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2022年5月16日

『老子』を読む(五)

井嶋 悠

第16

 虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。万物は並び作(お)こるも、吾れは以って復(かえ)るを観る。

⇔「虚静」「虚心坦懐」「無心無欲」

常を(常道不変)を知れば容(包容)なり。……天は乃ち道なり。道は乃ち久し。身を没うるまで殆(あや)うからず。

◇私が現職中半ばくらいまで、中学校の進路指導で、某私立男子高校を言われると、多くのヤンチャは「オレはここまで堕ちたか」と泣いたと言うほどに忌避されていた学校がある。そこの或る教師からたまたま聞いたことが、今も鮮烈に残っている。
同類が集まって学校の態を為していて、1年次はバラバラな暗鬱状態であるが、2年次になると自省、覚悟ができて来るのか、落着き、徐々に団結力が生まれ、3年次の文化祭や体育祭で、それが極に達する。その光景、そこに到る彼らと接していると途方もない感動が私を襲って来る、と。
その教師は、無心無欲の教師なのか、教育愛に徹した教師なのか。「同情ほど愛情より遠いものはない」[私が今もできていない重い言葉。]愛情と同情は違う。愛情は無心であるが、同情はタテの距離がある。とすれば先の両者は表裏一体なのか。
その教師が感動を体感している時、私は小学校時より特別に学力優秀で、それがために中学1年次1学期に挫折を知る、そんな生徒の集まりの女子中高校に在職していた……。と言って恥じているわけではない。私は私なりに感動を味わっていた。
尚、その学校は、或る時を境に、今では普通の?進学校に変じている。その教師はどうしただろう。

第17

 信(誠実・信義)足らざれば、乃ち信ぜられざること有り。悠として其れ言を貴(おも)くすれば、功は成り事は遂げられて、百姓は皆我は自然なりと謂わん。

「無為自然の政治(政治の跡を残さない政治)」⇔「仁愛の政治」「厳刑(法家)の政治」

◇専任として2年目、右も左も分からないまま、中等部3年のクラス担任をした。初めての経験である。今の時代なら問答無用の幾つもの失敗、失態も多かったが、精魂込めてした。生徒がそれぞれに、言葉を最小限にする私について来てくれた。凄い一年だったと今も思う。そして高等部1年に持ち上がることを頑なに拒否した。怖かったのである。
三校目の赴任校に“金八先生”的熱情そのままに話す先生がいた。彼をカリスマ的に慕う生徒(多くは女子生徒)もあって、当然高校2年、3年と持ち上がるつもりだったようだが、一部の保護者、生徒から反発が出で、2年次で交代した。交代したのは私だった。交代した初めの内、彼を支持する生徒たちから散々反撥された。生徒の中には、私のクラスには厄介者ばかり集められたとひがむ者もいた。

『老子ノート』を書くに相応しいかもしれないといささか自負している。と思い返せるのも、最初の勤務校以後の多くの経験、苦難がそうさているのだろう。

第18

 大道廃れて、仁義あり。智慧出でて、大偽あり。六親和せずして、孝慈あり。国家昏乱して、貞臣あり。

 「大道」と老子・老荘⇔「仁義」と孔子・孔孟

◇公立学校はいざ知らず、私立学校広報は言葉の洪水である。都会に出れば、有名無名問わず、どの学校もアピール(セールス?)に余念なく、カタカナ言葉を交えて、一大狂騒合戦のよう。はてさてどの学校が良いのやら、そもそも何を以って良いとするのかに始まり五里霧中、結局は“有名校”に流れ、高偏差値で安心の支柱を得る……。これを当たらずとも遠からずとすれば、この範疇に入らない生徒たち、そして教師たちの心はどのように揺れ動いているのであろうか。
羊頭狗肉とまでは言わないが、勤務した学校のモットー[信条、指標]と実際が全き合致している教育機関は、先ずない。それを承知で説明会に行き、豪華な学校案内に魅入る。中には、入学後「話と違う」と苦情申し立てをする保護者に何度も出会った。
学校でも然り。ヒトが生きるということは、可能な限り自身の心に忠実に、他者と、社会と、接点(或いは妥協点!)を作るしかないのではないか。それが自身に許されないなら、「好きにしたら」と突き放すか、突き放されるか。と、私は私を顧み[省み?]思う。
ところで、ここでの「智慧」の使い方。学校教育では、「智慧」と「知識」を、生の骨組みに於いて意図的使い分けているので、少々違和感がある。改めて老子に提示されると考えてしまう。それぞれを[wisdom][knowledge]と英語で綴るとなおさらだ。
知識人・知識階級とは言うが、智慧は使わない。「智慧者」とはあまりいい意味ではなく、老子に近い?また「智慧賢しら」とは言うが「知識賢しら」とは言わない。
この使い分けは、道理の多少、深浅に関係ありそうだ。なぜなら知識に道理(心)は関知しない…?

第19

 素(そ)を見(あら)わし樸を抱け、私を少なくし欲を寡なくせよ。学を絶ち憂いを無くせよ。

⇔聖(叡知)を絶ち智を棄つ。仁を絶ち義を棄つ。巧を絶ち利を棄つ。

◇不登校が増えている。中学生では35人に1人が不登校の由。老子の言葉は、文明化、近代化への楔である。
しかし現実は留まることを知らない。美しい校舎、充実した現代設備・施設、そして自由。
「学、学、学…」何を学ぶのか。
不登校生とは、登校を拒否することで、そのことを無言で提示しているのではないか。
老子ならどう応えるのだろうか。孔子の方がまだ応えが分かりやすい。

こんな学校を経験した。
一部の?インターナショナル・スクールの、一部の日本人生徒・保護者の心身の豪奢心に強い違和感を持った。インターナショナル・スクール本来の心ある外国人生徒、保護者があるにもかかわらず。
現在、日本型?!インターナショナル・スクールが乱立し、IB,IB(国際バカロレア)とかまびすしい。
老子は極端に言うことで論旨を明確にしているのだろうけれども、あまりに軽薄な日本の今が怖ろしい。国際社会での「日本らしさ」とは何か、インターナショナル・スクールや外国人子女、海外・帰国子女教育に係わった、係わっている教師、生徒・保護者はよく視えるはずだ。

第20

 俗人は昭昭たり、我は独り昏昏たり。俗人は察察たり、我は独り悶悶たり。……衆人は皆用うる有り。而るに我は独り頑にして鄙(能無し、無力)我は独り人に異なり、而して母に食(やしな)(養)わるるを貴ぶ。

◇教師と坊主(東西の)は、酒癖が悪いと言う。私的経験では説得力はある。理由は今では日常用語となっていと「ストレス」である。そこに聖職者意識と人間者意識の間に揺れる姿があるからである。私は無類の酒好きであるが、己がそれまでと己への謙虚さ、と言うか前者意識の気恥ずかしさから、後者に徹していた。ただ、老子の言葉を借りればそれは「沌沌」であり、「昏々」であり、「悶々」で、徹するにはほど遠かった。そこに生徒からの、同僚からの、保護者からの教師・人間評価の分水嶺があったように、今にして思えば思う。
宗教系の学校の、その宗教の信徒は意志が明確であった。「母」を持っていた。だから動じることはなかった。ただ、人によって酒の加力で悶々が爆発することを何人かに、何度か見た。その人にとって、それは切々たる思いであったろう。私にとっては単に深酒の二日酔いが。
そして今、私は「母」を求め、あちこちで母を言っている。父は出て来ない。

2022年4月16日

多余的話(2022年4月)  『社区』

井上 邦久

「テーマが多ければ多く書き、少なければ少なく書き、書くことが無ければ書かない、私はこれを誠実に守っていく宗旨とする。」

これは1961年10月30日、毛沢東によって『人民日報』社長に棚上げされた鄧拓(筆名:馬南邨)が『燕山夜話』第二集出版の巻頭に寄せた短文の一節です。夕刊紙『北京晩報』のコラムが好評で出版を重ねていた時期のことです。

米寿祝いのスタジアムジャンパーがお似合いの北基行先生から長年講読指導を受けています。講読会の現代文テキストに『燕山夜話』を毎月一話読み繋いで今月で67話目、と言うことは已に5年余りが過ぎたことになります。講読会の母体として先行してきた華人研は感染症のため休会が続きましたが。その間も講読会は継続しつつ、『燕山夜話』の第1集第1話からの原文・北先生の訳文・関係する画像・時代背景などの「ひとそえ」を華人研のHPwww.kajinken.jpに月二回連載し、二つの会の安否確認のように発信してきました。

 3月から華人研も定員制限や予防対策を遵守した上で再開できました。2年ぶりの再開は崑劇女優・崑劇研究家の登壇のお蔭で盛況でした。4月は奇しくも崑劇のふるさと崑山市で合弁企業を経営した方の報告です。大阪と製薬産業、アジア食品事情の話題も豊富ですが、福井の実家での農業との兼業ビジネスマンの生活と意見も楽しみです。 www.kajinken.jp を覗いて頂ければ幸いです。

2月に罌粟(ケシ)、3月に緒方八重さんをテーマに「多余的話」を書きました。

過去のことをほじくり返した印象を残したかも知れません。ただ鄧拓の言葉通り、書くことがなければ書かない姿勢に賛同しています。また、過去の時代のテーマが多いのですが懐古趣味は控え、なるべく現在につながることを意識しています。その意味で上海の歴史著述家の教授から、「多余的話、均已拝読、有意思的話題、具有現実意義」とかなり甘口の評点をいただいて、ルーキーが初ヒットを打ったように喜んでいます。

 或る弁護士からは無名氏の散文詩が届きました。西安や長春の感染者が増えた時、上海人はかなり辛辣に「地方」の管理の甘さを指摘していましたが、今になって上海も感染が拡大し、自慢の厳重な管理体制が崩れ、自尊心も傷ついたことを慨嘆しています。
また、長年の上海暮らしを続けている複数の方からも、団地毎にある「小区」の柵の中での生活、水道水を飲み水にする習慣が途絶えた人たちの生活をリアルに教えて貰いました。
国家の下での「単位」と呼ばれた末端管理組織が、街道弁事処・「社区」・居民委員会という形で変遷しています。疫禍までは関心の薄い存在だった気がします。

チャイナ・ウォッチャーのベテラン津上俊哉氏の近著『米中対立の先に待つもの』(日本経済新聞出版・2022年2月)は、「各論悲観・総論楽観」の繰り返しに飽きて(ご本人の弁)、控えてきた本の出版を久々に再開した力作です。まさにベテランが満を持して放ったホームラン。これにより氏の長打率はさらに高まった印象があります。
その一節、草の根大衆が習近平主席のコア支持者(第二章 急激な保守化・左傾化―転換点で何がおきたのか)に書かれている、「都市部における「街道弁」は、農村部における「村」と並んで、党と政府組織のピラミッド最底辺だ」の考察に注目しました。「街道弁」は「社区居民事務所」の上部機関とほぼ同義だと理解します。

これら最底辺の基層組織は、かつて一人っ子政策の推進者として住民に圧力を掛け、我々外国人の不行跡を「関所」で監視してきました。普段は普通の「大媽(おばさん)」達が、時に末端党員の意地を見せると怖くて、我が方にも落ち度や弱みがある場合には更に怖い存在に化しました。ロックダウンという非日常下で、日頃は目立たない党や行政の末端組織のマシーンがフル稼働して、検査実行・隔離徹底・食糧分配などに大活躍していることでしょう。津上氏は、この草の根大衆のムーブメントについて、戦時下の日本の大日本国防婦人会や隣組を彷彿させると書いています。昨年来、NHK大阪放送局が、大阪港湾地区発祥の婦人会が先鋭化した背後に「家庭の隅に追いやられていた嫁たちの鬱積していたパワー」があることを浮き彫りにしたドキュメンタリーを製作しました。何度か見て、視野を拡げてもらったことと「社区大媽」に通じるものに気付きました。

氏は「トランプ前大統領のコアサポーターと一脈通じるところがあるのだ」とさらに鋭い指摘をしています。プワーホワイトと呼ばれる低所得白人労働者を描いた『ヒルビリーエレジー』を読んだ時、ボストンの工事現場でレッドネック(日焼け)の労働者を見かけた時の「繁栄する社会の隅に追いやられた者たちの鬱積した怒りとパワー」を思い出しました。
個人的にも 中国現地法人の職員の給与や賞与の査定をするときに、高額な家賃を負担して刻苦奮闘している他の省出身の「外地人」職員と、幾つかの高級マンションを所有して、給与より世間体と健康のために出勤しているらしい「本地人」職員の処遇に考え込んでいました。また教育機会を得ることを政治や経済環境が許さなかった時代と、大学卒業生が年に1,000万人を越える時代とでは、経歴比較の尺度が変わるでしょう。
金持ちになり損ね、教育機会を逃して、社会の隅で生活している人たちの層に習近平主席は支持基盤を発見した、という論旨を津上氏の著作に教わりました。

一方で3月5日の全人代での李克強首相による政府活動報告から「共同富裕」の文字が激減していて、振り子の揺り戻しも予感しています。
政治的にも、経済成長の観点からも、「先富論」からは離れがたいのでしょうか?「共同富裕」であろうと「先富論」であろうと、全ての根幹である食糧について、コメはほぼ自給自足です。トウモロコシの不足分の70%はウクライナに頼っている中国が、小麦や大豆に続いてトウモロコシも米国からの依存度を上げるなら、米中関係の振り子も微妙に揺れることでしょう。
今の段階では食糧自給率を云々するほどのこともなさそうですが、振り子の揺れの範囲を知りつつ、振り子の現在位置がどこにあるのかを今後とも確認したいと思います。

2022年3月20日

多余的話(2022年3月) 『緒方八重さん』

井上 邦久

最高気温が連日新記録を更新して、一気に草木の芽が張る季節が来ました。艸という形に由来する草の字には春が内在しています。そして志貴皇子の歌、

「岩走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも」
を思います。

万葉集には「石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨」とあり、ここの佐和良妣は「蕨」か「薇」か?と酒友中国文学者桑山竜平に訊かれた万葉学者の大浜厳比古は『万葉幻視考』(集英社)に啓発に満ちた酒席噺を綴っています。

味わいのある酒の上での話を、早くみなさんと楽しみたいです

福沢諭吉も酒豪であったと聴いています。
門閥にこだわる中津藩の狭量さに嫌気がさして、蘭学修業先の長崎から故郷中津に戻らず、大坂の緒方洪庵の適塾に直行して頭角をあらわしています。
灘や伏見の酒にも馴染んだ諭吉をはじめ、貧しい書生たちの面倒をみたのが緒方八重さんその人です(億川百記の娘、摂津国西宮名塩に生まれ。洪庵が適塾を開いた頃に十七歳で結婚)。

 福沢諭吉の同郷の後輩、田代基徳(陸軍軍医校長などを歴任)は特に貧乏で、按摩で糊口を凌ぎながら猛勉強したとか。常に空腹で、深夜に樽の餅を盗もうとして、八重さんに出くわし夜具を被って隠れていたら、八重さんから掌に沢山の餅を載せて貰ったという逸話を、「中津藩出身の蘭学者」(川嶌眞人『大阪春秋』「緒方洪庵生誕200年特集」号)でとても味わい深く読みました。

緒方洪庵の偉業を要約すると、以下の三点になるのではないかと思います。
先ず、適塾を開き福沢や田代のような多くの俊才を育成したことがあります。姓名録の記録だけで637名とのこと。
次に、町医師や町人と除痘館を開設して、牛痘種痘の施療とワクチン分苗ネットワーク(池田・伊丹・灘・西宮など)を民間主導で築いたことです。
三点目として、1858年のコレラ大流行に際し、長崎の蘭館医ポンペの口授治療法(松本良順訳)に並行して、医訳書『虎狼痢(コロリ)治準』を緊急出版したことが挙げられます。ポンペは阿片やキニーネを大いに推奨しているのに対し、洪庵は使用を否定しているわけではないものの多量な使用には異論を唱えていたようです。

以上の事柄は、古西儀麿『緒方洪庵と大阪の除痘館』(東方書店)などの医学史書に詳しく、また『ぼくらの感染症サバイバル 病に立ち向かった日本人の奮闘記』マンガ:加奈、監修:香西豊子(いろは出版・2021年12月出版)で楽しく読めます。
小学高学年以上からを対象に監修したとお聴きしましたが、緒方洪庵からジョン・スノウ(1854年、ロンドンでのコレラ流行を終熄させた「疫学」生みの親)まで幅広く書かれています。
未来からタイムスリップしてきた緒方洪庵の子孫が、中学生と古代から現代までの疫禍の現場に飛んで人々の奮闘を知る筋立てです。

2021年10月『牛の話』で触れた仏教大学香西春子教授の講座は、対面教室で、色々な貴重な医学史料を手にさせてもらい、質疑応答も無制限でした。随分お得な疫学史と公共衛生の入門コースでした。 
スペイン風邪の終熄後100年の間、天然痘撲滅を初めとする感染症との奮闘を「征圧」と過信して、感染症用病床を減らし続けた経緯を教わりました。現在も適塾のお膝元で感染症病床の不足が何度も伝えられる背景を考えるヒントになりました。
また、西洋医学の日本導入期に貢献したポンペ医師の写真を指し「偉丈夫で胸を張っていますが、意外と若くて30歳前後だったのです」というコメントは新たな発見でした、軍医出身だったポンペが、明治政府の医学・衛生行政にどのように影響したかも考えさせられました。

緒方洪庵は幕府の奥医師(将軍の侍医)に招かれ、渋々大坂から江戸に移り、その翌年(1863)に八重と九人の家族を残して没しています。文久三年、京の壬生寺に新撰組が屯所を置いた年です。八重さんは遺児や親族の子を幕府及び新政府の欧州派遣留学生として送り続ける一方、戊辰の戦の時には横浜に避難し、その後帰阪して適塾に住んでいます。
1873年には除痘館がその役目を終えて閉鎖され、1875年からは八重さんの隠居部屋となりました。
適塾は保存対象の建築物となり、その脇の路地を南へ抜けた除痘館跡、大阪市中央区今橋三丁目のその土地には緒方病院ビルが建ち、その4階に除痘館記念資料室があります。

「適塾の偉大さは、緒方洪庵の偉大さによるものであるが、病弱の洪庵と多くの門人たちの世話を一手にひきうけて、門人から慈母のように慕われた八重夫人の内助の功をわすれてはならない。」、これは伴忠康の『適塾をめぐる人々―蘭学の流れ』(創元社)の巻頭に記された言葉です。

明治十九年二月七日、八重さんは62歳で逝去。孫の緒方銈次郎氏の文章によると、「葬儀の式は空前の盛儀を極め、親戚知己を始め適塾門下多数の参列を受けて阿倍野に送られた。葬列の最前列が日本橋付近に差しかかった時、棺は未だ北浜の拙齋宅を出て無かった程に長かったといふことである。」とあります。
もともと近場の長柄村で葬儀を行い、北区寺町の龍海寺の洪庵の墓に納骨をする予定が、参会者が予想以上に多く(二千余人とも三千人とも)直前に阿倍野(天王寺村)斎場に変更されています。
翌月、福沢諭吉は東京から龍海寺に参り、お供の慶應義塾員の酒井良明を止め、「これは私のすることだ」と自ら墓石を洗いあげた、と伝えられています。

これより先、明治十八年十月二日、五代友厚の葬儀は中之島の邸(現日本銀行)から淀屋橋南詰を東に・・堺筋南へ、住吉街道鳶田より東へ、天王寺村埋葬地へ着す。・・大阪府に於ける紳士縉商と称せられる者は悉く皆会葬し、その数実に四千三百余人の多きに達し、大阪府空前の盛儀を呈したり、と伝記にあります。

2022年3月19日

『老子』を読む(四)

井嶋 悠

途方もない迫力で心に迫って来ます。人生に一冊で老子を挙げる人が少ないことが得心できます。私もそうなりたいです。
今回は11章から15章です。

第11

 有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり。 
←埴(つち)をうちて以って器を為る。その無に当たって、器の用なり。
「無用の用」(『荘子』)

◇学校は、他の組織社会同様、その学校創設目的に合った教職員が構成し、そこに共振する生徒・保護者が集まる。そこに有用無用はない。しかし、現実はそれぞれの有用な人のみに視線が向く。これは「個を活かす」との教育の根本から乖離している。しかし、私たちにそれほどの余裕(ゆとり)があるだろうか。もし、この余裕が学校に満ちれば、教職員を含めた不登校(登校拒否)は確実に減るのではないか。

第12

 五色(青・黄・赤・黒・白)は、人の目をして盲ならしむ。五音は人の耳をして聾ならしむ。

 聖人は、腹を為して目(感覚)を為さず。故に彼れを去(す)てて此れを取る。

◇学校にはそれぞれの創設理念がある。公立校も然りである。しかし、少子化、学校間競争の過剰や公益性を無視し、なりふりかまわぬほどの生き残りを、或いは統合と称する一方の消滅を図る。私学で、一時期?生き残りのため、何が何でも進学実績を、男女共学化を目指すことが露わになった。その内、何校が現在正常な学校の態を為しているだろうか。
人間の平等、個の尊厳を言うならば、学校格差を無くす根源的解決をなぜ考えないのか不思議でならないのか、かねて来思っていたが、現実のヒト社会に、いかにそれが夢物語であるかを思い知らされて来た。今も、である。

第13

 寵辱(ちょうじょく)(寵愛と屈辱)には驚くが若し。大患(たいかん)を貴ぶこと身の若くなればなり。が身我が命あっての世事と治世。

 吾に大患有る所以の者は、吾に身有るが為なり。吾に身無きに及びては、吾に何の患い有らん。

◇当然のことながら教師も多種多様である。“デモ・シカ”教師もあれば、“サラリーマン”教師もいる。後者の表現があること自体、教師は聖職者との意識の表われかもしれない。
「子ども(生徒)のためには死んでも構わない」旨言った、校長がいた。言われた私は「どうぞ、頑張ってください」と応じ、ますます嫌われた。
私は、その校長の言葉に酔う性と権威性を苦手としていたので、皮肉でそう応えたのであって、校長がいかに生真面目であるかの証しにもなったのかもしれない。
その校長、その後、いろいろな学校を渡り歩く人生を送るのだが、その根幹は常に同じだった。その根幹、私など辛くて到底耐えられない。そのような類のヒトは他にもいたが、決して多くはなかった。
と言いながら、あの「サッカー部」顧問時代は、一体何だったんだろうと回顧することがある。

第14

 「夷(視れども見えず」「希(聴けども聞こえず)」「微(とらうるも得ず)」。この三つのものは詰を致すべからず。故(もと)より混じて一と為る。その上は明らかならず、その下は昧(くら)からず。⇔『無状の状・無物の象・惚恍。』

これを迎うるともその首(こうべ)を見ず、これに随うともその後(しりえ)を見ず。

古えの道を執りて、以って今の有を御すれば、能く古始(始源)を知る。

◇他人に個人的なことを質問されるのは、非常な緊張を強いられる。自身の中に明快な答えが即座に出せるほどに持っていればいいのだが、
私の場合、なかなかそうも行かない。その一つが「先生は、どうして国語の先生になったのですか。」ここには二つの苦難があって、一つはなぜ先生に?であり、もう一つはなぜ国語なのか、である。要は非常に不謹慎な教師なのだ。
それがあってか、大人同士の会話で「先生」と呼ばれることが、今もって円滑に私の中に入って来ない。

国語は曖昧な教科と言えばそうである。あの文法でさえ、また漢字でさえそうで、正解が幾つかある。いわんや、読解問題でも微妙なことは常である。作文となれば尚更である。それが明解な正解を求める生徒にはイラつかせる。評価の客観性と主観性に関して、国語科評価は微にして妙で、だから甚だ後付ながら私は国語を選んだとも言える。
その面白さを生徒が味わうことで、国語はすべての教科の基層的滋養になれるのでは、と我田引水している。それは、現代(表現・作品)を現代人としてだけで視るのではなく、古代人の眼を意識する広さを以って。
ところで、入学試験での、考える力を測る論述形式問題導入。今更何を、の主題ながら、各教育現場の評価する側の教師は、この一連の動き、報道をどうとらえているのだろうか。

第15

 古えの善く道を為す者は、微妙玄通、深くして識るべからず。

 此の道を保つ者は、盈(み)つるを欲せず。⇔「持してこれを盈たすは、その已むるに如かず」

微妙玄通。予として、猶として「猶予」(ためらう)。柔弱不争。

◇微妙玄通の哲人には、温厚篤実なイメージが色濃くある。教師も然りである。私自身、それぞれの職場でそのような人物と何人か出会った。私自身、気が短く、深謀遠慮に乏しいことを、その時々に自覚するだけであった人間だったので、なおさらそのような人物を尊崇した。そして、その人物たちは等しく己が宗教を持っていた。それは、仏教であり、キリスト教であった。宗教の巨(おお)きさを身をもって実感しつつも、私はその宗教の門の前でうろうろするだけであった。今、無宗教徒であり、であった自身を顧み、宗教にどこか惹かれつつも、このまま生涯を終える私なのだろう、とそこはかとなく思っている。
その中の何人かは既に天上に昇られているが、何人かの方とは今も交流が続いている。

2022年3月4日

多余的話  (2022年2月) 『津軽から茨木へ』(『父親と長男』改題)

井上 邦久

 2020年末から2021年初頭以来、集英社新書『人新世の「資本論」』は読者を増やしているようだ。1987年生まれの著者、斎藤幸平氏を画像で見る機会も増えてきた。
冒頭から、SDGsは「大衆のアヘン」である!と書き始める。そして・・・かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。
SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である、と続く。SDGsについての議論は別にして、何故SDGsに「アヘン」が比喩的に用いられるのか愚考してみた。そして、その流れでアヘンの深みにはまりそうで、始末に負えない予感がしている。

アヘン(阿片・鴉片)はケシから採取した汁を乾燥させ製造する。モルヒネ、コデイン、テバインなどのアルカロイドを含む。医学用途として鎮痛効果や一時的な昂揚感・多幸感を感じられるとされるが、習慣性・中毒性に陥ると心身の滅亡に到る。

『アヘンからよむアジア史』内田知行・権寧俊〈編〉(勉誠出版・2021)に「乱用薬物」を取り締まるための法律として以下の整理がなされている(一部省略)。

・アヘン関係:生阿片取締規則(1870)⇒旧阿片法(1897)⇒あへん法(1954)⇒現在・モルヒネ・コカイン・向精神薬関係:モルヒネ・コカインおよび其の塩類の取締に関する件(1920)⇒麻薬取締規則(1946)⇒麻薬および向精神薬取締法(1990)⇒現在
・大麻関係:大麻取締規則(1947)⇒大麻取締法(1948)⇒同法改正(1953)⇒現在
・覚せい剤取締法(1951)⇒現在   

 室町時代に南蛮貿易によって渡来したケシ・罌粟(アヘン・阿片)が何故か津軽にもたらされ(宣教師が治療用などで帯同したか?)、津軽はケシ栽培・アヘン精製・販売の拠点となった。津軽藩の奨励策により特産「一粒金丹」としてブランド化された。

ここからは陸羯南研究会で知り合った松田修一氏(東奥日報前特別論説委員・津軽在住)から頂戴した参考URLとご教示を抜粋する。

https://tsugaru-fudoki.jp/digtalfudoki/ichiryukin/

(森鴎外の)『渋江抽斎』は冒頭に「津軽地方の秘方一粒金丹というものを製造して売ることを許されていたので、若干の利益はあった」と書いていますが、月に百両の収入は若干ではありませんね。
一粒金丹は藩統制品でしたが、藩士は入手可能であり、他藩への土産品として持っていくことも許されたため、瞬く間に全国ブランドになりました。江戸市中にも(たしか)2軒の専売所開設が許されました。うち1軒が渋江家だと思います。
抽斎が医師として名をなしたのも、一粒金丹が万能の妙薬として人気がすこぶる高かったからでしょう。【中略】それで、ちょっとだけ調べてみたところ、名古屋大学の紀要『ことばの科学』(11号:1998年)に、次の論文が掲載されていることが分かりました。
「成田真紀 津軽医事文化資料と池田家文庫の撞着 ―渋江道直の一粒丹方并能書をめぐって―」。青森県内の図書館は所蔵していないようなので、国会図書館からの入手が可能か否か、聞いてみようと思います。まずは、同書を引用しているネット情報を見つけたので関係部分を要約します。
1837年(天保8年)ころ、大坂道修町の薬屋の奉公人が、取引先回りの際、津軽でケシ栽培やアヘン製造法を伝習し、種子を持ち帰り、摂津の国三島郡でけし栽培を始めた。・・・
だそうです。茨木ですね!!

松田さんのお蔭で、津軽⇒大坂道修町⇔摂津国三島郡=茨木がつながった。
『新修 茨木市史 資料集7 新聞にみる茨木の近代 三島地域朝日新聞記事集成』には以下のように纏められている。(1887.9.8)

・阿片製造の濫觴:天保八年島上郡西面村の植田五十八が同村玉川近傍字北の小路にて白色単弁の罌粟を栽培、之を以て阿片を製錬したるを創始とす。五十八の弟四郎兵衛は道修町の薬舗近江屋安五郎方に雇われ,商用ありて北陸奥羽の地方に到りしが津軽に於て阿片を製造するを一見し罌粟の栽培及び阿片に製錬する方法を習い、兄五十八に伝ふ・・・

・島下郡福井村の彦坂利平の弟治平が道修町の薬舗榎並屋三郎兵衛の養子となり阿片の買い入れの為、年々陸奥の津軽地方に赴しが、製造法の伝習を受け、種を兄の利平に授けて阿片製造の業を慫慂せり、天保十二年同村字秋浦にて罌粟栽培、同村田中庄三郎・南浦孫七等に伝えついで中河原・安威その外の諸村に伝わり遂に今日の如く西面村(高槻藩領:現高槻市)、福井村(一橋家領:現茨木市)ともによく似た経路で、津軽から大坂道修町(現大阪市中央区)の薬種商が種子・技術を移入し、摂津で下請け栽培をさせ、「一粒金丹」の津軽藩独占を崩そうと試みた構図が見えてくる。

若干後発であった福井村は「最良の阿片を製出するは島下の福井村にて同村の品は尤も多量のモルヒネを含めりとのことなり(同1884.11.21)」とある通り、明治時代の半ばには評価を上げている

『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』 倉橋正直(共栄書房 2002)には府県別生産1921年度(大正十年度阿片成績『艸楽新聞』1922年7月1日から転記)として下表があり

     ケシ栽培人員             阿片納付人員

大阪  3,492(人)  5,146(反)      大阪市 1(人)岡山   899      540         三島郡 4,013
和歌山  748      714         豊能郡  202
京都   285      224         北河内郡  21
兵庫   190      186         中河内郡  4
奈良    29       17         南河内郡  4

 この統計によれば大阪のシェアが圧倒的であり、その中で三島郡(福井村・安威村)が群を抜いている。

また、第一回大阪府実業功労者として個人表彰の新聞記事がある。 
                     (1922年2月11日)            
 中山太一 (中山太陽堂=クラブ化粧品) 化学品製造輸出伸張
 木谷伊助                朝鮮貿易伸張
 芦森武兵衛 (精工舎)         綿編及び紡絃の創
 辻本豊三郎 (福助足袋)        足袋の改良と公益助
 二反長音蔵               罌粟栽培普及(年産額
                          千五百貫
                     賠償金額参拾万円)

この二反長音蔵(にたんちょう おとぞう。旧姓川端音二郎が二反長家のレンと結婚)が大阪府三島郡福井村を拠点に、ケシの栽培・採取方法・モルヒネ含量向上の技術改良に努力し、栽培面積の拡大に尽力した成果が上記の地域別シェア記録や公的な顕彰に繋がっている。一方で、アヘン生産と戦争とは密接な関係がある。軍縮平和の時代は需要が低調になるが、軍拡戦争の時代はアヘン生産が連動して増加している。

1914 第一次世界大戦 軍需用モルヒネの需要増⇒原料アヘンの払底1915~1919 内地・朝鮮でケシ栽培の拡大 (二反長音蔵の出張指導 計5回)
1918 第一次世界大戦終結 軍需用モルヒネの需要減⇒原料アヘンの滞貨⇒ケシ減産
1931 満洲事変 増産体制へ転換。日中戦争/1937、第二次世界大戦/1941 増産強化1945 GHQより禁止令
1954 ケシ栽培の復活(戦前の10%の戸数。1960)⇒厚生省政策変更。限定栽培
ケシ栽培に連動するアヘンからモルヒネ精製の変遷を簡単にメモすると、
1915 星 一創業の星製薬が国産化成功(台湾アヘンの精製・台湾総督府との提携)
1917 内務省の指示で、大日本製薬、三共、ラヂウム商会に技術の公開認可
朝鮮で半官半民の大正製薬(国策会社であり、現大正製薬とは別)を設立
大正製薬の招請で、二反長音蔵が開城京畿道方面で指導調査。
1918 第一次大戦終結⇒モルヒネ輸入再開・相場下落⇒朝鮮でモルヒネを一般販売
1928 増産体制        
1933 大増産体制              
『新修茨木市史 資料集7 新聞にみる茨木の近代 三島地域朝日新聞記事集成』からの関係記事を取り上げると、安東(現遼寧省丹東市)、長白地区、張家口、旧熱河省などへの二反長音蔵の足跡を戦争末期まで追うことができる。

・阿片王国といはれる大阪府三島郡の阿片栽培者ハ毎年増加するばかりで、近来裏作といへば昔なじみの麦、菜種をすてて阿片を作るようになった。・・・裏作は全部阿片に・・・
 茨木署部内調査(17町村):1,456名、226.4町歩、631貫、
              137,529円

豊川、三島村、福井村、春日が多いが、福井村の生産性が突出    (1928.4.20)
・内務省「阿片栽培制限令」撤廃決定。栽培免許相続人の栽培も従前通り(1929.8。8)
・二反長音蔵、安東区阿片綜批發処の招請、東辺道長白府方面で指導視察。(1934.8.23)
・福井村で数十年ぶりに阿片密売者根絶。神戸方面の不正ブローカーの潜入などで、純朴な農村から夥しい違反者が摘発され昨年の如きは88件検挙  (1936.10.1)
・「罌粟増産協議会」が9月5日茨木中学校で各町村長、農会長、厚生省、府農務課参集。
・二反長音蔵、蒙古政府の懇望で、罌粟栽培と阿片製造のため令息の半君と29日出発。
原始的な大陸の罌粟の画期的増収のため種子、採汁法の改良により戦時下重要な阿片増産にご奉仕する。(1943.6.27)   
※茨木ゴルフ場(農地化)開墾着手(1943.8.14)

 二反長音蔵の長男の二反長半(にたんおさ はん、と改名)の遺作となった、『戦争と日本阿片史 阿片王 二反長音蔵の生涯』(すばる書房)には、「1943年、二反長音蔵(当時70歳)に蒙古連合自治政府から主席徳王の名で招聘状が届いた」とあり、「これが最後の御奉公や。蒙古にうんと白い花を咲かせてやったるで」と書かれている。村の裏作収益を上げて、「一日一善運動」を行いながら、国内外で水はけの良い南向きの傾斜地を探し当てては熱心に栽培指導を行った二反長音蔵は「大陸で被害を受ける者」への影響をどこまで意識していたであろうか。

伝記の著者の二反長半は。旧制茨木中学の先輩である川端康成や大宅壮一に憧れ、戦前から児童文学の創作や伝記小説、歴史小説を執筆。最晩年に父親の伝記を脱稿した直後に倒れ、出版を見ずに急逝している。
ポプラ社や小学館の「こども伝記小説シリーズ」で、作者を意識せずに、二反長半の作品を読んでいる児童が多いかも知れない。
モルヒネなどアルカロイド系薬品の国産化開発に尽力して、星製薬をトップ企業にした星一社長の栄光と没落を、長男の星新一は、小説『人民は弱し 官吏は強し』にしている。
そのなかに「無理に考えたあげく、やっと被害を受ける者のあることに気がついた。阿片吸飲者たちだ。煙膏に含まれているモルヒネの量はかわらなくても、味がいくらか落ちることになるかもしれない。それと、インドの阿片業者だ。しかし、これくらいの犠牲は仕方のないことだろう。(新潮文庫版)」という一節を忍ばせている。

星一は後藤新平の台湾阿片漸減政策と表裏一体となって事業を伸ばしたが、後藤新平の後を襲って政界や官界の主導権を握った加藤高明以下の官吏・政治家に追い落とされた。
星一には商品開発、利益追求そして自社存続をかけた裁判には注力しても、阿片吸飲者への影響は意識のなかになかっただろうか。
ケシ・アヘンの世界に生きた二人の父と、多くの屈折を体験して文学に活路を見いだした二人の息子の自らの父親についての文章は重い。

歴史・社会研究分野からは、『日中アヘン戦争』(江口圭一・岩波新書)が初学の出発点となり、上記に引用した倉橋正直氏の福井村のフィールドワークや『アヘンからよむアジア史』内田知行・権寧俊〈編〉の視点の広さに多くを学んだことを附記し感謝したい。

2022年2月27日

多余的話  (2022年2月) 『父親と長男』

井上 邦

 2020年末から2021年初頭の第一の波以来、集英社新書『人新世の「資本論」』は読者を増やしているようだ。1987年生まれの著者、斎藤幸平氏を画像で見る機会も増えてきた。  
冒頭から、SDGsは「大衆のアヘン」である!と書き始める。そして、・・・かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である、と続く。SDGsについての議論は別にして、何故SDGsに「アヘン」が比喩的に用いられるのか愚考してみた。そして、その流れでアヘンの深みにはまりそうで、始末に負えない予感がしている。

アヘン(阿片 ・鴉片)はケシから採取した汁を乾燥させ、製造する。モルヒネ、コデイン、テバインなどのアルカロイドを含む。医学用途として鎮痛効果や一時的な昂揚感や多幸感を感じられるとされ、習慣性や中毒性に陥ると心身の滅亡に到ると理解している。

『アヘンからよむアジア史』内田知行・権寧俊〈編〉(勉誠出版・2021)には、「乱用薬物」を取り締まるための法律として以下の整理がなされている。

・アヘン関係:生阿片取締規則(1870)⇒旧阿片法(1897)⇒あへん法(1954)⇒現在
・モルヒネ・コカイン・向精神薬関係:モルヒネ・コカインおよび其の塩類の取締に関する件(1920)⇒旧麻薬取締規則(1930)⇒旧々薬事法(1943)⇒麻薬取締規則(1946)⇒旧麻薬取締法(1948)⇒麻薬取締法(1953)⇒麻薬および向精神薬取締法(1990)⇒現在
・大麻関係:大麻取締規則(1947)⇒大麻取締法(1948)⇒同法改正(1953)⇒現在・覚せい剤取締法(1951)⇒現在   
室町時代に南蛮貿易によって渡来した罌粟(阿片)が何故か津軽にもたらされ(宣教師が治療用などで帯同したか?)津軽は栽培・精製・販売の拠点となった。津軽藩の奨励策により特産「一粒金丹」としてブランド化され、渋江抽斎も専売藩医として収入を得ていた。

以下に津軽在住の松田修一さんから届いた参考URLとご教示の文体のまま引用する。

https://tsugaru-fudoki.jp/digtalfudoki/ichiryukin/

森鴎外の『渋江抽斎』は冒頭に「津軽地方の秘方一粒金丹というものを製造して売ることを許されていたので、若干の利益はあった」と書いていますが、月に百両の収入は若干ではありませんね。一粒金丹は藩統制品でしたが、藩士は入手可能であり、他藩への土産品として持っていくことも許されたため、瞬く間に全国ブランドになりました。江戸市中にも(たしか)2軒の専売所開設が許されました。うち1軒が渋江家だと思います。抽斎が医師として名をなしたのも、一粒金丹が万能の妙薬として人気がすこぶる高かったからでしょう。【中略】それで、ちょっとだけ調べてみたところ、名古屋大学の紀要『ことばの科学』(11号:1998年)に、次の論文が掲載されていることが分かりました。「成田真紀 津軽医事文化資料と池田家文庫の撞着 ―渋江道直の一粒丹方并能書書をめぐって―」。青森県内の図書館は所蔵していないようなので、国会図書館からの入手が可能か否か、聞いてみようと思います。まずは、同書を引用しているネット情報を見つけたので、関係部分を要約します。

1837年(天保8年)ころ、大坂道修町の薬屋の奉公人が、取引先回りの際、津軽でケシ栽培やアヘン製造法を伝習し、種子を持ち帰り、摂津の国三島郡でけし栽培を始めた。
・・・だそうです。茨木ですね!! (引用終わり)

以上、松田さんのお蔭で、津軽⇒大阪道修町⇔摂津国三島郡=茨木がつながった。
『新修 茨木市史 資料集7 新聞にみる茨木の近代 三島地域朝日新聞記事集成』には以下のように纏められている。

・阿片製造の濫觴:天保八年島上郡西面村の植田五十八が同村玉川近傍字北の小路にて白色単弁の罌粟を栽培、之を以て阿片を製錬したるを創始とす。五十八の弟四郎兵衛は道修町の薬舗近江屋安五郎方に雇われ,商用ありて北陸奥羽の地方に到りしが津軽に於て阿片を製造するを一見し罌粟の栽培及び阿片に製錬する方法を習い、兄五十八に伝ふ・・・
島下郡福井村の彦坂利平の弟治平が道修町の薬舗榎並屋三郎兵衛の養子となり阿片の買い入れの為、年々陸奥の津軽地方に赴しが、製造法の伝習を受け、種を兄の利平に授けて阿片製造の業を慫慂せり、天保十二年同村字秋浦にて罌粟栽培、同村田中庄三郎・南浦孫七等に伝えついで中河原・安威その外の諸村に伝わり遂に今日の如く(1887.9.8)西面村(高槻藩領:現高槻市)、福井村(一橋家領:現茨木市)ともによく似た形で「津軽」を大坂道修町(現大阪市中央区)の薬種商が種子・技術を移入し、摂津で下請け栽培をさせ、「一粒金丹」の津軽藩独占を崩そうと試みた構図が見えてくる。
若干後発であった福井村は「最良の阿片を製出するは島下の福井村にて同村の品は尤も多量のモルヒネを含めりとのことなり(同1884.11.21)」とある通り明治の半ばには評価を上げている。『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』 倉橋正直(共栄書房 2002)p27からの転記。

 ・府県別生産1921年度(大正十年度阿片成績『艸楽新聞』1922年7月1日) 

ケシ栽培人員                 阿片納付人
大阪  3,492(人)5,146(反)    大阪市      1(人)
岡山   899    540     三島郡     4,013
和歌山  748    714       豊能郡      202
京都   285    224       北河内郡      21
兵庫   190    186       中河内郡       4
奈良    29    17       南河内郡       4

 1921年の統計では大阪のシェアが圧倒的であり、その中で三島郡(福井村・安威村等)が群を抜いている。続いて、第一回大阪府実業功労者として個人表彰の記事がある。(1922年2月11日)            

 中山太一(中山太陽堂=クラブ化粧品)  化学品製造輸出伸張
 木谷伊助                朝鮮貿易伸張
 芦森武兵衛 (精工舎)         綿編及び紡絃の創始
 辻本豊三郎 (福助足袋)        足袋の改良と公益助長
 二反長音蔵               罌粟栽培普及(年産額
      千五百貫。賠償金額参拾万円。30町歩(大4)⇒500町歩

この二反長音蔵(にたんちょう おとぞう。旧姓川端音二郎が二反長家のレンと結婚)が罌粟の栽培・採取方法・モルヒネ含量の改良に努め、技術と栽培面積の拡大に尽力した成果が上記の地域別シェア記録や公的な顕彰に繋がっている。しかし、アヘン生産と戦争とは密接な関係がある。軍縮平和の時代は低調になるが、軍の膨張とアヘン肥大化が連動する。
1914 第一次世界大戦 軍需用モルヒネの需要増⇒原料阿片の払底1915~1919 内地・朝鮮で罌粟栽培の拡大 音蔵の出張指導 計5回1918 第一次世界大戦終結 軍需用モルヒネの需要減⇒原料阿片の滞貨⇒罌粟減産
1931 満洲事変 増産体制へ転換。日中戦争/1937、第二次世界大戦/1941⇒増産一本槍
1945 GHQより禁止令
1954 ケシ栽培の復活(戦前の10%の戸数。1960)⇒厚生省政策変更。限定栽培
モルヒネの国産化:星一(ほし はじめ)の創業による星製薬が独自開発。                             1915 星製薬株式会社 国産化成功(台湾阿片の精製・総督府との提携)
1917 内務省、大日本製薬株式会社、三共株式会社、株式会社ラヂウム商会に公開認可朝鮮半島にて罌粟栽培拡大計画(目標1,500町歩)朝鮮で半官半民の大正製薬株式会社(国策会社であり、現大正製薬とは別)を設立し、罌粟栽培の拡大とモルヒネ製造に当たる。
音蔵、大正製薬の招きで開城京畿道方面に二千町歩余を指導調査。1918 第一次大戦終結⇒輸入再開・相場下落 ⇒朝鮮でモルヒネを一般販
1928 増産体制        
1933 大増産体制              
『新修茨木市史 資料集7 新聞にみる茨木の近代 三島地域朝日新聞記事集成』の関係記事を取り上げると、安東(現遼寧省丹東市)、長白地区、張家口、旧熱河省などへの足跡を戦争末期まで追うことができる。
・阿片王国といはれる大阪府三島郡の阿片栽培者ハ毎年増加するばかりで、近来裏作といへば昔なじみの麦、菜種をすてて阿片を作るようになった。・・・裏作は全部阿片に・・・
茨木署部内調査(17町村):1,456名、226.4町歩、631貫、137,529円豊川、三島村、福井村、春日が多いが、福井村の生産性が突出    (1928.4.20)
・内務省「阿片栽培制限令」の撤廃決定。栽培免許相続人の栽培も従前通り(1929.8。8)
・二反長音蔵、安東区阿片綜批發処の招請、東辺道長白府方面で指導視察。(1934.8.23)
・福井村で数十年ぶりに阿片密売者根絶。神戸方面の支那人の不正ブローカーの潜入などで連年純朴な農村から夥しい違反者が摘発され昨年の如きは88件検挙  (1936.10.1)
・「罌粟増産協議会」が9月5日茨木中学校で各町村長、農会長、厚生省、府農務課参集。
・二反長音蔵、蒙古政府の懇望で、罌粟栽培と阿片製造のため令息の半君と29日出発。※茨木ゴルフ場(農地化)開墾着手(1943.8.14) 

 『戦争と日本阿片史 阿片王 二反長音蔵の生涯』(すばる書房)の193頁には、1943年、二反長音蔵(当時70歳)に蒙古連合自治政府から主席徳王の名で招聘状が届いた、とあり

「これが最後の御奉公や。蒙古にうんと白い花を咲かせてやったるで」と書かれている。

著者は二反長音蔵の長男の二反長半(にたんおさ はん、と改名)。旧制茨木中学の先輩である川端康成や大宅壮一に憧れ、戦前から児童文学の創作や伝記小説、歴史小説を執筆。最晩年に父親の伝記の脱稿直後に倒れ、出版を見ずに急逝している。ポプラ社や小学館の「こども伝記小説シリーズ」で、作者を意識せずに二反長半の作品を読んでいる児童が多いかも知れない。

モルヒネなどアルカロイド系薬品の国産化開発に尽力した、星一社長と星製薬の栄光と没落を長男の星新一は、小説『人民は弱し 官吏は強し』のなかに「無理に考えたあげく、やっと被害を受ける者のあることに気がついた。阿片吸飲者たちだ。煙膏に含まれているモルヒネの量はかわらなくても、味がいくらか落ちることになるかもしれない。それと、インドの阿片業者だ。しかし、これくらいの犠牲は仕方のないことだろう。(新潮文庫版 p32)」という一節を忍ばせている。

星一は後藤新平の台湾阿片漸減政策と表裏一体となって事業を伸ばしたが、後藤新平の後を襲って政界や官界の主導権を握った加藤高明以下の官吏・政治家に追い落とされた。

星一には商品開発、利益追求そして自社存続をかけた裁判には注力しても、阿片吸飲者のことは意識のなかになかっただろうか。

村の裏作収益を上げて、「一日一善運動」を行いながら、国内外の各地で水はけの良い南向きの傾斜地を探し当てては熱心に指導を行った二反長音蔵は「大陸で被害を受ける者」のことにどこまで気がついていたであろうか。

 罌粟・阿片の世界に生きた二人の父と、多くの屈折を体験して文学に活路を見いだした二人の息子の自らの父親についての文章は重い。歴史社会研究分野では、江口圭一の『日中アヘン戦争』が初学の出発点となる。上述した引用図書の他にも『大平正芳と中日間の経済・外交に関する研究 – 張家口時代からLT貿易・中日復交・対中円借款供与』(『大平正芳と阿片問題』(民際学特集 田中宏教授退職記念号 龍谷大学経済学論集 倪志敏 2009)などの文章は、蒙疆における親日傀儡政権のアヘン政策の暗闇を教えてくれる。  (未了)

2022年2月10日

『老子』を読む(三)

井嶋 悠

第6章から第10章までです。

第6

 谷神は死せず、これを玄牝と謂う。玄牝の門、これを天地の根(こん)と謂う。天地の根……尽きず。

◇第1章に重なるが、私が直接に間接に経験した学校世界、教師世界は教師の性を問わず、母性が満ち溢れている。生命の源泉は女性で、男性は守護者であるにもかかわらず優位を保とうとする。その時、賢い女性は多くを語らず、黙してじっと相手を見つめる。それは教師対生徒でも同じである。母性=女性、父性=男性との領域に留まるかぎり、作為的男女平等がはびこるかぎり、学校は社会の良きモデルとはならない。

第7

 天は長く、地は久し。(「天長節・地久説」)。[天は永遠であり、地は久遠である。]
無私なるを以って、故に能く其の私(し)を成す。

◇教師の世界は閉鎖的だと言われるが、人間集まる限り大なり小なりそうではないか。と言うのは、個の特性を思えば、積極的な人、消極的な人がある。そこに善悪はない。それを積極性云々とあたかも積極性=優、消極性=劣、的に評価する教師が多いのは理に反する。私は「私が、私が、私は、私は」と言う人物が苦手だ。

典型的アメリカ人と言われていた、インターナショナル・スクールの或る男性教師の「そういう世界に疲れた。日本が良い。」は、私の中で非常に印象的に残っている。日本=優、良といったことではなく。

第8

 上善は水の若し。水は善く万物を利して而も争わず。「不争の徳」。
処世術と他者への「濡弱(じゅじゃく)謙下(けんか)」(穏やか・しなやか・へりくだる)「従順柔弱」

⇔孔子における「仁」、キリストにおける「愛」、釈迦における「慈悲」夫れ唯だ争わず、故に尤(とが)め(間違い、お咎め)無し。

◇教師は生徒を評価しなくてはならない。その評価の是非は生徒自身そして保護者に委ねられる。権威性の強い教師の評価を善しとする生徒の、また保護者の心理とはどういうものなのだろうか。自身は権威性など無縁だと思っている教師は、生徒にとって、保護者にとってどのような存在なのだろうか。好ましいのか、頼りないのか。

第9

 功遂げて身の退くは、天の道なり。⇔持(じ)盈(えい)、持満の戒め。(功成り名遂げて・成名)

◇難しい問題である。功遂げた、と誰が決めるのか。本人である。ヒトは欲望の塊でもある。教師も然りである。だから定年と言う強制を仕組まざるを得ないのかもしれない。社会からの或る意味、追放?

聖職者としての意識の高い教師はどうなのだろう。カソリック系の学校の修道女で教職にある人の中に、神に仕えることがすべてと当然のように、思い日々過ごしている。その人たちは子どもたちと接している毎日が退く時だ、と考えているのではないか。そして日の終わりに祈りを捧げ、眠り、朝を迎える。

ひどく人間臭い修道士に会ったことがあるが、多くの修道士はどうなのだろう。
プロテスタント系は、知る限りに於いて、非常に理知的で、人間的で、思春期の子どもたちにとって難しい。
仏教系の学校での教職にある僧侶は、どう思い、過ごしているのだろうか。化身との言葉は、教育でどのように生かされているのだろうか。

第10

 「玄徳」の教え。

 営(まど)える魄(うつしみ)(人の身体にかかわる精気:×精神にかかわる精気「魂」)を安んじ、一(いつ)(道)を抱きて、能く離るることなからんか。気を専らにし柔を致し、能く嬰児ならんか。……生ずるも而も有とせず、為すも而も恃(たの)まず、長たるも而も宰たらず、是を玄徳と謂う。

◇このような教師との出会いは少ない。これと真逆の校長には何人か出会った。その何人かは上司として。彼らは(すべて男性であった)言葉では魂魄を言い、嬰児の如くたらんを言うが、「私が・は、校長だ」だった。
では、その人たちを反面教師としていた私はどうだっただろうか。苦しい自問で、自答は詳らかにできない私である。ただ、一つ、私の中ではっきりしているのは、教頭にも校長にもなりたいと思ったことは一度もなかった。あの「外交性」が、或いは八方美人性が、私には到底できないと思ったから、ただそれだけである。

2022年1月27日

多余的話(2022年1月)   『骨正月』

井上 邦久

正月早々の題名にしては少々物騒ですが、正月用の鯛や鰤の骨を食べ尽くして、正月気分に区切りをつける二十日正月を骨正月と呼ぶようです。関東での正月も幾度か過ごしましたが、骨正月は聞いたことがありませんでした。
大阪日本橋、文楽劇場の正月興行では舞台の高い処に一対の大きな鯛が向かい合わせに飾られ(張りぼてです)、ロビーには本物の鯛が睨み合って置かれています。
元は江戸時代の京や大坂の商家の「始末」の習慣の名残でしょうか、骨まで愛されれば鯛も本望でしょう。

人形浄瑠璃の近代化は繁華な道頓堀から大阪市西区に座を移させ松島文楽座と命名した1872年1月を画期とする、その強引な移転は新政府の渡辺昇(大村藩。1872年~権知事、1877年~知事)の威嚇誘導による、との後藤静夫さんの説を聴かせてもらい共鳴しました。されば、今年は文楽座命名150年となります。

川口居留地址から木津川を挟んだ江之子島には大阪府庁址の石碑があります。府庁舎も渡辺昇知事により本町橋の西町奉行所(現マイドーム大阪・商工会議所)から西区へ移設、正面玄関もあえて大阪港、川口居留地という開国開化側に開き、旧大阪市街に背を向けていたことは以前に触れました。
幕末の剣豪で、桂小五郎や新選組とも縁のあった渡辺昇の大阪近代化過程での剛腕ぶりが想像されます。
その渡辺昇の名も出てくる『五代友厚傳』(五代龍作著)の一節に「当時君は大阪開港の為め、内外百般の重要事務を一身に負ひ、威望勢力遙かに知事を凌げると、松島遊郭の設置に関しては、之に反対せる者尠なからざりし・・・」とあります。
1868年、慶応から明治へ、京都から東京へ時代が激変する中、五代友厚は神戸事件や堺事件という外国人殺傷問題の対応収拾に奔走し、大坂開市開港にともなう外事・税関を束ね、外国人居留地運営の傍ら、年末に松島遊郭を設置しています。
居留地近くの松島に遊郭を集約化させる行動が出身地薩摩の保守派・武断派に燻っていた五代友厚への嫉妬・羨望を批判・炎上に繋げたようです。
19世紀の半ば、欧州から極東にやってくる海千山千の外交官や冒険商人そして兵隊の実態について、堺事件を通じて思い知った五代流外国人封じ込め策が居留地隣接の松島遊郭設置でなかったかと邪推しています。

一年前、大河ドラマに連動して渋沢栄一周りの話題が増え、映画『天外者』により五代友厚にも注目が集まりました。
途中報告でも伝えた渋沢栄一の聞き語り『雨夜譚』や『徳川慶喜公伝』を丁寧になぞった大森美香の脚本は実直な書きぶりで好感を持ちました。
脇役扱いの五代友厚については豊子夫人が保存した書簡と、葬儀にも名を連ねた片岡春卿(来歴不詳)による略伝を基にしていました。

山に降った雨が数日の内に海に注ぐ国には大陸のような大河はありません。そんな島国での「大河ドラマ」であります。ドラマであって歴史ではないことは「多余的話(言わずもがなの話)」です。

東京商工会議所を創設した渋沢と大阪商工会議所の初代会頭となった五代を大まかに眺めると、まず寿命の長短の差が大きく、遺した著作の多い渋沢と書簡私信だけの五代の違いがあります。
財閥とは言えなくとも企業グループを形成した渋沢家と養子の龍作らも実業界には雄飛しなかった五代家後継の流れは交わっていません。

1868+77=1945 1945+77=2022

維新から坂を登り続けて77年、分水嶺から転げ落ちてから今日に至るまでの77年、足し算は単純ですが、歴史的には少し考え込んでしまう77年の重みです。
旧真田山陸軍墓地も文楽座も保存や支援が必要になっています。
この国にも疫禍の過程で蛻変と始末が必要だと思っています。
今年は「蛻変(ぜいへん)」と「始末」について書き下したいと考えています。

2022年1月17日

『老子』を読む(二)

井嶋 悠

今回は『老子』の第2章から第5章までです。

第2

 美の美たるを知るも、これ悪(醜)のみ、善の善たるを知るも、これ不善のみ。
有無。難易。長短。高下(高低)。音(楽器の音色)声(肉声)。前後。
聖人は無為(無為を為す)のことに拠り、不言の教えを行う。
辞(ことば)せず。有せず。恃まず。居らず。(栄光・誉)去らず。

◇絶対評価と相対評価。凡々たる人間教師が絶対評価することの難しさ。「秀」としたいが、何をもってそうできるか。平生評価と試験(レポート等提出を含め)評価、例え25人学級でも可能か。それが1学年3クラスとして75人。絶対評価に挑むことで高まる教師力?
偏差値評価の再学習の必要?或いは「ヒトがヒトを評価する」ことの必然性と成績評価について。
教師と生徒、その一期一会は可能か。平凡な教師と非凡な教師、と考えた時、私が出会った非凡な教師は唯一人?

第3

賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争そわざらしむ。
無為を為せば、即ち治まざるなし。←民をして無知無欲ならしめ、その知者をして敢えて為さざらしむ。

◇教育における欲望とは何か。上になること。競争という欲望。そこで問われる学力観。塾・予備校の学力観は、社会の、学校社会の学力観があって成り立つはずであるが、今逆転しているのではないか。
敢えて塾・予備校を廃し(禁止)すれば、そこに何が起きるだろうか。教師一人一人の、学力観、競争観が問われることになるのではないか。その時こそ、客観的且つ総合的入学試験改革が視えて来る。

第4章

道は虚しきも、これを用うればまた満たず。淵(えん)として万物の宗たるに似たりその光を和らげて、その塵に同す。⇔「和光同塵」

◇真に優れた者は、際立ったことを為さない。50年ほど前、数学の研究者を目指す、長崎県の離島出身の人物と出会い、懇意になった。温厚篤実、実に穏やかな人物であった。親しく話さない限り、彼が途方もない優秀な道程を歩み、だからこそ苦悶することもあった人物であることを誰も気づかなかっただろう。彼は10年後任地で没した。

第5

 天地は仁ならず、万物を以って芻狗(すうく)と為す。聖人は仁ならず、百姓を以って芻狗と為す。多言はしばしば窮す。⇒「学を絶てば憂いなし」、中を守るに如かず。

◇「あの学年は、クラスは云々だった」と学年やクラス概評を教師はよくするが、これほど“個”を切り捨てた表現はないとも言える。
多言(おしゃべり)は醜い。生徒は黙って瑞々しい感性で見抜いている。生徒たちの馬耳東風。先の話題も多言の一変形。

2021年12月22日

『老子』《老子道徳経》を読む

井嶋 悠

小学校時代は前半が母子家庭、後半は伯母夫婦宅預り、中学時代は反抗期に加えて新しい母との折り合い悪く、また学校では被差別部落問題が絡んでの暴力事件の多発、高校は某国立大学附属に進学するも勉学、生き様の要領の悪さも手伝って「青春?嘘でしょ?!」の日々、悲惨な浪人一年、高校教師の訳のわからぬ大学評価の煽りを食らっての、との責任転嫁よろしく鬱陶しい大学生活、というかほとんど登校せずの日々、にもかかわらず試験や卒論は二人分を、時には三人分を請け負い、父の私の非社会性?を案じてか大学院進学を奨め、何も考えずに受験したところ何と合格!しかし大学院入学直後からの全共闘時代。ノンポリよろしく遠巻きに見たり、時に先輩後輩からデモ、アジ、占拠の勧誘もあったりで、ただただ直感的共感にもかかわらず優れた闘士に倣って?1年で自主退学。その後、家を飛び出し東京での放浪生活。

かような劣等人があろうことか、教師に到る道程で経験した四つの不可思議を記す。

27歳での、第一の不可思議。

高校時代のアルコール依存症の恩師(国語科)の突然の電話で、西宮にある大学併設の名門女子中高校国語科の、半年間契約の非常勤講師に。
続いて第二、第三の不可思議。

非常勤講師の一年延長、更には延長後の翌年に専任教師に。真っ当に職に就いたのが30歳。
授業や生徒指導は、知的に高度な生徒に鍛えられ、校務は先輩教師に“お仕置き部屋”での説諭も度々、更には保護者会なるものの存在感も教えられ、「なでしこジャパン」草創期の女子サッカー部顧問(監督)に10年ほど心身一途の打ち込み。
夜はほぼ毎日の痛飲。もっとも教師仲間の酒席は、生徒と同僚と保護者の品定め会で、“放浪”経験者としては、ほとほと嫌になり喧嘩も重なり数年後に一抜けし、女性教職員の私の将来を案じての愛情あふれる憂慮が功を奏したか、33歳にして結婚。

その後、体よくいえば時々の感情、意思の高揚に導かれ、幸いにもいろいろな人々の支えと何よりも私を知る人々から「よくぞ離婚されずに済んだな」と讃えられるカミさんの理解と協力を得て、最初の勤務校に17年間奉職するも、夢を追い、吹聴者に欺かれたのも含め、生涯三校の私学を渡り歩く。
とりわけ二校目では理想[国際の標榜、個性重視等々]と現実[塾あっての学校運営、大学進学がすべての進学教科指導粉骨砕身教師=優秀教師等々]を全身で知らされ、2年で白旗。
カミさんと二人の子どもを抱えての2年間の浪人生活。時に年齢40代後半。

第四の不可思議。

インターナショナル・スクールと日本私学一条校が協働する日本最初の学校に。
そこで10年。しかし、権威と独善を正義とする2代目校長を含めた一部日本人教師との軋轢と憤慨。60歳半年前に退職し、不登校高校生を集めた某私立高校に非常勤講師勤務。

そこに父親の遺産問題並びに我が家の住宅ローン問題、実母と継母との疲れる関係が重なって江戸っ子カミさんの英断。転居先は栃木県北部。先ずカミさんが。娘と私は数年後追いつく。

その娘、後で知る中学校時代の教師のネグレクト(いじめ)、持ち前の意地と理解ある教師の支えもあって乗り越え、高校へ。しかし、自身の意思で進学した公立高校の、学校の、教師のいい加減さに幻滅し、在籍校の指示[「進路変更」]通りの退学届けを提出。通信制高校へ。そこで卒業。
母の元に行き、某有名私立大学通信課程に合格。これは彼女の資質の発揮。
彼女の死について、「後で知った」から社会への告発をしなかったわけではない。すべては、娘本人、母の希望であり、かつまた私の性向を知ってのこと。何度か告発しようかとも思ったが、周囲の、相手の反応等も予測が立ち、母曰く「必ずその教師には天罰が下る」に矛先も緩む。

その中学2年次の教師による傷は深く、悪戦苦闘の日々が濃い心身の疲労感へと変貌へ。母娘2人3脚で続く、車で往復3時間ほどの病院通い。娘が心休まる医師との出会い。
しかしそれも空しく、2012年4月 娘、悪戦苦闘空しく他界。享年23歳。

いろいろな事が起こるは世の常……。
私は私で人生の自照、自省の始まり。2000年前後から始めた『日韓・アジア教育文化センター』のNPO法人活動(2019年、法人を撤退)が、生きる意思の支えに。

老子の断片が頭を過ぎるようになり、精読へと私を誘う。そこで始めた「教育」経験者の私の「[老子]を読む」がこれ。

老子道徳経[上篇]

第1

道・名
無欲は妙(微妙な始源)、有慾は徼(きょう)(表面的現象世界)
玄(深淵)のまた玄は衆妙の門

無名=道=始源→→→有名=天地=母[母胎]→万物

◇学校は母性社会だと思う。包み込む社会。女性の母性と男性の母性が融合する場所。有名進学校、受験塾・予備校は父性社会だと思う。断ち切る社会。

◇キリスト教主義の全国の中高校教員研修会(於:御殿場)に参加した時の二つの印象的なこと。
・結石持ちが多いのは女子校教師
・昼休みにソフトボール等運動を積極的にするのは女子校教師

◇男女共学化が進む中で、男子校が共学になるのと、女子校が共学になるのでは、教師の対応困難さが違う。
そして男性は母性を憧憬し、女性は父性を憧憬する。その調和が、平和を、動的な静態を生み出す。