ブログ

2019年10月26日

日韓の“溝”を考える Ⅱ 『日韓・アジア教育文化センター』体験

井嶋 悠

先日、現在も悶悶(もんもん)とした中に在る[日韓の溝]について、『日韓・アジア教育文化センター』での20年来の交流で得た私見を投稿した。これはその続編で、やはりセンターでの貴重な体験が基にある。

前回の主点は二つにあった。 一つは、日本の植民地支配の歴史からの日本人である私の心の棘(とげ)で、もう一つは、韓国の『怨と恨の文化―その文化創造のエネルギー―』である。
後者は、韓国人学者たちの鼎談(ていだん)による『韓国文化のルーツ―韓国人の精神世界を考える―』(国際文化財団(韓国・ソウル)編・サイマル出版)との書に啓発されてのことで、例えばその中の次のような発言である。

――恨の「結ぶ」と「解く」は、喪失と回復に置き換えることができ、植民地化での母親喪失意識や祖国喪失意識、南北分断をテーマとした文学作品等に表われた故郷喪失意識である。(中略)絶対的状況に陥った原因が相手にあると信じて恨みを抱くのだが、同時に自分にも責任があるのだと、自己省察に戻る。これは相手を愛するがゆえの感情である。相手を恨みながら、同時に自分を恨むと言う愛と憎悪の感情。恨の感情が複合的なのは、絶望と未練、恨みと愛、この二対の感情が互いに矛盾しながら混在しているからである。――

前者について、言わずもがなではあるが、1910年の「日韓併合」からの36年間[より厳密に言えば、1905年の「日韓保護条約」からの41年間]の植民地支配の事実とその負の側面であり、これは一部で頻(しき)りに言われる「自虐史観」ではない。私の中では「自愛史観」である。

そして今回、この機会に私の歴史への疎(うと)さを補正しながら歴史の中で発せられた言葉を確認し、私自身の立ち位置を少しでも明確にさせたく投稿することにした。
1965年の『日韓基本条約』では、現北朝鮮の扱いが問題となったようだが、ここでは私の交流があくまでも現在国交のある大韓民国なので、韓国のみを意識して表現している。

人間は他の動物と違って様々な能力を有し、時代を切り拓き、歴史を創造して来た。そして今、100年前のほとんどの人が想像しなかった文明の恩恵に浴している。しかし、その主体者で創造者はあくまでも人間であって完全完璧(かんぺき)などあろうはずがない。従って創造された文明も歴史も完全完璧ではなく、必ずや瑕疵(かし)がある。私などその瑕疵の多さで私自身に辟易(へきえき)している。
日韓で馴染みの深い中国古代の思想家孔子は言っている。

「過(あやま)ちては則(すなわ)ち改たむるに憚(はばか)ること勿(な)かれ。」

過ちに気づけば直ぐに訂正せよ、それが徳のある人間らしい人間であるということだ。治者ならばなおさらその勇気が求められる。
もちろんここに日韓での、更には世界での別はない。

私が最前提として確認しておきたいことは、明治時代1900年前後での日本の「征韓論」に始まり、1945年韓国「光復説」に到る対韓国40有余年の歴史の是非である。瑕疵の大元(おおもと)になることである。
そうでなければ、次のような日本の首相[内閣総理大臣]による、閣議決定を経た公的談話による謝罪があろうはずがないからである。そしてこの談話は、現在も引き続き継承されていることになっている。
それは、1995年8月15日、時の総理大臣村山 富市氏より出された『戦後50周年の終戦記念日にあたって』とのいわゆる「村山談話」である。その一部を抄出する。(抄出に際し一部改行している) なお、その文中で村山氏は終戦ではなく「敗戦」と明確に使っている。

――とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。 政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、(中略)また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。(中略) わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤(あやま)ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。―

ここで言う「支援する歴史研究」とは、善政もあったとの「も」を使う歴史研究ではなかろう。その上での信頼関係の構築でなくしては、非統治国民にとっては単なる政治言語による美辞麗句に過ぎない。そうでないからこそ「戦後処理問題」について「誠実に対応」するとの言葉が強く響いて来るのではないか。
また、「わが国は」以下2行での表現の率直さ、厳しさに、戦争を知らない世代であっても素直に同意したいし、「疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し」に、強い説得力を持っていると信ずるのである。
この談話を、談話の30年前1965年『日韓基本条約』と切り離して考えることはあり得ない。 しかし、2019年の今、日韓関係はこじれにこじれている。なぜか。
条約成立過程での日韓での意思疎通はどうであったのか。互いに国民の総意を得て条約成立に到ったのか、だからその問題は解決済みととらえ、こじれること自体に疑義を投ずるのか、それとも双方で或いは一方で、確かな相互理解、信頼が不十分であると思っているのか。
現日本政府は「完全かつ最終的にして不可逆的」に合意したことを議論の前提に置いているので、慰安婦問題であれ、徴用工問題であれ、これらの要求は国際道理・倫理にもとるものであるとし、共通理解が成り立つ最基盤さえない。 そうであるならば、どうすればこじれた糸を解(ほぐ)すことができるのか。

そもそも私たち日本国民は、日韓間に関してどのような歴史[近現代史]を共有しているだろうか。
一般書店の雑誌コーナーで度々見掛ける「嫌韓」「反韓」の歴史なのか、それとも真逆にある朝鮮への蔑視、植民地支配を謙虚に受け止める歴史なのか。
例えば、植山 渚氏著『日本と朝鮮の近現代史―「征韓論」の呪縛150年を解く―』の推薦文を草した歴史研究者渡辺 治氏の「共有するべき常識を示し、同時に私たちがいま、国民的に論議すべき問題」との考え方があることをなぜマスコミは報じないのか。
学校教育、とりわけ小中高校教育、では近現代史はどのような視野で教えられているのであろうか。
文明開化や殖産興業と併行して、例えば征韓論の意識的無意識的背景に福沢諭吉が、その著『脱亜論』の中で言う「朝鮮・中国=悪友」があったことはどのように言及されているのだろうか。

今、両者に和解点はまず見い出せない。それでも和解点を見い出す社会的合意の形成に向かわない限り、両国の対立は不毛なままで、結局は時が流れ、次代に委ねるとの責任回避、無責任に堕する、その繰り返しではないか。

では、日韓基本条約が成立した1965年とは、両国にとって一体どのような時代だったのか。
条約は、1965年6月22日に調印された。しかし、その成立過程を知る時、非常に複雑な思いに駆られる。 まず日本。12月に発効する直前に強行採決で成立している。次に韓国では、調印1年前から反対デモが激しくなり、非常戒厳令が出される中で調印され、8月には野党議員が総辞職し、与党のみで単独承認されている。
両国とも余りにもいびつな過程を経て調印、成立に到っている。これを、国政選挙で選ばれた国会議員によるものだから、多数決の暴力ではないと言い得るか。私には言えない。何となれば、選挙時の争点に「日韓基本条約」があったとすれば言いづらさが残るが、そうでなければ、更には国と国の間と言う新たな大きな問題を強行採決するのは、民主主義の根幹に係ることであるから。
では、この条約成立に向けて、それほどまでに急がせたのはなぜなのか。 そこにアメリカと日韓の経済の影が見えて来る。 アメリカのベトナム戦争への過度の介入と1965年2月韓国のベトナム派兵問題。
そしてそれ以前に韓国は、1950年からの3年間、半島を、民族を分断する朝鮮戦争(動乱)を経験している。
その時日本は、各地が、焼け野原と化した敗戦からわずか20年の1964年前後に高度経済成長を遂げている。これは朝鮮戦争特需と日米安全保障条約があったからのことである。

このような歴史を前にして、人間が歴史を創って行く、創って行かざるを得ない?虚(むな)しさと哀しみまた寂しさを思う。
私はここにおいて、日本は2000年来の交流を重ねる隣国、一衣帯水の国、韓国との未来の出発点とするために、明治時代から1945年及び1965年までの歴史事実を前提に、「日韓基本条約」に対して日本の首相・韓国の大統領をはじめとして社会的要職にあった或いはある人物がどのような発言をしたのか、『事実』を国民に整理し示していただきたいと願う。
私が調べただけでも、日韓で“揺れ”が多い。 このような願いは、その都度見解を述べて来たとする統治者からすれば、私の国民としての義務の怠慢との誹(そし)りを免れ得ないとは思う。
しかし、日本の植民地支配と侵略の傷の深さは、その先人の後を継ぐ「戦争を知らない」世代の一人としては重過ぎる。慰安婦問題、徴用工問題、サハリン残留韓国人問題、韓国人原爆被害者問題、徴兵での軍属従事と戦後の国籍及び補償問題等々、そしてこれらは条約と個人請求権や国際法の領域にもつながって来て、かてて加えて三権分立と国家、国家間と、余りにも問題が多岐で専門的過ぎる。

マスコミは、人々に事実を知らせると同時に、その事実が備え持つ経過を人々に、わかり易く知らせることも重要な職責であろう。その時、マスコミ事業体の自由な個性があって然るべきで、そこから諸情報を統合、総合して謙虚に己が判断を持つ自覚も生まれる。

先日、日本の前外務大臣が、韓国の駐日大使を召喚しての会話中、大使の言葉を遮(さえぎ)って「無礼だ!」と叱責した。ここに到る歴史経緯及び相互理解のための公人の会話として、許容されるのかどうか私たちはどれほどに考えたであろうか。場合によっては、世にはびこる「ヘイト・スピーチ」と同次元に堕する可能性もある叱責である。そしてその大臣は新内閣で別の大臣となり、何もなかったように時は移ろいで行く。

民間交流の有用性は言うまでもないことだが、私たち『日韓・アジア教育文化センター』での交流体験から、私たちの非力を受け止めつつも、或る限界を感じたりする。 それでも、多くの日本人、韓国人、中国人、香港人、台湾人の協力により、交流を重ねて行く過程で、教師間に、生徒間に篤い友愛は確実に生まれた。
そんなわずかな体験ではあるが、「親○」「知○」「克○」「反○」「嫌○」と言っている間は、相互信頼は生れないと実感的に言える。それらの言葉を越えたところに確かな、真の、しかも自然な信頼がある。
これは、古代中国の思想家の言葉を借りたまでのことである。
その意味からも、先に引用した韓国の国文学者の「愛と憎悪」に係る発言の意味は重く深い。 と同時に、 日本人学者が言う
――「併合」と言う用語は、韓国が「全然廃滅(はいめつ)に帰して帝国領土の一部となる」意味を持たせて作った新語であった。したがって「韓国併合」は「韓国廃滅」の本質を隠蔽(いんぺい)した用語であった。―― [君島 和彦氏「韓国廃滅か韓国併合か」『日本近代史の虚像と実像 2』所収] が、
日本を愛するが故の言葉としてどれほどに受け入れられるか、真摯に考えるべきことと思う。

言葉は、人を天に翔(か)け昇らせるほどの生を、一方で心臓を一刺しするほどの死を与える。ここまで記して来た人々の言葉は、それぞれ嘘偽りのない言葉のはずである。それらの言葉をどのように受け取るかは、それぞれに委ねられている。自問し、自答しなくてはならない。 今日の日韓の溝を前に、前回、日本語を指導する韓国人、韓国語を指導する日本人、への期待に触れた。他者に期待する前に私自身はどうなのか。前回から今回へ、私の内にあっては、問題の全体像が鮮明になったと思っている。機会を見出し、深みへと自身を導けることを思う。

2019年9月18日

多余的話(2019年9月)    『望郷』

井上 邦久

 アジアモンスーンの蒸し器の中で精神修養をしているような暑さから一転して、朝の風を爽やかに感じました。
そして、その夕方に元関脇の嘉風の引退が伝えられました。夜、相撲番付を見ながら随分と細い文字になってしまった西十両七枚目の嘉風雅継の名も今場所で見納め、併せて大分県出身の関取が居なくなることに寂しさを感じました。
大分県佐伯市出身、県立中津工業高校から日体大に進学し、教師になるつもりだった小柄(といっても身長177㎝)な大西雅継青年は角界入り後、新入幕から59場所(10年)かけての関脇昇進は史上二番目の遅さ。「真っ向勝負・飾らぬ姿」で「年齢を重ねるごとに歓声が大きくなった」力士になりました。

同じ中津工業高校出身に中日・日ハムで活躍した大島康徳さんが居ます。
39歳10か月、2290試合を要して2000本安打に辿り着いた遅咲きの選手と言われています。43歳で打率3割、22打点を残しながら戦力外通告を受け引退しています。      
番付表を精読後久しぶりに個人ブログ『ズバリ!大島くん』を検索しました。『ガンでも人生フルスイング』という著書の題名どおり、手術後もNHKに出演し、明るい笑顔と軽妙な豊前弁で語り掛ける大島くんの日常を覗けます。
大島少年の才能を地元の相撲大会?で発見し野球部に勧誘したのが中津工業高校の小林監督でありました。その小林監督が立命館大学を卒業して社会科教師として赴任したばかりの頃、生家の井上茶舗の二階に下宿し、その家の軟弱な小学生を野球小僧に仕立て上げてくれました。
以来、高校野球の地方予選の報道が始まると真っ先に「中津工」の小さな文字を探しています。  

そんな故郷中津の赤壁合元寺の住職さんから盆前に頂いた便りに一冊の本が紹介されていました。檀家の一人でもある植山渚さんの新著『日本と朝鮮の近現代史「征韓論」の呪縛150年を解く』です。
小倉タイムス「街かど歴史カフェ」欄に連載された肩の凝らない短文が集成材かパッチワークのように交流史として構築されています。
「私たち日本人が態度決定する際に、少なくともこれだけは知っておくべきという、共有すべき常識を示し」(渡辺治一橋大学名誉教授の推薦文より)、150年前・100年前の交流や折衝そして葛藤が現在に繋がっていることを知らされます。  

折しも大阪開催G20でのモノ別れから始まる両国間の批判葛藤が「政治的断絶」→「経済的制裁」→「外交的齟齬」→「軍事的離反」へ向かい、止まらない汽車に乗ってしまったように関係が悪化した時期に重なりました。
植山さんの著作と経済産業省発表の安全保障貿易管理に関する通達を冷静に読み返すことが増えました。  

大阪高島屋での山口蓬春展で『望郷』を観ました。今回は小下図・小下絵そして本画を三枚並べて展示されているので制作過程がよく分かりました。
両極に棲むシロクマとペンギンが、同じ場所に居ることは自然界にはありえないことですので、この絵の成り立ちについての解釈には諸説あるようです。
ここは素直に上野公園での光景を描いたという説と、遠い故郷を思うシロクマとペンギンの淋し気な視線に『望郷』という画題を託したとの説を受けとめます。
1943年8月からの戦時猛獣処分対象にホッキョククマも含まれており、1942年から山口蓬春も南方戦線に従軍して戦争画を描いています。10年後の動物園でどんな想いで『望郷』の構想をしたのか?
また『望郷』といえば、今では湊かなえのベストセラーや映画が連想されるのでしょうが、高校の頃は黒板に『望郷』と落書きしただけで江田島海軍兵学校卒の高木先生や予科練出身の飯塚先生は機嫌よく反応して小半時、ジャン・ギャバン主演、植民地アルジェリアを舞台にしたフランス映画のエトランゼ気分方向に脱線してくれました。
なお、山口蓬春は小下図を名優中村歌右衛門へ贈り、小下画を後進の東山魁夷の新築記念に届けたとのことです。

前号『新聞記者』で触れた1931年に早世した北村兼子について、第一稿で命日を9月18日と誤記していることをご指摘いただきました。お詫びして以下に補足訂正させて頂きます。
 1931年7月6日 飛行士免許を得る     
      7月13日 盲腸炎の手術のため、慶応病院に入院     
            7月26日 腹膜炎のため死去。享年27歳。  
     8月2日  人見絹江、肺炎のため死去。享年24歳     
            9月18日 中華民国奉天(瀋陽)郊外の柳条湖 関東軍が南満州鉄道
                      線路を爆破                                                                                                                                                (了)

2019年8月19日

多余的話(2019年8月)  『新聞記者』

井上 邦久

・・・三都のうちで一ばん暑くて人と家とが詰って樹木の少い大阪は 九月になっても秋らしい気分が見當たらない。・・・

山がないから鳥も虫もゐない、虫はゐても南京虫では仕方がない、山はあっても天保山では八文にも通用しない。・・・街路樹はあるが煤煙で黒くなって春でも秋でも同じやうな色で、落葉しないのは常盤樹であるためではない、枯れて落ちる勢ひなく枝にしがみ付いてゐるのである。 浪花風景としては川端柳が風に揺曳して、一と吹き毎に一とつかみの枯葉を散らして掃除夫を困らせてゐる。・・・  

1931年8月2日肺炎で早世した「炎のスプリンター」人見絹枝に少し先行して同年7月26日腹膜炎で逝った「炎のジャーナリスト」(大谷渉氏の評伝題名)北村兼子の絶筆『大空に飛ぶ』(改善社)の一節に綴られた78年前も暑かった大阪のスケッチです。
これに続く「大阪風物詩」の章には、満州事変の前夜、日貨排斥などの緊迫した日中間にあっても、川口居留地跡を拠点とする華商と浪花商人が仲よく対策を講じている様子がユーモラスに描かれています。  
北村兼子は、創成期の同志社で教えた祖父北村龍象から続く漢学の家に生れ、居留地の外国人から技術を習得し大阪初の洋服学校を経営する母北村勝野のもと府立梅田高等女学校(大手前高女)を卒業。官立大阪外国語学校英語科から関西大学初の女子聴講生として法学を履修(当時女性の本科生進学は不可)。続いて高等文官試験の受験を志すも司法・行政ともに請願は叶わず、女性への門戸開放はされていません。
しかし、発表した法学論文がきっかけとなり関西大学在籍のまま朝日新聞に招聘され、瞬く間に花形記者となっています。  

大阪開港・居留地・川口華商を調べている過程で北村兼子を知り、中之島図書館に戦前から保管されている作品を閲覧してきました。 歯切れよい文体と小気味よい論旨の文章を発表し、市川房枝らと汎太平洋婦人会議や世界婦人参政権会議にも参加しています。台湾・香港や上海・南京レポートも含めて先駆的な文章群ですが、大谷渉氏の著作を除けば忘れられた存在であることを残念に思っていました。
ところが8月4日朝日新聞が「夭折の女性記者 色あせない勇気」と題して北村兼子の個性的な略歴を紹介し先駆的な主張を高く評価していました。
ただ一見正論に見えそうなその記事には大切な一点が抜け落ちていることに気付きました。
1929年在欧中の北村兼子は世界一周途上の飛行船ツェッペリン伯号でドイツから霞ケ浦へ飛ぼうと、「若い筆で飛行船アジア入りの一番筆をやってみたいと、乏しい旅費のうちから6月12日にツェッペリン坐席預約料を支拂った」(『新台湾行進曲』1930年婦人毎日台湾支局)。
自費で自席を確保した北村兼子に対し、体験取材記事の独占を狙った東京毎日と大阪朝日の有志連合が妨害工作を画して横槍を入れ、多勢に無勢の北村兼子を引摺り下ろしてしまいます。人気と筆で敵わないなら組織力と金銭力で、という印象が残ります。
この汚点に今の朝日新聞の後輩が触れないのは残念であり、恣意的に避けたとすれば正論の骨格がオカラ構造(2010年頃、中国で頻発した「豆腐渣・オカラ」の如き手抜き工法)に見えてきます。
因みに傷心の北村兼子を癒したのは、欧州在住の支援者たちで、なかでも藤田嗣治は北村兼子の肖像画を描き、後にこの絵は『新台湾行進曲』の表紙に載せられています。  

多くの読者や支援者を得ることで、小面憎く思われることに本人も自重自戒する文章を書いているのですが、溢れんばかりの才気と行動力と健筆を目障りに思う同業者たちからは辛辣な批判を浴びています。
出る釘は打たれ、出過ぎた杭は引っこ抜かれるこの国の習い。
単独飛行操縦のライセンスを取得し、三菱に発注した自家用飛行機で欧州の大空に飛ぶ直前に早世したのは無念であったと思います。  

話題の映画『新聞記者』を立見席で観ました。
東京新聞の記者が書いた原作は読んでいませんが、映画は自立したエンターテイメントの要素も含めて中だるみのないものでした。北村有起哉が演じる新聞社社会部デスクにリアリティを感じました。
中だるみのない展開といえば、米国映画の『ガラスの城の約束』も素晴らしい骨格と主張が心地よい緊張感をもたらせてくれました。
著名なコラムニスト、ジャネット・ウォールズの回顧録の映画化で、米国社会の常識に「まつろわぬ民」であった一家の生き方に奇妙な共感を覚えました。

 「不易と流行」を見極めることなく、浅薄な付和雷同に陥りがちな 昨今の日本の日常のなかで、北村兼子の自立的な生き方を知り、北村有起哉の勁草のような演技に己の硬直した心身を反省し、米国社会で孤立を怖れず面倒な生き方を選択する人が居ることを頼りにして、決して簡単には「イイネ」のボタンを押さず「ただそれだけではない」と考える姿勢を大事にしたいと思います。                                          (了) 

2019年7月10日

多余的話 (2019年7月)   『水無月』

井上 邦久

毒含む言葉なきまま五月尽  

ハーバード大学での記念講話で、「うそが真実で、真実がうそに」すり替えられる世界に於いて市民生活がいかに損なわれるか警告し、 「思いつき」で行動する前に立ち止まってよく考えた方がいいだろうという発言をしたメルケルは、一ヵ月後の大阪での首相同士の対話で「良い友達を選びなさい」と言ったとか。
五月一日、東京新聞を除いて各紙の一面が不気味なくらいに同じ構成だったことに驚きましたが、その後もメルケルばりの直言や諷刺は見つかりません。せめて蒸留水の如き紙面に毒を潜める職人技によって、留飲を下げさせ、紙価を貴めて頂きたいものです。

メルケル講話の日本語全訳と中国語報道と抄訳を届けて頂きました。六日の菖蒲として付記します。
https://logmi.jp/business/articles/321396   https://www.storm.mg/article/1343589          

今年また短か夜の闇ロクヨン忌  

毎年この寝苦しい季節の夜明け前、読書で眼を疲れさせるのが習いです。30年目のロクヨン忌に合わせ発行された中津幸久氏渾身の『北京1998 中国国外退去始末記』を読んで眼が冴え渡りました。         

パラソルに催涙弾の雨が降る  

諦めていた格安航空券が取れたこともあり、急な旅支度で澳門へ向かいました。馬車に乗りながら宗主国ポルトガルの残り香を吸って以来の澳門を歩き、旧式砲台が並ぶ砦の跡を活用した歴史博物館と実業詩人の第一人者と称される鄭観應(1842~1921.上海実業界と文学界の勃興期に活躍)の旧跡を訪ねました。孫文や毛沢東たちが愛読したという代表作『盛世危言』を編述したのも澳門の実家だったとのことで、目下旧宅や資料館を修理整備中でした。
「買弁」の先駆者としても興味があり、改めて訪ねてみたい場所ですが、今回は澳門の故きを温めるより、香港の新しきを知ることが先でした。
主催者側発表で100万人余りのデモの9日、衝突があった12日のあと、200万人デモとされる16日の前日に香港入りしました。 香港人同士は武力衝突をしない、という共同幻想が破れて問題がこじれたため、「反送中」勢力が振り上げた拳をどのように下すか、香港政府からすると下ろさせるかの判断が難しい段階でした。
決起は血気でも可能となるが、収束には冷静さが必要、ということは分かっていても、勢いに任せた動きが加速し、それに乗じて煽られた人たちが「暴徒化」する前車の轍を踏んでしまうことを危惧していました。
赤ん坊を抱いてデモに加わる夫婦や視覚障碍者(警官から白杖を武器と見做されたことで記事になっていました)が参加する無防備なデモと立法府へのヘルメットでの乱入が同じ指揮体系や目的意識から生まれるとは想像しにくいものがあります。
メルケル発言の最終章「希望の6ヶ条」を再読して香港の動きに重ね合わせて考えています。
壊すべき壁は立法府のガラスではないことは明らかです。更に、本土の民主化運動に香港では共感を寄せてきたけれど、香港の動きに本土は概して冷ややかであることがこの30年の変化だと思います。香港では「一国二制度」を堅持する最後の機会とする危機感が満ちている一方、本土の40歳以下の人たちの多くは「一国二制度」そのものを知らない、この大きな温度差。     

令の字につきまとわれし兵の日日  知る人ぞ知る今も夢路に (鈴木七郎)  

春から続いた「△△で最後の・・・」、「✕✕で最初の・・・」という騒音に近い、しかし、かなり恣意的な大合唱もようやく終息したかと思い始めた6月14日に、岩波文庫から『文選』全6冊の最終巻が発売されました。付録として張衡の『帰田賦』がシレっと添えられていました。
昨年末に『張衡の天文学思想』(汲古書院)の新刊広告を見かけたこともあり、著者である高橋あやめ氏のエッセイを掲載した4月11日付の東京新聞を友人から送って貰いました。 そこには、「4月1日に俄かに張衡の『帰田賦』が話題になったことはエイプリルフールの冗談ではないか」と冷静に、且つユーモアを交えて綴られていたので安堵しました。
この項は舌足らずですので、続きは岩波文庫の『文選』詩論(六)に挟み込まれた付録を立ち読み頂くか。図書館で東京新聞を閲覧願います。

大阪を真空にして虎が雨  

空梅雨で終わるのかと思いきや、G20と小台風が湿気を土産にやってきて、大阪の街は遠隔地ナンバーの警察車両と道案内が不得手な警察官が角々に立つ姿だけが目立ちました。郊外に位置する茨木のタクシー運転手さんは「こんな地域まで人出も車出も絶えてしまい不気味な雰囲気。商売?エエ訳ないやろ!」と一瞬怒ったふりをしながらも、「仕方ないわな・・・」と中国人が「没辨法(メイ・バン・ファ)」と言う時と同じ口調で絞り出していました。

        夏草を巨象二頭が踏みつぶし         

    水無月をまだ売る店に買いに行く

2019年7月1日

雨 七夕 日本・韓国・中国

井嶋 悠

雨は聴くもののように思える。 幼い頃、夕立や雷雨の夜、当時まだ使われていた蚊帳の中に入って寝ころびながら雨を想像し、遠雷を独り聞いて、どこか心静まっていた。もっとも、間近な雷には静まる余裕などなかったが。
この身勝手な恍惚は今もあって、蚊帳はないが、とりわけ深夜の、雨と遠雷の音は想像を巡らせる。

緑雨、紅雨とか小糠雨、霧雨とか、見ているように思えるが、私たちはその雨を見ていながら、つまるところ天に想い及ぼし、耳をひたすら働かせ、想像しているのではなかろうか。
日本語で雨に係る言葉は400種以上あるとかで、その中に「神立(かんだち)」と言う語があるように。
※「神立」:神様が何かを伝えていると信じられていた「雷」を指す言葉から転じて、夕方、雷雨の意。  
この感性は、雲がないのに細かい雨が降ってくることを「天泣(てんきゅう)」ということと通ずるように思う。

」三好達治(1900~1964)の有名な詩に『大阿蘇』というのがある。その後半部は以下である。 その最終2行はことのほか耳にする詩句である。そこで使われている「蕭々(しょうしょう)と」は、耳であろうか、眼であろうか。耳でもあり眼でもあり、眼でもあり耳でもあるように思える。阿蘇の放牧された馬を覆う天の声としての雨。そこから醸し出される寂寥の気。 あたかも眼前の雨を介し、耳をそばだて音楽を聴くように。

空いちめんの雨雲と  
やがてそれはけじめもなしにつづいている  
馬は草を食べている  
草千里浜のとある丘の  
雨にあらわれた青草を 彼らはいっしんにたべている  
たべている  
彼らはそこにみんな静かにたっている  
ぐっしょりと雨に濡れて 
いつまでもひとつところに 彼らは静かに集まっている  
もしも百年が この一瞬の間にたったとしても何の不思議もないだろう  
雨が降っている 雨が降っている  
雨は蕭々と降っている  

※「蕭々」:(雨が降ったり、風が吹いたりして)肌寒く、寂しさを感じる様子
【備考】この最後2行で使われている「が・は」は、助詞の使い分け説明にしばしば引用されている。

このように雨は、歌や詩の中で、切ない寂しさを表現するのによく使われる。 歌謡曲から二つ例を挙げる。
一つは、『雨の酒場で』(作詞:清水 みのる、歌;ディック・ミネ、石原 裕次郎、1954年)の1番
並木の雨の ささやきを   
酒場の窓に ききながら   
涙まじりで あおる酒  
「おい、もうよせよ」飲んだとて  
 悩みが消える わけじゃなし   
酔うほどさびしく なるんだぜ

もう一つは、『長崎は今日も雨だった』(作詞:永田 貴子、歌:内山田洋とクールファイブ、1969年)の3番
頬にこぼれる なみだの雨に   
命も恋も 捨てたのに   
こころ こころ乱れて   
飲んで 飲んで酔いしれる   
酒に恨みは ないものを   
ああ長崎は 今日も雨だった

もう一つ、私の好きな詩から。
北原 白秋(1885~1942)の全八連の詩『落葉松』から3つの連を抄出する。 一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。

からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

例外的にそうでないものもある。同じく北原白秋の童謡(1925年)『あめふり』 あめあめ ふれふれ かあさんが/じゃのめで おむかい うれしいな/ピッチピッチ チャップチャップ/ランランラン

しかし、上記引用した歌詞、詩歌の根底には、対象への、また自己への愛がある。そして先人・古人の感性に思い到る。哀しと愛(かな)しの表裏性。 そして雨は涙へと導く。「雨に濡れる」「涙に濡れる」。涙雨。 この雨―かなしみ更にはその涙、との発想は、日本的音楽[演歌]で多く採り入れられていて、そういう意味で日本的なのかもしれない。
それは日本を構成する主な民族、大和民族の自然への心が生みだした農耕につながる、「甘(かん)雨(う)」「慈雨」との美しい言葉とも重なっているように思える。
今回、雨の呼称を調べていて「男梅雨」「女梅雨(あめ)」なる言葉を知った。前者の意味は「雨が降るときは激しく振り、雨が止むときはすっきり晴れる」で、後者は「しとしととした、雨脚の弱い梅雨」とのことだそうだが、これも男女へのいかにも日本的な感覚だと思う。

先に記した涙雨の意味は「涙のようにほんの少しだけ降る雨」とのことなのだが、やはり新たに二つの表現を知った。「酒(さい)(催)涙雨(るいう)」「洗車(せんしゃ)雨(う)」。
共に七夕、織女(織姫)と牽牛(彦星)に係る雨とのこと。後者は、7月6日に降る雨のことで、牽牛が織女と会うため牛車を洗い準備している様を。
前者は、当日雨で二人が会えなくなり流している涙とのこと。きっと、当日、「鉄砲雨」「ゲリラ豪雨」が二人を襲ったのだろう。
実に微笑ましい神話伝説の世界に私たちを誘う。
ところが、これが韓国に行くと、当日雨だとそれは二人の再会のうれし涙で、次の日も雨ならば二人が別れを惜しむ涙とか。
これが韓国の国民性なのかどうか分からないが、やはり微笑ましさに溢れている。

ここで、中国・台湾・韓国・日本での節句の一つである七夕について、良い機会なので確認しておく。 『源流の説話』[出典:ウキペディア「七夕」]
――こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。 織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルである。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。 このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。 星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。 また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。 ――

催涙雨、何と夢をかきたてる言葉。 カササギ(鵲)、日本では北九州のごく一部地域以外見られない鳥だが、韓国では度々、それも群生して飛ぶ優美な姿を目にした。そのカササギと織女と牽牛の永遠の愛。 百人一首の「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」を想い起こす人も多いかと思う。

今日、源流の中国でさえ、七夕はあの惰性的でさえある「バレンタインデー」的様相になっているようで、日本も観光客誘致や商戦広告に使われることも多く、古人の想いから離れつつある。 それは時の流れとしてやむを得ないのかとも思うが、星座を見て、古代東西の人々の想像力と叡智に思いを馳せるように、底流の神話文化に心を向け、東アジア文化(或いは共同体?)について考えるのも、今の時代だからこそ必要なことのように思うが、どうだろうか。

梅雨になって、久しぶりに、深夜、床の中で雨の音に触発された。国土の6割が山岳で森林である日本の、雨があって水明であり、稲作である、そんな日本文化を考えてみた。

2019年6月11日

多余的話(2019年6月)    『雲上快晴』

井上 邦久

昨年の直下型地震・長雨・台風という体験から一年になろうとしています。
「天変地異」とか「驚天動地」というある種の畏れを持つことなく、地球温暖化と南海トラフ・プレート活動によるものだと受容し達観する姿勢が良いのかどうか?また、本来ならもっと驚くべきこと、許しがたいことが大量のCMのようなメディア操作によって、奇妙な既視感となり「そういうこともあるか・・・」と、納得と言う名の諦念で流されていく日々はやはり拙いだろうと思います。

4月末から5月にかけて、そのようなことを徒然に考えていたら、行く川の水のように時が流れてしまいました。源氏物語41帖の次は、『雲隠』というタイトルだけで本文が遺されていないことは知られています。
拙文5月号は『4月30日、舞洲にて』のタイトルでした。NPO「ロバの会」の視覚障碍者支援活動で舞洲に行きました。テーマパークUSJで賑わう桜島から橋を渡ったゴミ焼却場のある埋立地です。視覚障碍教師の会が催された会場施設でのお手伝い、舞洲から新大阪までの移動介助体験を中学生日記風に綴りました。サポートした教師は国立大学院で博士号を獲得し、米国留学を果たしてから現在は工業高等専門学校で健常者生徒に対して教鞭を執っているという経歴の人でした。闊達に話が弾む中で見えない世界で観えてくるものを教わりました。
視覚障碍教師との交流体験を通して感じた「言うべきこと」「伝えたいこと」を多く盛り込んだ文章でしたので「多余的話(言わずもがなの話)」としての発信を控えました。

4月29日も5月6日も月曜日の通常授業であり、ボランティア活動の2日間を加えると、実質的にはちょうど程よい4連休でした。かつて「アルバイト情報センター」とか「レジャーランド」と揶揄された時期もある大学の様変わりについては、藤代裕之さんが詳しく報告しています。
少しだけ内側から体験してみると、授業日数の確保・シラバス(授業計画・判定基準)の明確化・受講者が少ない講座お取り潰しなど、文科省の補助金行政の「投資対効果」目的が顕かになり、それを具現化して管理する大学もご苦労なことです。
そして、月曜日が祝日でも学生の出席率が高いことにも驚かされます。休日ダイヤで出講することに居心地の悪さを感じるのは新米教師だけのようで、「我々は一回生の頃から習慣化しています」と女子三回生にたしなめられたこともあります。

雲上快晴、雲下春霖のボストンに降り立ち、12℃まで冷え込んだ 夕暮れの街は大渋滞でした。二年ぶりの街並みを感慨深く眺めていたら「築85年のアパートもまだ新しいねと言われる街だから、二年くらいでは表面的な変化は見つけにくい」と言われました。
冷静な声の主である娘自身は、留学数年で運転技術とともにキャリアも進路も大きく変化させました。翌日にカレッジの卒業式、翌々日は大学全体の卒業式。メルケル首相の記念講演を目の当たりにする幸運にも恵まれました。
午前の卒業式では祝辞、名誉博士号授受とコーラスが延々と続いて退屈そうにしていたメルケル首相でしたが、午後からの講演では冒頭は英語で始め、詩人の言葉からドイツ語でオーラを高めていきました。
トランプ大統領の名を一度も口にしないトランプ批判演説と評されており、卒業生や父兄たちのスタンディングオベーションが続いたと報道されています(記憶では5回)。
同じく記憶では「CHINA」という単語も同様に発していません。午後の進行役が10年前の卒業生のMs.Wangと紹介されたこと、留学生のなかに中国人が目立って多かった記憶が残っています。
講演冒頭部分訳を添えます。メルケル首相が発したかった最大の「壁」とは? ベルリン?長城?ホワイトハウス?はたまた、各人の心の中の「壁」?https://courrier.jp/news/archives/163081/            (了)  

2019年5月1日

多余的話 (2019年4月)  『桜花春天』

井上 邦久

去年の4月28日は弘前で見ごろの櫻に間に合いました。
弘前城の堀の花筏はケーキナイフで切り取れそうな分厚さでした。地酒を鯨飲しながら夜櫻を眺めるような贅沢は、霞山会・陸羯南研究会そして東奥日報社の皆さんの御蔭でした。  
今年の桜は身の丈にあったもので、京都の建仁寺境内で手造りのお握りを頬張り、通学電車の窓から大和郡山城址の名残りの桜を追いかけるといった素朴なものでした。  

そのような坦々とした日々のなかに、昨年の夏に豪雨土砂崩れで大変な被害に遭った広島県呉市の知人から映画『ソローキンの見た桜』の推薦メールが届きました。
ソ連時代からロシアへの造詣と憧憬を持ち続けている方が、軒まで埋まった住宅は修復しても壊れた集落の生活は戻らない近況を綴ったあと、「広島県では上映されない。大阪まで見に行く余裕はない」という言葉が続いていました。  
日露戦争の俘虜となった士官や兵が日本各地で収容されたことは知られており、それを題材に五木寛之は金沢を舞台にしたロシア士官と日本女性のつづれ織りのような『朱鷺の墓』を書いて、NHKの銀河ドラマにもなっています。  

今回の映画は、松山を舞台としてロシア士官(秘かに反政府活動要員として疑似投降?)のソローキンとロシアとの戦いで弟を亡くした看護婦が結ばれ別れるストーリーで、元は南海放送によるラジオドラマとして高く評価され、原作者でもある田中和彦南海放送社長が映画化を推進しています。
松山城を中心とした桜を大画面でたっぷり観ました。これからも地元の愛媛県でロングラン上映、続いて大阪十三の第七芸術劇場、京都シネマなどで散発的に上映予定です。  主演女優の阿部純子はスケールの大きさといい、自然な英語科白といい今後 日本を代表する国際派女優になるのではないか?と自分勝手に思っています。  

呉市には映画のパンフレットに『大阪俘虜収容所の研究 大正区にあった第一次大戦下のドイツ兵収容』を添えて届けました。  
渋谷駅近くの金王八幡宮境内の桜は、一重と八重が重なり江戸三桜として名高いと教えてもらいましたが今年は間に合わず残念でした。
土曜日の午後、その境内でCさんと落ち合い、大鳥居を潜って桜横町に渡りました。信号を渡る所に銅板を壁全体に張った造りのしもた屋がありました。
東京の古い町に少しだけ残された濃緑色の防火(?)建築で、人形町・小伝馬町・北品川旧宿場町そして鳥越界隈にあり、この造りを発見すると妙に興奮する癖があります。桜横町に入ると左手すぐに加藤周一の記念碑がありました。Cさんは坦々と語りました。 「井上さん、今歩いてきた道は、加藤周一が常盤松小学校に通った道ですよ」

意識は大阪の四条畷高校の校舎にスリップします。山口から転校して河内弁にもペーパーバックの英語本にも少しずつ慣れてきた高校二年生は、複数の同級生が手にして口にする岩波新書『羊の歌』に驚かされました。
著者の加藤周一の名前は目にしたことはあっても、高校生が日常的に親しむような対象ではないと思い込んでいました。全くと言って良い程、学ぶことや努力することから逸れていた十代が終わり、これではいけないと「改悛」してから先ず『羊の歌』を手にしました。今も手元に残るのは1971年1月30日第8刷発行本です。
そこから評論は加藤周一と竹内好、小説は福永武彦そして吉行淳之介の季節が始まりました。実におくて(奥手)であることを自覚しつつも、余命半世紀は残っていると二十代より三十代・・・と自らを励ましてきましたが、その半世紀も残り少なくなってきたことに気付きます。
桜横町を案内してくれたCさんとは横浜中華街や東京の友人が経営する老舗中華料理店でご馳走になり、その折々に得難い書籍を見せて貰い、昨秋には長崎華僑の重鎮の皆さんとの面会調整をして頂きました。

今年の春節会にも誘われたところ、その会は中国にもご縁がある一方、加藤周一を敬愛する人たちの集いでもありました。その方々が活動する拠点「陽風館」は桜横町の松岡理事長のご自宅ビルにあり、2016年その建物脇に設置した加藤周一の詩文を刻んだ記念碑は親しみの湧く素材と造形でした。
Cさんからの「一度、陽風館へお越しくださいませんか?」のお誘いで伺った部屋は加藤周一の著作と中国関係書籍が溢れんばかりに並んでいました。
その 願ってもない環境で「日中愛国貿易時代」からの貿易商のYさんを交えて、尽きせぬ加藤周一にまつわる半世紀分の事柄を語りました。
弘前の櫻は贅沢なものでしたが、桜横町には桜並木は無くなっても胸の内に咲く花は見事でした。

関西での活動では常に次の世代へのリレーゾーンを広く設けた発想を心掛けていますが、桜横町では自分自身が次の世代と目されていることを自覚し、背筋を伸ばしてお暇しました。帰りに常盤松小学校まで歩き、今秋に生誕100周年を迎える加藤周一の90年後輩にあたる小学生の姿をしばらく眺めていました。

たまたま上海の恩師から届いた文章に「歳月不老,人生易逝」とありました。 「桜花春天」を日本語に訳すと「さくらの春」となり、競馬用語で解すると、 桜花賞から春の天皇賞に連なる春競馬となります。
28日、その「春天」の好レースに続いて、香港では国際G1レースの「エリザベスⅡカップ」で日本産駒のウインブライト(勝出光采)がレコード勝ち、父のステイゴールド(黄金旅程)に続いて父子の継承となりました。
天皇賞の一着賞金は1億5,000万円ですが、香港の英国女王杯の一着賞金は2億164万円とか、以上T女史からの速報です。
香港の「一国二制度」は、競馬の世界では機能しているのでしょうか?(了)

2019年4月26日

日韓の“溝”を考える―日本語教師・韓国語教師の声が持つ意味―

井嶋 悠

どんな領域にあっても研究と現場があり、そこに身を置く人がいるが、時に両領域に関わりを持つ人も少なからずいる。
例えば、私が身を置いた中等教育私立学校国語科教育でもそうである。研究に軸足を置く人、教育に軸足を置く人。と言う私は態よく言えば後者、と言うか後者しか考えられなかった一人で、だから(と言うことにしておく)前者の教師たちからは蔑まれることも多々あった。しかし、私はその人たちを疑問視していた。端的な例を挙げる。

「教育原理」とか「国語科教育法」といった大学での講義は、教職資格(免許)への必修科目であるが、実際教師になって、そこで講義をしていた人たちがどれだけ実践し得るか、甚だ疑問であることを何度思ったことだろう。いわんや、学校と一口に言っても多種多様である。公立もあり私立もあり、且つ、授業前に生徒が教師におしぼりを用意する学校もあれば、授業をする教師など在って無きがごとき学校もあるのだから。

 

日韓[韓日]の溝を報ずる記事が日常化している。中には、国交断絶を物申す活字もある。それも「有識者」と言われる人たちの手になるものである。日韓双方において。
別に今に始まったことではないのだから、その内“知恵者”が落としどころに収め、次代に委ねようということになるのだろうが、それを受け取る方こそとんだ迷惑な話である。日本で言えば、自身の生活保障、老後等々福祉での不安材料いっぱいでそこまで考えられん!と苛立つ若者が多くてもおかしくない。
ましてや、最近政治離れは加速し、“優しい”青年たちが増え、権力者たちはほくそ笑んでいるのだから怖ろしい話である。

2千数百年にわたる交友、そして軋轢も経て来た一衣帯水の隣国同士なのだから、他にない人間的叡智があって然るべきではないか。否、隣人を愛することは遠地の人を愛することより難しい、ということの具体例なのだろうか。

この問題、当時の中国やロシアの南下侵略政策、また欧米列強と日本の世界情勢を教えられて来たが、しかし私の中で、私の母国が、1910年の日韓併合から36年間、韓国[朝鮮半島]を植民地支配(言い方を換えれば、韓国・朝鮮文化の破壊と自文化の強制)したという事実(とげ)がどうしても離れない。
植民地支配の事実を認めても、善政もあったとの発言は何度も発せられているが、発した・ている人たちはどれほどに自身の事として引き入れているのだろうか。
このことは、私の最初の勤務校がプロテスタントのミッションスクールで、校是の「愛神愛隣」が常に説かれ、その「愛隣」は「愛神」と同じく聖書の一節「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」で、それを自覚させられることが多かったからなおのこと、自省度が強まる。

 

私たち『日韓・アジア教育文化センター』主催での国際会議実施に際して、この近現代史の問題は常にあり、日韓相互でセンターの主点が「日本語教育・国語教育」であることを理由に、避けて通って来たことは否めない。例えば、こんなことがあった。

日本側の或る委員から、「近世通信使」をテーマにできないかとの提案があった。賛意は得られたのだが、韓国・慶州で既にそれをテーマにした横断幕が公道に掲げられていた。
韓国は、少なくとも私たちより先に深謀遠慮を働かせていたのである。

1945年から20年後の1965年、『日韓基本条約[日韓条約]』が、両国によって調印された。
今、日韓で溝が、広がり深まって来ている最大の課題が、この条約へのとらえ方で、日本は「完全かつ最終的にして、不可逆的な両国間の取り決めである」とし、韓国側は、慰安婦問題、徴用工問題等で、具体的に疑義を唱えて、相互に非難合戦を展開していることは周知である。
しかし、その間でも、日本への、韓国への観光客は多く、韓国での日本語学習者数は約55万人で、内60%強が中等教育の生徒である。
因みに、全体数で言えば、中国が約95万人、インドネシアが約75万人で、韓国は第3位である。

政治が恣意的であってはならないのは自明で、歴史の事実が重要であることは言をまたない。この条約も歴史の事実である。では、一体何が、この問題をこじらせているのか。
その条約の概要を、「高橋 進氏・政治学者・2007年」[『知恵蔵』所収]のまとめを転写する。

――1965年6月に、日本と韓国との間で調印された条約。これにより日本は韓国を朝鮮半島の唯一の合法政府と認め、韓国との間に国交を樹立した。韓国併合条約など、戦前の諸条約の無効も確認した。同条約は15年にわたる交渉の末に調印されたが、調印と批准には両国で反対運動が起きた。両国間交渉の問題点は賠償金であったが、交渉の末、総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)の援助資金と引き換えに、韓国側は請求権を放棄した。――

なぜこの人のまとめを、との異論を唱える人もあるかとは思うが、有識者ではない私にとって、例えば、『朝鮮を知る事典』(平凡社・1986年)「日韓条約」の項での梶村 秀樹氏の説明が、より広角的な説明で視野の広がりを思うが、長くなることもあり上記を引用した。

ただ、傍線をした箇所についての内容、影響等確認はどうしても避けられぬところであろうが、ここではこの条約そのものを論ずるのが目的ではなく、条約成立経緯での両語の背景、根底に在ること、要は「ことばと人」に係ることであり、今日社会で多く報ぜられていることには立ち入らない。

人が文化であり、同時にその文化に生きる。それは永代の人々の中で培われる。このことは国際(グローバル)化に伴っての、日本人の国際結婚とその子どもの誕生等から、日本に新たな試練を与えている。なぜなら彼ら彼女らは二つの文化保持者で、いずれどちらかの国籍を選択するのだから。

その文化は、自国内においても多種多様で、当然人々も多種多様である。そして、人は不図した折に、日頃無意識下に在る自文化について思い入ろうとすることがある。自照自省。
他(異)国・地域の文化・人と接していればなおさらである。入ってみれば自己確認の一つ。
私たち『日韓・アジア教育文化センター』の歴史からすれば、日韓異文化を肌で思うことが多々ある。例えば、Japanese smile と Korean smile の違い。

ここでは、日本の「水明」の文化と韓国の「怨(オン)・恨(ハン)」の文化を確認することで、日韓条約と“溝”に思い及ぼし、私の内を整理してみたい。

私はここ数年来、神社仏閣を訪ねることを愉しみにしている。先月末、上京の機会があり、品川・荏原地域の七福神を4時間余りかけて巡った。現居住地を歩くのと違って視覚変化の人為性がそうさせるのか、4時間余りの歩行はそう苦痛ではなく踏破できた。
(これを日頃都会に生活している人に言うと、自然豊かな中での散策こそではないか、といぶかしがられる。まだまだ人間成熟に達し得ていないのかとも思ったりするが、はてさてどうなのか。)
この参詣は今流行(はやり)の「ご朱印」集めが目的ではない。目的があるようでなく、しかし参ると何か心落ち着き、静態時間わずかながら、自身の事より近親者の貌を浮かべた祈願の心が湧いてくる。これまでにはなかったことである。
行けば先ず手水舎(ちょうずや)で手・口を浄める。(もっとも、人影と併せてそれすらない場所もあるが)その瞬時、身も心も一切が浄められたように思える。己が穢れを、世俗に浸かる己が悪を、一瞬浄める感慨。

この水は、今では水道水が多いのだろうが、本来は石清水、湧水を引いたものであろう。またそうでなければ、霊験さが下がる。そこに直感する自然との一体感。瞬時の永遠の刻(とき)への想い。

かのイザナギの命は、黄泉の国に最愛のイザナミの命を探し求め、女神との約束に逆らい、穢れを見、追われ、地上に出、中洲で禊(みそ)ぎを行い、左目を洗い(そそぎ)生まれたのが天照大命であり、右目から月読の命、鼻から素戔嗚(すさのお)の命であったことは、日本の神話『古事記』に詳しい。
「水に流す」ことで、穢れを、悪を浄めたのである。

しかし、いつの頃からか「水に流す」は、利己的にしか使われなくなった。
天然水が人工水になったからなのか(もっとも、今では飲用は天然水がほとんどとなりつつあるが)。それともあまりにも水に恵まれた日々にあるがために何かに麻痺したからなのだろうか。近代化、或いはあれかこれかではなくあれもこれもの多忙な、気忙しい日々刻々は、自己確認、自省の余裕を持てなくしたからなのだろうか。……。

そんな時、おそらく小学校教諭の言葉ではないかと推察される、「水に流す」に関して、次のような文章に出会った。最近の子どもたちの様子を三つに整理し指摘している。
(1)ずいぶん前にあったトラブルや、集団の中の「力関係」をずっとひきずっている子が多い。
(2)「あの子はああいう子で、自分はこういう子」と決めつけてしまっている子が多い。
(3)なかなか仲間とわかり合おうとしないし、「課題」とも正面から向き合おうとしない。

この筆者は、ではどうすれば良いか、教師自身の課題として三項目[対話・討論の保障、批判的学び・共同学習の指導、教師自身の親や同僚への発信による自己更新の必要]を挙げている。ここでは詳細は措くが、この文中の「子」を「国」(或いは国民)に代えるとどうであろうか。

 

日韓条約締結への過程で、またその後の手紙等での謝罪で、禊ぎの心が相手[韓国]の人々に伝わっていたのだろうか。事実を認め、それを言葉にし、金銭解決ですべては終わるとの合理[実務]が、時に双方で、優先されたのではないか。しかも政治的言語として。
日本は言霊を伝統とする国であり、「以心伝心」「不立文字」の禅思想が、浸透した国である。その上で、相手にどれほどに心を尽くし、言葉[条約事項]を伝え合おうとしたか、私は不安を思わざるを得ない。
かてて加えて、「関東大震災」(1923年)での朝鮮人虐殺が象徴する、日本人の朝鮮人蔑視が、無意識下に潜んでいたのではとの推察は、あまりにも無茶な暴言として一蹴されるのだろうか。

それらが重なり合うことで、気づかぬままにボタンの掛け違い[異文化衝突]があったのではないか。

 

韓国は、被支配側であった。その韓国は「怨(オン)・恨(ハン)」の文化と言われる。私たちはその文化をどれほどに承知しているだろうか。先にも記した「完全かつ最終的にして、不可逆的な両国間の取り決めである」との日本側の言葉に、私だけなのかもしれないが、自信が持てない。
それは、「怨」と「恨」の微妙にして複雑な感性を見るからなのだが、それは言い訳に過ぎないのだろうか。それでもそこに【人とことば】の至難さを思わざるを得ない。
今、漢和辞典[『漢語新辞典』大修館]で両語の字義を確認してみる。

「怨」:①うらむ ②そしる ③わかれる

「恨」:うらむ(不平に思う。怒りにくむ。悲しむ。くやむ。)

この字義が韓国の基本文化である、と言われ韓国人は得心するだろうか。そうだとすれば余りにも一面的に他国・地域文化を捉え過ぎているのではないか。至難さはここにある。文字化された字義と人の心。
先も引用に使用した『朝鮮を知る事典』では、次のように説明されている。

――朝鮮語で、発散できず、内にこもってしこりをなす情緒の状態をさす語。怨恨、痛恨、悔恨などの意味も含まれるが、日常的な言葉としては悲哀とも重なる。挫折した感受性、社会的抑圧により閉ざされ沈殿した情緒がつづくかぎり、恨は持続する。(以下、略)――

上記、1行目から2行目にかけての一文にある「含まれるが」の「が」、「悲哀とも」の「とも」に、得心への至難さが滲み出ている。
高校時代の恩師の導きで、中高校国語科教師に33年間身を置く中で得た、「かなしみ」の三重性「悲しみ」「哀しみ」「愛しみ」の日本語性に通ずることとして。

韓国人が、長い歴史の中で、常に抑圧、支配されて来たことについては、親しい韓国人日本語教師から静かに指摘されたことがある。彼ら彼女らの抵抗意識の源泉でもあるのだろう。韓国でのキリスト教徒の多さをここに求める論調もある。
『韓国文化のルーツ―韓国人の精神世界を語る―』〔国際文化財団(韓国)編 1987年 サイマル出版〕は、韓国の大学で国文学、社会学、歴史学等を専門とする韓国人研究者が、9つの項目で、鼎談(ていだん)形式で語り合っている書である。
その中の第4章「怨」と「恨」には「文化創造のエネルギー」との副題がついていて、3人の国文学者が語り合っている。抵抗意識と同時に、創造のエネルギーを言うのである。
別の親しい韓国人日本語教師から「怨・恨を説明するのは難しい」と聞いたことがあるが、先の専門家の鼎談を読めば韓国人は自ずと得心するのであろう。
しかし、日本人の私には、自身の言葉として消化するにはまだまだ未熟で、概念的理解に留まる危惧を持つ。(もちろんこれは翻訳の問題ではなく、私個人の問題として言っている。)

その上で、鼎談者の発言から考えさせられた幾つかを引用し、それらを通して私自身の中の棘(とげ)が少しでも抜けて行くことを願っている。
以前、大韓民国民団の某民団長から「あなたはいい韓国人に恵まれた」と言われた、その韓国人日本語教師の方々にあらためての深い感謝をもって。

先ず二つの語の特性を次のように言う。[下記《  》部分が引用部分、尚、書は、“です・ます調”であるが、引用に際し“である調”に換えてある。]、

《「恨」は内面化された感情であり、「怨」は外向性の感情である。》
そして、《その「恨」の理解のために、「結ぶ」と「解く」両面から考えなくてはならない。》
尚、この「結ぶ」と「解く」については、《春が解くであり、冬が結ぶ》と具体例を挙げている。
そして、その両極の形として、
《結ぶが感情と情緒の両面においてとりわけ悪化したものが怨恨で、逆に感情と情緒を解いたものが「神明(シンミョン)」または「神風(シンパラム)」である。》この伝統的考え方に立って、現代文学の主流は、
《恨の結ぶと解くは「喪失」と「回復」に置き換えることができ、植民地化での母親喪失意識や祖国喪失意識、南北分断を素材とする作品に現われた故郷喪失意識などである。》
この《絶望的状況に陥った原因が相手にあると信じて恨みを抱く》のだが、
《同時に自分にも責任があるのだと、自己省察に戻る。これは相手を愛するがゆえの感情である。相手を恨みながら、同時に自分を恨むと言う愛と憎悪の感情。恨の感情が複合的なのは、絶望と未練、恨みと愛、この二対の感情が互いに矛盾しながら混在している。》

 

“溝”を埋める方法は、様々な切り口が考えられるが、私の場合、『日韓・アジア教育文化センター』に到る事実とそれ以降の事実から、言葉(日本語)から考えてみた。
その時、研究者の声と併行して、日々、韓国の中等教育・高等教育で生徒学生の声と、また大人として社会と向かい合っている中・高・大韓国人日本語教師の、(とりわけ「知日派」の―この用語は他の用語、親日・克日・嫌日・反日と同様、慎重な使い方が必要であるが、ここでは知日とする)声の重みに思い到る。

このことは、同時に、日本で日本人として韓国語教育と向かい合っている知韓派教師たちにも同じ事が言えるのではないか、と中等教育での第二外国語履修方法、内容、制度また教師資格等日本とは大きく違う上に、日本での中・高・大韓国語教育現状の一端しか知らない私だが、思うのである。

2019年4月5日

多余的話(2019年3月) 『修学旅行』

井上 邦久

 

言わずと知れた舟木一夫が『高校三年生』に続いて詰襟姿で唄った第二弾です。この曲のヒット・映画化で学園ソング路線が定着しました。ところがそれぞれのB面は『水色の人』『淋しい町』というタイトルからも分かるバラード曲であり、舟木一夫の哀愁を帯びた声の質に合っています。A面とB面では、「光」と「影」、「陽」と「陰」、「青春賛歌」と「青春挽歌」の違いがあります。

このA/B面4曲全ての作詞は丘灯至夫、作曲は遠藤実のコンビです。よく聴くと、A面にも「残り少ない日数を胸に」とか、「二度と帰らぬ思い出乗せて」といった挽歌凬の歌詞を忍び込ませています。

遠藤実は日経新聞「私の履歴書」で、疎開先の新潟での極めて貧しく実に無残な十代の生活を綴っています。また丘灯至夫の長男の西山謹司氏(救心製薬役員)が福島県出身の父親について「幼いころから極めて体が弱く、学校も休みがちで遠足や修学旅行にもほとんど行けなかった。唯一の楽しみが詩作」だったという『作詞家・丘灯至夫の素顔』と題する文章を残しています(日経新聞2017年2月6日朝刊文化欄)蛇足ながら中国関係以外にもスクラップを残しています。
明るい、学園ソングを連発した二人は、貧困と病弱のため自分では実現できなかった青春の疑似体験を凝縮させた歌曲に仕上げ、それを決して幸福とは言い難い(興行師の父、母とされた人は五指に余る)舟木一夫を通して世に出したのではないかと勝手に解釈しています。清らかで明るい歌詞や曲調の学園ソングの中に、どこか淋しい諦念や哀愁を感じてきました。

彼岸時の紹興酒の故郷へ諦念とも哀愁とも無縁な修学旅行に出かけました。長年続く講読会で熱心なご指導を頂いている北基行老師を団長とする、十指に余る学友との旅でした。大阪駅前第2ビル5階の部屋で『燕山夜話』と『史記』を講読している仲間たちの修学旅行でした。

『燕山夜話』は文化大革命の前夜、1961年から「北京晩報」に馬南邨の筆名で連載された随筆です。作者の本名は鄧拓。人民日報社長。文革で四人組からの指弾目標となり死亡。大毒草とされた『燕山夜話』は鄧拓が名誉回復した1979年になってようやく再出版されました。
受講者も増え、1960年代の用語や文体にも慣れてきてからは段落ごとに分担して試訳を報告する講読会スタイルが定着してきました。もう一つのテキストは司馬遷『史記』の「酷吏列伝」、こちらは北老師の中国語発音・解釈を聴き取る古典的な寺子屋式です。
発音や文法のご指導は、北老師の恩師であった坂本一郎教授を通じて旧上海東亜同文書院仕込みの中国の生活に密着したものです。北老師自身の中国体験に基づく社会や人間への洞察を聴かせてもらう贅沢な時間でもあります。

北老師のご縁の深い紹興では、大禹廟・蘭亭・魯迅故居といった歴史的巨人の遺跡巡り。そして郷鎮企業のトラクター修理工場を母体とし、日本との合弁経営を梃子により自動車部品業界の一方の雄となった経営者から三日間に渡り修学する機会がありました。地元密着型の足腰と国際市場への視覚、そして紹興酒は客に飲ませるもので自分はお茶だけという静かな姿勢。敬虔な仏教徒として二十年余り前から寄進を続けているという大寺院で素食(精進料理)を一族の方々とご一緒させてもらいました。時あたかも彼岸の頃、今年の清明節4月5日もまもなくということで上海ナンバーの墓参りの車が大渋滞していました。

紹興で個人的に印象に残った三点を箇条書きします。

①魯迅記念館に展示されていた朱安夫人の写真。文豪魯迅の本妻は文盲・纏足という旧時代の象徴を背負っています。その後に北京時代の教え子の許廣平と長男の紹介。そして魯迅に「人生には只一人だけの知己が居ればそれで良い」と言わしめた瞿秋白も掲示されています。朱安夫人や瞿秋白は上海魯迅記念館も含め、この十年来ようやく展示スペースが増えた人たちです。

②自動車部品工場では整理整頓の行き届いた見学コースを10人乗りカートを連ねて過ぎるので詳しくは分かりませんが、人が少なくゴミも少なかったです。写真撮影禁止マークの付いた建屋には新しい自動工作機が置かれていたような気がします。仰々しいスローガンなどの掲示も少なく、掛け声よりも実践を重視という印象でした。

③「黄酒冰淇淋」。紹興酒(黄酒は総称)のフレーバーを効かせた地元ならではの美味しいアイスクリームでした。とは言え大禹廟の売店での売値の8元は余りにも高いので4個30元でどうか?と持ち掛けたら、店員は笑いながら「お客さんは中国人か?」と軽くいなされました。別の場所では5元で売っていたので遠慮せず指値を20元にすれば良かったと反省。

関西空港に戻る一行を杭州空港で見送ってから杭州市内へのシャトルバス
(時刻表はなく満席になると発車する「滾動」方式。20元)で小一時間移動。戦前の映画王の長崎人梅屋庄吉が贈った孫文銅像前のバス停で下車。徒歩で西湖の目の前にある華僑飯店にチェックインしました。翌朝、西湖の眺めがよく、湖水からの風も心地よい部屋に移りました。ロビーで製茶農家の出張販売員が明前茶(清明節前採製的茶葉。色翠香幽。味醇形美)を過熱して、手もみをするパーフォーマンスを眺めながら香りを楽しみました。

西湖畔から白居易(白楽天)由来の「白堤」を通るショートカットの道を「西泠印社」に向かいました。篆刻の聖地として世界的に有名な場所とのことで、珍しく日本人の修学旅行凬の団体とすれ違いました。
「西泠印社」は清末民初に江南の篆刻家が集まり、制作と古印書画の収蔵研究を続けた活動が母体となり、1913年に結社として成立し呉昌碩が推されて初代の社長に就任。日本も含めた内外の篆刻家が社員となっています。文房三宝販売や書籍出版活動も含めて現在に繋がっています。上海駐在時代に愛好家から特に「西泠印社」の品を念押しされて細筆や朱肉などの購入依頼が届いていました。「冷」ではなくサンズイの「泠」であることも含めて今回初めて学んだ事柄ばかりでした。
杭州の美術学院の大学院留学後も篆刻の修行を続けている友人による案内という贅沢な修学旅行でした。付設の博物館は月曜休館でした。
玄関の説明板だけでもと近づいたら、カタカナで「アザラシ博物館」と書かれてあり一瞬怪訝に思いました。中文・英語・日本語で、「印」「SEAL」「アザラシ」と並記されているのを見て、中国語の意味を無視して英語の動物の名詞をそのままカタカナに訳したのかと笑いました。
この種の「異訳」は日本を含めて各国で見かけますが、文化の香り高い「西泠印社」で力が入っていた肩をほぐしてくれる効果がありました。

地元の麵屋で軽い食事をした後、南宋の風情を模した下町の本屋を何軒か覗いて見ました。今回は「中国地図」と金宇澄の小説『繁花』が目的物でしたが芸術書や古書専門店の老舗を除くと、今どきのしゃれた本屋には書物は少なく、読書スペースや喫茶スペースがたっぷり確保されていました。
東野圭吾を筆頭に日本の小説もたっぷり並んでいましたが、中国地図と第9回茅盾文学賞を獲得した『繁花』は見当たらず、新華書店でようやく入手できました。
「中国地図(地勢地図+行政地図が裏表に印刷されたハンディな最新版)」は、毎年大学の受講生に渡して一年間かけて馴染んで貰います。新たな鉄道や建造物が完成するので地図の賞味期限が大切です。上海と浙江を結ぶ「杭州湾大橋」は当然ながら、昨年架けられたばかりで香港と珠海とマカオを1時間移動圏内に変化させ注目されている「港珠澳大橋」も載っている2019年1月新版です。

『繁花』については、神戸でのシンポジウムに参加された陳祖恩先生から詳細な解題をしてもらいました。上海語や文化大革命時代の用語などが多用されていること、暗喩や隠喩が多く「その日、一機の飛行機が墜ちた」という短文だけで林彪事件を洞察する必要があるといったご指導や示唆を受けました。
日本の無残な青春の多くは貧困・病気・複雑な家庭によるものですが、中国の場合は加えて政治という大きな要素があります。手強い小説ですがロバの歩みで読み進めています。たぶん「アザラシ的異訳」をしながらでしょう。(了)

2019年3月1日

多余的話(2019年2月)   『空と風と星と詩』

井上 邦久

春の椿事が出来しました、という常套語からの書き出しです。
3月9日(土)、大阪女学院にて開催予定の大阪川口居留地研究会で報告することになりました。一年半前から居留地跡を中心に大阪市西部の福島・西・此花・港・大正の各区を歩いて来ました。その間、基本的な「居留地の歩き方」の心得や初心者コースを西口忠先生に教わってきました。その西口先生が事務局長を務める会の催しでの報告です。
アマチュアであることを先刻ご承知の監督からオールドルーキーがピンチヒッターに指名された感じです。辻久子女史なら競馬新聞の下馬評の文字数制限に随って簡潔に「未出走未勝利馬競走の員数合わせ」と表現されるでしょう。

個人的にはまさに椿事ですが、オッズは期待値の低い3桁以上なので入れ込む必要もないと判断し、ともかく限られた日数枠で簡潔に準備することにしました。
まず図書館でコピーしてもらった戦前の資料や偶然見つけた資料を取捨選択しました。コピーしたら読み終わった気分になり、頭には残っていないことは良くある話でして、専用ノートに筆記するのが基本であることを改めて反省し認識しています。そのような低次元のことですので椿事というには烏滸がましい報告でした。

開港後の大阪川口居留地から欧米系貿易商の多くや広東系買弁が神戸へ鞍替えした後にその跡地が基督教布教の橋頭堡になっています。その中の流れの一つに現在のプール学院の祖型があります。

イギリス聖公会系:永生女学校(18794番)→プール女学校(189012番)→東成区天王寺村勝山(1916/7)→聖泉高女(1940)→プール学院(1947~)
4番や12番とは、1868年の居留地26区画(後に10区画追加造成)の番号です。
1940年の聖泉高女への改称(英国人A.W.Poole主教にちなむカタカナの校名から漢字)は戦時下での「時代の要求・圧力・忖度」からでしょう。その聖泉高女時代の卒業生の一人に八千草薫さんがいます。

「今どき、二人に一人が癌になるのだから・・・」と言われても、癌になった者には何の慰めにも励ましにもなりませんでした。
八千草薫さんより70歳若い女子水泳選手が血液癌になったとの速報に、高校の同級生が「神様は・・・」と絶句したのが印象的でした。日頃、未来の都市計画やコミュニティについて歯切れのよい結論を出すことの多い人なので実に印象的でした。50歳代前半で骨髄ドナーの登録の戦力外通告をされたあとは賛助会員になっていること、移植可能なドナーと合致するケースが少ないこと、根本の問題として登録母数が少ないことを友人に話しました。
一過性に終わらせず骨髄ドナー登録や献血の活動が根付くことを祈ります。

2月22日、京都シネマで『空と風と星と詩』を観ました。
2016年に韓国で制作されたモノクロ映画の印象はとても深いものでした。立教大学英文科から同志社大学英文科に移るも卒業することが出来なかった尹東柱(創氏改名により平沼東柱)の短い一生(1917年12月30日、間島:現在の吉林省延辺朝鮮族自治区にて出生~1945年2月16日、福岡刑務所にて獄死)を描いた作品でした。祖父が村の基督教会長老を務める信仰の篤い一家に育ち、基督教系中学校に進学しています。
1944年2月22日、京都で従兄の宋夢奎とともに治安維持法違反容疑のため起訴されており、その取調べシーンを軸とした服役に至るまでの道程がカットバックの手法で説得力を生んでいました。

映画のタイトルとした詩集の題名を、詩的とは言えない表現をすると「故郷と家族と信仰と詩作」ではないかと感じました。
「言葉と文を失い、名前まで失った時代」にはこの四つを守り通すことは困難と葛藤を伴うものであったと考えます。
従兄は学徒動員を逆手に取って、軍隊内の反軍活動から武力独立運動への行動で葛藤を断ち切ろうとします。従兄は個人の尊厳や心情を大切にする尹東柱を理解し、愛情をもって運動や闘争から遠ざけます。そして、立教や同志社の関係者による協力で、尹東柱詩集を英文化して英国で出版する試みも発送直前に逮捕され挫折します。しかし、法的には整った形で作り上げた調書に自署を強要する取調官(どこか左翼運動からの転向者の匂い)の欺瞞と論理の矛盾を突きます、しかしそれを伝える言葉も日本語でした。

ここで、二人の詩人のことを添えます。
一人は、上海の朱實(瞿麦)老師(1926年9月30日~)。
昨秋「戦後初期の移動の軌跡」をテーマとした短文の準備をしました。
上海駐在時代からご本人に接してお聴きして知った1949年に台湾基隆港を脱出して天津港への移動、それに至る政治行動と高校時代からの文芸・音楽活動の軌跡をたどたどしく綴りました。

・・・一九三七年の中国語禁止と一九四六年の日本語禁止という台湾における苛酷な言語政策に象徴される「言語を跨ぐ世代」(孫芳明『新台湾文学史』)の一人として大戦直後の台湾文学の一翼を担った朱實青年の「勁草知疾風」の行動と表現の足跡を辿りました。

もう一人は、ユーリー・ジバゴ。
パステルナークの発禁小説が秘かにイタリアに持ち出されて翻訳出版、ノーベル文学賞を授与されるもソ連政府の圧力で「辞退」という今も繰り返されている事件の発端になった作品。
詩人の魂を持つ医師ユーリー・ジバゴがその小説の主人公でした。1965年、デビッド・リーン監督により『ドクトル・ジバゴ』は映画化され、1966年6月に日本で公開されています。2月25日にBSで放送され、1966年7月に山口県の映画館に何度も通ったことを思い出しました。
大阪の高校に転校して同級生が英語のペーパーバック版の小説(カポーティ『冷血』など)を鞄に入れているのに刺激されました。梅田旭屋書店(今のヒルトンホテル辺り?)を教えて貰い『ドクトル・ジバゴ』を買ったまま未読死蔵しています。主演のオマー・シャリフが心臓発作で逝去した新聞記事を見て、ジバゴと同じ死因だと思ったのは2015年でした。

尹東柱に戻ると、NHKディレクター時代の1995年「NHKスペシャル」でドキュメンタリー『空と風と星と詩―尹東柱・日本統治下の青春と死』を手掛け、その後も研究を重ねてきた多胡吉郎氏の文章の一節と良書の紹介に留めます。

・・・何もかもが「大日本帝国」の遂行する戦争に総動員され、朝鮮の文学者たちの少なからぬ人々が日本語での時局迎合的な作品に手をそめることになったこの時期、朝鮮語でのみ詩を書き続けた尹東柱は、韓国文学の暗黒期に燦然と輝くかけがえのない「民族詩人」として称揚される。

『生命の詩人・尹東柱『空と風と星と詩』誕生の秘蹟』(影書房)より
1919年から100年目の3月1日直前に、モノクロ映画と、詩人たちと、闘う人たちへの祈りを思いました。                     (了)