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2020年5月22日

多余的話 (2020年5月)  『煤渡り(ススワタリ)』

井上 邦久

5月半ば、本来なら、サツキとメイの学童姉妹が大暴れする季節です。
お母さんの居る結核療養所まで無理をすれば徒歩でも行ける村へ、新緑の田舎道をオート三輪車で引越しするシーンから『となりのトトロ』は始まります。
埃と煤の溜まった古家の雨戸を開け、二階の奥に風を通すと、二人の眼には真っ黒なコロコロした球体が見えてきます。これが家に住み着く妖怪「煤渡り」です。

「煤渡り」は人に悪さをせず「いつの間にかいなくなる」タチの良い妖怪ですが、世界を席巻している新型ウィルスは生易しくありません。レソト国に1名の感染者が見つかり、ついにアフリカ全土に感染マークが拡がりました。石鹸どころか飲み水にも事欠く地域での防疫の難しさ、それへの想像力を持つこともまた容易ではありません。

2月から「基礎体力の維持増強」と「深く良質の睡眠」を念仏のように唱え、歯医者のお世話にならないように普段より二割がた丁寧に口腔ケアをしました。
3月の一斉休校により、神奈川県からの「縁故疎開」の学童と暮らすことになり、自然に規則正しい食生活が始まり、生活習慣の改善に繋がる予感がしています。たとえ外出自粛で「ヤクが切れても」しばらくは持ちそうです。
感染疫病とは、長期戦・持久戦・神経戦と相場が決まっているので、4月も終息の気配はないと判断し、諦念よりも科学的な達観と工夫の時期だと心得ました。

台湾付近からやって来る低気圧が本州の南岸を通過するたびに花は移ろい、陽気が充ちてきました。
サツキと躑躅の紅白戦が終了した後、ばら戦争が勃発。昨日の雨でランカスター家の赤薔薇は衰退し、ヨーク家の白薔薇は善戦中です。
仮住いから徒歩5分の若園薔薇公園に通いつめ、この3か月で一生分の薔薇を眺めた気分がします。
傷んだ家の建替え工事は「中国からの資材到着遅れの為?」大幅に遅れて入居は八月以降になるとのこと。それでも秋の薔薇をこの無観客公園で観ることはもう無く、来年のばら戦争観戦のために早朝からやって来ることも無いでしょう。
「一期一会」の薔薇の香りを感じながら散歩、ラジオ体操・そしてストレッチ体操。体操には老年十数名が少年野球場に集まります。定位置は深めのセンター、右中間と左中間を広く開けて深呼吸をしています。

 高校時代の友人に「中国からの資材到着遅れ」の話をしたら、事実かも知れないし、そうでなくても客を納得さやすいから業界ではよく使う弁明だと内輪話をしてくれました。
1980年代、中国からの輸入品を日本の顧客に販売する際、「中国からの輸入ですので納期遅延の場合もあることを予めご承知ください」という文言を売買契約書に添えることを先輩から指示されたことを思い出し、ずいぶん古典的な手法が今も残っていることに苦笑しました。古典的と言えば、内憂を外患で糊塗する手法が多くの国で頻発しています。内在していた矛盾や課題が疫病由来の経済停滞で表面化し、内部からの不満や批判をかわすために外部「危機」を煽る手法。
その陳腐化を知らないフリをしているのでしょうか?

そんな折、イタリアからの薬品原料の業務でお世話になり、フィレンチェには共通の友人を持つ先輩からパオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』(飯田亮介訳)を教えて貰いました。
イタリアが危機的状況にあった3月頃までの新聞投稿を纏め、モントットーネ村に在住の飯田氏(雲南民族学院留学時代にベネチア大学からの女学生と知り合い後に結婚)が翻訳して、早川書房HPで4月10日から限定無料公開、4月24日に出版、という迅速な過程を踏んで日本に届いた本でした。(作者あとがきはHP無料公開継続中)。
神田駅からほど近い所にある早川書房ビルにはレアメタル業界で評価の高い友人の会社も入っており、前に訪ねた時はカズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞直後で注目を集めていました。
早川書房は演劇・SF・推理小説の草分けとして著名です。個人的には熱心なハヤカワ・ミステリーファンとは言えませんが、ディック・フランシスの競馬小説群やジョージ・オーウェルの『1984年』は愛読してきました。

ノーベル賞に関しては、カズオ・イシグロの後塵を拝した感じもあるかも知れない村上春樹の『1Q84』第3巻を10年ぶりに開きました。
先発(書棚入り)・中継ぎ(段ボール入り)・抑え(委託保管)・戦力外(寄贈・廃棄)に仕分けて引越ししたつもりでした。
冗長さに疲れて曖昧な印象しか残っていなかった『1Q84』が仮住まいの書棚に残ったのは題名のせいかも知れません。更に言えば「Q」のご縁でしょう。

先月、柏原兵三と堀田善衛の日中戦争を題材にした小説を読んだ後、湖南省南部での逃避行を描いた駒田信二の『脱出』に繋がり、続いて評論集『対の思想』を読むことで、増田渉から魯迅へ遡っていったのは自然な成り行きでした。
本の棚卸が終わったところに外出自粛の要請発令(この辺の用語矛盾を実感しています)があり、図書館閉鎖も重なって、その後の閉門蟄居の間に書棚が身近なものになりました。

ⓆQQQQQQ・・・魯迅の『阿Q正伝』の「Q」について、早稲田大学を辞したばかりの新島淳良先生から「Q」でなければダメだ、「Q」だの「Q」の活字を無頓着に使っている翻訳本は捨ててしまいなさい、と教わりました。
辮髪を後ろから見た様子を「Q」で表して中国人の象徴としているという説明でした。
『魯迅を読む』(1979・晶文社)のあとがきに新島先生は1977年5月から毎週火曜日夜に「魯迅塾」を始めた、と書かれています。ちょうど入社して3年目で勤め人生活にフィットできない気分の活路を探していた頃でした。別の恩師の紹介で駒田信二先生宅を訪ねたのもその頃だったと思います。

ところが、改めて魯迅選集(1973・岩波書店・第一巻は竹内好の翻訳担当)で見ると、題名は「阿Q」本文は「阿Q」と活字へのコダワリがないことに今さらながら気付きました。
『魯迅文集』(1977・筑摩書房)は竹内好の個人訳であり、遺著ともなったものですが、そこでは「阿Q」に統一されています。手元にある中国での出版物も「阿Q」となっています。

村上春樹は初期佳作の『中国行きのスローボート』をはじめ、陰に陽に中国に関係する小説を書き繋いでいます。村上春樹が早稲田大学在学中に新島先生の謦咳に接したかどうかは知りませんが『1Q84』の背表紙を見るたびに新島先生を思い出し、小説にも新島先生の影を感じています。

『1Q84』の主人公、天吾・青豆・ふかえりは三者三様の理由で、隔離や閉じこもりの生活をする時間をそれぞれが工夫しながら耐えています。ここでも又小説が現在の状況を先取りしていることに気付かされます。とりわけ、ヒロインの青豆が一歩も外出せず、気配も悟られず、ひたすら基礎体力の維持増強に努める姿は象徴的です。

虫眼鏡で観察するような活字の話ばかりで恐縮でした。
大相撲の虫眼鏡の話で最後にします。
番付表に慣れない内は、幕下より下位力士の醜名(四股名)を見つけるには虫眼鏡が必要です。幕下の下の三段目、山梨県出身の勝武士幹士関は入門後から二十八歳まで太文字で書かれることはなく、虫眼鏡の世界のままで終わりました。来場所の番付にはその名はありません。
相撲部屋の三密の環境や糖尿病が重篤化の理由として強調されていますが、検査も入院も思うようにさせて貰えなかったことが永遠の黒星に繋がったのではないか?誤解せず確認したいと思っています。
茲に哀悼の意を表します。                (了)

2020年4月10日

多余的話 (2020年4月)   『清明』

井上 邦久

       清明時節雨紛紛 路上行人欲断魂
        借問酒家何処有 牧童遥指杏花村                   (『清明』)

 大杜と尊称される杜甫に対して、こちらは小杜と呼ばれ親しみやすい杜牧による季節の詩です。『清明』の舞台は山西省という通説もありますが、「雨紛紛」は「烟雨」と同じく、やはり江南の春の頃を感じさせます。

       千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
       南朝 四百八十寺 多少楼臺烟雨中
                 (『江南春』)

十年前くらいに「上海たより」として、上海人が使う「毛毛雨」という表現について綴った記憶があります。「毛毛雨」は、春の半ばに降る傘も要らないくらいの細い雨のことでした。小糠雨や春雨と訳しては芸がないので、色々と思案し、風呂上りに爪切りをしながら「うぶ毛雨」という表現に辿り着きました。
そして「花屋までうぶ毛雨なら傘残し」という拙句を捻りました。

東京の人形町末廣亭址の隣に、江戸天明年間から続く刃物匠「うぶけや」の爪切りを愛用しています。イタリアの関係先へ名前を彫った包丁を土産にしたこともあります。屋号の由来は赤ちゃんのうぶ毛も剃れる切れ味という初代の評判からとのことです。上海人の「毛毛雨」を江戸由来の「うぶ毛雨」として自分勝手に仲春の季語にしたわけでして、歳時記には勿論載っていません。

 杜牧の詩には酒がよく溶け込み、春の雨に倦んじてし魂の慰めに、牧童に酒家の在処を訊ね、風に揺れる新酒の旗に心を躍らせる、潤いのある春の世界を醸し出しています。先月の埋め草にした井上陽水の「情け容赦のない夕立」の夏とか日野美歌の『氷雨』の冬では別のイメージになりそうです。

二十四節気の一つである清明は、黄道座標の黄経15度、つまり春分から15日目にあたる日です。なぜ「つまり」なのかは、高校地学の教科書を思い出して、天空をイメージしてください。
地学教師の玉井先生は「玉井バッハ」という綽名で、授業前に黒板に「バッハ」と書いておけば、15分くらい西洋古典音楽の話をしてくれたことを憶えていますが、黄道の話は宇宙の彼方に消えています。

これも上海時代。清明節の頃の職員との会話は「清明節快要来、到何処掃墓?」が多かったです。清明節に何処で墓掃除(墓参り)をするかによって、上海アーバンライフをしている男女職員のルーツが分かります。杜牧の詩で四百八十寺と表現された南朝の古都南京か、牧童が指さした安徽の村か、はたまた浙江の地か・・・
ほとんどが車で家族一丸となって行くというので立派だなあ、と感じたことを思い出します。先祖の墓の前で燃やして届ける紙銭は、金塊、高級車そして住宅の紙模型にエスカレートしていましたが、その後に二酸化炭素排出削減の為に禁止されたとか。
冥界は不景気になったことでしょう。

今年の清明節は4月4日でした。中国では天安門広場をはじめ、全国で半旗が掲揚され黙祷する人の画像が流れていました。

京都のNPO作業場で、戦前の女学校の空気を吸われた方から「武漢と聞けば三鎮と続けて、武漢三鎮。ご存知?」と作業の手を止めずに話しかけられました。1937年12月、時の中華民国政府は首都南京から武漢に臨時政府を移しました。漢江が長江に合流する川口が商業港の漢口(『フレディもしくは三教街~ロシア租界にて』という長い曲、さだまさしが母親の漢口体験を偲んでいます)、漢江の南側に所在するので漢陽、そして辛亥革命の発火点となった武昌起義の地。
二つの大河の流れで三つに区切られた漢口・漢陽・武昌の街を総称して武漢三鎮。

武漢に出張した頃、天河国際空港の完全運用前には、河を挟む新旧二つの空港のどちらへ行けば目的のフライトに乗れるか再三にわたって確認を要したことを思い出します。4月8日に天河空港も閉鎖が解除されたので、待ちかねた人たちが殺到して大変な混乱が生じている模様です。元の生活に戻ろうとする希望に満ちた混乱とも言えるでしょう。

1937年11月30日の南京の下関海軍港から堀田善衛の小説『時間』は始まります。
漢口へ首都を遷す民国政府司法官の兄を見送る弟。同行を許されず一族の位牌や家財の保全と秘かに日本軍に占領された後の諜報活動を命じられた弟の物理的にも、運命的にも格差の大きい別離です。元の生活を棄てて生命の保全を一日延ばしにする希望に乏しい混乱のシーン。
すでに鎮江、丹陽など近隣の街は日本軍の支配下となり、南京包囲網は狭まり空襲も始まっている。非常事態宣言も都市封鎖もなく「問答無用」で軍事的圧迫が身近に迫るなか、心理的には既に占領されているが、現実的にはあと数日ある。何もすることが無いのでぐらつく義歯を治しに歯医者に行き、何のための歯医者通いと自問しながら、蒋介石総統夫妻が飛行機で去ったという噂を聞く。そして落城・・・と小説は続きます。
蒋介石は結局、武漢も棄てて重慶まで長江を遡り臨時政府を置きました。
2020年4月に何故この小説『時間』を読んでいるのか? 自問しています。

過日、従弟の書棚に柏原兵三作品集の第一巻が二冊あるのを見つけました。押し付けていた一冊を持ち帰り、『徳山道助の帰郷』を再読しました。

・・・第一章 徳山道助の故郷の家は、大山と呼ばれる標高千米近い山の麓にあった。大分市からローカル線で三駅目にあたるM駅で降りて、川沿いの県道を小一時間も歩くと、その麓に出る。・・・

 その川は大野川で、県道は竹田に通じると想像しています。旧家の長男が、優秀な成績で幼年学校に進み、軍隊の中でも頭角を現し、末は大将になることは間違いないと郷土の人は太鼓判を押した。日露戦争で初陣を飾り、シベリア出兵で苦心するも、第一次大戦後の欧州視察を経て、陸軍士官学校長に栄達。
しかし突然の予備役編入という挫折を経験。1937年秋に師団長として上海呉淞戦線、廬山戦の指揮を執り負傷。日本の戦争史とともに生きてきたが敗戦によって肩書も恩給も失った。
中国の体験については沈黙を通し続けた。老境に入り価値観の逆転した社会での生き方を模索している道助に故郷大分での法事への案内が届いて・・・。
平易な文章で綴られた帰郷の顛末が小説の肝になります。
前後して芥川賞を受賞した柴田翔や丸谷才一、丸山健二に比べると、柏原兵三には突出した個性や鋭角的な手法は感じませんが、ついつい読み繋いでしまう平易さは非凡なのかも知れません。
また母の実家の富山県へ縁故疎開した体験を坦々と描いた『長い道』は、藤子不二雄が漫画化し、篠田正浩監督が映画『少年時代』に仕上げ、井上陽水が主題歌をヒットさせています。

青年時代に読んだ時はストーリーを追いかけるばかりでしたが「徳山道助」と年齢が近くなって老残の想いが忍び寄り、この春に各地で縁故疎開を余儀なくされて様々な想いをした学童が身近にいたこともあり、味わいが深まり、何篇か速読しました。
帰郷話で塗されていますが『徳山道助の帰郷』の主題は1937年から1938年の中国江南での戦の酷さであり、堀田善衛の『時間』に重なります。
2020年3月、何故に柏原兵三が目の前に戻り、引き込まれて読んだのか奇妙な思いをしています。

           「清明や伯父の形見の古書守り」

 長期にわたり低迷を続けている句作ですが、久しぶりに複数の同人に拾ってもらった拙句です。
この伯父は何度か使った喩えとして、座り心地の良い椅子のような存在として子供の時から可愛がってもらいました。大阪から縁故疎開で大分県に移住し、戦中戦後の苦渋の生活を、名前の清明(きよあき)の通り清々しく明朗な生き方で凌いできました。

清明節の翌日、従弟から伯父の13回忌の法要は大分で営むのは取りやめて、東京で内輪で行うとの詫びの連絡がありました。 帰郷墓参の代わりにこの拙文を以って手向けとさせてもらいます。     (了)

2020年3月29日

東アジア  その1 範囲と心持ち

井嶋 悠

アジアに自身の根拠を置く人々[企業関係者、実業家、研究者、教育関係者等]の任意の或る研究会で、何年か前、『日韓・アジア教育文化センター』の活動の成果を話す機会を得たことがある。当日、使用機材の不具合も手伝って不本意なものとなり、参加者の一人から「どうしてアジアではないのか」と強い調子で問われ、私は間髪入れず「東アジアです」と応え、一層場を気まずくしたことが、今も心にこびりついている。
そして、あらためて東アジアとはどこを言うのか、「東」という方角以外に、中でも心の部分で今も共有し得ることはあるのか、が気にかかり始めている。

岡倉 天心(1863~1913)は、英文書『東洋の理想』(1903年・ロンドンにて刊行)の冒頭で、以下のように朗々と言う。(夏野 広・森 才子訳)

――アジアは一つである。
ヒマラヤ山脈は、二つの偉大な文明―孔子の共産主義をもつ中国文明と『ヴェーダ』の個人主義をもつインド文明を、ただきわだたせるためにのみ、分かっている。しかし、雪をいただくこの障壁さえも、究極と普遍をもとめるあの愛のひろがりを一瞬といえどもさえぎることはできない。この愛こそは、アジアのすべての民族の共通の思想的遺産であり、彼らに世界のすべての大宗教をうみだすことを可能にさせ、また彼らを、地中海やバルト海の沿岸諸民族―特殊的なものに執着し、人生の目的ではなく手段をさがしもとめることを好む民族―から区別しているものである。――

最後の2行は不勉強ゆえ実感的に理解できないが、日本の芸術を論ずることを目的としたこの書を思えば、それまでの表現に共振する私がいる。
そしてそれを端緒にして、例えば「東アジア人」なる表現が、現代に不相応な区別性は措いて、可能なのか思うのである。もちろんそう思うこと自体ナンセンスと一蹴されることも含めて。
ただ、この思いは机上の空想といったことではなく、『日韓・アジア教育文化センター』での交流活動を続ける過程で常に脳裏にあったこととして、である。すなわち、センターの構成員である、日本・韓国・中国(ここで言う中国とは、本土漢民族及び香港人である)・台湾の人々である。

そもそも東アジアを構成している国・地域はどこなのか。
ここにA4判の世界地図帳がある。その一項に見開き2ページで「東アジア」が提示されている。国、地域によっては一部分ではあるが、掲示されている諸国を東から挙げてみる。

・日本・大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国・中華人民共和国・台湾・フィリピン北部・ロシア連邦東部・モンゴル・ベトナム・ラオス・タイ北部・ミャンマー・バングラデッシュ・ブータン・ネパール・インド北東部・カザフスタン

私は呆然と立ち尽くし、これは東アジアではないと思う。そこで東アジアを表題にする書にあってはどうとらえているのか、手元の二書で確認してみる。

一書は、『東アジア』[「現代用語の基礎知識」特別編集・自由国民社刊・1997年]。その中の第1章「東アジアとは」で、小島 朋之氏は、次のように記している。

――東アジア地域は民族、宗教、言語、歴史、文化、経済発展、政治体制など、いずれの面においても多様であり、「アジアは一つ」など簡単にはいえない。――として、

――本書では「東アジア」を、日本に隣接する朝鮮半島、中国大陸と台湾および香港、その周辺地域としてのモンゴルに絞ってみたい。――

もう一書は、『世界のなかの東アジア』[慶應義塾大学東アジア研究所・国分 良成編・2006年]。

その中の最初の章「東アジアとは何か」で、国分 良成氏は、日本を基点に、慶應大学の特性でもある経済視点から次のように記している。

――ASEAN[東南アジア諸国連合]+日中韓が主流となりつつあり(中略)ASEANは東南アジアで日中韓は北東アジアで、共通の集合部分は東アジアである。

――ヨーロッパの場合はキリスト教がベースにあるということは間違いない。そうした意味でアジアは何をベースにするのだろうか。…東アジア共同体の構想作業は始まったばかりで、これからさまざまな障害にぶつかりながら紆余曲折を経験することになるでしょう。――

『日韓・アジア教育文化センター』活動のキーワードは【日本語】であり、それと表裏を為す【日本文化】で、共通言語は日本語である。それは、東アジアで日本語を学んでいる人、教えている人を介して、日本を映し出し、日本を検証したいとの思いであるが、同時に東アジア諸国諸地域にとって日本が他山の石となることへの期待でもある。

例えば、海外帰国子女教育に携わった経験から言えば、この問題はとりわけ1960年代以降、日本の経済発展に伴って生じて来た教育課題であり、それへの対応、試行錯誤は東アジア諸国の教育施策に有用なものとなるであろうし、より一層日本の課題として戻ってくるはずだとの思いである。事実このことは、以前海外帰国子女教育の日本のプロジェクトで、韓国の文科省[教育部]の人と同席する機会があった。とは言え、この相互性での日本の一方性の批判を想像するが、これまでに培われた絆に甘え先に進む。

日本の東は太平洋である。その昔、日本が終着であった。西から、南から、或いは北から、様々な人々(民族)が、それぞれの文化を携えて渡来し、或る者は離れ、或る者は定着した。そして統一国家大和を形成し、少数民族は制圧され、大和民族が成立した。
21世紀の今、千数百年の間に沁み込んだ心に何度思い到ることだろう。私はそこに東アジアを見たいのである。

中国・朝鮮半島の長い通路を経て到達し、再開花し、更に発展し、時に日本の固有化した、仏教、思想、美術、文学等々の文化の宝庫を見る。正倉院には、確かにギリシャからシルクロードを経て渡来した美術品が蔵されているが、その前に私の中では東アジアがある。

先日、「アジアン・インパクト」との主題の美術展を訪ね、その印象は既に投稿したが、その展覧会でも「アジアン」は中国、朝鮮半島であり、それに衝撃(インパクト)を受けた日本人芸術家の展示であった。
やはり私の東アジアは、先の小島氏以上に絞って、中国・朝鮮半島・台湾そして日本であり、広くアジアを思い描く際にも、先ずその核となっている。

そのような東アジアの日本に生を享けた幸いを思う。
他国他地域について、その地の歴史も環境も十全に知らずして軽々に発言することは厳に慎まなくてはならないが、東アジアの国々地域は、それぞれ或る転換期にあるように思えるが、どうなのだろう。

東京オリンピックが延期されるほどに、コロナウイルスが全世界で猛威を振るい、亡くなった人の数は尋常ではない。私には驕り高ぶっている人類への「天罰」、といった宗教的視点はないが、無責任との誹りをここでも承知しながら、何か考えさせられることは否めない。

東アジアも然りである。

黄河文明をかえりみ、現在の中華文明を厳しく諫め、世界の現在を見ようとする中国のドキュメンタリー映画『河殤(かしょう)』(1988年上映・「殤」:とむらう者のない霊魂の意)の書籍版を読んだ。[現在、映像そものを観られる機会は、同じく中国の亡命者へのインタビューで構成されるドキュメンタリー映画『亡命―遥かなり天安門―』(2010年)同様、ないとのこと]。そこでは厳しい内省の姿が描かれている。

香港人との表現が象徴するように香港問題は多くの香港人を、外国人を覚醒化し、先日の台湾での総統選挙も複雑な台湾の現在の様相が顕在化した。
韓国は南北問題で見通しが立っていないように思え、北朝鮮は唯我独尊が如く猛進している。
そして日本の大国指向は、小国主義志向を善しとする私には、到底考え及ばないような展開が随所でなされ、落胆と絶望、不安が襲っている。
やはり東アジアの基層にある心[精神]を静かに問い直す時ではないか、と『日韓・アジア教育文化センター』の事績を振り返り思う。

コロナ・ウイルス問題も、世界各国が胸襟を開き、叡智を集め、一国主義に陥ることなく原因を解明し、他者への敬意と謙虚さをもって共有して欲しいと願う。

私自身はアジアの心を考える東に息する一人として、もう少し研鑽を積めればと思っている。



2020年3月16日

多余的話(2020年3月)  『春なのに』

井上 邦久

仮住まいでの生活も一ヵ月になろうとしている。
スーパーマーケットやクリーニング屋の選定も終わり会員カードを利用している、というか巧く絡み取られる日常が始まっている。南茨木駅まで徒歩20分の道にも慣れてきた。桜通りの蕾も膨らみ、あと一週間という開花予想を裏付けている。神戸の研究会から報告要旨の文章化を求められ、大幅に手直しの指導を受けた最終稿を発信して二月を為し終えた。

それより前、2月20日から日経新聞朝刊の連載小説が中断した。伊集院静がクモ膜下出血で倒れたという報道が年の初めにあり、いずれピンチヒッターが出て来るものと想像していたが、ノンシャランなイメージとは異なり、書き溜めた原稿を一ヵ月以上分ほど残して闘病した様子。意外と言っては失礼ながらその精励ぶりに驚かされた。

夏目漱石をモデルにした『ミチクサ先生』の序章と云うべき段階までであるが、正岡子規との交流を核にした青春成長小説、自己形成小説(Bildungsroman)の趣を感じとっていた。二人を描く場合、どうしても正岡子規の個性が表に出てしまいがちなので難しい。同じ伊集院静が子規に光を当てた『ノボさん』(2013年・講談社)に重なり、また関川夏央作・谷口ジロー画『「坊ちゃん」の時代』(1987年~双葉社)のシリーズの世界も甦ってきた。
3月13日の報道では予後良好で自宅でのリハビリ段階に入った由。続きを読むのを愉しみにしているものの、ゆったりとしたペースでミチクサをして戻ってきて欲しいとも思う。

伊集院静は山口県防府市の生まれで野球にも秀でていた。義兄の高橋明(川上巨人軍時代の先発投手)の紹介で、長嶋茂雄に会い「神の声」に従って立教大学野球部に進むも故障のため挫折。

防府市に隣接する徳山市には一年年下の吉田光雄が町場の少年野球界で頭抜けた才能を見せていた。吉田光雄は岐陽中学時代に柔道二段、桜ケ丘高校ではレスリングで米国遠征、専修大学時代にミュンヘンオリンピック参加した後、プロレスのリングネームを本名から長州力とし、幕末志士風の束髪を靡かせながら強烈な「リキ・ラリアート」を炸裂し続けた。
中学生になったばかりの頃、徳山小学校から続いて同級生だった吉田光雄に「なんで野球を続けなかったん?」と訊ねたら、「バカだな~。優等生は何も分かっちょらんな。学校の柔道着はタダ、あとは俺の身体だけ。道具に金が掛かる野球は坊ちゃんの遊び」と言われた事を思い出す。

伊集院静と長州力とは同郷同世代でもあり改めて思いを綴りたい。

伊集院静にはリハビリの先輩でもある長嶋茂雄と篠ひろ子令夫人に従順であって欲しい。そしてゆっくりミチクサをしたあとで、人生論をベストセラーにするのもいいけど、できれば故郷・野球・女性のことをもっと綴って欲しい。

同郷同世代といえば三十歳前に営業部へ転属となった時のK元部長が逝去し、日を置かずして野村克也が冥界に去った。二人は京都北丹後の府立峰山高校の出身。学年が一年下の野村は野球の才には秀でていたが、幼くして父親を亡くし貧しい生活の中でグレ気味で、ペシャンコの帽子で虚勢を張っていたとのこと。一方、登校せずに割烹で昼間から酒を呑むこともあったというKさんも成績は良かったものの品行は決して褒められたものではなかったらしい。しかし、野村後輩には喝を入れ説教を垂れたと云う。点取り虫の優等生タイプではなかったKさんの言葉には後輩も素直に頷いたのであろうか。

同郷の二人は大阪南部の球場と大学で基礎を作り、南海ホークスのテスト生は三冠王を獲得して監督まで上り詰め、商社に就職し強面な外観と奔放な行動で畏怖されていたKさんも専務取締役にまで昇進した。
営業の呼吸法を色々と教わった以外に、「Aへ進めとの指示があったら、Aに到達できなくともaの方向には進め。間違ってもBやZには進むな。指示に対する理解力と洞察力とベクトルを揃える能力が試されているのだ」、「住んでいる地域も含めて豊かな人間関係を作る努力を早くから続けること。会社組織だけに拘っていたら豊かな人間性を育めない」といったことを大阪ナンバの呑み屋や銀座のクラブで語って貰った。

戦後の丹後縮緬ブームでガチャ万景気に湧いていた故郷のこと、その格差社会の底辺にいた野村少年のこと、十年後の帰郷の折に峰山駅でブラスバンドが歓迎演奏をしていて「まさか俺のためではないだろう、と訝る間もなく野村三冠王が現れた」といったエピソードを喋りながら、合間に語った人間洞察には社内での雰囲気とは随分離れた味わいがあったことを思い出す。 

二人とも歳上の女性と結婚し、先立たれて失意の時間を過ごしたことも共通している。Kさんが口癖にしていた「豊かな人間関係」を作るのは容易ではないという冷徹な事実を、身を以って知らしめてくれた気がしてならない。                   (了)

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
洗濯物がぬれるから 女はひきつった顔で わめきまわる ころびまわる
男はどうした事かと立ちつくすだけ 空の水が全部落ちてる 
(中略)
計画は全部中止だ 楽しみはみんな忘れろ 嘘じゃないぞ 夕立だぞ
家に居て黙っているんだ 夏が終わるまで 君の事もずっとおあずけ

                     井上陽水 『夕立』

2020年2月29日

多余的話(2020年2月)  『二月は逃ぐる』

井上 邦久

    足早に逃げる二月を追いかけて

 一月は往ぬる、二月は逃ぐる、三月は去る、と九州での子供時分に耳にしていました。遥かに牧歌的な時代の地方であっても,年初めの時間はそれなりに慌ただしく過ぎていたのかも知れません。それにつけても今年の二月は足早でした。

一つには同じ茨木市内の仮住まいへの引っ越しを前にして、15日までは神戸華僑華人研究会での報告準備に没頭しました。安井三吉先生や陳來幸会長を前にして晩学の者が『大阪港と川口華商』について報告しました。許淑眞名誉教授や二宮一郎先生から指導と激励を貰いながら準備に努めました。
昨春の川口居留地研究会にて、同じテーマで汗顔ものの報告を行い堀田暁生会長から「プロもアマチュアもない」、「新規発見が有るか無いかだ」、「ただプロの練度に学びなさい」という寸鉄が肝に刺さったままの一年でした。
報告のまとめの小文を事務局に送って一区切りを付けましたが、「練度」不足を改めて痛感しています。今後とも大阪市西区や山東海商の故地をひたすら歩き、足と五感を頼りに練度を上げていきたいと思っています。

16日早朝から3日間、段ボール函との格闘に集中しました。ギックリ腰にならないこと、いくら懐かしい写真や本に再会しても立ち止まらないこと、この二点に留意して何とか仕上げました。
その労力の結論は、何と多くのガラクタとツンドク書と同居していたのかという自戒の念でした。此処での若干の自己弁護としては、ほぼ40年にわたり国内外での仮住まいや出張という渡り鳥生活をしてきて、棚卸はせずに仮置きを繰り返してきた挙句の結果だと言う事です。

祖父の形見の陶器(ドイツ製ビールジョッキ)と伯父の遺した文学全集は散逸しないよう、米寿を迎えたばかりの母親に預かって貰いました。二人が愛読した『美味求真』シリーズ(木下健次郎・1925年)は手元で保管を続けています。

最寄りの駅は阪急京都線の南茨木で一昨年6月の直下型地震で壊れた駅舎の工事が続いており、階段歩行を余儀なくされています。仮住まいから徒歩20分の駅までの道は、茨木名所さくら通りと交差しているので、もうすぐ花見をしながらの朝の道や夜桜お七と花見酒の夜の道を楽しめそうです。

震源の摂津の春の仮住まい

 毎月第4水曜日は大阪市本町での「華人研」の例会日です。2月は1年半ぶりに三村光弘氏(環日本海研究所主任研究員)を新潟から迎えてお話を聴きました。世の中が今頃になって俄かに新型肺炎の対策を声高に叫び出したこともあり、講演後の立食交流は取りやめ、その時間を質疑応答にゆったり充てました。早い段階での参加申込が多く、広い会場を確保して貰ったのでスペースもゆったり取れました。
三村氏がプロの眼と足と五感で蓄積された北朝鮮についての内実開陳には、新鮮な啓発が多く、周辺諸国の実態説明を通して中国や北朝鮮の立ち位置が自ずと浮かび上がってくる構成でした。そして更には日本を合わせ鏡のように照射する多層的なお話を聴きながら、ついつい三村氏の眼を通じての朝鮮半島像が自分の眼で見てきたような錯覚に陥りそうで自戒しました。

昨年末、中国から新型肺炎の情報が洩れてきてから注視していましたが、中国政府衛生部からは1月20日まで正式公告は出ておりませんでした。
武漢三鎮は長江(揚子江)と漢江が合流する要地として古くから栄えた土地、四川盆地と上海を長江が東西に結び、長江に架かる武漢大橋により北京と廣州が南北に鉄道で繋がった、言わば中国の大動脈の十字路に位置します。それだけに人の移動による影響の大きさを危惧していました。
時はあたかも春節の直前、中央幹部は外遊をするのが習いであり、地方幹部は繰り返される新春歓迎会などに出演してテレビで報道される時期。その直下で感染は各地に蔓延して潜伏していたと想像します。

先月に綴った『軟禁』事件のあとに更に強まった「無かった事にすれば、事は無かったのだ」という隠蔽体質と一強体制が人災を世界規模にしました。

            一穴で大河の流れ変わる春

 二月の逃げ足ははやく、失った命を取り返すことができません。

2020年2月2日

「アジアン・インパクト」 《Ⅰ》 日本語教育の可能性

井嶋 悠

1か月余り前になるが、東京都庭園美術館で開催されている美術展に行った。東京都区内目黒駅から徒歩10分ほどにある。
東京は、疲労困憊する街だが同時に不思議な魅惑に満ち溢れている。文化に係ることでないものはないと言っていいほどに魔性溢れる街だ。と言う私には年齢もあって住む気力はない。
限られた都区内の都市空間、東京大空襲からも再興し、随所にある自然と芸術の総合空間。この庭園美術館もその一つである。

これらの多くは、江戸時代の高級武士や明治時代の宮家の賜物で、時代が時代なら私が如き平民が立ち入れるところではない。ありがたいことである。格差、貧困問題の現状にあって不謹慎との誹りを免れ得ないかとも思うが、高齢者割引料金で半額の500円は、あの爽やかな時間、しばしば見かける芸術を身構え、知を誇るかのような時間ではなく、自然態で浸る時間ならば決して高いとは思えない。
作品群を気の済むまで眺め、庭園の椅子に身と心を委ねれば、2時間、3時間は瞬く間だ。
高齢化時代の昨今、芸術、自然鑑賞体験の高齢者は甚だ多く、そんなゆとりの時間の競争率は激しいが、今回は幸いにも訪れる人は少なく、心和む時空間となった。

美術展の主題が『アジアン・インパクト』、副題が『―日本近代美術の「東洋憧憬」―』である。
1910年前後から1960年前後までの間で、古代中国・朝鮮(李朝)の諸作品に影響(イン)衝撃(パクト)を受けた何人かの日本人作家と、アジアを幻想する3人の現代日本人作家の作品が、以下の主題に基づいて展示されている。

 Ⅰ  アジアへの再帰 
 Ⅱ  古典復興
 Ⅲ  幻想のアジア

作品分野は、絵画・彫刻・陶磁器・漆工・竹、藤工藝にわたる。

私は在職中、校務で欧米、アジアの幾つかの都市に出かけた。訪問は一都市長くて2日前後であって、都市の一部分しか体験していないが、思えば幸いな機会であった。欧米の場合、どこか気構える私があったが、アジアは、まるで里帰りするような心持ちを何度も経験した。言葉[現地語]が分からないので、一昔前の読む書く中学高校英語を思い出し会話を図るのだが、欧米の場合、顔がこわばっている私がいて、アジアの場合、親愛的になっている私がいる。
アジアとの響きは私を心落ち着かせる。なぜなのか、おそらくアジア人のアジア人への甘えなのだろうが、未だによくわからない。ただ、それを追いかけていくと、何かがあるようにも思える。
その際、これまでの中高校国語科教師からの日本語教育と【日韓・アジア教育文化センター】の活動体験が、考える具体的契機となるように思い、今回の副題とした。

2006年、【日韓・アジア教育文化センター】主催で、「第3回日韓・アジア教育国際会議」を、特別講師に韓国の池 明観[韓国の宗教政治学者。1924年生まれ。1970年代の韓国民主化運動に携わり、「T・K生」の名で、日本にも発信し続け、後に『韓国からの通信』との書名で岩波書店より刊行]先生を招聘し、上海で開催した。その時の3日間の会議内容[項目]は以下である。

  特別講演「東アジアの過去・現在・未来」 池 明観先生
  東アジアでの日本語教育の現在 
           [韓国・上海・台湾そして日本の役割]
  日本の高校での国際理解教育
  上海日本人学校での国際教育
  東アジアでの海外帰国子女教育

同時に、上海・香港・台北・ソウルから各1名、日本から3名の、計17名による高校生交流を実施し、共通語を日本語とする彼ら彼女らの姿をドキュメンタリー映画として制作した。題名は『東アジアからの青い漣』(制作者:日本の2人の映像作家)

私たちは、アジアそれも東アジアにこだわった。東アジアに生を享けた者として、アジアを、世界を東アジアから考えてみたかったからである。
東アジアの底流に流れる心を見出すことは可能なのか、可能ならば今もそれを共有し得るのか。その時、日本語教育はどのように機能し得ているのか。

尚、東アジアは東アジアで、東亜ではない。東亜を名称に入れた組織関係者には申し訳ないが、私の中で東亜は大東亜につながり、私たち先人の過去の過誤と重なるからである。
旧知の韓国民団長の「大東亜共栄圏は、その理想にあってはよかった」との言葉も、一応肯定する私ながら、その理想にあっては、ということ自体に日本の純粋性があり得たのか甚だ疑問であるからである。机上の空論としての観念論であったのではないか、と或る自省からも思う。
いわんや現代東アジア情勢に身を置く一人としては、である。

展覧内容に戻る。
先に記したように、展覧会の意図は既に記したが、展示作品、作家は例えば以下の作品群である。ここに取り出す人々は、私の中でとりわけ心引き寄せられた作品の、それも数人の作者である。

Ⅰ.アジアへの再帰における、
雲崗の石窟と日本画家川端 龍子(りゅうし)(1885~1966)や杉山 寧(やすし)(1909~1993)、チャイナドレスと洋画家岡田 謙三(1902~1982)、静物画に採り入れられたアジアと陶芸家バーナード・リーチ(1887~1979)や洋画家岸田 劉生(1891~1929)といった人々の作品

Ⅱ.古典復興における、
中国古代青銅器と鋳造工芸家高村 豊(とよ)周(ちか)(1890~1972・詩人高村 光太郎の弟)、中国陶磁器と陶芸家石黒 宗麿(1893~1968)や中国五彩陶器と富本 憲吉(1886~1963)、また竹工芸家飯塚 琅玕(ろうかん)斎(さい)(1890~1958)、李朝白磁さらには日本の民藝運動ともつながる陶芸家河井 寛次郎(1890~1966)、古代中国漆器と漆工芸家松田 権六(1896~1986)といった人々。

Ⅲ、幻想のアジア
私にとって現代美術は、具象であれ抽象であれ、作者自身の或いは研究者等の解説があって初めて得心への道程となるほどに困惑することが多い。感性と想像力が、それも原初的なそれが、決定的に足りない。ついつい頭で見てしまうのである。観念的になり過ぎてしまう私がいる。作者の説明を読まない限り、アジアがどこにあるのかもわからない。
例えば、こんな風だ。3人の内の一人、山縣 良和(1980~)氏の政治性をもった『狸の綱引き』など。

この展覧会の意図は中国また朝鮮の美術の日本人作家への影響としての「インパクト」を確認し、そこから生ずる中国・朝鮮美術への憧憬を顧みるということなのだろうが、それだけとは思えない。

主催の庭園美術館長の樋田 豊次郎氏は、本展公式書の「はじめに」で次のように記している。

―こうした東洋憧憬は、一九六〇年頃に作品制作の表舞台からフェードアウトしますが、日本美術の根底ではいまも生きつづけているように思われます。―

そして、第Ⅰ部を『アジアへの再帰』とする。
更に樋田氏の言葉を借りれば、「アジアの古典を振り返りつつ西洋化を目指した〔再帰的近代化〕」ということなのだろうが、私はここでの「再帰」との言葉に眼を留めたい。近代化胎動から150年の今日、再度アジアを、その源泉源流に思い馳せる意義を思うのである。その時、私たちの眼前に在るのは先ず東アジアである。
とりわけ若い世代(10代後半から20代前半にかけての青年たち)が探索することで、例えば上記会議で大人たちが発した内容にどう応えるのか、それが、ドキュメンタリー映画の表題を『東アジアからの青い漣』とした思いである。

なお、会議中センターの中国側委員からあった、日本語―韓国語―中国語の高校生による相互通訳の試みと実践は、この会議の豊かさを思わせることとなった。

故きを温(たず)ねて新しきを知る、人間が人間である限り永遠の真理であり課題である。会議を主催した一人として、映画制作に関わった一人として、アジアを、東アジアを再考し、私の言葉を少しでも紡げられたらとの思いが今も残る。

2020年1月24日

多余的話(2020年1月)  『軟禁』

井上 邦久

サンフランシスコの次は南京ではなく、軟禁のことです。
去年今年貫く棒の如きもの、虚子の句を高校生時分のようには実感できずまさに虚しく歳が暮れようとしたところに、Carlos Ghosn has goneの報せ。そして、NHKでは中国関連のドラマやドキュメンタリーが続きました。

『趙紫陽 極秘回想録』 天安門事件「大弾圧」の舞台裏!
                           趙紫陽 

パオ・プー(鮑樸)/ルネー・チアン/アディ・イグナシシアス
河野純治=訳 
            光文社 2010年1月25日 初版第一刷発行

 1989年6月、全ての職を解かれてからも「党の処分を決めるための審査上の必要性」という理由で北京市内の自宅に拘束され、2005年1月17日死去するまで16年間の軟禁生活が続いています。

 2000年から2003年、監視要員に悟られぬよう、家人に累が及ばぬよう秘かに、全録音時間30数時間の口述記録をカセットテープに残し、信頼の置ける人たちの手で香港へ分散して持ち出されたとのこと。それを基に編集出版されたのが上記の本であり、ちょうど10年前に日本語版が出されています。 
「趙は録音前にメモ書きを用意していたために、語りも、論理もしっかりしていた」「父親(鮑彤・趙紫陽の最側近)の関与がなかったら、この本の出版は無理だったであろう。彼がテープを聞いて全文をチェックし、順序を入れ替えたりした」(中国語版出版元、英語版からの翻訳に当った鮑樸の言葉

経緯や時代背景は、巻末の日暮高則氏の解説に詳しく、NHKのドキュメンタリーも概ね上記の本、ということは趙紫陽の肉声を録音したテープに基づいて制作されていると思います。

 1992年10月8日、党中央は趙紫陽を中南海に呼んで審査の終了を宣言したが、それでも趙の自由回復はならなかった。ただ、これ以降の自宅軟禁について、当局は理由も提示せず、また実際に根拠をみつけることもできなかったのである、との記述もあります。

まさに多余的話で恐縮ですが、「改革開放」という言葉の使い方について個人的なコメントを繰り返します。
趙紫陽失脚以降に言われるところの改革開放とは、経済改革であり政治改革ではなく、対外開放であり対内開放ではないことを改めて感じます。

昨年の晩春、制作に携わった人が思いつめた感じで「自らの半生をかけて作ったので是非見て欲しい」と伝えてきました。そのバージョンでは、趙紫陽の遺骨が自宅に留め置きされたままにされている画像と埋葬の許可が下りないというナレーションがありました。
昨年の夏に夫婦一緒に埋葬されたとの報道があり、年末の拡大版でも一族や友人が埋葬に立ち会うシーンが映されました。また拡大版にも事件当時広場で学生と接した趙紫陽に、温家宝(当時は中央弁公庁主任)が緊張した表情で拡声器を指し出す姿が画像記録されてました。

 1月26日(日) 14:00-15:50 NHK BS1で 「NHKスペシャル」/「証言ドキュメント 天安門事件30年」の拡大版が「再・再放送」の予定との案内を貰いましたのでお伝えします。
なお、大陸に住む友人たちには番組の案内や拙文を不用意に届けると迷惑をかけるので注意します。

趙紫陽が軟禁されていた当時の北京には何度も仕事で行きました。すぐ近くで高濃度PM2.5含有の空気を共有していた事実、そして軟禁が続いた時間の長さを改めて感じています。
現在こうしている時にも、カナダで拘束されようやく審理が開始された華為技術(HUA WEI)副会長・CFOの孟晩舟氏やレバノンで咆哮(彷徨?)している人のことも連想しています。
また、高齢の鮑彤が今日も北京で軟禁状態にある事実は、歴史が現在に繋がっていることを意識させます。

                         (了)

2019年12月26日

多余的話(2019年12月)  『サンフランシスコ』

井上 邦久

 先月は1951年のサンフランシスコ講和会議を持ち出して、made in occupied Japanの世代であることを伝えました。
その年の紅白歌合戦では紅組のトリとして渡辺はま子が『桑港のチャイナタウン』を唄っています。桑(中国語ではsang)港と日系人・日本人は呼び、中国人からは旧金山と呼ばれるSan Francisco。1849年のゴールドラッシュの頃、多くの中国人移民が西海岸に赴き(或いは無理やり連れていかれ=小文字のshanghai)、鉄道建設などに従事した頃は金山と呼ばれ、その後にオーストラリアで金鉱が発見されてからは旧金山となったとか(新金山はメルボルン)。
続いて大リーグのSFジャイアンツのメイズやセペダなどの名前を語りだすと、歌謡曲・中国語・野球というお定まりの「多余的話」の転落コースに陥ります。

これを綴っているのは聖夜であり、信者は祈りをする頃ですので、少し敬虔な口調で別方向からSan Franciscoを語ってみます。  
二年前、イタリア映画『法王になる日まで(原題Chiamatemi Francesco ll Papa dellagente)』を観ました。バチカンから最も遠い位置にいたアルゼンチン国籍のベルゴリオが法王になる実話に基づく良質な作品でした。
イエズス会で修業を積んだ若い日「日本へ行きたい」と呟くシーンが印象的でした。
軍事政権下の複雑な環境を生き抜き、ドイツで覚醒し、アルゼンチンに帰国した後は異例の昇進を遂げて、ついには延々と続く「コンクラーベ(根比べ?)」投票を経て2013年に法王に選ばれるまでを描いた作品に感銘を受けました。
16年前からローマ特派員としてバチカン取材を続ける郷 富佐子さんの2005年のベルゴリオに関する取材ノートには「若手神父らに『教会の外に出ろ』と勧め、貧困地区の活動に力を入れるばりばりの現場派。ブエノスアイレス大司教ながら移動はバスや地下鉄。食事は自炊」「弱点はイエズス会。社会問題ではリベラルで、保守派官僚との衝突は必至」と記録されているとのこと。
さらに具体的で詳細な行動については「初代聖ペテロから数えて266代目となる教皇フランシスコは、約2100年の長い歴史の中で生じた教会内の腐敗を一気に改革しようとしている。」というインパクトの強い冒頭の一文から始まる 松本佐保『バチカンと国際政治 宗教と国際機構の交錯』(千倉書房2019)の 第7章「教皇フランシスコの闘い」に明解に記述されています。

地球環境問題への挑戦として、2015年の世界的な気象・環境学者とのシンポジウムから3週間後に発表された回勅ラウダート・シは「宗教と科学との融合」として衝撃を与え、「地球と貧者の叫びを聞きなさい」の一文はモラル・ボイスとして広まった由。
これに対して米国共和党の有力者から「我々はカトリック信者なので教皇を敬っているが、それは宗教的にであって、教皇といえども環境問題については素人の筈だ」と語ったことを受け、フランシスコは「この回勅は環境問題の専門家である多数の科学者のアドバイスを受けており、私自身も化学の修士号を持っている」と反論した、という段落を読んで、その当意即妙のやり込め方に感銘を受けました。  

日本滞在中も同様のアドリブやジョークが多く報道されましたが、広島での 「核兵器の保有も倫理に反します。それは2年前にすでに言った通りです」というスピーチは原稿にはないアドリブであったようで反響を呼んでいます。
前述の郷さんも、「被爆地で核兵器の使用も所有もモラルに反すると言った。『平和』という究極のモラルに向き合い、だれにも忖度せず、真っ当な主張を堂々と説いて回ったことが今の日本ではとても新鮮に映ったからかもしれない」と締めくくっています。  
それより先、山口英雄・大ローマ布教所長はヴァチカン便り・41号(Glocal Tenri Vol。20,No.12) に「31度目の司牧の旅へ」と題した文章を寄せました。
教皇が2019年9月4日から10日までモザンビーク・マダカスカル・マウリティヌスを巡ったことの報告でした。4回目のアフリカ訪問を果たし、暴力がいかなる集団にも未来をもたらさないこと、若者を鼓舞して、貧困者に近づき協調すること、とりわけ宗教者は地に足をつけ、活動することだと述べた由。
そして32度目の司牧の旅が11月のタイと日本という仏教国への訪問でした。 バチカン市国のエリート官僚出身の前教皇は、たしかアジア・アフリカへは足を踏み入れていなかった記憶があります。伝記的映画の通りであれば若い日のアジア願望が揺らぐことなく具現化していることを感じます。
ただ、数年前から バチカン市国官僚と北京からの幹部が度々接触していることなど関係樹立の動きが漏れ聞こえてきています。
欧州で唯一台湾と国交を持つバチカン市国の面積は小さくとも影響力はとても大きいので注視を続けます。

長崎市でのミサに招待された韓国人被爆者一行が、福岡空港での入国審査で別室に移され5時間足止めされたとの記事を読みました。
「忖度」以前の「品性」の問題ではないかと呆れてしまいました。事ほど左様に、教皇の至極真っ当な言葉がとてもピュアに思え、新鮮に聞こえるのは、この十年の日本社会のなかで煤けた硝子越しに物を見ることに馴らされてきたせいかも知れません。
聖夜に「自らが変われ」という教皇からのメッセージが届きました。   (了)

2019年11月27日

多余的話(2019年11月) 『米と菊』

井上 邦久

今年も越前福井の友人から「いちほまれ」が届きました。
競走馬の血統図風に書くと、父親:イクヒカリ(越南176号・コシヒカリの孫) 母親:テンコモリ(富山67号・コシヒカリの曾孫)であり、 父系のもっちりした粘りと母系のきれいな粒を結合させた「いちほまれ(越南291号・コシヒカリの玄孫)」は、整粒率が70%以上、粒厚1.9mm以上、玄米タンパク質6.4%以下の基準に合格したものだけが称することができる、そして産地出荷以外の個人販売はないと説明書に書いています。  
新米を丁寧に研ぎ、硬め好みに合わせた水加減で炊きました。実に旨い米であり、削って削って酒にしたくない、千枚漬けや生卵の黄身といつまでも食べ続けたくなりました。

あたかも新嘗祭のころ。この天皇家の祭祀を行う11月23日を、敗戦後に勤労感謝の日と名付けた官僚は米国のThanksgiving Dayを意識したのでしょうか?
一昨年、ボストン近郊のプリマス港を訪ねた折に米国感謝祭起源に関する諸説を聞きましたが、先住民が餓死寸前の入植者を救ったことへの感謝という美談だけではなかったようです。たかだか400年前、1620年代の米国建国前史のお話です。
一方、日本でも出雲の千家と並ぶ古い家の一連の祭祀は、宗教的秘儀も含めて内々に身の丈でやるべきでしょう。

 越前米への御礼電話をした折、地元北陸の美男力士の遠藤が横綱白鵬のかち上げで流血したことに相撲好き(美男好み)の奥さんが 抗議の投書を出したとか、出そうとしているとかの話になりました。
NHKのアナウンサーは「荒々しい相撲で白鵬が勝ちました」と表現した一番を観戦していて、白鵬の姿が隣国の習近平政権にダブりました。実力権力に自信を失くし、勝ちにこだわる姿勢が「荒々しい、或いは粗々しい手段」を選ばせているのではないか?
吉岡編集委員は香港のベテラン記者の弁として「習近平政権はあいまいさを許さない。敵と味方に二分する手法は文化大革命の時代を思わせる」と伝えています。(「金の卵」を恫喝するな:朝日新聞「多事奏論」より)  
一方で、アリババの香港株式市場への上場が迫っています。公募価格が決定し、1.2兆円の調達見込み。機関投資家を中心に募集の5倍の申込の由。2014年にニューヨーク証券取引所に既に上場済みでありながら何故? 深圳でも上海でもない株式上場は何故? 八月に不穏な状況を理由に挙げて香港上場を見合わせたのが何故今になって? 
北京とアリババにとって政治的・経済的な計算は?・・・ 香港は恫喝しようと恫喝されようと、やはり「金の卵」なのでしょう。  

日韓の摩擦が一息入れました。些か旧聞に属することなので恐縮しながらこの機に綴ります。
文大統領が日本に対して「盗人猛々しい」という表現を含む発言をしたと報道されたことを受けて、8月18日付の日経文化欄に掲載された宮下奈都さんの「言葉という生きもの」を読み返しました。
チョクパンハジャン、漢字で表現すると「賊反荷杖」で、「居直る」という意味合いのハングルを「文大統領がどんな意図で選んだのか、わからない。まるで日本を『盗人』と呼んだかのような誤解を招きかねない訳にした新聞やテレビの意図もわからない。わからないところにロマンがあるとは、私にはとても思えなかった」と綴った言葉・外国語・翻訳・文化に関する根源的な問題提議の文章です。
宮下さんは福井出身であり、越前米同様にふっくらした文体でしっかりした意思を伝えてくれる文章家です。  

再読と言えば「2018年8月25日、白井聡」と著者サインを貰った『国体論 菊と星条旗』(集英社新書)を一年ぶりに手にしました。
・・・「アジアの先進国は日本だけでなければならない」という、戦後の「平和と繁栄」という明るいヴィジョンに隠された暗い願望がある。それは、明治維新以来の日本人の欧米に対するコンプレックスとほかのアジア諸国民に対するレイシズム(人種差別)の表出に他ならない・・・ (第二章 国体は二度死ぬ 50頁)  

10月号で触れたおたふく手袋㈱が設立された1951年10月19日には日本製品はMade in Japanとして輸出はできず、Made in occupied Japanと表記する必要があったことを各処で話しています。
1951年9月のサンフランシスコ講和会議、条約締結、そして1952年4月の条約批准発効を待って日本は独立、晴れてMade in Japanと表示できるようになりました。
時の吉田茂首相が新生国家を代表して各国の外交代表や日本を代表する文化功労者らを招いた第一回「櫻を観る会」を開いたのも講和条約発効の年の四月でした。                                     (了)

2019年11月1日

多余的話(2019年10月)  『序に代えて』

井上 邦久

 長年にわたり拙文を編集してくれた方から、そろそろ自分でおやりなさい、と言われ製本を試みた文集をお届けします。 ご笑覧いただければ幸いです。

中国駐在のころから一貫して読みにくい悪文を綴ってきました。現地当局の 翻訳官を解読不能にしたいという企みが悪癖となり、日本の方にも文意が通じにくい綴り方が続いています。
駐在中はメディアには載らない現地情報や熱門話題が中心でしたが、帰国後は身辺雑記や個人的趣味の話が多くなりました。
もし卑近な事柄を通じて中国そして世界につながる発想を維持できれば幸いだと思っています。

この一年はずいぶん騒々しいことであった、と改めて感じます。
従来から西暦末尾に「9」が付く年は物騒なことが多発しているなと思っていたところ、ジンクス通り香港・カシミール・ウイグル・中東で困難な問題が起こり、多くの国で内向きの強権思考に陥っているように思います。
為政者の物言いや姿勢が自分勝手でゾンザイになっていることを感じます。 白を黒と言い含め、黒を白と偽るような、筋の通らぬことばかり・・・ 学生時分に流行った鶴田浩二の状況的な唄を思い出しています。
そんな中で『上海の戦後(1945~1949)』が8月に発売され、編集委員のご好意でグレーゾーンに光を当てた拙文を載せて頂き嬉しく思いました。 
(2019年双十節) という小文を表紙と目次に添えて、昨年11月の『11月3日』から本年9月の『望郷』までを冊子にしてもらいました。まず、恩師への近況報告として届けます。
また副教材として学生に配布し授業で使います。また、毎月パソコンで読むことが不便な方にも届けています。  
2009年から集中講座を受け持ち、駐在先から夏休みを使って帰国出講していました。そのテキストとして、一年分の拙文(「上海たより」「北京たより」「中華街たより」)を大学の研究室で冊子にまとめてもらっていました。
その名残で、秋に一年分を整理、修正を施し、併せて題材に因んだ画像を添付して冊子にしています。
誕生月でもある10月に冊子の発送が終わると一区切りがついて、過ぎた一年を振り返って軽い哀歓が湧いてくることもあります。  

この春から大阪商工会議所で中国関連の相談手伝いをさせて貰っています。大阪の産業振興の先達である五代友厚初代会頭や中興の祖の土居通夫、そして稲畑勝太郎の立像を見上げて商工会議所の玄関に入ります。
某日、本町橋を渡り堺筋本町に向かう途中「おたふく手袋」の大看板が目に入りました。
本町橋西詰にあるエクレアと珈琲が美味しい喫茶店「濱田屋」のビルの屋上に据えられていたのを長く見落としていました。おたふく手袋は子供の頃から馴染んだ老舗であり、お多福のお面の商標を堅持されています。しかしホームページを覗くと、ずいぶん若さに溢れた躍動的なイメージチェンジをされています。
看板設置場所が本店所在地であった事、昨年9月の台風で破損した事、改修に際し協議を経て従来通りのお多福のお面の看板を掲げた事を知りました。 そして創業は大正年間でありますが、敗戦後の会社設立日が筆者の誕生日と全く同じである事を知りました。
町歩きによる発見と言えるでしょうか。 !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

   

   多余的話     言わずもがなの記       Ⅸ          
                2018年11月~ 2019年9月            井上 邦久      
        Ku-inoue@mbr.nifty.com   

目  次

序に代えて   
2018年11月    『11月3日』
2018年12月    『犬も歩けば(serendipity)』
2019年 1月    『隔世の感』
2019年 2月    『空と風と星と詩』
2019年 3月    『修学旅行』
2019年 4月    『桜花春天』
2019年 5月    『4月30日、舞洲にて』 未採録
2019年 6月    『雲上快晴』
2019年 7月    『水無月』
2019年 8月    『新聞記者』
2019年 9月    『嘉風』