、大象(たいしょう)は形無しと。道は隠れて名なし。夫れ唯だ道は、善(よ)く貸し且つ善く成す。←未完[形ができあがればそれで用途は限られる。永遠の積極性、無尽性。

◇卒業はそこで終わるのではない。一休みして再び歩み始める、その新たな起点である。人生には限りがあるが、道は永遠である。「明道は昧(くら)きが若(ごと)く、進道は退くが若く、夷道(平坦な道)は類(るい)なる(起伏)が若し。」
そのおぼろげな道をおぼろげにでも自覚させ、伝える場としての学校。学校は所謂学校がすべてではない。到る処に様々な学校がある。しかし、一人では手に負えないから、仮の場所として学校は在ると考えれば、随分と気が楽になるのではないか。後は、教師の、大人の、国の問題である。

2022年8月17日

多余的話(2022年8月) 『洛北余聞』

井上 邦久

予報通りの酷暑、予想通りの感染拡大のなか、千本通りを洛北へ、いつもより早めのバスに乗った。講座「疫病に向きあう」の前に、京都大学のL教授から紹介された修士課程学生と面談をするためだった。吉田キャンパスから自転車で登ってきたZ君は江蘇省出身、上海の復旦大学を経て、春に来日したばかりとは思えない癖のない日本語を身につけていた。

L教授から「友好貿易」という言葉は知っていても、その実態や日中貿易での位置づけが分からないというゼミ生へ実体験を語って欲しいという要請だった。事前に鍵になる年表と用語を伝えておき、友好商社のC社の社史を持参した。1945年、1949年、1952年、1961年、1972年、1978年、1992年、2001年、それぞれの年の意味をお浚(さら)いし、日本が独立して貿易自主権を回復した1952年から中国との国交を回復するまでの20年間を中心に話した。

ベトナム戦争や日米貿易戦争の時代。自民党総裁選が国際政治に影響していた頃。自民党非主流派や野党によって継続されていた日中国交回復運動は急展開し、周恩来首相は田中角栄首相・大平正芳外相と握手した。にわかに日中友好ブームが起こり、その後多くの友好姉妹都市が生まれた。日米貿易の陰りを危惧し、中国市場の将来性に賭けた日本総資本の方向修正だった。それまで東西貿易、配慮貿易、友好貿易、LT貿易、覚書貿易、周三原則などの試みと制約の中で、日中間の政治的・経済的・資源的な「有無相通」のバランスを取ってきた経緯を大まかに振り返りながら語った。

天産品(松節油・桐油・滑石・生漆・甘栗など)や鉱産物を一次加工した無機化学品を中心とした輸入と肥料・合成繊維原料などの輸出を友好商社が担ったことを具体的に話した。春秋の広州交易会と北京二里溝の貿易総公司の二箇所だけで商談を行う形態の中で、大メーカーや有力ユーザーが中小の友好商社を尊重した理由は、友好という旗幟を鮮明にして得た中国政府のお墨付きと人脈と語学力にあることについて、実例と私見を交えて喋った。Z君にはとても高い理解力があり、大手商社系のダミー商社が存在したことまでも知っていた。

友好貿易という政治的で制約の多い貿易形態は、1972年9月29日北京での日中共同声明により変異していった。翌日の朝刊を飾った大手企業による国交回復の祝賀広告を眺めながら、潮目の急変を実感したことを思い出す。
その後も友好商社は善戦したが、取引拡大に必要な資本力の限界と客の方針変化により徐々に淘汰され、「中国一辺倒」だった友好商社では苦戦が続いた。中国側が常套語として発した「没有合同,但是有保留友情」(契約書はなくても友情は残る)というホロ苦い言葉を、Z君は中国語の正確なニュアンスも含めて分かってくれた。一方で、中国政府の直下で貿易を独占していた貿易総公司にも変化の波は押し寄せ、地方分権・「民進国退」により、権益は減退していった。
化工総公司→化工山東省分公司→化工青島市分公司→紅星化工廠→紅星集団と短期間に貿易窓口が変化した青島紅星製の炭酸バリウムの事例が分かりやすい。
Z君は「賞味期限切れ」という日本語で友好貿易の終焉を適確に理解していた。

それから50年、国交回復後に始まった対中国ODA(開発途上地域の開発を主目的とする政府及び政府関係機関よる国際協力活動)は本年3月で予算や新規協力案件もなくなったという。

午後は仏教大学のキャンパス内を移動して、天然痘から始まる感染症についての歴史と考察の続きを香西教授から学んだ。

1849年長崎オランダ商館医のモーニケと佐賀藩侍医の楢林宗建の連携でバタヴィアからの牛痘苗が一人の児童に活着して情況は大変化。1849年から1850年の短期間に桑田立斎らが十指に余る種痘奨励書・手引書を出版している・・・と2021年10月『牛の話』で綴った。

この日の講義は、1957年長崎に来航したオランダ軍医ポンペによる医学伝習と「長崎養生所」(長崎医科大学、長崎大学の礎)開設、「養生」の意味の変遷についてであった。途中、前回講義のあとに伺った「蝦夷地の集団種痘に人体実験の要素はありませんか?」という素朴な質問への明解な回答の時間もあった。

ポンペ来航と同じ1957年の5月、幕府の公募で選ばれた桑田立齋一行が江戸を出立、白河・仙台・盛岡・田名部で牛痘生苗を植え継ぎ、箱館を拠点に蝦夷地で種痘をしたが、人体実験と言えるような高度な比較検証の能力も記録もないとの説明であった。手交して頂いた教授の論文「アイヌはなぜ『山に逃げた』か」『思想』1017号(2009年1月号)の抜刷を拝読し考察の奥行きを直感した。

バランスの取れた資料分析と鋭い考察が続く論文なので咀嚼が容易ではない。蝦夷地の産業構造の変化がベースにあり、ロシアの南下行動とアイヌ同化圧力に幕府が敏感に反応した複合要因が幕命全種痘に絡むことが何とか読み取れた。
ある意味で魅惑的な絵の背後に、蝦夷地種痘にまつわる奥行きがあることを色々と想像した。実に刺激的で魅力的な夏の課題として読み返している。

2022年8月2日

『老子』を読む(八)

井嶋 悠

第31

 夫れ兵は不祥の器、物或いはこれを悪(にく)む。…君子、居れば則ち左を貴び、兵を用うれば則ち右を貴ぶ。

 吉事は左を貴び、凶事は右を貴ぶ。…人を殺すことの衆(おお)きには、悲哀を以ってこれを泣き、戦い勝てば、葬礼

を以ってこれに処(お)る。

◇生徒にとって学校は戦いの場とも言える。何と戦うのか。学習?クラブ活動?人間関係?その結果さまざまな弊害も生まれる。それは思春期前期後期の非常に微妙な心の状態、身体変化の中高生ならではのところもある。
自身の中で「勝った」と確信した時、彼ら彼女らは葬礼への態度を持ち得るであろうか。それぞれの時に於いて一心に戦っている生徒ほど相手の心への慮りが増える生徒がいる。教師にそれだけの心を持ち得る者があろうか。
そうして考えてみると、「受験戦争」との言葉のあまりの巨きさに、改めて気づかされ、例えば高校野球の監督会議で頻りに不正行為[勝つためには手段を選ばず]への注意がなされることの寂しさに思い到る。

第32

 道は常に無名なり。樸は小なりと雖も、天下に能く臣とするもの無きなり。

 はじめて制して名有り。名亦た既に有れば、夫れ亦た将に止まることを知らんとす。止まることを知らば、殆(あや)

うからざる所以なり。

◇小学校一年生の初々しさは何物にも換え難い。あの眼の輝き。先生を絶対と視る透き通った心そのままの眼。樸。しかし、周りには別の樸がひしめき合い、我先にと競い合い、彼ら彼女らは優劣を知り始める。疲れて止ろうとすると大人たちはついつい叱咤激励する。彼ら彼女らに不安定な波が立ち始める。かなしいことだ。
小学校一年生の担任教師は、ベテラン教師でないと務まらない。区別、差別を存分に知った教師の吸引力。

しかし、今、保育所・幼稚園を経て、果たしてその像はどうなのだろうか。小学校高学年で既に学級崩壊が、始まっているというではないか。

なぜそのようなことになったのか、なるのか、大人達こそ立ち止まって熟考すべき時なのではないか。

第33

 人を知る者は智[知恵者・知者]なり。自ら知る者は明[明智・明察]なり。人に勝つ者は力有り。自ら勝つ

者は強し。足るを知る者は富む。強(努)めて行う者は志有り。

◇学校は、知恵者を育てるのではなく、明智な人物を意図的に育むのが本来ではないか。知識に溢れた人が優秀と言う学力観ではなく、学ぶこと一つ一つに自身を映し出すことで生じる学力。そのためには「静」の時間が、必要だ。忙しくすることを善しとする大人から距離を保つべきだ。わずかな時間で良い、じっと自身を視る。
そのことで他者との関係に平衡性が生まれる。例えばイジメは平衡性の意図的破壊であり、だから犯罪である。それを教師が生徒にすることさえある。子どもは誰を信じ、平衡感覚を培えば良いのか。

第34

 大道は汎として其れ左右すべし。万物はこれを恃(たの)みて生ずるも、而(しか)も辞[ことば]せず。…常に無欲なれば、

小と名づくべし。万物これに帰するも、而も主と為らざれば、大と名づくべし。…聖人の能く其の大を成すは、

其の終に自ら大と為らざるを以って、故に能く其の大を成す。

◇学校は静かに構え、生徒を受け容れなくてはならない。学校は器である。器が常に動けば不快な気分になる。

器を形成するのは、一人一人の教師、大人である。しかし言葉を弄ぶ教師が多過ぎる。先生って、そんなに偉いの?私は何度思ったことだろう。私はその教師だった。だから私は老子に魅かれる。

第35

 大象(たいしょう)を執れば、天下往く。安、平、大(泰)なり。

これ(道)を視るも見るに足らず、これを聴くも聞くに足らず、これを用いて尽くすべからず。

◇(学校)教育の主眼は、一人一人の人格形成にある、と言って否定する者はないと思うが、それが難しい。何

を以って、そのときどきの年齢に応じた人格陶冶の成果を表わし得るかが、具体的であるようで抽象的で分かり

にくい。そこに教科学習と言う具体性の必要性があるのだろう。そして私たちは「主要五教科」とか「芸能科」などと、老子が聞いたら卒倒するようなことを当然のごとく言い、している。

小学校中学校で、音楽・美術・体育・技術家庭・書道の充実を、自身の子ども体験からも、希望する大人は多い。私案の「中等教育と高等教育」の変革は、その点での、またいろいろな場面で使われる[総合]や[国際]との用語の再考になるのでは、独り自負している。

2022年7月16日

多余的話(2022年7月)   『サラダ記念日』

井上 邦久

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 (俵万智)

 七月六日、直江津 文月や六日も常の夜には似ず   (芭蕉・奥の細道)

西行500回忌の1689年に陸奥を歩いた芭蕉の句は、333年後の今宵も多くの人が口にすることでしょう。
1987年に俵万智が新鮮な衝撃を与えた歌集を35年後の7月6日に多くの人が思い出し、サラダの味を気にしたことでしょう。

300年を隔てた7月6日の意味に気づかせてくれたのは、作家の丸谷才一であったと俵万智自身が呟いています。丸谷才一のおかげで二つのベストセラーが「衆口難調」に陥らず、七夕とサラダが結びつきました。その意味でも、日本の韻律詩文の流れのなかで7月6日は大切な記念日になったと思います。

七夕を翌日に控え、笹を準備して短冊を飾り、星の伝説に思いを馳せる習慣は今も残っています。中国語や中国文化の入門材料として、元旦・上巳節・端午節・七夕節・重陽節という奇数月日が重なる日が使われます。生活習慣に残る節句の言葉の学習を通じて、文化伝統を初歩的に学びます。
西欧化とともに元旦は陽暦の1月1日が休日となり、会計年度の初日になります。しかし西暦の新年ではあっても「過元旦!」という通過点に止まり、陰暦の春節を待って「新年好!」となり、お年玉(紅包)のやりとりをすることは知られてきました。

7月7日は、七夕情人節とも呼ばれ男女のプレゼント交換(主として男から女への一方通行)が盛んです。
上海での駐在時代、古北路・仙霞路の宿舎の近くの「小譚花店」にしばしば立ち寄り、安徽省出身の譚さん夫妻とお喋りをしながら、日本出張の折に頼まれる商品(ベビーミルク・花切鋏など)の打ち合わせをしました。ただ二月のバレンタインデーや七夕情人節の繁忙期は商売の邪魔をしないように素通りしたものです。

上海も漸く封鎖が解かれ、赤いバラの書入れ時に間に合ったことでしょう。
いつぞや、その7月7日に販促イベントを企画した日系企業があり、内外から多くのクレームが発せられ、慌ててお詫びして中止したと聞きました。2012年前後の緊張した時期には、反日感情を刺激しないよう、多くのコンサルタント会社から過剰ともいえる自主的配慮と要注意日のリストが流されました。
「日本語は使うな、英語にしなさい」「お古の中山服を着ていれば安心」などと少々ピントがずれた助言も目にしました。7月7日は、要注意日の上位に位置づけられていました。

過剰反応の反動による気の緩みなのか、緊張感が減っていたのでしょうか?長年にわたり中国市場でビジネスを継続してきた大手の企業が、わざわざ7月7日、七七事変(1937年・盧溝橋事変)の当日にイベント企画をするということは単なるケアレスミスとは思えないことです。
日本本社の海外事業管理部署・中国現地法人の危機管理部・企画会社の幹部には多くの中国貿易経験者がいることでしょうし、日本留学後に入社した中国人社員や現地採用の職員も多く在籍していると想像します。
俗にいわれる「中国通」と目される社員たちの厳しいフィルターに引っ掛からなかったのか?中国人社員の是非判断が為されなかったのか?実に不思議です。
歴史教育の風化、85年前のことまでコミットできない、とする居直りの風潮や趨勢の中での決断とも思えません。想像をたくましくすると、「この日は拙い」「別の日にすればいいのに」という素朴な声が社内で届きにくい体質が主要因だったのかも知れません。そうだとすれば、歴史認識の議論より前の段階、「溝通」(gou tong:コミュニケーション)の問題となります。

6月の異常な酷暑が尽きて、7月も尋常ではない暑さが続いています。ご自愛専一にてお過ごしください。
時間が取れれば喧噪と暑気を逃れて映画館で過ごすのも一手です。
とりわけ『プラン75』や『教育と愛国』を観ると背筋が凍りつくことでしょう。

       文月や六日の次の分かれ道(拙)

2022年7月2日

『老子』を読む(七)

井嶋 悠

第26

 重きは軽きの根たり、静かなるは躁(さわ)がしきの君たり。

 軽ければ則ち本を失い、躁がしければ則ち君を失う。

◇「先生」と呼称される職業は多い。教育者、宗教家、医師、弁護士、政治家……。いずれも弁が立つ。弁が立つのも善かれ悪しかれ、と大人同士の時間が限られている学校世界ではとりわけ思う。雄弁家を不得手とする子どもたち(中高生)は多いのではないか。ただ、女子と男子で傾向は違うように思えるので一概には言えないが。10代から視た父性と母性…。或いは思春期前後期と「先生」。

第27

 善く行くものは轍迹(てっせき)なし。

 聖人は、常に善く人を救う、故に人を棄つることなし。…是れを明(明智)に因ると謂う。故に善人は不善人

の師、不善人は善人の資なり。

◇良い学校、優れた教師が、これである。しかし、現実の多く(或いはほとんど)は、言葉[理念]で終始するか、進学実績を競う学校も多い。教師の個人性に委ねられている場合は多々ある。絶対評価との見地に立って、全員をAにする教師がいた。私には、生徒[人]に大小高低長短等区別がないことの前提は得心できるが、その教師の真意は未だに分からないままでいる。

第28

 雄を知りて、雌を守れば、天下の谿となる。天下の谿となれば嬰児に復帰す。

白[光明]を知りて、黒[暗黒]を守れば、天下の法[模範・徳]となる。天下の法となれば無極[茫漠・無限定の世界]に復帰す。

栄を知りて、辱を守れば、天下の谷となる。天下の谷となれば樸に復帰す。素朴

◇公立学校はもとより、私立学校も教師になるには、採用試験を受けなくてはならないのが今日である。(私など例外中の例外である。だから若い人には常に私の轍を踏まぬよう注意して来た。)その試験はなかなか難関でもある。とりわけ公立学校採用試験に合格するのは、希望者の中でも学力優秀者が多い。
先日、教員希望者が減少し、質の低下を招く旨の危機感を表わす報道があった。教育委員会か文科省の役職人の発言なのだろうが、相も変らぬ官僚性で馬鹿馬鹿しいそのままだ。量より質。デモシカ時代は疾うに終わった。
この質、公立での、多様な私立での「良質」は千差万別。例えば「天下り」教師を見れば明白だ。無風、温室育ち(世間知らず)の、時には情報(知識)お化けの若者が、教師になって、多様な学校に赴任し、たまたま水が合えば順風満帆なのだろうが、その率は少ないと思う。
企業や官庁等も含め、学校卒業(終了後)1~2年の“モラトリアム”時間が、必要なのではないか。
度々主張、提案している《体験からの小中高大改革:6・6+2の14年間で20歳終了(中等教育修了)、大学の教養課程廃止、専門学校・大学の徹底した専門化等々》案、良い樸が生まれ、社会は落ち着くと思うのだが。

第29

 天下は神器、為すべからず。……聖人は、甚を去り、奢を去り、泰(泰侈)を去る。

◇どこの学校でも「個性の伸長」を言う。私の偏りなのだろうが、その時、積極性・主体性→アメリカ的個性、のイメージを描いてしまう私がいる。我ながらおかしいと思う。
こんな経験をした。「船頭多くて舟山に登る」。それを自然な巧みさで操るのがベテラン教師。もっとも、学校世界(大学も含め)、主体性への固執が最も強いのは教師世界かもしれない。山に登るどころか解体、雲散霧消し、まとまる話もまとまらない。墨守世界としての学校。これも体験からの話題。
教師で単純明快、理路整然としているのは、予備校と進学塾かもしれない。

第30

 果(勝)ちて矜(ほこ)ることなく、果ちて伐(ほこ)ることなく、果ちて驕ることなく、果ちてやむを得ずとす。

 物は壮(さかん)なれば則ち老ゆ、これを不道と謂う。不道は早く已(や)む。

◇学校の盛衰は教師にかかる。或る学校は進学で誇り、或る学校はスポーツで誇り、或る学校は更生で誇る。誇れる結果を導くのは教師であり、それを支える学校組織である。公立学校にない私学の多様と言っても過言ではない。
しかし、私が最初に勤めた学校[女子校]は、近年進学(全員が付設の大学か、他の大学に進学する。進学校を標榜していないが、進学実績は相当なものである。それは、彼女たちの自我意識と塾・予備校に因るものである。)の結果を意識的に公表しなくなった。学内改革である。その改革は、明治時代の創立理念に戻る、ということであり、結果としての進学であり、社会での彼女たちの働き、存在である。言ってみれば本末転倒を糺し正そうということである。
これをもって、その学校は終わったとの軽薄極まる感想を持つ者は、卒業生を含め内外にあるだろう。
どこか、現代日本の縮図を見るようである。

2022年6月18日

多余的話(2022年6月) 『シニアカレッジ』

井上 邦久

 「改革・開放」政策とペレストロイカについて初歩的に考えてみた。
共通点:経済停滞への危機感から、立て直しをしようとする試みである。ペレは英語でreの意味、ストロイカはconstructionと英訳されていたと記憶している。      
相違点:①情報公開(グラスノスチ)の有無、
    ②革命から立て直しまでの時間
③香港や台湾そして華僑の存在がソ連にはなかった

政治改革と対内開放から距離を置いていることについて、何度も触れてきたので重複を控えるが「経済改革・対外開放」を「改革開放」と単純省略し、OPEN POLICYと喧伝してきたメディアの責任は重いと思う。その点で中国に情報公開(グラスノスチ)がないことに繋がる。
次に帝政ロシアがソビエト社会主義共和国連邦 となった 1922年12月30日 から 1991年12月26日のソ連崩壊まで69年。一方の中国は立て直しまで約30年である。
この時間差は「経済」体験のある旧世代が残っていたかどうかの違いに影響しないだろうか。
また他方では、漢民族が「経済」を本土から離れた場所で温存培養していたことにも連動する。
一朝、本土から「経済」をやるよと声を上げると、先ずは香港から、続いてシンガポールや日本、そして恐る恐る台湾からも「経済」専門家がやってきて、「友好」と「利益追求」の両輪で大活躍をしたことはご存知の通り。
色々な摩擦や試行錯誤を繰返し、「全球的経済」の素地が生まれて21世紀を迎えたと思う。

『現代中国の経済と社会』竇少杰・横井和彦(編著)。中央経済社2022年3月30日出版。旧知の竇先生に読後の感想を伝え、質問をさせて貰う機会を得た。
竇先生は、2001年9月11日「同時多発テロ事件」と、2001年12月11日 中国のWTOへの正式加盟、この出来事を世界秩序の形成の節目と捉え、以後20年の「現代中国」を描くことを執筆目的とされた。
従来はアヘン戦争(1842)や中華人民共和国成立(1949)から歴史や党史を説き起こすことが定番であり、21世紀以降に焦点を絞った研究は少ないことを意識した由。また清朝から現代までの時間軸と所得格差に関するイメージ図に修正や見解を示してもらった。
執筆後に勃発した戦争や上海ロックダウンが、世界秩序の形成の節目であることについて、次回あらためてお訊ねしたい。

サッポロビール茨木工場の跡地に建てられた大学キャンパス内のレストラン『ライオン』で会食しながら竇先生とお話をした。
第一次世界大戦までドイツの支配下にあり、その後に日本の軍政下にあった山東省青島郊外出身の竇先生もビール工場のDNAを感じたかも知れない。
次回はJR線路を挟んだ『哈爾浜』(ハルピン)で本場仕込みの水餃子を食べましょう、と約束をした。

山東人の粉物好きについては、若い頃に広州交易会で長丁場の仕事をした時、華南の長粒米に飽きていた青島の貿易公司の友人たちに大きな饅頭を振る舞ったところ、まさに「泣いて喜んで」くれた体験に基づくものであり、青島に駐在した時も青島麦酒と饅頭・水餃子・麺類など麦に頼った生活だった。

茨木市のシニアカレッジ「激動の現代社会を学ぶコース」で、『最近の中国・香港・台湾事情』というトテツモナイ題目を受持っている。
激動は毎年のことであり、最近の状況が急変することも多いので準備がなかなか難しく、できるだけ質疑応答の時間を長めにとって補足に努めている。
訪日客数の総人口に占める比率(2019年まで香港が断然トップ)、上海ロックダウン下での「白衛兵」の活躍、ウズベキスタン綿花に強制労働はないと認定されて5月に使用解禁されるまでの流れ、上海復旦大学から西北(Northwestern)大学研究職となったMs.銭楠筠(Nancy Qian)の意見と画像、福建省厦門市と台湾小金門島の間が6㎞であることを示す地図を織り交ぜた「かやくごはん」を2時間かけて炊き上げた。
散漫なメニューであり、なじみのない具材も多いため、どの程度伝わったか覚束ない出来栄えだった。
お世話になった事務局の皆さんとの「反省会」では「もっと肩肘を張らない話にしてくれたら」など色々と有りがたい意見を頂戴した。そして折に触れて思い出す「衆口難調※」を反芻した。
※「全ての口に合う味は出せない」と訳される。
日中合作ドラマの『蒼穹の昴』(西太后=田中裕子主演)の製作過程で、王監督は日本と中国の板挟みとなり、苦心した末に「衆口難調」の言葉に思い至り気が楽になったと語ったという。

冒頭の竇先生の著書に見つけた「造船不如買船、買船不如租船」という劉少奇の言葉を、「船を造るより船を買うほうが手っ取り早い、船を買うより船をリースするのが賢い」と解釈した。そして一時的な経済合理性は理解するが、長期的な創造性の後退に繋がらないかと考えた。
南の海を航行している空母「遼寧」は、ソ連の設計によりウクライナで製造中に中国が買ったと聞いている。その母港は青島である。(了)  

2022年6月4日

『老子』を読む(六)

井嶋 悠

第21

 孔徳の容は、惟(た)だ道に是れ従う。道の物たる、惟(こ)れ恍惟れ惚たり、……其の中に精有り、その精甚だ真、其の中に信有り。

◇10代で、教科試験等の解答が複数あると言われると大概は不安で、「試験ではどう書けば良いのか」と詰問し、「どちらでも良い」とでも応えようものなら、相当信頼を失う。何となれば、それで“客観的”評価が可能なのか、となるからである。国語ともなれば尚更で、そこで教師はそのような問題は出さない。仮に無理して出すとしても授業を基に出すが、優れた生徒はそこを突いて来る。
で、両方正解とする。広い?視野で言えば、試験とはその程度のものなのかもしれないが、生徒は真剣である。進路に係るのだから。記号式の問題が、一見客観的に見えるのは、それがあるからだろう。その微妙さの最たるものが「解釈」や「小論文」問題である。生徒は教師が予想した解答を遥かに越えて、あれこれ細かく書く者も多い。四苦八苦した印象批評で、細かく減点して評価する教師は多い。反応を予測し、質問にできるだけ客観的に応える準備をしておかなくては墓穴を掘る。
ただ、多くの生徒は諦めか従順なのか怖いのか…まず聞いてこない。聞いて来るのは相当優秀な生徒か、1点2点に過敏な生徒である。
言葉という客観を介しての、阿吽の情、行間の情。いずれも理知で裏付けされた感性である。国語のおもしろさに行くまでには、相当の人生経験が必要なのかもしれない。

第22

 企(つまだ)つ者は立たず。跨ぐ者は行かず。自ら見(あら)わす者は明らかならず。自らを是(ぜ・よし)とする者は顕われず。自ら伐(ほこ)る者は功なく、自ら矜(ほこ)(ほこ)る者は長(ひさ)しからず。

◇学校世界は閉鎖的で権威的とはかねがね言われてはいるが、教師(多くは高校大学に多いように思うのだが)

で、ひどく勘違いしている人たちに会って来た。但し、これはあくまでも自照自省に立ってのことである。その人たちは、どれほどに私を、人を不愉快にさせたことだろう。しかし老子の教えと無縁な人は、その自己顕示に惑わされ、酔い、ひとときは世間から英雄的に扱われる事例は多い。
と、書くこと自体己が小人性を露呈しているのだが。それでも今もって許せない人はいる。
ところで、幻惑され、陶酔に浸る人が、女性に多いように思うのだが、これはやはり差別の発想だろうか。

↕ ↕第23

 曲なれば則ち全し[曲全の道]、枉(ま)がれば則ち直し、窪めば則ち満つ。破るれば則ち新たなり。少なければ則ち得られ、多ければ則ち惑う。

◇教師は謙虚であることに常に細心の注意が必要である。それでなくとも、「子どもは人質」「教師は教室で殿様・独裁者」と揶揄される教育の世界なのだから。ただ、その謙虚であること=東洋的ではなく、あくまでも日本的ではないかと思う。しかしその考え方は、消極的と負的に言われる時代。時代の変容?それにして声を大にした言葉が多過ぎやしないか。都会の喧騒、孤独。

第24

 希言は自然なり。[無言の言・不言の言]。無為の益。信(誠実)足らざれば、乃ち信ぜられざること有り。

◇「教育」への愛、情熱を持つ人こそ、教師の教師たる根拠であろう。しかし、過ぎたるは及ばざるがごとし、脚下照顧ない教師も多い。どこまでも「センセイ」なのである。生徒を前に延々と喋るのである。饒舌(字的には冗舌の方)。多言。要はおしゃべり。そんな教師を多く見て来た。生徒も生徒、馬耳東風を決め込む“賢い”生徒。苛立ちを具体的行動で現わさざるを得なくなった生徒。
学校世界独特な大人と子どものタテ社会。パワハラが多くで告発されているが、学校社会で聞くのは教師世界でのそれだけのように思える。
寡黙の重み、威風感。ヒトがヒトの中味を知る手立ては、生徒―教師でも同様。先ず直覚そして言葉。

第25

 物有り混成し、天地に先んじて生ず。…天下の母と為すべし。吾れ其の名を知らず、これに字して道と曰う。……人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る[模範とする]。

《中国:木・火・土・金・水〈五行思想〉》

◇日本の教育は、何故をもって日本の、或いはその背景に脈打つ東洋の、中国の古代思想を再考しないのだろうか。英語は戦後国際語の地位を確立しているからやむを得ないとしても、儒教や道教の考え方、感じ方が日常に溢れているにもかかわらず、欧米の教育思想が尊重されている。
その眼で、教育(学校)と自然、子どもの人間形成について考えを及ぼすことこそ現代の課題ではないか。
私自身、インターナショナル・スクールとの協働校でIB(国際バカロレア)なるものを知り、その一端を担い[日本語]眼が開けたが、10年前(2000年)に導入された「横断的総合的学習」の理念と、相通ずることではないか、と思った一人である。しかし、その後「横断的総合的学習」は基礎学力の低下を招いていると批判され、今では見るも無残に無くなっている。そもそも小中高での基礎学力自体曖昧なことで、なぜ導入時にそれを検討しなかったのか、無責任を承知で思う。
このような西洋偏重のその場しのぎの対症療法で、国際社会で日本が生きる道を見出すことはあり得ないのではないか。江戸時代の人の「読み書きそろばん」「お天道さま」との言葉が過ぎる。

2022年6月2日

多余的話(2022年5月)  『大阪画壇』

井上 邦久

 行動自粛が続いた春に京都国立近代美術館で大阪画壇に光を当てた展示会が開催されました。いまどき珍しい控えめの料金にもかかわらず、三密もなく入場制限や感染対策も不要で、ゆっくりとした時間を過ごせました。

狩野派が牛耳る江戸画壇や円山応挙が核を作った京都画壇はよく知られています。他方、大坂(阪)に画壇があったのか?という素朴な疑問さえ聞かれ、知名度も低く影も薄い。フェノロサや岡倉天心から評価されず、教科書に載せて貰えないせいなのか「知られざる」とか「不遇の」大阪画壇という寂しい扱いが続いています。そもそも大阪画壇の展示会を京都で開催することも妙な話ですが、大阪で開催するともっと人が入らないのでしょうか。
過剰な期待が外れると逆恨みしがちですが、その反対のケースもたまにはあるようで、今回の展示は愉しかったです。

長崎に渡来した沈南蘋に学んだ熊斐、そして鶴亭の花鳥画の系譜。大坂堀江の木村蒹葭堂のサロンに集った面々の墨跡。「大大阪」の頃の女性画家リーダーの北野恒富や、近代建築が増殖した中之島から川口居留地跡に縁の深い小出楢重の作品もオマケで並んでいました。
しかし、このような素人の不親切な説明では「知られざる」大坂画壇は「不遇」のままになりそうなので専門家の文章に助けてもらうことにします。

・・・鶴亭は長崎聖福寺の黄檗僧で、清の画家の沈南蘋に師事した熊斐に南蘋風花鳥図を学んだ。還俗して京都、大坂に進出。文人画家と交わった。四十代半ばで黄檗山萬福寺に戻り塔頭紫雲院の住持を勤めた。1785年に江戸下谷池之端にて64歳で亡くなった・・・。(神戸市立博物館 2016年4~5月『我が名は鶴亭 若冲や大雅も憧れた花鳥画⁉』展の図録より抜粋)

木村蒹葭堂旧居跡の石碑と案内板が大阪市西区北堀江の大阪市立中央図書館(今は辰巳商会中央図書館とネーミング。大阪市史編纂室所在)の角にあります。実業家・画家・コレクター、更に文人墨客のサロンの中心として著名。古今東西の博物収集は若冲の『動植綵絵』製作のインスピレーションに繋ったと聴いたことがあります。

数日後、親戚の墓や自分用更地を借りている京都深草の石峰寺へ参りました。春秋の寺蔵品展示会も感染対策の自粛が続いていて、特に今年は本山の黄檗宗祖隠元禅師350年大遠忌法要もネット配信で厳修される程の厳しさの中なので、石峰寺でも伊藤若冲顕彰会員のみが出入りを許される短期間の内覧会でした。
今回はいつもの若冲作品ではなく、鶴亭の屏風絵や「鶴図」を中心とした展示でした。実に安全で静寂な寺の美空間を独占したあと、しばし住職とご母堂から鶴亭についてのご教示をいただきました。

5月は大坂/大阪について、WAA例会でオンライン報告をさせていただく機会があり準備に集中しました。以前に集めた地図や歩き直して撮った画像を盛り込んで『大阪歴史散歩「かやくごはん・てんこもり」』というお気楽なタイトルを付けました。色々な加薬(かやく/具材)を炊き込んだ安あがりの夕食のような内容でした。その一端を以下記します。

道修町から北浜、中之島を歩き、淀屋橋から88番のバスで川口へ。
水にちなむ地名が多く、国貞らによる浮世絵『大坂百景』には多くの水辺の景色が描かれています。そんな「水都」と呼ばれる土地に漢方薬由来の薬業や大和川の流れを付け替えたあとの河内木綿を背景にした綿業が発達し、全国の米・俵物(中国向け海産物)交換市場を持つ「天下の台所」と称された「商都」でもありました。
明治維新直後の停滞期をしのいで二十世紀に入ると、東洋のマンチェスターと呼ばれた「煙都・大大阪」の後背地が育ち、念願の築港が完成。東北アジア航路の拡充と北幇(山東煙台中心とした川口華商)の活躍を基軸とした大陸貿易も急成長しました。
また、東洋一のアーセナルの大阪砲兵工廠を核に膨張した「軍都」の側面がありました。

戦争末期、この「軍都」を標的とした大空襲により、人家も生産拠点も貿易拠点もほぼ壊滅しました。そこに至る77年間を中心に報告しました。

この報告の資料作りの過程で、外から大阪にやってきた人がリーダーシップを取る事例が多いのではないか?という素朴な印象が生まれました。
豊臣秀吉(尾張)、五代友厚(薩摩)、小林一三(山梨)、松下幸之助(和歌山)、横山ノック(北海道)らは保守的な同調圧力から自由であり、斬新なデザインができたような気がします。しかし一方では、大阪商工会議所の創始者の五代友厚、後継の藤田傳三郎(長州)を「都市制圧者・進駐軍」と見なし、近世の高い水準にあった大阪文化を理解しえなかったとする異見も知りました(『大阪の曲がり角』木津川計)。
大阪画壇を商家の床の間に押し込めた一因もこの辺りにあるのかも知れないと愚考しています。

折しも、この春に藤田美術館が改装され「傳 傳三郎好み」とされる逸品が、照明を落とした人工空間に配置されています。暗闇でしか見えないものを訪ねるのも一興ですが、改装前の公民館風の佇まいにも味わいがありました。
新装開館の賑わいとは反対に姿を消していく建築物もあります。堂島大橋北詰の莫大小会館の斬新なモダン設計がお気に入りでした。昨今はギャラリーやオフィス、そしてカフェが雑居していましたが川口貿易が華やかな頃には、メリヤス売込商の拠点として、華商との往来が至便の場所でなかったかと睨んでいます。
大阪商人を鍛えたのは、北からやってきた華商集団だったとの説を思い起こすと、丁々発止のやり取りの声が聞こえてくるような場所でした。老朽化と非耐震構造を理由に7月で閉館、大大阪の残り香をかぐ機会もあとわずかとなりました。

仕込みが不十分な生煮えの「かやくごはん」的報告となりましたが、関東や海外のみなさんにステレオタイプでない大坂/大阪の一面を伝えることに努めました。
菊田一夫の造語「ガメツイ奴」、今東光が創作した「河内悪名」、そしてヨシモト的なアクの強さだけが大阪ではないと、少しでも報告できたとすれば幸いだと思っています。

2022年5月16日

『老子』を読む(五)

井嶋 悠

第16

 虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。万物は並び作(お)こるも、吾れは以って復(かえ)るを観る。

⇔「虚静」「虚心坦懐」「無心無欲」

常を(常道不変)を知れば容(包容)なり。……天は乃ち道なり。道は乃ち久し。身を没うるまで殆(あや)うからず。

◇私が現職中半ばくらいまで、中学校の進路指導で、某私立男子高校を言われると、多くのヤンチャは「オレはここまで堕ちたか」と泣いたと言うほどに忌避されていた学校がある。そこの或る教師からたまたま聞いたことが、今も鮮烈に残っている。
同類が集まって学校の態を為していて、1年次はバラバラな暗鬱状態であるが、2年次になると自省、覚悟ができて来るのか、落着き、徐々に団結力が生まれ、3年次の文化祭や体育祭で、それが極に達する。その光景、そこに到る彼らと接していると途方もない感動が私を襲って来る、と。
その教師は、無心無欲の教師なのか、教育愛に徹した教師なのか。「同情ほど愛情より遠いものはない」[私が今もできていない重い言葉。]愛情と同情は違う。愛情は無心であるが、同情はタテの距離がある。とすれば先の両者は表裏一体なのか。
その教師が感動を体感している時、私は小学校時より特別に学力優秀で、それがために中学1年次1学期に挫折を知る、そんな生徒の集まりの女子中高校に在職していた……。と言って恥じているわけではない。私は私なりに感動を味わっていた。
尚、その学校は、或る時を境に、今では普通の?進学校に変じている。その教師はどうしただろう。

第17

 信(誠実・信義)足らざれば、乃ち信ぜられざること有り。悠として其れ言を貴(おも)くすれば、功は成り事は遂げられて、百姓は皆我は自然なりと謂わん。

「無為自然の政治(政治の跡を残さない政治)」⇔「仁愛の政治」「厳刑(法家)の政治」

◇専任として2年目、右も左も分からないまま、中等部3年のクラス担任をした。初めての経験である。今の時代なら問答無用の幾つもの失敗、失態も多かったが、精魂込めてした。生徒がそれぞれに、言葉を最小限にする私について来てくれた。凄い一年だったと今も思う。そして高等部1年に持ち上がることを頑なに拒否した。怖かったのである。
三校目の赴任校に“金八先生”的熱情そのままに話す先生がいた。彼をカリスマ的に慕う生徒(多くは女子生徒)もあって、当然高校2年、3年と持ち上がるつもりだったようだが、一部の保護者、生徒から反発が出で、2年次で交代した。交代したのは私だった。交代した初めの内、彼を支持する生徒たちから散々反撥された。生徒の中には、私のクラスには厄介者ばかり集められたとひがむ者もいた。

『老子ノート』を書くに相応しいかもしれないといささか自負している。と思い返せるのも、最初の勤務校以後の多くの経験、苦難がそうさているのだろう。

第18

 大道廃れて、仁義あり。智慧出でて、大偽あり。六親和せずして、孝慈あり。国家昏乱して、貞臣あり。

 「大道」と老子・老荘⇔「仁義」と孔子・孔孟

◇公立学校はいざ知らず、私立学校広報は言葉の洪水である。都会に出れば、有名無名問わず、どの学校もアピール(セールス?)に余念なく、カタカナ言葉を交えて、一大狂騒合戦のよう。はてさてどの学校が良いのやら、そもそも何を以って良いとするのかに始まり五里霧中、結局は“有名校”に流れ、高偏差値で安心の支柱を得る……。これを当たらずとも遠からずとすれば、この範疇に入らない生徒たち、そして教師たちの心はどのように揺れ動いているのであろうか。
羊頭狗肉とまでは言わないが、勤務した学校のモットー[信条、指標]と実際が全き合致している教育機関は、先ずない。それを承知で説明会に行き、豪華な学校案内に魅入る。中には、入学後「話と違う」と苦情申し立てをする保護者に何度も出会った。
学校でも然り。ヒトが生きるということは、可能な限り自身の心に忠実に、他者と、社会と、接点(或いは妥協点!)を作るしかないのではないか。それが自身に許されないなら、「好きにしたら」と突き放すか、突き放されるか。と、私は私を顧み[省み?]思う。
ところで、ここでの「智慧」の使い方。学校教育では、「智慧」と「知識」を、生の骨組みに於いて意図的使い分けているので、少々違和感がある。改めて老子に提示されると考えてしまう。それぞれを[wisdom][knowledge]と英語で綴るとなおさらだ。
知識人・知識階級とは言うが、智慧は使わない。「智慧者」とはあまりいい意味ではなく、老子に近い?また「智慧賢しら」とは言うが「知識賢しら」とは言わない。
この使い分けは、道理の多少、深浅に関係ありそうだ。なぜなら知識に道理(心)は関知しない…?

第19

 素(そ)を見(あら)わし樸を抱け、私を少なくし欲を寡なくせよ。学を絶ち憂いを無くせよ。

⇔聖(叡知)を絶ち智を棄つ。仁を絶ち義を棄つ。巧を絶ち利を棄つ。

◇不登校が増えている。中学生では35人に1人が不登校の由。老子の言葉は、文明化、近代化への楔である。
しかし現実は留まることを知らない。美しい校舎、充実した現代設備・施設、そして自由。
「学、学、学…」何を学ぶのか。
不登校生とは、登校を拒否することで、そのことを無言で提示しているのではないか。
老子ならどう応えるのだろうか。孔子の方がまだ応えが分かりやすい。

こんな学校を経験した。
一部の?インターナショナル・スクールの、一部の日本人生徒・保護者の心身の豪奢心に強い違和感を持った。インターナショナル・スクール本来の心ある外国人生徒、保護者があるにもかかわらず。
現在、日本型?!インターナショナル・スクールが乱立し、IB,IB(国際バカロレア)とかまびすしい。
老子は極端に言うことで論旨を明確にしているのだろうけれども、あまりに軽薄な日本の今が怖ろしい。国際社会での「日本らしさ」とは何か、インターナショナル・スクールや外国人子女、海外・帰国子女教育に係わった、係わっている教師、生徒・保護者はよく視えるはずだ。

第20

 俗人は昭昭たり、我は独り昏昏たり。俗人は察察たり、我は独り悶悶たり。……衆人は皆用うる有り。而るに我は独り頑にして鄙(能無し、無力)我は独り人に異なり、而して母に食(やしな)(養)わるるを貴ぶ。

◇教師と坊主(東西の)は、酒癖が悪いと言う。私的経験では説得力はある。理由は今では日常用語となっていと「ストレス」である。そこに聖職者意識と人間者意識の間に揺れる姿があるからである。私は無類の酒好きであるが、己がそれまでと己への謙虚さ、と言うか前者意識の気恥ずかしさから、後者に徹していた。ただ、老子の言葉を借りればそれは「沌沌」であり、「昏々」であり、「悶々」で、徹するにはほど遠かった。そこに生徒からの、同僚からの、保護者からの教師・人間評価の分水嶺があったように、今にして思えば思う。
宗教系の学校の、その宗教の信徒は意志が明確であった。「母」を持っていた。だから動じることはなかった。ただ、人によって酒の加力で悶々が爆発することを何人かに、何度か見た。その人にとって、それは切々たる思いであったろう。私にとっては単に深酒の二日酔いが。
そして今、私は「母」を求め、あちこちで母を言っている。父は出て来ない。

2022年4月16日

多余的話(2022年4月)  『社区』

井上 邦久

「テーマが多ければ多く書き、少なければ少なく書き、書くことが無ければ書かない、私はこれを誠実に守っていく宗旨とする。」

これは1961年10月30日、毛沢東によって『人民日報』社長に棚上げされた鄧拓(筆名:馬南邨)が『燕山夜話』第二集出版の巻頭に寄せた短文の一節です。夕刊紙『北京晩報』のコラムが好評で出版を重ねていた時期のことです。

米寿祝いのスタジアムジャンパーがお似合いの北基行先生から長年講読指導を受けています。講読会の現代文テキストに『燕山夜話』を毎月一話読み繋いで今月で67話目、と言うことは已に5年余りが過ぎたことになります。講読会の母体として先行してきた華人研は感染症のため休会が続きましたが。その間も講読会は継続しつつ、『燕山夜話』の第1集第1話からの原文・北先生の訳文・関係する画像・時代背景などの「ひとそえ」を華人研のHPwww.kajinken.jpに月二回連載し、二つの会の安否確認のように発信してきました。

 3月から華人研も定員制限や予防対策を遵守した上で再開できました。2年ぶりの再開は崑劇女優・崑劇研究家の登壇のお蔭で盛況でした。4月は奇しくも崑劇のふるさと崑山市で合弁企業を経営した方の報告です。大阪と製薬産業、アジア食品事情の話題も豊富ですが、福井の実家での農業との兼業ビジネスマンの生活と意見も楽しみです。 www.kajinken.jp を覗いて頂ければ幸いです。

2月に罌粟(ケシ)、3月に緒方八重さんをテーマに「多余的話」を書きました。

過去のことをほじくり返した印象を残したかも知れません。ただ鄧拓の言葉通り、書くことがなければ書かない姿勢に賛同しています。また、過去の時代のテーマが多いのですが懐古趣味は控え、なるべく現在につながることを意識しています。その意味で上海の歴史著述家の教授から、「多余的話、均已拝読、有意思的話題、具有現実意義」とかなり甘口の評点をいただいて、ルーキーが初ヒットを打ったように喜んでいます。

 或る弁護士からは無名氏の散文詩が届きました。西安や長春の感染者が増えた時、上海人はかなり辛辣に「地方」の管理の甘さを指摘していましたが、今になって上海も感染が拡大し、自慢の厳重な管理体制が崩れ、自尊心も傷ついたことを慨嘆しています。
また、長年の上海暮らしを続けている複数の方からも、団地毎にある「小区」の柵の中での生活、水道水を飲み水にする習慣が途絶えた人たちの生活をリアルに教えて貰いました。
国家の下での「単位」と呼ばれた末端管理組織が、街道弁事処・「社区」・居民委員会という形で変遷しています。疫禍までは関心の薄い存在だった気がします。

チャイナ・ウォッチャーのベテラン津上俊哉氏の近著『米中対立の先に待つもの』(日本経済新聞出版・2022年2月)は、「各論悲観・総論楽観」の繰り返しに飽きて(ご本人の弁)、控えてきた本の出版を久々に再開した力作です。まさにベテランが満を持して放ったホームラン。これにより氏の長打率はさらに高まった印象があります。
その一節、草の根大衆が習近平主席のコア支持者(第二章 急激な保守化・左傾化―転換点で何がおきたのか)に書かれている、「都市部における「街道弁」は、農村部における「村」と並んで、党と政府組織のピラミッド最底辺だ」の考察に注目しました。「街道弁」は「社区居民事務所」の上部機関とほぼ同義だと理解します。

これら最底辺の基層組織は、かつて一人っ子政策の推進者として住民に圧力を掛け、我々外国人の不行跡を「関所」で監視してきました。普段は普通の「大媽(おばさん)」達が、時に末端党員の意地を見せると怖くて、我が方にも落ち度や弱みがある場合には更に怖い存在に化しました。ロックダウンという非日常下で、日頃は目立たない党や行政の末端組織のマシーンがフル稼働して、検査実行・隔離徹底・食糧分配などに大活躍していることでしょう。津上氏は、この草の根大衆のムーブメントについて、戦時下の日本の大日本国防婦人会や隣組を彷彿させると書いています。昨年来、NHK大阪放送局が、大阪港湾地区発祥の婦人会が先鋭化した背後に「家庭の隅に追いやられていた嫁たちの鬱積していたパワー」があることを浮き彫りにしたドキュメンタリーを製作しました。何度か見て、視野を拡げてもらったことと「社区大媽」に通じるものに気付きました。

氏は「トランプ前大統領のコアサポーターと一脈通じるところがあるのだ」とさらに鋭い指摘をしています。プワーホワイトと呼ばれる低所得白人労働者を描いた『ヒルビリーエレジー』を読んだ時、ボストンの工事現場でレッドネック(日焼け)の労働者を見かけた時の「繁栄する社会の隅に追いやられた者たちの鬱積した怒りとパワー」を思い出しました。
個人的にも 中国現地法人の職員の給与や賞与の査定をするときに、高額な家賃を負担して刻苦奮闘している他の省出身の「外地人」職員と、幾つかの高級マンションを所有して、給与より世間体と健康のために出勤しているらしい「本地人」職員の処遇に考え込んでいました。また教育機会を得ることを政治や経済環境が許さなかった時代と、大学卒業生が年に1,000万人を越える時代とでは、経歴比較の尺度が変わるでしょう。
金持ちになり損ね、教育機会を逃して、社会の隅で生活している人たちの層に習近平主席は支持基盤を発見した、という論旨を津上氏の著作に教わりました。

一方で3月5日の全人代での李克強首相による政府活動報告から「共同富裕」の文字が激減していて、振り子の揺り戻しも予感しています。
政治的にも、経済成長の観点からも、「先富論」からは離れがたいのでしょうか?「共同富裕」であろうと「先富論」であろうと、全ての根幹である食糧について、コメはほぼ自給自足です。トウモロコシの不足分の70%はウクライナに頼っている中国が、小麦や大豆に続いてトウモロコシも米国からの依存度を上げるなら、米中関係の振り子も微妙に揺れることでしょう。
今の段階では食糧自給率を云々するほどのこともなさそうですが、振り子の揺れの範囲を知りつつ、振り子の現在位置がどこにあるのかを今後とも確認したいと思います。