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2021年5月8日

多余的話 (2021年5月)   『国性爺合戦』

井上 邦久

 上海で弁護士をしている浙江省出身の畏友は中国で指折りのタイガース党で、カラオケでは大阪弁の歌手でもあります。
その彼から3月8日にメールがあり、今日は国際婦人デー、長らく「婦女節」と称されていたが、最近では「女神節」「女王節」とも呼ばれている、女性のみ午後休暇となりデモはなくショッピングで忙しいと伝えてくれました。オフィスが静かで羽を伸ばしていたのでしょう。

国際婦人デーは1857年のニューヨークの被服工場の火災事故で多くの女性が施錠された現場から逃げられず、犠牲になった事への抗議デモが行われた日を起源とするようです。
戦前の日本には女工哀史、鄧小平の南巡講話後の深圳版女工哀史、そして2013年のバングラディシュのラナプラザビル崩落による多くの縫製女工の圧死と、現在も主に労働集約型産業に続く問題です。

この稿を綴っている5月4日は、中国では青年節です。「婦女節」と異なり祝日にはなっていません。
1919年5月、第一次大戦後のパリ会議での中華民国代表の発言が力不足であり、山東省権益への日本からの圧力に対して政府は弱腰であるとして、北京から各地に広がった抗議示威活動「五四運動」を記念するものです。
北京での一群が親日派と目された政府高官の曹汝霖宅に放火するなど暴徒化しています。その折に中江丑吉(中江兆民の長男)が曹汝霖を救出したことが記録として残っています。
第二次大戦末期まで北京で、軍関係者からは「拗ね者」と視られながら暮らした中江丑吉については稿を改めます。

国民党政府は辛亥革命(1911年)前夜の黄興らの活動を讃えて、革命先烈記念日を3月29日に設定していました。その後、台湾での青年節として続いていますが、祝日からは外されています。

大阪国立文楽劇場の4月公演は入場者制限のため市松模様の席での見物となりました。虫の報せか、先ず第二部の「国性爺合戦」で吉田蓑助を見ておこうと二重マスクで人形芝居を観ました。
平戸に亡命した老一官(実は、大明国旧臣の鄭芝龍)と日本女性との間の子、和藤内(平戸生まれで台湾を拠点化した鄭成功がモデル)が海を渡って清朝を倒し、明朝を復興しようとする物語です。
衣装も鳴り物もセリフの一部も中国風であり、近松門左衛門の異国趣味溢れる舞台と身近な国際事情が江戸時代の人たちに与えた興奮と刺激を想像しました。
「高楼の段」のみで演じた吉田蓑助は、遠目にも静かな動きであり、数日後に報じられた引退発表も残念ながら納得しました。
文楽に詳しい人は「一つの時代の終わり」と語っています。玉男・住太夫・文雀・嶋太夫らが次々に去って、戦前に文楽に入門したのは蓑助が最後であり、「終わりの終わり」の印象があります。

大里浩秋先生の解読と解題による「宗方小太郎日記補足、明治28年3月23日~9月1日」(神奈川大学人文学研究所報 №64)を読んで、明治20年(1887)には、日本政府は早くも「清国征討策案」をまとめていたことを教わりました。
そして、戦勝後に割譲をもくろむ地域として澎湖諸島や台湾がピックアップされており、宗方もその方針の下に海軍嘱託として行動しています。
その宗方の澎湖島従軍日記の3月27日の項に、日本軍が攻撃支配した漁翁島の土民総代が慈悲を求めに来た事を記し、「我を称して大明国大元帥と云ふ」と書いています。
日清戦争の渦中に「大明国」が亡霊のように現れ、文楽の世界との符合に驚きました。宗方も国姓爺になった気分が少しあったでしょうか?

そんな中で、市場に俄かに現れてきたのが台湾産パイナップルです。これまで多かったフィリピン産よりも高値で500円前後します。しかし外観がすっきりしており、購入して十日余り過ぎても部屋の置物として存在感を高めています。
スーパーの野菜果物担当者によれば「急に出回ってきた。五月中は続きそう」とのことでした。箱には台湾東南部の屏東地区の農民の名前が書かれていました。
3月1日に突然「検疫性有害物質」という理由で中国政府から輸入差し止めを受けた台湾パイナップルは、台南市・嘉義市など台湾南部が主産地であり、民進党の地盤にも重なります。
3月3日には蔡英文総統も参加した「買鳳梨、挺農民」(パイナップルを買って、農民を支援しよう)デモンストレーションが開かれ、日本からも昨年比3倍の6200t?の大量の発注が為されたようです。
その内の1個が我が家のリビングにあり、大げさに言えば世界に繋がっているわけです。

文楽の演目名では「国性爺」ですが、鄭成功は明朝の朱姓を賜った親分という意味の「国姓爺」と呼ばれます。1月に出版され、2月に増刷された鄭維中著の『海上傭兵 十七世紀東亜海域的戦争貿易與海上劫掠(原題:War, Trade and Piracy in the China Seas 1622-1683)』(衛城出版・新北市』の一節には、

・・・第二次大戦の頃、国姓爺は「民族英雄」の元祖として喧伝され、中華民国が台湾に立て籠った1950年代には強烈な国姓爺ブームとなった・・・資料研究レベルは浅薄で民族主義の宣伝に過ぎなかった、とあります。565頁に及ぶ大作『海上傭兵』の索引には国姓爺・鄭芝龍・鄭成功の項目が他を圧しています。

この本を勧めてくれた台北在住の友人の添書きにも、発売後に多くの読者を得ているとありました。
多くの脚注に出典が記載されている中に江樹生先生の名前を見つけて懐かしく思いました。出来の悪い学生二人を相手に第3中国語として閩南語を二年間教えて頂きました。直後にオランダへ移住されました。

台北の読書家と上海タイガース党の弁護士は、京都大学法学部で恩師を共にしています。意識の磁場に台湾に関することが惹きつけられた日々でした。

2021年4月5日

多余的話 (2021年4月)   『唇歯輔車』

井上 邦久

花の季節、NHK中国語講座のテキストの一節を思い出します。
梅花开了桃花开了 蝴蝶飞来飞去(梅花開了桃花開了、胡蝶飛来飛去1969年、高校二年の春、テレビ講座で初めて接した生の中国語でした。北京人の金毓本(愛新覚羅家の御一統)・1941年に青島から来日した高維先(東京中華学校校長→天理大学)両先生の声が耳に残っています。日本と中国の国交がない中でローマ字表記や簡体字を率先して採用した画期的な講座でした。

中国の花と言えば梅・桃・牡丹であり、桜は日本のものという理解をしていました。1972年の国交正常化前後、日中友好運動が盛り上がる中で各地に友好都市が縁組みされ、記念碑を建て、桜を植える事が大ブームとなりました。半世紀が過ぎ、ブームは去りましたが北京の玉淵潭や太湖湖畔が桜の名所となりました。武漢大学や青島中山公園の桜は日本軍占領下での植樹がルーツと聞いています。

梅や桃が咲いても感じることは少ない「別れ」「永訣」「諦念」を桜には感じます。
この春、身近にも会社清算の直前まで在庫品販売に奮闘した人、半世紀に渡り貢献した企業グループからの離職を余儀なくされた人、そして大学での退任記念講義を務めた先輩もいます。

岐阜県の陶磁器中心の美術館で渾身の企画展を成功させ、それを潮時として職を辞した友人がいます。
はなむけの言葉を綴り、併せてその友人の強い味方となってきた実業家について綴ります。多くは傍観と仄聞によるものですが「過去の共有も愉しいけど、未来を共有する関係を築きましょう」というWAA/田辺孝二教授のモットーに通じる気持ちを込めます。

福島県立美術館で開催されたアンドリュー・ワイエス展に講師として招請され、作品に漂う憂愁・哀愁・孤愁の背景についての解説やワイエスの自宅や避暑地での交流について坦々と語った人がいます。ワイエスが逝ったのが2009年なので、雪の福島での講演は干支一巡以上も前のことになります。
バブル経済の頃には各地の施設がワイエス作品を目玉としていましたが、ブームが去ったあとは福島県立美術館の常設展示が孤塁を守っていると思っていました。
信頼する美術館の「三密」とは無縁の会場で、味わい深い実体験に基づく話を聴けた上、今に続く交友のきっかけになったのは実に幸運でした。
その人は岐阜県や愛知県の公立美術館創設の準備室メンバーとして参画し、ベン・シャーンや国吉康夫らの米国美術研究を専門とされている事を後付けで知りました。
E-テレの「日曜美術館」でのワイエス特集には欠かせないゲストとして出演し、2017年8月にはワイエス生誕100周年記念作品集を監修出版する等の第一人者としての活動を粛々と為さっていました。
その人は筆者の宿願であったワイエスゆかりのメイン州チャズフォードへの訪問の後押しをして下さり、正に筆者の夢を叶えてくれた恩人でもあります。

そんな交流の中で自然な水の流れのように埼玉県朝霞市の荒川に近い上内間木に創られた「丸沼芸術の森」とオーナーの須崎勝茂氏の存在を知ることになりました。
姫路や豊橋での企画展でワイエスの「クリスティーナの世界」水彩素描シリーズを貸し出しているのが「丸沼芸術の森」であることを知り、中村音代さんら学芸スタッフがワイエス・丸沼・須崎氏の繋がりを活写した図録も入手しました。
ほどなく埼玉の須崎氏と岐阜の友人が、深い相互理解と役割分担をしている「唇歯輔車」の関係である事を知りました。 
 
須崎氏は養父である伯父から実業家としての指導を授かり、且つ父親からは人としての生き方の薫陶を受けています。
家業の倉庫業を発展させる一方で、自らも陶芸の研鑽を続け、村上隆や入江明日香ら多くの芸術家の孵卵器としての「丸沼」を運営しています。展示会図録の冒頭に載せている謝辞には、
「親愛なる須崎様(謝辞本文中略)あなたの画家 アンドリュー・ワイエス」
と書かれています。
遥かに年下の日本人に、当時83歳だった米国の国民的芸術家がこのように書いたのは、須崎氏が伝えた「単に購入するのではありません、多くの人のためにお預かりするのです」という言葉がワイエス夫妻に未来を共有させたからでしょう。
作品を入手してから、須崎氏は約束通り米国を含めた各地へ貸し出しを続けています。数年前に初めて丸沼を訪ね須崎氏と懇談をした時、折からの雨に傘を手当してくださった上に、朝霞駅まで自分で運転して見送って頂きました。
それらの動きと車中での語り口が実に自然だったことを印象深く覚えています。
今回の展示会の講演会や閉幕式にも、埼玉から岐阜まで車で駆けつけたフットワークは正に実業家のそれであり、「趣味は美術品」の域を遥かに超えた生き方だと思います。

社会人になって間もない頃、実務には役立たない迷い人の思いを抱いていました。そんな時にワイエスの独特な写実画を知り、折から東京でのワイエス特別展で技法と世界観に触れ、小さな愁いの一部を晴らせて貰いました。
それから長い時間を経て、今もワイエス作品の憂愁の世界に惹かれています。

3月11日に岐阜を訪ねた時は、館長である友人から展示の意図を解説してもらうという贅沢な体験をさせてもらいました。
その時は館長の表情に心なしか憂愁の色を感じたので「陶器中心の美術館でのワイエス絵画の展示企画には内外から抵抗があったでしょう?」そして「ここの職を辞した後のことは?」という質問は控えました。

その後、丸沼に作品を返却に行き、須崎氏に御礼挨拶をしてきたばかりという友人から電話がありました。最後に、「4月から豊田市でお世話になることが決まりました、館長として」という朗報を控えめながらも明るい声で聴かせて貰い愁眉を開きました。
豊田市ホームページには3月18日付けの市立美術館館長交替の案内が掲載されており、前任の方は福島県立美術館創設の仕事を為さったあとに愛知県立美術館創設に携わったという経歴でした。

「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」の一節がよく知られる唐の劉希夷による『代悲白頭翁』は「洛陽城東桃李花 飛来飛去落誰家」から始まります。
つむじ曲がりの高校生が粋がって口にした中国語テキストのフレーズは、この詩からの引用であったことを、悲しいかな白髪ぼかしの翁になってようやく気付きました。

2021年3月9日

多余的話 (2021年3月)   『金閣寺』

井上 邦久

市立図書館から心当たりのない電話があり、少し訝しい想いで折返しの電話をしたところ「予約の本の順番が来たので、一週間以内に借り出しに来るように」とのこと。昨年の秋に多くの予約利用者のあとに申込むだけ申し込んで「来年の忘れた頃に回ってくるだろう」と思っていた通り、全く忘れていました。

内海 健『金閣を焼かなければならぬ 林養賢と三島由紀夫』(河出書房新社)

2020年6月初版、2021年2月5刷とあり、図書館が渋滞緩和の為に買い足してくれた新本でした。
戦後間もない1950年7月2日未明の金閣寺放火事件については多くの解釈がなされています。
本書は精神病理学専攻の医師であり、熟達した文章家でもある内海氏が長期間の実地調査と専門研究の成果を書籍化した労作です。
学生時代に京都河原町三条下ルの朝日会館で『金閣炎上』の作者の水上勉の講演と佐久間良子主演の東映映画『五番町夕霧楼』をセットで体験し、「三島由紀夫の『金閣寺』には雑巾のにおいがない」と水上勉が語っていたことを思い出しました。

 抗日戦時下、国民党重慶政府の蒋介石と袂を分かち南京政府の主席となった汪精衛(兆銘)が1944年11月に名古屋で病死した後、主席代理を務めたのが陳公博。
北京大学卒業後、初期共産党の活動に従事し、1921年7月23日に、上海で秘かに開かれた中国共産党第一次全国代表大会に広州代表として参加。13名の参加者の中には長沙代表の毛沢東や日本留学生代表の周仏海もいます。
陳公博は脱党後に米国留学を経て国民党左派として権力の中枢を歩むも、大戦終結直後、南京から米子空港経由で京都に逃れ、金閣寺に匿われた(近衛文麿の差配?)。蒋介石からの督促圧力に応じて出廷した裁判で傀儡政権首班の「漢奸」と見做され有罪判決後、1946年6月に死刑執行。

陳公博一行が金閣寺に潜んでいた時、修行僧で後に放火犯となる林養賢は舞鶴市成生の実家の寺に戻っていて、直接の接点はなかったものの、食糧難の時代に豪華な食事や麻雀に興じていたという「亡命者」や、それに阿る金閣寺住職への反感が放火の理由の一つにも挙げられています。

初期の中国共産党についての読み物としては、譚璐美『中国共産党を作った13人』(新潮選書)があり、新中国では毛沢東・董必武以外は陳公博も含めて「そして、誰もいなくなった」経緯を綴っています。1921年7月23日の結党から今年は100周年であり、東京五輪の開幕予定日に重なります。どのような人の流れになるのか、ならないのか注目しています。

そのこと以上に注目しているのが2022年2月4日に開幕が予定されている北京冬季五輪です。
来年の春節は2月1日であり、最も寒い時期の中国北方での五輪開催となります。2015年のIOC総会で北京での冬季五輪が決まった時に訝ったことを思い出します。
当時も北京の空気汚染は酷い状態でした。毎朝の出勤時にPM2.5や霧霾レベルをチェックし覚悟を決めて屋外に出たものです。現在と異なり北京市民は「日本人と間違われるから人前ではマスクはしない」と言いつつポケットにはしっかりしたマスクを保持していたのを思い出します。
石炭暖房などの煤塵が増える冬場に、渤海湾から吹く風が北京の背後に屏風のように重なる山地にぶつかり、溜まった硫化物系と思われる黄白色の塊を飛行機の窓から目視できていました。

冬季五輪を何故に開催しなければならないのかと訝りつつ思い到ったのが「世界から注目される冬季五輪を錦の御旗に環境改善を図るのではないか?」という穿った考えでした。
中途半端な改善策では追い付かない程の環境破壊は現実に存在し、一過性の弥縫策では失笑を買うだけ(会議期間だけ快晴にするAPEC BLUE方式)ならば北京五輪を利用して、環境改善の為なら強引なやり方でも許されるとばかりに工場の移転や排ガス規制を進めるのではないか?
「汚れた空気を世界に曝すことは国家の恥であり許されない。気象ミサイルでの快晴では嘲笑されるだけだ。それでよいのか」と面子に訴える強引な手法です。

ただ現実は楽観視できず、今年の春節三が日の北京の空気は一年後に劇的に改善するとは思いにくい状態だったとか。一方で6年前の酷さに比べるとかなり「マシ」になっている、という現地からの声が増えているのも事実です。

東京のことも分からないのに、北京のことを分かるはずがありません。
中でも中国がファイザー社のワクチン1億回分を契約しているとの報道です。これが事実であり、契約が履行されるとして、誰に接種する為の1億回分でしょうか?訝しい思いでおります。また久しぶりに「ふつうの大統領」を擁した時の米国のタフな総合力は軽視できないでしょう。
事ほど左様に北京五輪までの道程には各種のハードルが高止まりしたままにあるのではないかと想像しています。

この拙文を綴っている3月7日は「金閣は焼かなければならぬ」と思い詰めて放火した林養賢が、医療刑務所から釈放後に収容された京都府立洛南病院で結核により亡くなった祥月命日(1956年没)です。「○○しなければならぬ」という意識の潜伏期、そして前駆期を特徴づけるのは、ひそやかな「存在の励起」とでもいうべきものである、と内海氏は書いています。
その典型事例を林養賢と三島由紀夫に共通して見出し書物にしたのだと思いました。
中国政府の言動を○○であらねばならない「存在の励起」の角度から考えてみたいと思います。

2021年2月13日

多余的話 (2021年2月)   『天外者』

井上 邦久

大阪商工会議所に映画『天外者』のポスターが長らく掲示されていました。
自宅からの散歩範囲にしてしまった茨木イオンシネマモールで上映されるのもあと数日という頃になって思い立ちました。
ヒットしない映画は段々村八分のような時間帯に追いやられることになっており、9時35分からということなら閑散として三密を回避した席に物好きなオジサン層がチラホラというイメージ。ところがその予想はものの見事に外れ、市松模様に仕切られた席の多くが女性中心に埋まっていました。
三浦春馬にとって結果として最後の主演作品となり、五代才助(友厚)の陰影を演じるという重みに改めて気づかされました。

五代才助が少年期から島津の殿様にその才気を見込まれて鹿児島から長崎へ遊学、薩摩藩の密命を受け、幕府の千歳丸の水夫に偽装して上海へ渡り、ドイツ製の汽船を購入。
薩英戦争で英国船の捕虜となり、薩摩藩の攘夷派や武断派からその商才に走った言動が更に疎まれることに。
維新後は大坂在住の外交掛として重用され神戸事件や堺事件など英仏とのトラブルに対応、大坂税関初代所長や造幣寮設立に尽力したあと、不可思議な横浜への転勤、そして下野。

民間人として大坂に戻ってからは、鴻池・三井・住友・広岡・藤田などと共に大阪の経済復興に尽力し、鉱山開発・棉工業振興・藍染料製造などを次々に行い、大阪株式取引所設立・商法会議所の初代会頭就任・商業講習所(現在の大阪市立大学)の設立などの先見性を発揮。今に続く各種事業への関与をするも、病に倒れ東京で加療中に逝去。葬儀は大阪で営まれ、多くの会葬者が阿倍野墓苑まで延々と列をなした由。死因は糖尿病という説、鹿児島に籍も墓もありません。

昨年末、大阪商工会議所書庫から『五代友厚小伝』西村重太郎共編(1968年)『五代友厚関係文書目録』(1973年)大阪商工会議所発行の非売品二冊を借り出しました。
『五代友厚傳』五代龍作編(1933年。山口県のマツノ書店で購入したことは以前に書きました)は、五代友厚の賢妻豊子が整理保管した書簡類を一次資料として養子の龍作が編集したものです。
それ以降に纏まった伝記類の出版がなく、外部から大阪経済界の恩人に対して非礼であると指摘され、龍作の子息の信厚氏からの資料一式寄贈を契機に上記の二冊の発行に到ったようです。
それとは別に織田作之助が『五代友厚』(1942年)『大阪の指導者』(1943年)の評伝小説を書いています。織田作は日本工業新聞社に勤めていた頃に当時は堂島にあった商工会議所前の五代友厚像を眺めており、その像が戦時下に献納されたことを記しています。

2016年朝ドラ『あさが来た』で五代様ブームが起きた時期に河出文庫に纏められています。
更には、宮本又次の『五代友厚伝』(1981年 有斐閣)、東洋経済社からの五代友厚伝記資料1~4巻、直木三十五『大阪物語 五代友厚』(1991年示人社)などが中之島の府立図書館で眠りから覚めるのを待っているようです。
ところで、もう一冊『新・五代友厚伝』が2020年9月にPHP研究所から出ています。
出版企画:大阪市立大学同窓会 八木孝昌著。まさに同窓会が創立者の汚名を晴らさんとばかりに企画し、同窓生の八木氏に執筆依頼したもので、600頁を越す大部の「まえがき」には実に正直に以下の通りに書かれています。

「本書刊行の目的は、五代友厚の生涯を、事実に基づいて正確に伝えることにあります。そのために、これまでの誤伝は、可能なかぎり正すことを期しています。中でも「北海道開拓使官有物払い下げ事件」に関して伝えられてきた五代友厚の姿は、著しく真実から外れていますので、それをただすために、当事件に多くの紙数を費やしました。読者のみなさんには、この事件を論じた第二部第八章「北海道開拓使官有物払い下げ事件」を是非読んでいただきたいと願っています。いきなりその章を読んでいただいても差し支えないように、記述のまとまりに心がけました。」 

世に言うところの「明治14年の政変」に絡む事件であり、高校教科書も含めて諸説があるようです。
ここでは要点と思われることを箇条書きします。

大久保利通暗殺→第二世代の主導権争い→薩長土肥+岩倉から薩長主導へ
民権運動の台頭→英国型憲法かプロシア型憲法か→国会開設は不可避外国商人・買弁による輸出独占→直輸出志向政策→貿易商社の必要性政府事業民営化→北海道開発を北海社(安田貞則ら)関西貿易社(五代ら)に
五代・黒田清隆北海道開拓長官・安田(黒田の部下)は鹿児島城ヶ谷の幼馴染
払下げ中止・関西貿易社解散・大隈重信の退任・憲法論議は伊藤博文主導へ

これほど単純な構造ではないようですが、五代に「薩摩派の政商」「大阪の豪商」というレッテルが貼られたことは事実でしょう。
明智光秀の天下が終わり、渋沢栄一の世界が奔流のようにメディアや書店に溢れています。その内一万円紙幣でたまにお目にかかることにもなるでしょう。
渋沢と五代を比較する議論はよくありますが、今年一年かけて冷静に相違点を調べてみようと思います。直木三十五・織田作之助・宮本又次ら五代友厚贔屓は大阪派に偏っていることを割り引き、長崎でのグラバーと密着した武器商人の側面や明治元年に反対を押し切り川口居留地近くに松島遊郭を開設したことの真相も深掘りが必要でしょう。

また関西貿易社の輸出対象国として清国をあげ、中国大陸市場貿易を構想した背景に、25歳で上海に渡った見聞や薩摩藩が長く琉球や函館・新潟で直貿易(密貿易)を行い、しかも北海道産昆布が上海向けの重要輸出品目であったことが影響しているのか調べてみたいです。渋沢栄一の大河ドラマで、ディーン・フジオカが五代友厚を演じるとのことですので、またまた五代さまブームが再燃するでしょう。
(加島屋→大同生命の広岡浅子が絡むか不詳です)堂島で土台と顕彰銘板だけになっていた像は戦後に再生され、大阪商工会議所脇に土居通夫像、稲畑勝太郎像と並んでいます。

最後に、映画のタイトルに使われた「天外者(てんがらもん)」について鹿児島の地元に詳しいK氏に訊ねたところ、次のような分かりやすい返事を貰いました。

・・・「てんがらもん」には賢いけれどズル賢いのニュアンスが多少あり、良い意味で使われることは少なかったと思います。もちろん100%悪いという感じではなく、お褒めの意味も含ませています。生まれも育ちも「かごんまの おごじょ」のK氏夫人も良い意味で使ったことがないとのこと。ちょっと違うが「ぼっけ もん」という言い方もあり、ちょっと普通と違うが将来が楽しみな者という意味で、西郷隆盛も子供時代に、よく「こん ぼっけもんが・・・」と言われていたようです。普通に頭が良い場合は「よっ でっくんな」かな? 

鹿児島でも地域や家庭で言葉のニュアンスは色々と異なるかも知れません。ただ映画の中での「てんがらもん」の説明には、何となくそぐわない気分が残りましたがK氏夫妻の説明のお蔭でほぐれました。
人並み外れた才能に恵まれ、行動力もあるが、何か一寸含むものもあるなあ、と感じさせる人がいます。そんな人の一人であったような五代友厚を三浦春馬は実に自然に演じていた気がします。
映画終盤になるにつれて周囲から嗚咽が聞こえてきました。 実に惜しい人を若くして亡くしたものだと思いました。     (了)

2021年1月30日

多余的話(2021年1月)   「1月11日」

井上 邦久

今年の箱根駅伝の1区は超スローペースで始まり、記録的な愉しみは早々に失せました。大手町から品川駅前そして御殿山にかかるところは馴染みの深い地域なのでランナーがゆっくり走ってくれて助かりました。
京浜道路から昔の東海道に入っていくと北品川商店街。
高層ビルのオフィスから息抜きに足を延ばして知った「そば処 いってつ」さんには給水ポイントならぬ給酒ポイントとして高層ビルと無縁になってからも大変お世話になっています。向かいの鰻屋は蒲焼の匂いを嗅ぐだけ、その隣の「あきおか」煎餅屋は「いってつ」の暖簾が揚るまでの小さな買物とお喋りの場所です。
幕末の品川宿で「浮浪雲」が頭領をしていた運送問屋「夢屋」は有りませんが、関東大震災後に多く建てられた耐火銅板貼り(小伝馬町・人形町・鳥越等にも)の緑青が見事な荒物屋、畳屋そして下駄屋もあります。

外国人向けの宿泊施設に変貌している町並みの一角に土蔵相模の通称で知られる引手茶屋「相模屋」跡の石碑があります。土蔵相模は御殿山に建設中の英国大使館を焼き討ちせんとした長州攘夷派の高杉晋作、井上馨らが結集謀議した場所として知られています。
横浜異人館焼討を企んだ渋沢栄一の例も含めて、異人の建物を焼いたくらいで欧米帝国主義を叩けると真剣に考えていたことが今となっては不可思議であります。

少し時代が下って御殿山は政府高官や富商の邸宅で知られるようになります。
駅伝コースから外れて住宅街に入り、しばらく行くと塀に囲まれた原美術館が静かにたたずんでいます。渋沢栄一と同じく、幕末草莽の志士として活動し米国留学後に実業界に重きをなした原六郎、そして日本航空や東京ガス社長を歴任した女婿の原邦造の経済基盤と美術コレクションを背景にして、曽孫にあたる原俊夫が1979年に原家私邸を現代アートに絞った美術館にしたものです。

東京出張の折に、川崎・浜町・横浜での単身赴任時代の休日にブラリと訪ねて特別展があろうとなかろうと、そのたたずまいに身を置くだけで贅沢な気分にして貰いました。
SFではありませんが、世界最後の日が来るとしたら其の前日は何処に居たいか?と問われた場合、原美術館は有力候補でありました。
訪れることができないまま原美術館は1月11日をもって閉館となりました。
戦災にも遭わず、ゴジラの東京湾上陸コースからも少しだけ外れた原美術館は元々が個人の家であったのでバリアフリー改造には不向きであったようです。
中途半端な手直しをせず、すっぱり閉館するのは潔いし、すでに存分にそこでの時間を満喫したので潔くその日を関西から見送りました。

その関西でもかなり奥まった場所で地力を蓄えた天理大学ラグビー部が早稲田大学に昨年の倍返しで勝利したのも1月11日でした。
花の都に臆するところがなかったです。その試合は中之島の住友病院12階の眺めの良い部屋でTV観戦しました。

先ず1月4日に枚方市の関西医大付属病院で6年目の術後検査を無難に通過し(昨年は検査日を忘れ、愛知大学を訪問した帰りの豊橋駅で病院からの詰問調電話を受けて慌てました。
年に一度の検診は忘れやすいので、今年は正月初日を予約日にしました)後顧の憂いなく、6日から住友病院に教育入院をしました。
昨年秋の定期検診で血糖値などのデータが悪化していたため、主治医からこの機会に薬物療法はそのままで、食事療法と運動療法で体質改善を進め、医学的、栄養学的な意識改革ができるまで教育する・・・分かりやすく言うと「データ」と「生活態度」が改善するまで「隔離拘束」されることに同意しました。

幸か不幸か、忘年会もクリスマスもない歳末から静かな年越しに続いた社会環境にも恵まれて、禁酒摂食と適度な運動を行い、大げさにいえばキャンプインに備えて身体を整備する野球選手のような生活でした。
12月の拙文では歩き回る生活を綴り、年賀状には陶淵明の飲酒の詩を引いたあたりに精神的な葛藤が出ているなあと自己分析をしました。住友病院は北品川の蕎麦屋さん同様になじみの病院ですが、地下の売店ではブラック珈琲のみの買物、夕食後の運動に暗い院内をグルグル歩き回るのも少し不気味であり飽きてもきました。
窓の下には土佐堀川、その先には『泥の河』の舞台、そして住友倉庫前を左に曲がれば川口・本田という開港由来の旧居留地や川口華商の活躍した跡地。
歩行運動療法に最適の地域が眼と鼻の先でしたが、完全隔離の禁足令はある意味で禁酒令よりも辛いものでした。

宮田裕章『共鳴する未来 データ革命で生み出すこれからの世界』河出新書
ジョージナ・クリーグ『目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛をこめた一方的な手紙』中山ゆかり訳 フィルムアート社
福澤諭吉『復刻 中津留別之書』福澤旧邸保存会、

以上三冊をほぼ読み終えた10日後に「データは顕かに改善」「生活態度は模範囚候補」ということで退院の運びとなりました。執行猶予無期限の仮釈放であると思っております。

1月11日は実母の誕生日でもありました。秋に脳疾患に続く認知症が急速に進み隔離してもらったとの連絡がありましたが、すべて妹一家からの間接話法であり感染地域の大阪からは訪問も叶わないままであります。
毎月の拙文にこまめに返事をくれていたのが、夏頃から便箋の枚数が少なくなり、心なしか筆跡も薄くなっていました。そのことに特別な注意を払わなかったことに今になって臍を噛んでいます。こればかりは潔くとは参りません。                 (了)

2020年12月25日

多余的話(2020年12月)    『竹林の隠者』

井上 邦久

 10月から11月は内憂外患の出来事とオンラインセミナー発信が重なり心身ともに落ち着きませんでした。ただ小春日和が続いたのが大きな救いでした。       
その日も暖かな休日、自宅から2分で繋がる亀岡街道を北北東に針路を取り穂積・郡・福井といった集落を抜けていきました。
旧家と新建材住宅が混在する道が西国街道と交差、賤ケ岳七本槍の一人中川清秀の出生地とされる中河原には案内板と里程標がありました。
清秀嫡男の中川秀成が豊後国の岡潘開祖となったご縁で、茨木市と竹田市は姉妹都市関係が続いております。茨木図書館には「豊後国志」等の資料があり九州の香りを感じています。

中河原からほど近い宿久庄の川端康成が少年期に暮らした旧跡へ向かわず、亀岡街道から安威川に沿って安威集落に向かい、富士正晴が亡くなる1987年まで棲んでいた茨木市安威2丁目8番地4号の竹林を目指しました。
70年安保の直後に紙価を高めた『中国の隠者 乱世と知識人』(岩波新書)で富士正晴を知り、企業社会の軋轢の下で小説『帝国軍隊に於ける学習・序』に学びました。
富士正晴が編集責任者だった関西の同人誌「VIKING」からは久坂葉子、島尾敏雄、庄野潤三、高橋和巳、津本陽らを輩出しており、敗戦間もない頃から今も尚この同人誌は健在です。
司馬遼太郎も新聞記者時代からの富士正晴との交友を多くの文章に残しています。その一節を抜粋します。

漱石ふうにいえば「大将」はなにしろ、外出しない。年に一度ぐらいは近所にタバコを買いにゆくにしても、摂津の茨木の安威という村の竹やぶの中に金仏のように自分を置きすてて、どこへもゆかず、ただ、ひとり酒をのむ。その間、頭の中で宇宙を行脚するらしく、順次同行をもとめるために電話をかけつづけてゆくのである。
             「真如の人―富士正晴を悼む―」 (『竹林の隠者 富士正晴のあしあと』第1集    
「富士正晴と関西の作家」司馬遼太郎 52頁) 

大阪の商人は 北東、丑寅(艮) の方角に当たる千里方面を嫌ったとかで、手つかずの竹林が1970年の万博会場として切り開かれたと聞いています。
北摂の丘陵つたいに茨木の竹林に繋がります。国鉄茨木駅からエキスポロードが結ばれ、吹田市との境にモノレール宇野辺駅があり万博公園に繋がりました。その辺りまでが現在の徒歩か自転車による可動域の南西側境界線です。
桔梗が丘と呼ばれていた裏山は、俗称茨木弁天や笹川良一ワールドとなり、ラジオ体操のあとに裏山の反対側の獣道を下ると茨木カンツリー倶楽部にぶつかります。金網の向こう側のコースで白球を追いかけ右往左往したこともありましたが、今は「ボールに注意」という標識のこちら側を歩いています。

こちら側に自分を置き捨てて富士さんのような精神の可動域を持てたなら「自粛」も要らず、「感染」もしないなあ、と思う歳の暮れです。                         (了) 

2020年9月21日

多余的話      (2020年9月)    『敵といふもの』

井上 邦久

先月冗長な拙文の締め括りに添えた高濱虚子の俳句について少しだけ補足をします。
たまたま正岡子規の最晩年の日誌『仰臥漫録』と森まゆみの『子規の音』を並行して読みながら、上野のお山を下った根岸のたたずまいと子規と虚子の関係を想像していました。
そんな時に、夕刊コラムの文末に川上弘美が「敵といふもの今は無し秋の月」という虚子の句を取り上げていたのが印象に残ったので、こちらもそれに倣い8月らしく文末をシャンと締めるために添えた次第です。

この句は1945年8月25日が初出だと教えて貰いました。
中之島図書館で当日の朝日新聞を調べた処、広島・長崎の原爆被災の続報や新任の東久邇首相への提灯記事の間に虚子の俳句が囲み記事として掲載されていました。
小諸にてという添え書きと四句が並び、三句目にこの「敵といふもの」がありました。当時、虚子は小諸に疎開しています。月暦を見るとその年は8月22日、23日に月が満ちていますから、ここでの「秋の月」は満月ではないかと推測します。

1941年12月8日の対米英開戦の直後から、気象情報は国家機密とされ公表されず、1945年8月22日にラジオ、23日に新聞で天気予報が再開されたようですが記録が詳らかではなく、小諸の空が晴れていたか気温はどうだったかは分かりません。

虚子が月を眺めていた同じ頃に、樺太からの引揚船がソ連の潜水艦の攻撃を受けて多くの犠牲者が出ています。
「敵といふもの」がまだ居たのです。声高に鬼畜米英と位置付けた「敵といふもの」は「今はもう無し」であるとする虚子の眼には、国内の日常生活を奪った「敵といふもの」も含めた実感ではなかったでしょうか。

75年後の今日、台湾海峡から南西諸島そして西太平洋にかけての海域からのキナ臭い報道に照らしてみると「敵といふもの今はまだ無し」であろうか? もうすぐ明確に敵と位置付けるのだろうかと考えていました。
そんな素人考えを一笑に付してくれた海自OBがいます。艦長として訪れた中国・韓国を含めた世界の海や港を知る、現場力を持つ中学校の同級生は、数々の体験的事例や情報に基づいた見識から、相互に敵とは言えないという根拠を教えてくれました。
現場から離れた場所から過剰反応をして「杞憂」状態になるのは健全ではなく、反対に「仮想敵国」とか「〇●もし戦わば」といったセンセーショナルな単語を並べ人心を煽る動きにも注意が必要です。
仮に現場のことを掌握せずに、或いは掌握していても敢えて、政治やメディアが「危機感」を醸成する振り子は落ち着かせるべきでしょう。

日清戦争でだれが勝利したのか?というテーマで書かれた『日清戦争』(大谷正・中公新書)を読み返しながら、多くの従軍記者や画家を戦地に派遣し、号外を連発する手法で、全国一位の部数を獲得した朝日新聞(大阪朝日新聞・東京朝日新聞)がメディア界の勝利者であったことは間違いないと感じました。
そこから、日露戦争・日中戦争・第二次大戦まで突き進み、1945年8月の無残な紙面に至ったありさまを一覧すると「敵といふもの」を改めて感じてしまいました。

9月10日の恒例の若冲忌。
京都深草石峰寺では感染予防対策を徹底し、事前登録の人数を絞りに絞って、本堂での法要が営まれました。庫裡に掛けられた寺蔵の若冲真筆を、手には取りませんが、手に取るように拝見できました。
マスク越しに読経を終えたばかりの住職は幾分紅潮した顔で丁寧な作品解説をしてくれました。彼岸法要は三密回避のため中止して、若冲忌の継承に注力した住職や寺の皆さんの気概も伝わりました。
伯父叔父の墓には一足早い彼岸の供花を行いましたが、自らの墓地用地の草抜きは暑いので端折り、弁柄色の丸みを帯びた山門を抜けて、隣の伏見稲荷経由の小径を歩きました。今は人通りも少ない歩きやすい径です。

下駄を鳴らして、道に迷っているばかりだった半世紀前と変わらぬ懐かしい径でもあります。

2020年8月31日

多余的話(2020年8月) 『あの本』

井上 邦久

8月7日、立秋。豊川悦司が愛読するという立原正秋の清冷な文章を読むには暑すぎました。
日々、今年一番の気温を更新する中、仮住まいのアパートから元の住所に戻りました。二年前の直下型地震や猛烈台風で傷み、隣近所に多く見られたブルーシートも無くなった時期の工事でした。
部品が届かない、作業員も集まらないという理由には事欠かず、工期は大幅に遅れ、アパート代は着実に嵩みました。
ようやく段ボール函が視界から消え、パソコンも何とか復旧しました。テレビは繋がらず無音の箱ですが、特段の支障はありません。

 大分県中津市からの夜逃げに始まって、山口県徳山市で3回、関西圏で6回の転居のあと就職先の独身寮へ。そこからは転勤・海外駐在の繰り返し、この十年だけでも上海・北京・上海・横浜への移動があり、方違えでボストンに寄り道をして3年前に大阪に戻りました。
上書き編集のできない手書きの住所録時代の知人からは「またか・」と苦情が寄せられていました。
森まゆみさんは労作『子規の音』で、終の棲家となる根岸の里に落ち着くまでの正岡子規が寄宿舎や下宿を転々とした跡を粘り強く追いかけています。

 落ち着かない時間の中で、ボリス・パステルナークの名前を何度か目にしました。
巣篭り生活に合わせた長編スペクタクル大作映画が繰り返し放映されました。『戦争と平和』『アラビアのロレンス』といった定番や、『遥か群衆を離れて』など視聴率を気にしなくてよい時期にしか選ばれない大作に挟まれて、『ドクトル・ジバゴ』も放映されました。
原作者のパステルナークや主人公ジバゴよりもヒロインのラーラの印象が残る映画です。
山口県の高校入学直後に映画館へ通い、大阪に転校してからペーパーバック版の小説を買いました。そして原作者がパステルナークであり、何故かイタリアで初出版されてから世界へ広まりノーベル文学賞に選ばれたことを知りました。
続いて映画化され、劇中に何度も流れる「ラーラのテーマ」のバラライカの調べに惹かれてレコードを買い、小樽でオルゴールを入手しました。この曲が1980年代初めの中国の長距離列車で、一方的に聞かされる車内放送で繰り返し流れていたことを思い出します。
スターリン治下の閉鎖世界を描き、雪解けと言われたフルフショフ時代でも「反革命作品」としてロシア語での出版は許されず、秘密裡に持ち出された原稿がイタリアから世界に流れていった。
作者はノーベル賞授与式に参加することが許されなかった。
「ラーラのテーマ」が西側で制作された反ソ映画の劇中曲であることを当時の中国人車掌も乗客も事情を知る由もなく無頓着でした。
「反革命楽曲」だとは知らずに聴き入る中国人を複雑な気持ちで眺めたことを憶えています。ある意味では牧歌的な時代でした。

 ところが秘密裡にイタリアへ原稿流出、迅速なロシア語や英語での出版という背景には米国CIAなどの秘密諜報機関が絡んでいたとする小説Lara Prescot :The secret we kept;吉澤康子訳『あの本は読まれているか』が4月に発売され、読了後には高校時代から抱いていた心の中の牧歌的な水彩画をかなり鋭いタッチの油絵に塗り替えられた感じがしました。
「あの本」とは言うまでもなく、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』であります。小説のなかのパステルナークは大詩人のイメージを保ちつつ、政治の世界にかなり無頓着で、生活感にも乏しい等身大の男として描かれ、周囲の女性たちに物心ともども被害を与えています。米国人の著者のLaraは本名で、母親が『ドクトル・ジバゴ』の大ファンであったので命名されたとのこと。

 雑誌『東亜』8月号チャイナ・ラビリンス195回に許章潤氏が逮捕(後に保釈)、清華大学を解雇された理由とされる論評が掲載されています。
その冒頭に、「二月、筆は嘆きを描くのに充分だ、悲しみの叫びで二月を描こう、泥濘が轟き、黒い春が燃え上がるまで」という詩文を揚げて、武漢疫禍についての鋭い論評を綴っています。それは、パステルナークの詩から引用と明記されています。
同じ中国人でも40年前の長距離列車の無頓着な人たちとは異なる、知識人の確信と勇気に満ちた文章でした。

20数回の転居にもめげず持ち続けた「あの本」が今回の家移りの間に逃亡して見つかりません。未だ日本では「あの本」の所持がご法度ではないでしょうが、不思議な気分です。

  敵といふもの今は無し秋の月  (虚子。1945年8月)

2020年8月9日

多余的話(2020年7月)   『養命酒』

井上 邦久

新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ
ラジオの声に 健やかな胸を この香る風に開けよ 
それ 一、二、三

 新しい朝のもと 輝く緑 さわやかに手足伸ばせ 土踏みしめよ
ラジオとともに 健やかな手足 この広い土に伸ばせよ 
それ一、二、三

              作詞:藤浦 洸 作曲:藤山一郎 (さすがに古関裕而の作曲ではありませんでした)

 ほぼ毎朝この曲が流れる時間に少年野球グランドに到着します。

健康的で前向きな姿勢の単語が並ぶので、命令形もあまり気にならないのかなとか、「香る風」「輝く緑」は夏の季語で「さわやか」は秋だったなとか徒然に思いながら、バラ公園を覗いてから気の向くまま、脚の向くままに歩きます。
7月になって、草刈正雄が朝起き抜けに分厚い本を広げて、詩を朗読しているCMを知り、それが「ラジオ体操のうた」の歌詞であることにも気付きました。
同世代であり、同じ豊前の生まれの草刈正雄には共感を持ち続けてきました。

小倉生れで玄海育ちの気性を甘いマスクで包んでいる草刈正雄が資生堂男性化粧品の「MG5」に起用された時期、ちょうど丸坊主から長髪になったばかりで意識過剰の高校生は、バイタリス派にならず「MG5」ブランドの男性化粧品をなけなしの小遣いで買って大切に使いました。
その後、俳優として主役から脇役へ浮き沈みの大きい中でも着実に幅を広げ、「真田丸」では真田昌幸役、「なつぞら」の祖父役では北海道の開拓魂を滲ませ好演していました。
クレージーキャッツOB谷啓から引き継いだEテレの長寿番組「美の壺」でもコミカルに美の水先案内人を務めています。

玄界灘の対岸での朝鮮戦争で米軍兵士だった父親を亡くし,極貧の少年時代を小倉で過ごしたことは薄々知っていました。
彼が生まれ、米国人の父親が戦死した頃の小倉の雰囲気は、親の世代が競って読んでいた松本清張の小説にも描かれていました。今に続く朝鮮戦争の休戦直前に彼の父親は戦死したものと推測されます。亡父の写真も残っていないという草刈正雄の「ファミリーヒストリー」は番組の題材にはなりにくいのではないかと思います。

これも夏の季語の「草刈」正雄が本を読む傍らにさりげなく置かれた古風な瓶、それが「養命酒」でした。大声で連呼するCMに辟易としている人間には一見何の宣伝か分かりにくい、ひたすら静かな朝の清浄感が心地よく思われます。
「養命酒」は丁子、芍薬,人参など漢字で書くのが相応しい漢方生薬を抽出した医薬品であり、冬場に祖母が大切に服していたのを記憶しています。
新しいCMと同時に発表された養命酒製造㈱の第102期有価証券報告書には「ポジティブエイジングケアカンパニーとして、健やかに、美しく、歳を重ねることに貢献する・・・」という事業理念がありました。とても長い片仮名表記の「Positive Aging Care Company」の意気込みに好感が湧きますが、それ以上に「健やかに、美しく、歳を重ねる」と続く素直な日本語がより「養命酒」という四百年以上続く商品を、そして企業を自然に表現しているように思えます。

「ラジオ体操のうた」のメロディと歌声を除き、歌詞だけを抽出して読むと、まさに「養命酒」のために詩人は作ったのではないかと錯覚をしてしまいます。
3月からラジオ体操に集まる人が減り続け、4月には10名前後となりました。その後徐々に増えてきて6月には60名を超える盛況となり、深めのセンターの定位置確保も難しくなっていました。ただ7月半ば以降は増加に歯止めが掛かり反転気味です。

一方、もともと少なかった交通費と交際費の支出がさらに減少しています。
会社勤めの頃、この二つの経費項目は管理可能経費であるとして、厳しく制限が掛かり、各人の努力次第で十分コントロールできるはずだとされていました。まして業績が悪化すれば削減対象として真っ先に叩かれた記憶が残っています。
ところが今年に入って早々に「家に居て黙っているんだ、夏が終わるまで」状態となったので、乗りたい電車にも乗れず、居酒屋でチョイ呑みもご法度となり、思うに任せられないことばかり。言わば管理不能経費項目になっています。
ブレーキとアクセルを一緒に踏み続けて、クラッチ操作が思うに任せられぬ事象は今どき珍しくもありません。

そんな環境下、大学は全面的に遠隔授業となったのでアドリブ講座から一転して最新資料やテキストの作成に励むことになりました。古典講読会の新しい課題を「三国志演義」に決めて頂き、老師の指示で時代背景や人間関係を整理しています。NHKラジオ木曜日のカルチャーラジオ「曹操・関羽没後1800年 三国志の世界」を大いに活用させて貰っています。京都壬生寺脇のNPO作業場は二回目の閉鎖となりました。9月10日に上海・大阪を結んだ公開セミナーを企画中。
上海の畏友であるパートナー弁護士に講演をお願いし、その前座を務める予定です。一方、華人研は開催延期を繰り返しています。

事ほど左様に個人的にも、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような思いをしています。ただ、この機会に初心に立ち返り、辞書を愚直に引くことが増えています。

「MG5」から「養命酒」まで変化し進化した草刈正雄は少年時代の初心を忘れず、世の中の不易と流行をしっかり見極めているのでしょう。                          (了)

2020年6月18日

多余的話(2020年6月) 『モスラの唄』

井上 邦久

6月15日、梅雨の晴れ間。久しぶりに大阪に出て予約を一ヵ月遅らせた眼科へ。
昨年春の年一回の定期検査で緑内障と診断され、経過観察をしながら投薬や手術の相談をしましょうという穏便なプランに同意して、3か月に一度のペースで通院中でした。
文楽の桐竹勘十郎似の渋い男前の先生には十年以上にわたり、年に一度の検診をしてもらう息の長いお付き合い、毎回「特に異状はないです。来年の今ごろまた来てください」という言葉を貰って当たり前のように翌春に通うことが続きました。

2011年の春も同じ言葉がありましたが、その年は「来年も無事であったら」という前提を感じました。
その一か月前の3月に上海から東京・大阪を繋いだTV会議をしている最中に東京の画面が大きく崩れて断線、大阪の画面も気持ちの悪い大きな横揺れがして、やがて人が消えました。
詳しい事情が掴めないまま、予定していた内モンゴル自治区オルドスへの移動をして、その夜に乾燥地帯で大津波の画像を観ることになりました。

 来年の今ごろおいでと春の医者(拙)

それ以来、来年の予約という行為に「明日があるさ」思想の楽天性を感じるようになっていました。そして今年二月、別の患者が「次の検診は、コロナが終わったら参りましょう」と軽い調子で口にしたら、勘十郎先生は「感染疫病はそんなに簡単には終わりませんよ」と軽いたしなめ口調で呟きました。
今回、長期戦・持久戦・神経戦を覚悟したのはこの時期のことで、いつも激することのない眼科医師の言葉も作用したと思います。

 2011年春、大阪から派遣された岩手県上閉伊郡大槌町の工場で被災した知人は工場閉鎖後も帰任せず、全く畑違いの本屋、町で唯一の一頁堂書店を開店することになりました。開業の直後に訪ねた時、化学会社の営業マンだった知人は「本が嫌いな自分が本屋を営む」ことになった成り行きを話してくれました。
開業8周年を伝える書状には、「とにかく感染者第1号にはなりたくない」というまわりの空気が前書きにありました。続いて2019年の三陸リアス鉄道や沿岸道路の開通で復興工事が一段落した報告があり、利便性がよくなったことは、地元業者への打撃が想像を大幅に超えたものになっている現実と、感染病による追い打ちの凄まじさが綴られていました。
開業当時の子供たちが社会人になり、子供を連れて来店する姿を見守る言葉に添えて、震災で親を亡くした子供が高校を卒業するまで18年間、学校を通じて店専用図書券を届ける取り組みが8回目になったとの報告がさりげなく添えられていました。末尾の店主という文字の重みが増してきた印象があります。

6月7日、西宮震災記念碑公園で小説「火垂るの墓」記念碑の除幕式が行われました。当日は限定された人数で30分だけという圧縮形で行なわれるとの知らせと記念誌を届けて貰いました。
小説では1945年6月5日の神戸大空襲から逃れた少年とヨチヨチ歩きの妹が西宮市満池谷の親類宅に辿り着いた後、二人だけで暮らした土壁の防空壕で短い命を灯したことになっています。
野坂昭如初期の自伝風小説でありますが、地元の建碑実行委員会の粘り強い調査と関係先との折衝で、作家の親類宅や防空壕の場所が特定され、二人で暮らした様子を目撃した古老の口述記録も留めています。
関西華僑のライフヒストリーを聞き書きして出版を続ける神阪京華僑口述記録研究会があります。毎年1冊出版のペースで先日第10号を受け取りました。その活動の主軸の一人のN氏が「火垂るの墓」記念碑建碑実行委員会の事務局を担っていることで身近に繋がりました。

早稲田大学に進んだものの、とてもラグビー部に参加できる状態になかった野坂昭如が、40歳頃に「アドリブ倶楽部」というラグビー同好会を創設したことは良く知られています。
一方、ラグビー横好きでは負けない大阪府立高校OB達の倶楽部が東京のリコーグラウンドで「アドリブ倶楽部」と対戦したことがあります。前夜、3人のメンバーが拙宅に雑魚寝したこともあり一緒に観戦に行きました。
野坂氏は背番号10のスタンドオフで出場しましたが、トレードマークの黑メガネをしていたか、外していたか記憶に定かではありませんでした。今回、記念誌に倶楽部の応援歌とともに写真が掲載されており、黒メガネ姿でしたが練習風景を撮った記念写真かも知れません。

閉塞した日々に流されるように、印象的な仕事を残した人たちが静かにこの世を留守にして逝きました。勝目梓、ジョージ秋山そして宮城まり子・・・。

ねむの木学園の構想から実行に取組んでいた宮城まり子に対しパートナーの吉行淳之介が伝えた三つの約束、「愚痴を言わない」「お金がないと言わない」「やめない」。継続して実行し難い約束の意味を折にふれて反芻しています。
更に「全作品の著作権はまり子へ」という遺言で三つの約束を支えた切れ味はとても常人俗人の及ぶものではありません。

6月15日は、ザ・ピーナッツの伊藤エミ(本名:沢田日出子さん)の8回目の命日でした。
東レが岩谷時子らとタイアップしてバカンスという言葉を定着させた「恋のバカンス」は、今ものど自慢で月に一度は孫世代が歌っています。宮川泰の贅沢な編曲で輝きを増した「恋のフーガ」は、日本の音楽シーンの最高傑作だと思います。
更に東宝怪獣映画「モスラ」(原作:中村真一郎・福永武彦・堀田善衛)の主題歌「モスラの唄」にはいまだに強烈なインパクトを感じます。インドネシア語がベースと言われる歌詞と早慶・阪神巨人の応援歌や軍歌‣反戦歌・反原爆曲・オリンピックマーチまで萬承って破綻のない古関裕而の作曲です。

言わずもがな(多余的話)ですが国会議事堂での抗議デモの渦中に命を落とした樺美智子の命日も6月15日です。

                          (了)