ブログ

2019年10月3日

33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から Ⅲ 中等教育 [時代]後期(高等学校) その1


井嶋 悠

Ⅲとあるのは、個人的体験から「学校教育」を考える愚文の、小学校篇中学校篇に続く、第Ⅲ篇:高校篇との意味である。
個人的体験とは、自身の生徒時代及び33年間の私学中高校3校(33年間)での国語教師時代、そして23歳で世を去らざるを得なかった娘の学校不信であり、それらからの私の学校教育に係るホンネである。
このような気持ちに到らしめたのは、74歳という年齢になったことが私に何かを働き掛けているのだろうが、一番初めに記したように、旧知の友人でない或る方の私への一言が、大きく作用している。
いろいろなことがあり、いろいろな人に会い、いろいろな思いに駆られ、今日まで様々な人々の友愛、恩顧があってこそこんな私が来られた、と自照自省している過程で、その言葉は発せられた。
その言葉は何かを意図するものではない、当人の素直な感想なのだが、私にとって余りに痛烈であった。

「どうしてそんなに屈折してるの?!」

今後、その方とお会いすることはないとまで思わせたほどの、きつく突き刺さったこの言葉。非難するのではなく、人生を振り返る契機(きっかけ)をつくって下さったとの意味で感謝している。
本題に入る。

就職する生徒も多い時代、特に意識することなく高校進学の道にいた。そのための「進路指導」が、特にあったわけではなかった。
ただ中学3年次の修学旅行[当時は新幹線などなく、“修学旅行列車”で車内泊をし、東京方面に行った。]の列車内でクラス担任が行なっていた。“個人情報”など関係なく生徒たちがわさわさしている中で。このゆるやかさは好きだ。良い時代だったと思う。
一言で指導は終わった。「池附、受けたらどうや」。
池附とは、大坂教育大学付属高等学校池田校舎の略称である。他に学年で10人余りが受験することになった。
今回は、その高校で得た教育私感である。

高校になると、生徒も教師も中学以上に個性的だったとの印象が残っている。ただ「進学校」で、である。要は、全員が大学進学を前提としている高校である。
私は自身の教師体験から私学進学校は苦手である。高校時間=問題集解読時間のように思えてならないからである。
もっともその進学校と言っても2種類あることは知った。一つは、余裕ある進学校。一つはただ進学校で、私が最初に教師になった私学は前者であったので少しは私自身心に余裕があった。しかし二つ目の学校は後者で、これはどうにもついて行けず2年で退職した。
以前に投稿した、家族共々地獄の3年である。

立ち戻って、生徒自身の時。
私は合格の歓喜もなく、漫然と時に流れに身を置いていたといった風情であった。ただ、合格手続きに行った際、事務室窓口で入学式までの大量の課題には唖然、呆然した。 (尚、その課題の後始末は、入学早々の試験で確認され、校舎入口に全員の成績と氏名が、成績順に大きく公表された。学習(主に理数系)嫌いな私の自業自得とは言え、最初の屈辱である。)
賢い(≠勉強ができる)同窓は、入学間もなく、付高=不幸と看破していた。教科学習、課外活動等々含めての学校時間と考えれば、なるほどと後に得心した。

と言うことで、今日当然のように言われる「個の教育」を考えることを目的に、私にとって個性的教師を何人か取り上げる。
もちろん生徒にも多種多様な思い出深い存在はあるが、学校教育の主要素は教師にある、と教師体験からの自省と教師に係る娘の悲鳴があるからである。
教科全体(特に「5教科」)で言えることだが、「進学校」の標榜がそうさせるのか、概ね教科書学習は2年次に終わり、後は多くが問題集(それも高程度の)をすることが多かった。(この記憶は、かなり大雑把ではあるが、そういった印象、記憶が濃い)。
また2年次後半から(一学年三クラス×50人前後)三クラスは『国立文系』『国立理系』『その他』の組に分けられた。あくまでも“られた”であって、自主的選択ではなかったように覚えている。

【私に係る余談】
初め『国立文系』のクラスであったが、数学に全くついて行けず、或る日、勝手に『その他』クラスに移った。しかし、事前に伝えていなかったため、或る教師が逃避行(さぼり)と思ったらしく、『その他』クラス生徒に確認され、そうでないことが判明、私は叱正の難を免れた。
それにしても、「その他」とは、今日では到底考えられない呼称である。ただ、前二者の名称を考えれば、単純明快名ではあるが。

以下、強く心に残っている個性的教師数人を紹介する。
高校の教師像を考える一資料として。進学校と言う制約があるが。劣等生の私のこと、授業内容に係る記憶はほとんどない。
尚、表現に際して尊敬語表現に不備な点が多々あるが了解いただきたい。
圧倒的に男性教師が多く、ここではすべて男性教師である。
現在、その母校は進学校としての地位を一層定着させているが、仄聞では私たちの時代とは比較にならないほどに変わったようで、教科学習、課外学習併せて、自由な佳き校風にあるとのことである。

【国語】二人紹介したい。
◎一人は、生徒に非常に怖れられていた40代前半の教師で、古典を専らにされていた。先生は、いつも教科書を用いて授業をされていた。
何でも大学院で能楽を学び、剣道4段とかで、4,50センチほどの竹棒を携帯し、実に姿勢よく且つ朗々とした声で、黒板の文字も颯爽と授業をされていた。 先生は、教室に立っておられるだけで、近寄り難い緊張感を漂わされていたのである。
しかしなぜか、私をかわいがってくださり、時に私が後方に座っていると、「井嶋!前に座れ」と、かの竹棒で教卓の真ん前をさされるのであった。
この私への愛情が、後に、三つのことで深くつながるなど、誰が想像し得ただろうか。その三つのこととは、  
 一つは、私を非常に嫌悪していた(その理由は今もって分からない)或る教師が、職員会議で私の退学(放校)を持ち出し、先生が抗弁くださり、その動議は当然のことながら否決された旨、他の教師から伝え聞いたこと。  
 一つは、先生に乞われて長期休暇中の身の回りの世話をすることとなった。 先生は、旧家の子息で、老母と同居され、結婚、長女の出生、離婚と目まぐるしい流転もあり、私が大学進学後も世話は続いた。 そこで直面したこと。先生はアルコール依存症であり、ギャンブル依存症でもあったのである。そして長期休暇中は、ほとんど入院されるのである。しかし、私の中で反発、批判する気持ちは微塵もなく、可能な限り世話をした。  
 一つは、先生は後に公立高校に異動され、私が大学院生の時、一学期だけであったが、その高校の非常勤講師を仰せつかった。その数年後(この数年間のことは私の身辺事情の変容であり、ここでは省略する)、私が27歳の時、私を私立中高校の教育の世界に導いてくださったのである。   
つまるところ、この先生の導きがなければ、今の私はいないのである。恩師である。

◎もう一人は、いつも気難しい表情の50歳代の教師である。
教科書も指導されたのであろうが、私には難問問題集(現代文)の先生との記憶が強い。ただ、どういう問題に取り組もうが、必ずと言っていいほどに、女子生徒がいるにもかかわらず我関せず、終わりはストリップの話しで落ち着くのである。「赤や青のスポットライト云々」と始まるのである。私を含め多くの男子生徒は、おっ来たとほくそ笑むが、誰も軽蔑していなかった。
やはり近寄り難い人格がそうさせたのであろう。   
修学旅行(南九州)でこんなことがあった。先生は引率責任者として来られた。或る夜、就寝時間後、日頃私たち数人から、試験の点数競争ばかりする嫌な奴と思われていた生徒一人に“布団蒸し”の罰?を加えたところ、襖を破ってしまった。更には恒例?の枕投げを部屋越しにし、欄間を壊してしまった。
先生は、翌朝出発前に旅館に謝罪され、私たちを一切咎められなかった。無言である。その時、怖れが畏れに変わった。   
私が教師になってから、年賀状を出すようになった。いただく年賀状には、常に短い漢文・漢詩が添えられていた。私が劣等生であることを承知されてか鉛筆で返り点、振り仮名がつけられていた。劣等生が国語教師になったことへのご配慮なのであろう。   
或る時、一冊の書が送られて来た。『芸道の研究』である。私は二度畏れた。   
先生が亡くなって後、息子さんと会う機会があった。北海道の高校で教師(体育)をされ、20有余年が経つ。

次回は他教科の先生方のことを、その 2として記す。

2019年9月23日

自殺は哀しい・・・・・

+井嶋 悠

自殺は哀しい。しかしヒトが社会を構成している限り、自殺が無くなることはない。 自殺は人間だけの、生きると言う苦行[憂き世]での課題の一つである。

こんな言葉に出会った。19世紀から20世紀にかけての、フランスの社会学者デュルケームの『自殺論』に係る啓蒙書にあった一節である。(筆者は宮島 喬氏)

「自殺は、それ自体で病的なものともいえない。むしろ、日常のわれわれの行動とある場合には、類似したものであり、ある場合には内通したものである。」

そしてこの考え方を、社会的、道徳的な視点でとらえ、そのことから社会的、道徳的動物である人間の自殺という行為を視ている。
個人的には、自殺という何者も侵すべからざる領域について「論ずる」ことの疑問を持っている一人だが、この言説に説得力を感じた。
ただ、犯罪者の自殺については、そこに悔悟の情があったにせよ、上記の視点に同様に含めることには、私の中で未だ明確にできない。

自殺は自身を「殺める」こと。なぜ殺めるのか、理由は様々だが、精神的自己放棄は共通している。ということは、放棄せざるを得なくしたのは誰か。自分自身か。或いは先の言を敷衍すれば、社会であり、道徳か。と牽強付会を承知で言えば自殺は「社会的・道徳的殺人」とも言い得るのではないか。
とすれば自殺者は、加害者であり被害者である。そこを明確にしなくては、ただ哀しい一事で終始してしまう。それでは自殺者の供養にならないことに今更ながら気づく。
私は自殺を誉め讃えようと言うのではない。やはり哀しい。しかしただ哀しいのではない。もう一つの 「愛し(い)」があっての「哀・悲し(い)」に思い及ばさなくてはならないと思うのだ。

自殺で宗教を持ち出す人は多い。ユダヤ教では、キリスト教では、イスラム教では、ヒンズー教では、そして仏教では、……と。 信仰とは、己が信ずる神(仏)に心身を委ねることだから、その委ねているにもかかわらず自身で命を絶つことは明らかに神(仏)に背くことになる。 その意味では唯一神信仰は、自殺を厳しく戒めることが想像できる。

それをキリスト教でみてみる。 『項目聖書』(聖文舎)[現代に生きる私たちが出会うさまざまな問題を項目別にあげ、それに関する聖書の箇所を、本文そのままに並べたもの《まえがき、より引用》]で「自殺」の項目がある。
その中で、【新約聖書】の[マタイによる福音書]から、2か所採り出す。

◎青年の、永遠の命を得るには、どんな善いことをすれよいのでしょうか、との問いに対して、 イエスが答えた言葉「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」

◎イエスを裏切ったユダの描写で、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言って、首をつって死んだ。

前者は、自身を殺すな、まで含まれていると考えられるのだろうか。これは、解釈上、次の姦淫するなとの言葉の意味をどう取るかとも重なるように思う。また、後者は、社会的道徳的に許せない自身の懺悔の証しとして縊首自殺は自然とは思え、先にも記したが、私が採り上げる自殺からは外に出ている。

慈悲の仏教では、その主旨から、積極的に肯定も否定もせず静かに見守る、との姿勢のように思える。
イスラム教の場合、キリスト教以上に唯一絶対神性が強いように思え、その中にあって「殉教」という自殺[他者を巻き込むのでテロの一つの形としてとらえられているが]は、どのような見方が正当なのであろうか。
私の中では、明治天皇崩御での乃木希典夫妻の殉死、また三島由紀夫の切腹とも通ずることで、自殺の範疇とは違うのではないか、とも思ったりする。私の言う自殺は、もっと個人性の強いこととしてある。

19世紀のドイツの哲学者ショーペンハウエルに『自殺について』との著書がある。 そこには、30代の時と60歳前後の、かれの自殺観が書かれている。
両者に調子の強弱はあるものの、基本的に自殺を排斥していないし、キリスト教の牧師たちを痛罵している。
例えばこんな具合だ。 「死はわたしたちに必要な最後の隠れ場所であり、この隠れ場所に入るのに、わたしたちは、なんで坊主どもの命令や許可などを、受けなければならないのであろうか。」
また、ギリシャ時代の哲学者たちの一派であるストア学者の「自殺を一種の高貴な英雄的行為として讃美している」ことに触れ、引用している。

このギリシャ文化(ヘレニズム)とキリスト教文化(ヘブライズム)は、欧米(主にヨーロッパ)の思想家たちの間で、自殺擁護と排斥で常に意見が分かれている。ショーペンハウエルは前者である。
私は先にも記したが、自殺を讃美するほどの器量はない。しかし、否定し批判することはあり得ない。自殺者は死をもって、真実の最後の叫びを発しているのだから。だからなおのこと、かなしい。


日本は自殺が多い。数年前まで、世界の上位10カ国に登場していたが、ここ何年か減少傾向にあり、今は10位以内から外れてはいる。それでも毎年2万人余り(男女比はほぼ2:1)が自ら命を絶っている。 そして最近の傾向として、2000年前後から若者[15歳~24歳]の自殺が鋭いカーブで増えている。
因みに、現在、韓国は第2位となっていて、また日本同様、若者のそれが急激に増えている。 韓国の自殺理由は、日本と程度の差があるとは言え、重なることがあるが(例えば超学歴社会、超受験社会。高齢化者社会等)、ここでは日本について考える。

日本は四季折々の自然の恩恵を受けた山紫水明の国である。それらは人々の心に清澄さと繊細さを増幅させる。このことは『歳時記』の存在をかえりみれば一目瞭然である。しかし、一方で近代化を邁進し、常にその狭間で葛藤を持っている。その時、体感する疲労感は非常に大きいのではないだろうか。 今日(こんにち)にあっても、私は、謙虚であること、繊細であることのそこに“日本人性”を見たい。「私が、私が」「私は、私は」と前に出ての自己主張が自然態でできない、苦手である……。

そもそも、英語から入った3人称は別にして、1人称、2人称は表立って使わないし、1人称2人称両方で使われる「自分」などと言う表現もある日本語。 現代若者日本語はどうなのだろうか。
自己と他者の意識が強いとも思えなくもないが、どうなのだろう。 最後の勤務校で、こんな帰国子女(女子生徒)に出会ったことがあって考えさせられた。 彼女はアメリカの現地校に高校1年次まで在学し、帰国しクラスに入り、ホッとしたというのだ。教室でおとなしく、静かに座っていると評価されるから。アメリカでは己が存在を示す(アピールする)に大変で、ほとほと疲れた自身がいたから、と。
これは、典型的(と周囲から言われていた)インターナショナル・スクールのアメリカ人男性教師の日本愛(彼の場合、それは日本人女性愛へつながるのだが)ともつながるのだが、これは以前書いたことでもあり省略する。
ただ、彼はよく言っていた。「疲れた」と。

子どもたちを取り巻く学習環境は「塾あっての学校・学力」の観さえある。国際語英語でJUKUとして登録されているとか。加えて塾学習以外の、稽古事、習い事。あれもこれもで、忙し過ぎる。 大人も子ども疲労困憊の世界。
深謀遠慮なく、官僚的そのままの「働き方改革」「授業料無償」に視る微視的施策。情報過剰。溺死危険性さえある世界。都市部での(地方には都市部のような交通機関がない)電車、バス乗客のスマホ集中の異様な風景。そしてどんな言葉より頻度高く使われる国民的共有語「ストレス」。
これらと先の日本人性或いは風土は、どこでどう補完し合っているのだろうか。
若者と、新卒優先社会、それも何でもいいから大卒との歪んだ構造と大学の大衆化の負の側面、女性の社会進出の言葉(理念)と現実の乖離、やり直しを許さないかのような硬直化した社会……。
良いか悪いかは措き、日本人のもう一つの特性、「諦めの良さ」とは、この場合どういう意味合いで使われるのだろうか。
若者の自殺の増加は、大人(要は社会を動かし、形作っている大人)にあるのではないか。社会的殺人、道徳的殺人と謂われる所以である。

日本は無宗教の国と言われて久しい。結婚式はキリスト教で(最近は神道も増えつつある)、葬儀は仏教で、と信仰篤い国内外の人々から苦笑、揶揄される。 しかし、日本人は、本来(本質に持っているものとして)信心深い。すべての宗教を受け容れる、との意味で「無」宗教だと考えれば得心できる。ただ、眼に視える形で日常出さないだけのこととも言える。
信仰心は篤いのだが、確かな信仰者までには到らない。だから、独り懊悩し、心身動きがとれず、困憊した時、神(仏)に委ねず、自身で解決しようともがく。 現代社会に精神科、心療内科受診者が増えているのもそういうところにあるかもしれない。と同時に、そういう医療機関に行くことに、どこか抵抗感、恥じらい感がある若者も多い。
電話等で相談できる場が多く設けられつつあるが、例えば心から尊崇する、敬愛する恩師といった立場の人ならいざ知らず、優れた相談員と聞いていても、自身が他人に相談することに躊躇する若者もいる。
そして一切を自身で解決しようとする。

自殺と遺書。行動と言葉。 私は遺書に激しく心打たれる。極限の彼/彼女がそこにいる。極限を超えた“自然”の透明さがある。
近代史に一つの存在感を持ち、しかし自殺した二人を引き出す。
一人は1964年の東京オリンピックマラソンで銅メダルを獲得した円谷 幸吉。1968年1月に自殺。28歳だった。
その遺書で、ひたすらに親族に感謝の言葉を記した後、続けてこう書いている。

「父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。 何卒、お許しください。 気が安まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。 幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。」

(この後に、自衛隊関係者への言葉が続き、最後「メキシコオリンピックの御成功を祈り上げます」で終わる。)

もう一人は、童謡詩人・金子 みすゞ。 破廉恥極まりない放蕩無頼の夫と1930年離婚したが、娘を連れ戻しに来るとの手紙が来て、
「その前日、彼女は自分の写真を写真館でとり、桜もちを買って帰り、娘と風呂に入った。童謡を歌ってすごした。その晩、睡眠薬自殺。26歳。」 (勢古 浩爾氏著『日本人の遺書』より引用)
三通(夫・母・弟)の遺書の内、母へのものから一部を同書から引く。
「主人は、私と一緒になっても、ほかで浮気をしていました。浮気をしてもとがめたりはしません。そいうことをするのは、私にそれだけの価値がなかったからでしょう。また、私は妻に値する女ではなかったのでしょう。ただ、一緒にいることは不可能でした。」
「くれぐれもふうちゃん(娘の名)のことをよろしく頼みます。」
「今夜の月のように私の心も静かです。」
勢古氏は、この後にこんなことを書いている。書くというよりか叫びに近い。 「金子みすゞは弱かったのだろうか。(中略)死ぬ気になればなんでもできるのに、というのもウソである。」私は勢古氏に共振する。

今私は、疲れたと一言残し、自ら死出の旅に立った或る人物のことを思い浮べている。 きっと労苦からすっかり解放されたことだろう。

2019年9月12日

芸術の快に思うことつれづれ

井嶋 悠

先日、とんでもなく魅力的な女性に出会った。作品と写真の上で。 1980年生まれの女流銅版画家入江 明日香さんの個展に行った。
とんでもないと言うのは、精緻極まる技法で彫られ、描かれ、重いプレス機で印刷されている諸作品を鑑賞しての感想。フランス研修で一層磨かれた、淡く鮮やかな多色彩、幻想的な構図、そこに漂う徹底した女性の感性。
「一版多色画」という独自の技法も編み出し、今も毎年フランスに赴き修練しているという。 私は美を直覚し、それを引き出す技術にただただ感じ入った。それは以前投稿したダリが発する男性性とは違った、私が思う女性性で、感動の質は違っていた。

過酷なまでの重労働であるという制作の最中の写真も展示されていて、右手に無造作に貼られた大判の湿布薬に眼が止まった。その姿が、もの静かで、自然な表情の彼女に、なぜか強く相応して感じられた。
主に若い世代で、こともなげに「アーティスト」と言うのをよく目に、耳にするが、聞く度に、老人の固陋(ころう)な感性と分かりつつも。非常な違和感が起きる。シャラクセエと思うのである。ひどいのになると、ポピュラー音楽歌手がアーティストと自称している。ポピュラー音楽を否定しているわけではない。私たち世代に大きな影響を与えた一人、ボブ・ディランは、先年ノーベル文学賞を受け、イギリスのピンク・フロイドという特異で魅惑的なグループもあったのだから。その自称する感性が信じられないのである。 時代に取り残された老いの愚痴なのかもしれないが、私が不真面目で、自称する人が真面目過ぎるのか?
ただ、入江さんは自身をそう呼称しないだろう。と頑なに己が直感を信じている。

その芸術、技術とは表裏の関係にあって、そもそも芸術との英語ARTには、元来「困難な課題をたくみに解決しうる、特殊の熟練した技術」(『美學事典』弘文堂)との意味を併せ持っているとのこと。そして、ギリシャ時代の哲学者アリストテレスは、「必要のための技術」と「気晴らしや快楽のための技術」に分け、後者を芸術と考えたとのこと。(上記同書)また時代が下って、18世紀ドイツのやはり哲学者・カントは「効用的技術」「機械的技術」「直観的技術」と分け、更に「直観的技術」を「快適な技術」と「美なる技術」と分けたそうだ。(上記同書)
なるほどと思うが、そもそも美とは一体何ぞやとなれば、私など巨大迷路に入り込み、「直観がすべてを判ずる」と放言し、早々に引き揚げる。しかし、哲学なるものはおもしろいと思う。世には好きなことで身を立てている人が少なからずあるが、生きるからにはそうありたいものだ。

この直観については、元中高校国語科教師の立場で言えば、文学もそうだと思う。 太宰治26歳の時の、稀有な第1創作集『晩年』の各篇は芸術だと直観できるが、芥川賞作家の中でさえ、私にとって全く直観作用が起こらない人もある。
もう一人例を挙げると、自由律俳人尾崎 放(ほう)哉(さい)の、1925年ごろの代表作の一つ「咳をしてもひとり」。彼の人生遍歴に係る知識の有無とは関係なく、やはり芸術としての直観が働く。

ところがこの個人性は、映画となると、どうしようもなく不明快度が増す。映画の持つ娯楽性と芸術性。 黒澤 明監督の『七人の侍』は芸術作品として扱われるが、その西部劇版のジョン・スタージェス監督『荒野の七人』は、そのような扱いを受けることはない。
いずれも監督、脚本家の意図(主題)があり、それに従ってカメラ、照明、美術、音楽、衣装、編集等々様々な技術が結集され、フィルム(とりわけ映像フィルムだからこそ映し出せる光と影の対照、微妙な色調)としてスクリーンに映写される。そこに差違はない。しかし娯楽と芸術に分けられ、或る人は前者を軽んずる。
ジョン・フォード監督の『駅馬車』は、どうなのだろう?
因みに、『七人の侍』と『駅馬車』は白黒(モノクローム)で、『荒野の七人』はカラーである。

【余話】 1953年の制作で、ヴェネツィア国際映画祭で「銀獅子賞」を受けた(その年、金獅子賞はなし)溝口 健二監督の『雨月物語』のことを思い出した。白黒の光と影の美しい重厚な作品である。内容は、江戸時代の短編集『雨月物語』の中の2編を基にしている。 この作品が、イタリア[ヨーロッパ]で高く[確かな芸術として]評価された理由は、日本文化或いは東洋文化への関心と、映像美だったのだろうか。 私自身、率直に言って次に記す『かくも長き不在』ほどの突き刺さりはなく観終えた。
更に余話を加えれば『七人の侍』。後篇の戦闘場面について驚愕、讃辞が言われるが、個人的には前篇に漂う緊張感の方に、より見入られた一人である。


たくさんの映画を観て来て、時間とカネを無駄にしたと思わせる作品は多くある。一方で、強い感動と思考を与えられた作品も多い。どこに私の線引きはあるのだろうか。自身でも分かって分からない。 初めて芸術的感動を意識した映画は、20代前半に観た、フランスのアンリ・コルピ監督の『かくも長き不在』だった。
J・L・ゴダールの諸映画には、前衛の映画である、との頭で背伸びする自身がいて内容より音響/音楽に興味が向いた。
また小学校時代、父親によく連れられて観たディズニーのアニメーション映画は、今も心に焼き付いているが、いずれに属されるのだろう。

とどのつまり、そこにプロとしての技術が裏付けされている限り、観たときの年齢や家庭、学校等環境、社会や人間との葛藤の深浅等々が複雑に絡み合い、それぞれの場面で己が心への突き刺さり、そのことで生ずる浄化(カタルシス)の有無としか言いようがないのではないか。直観(インスピレーション)の心地良さ。清澄な刺激 美は永遠のテーマであり、だから或る人を芸術から宗教に向かわせ、芸術の宗教性に思い到るのだろう。
孔子も「礼楽」との表現で、心と音楽をすべての基に置くが、それとも通ずることではないのだろうか。

こんなエピソードを思い出した。20年ほど前の、同僚のアメリカ人男性教師との会話。 当時話題になっていた、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』の、ⅠかⅡ、どちらが、面白いかというやり取りで、私はⅠで、彼はⅡであった。
この会話、ただこれだけなのだが、それぞれの「おもしろい」の取り方に興味が湧き、いささか大げさな表現ながら、そこに日米文化相違があるのかしらん、とまで思うようになり、再度映画を観たというエピソードである。
三つのことに気づかされた。一つは芸術と娯楽。一つは近代伝統の違い、一つは個人性。 芸術と娯楽。
「おもしろい」の人それぞれの取り方 映画の娯楽性は、(娯楽性の定義は措くとして)他の諸芸術に比して群を抜いていると思う。その線引きについては先に記したが、私の中で『キル・ビル』は徹底した娯楽性との先入観があり、観ることは「私の娯楽性」の確認でもあった。
そしてⅠは、そのリズミカルな展開[編集]、難解な主題(テーマ)もなく、幾場面か酷いシーンが映し出されはするが、ひたすら荒唐無稽そのままに観る者の眼と心を跳ね回り、監督の楽しげな貌が想像されたのである。
ところが、Ⅱはうってかわって、荒唐無稽にして酷い場面はあることはあるが、どこか監督の眉間の皺が浮かんだのである。母と娘の「愛」(最後に具体的に表わされるのだが)に係る思考的感動を意識しているように思えた、残念ながらそれは私の琴線に触れなかった。だから、私には何とも中途半端な、時に退屈ささえ襲う作品であったのである。

このことは、二つ目の近代伝統の違いにも、私の中でつながっている。 映画は演劇ではない。当たり前である。舞台上でのセリフとフィルム上でのセリフは違うのではないか。欧米(特にアメリカ?)は、言葉を弄して自己を主張する。Ⅱでは、主要人物のかなり長ゼリフがあり、それも多くはカメラがその人物を正面から映し出すのである。
Ⅰの歯切れの良い娯楽性に魅き込まれた 私としては、舞台の映画版を観ているような、だからなおのこと違和感が生じ、退屈なのである。
これらは、娯楽性の高い映画を観るにしても文化的背景の違いはあるのではないか、との思いに到ったが、しかし一歩離れて思えば、彼は非常にまじめなアメリカ人で、私はお気楽な日本人とも言えるようにも思えた。
因みに、彼の夫人は落ち着いた雰囲気の日本人である。 誤解を怖れずに敢えて言えば、Ⅰ・Ⅱを作品の是非とは関係なく、私の中でⅠは抒情詩、Ⅱは叙事詩との印象が残っている。

話しを最初に戻す。 入江明日香さんの作品は、海外でも芸術としての評価が高いと言う。 直感的にその理由は想像できるのだが、何が、どこが、海外の人を、芸樹として魅了するのか、いつか機会を見つけて確認したいと思っている。それは改めて私が日本を知ることにつながることを期待して。

2019年9月4日

自然は欺かない

井嶋 悠

この「は」、口語文法解説で〈は〉、主語であることを示す格助詞で〈は〉なく、副助詞と言う項に分類され、他と区別し強調する場合に使われる、とある。(尚、「副」は添える意。) 自然は、と区別しているわけである。
自然の反対語は[人工・人為・人間]とある。【東京堂版『反対語対照語辞典』より】
自然も、その一形態の植物も動物も欺かない。殺処分直前の犬の眼を見れば一目瞭然だ。人だけが欺く。自然災害は、時に人為災害となるが、逆はない。もっとも、「地球温暖化」が太陽そのもののへの変容に言い及ぶならばこれも人為侵食である。

こんな記事に出会った。今に始まった内容ではないが、知人の若者と重なるところがあり引用する。 内容は、人との出会いを夢に社会人になった現在30代の女性が、日常的にパワハラに遭い、人間不信から会社を辞め、農業世界に入ったというもの。
そもそもヒト社会とはそういったものとの冷徹さで「甘い!」の一言で一蹴する人は意外に多いのではないか。何せ世は“合理”最優先効率社会だから。
近代化、文明化はこの哲学なしには成り立ち得ないとすればやはり哀し過ぎる。それともヒトは、ヒトを押しのけ、蹴落としてこそ人生の「勝利者」の快を得る性(さが)とでも言うのだろうか。
若い人から自然な野人性が消え、体格の良い“ガラス細工”が増えたと言われる。しかし、この言い分もどこかおかしい。そうさせたのは自然なのか人為なのか。精緻な過保護社会としての文明社会の一面。

以前,[田舎には自然はあるが、人の情はない]旨の、やはり新聞報道の一節から投稿したことがある。 と言いつつも近代化、文明化また競争原理を忌避し、否定するほどの唯我独尊、飄然(ひょうぜん)とした自身があるわけではない。それは文明の恩恵に感謝する私と、生と競争は不可欠との思いにつながっている。それでも、ヒトとしての限界を越えたもの・ことを、最近度々直覚する。 ヒトが、ヒトが編み出し創り出した環境に、道具(機械)またそこから発せられる無数の情報に、押しつぶされそうになっている今を。

チャーリー・チャプリンが『モダンタイムス』を発表したのが1936年である。それから83年経つ今、彼の意図とその作品は過去の事として在るのではない。今、ますます生きて在る。
この拙稿では、その映画の私的感想を言うことを意図していないのでこれ以上は措くが、私自身を整理する意味から一言記す。
映画の冒頭で「人間の機械化への批判と個人の幸せの追求の物語」と言葉が映し出され、前半部は機械化とその非人間性の描写が続く。しかし、後半部には映画の本質[映像と音楽そしてチャプリンが意図する娯楽性といった側面]からの展開が続く。政治プロパガンダ的な労働者の団結と闘争の描写など望んでもいないが、愛の力(この作品では男女二人)で自身達の道を切り拓こうとする明日(ロマン)の可能性、自己信頼の他に、主題に沿った別の展開はなかったのか、と思うところがある。
しかし、私に妙案、対案があるわけでもなく、結局はチャプリンが提示した個人と社会に於ける一つの、或いは全ての?在り方に帰着するのかもしれない。 私が独りで在ることの個人性に拘り、憧れつつも、“家庭”が持つ幸せに到らざるを得ないように。
過去に、また今も、家庭(家族)を棄てた無名の、有名な人は多くある。俳人種田山頭火もその一人である。ただ、山頭火は放浪、乞食(こつじき)の旅にあって、ひたすら涙を流していたと言うではないか。

ヒトは意図的に、意識的に幸いを求める。ただ、幸いの中身は個人により多様である。 或る人は自ら命を絶つことで幸いが得られると考える。苦からの解放の喜び。 ヒトは基本的に善だと思っていた。
しかし、この10有余年の中で、娘の死への経緯、近親者のこと、世の中の様々な出来事、人々から、それが揺らいで来ている。そうかと言ってヒトの性が悪であるとまでは断じ得ないが、世、環境のヒトに与える大きさにたじろぎ、先に記した自殺は、社会による社会的殺人ではないか、とさえ思うことがある。 尚、ここで「原罪」との言葉を出せる私でもないし、そもそもそんな勇気はない。

ヒトが一層信じられなくなっている私がいる。寂しいことであり、哀しいことである。どんどん人から離れて行く私を感ずることが多くなった。
ヒトは唯一欺く生きものなのかもしれない。もちろんこの私もその一人である。 近代化、機械化とその拍車化はヒトの所為である。ヒトがヒトを、自身を追いこんでいる。
マグロはその生態構造上、止まることは死を意味する。戦後の焼け跡からの復興、高度経済成長は先人たちの“マグロ的勤労”の成果とも言えるのではないか。だから現代の沈滞感に危機感が募るのかもしれない。しかし、ヒトはマグロではない。
少子化、人口減少化(一方での高齢化)と経済成長は、どこでどう折り合いをつけようとしているのか。AIの進出(或いは浸出)、外国人労働者の不可欠と雇用の不安定、ヒトを意識しない機械化、利益追求。 人々は、子どもたちは忙しげに動き、必然、心の余裕はなくなり、日々刻々緊張感を強いられる。「性」+「亡くす」=【忙しい】。因みに「亡くす」は他動詞で「心を亡くす」、「亡くなる」は自動詞で「心が亡くなる」。

運転免許返納推進対象者となった私は、「働き方改革」が、何とも残酷極まりない冗談としか思えない。
ヒトの情(じょう)への願望が、多くの人々の口の端に上る。その時、なぜか“下町”が人情厚い(篤い)地域として共有される。 東京下町生まれ、育ちの妻が、同じ東京下町育ちの独善的ヒトに放った言葉。
「下町の人間は、いき[粋・意気]を大事にする分、感謝、報恩を忘れたヒトは切って捨てるっ」

【参考】「人情」を『新明解国語辞典』第五版では、次のように説明されている。 人ならば、誰でも持っているはずの、心の働き。同情、感謝、報恩、献身の気持ちのほかに、同じことなら少しでも楽をしたい、よい方を選びたい、よい物を見聞したい、十分に報いられたいという欲望。

上の語義に立てば、下町でも山の手でも「人情」に変わりはない。しかし、情緒的に下町に濃密さを想うのはなぜだろうか。互いにヒトであることの寛容性が今も脈づいているからではないか。先の一線を越えない限り。
利己と欲望と人間(じんかん)の葛藤が人間社会の一様態とすれば、山の手の家同士の垣の明確さに思い到る。だからこそ、先の下町育ちの一言が痛烈なのだろう。
自制と謙虚が繰り返し指摘される。それほどにヒトの欲望に歯止めが利かなくなっている。詐欺犯行者はそこを突いて来る。歯止めがかからなくなっていること自体、近代化の危機であり終末ではないか。

世界で初めて、国の発展をはかる指針として、国民総生産[GNP]ではなく国民幸福量[GNH]を採り入れたブータン。その国民幸福量の4つの指針と9つの指標は以下である。
『指針』
○持続可能な社会経済開発
○環境保護
○伝統文化の振興
○優れた統治力
『指標』
○心理的幸福
○時間の使い方とバランス
○文化の多様性
○地域の活力
○環境の多様性
○良い統治
○健康
○教育
○生活水準

そのブータン。 先日の報道では、自動車ブームで、人々がローンを組む等、競って自動車(主に日本製と韓国製らしい)を求め、経済混乱や環境汚染で、幸福度が大幅に下がった由あった。 ブータン(人)はいよいよ近代化の嵐の洗礼を受け始めたということだろうか。正念場はこれからだ。
このとき、日本は『指標』の「健康」と「生活水準」以外で、どれほどに誇りを持って発言ができるだろうか。親日家の多いブータンにとって日本はどのような鏡となるのだろう。

それに引き替え、北欧諸国の幸福度の安定はどこから来るのだろうか。 ここ数年来、日本でフィンランドの教育の素晴らしさが言われているが、かつては自殺大国でもあったフィンランド。
そこには社会[国家]そのものを再考し、再構築、再創造する意識があったからこそ為し得たのではないか。その国民的意識なしにただ高税の国ならば、この安定はあり得ない。

【参考】フィンランドを含め今年の世界のしあわせ(幸福)度ランキング(調査:国連) 《調査方法》各国の国民に「どれくらい幸せと感じているか」を評価してもらった調査にGDP、平均余命、 寛大さ、社会的支援、自由度、腐敗度といった要素を元に幸福度を計る。7回目となる2019年は世界の156カ国を対象に調査。 1位は2年連続でフィンランドだった。トップ8のうち半数を北欧諸国が占めている。
日本は2018年54位、2019年58位。因みに台湾は26位、韓国は57位、中国は86位。

1. フィンランド(2年連続)
2. デンマーク
3. ノルウェー
4. アイスランド
5. オランダ
6. スイス
7. スウェーデン
8. ニュージーランド

教育は人為の最たるもので、同時に国・社会の基盤になるものである。少子化の日本での教育変革が、今もって対症療法では、本質的問題解決に到ろうはずもない。 教育の無償化、選挙権の18歳化、これらは施行に併行してある問題の意識化があれば歓迎されて然るべき施策とは思うが、
何が何でも英語教育と科学教育の早期導入を政府や御用学者や御用マスコミが煽り立て、学校給食を15分にするか20分にするかで議論し、塾産業頼りの学力観、入試選抜と学校格差。大学の乱立。資格の取れる専門学校の高学費。(“妙な”大卒より早く元が取れるとは言え)
この心の貧困状況にかてて加えて、子どもの、親の(とりわけシングルマザー、シングルファーザー)経済的貧困。
そして、来年も酷暑が予想される夏、東京を中心とした、現都知事のお好きな言葉「レガシー」(そもそもここでlegacyなる英語を使う必然性があるのだろうか)をモットーとしたオリンピックが開かれ、既に東京の一部では“バブル”的公私会話が繰り広げられている。

日本の歴史と伝統を、教科書的、左右思想的、政治的な意図性に陥ることなく、心から日本を愛する様々な領域の人々の声・言葉に耳を傾ける時が来ているのではないか。東京オリンピックをその具体的きっかけにしたいものだ。「おもてなし」はその後に自然について来る。

2019年8月27日

夏の高校野球全国大会はやはり甲子園がいい

井嶋 悠

野球観戦の趣味のない私で、息子が小学生の頃、敢えてプロ野球観戦に連れて行ったが、野球そのものよりナイターに映える芝生に感動した記憶が残っている、そんな程度である。だからテレビ中継もほとんど観ないし、観ても途中で終わる。そもそも地上波中継の大半が、あのカネがすべての巨人だから尚更観ない。
因みに、かつての“西鉄ライオンズ”というチームは非常に印象が残っている。ただ、それも稲尾がどうの、中西がどうのとか、監督三原が名将であったとか、そういった野球に直接つながることでの印象ではなく、彼ら選手たちの公私豪傑振りに強く魅かれたからとの邪道である。

ところが、加齢がそうさせたのか、今年異変が起きた。
履正社高校と星稜高校の決勝戦、最初から最後までテレビ観戦をし、高校野球の魅力に開眼した。プロ野球とは、私なりの理由から比較には相応しくないと思っているが、これについては後で触れる。
両校のレベルの高さがあったからこそ、なのかもしれないが、地方大会から決勝まで戦い抜き、全国約4000校の頂点を目指す両校の選手、監督、応援団がもたらす緊張感と昂揚感が、そこに満ち溢れていたからと私は思っている。 この緊張感と昂揚感、音楽表現で言えば心地良いリズム感である。
攻守選手のめりはりのきいた俊敏な動き、まだ幼さも残る表情(この表情について、笑顔が今では全高校?共通項のようだが、時に不自然な、また場違いなものも感じられ、笑顔のTPOがあってもいいのではないか、と個人的には思っている。)、大人への兆候が明らかになりつつある鍛えられた肉体、選手たちとの相互信頼が自然態で伝わる監督の采配、それらを鼓舞する応援団の音楽と声との融合。音楽劇的感動。

それらはプロ野球にはない。プロ野球にあるのは、職業(プロ)としての自覚と技術とそのための冷静さ、それらが醸し出す“間”である。劇的(ドラマ)性が強調されるが、強調するのはアナウンサーと同調する解説者、一部観客、そしてマスコミだけではないのか。リズム感が全く違う。2拍子と4拍子の違い?
試合の平均時間を見ても、高校とプロでは、前者が2時間前後、後者が3時間前後と自ずと違っている。 この違いは、サッカーともラグビーとも違う。これは、試合時間内と外(がい)の違いから来るのかもしれない。

解説者は難しい理屈ではなく、あくまでも聞き手に徹した実体験からの言葉をさりげなく言う人が良い。その意味でかの清原和博さんは、一度だけしか聞いたことはないが、良い解説者になると思う。あの事件で思い考えること多々あったはずで、ますます味わい深くなったかと思うので早く復帰してほしい。彼が復帰したら私のテレビ観戦が増えるかもしれない。但し、巨人戦以外で。

アメリカ大リーグのダイジェスト版を観て、日本の野球“道”との呼称に懐疑的な(野球に限ったことではなく、本来道のついているもの以外でのいろいろな場面、領域で持ち出される“道”精神)私は、大リーグの選手たちの少年性、観客のリラックス性を羨ましく。微笑ましく思う。さすが“アメリカ”の国技だけはある。
また、高校野球の関係で言えば、阪神球団“死のロード”とか自虐的言い訳などせず、自身たちの原点であろう高校野球を真っ白な心で再自覚、再自己発見してはどうか。
閑話休題。

少年野球が、サッカーに押されて減少傾向にあるとは言え、愛好者は根強くあるようだ。その野球が日本に移入されたのは明治時代とのこと。 これについては、元国語教師の牽強付会ながら、やはり正岡 子規の短歌を共有したく思う。
明治35年、子規は結核と脊椎カリエスによる3年間の壮絶な苦闘の末(その時の様子は『六尺病床』に詳しい)、35歳で亡くなったが、その2年後に刊行された歌集『竹乃里歌』に、「ベースボールの歌として」との題で9首が収められている。その中で2首を紹介する。

「久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも」
「うちあぐる ボールは高く 雲に入りて 又落ち来る 人の手の中に」

子規にとってスポーツは全く無縁だったそうだが、野球を知るや熱中した由。21歳の時である。捕手の実践体験も持つ。
その子規が、夏の甲子園大会を観れば、さぞかし強い感銘を持ったことだろうと思う。

因みに、子規の絶筆は三句で、高校の教科書にもよく採られている。
「糸瓜(へちま)咲(ざき)て 痰(たん)のつまりし 仏かな」
「痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず」
「をとといの へちまの水も 取らざりき」

夏の甲子園は8月に行なわれる。 15日の正午、試合中であっても黙祷が捧げられる。また6日は広島、9日は長崎の被爆の日である。
15日はなぜか、燦々と降り注ぐ陽射(ひざ)し、突き抜ける碧空、躍動する白雲、の印象が濃い。平和への私たち、すべて?の人々の祈念を象徴するかのように。

彼らの雄姿の巨大さに気づかされた、酷暑の2019年8月だった。 夏の高校野球全国大会は甲子園がふさわしい。それを最もよく知っているのは、当日の選手たちであり、元選手たちであり、プロ野球で活躍した、している選手たちであろう。
だからなおのこと、その裏面、例えば甲子園に出場することでの膨大な経費の調達、選手と一般生徒の在校中、卒業後の進路のこと、学費(特待生、寮制度を含め)に係ること、日々の学業との両立、主に私立校での監督の地位の現在と未来、更には勝つためには手段を選ばず的指導、学校運営等々、大人社会の至難な諸問題を克服してこその感動であることに思い到らなくてはならないだろう。 そうでなければ、きれいごとで終わってしまう。
しかし、それらは栄光と感動のための、大人そして生徒の、必然的に求められる心身労苦であり現実である、との考え方になって行くのだろうが、私としてはどこか寂しさが残る。
そうかと言って、出場公立高校への脚光に、学校の都鄙格差を思えば一概に与する私でもない。

私は、33年間中高校教師生活を過ごし、74年間生き、様々なことでの表裏、現実と理想に、驚かされ、打ちのめされ、今、これを書いている。

2019年7月20日

天才・その“相対”を超えた存在 ~サルバドール・ダリ鑑賞~

井嶋 悠

福島県磐梯会津高原の中程にある、サルバード・ダリ(1904~1989)の作品所蔵で世界的に著名な『諸橋近代美術館』に、妻と行った。
ダリの絵画、彫刻作品の鑑賞2回目である。 ダリの、私が前回行った時と違ったテーマでの、新たな展示である。
[美術館の表示は、『開館20周年記念展 次元を探しに ダリから現代へ』である。
大学で陶芸を学んだ妻は何度か観ていて、本人曰く「ダリは好きだ。この美術館も好きだ」
静寂の漂う林間地にある瀟洒で風格のある近代建物で、その建物の前には広い池があり、横を幅3mほどのせせらぎが流れ、その周りは芝生で美しく整えられている。そこには近代の人為性があるが、取り囲む磐梯連峰、森林が、人為性をも包み込んだ久遠の自然の安らぎを与える。

亡き娘は(享年23歳)ダリを愛で、諸事情から母と私より一足先に関西から今の地に転居したことで、その美術館に母娘で何度か足を運んでいる。親ばかと言われようと、彼女の可能性を傍で実感していただけに、早逝は甚だ口惜しい。その一因が、教育に係る事ゆえ尚更であるが、前にその経緯背景は投稿しているので、ここでことさら立ち入らない。

初めて観たときから引きずっていたことがあった。どこか気構えて観ようとする私への疑問。なぜか。
例えば作品に付けられた表題に寄り掛かっての「理解」と言う観方。そのことに加わっての難解な作品との勝手な或いは先入的思い込み。鑑賞ではなく学習といった感覚。
しかし、画集すなわち写真ではなく、作品本体に向かい合うこと2回目にして、やはり私の鑑賞が大きな誤りであることに決定的に気づかされ、大海を前にした大らかさと自身の小ささに気づいて行った。
その自己を止揚するような中で、一枚の絵が私をとらえた。ダリの“永遠の人”であったガラの顔を描いた、B5判ほどの大きさのペンのデッサンに接した時である。そこには、ピカソのデッサンを観た時と同様の感動があった。
いつしかあの気構えは消え、虚心にダリの作品群を観る私がいた。どれほどの時間が経っただろうか。
美術館を出て、駐車場に向かう時、芝生で座って作業をする三人の女性が視野に入った。楽しげに会話しながら、雑草処理でもしているのだろうか、中年の女性たちであった。 その時、ダリならこの風景をどう見るのだろうか、否、最初からそのような志向を一切持たないのだろうか等々との思いの中で、先程まで見入っていたダリの作品群と彼女たちが重なった。不思議な感覚であった。それが何であるか、私にも分からなかった。それは今も分からない。

この文章は、そんな経験からあらためてダリを、シュールレアリズムを想い、そこから天才について思い巡らせた一端を書いたものである。己が人生の自照の契機としても……。
もっとも、『シュールレアリズム宣言』を著した、アンドレ・プルドン(1896~1966)は、老いと言う年齢になってのこのような行為の虚しさ、愚かさといったようなことを書いてはいるが。

人間は等しく孤独に苛まれ、狂気をかろうじて抑制している。だから夢は人間にとって悦楽となるのだろうが、時に夢は人間を呪縛することもあって、一転恐怖ともなる。
天才は、現実を超えている。と同時に、孤独と狂気を一瞬であっても極限まで、しかも無意識下に自覚する。そこに年齢は関係ない。天才が早熟、早逝のイメージを与えるのはそのせいかもしれない。
凡人と天才が決定的に違うのはそこではないか、と凡人の私は思う。
「十歳(とお)で神童、十五歳(じゅうご)で才子、二十歳(はたち)過ぎればただの人」は、短いようで長く、長いようで短い人生での凡人の言い訳に過ぎない。 天才も10歳から凡人と同じに齢を加えるが、感性は10歳を基底に理智いや増し、ますます研ぎ澄まされて行く。その時、その天才を代表するような作品が創り出される。

と考え始めると、どうしても老子の「天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ」が浮かぶ。
美醜、善不善、有無、難易、長短、高下、音声、前後すべては相対的で、それゆえ「聖人は無為の事に処り、不言の教えを行う。」と言う。
この「  」の部分、研究者金谷 治氏の現代語では次のように記されている。

――それゆえ「道」と一体になった聖人は、そうした世俗の価値観にとらわれて、あくせくとことさらな仕業をするようなことのない「無為」の立場に身をおき、ことばや概念をふりまわして真実から遠ざかるようなことのない「不言」の教訓を実行するのである。――

老子は無為を、不言を言うために文字(言葉)を使う。その自己矛盾に何度呵責の時間を経験したことだろう。同様に、天才画家は絵具で無為不言を表わす。 0(ゼロ)。無であることが永遠であること。

ダリは、己が作品への様々な批評、評価とは全く関係ないところで、言葉を紡ぐ人を視ている。私自身、それがすべてと思うが、自照のために拙い言葉を紡ぐ。当然、その言葉はダリ作品の批評であろうはずがない。

夏目漱石は『夢十夜』を著した。その第六夜は、運慶が仁王を彫刻する話[夢]である。
運慶が、鑿(のみ)と槌(つち)を自在に使って彫るのを、漱石は他の明治の人たちと見ている。その自在さに感心しているときに、或る若い男が言う。「あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と。 漱石は家に戻り薪を使って試みるが、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。」と書く。

ダリは運慶なのだ。 ダリは現実に生き、抑え難い欲求から想像力をかきたてられ、狂気溢るる集中力と愛(アガペー)で精緻なデッサンを重ね、絵筆を、鑿を動かす。霊感と創造の至福の結合。
運慶は鎌倉時代であり、ダリは20世紀のスペインである。鎌倉時代が仁王を彫らせたように、20世紀の西ヨーロッパが、シュールレアリズム[超現実主義]の作品を創らせた。
そこに共通して在ることは、現実の究極としての、或いは現実を超えたところでの、宗教[仏教とキリスト教]である。 運慶は人々の守護たる仁王像を創ったが、ダリはスペインの、西洋の血・文化・歴史からの霊感で、彼の具象を描き、時に彫刻した。
漱石は運慶に天才を見た。その慧眼(けいがん)。

先の『シュールレアリズム宣言』の中で、アンドレ・プルドンはシュールレアリズムを次のように定義している。

――男性名詞。思考の実際の働きを、口頭ないしは筆記ないしは他のあらゆる手段によって表現しようとするもくろみのための方法としての純粋の心的自動運動。理性によって実施されるあらゆる統制の存在しないところ、すなわち、美的ないしは道徳的なあらゆる配慮の埒外での思考の書取り。――

「美的ないしは道徳的なあらゆる配慮の埒外での心的自動運動」。
解放された自由の中での想像力の飛翔。
私は、更に男性名詞とすることに関心が向く。 「理性によって実施されるあらゆる統制の存在しないところ」、全き解放と安息の場所としての母胎内。現実(主義)を超えることでの安息の志向。母性への憧憬。

ダリはフロイドを敬愛していた。フロイドは精神分析で「性」を考え、人間の根底を考えた。私はフロイドの夢に係る論考の一部を読んだが、ただ眼で追っただけでフロイドについては何も言えない。

ダリは、20歳前後から印象主義、点描法、未来派、立体派、ネオ・キュビズムを吸収しながら、シュールレアリズムの世界に向かった、と解説するフランスの研究者(ロベール・デシャノレヌ)は、ダリの代表作の一つとして1951年作(47歳時)『十字架の聖ヨハネのキリスト』挙げている。
彼のシュールレアリズムの画家としての活動は、20代後半から50代と考えられる。そしてこの時期が、ダリの天才が華開いた時ではないかと思う。
この時間と精緻極まる仕事ぶりからも、彼が強靭な天才であることが見て取れる。ひたすらガラへの愛を支えにして。
因みに、『欲望の謎、わが母、わが母、わが母』を描いたのは、1929年、25歳の時である。

デッサンは絵画の、彫刻の核であって、××主義とかそういったことでぶれることはない。そこには画家の、彫刻家の“樸(あらき)”がある。だから運慶は眉や鼻を掘り出し得た。ダリは緻密なデッサンで彼の夢・霊感を徹底して描いた。

夢は「個人的なドキュメンタリー映画のようなもの」との言説に触れたことがある。映画の人為性(例えば画面を切り取ると言う人為)を思えばなるほどと思う。 静かな激しさに溢れた夢・超現実の具象。ダリの個人的ドキュメンタリー映画。
私が以前に強い感銘を受けたシュールレアリズムの画家、ジョルジョ・デ・キリコ(1886~1978)の、ギリシャ・ローマ時代を思い起こす建造物と真昼が醸し出す静謐との違いと共有性。

相対評価の人間社会にあって唯一絶対と直覚させる人、それが天才だと思う。そこでの鑑賞の「難易」はない。難易は理屈の世界である。
ダリをあらためて観、心のわだかまりが消えたのは、そこに今更ながら気づいたからだと思う。これも加齢の為せる業なのだろう。
明治の画家で28歳にして失意と孤独の中、早逝した青木 繁の『海の幸』を観て、彼を天才と直覚したことが甦る。 同じ“具象画”でもダリと青木では全く違う。しかし、それはダリが主義の前に「超現実」」が付され、青木には「ロマン」が前に付されるという美術史上の分類に過ぎず、本質は全く同じ美である。 二人の天才、ダリの真善美と青木の真善美の同一性。あまりにも当たり前のことだが。

天才であることの苦しみ、哀しみは、その天才でしか分からない。しかし、天才は私たちに安息を与える。天才は天に指名された、私たち凡人の救い主である、と信じたい。

【付記】 今回の展示で、新たに私の心をとらえたのは、『哲学者の錬金術』と『ダンテの新曲煉獄編、地獄篇』の、幾つかのリトグラフ作品であった。

2019年7月1日

雨 七夕 日本・韓国・中国

井嶋 悠

雨は聴くもののように思える。 幼い頃、夕立や雷雨の夜、当時まだ使われていた蚊帳の中に入って寝ころびながら雨を想像し、遠雷を独り聞いて、どこか心静まっていた。もっとも、間近な雷には静まる余裕などなかったが。
この身勝手な恍惚は今もあって、蚊帳はないが、とりわけ深夜の、雨と遠雷の音は想像を巡らせる。

緑雨、紅雨とか小糠雨、霧雨とか、見ているように思えるが、私たちはその雨を見ていながら、つまるところ天に想い及ぼし、耳をひたすら働かせ、想像しているのではなかろうか。
日本語で雨に係る言葉は400種以上あるとかで、その中に「神立(かんだち)」と言う語があるように。
※「神立」:神様が何かを伝えていると信じられていた「雷」を指す言葉から転じて、夕方、雷雨の意。  
この感性は、雲がないのに細かい雨が降ってくることを「天泣(てんきゅう)」ということと通ずるように思う。

」三好達治(1900~1964)の有名な詩に『大阿蘇』というのがある。その後半部は以下である。 その最終2行はことのほか耳にする詩句である。そこで使われている「蕭々(しょうしょう)と」は、耳であろうか、眼であろうか。耳でもあり眼でもあり、眼でもあり耳でもあるように思える。阿蘇の放牧された馬を覆う天の声としての雨。そこから醸し出される寂寥の気。 あたかも眼前の雨を介し、耳をそばだて音楽を聴くように。

空いちめんの雨雲と  
やがてそれはけじめもなしにつづいている  
馬は草を食べている  
草千里浜のとある丘の  
雨にあらわれた青草を 彼らはいっしんにたべている  
たべている  
彼らはそこにみんな静かにたっている  
ぐっしょりと雨に濡れて 
いつまでもひとつところに 彼らは静かに集まっている  
もしも百年が この一瞬の間にたったとしても何の不思議もないだろう  
雨が降っている 雨が降っている  
雨は蕭々と降っている  

※「蕭々」:(雨が降ったり、風が吹いたりして)肌寒く、寂しさを感じる様子
【備考】この最後2行で使われている「が・は」は、助詞の使い分け説明にしばしば引用されている。

このように雨は、歌や詩の中で、切ない寂しさを表現するのによく使われる。 歌謡曲から二つ例を挙げる。
一つは、『雨の酒場で』(作詞:清水 みのる、歌;ディック・ミネ、石原 裕次郎、1954年)の1番
並木の雨の ささやきを   
酒場の窓に ききながら   
涙まじりで あおる酒  
「おい、もうよせよ」飲んだとて  
 悩みが消える わけじゃなし   
酔うほどさびしく なるんだぜ

もう一つは、『長崎は今日も雨だった』(作詞:永田 貴子、歌:内山田洋とクールファイブ、1969年)の3番
頬にこぼれる なみだの雨に   
命も恋も 捨てたのに   
こころ こころ乱れて   
飲んで 飲んで酔いしれる   
酒に恨みは ないものを   
ああ長崎は 今日も雨だった

もう一つ、私の好きな詩から。
北原 白秋(1885~1942)の全八連の詩『落葉松』から3つの連を抄出する。 一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。

からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

例外的にそうでないものもある。同じく北原白秋の童謡(1925年)『あめふり』 あめあめ ふれふれ かあさんが/じゃのめで おむかい うれしいな/ピッチピッチ チャップチャップ/ランランラン

しかし、上記引用した歌詞、詩歌の根底には、対象への、また自己への愛がある。そして先人・古人の感性に思い到る。哀しと愛(かな)しの表裏性。 そして雨は涙へと導く。「雨に濡れる」「涙に濡れる」。涙雨。 この雨―かなしみ更にはその涙、との発想は、日本的音楽[演歌]で多く採り入れられていて、そういう意味で日本的なのかもしれない。
それは日本を構成する主な民族、大和民族の自然への心が生みだした農耕につながる、「甘(かん)雨(う)」「慈雨」との美しい言葉とも重なっているように思える。
今回、雨の呼称を調べていて「男梅雨」「女梅雨(あめ)」なる言葉を知った。前者の意味は「雨が降るときは激しく振り、雨が止むときはすっきり晴れる」で、後者は「しとしととした、雨脚の弱い梅雨」とのことだそうだが、これも男女へのいかにも日本的な感覚だと思う。

先に記した涙雨の意味は「涙のようにほんの少しだけ降る雨」とのことなのだが、やはり新たに二つの表現を知った。「酒(さい)(催)涙雨(るいう)」「洗車(せんしゃ)雨(う)」。
共に七夕、織女(織姫)と牽牛(彦星)に係る雨とのこと。後者は、7月6日に降る雨のことで、牽牛が織女と会うため牛車を洗い準備している様を。
前者は、当日雨で二人が会えなくなり流している涙とのこと。きっと、当日、「鉄砲雨」「ゲリラ豪雨」が二人を襲ったのだろう。
実に微笑ましい神話伝説の世界に私たちを誘う。
ところが、これが韓国に行くと、当日雨だとそれは二人の再会のうれし涙で、次の日も雨ならば二人が別れを惜しむ涙とか。
これが韓国の国民性なのかどうか分からないが、やはり微笑ましさに溢れている。

ここで、中国・台湾・韓国・日本での節句の一つである七夕について、良い機会なので確認しておく。 『源流の説話』[出典:ウキペディア「七夕」]
――こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。 織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルである。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。 このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。 星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。 また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。 ――

催涙雨、何と夢をかきたてる言葉。 カササギ(鵲)、日本では北九州のごく一部地域以外見られない鳥だが、韓国では度々、それも群生して飛ぶ優美な姿を目にした。そのカササギと織女と牽牛の永遠の愛。 百人一首の「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」を想い起こす人も多いかと思う。

今日、源流の中国でさえ、七夕はあの惰性的でさえある「バレンタインデー」的様相になっているようで、日本も観光客誘致や商戦広告に使われることも多く、古人の想いから離れつつある。 それは時の流れとしてやむを得ないのかとも思うが、星座を見て、古代東西の人々の想像力と叡智に思いを馳せるように、底流の神話文化に心を向け、東アジア文化(或いは共同体?)について考えるのも、今の時代だからこそ必要なことのように思うが、どうだろうか。

梅雨になって、久しぶりに、深夜、床の中で雨の音に触発された。国土の6割が山岳で森林である日本の、雨があって水明であり、稲作である、そんな日本文化を考えてみた。

2019年6月20日

    [教 育 私 感 ] 33年間の中高校教師体験と 74年間の人生体験から  

井嶋 悠

                       はじめに

私の限られた経験だが、教育者は教育を語る、語り合うことを甚だ好む傾向にある。教職意識が高い(強い?)と言うことなのだろう。私も30代40代頃は、そういう意味では教育者の一人だったかと思う。しかし、公私流転の人生にあって50代後半からそれが疎ましく思うようになった。なぜなら、教育そのものが分からなくなったからである。 これでも中等教育での、国語科教育は当然のこと、他に日本語教育、国際教育としての海外・帰国子女教育、外国人子女教育、更には国際理解教育に手を染めた。ほんの一部の人々とは言え、私に良い評価を与えて下さる方もなくはない。それは今も生きる支えになっている。
しかし、私が語ると私の中で騙(かた)るに堕してしまいそうなところがある。だから?時折、居直り的に発言が激しくなることが多い。私的には本質的(ラディカル)発言と思ってはいるのだが。
例えばどんな発言(提言)かが問われるかとは思うが、以前の投稿と重なるので立ち入らない。

ただ、一つ新しい問題について触れる。 学校教育の無償化が新たな或いは更なる歪みを生みだすことは、既に指摘されている。無償化[要は家庭経済の負担減]の前に、塾産業撤廃案をなぜ打ち出さないのか。それこそ、小学校前から大学までの初等・中等・高等教育の「教育」について、また教師の在りようについて、学力観、学歴観は言わずもがな、人生観、社会観まで途方もなく大きな課題を突きつける契機となるように思えるのだが、やはり一笑に付されるだけだろうか。

高齢者運転問題で、テレビのインタビューや何かの折に知る、自身の運転或いは体力への自信等を言う高齢者。その人々を無性に腹立たしく思う同世代の、日常的に運転しなければ生活できない地域に住んでいる私の心の自然な動きなのか、教育について整理する時機が来ていると思うようになった。 33年間と74年間の体験からの私の言葉として。このブログ投稿の基底にある自照自省。
その時、私の脳裏を過ぎった言葉(キーワード)は「屈折」である。 その屈折、意味、用法から三つに分類されるとのこと。以下それを引用する。
① 相手に対する感情が複雑に入り混じっているさま[例語:愛憎ないまぜの]
② 性格が素直でなくいじけているさま[例語:素直でない、へそ曲がり]
③ 考え方などが偏っていたり狭かったりすること[例語:偏狭な、料簡が狭い]

何年か前のこと、旧知の方とただ漫然とした会話をしていたとき、その方が「どうしてそんなに屈折してるの?!」と笑顔で切り裂いて来た。そこでは、この人とはもう会うことはないなと思った私がいたが反論する私でなく、どこか同意する私がいた。そして、今も相当な力で心の、頭の中に留まっている。正に屈折?
なぜ同意できたのか。生まれ持った要素(井嶋親族で共通する要素との意味も含め)として直覚したのかもしれない。しかし、今改めて思うに“私”と言う人生がその要素を培ったと言えるのではないか。 先の分類に従えば、その方の私への用法は、三つの意味が微妙に重なっているように思える。「ように思える」では落ち着きが悪過ぎる。
そこで、20代後半に高校時代の恩師により教職に導かれた一人として、教育観に翳を落した或いは逆に陽を当てた、と私が思う、幼少時からの「事実」を客観的に振り返ってみることにした。 良いとか悪いと言った善悪単純二分法ではなく、そもそも人間は屈折の動物とさえ思うからこそ幼子(おさなご)を慈しむし、多くの動物を愛おしむと考えている、そんな「私」の屈折を炙り出してみたい。 そのことで、家庭であれ、学校であれ、私の「教育」感(観)が視えて来る、そんな期待を寄せて。

教 育 私 感
33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から
Ⅰ 初等教育[時代]

小学校前半までは、京都・賀茂川の近くで、虫採り、魚採り等遊びの天才だった向かいの中学生を英雄視し、彼を真似た痛快な思い出が幾つもある、昔ならどこにでもいた一人である。ただ、違ったのは、小学校入学前後から父親の地方赴任に伴う母子家庭だった。母親は純粋な人だったが、家庭的なことが全くと言っていいほどに駄目でいつも心は外に向いていた。そのことによる私の心の隙間を埋めてくださったのは、近所に住む伯父(父の兄)伯母と6歳年上の従姉妹であった。

大人事情は世の常とは言え、後に分かることだが、父母の離婚話が進行中のこともあって、小学校後半時から東京の伯父伯母(父の姉)宅に預けられた。伯父の社会的地位によるのだろう、その家は邸宅(おやしき)と言うにふさわしく、お手伝いさん夫婦が住み込んでいた。 母は結婚前の職種、看護婦となり、関東の地で独り生活を始めた。母への慕情が募り始めたとの記憶はない。ただ、何かぎくしゃくしたような不自然なものがあったように記憶の片隅にある。

伯母の能楽[主に小鼓]や茶道(茶室があった)への傾倒も手伝ってか、伯父の関係者、能楽関係者等々、それも30代から40代の人たちの出入りが非常に多かったが、子どもは私一人だった。伯父伯母に子どもはなかった。時に月に何度もその人たちによる夕食の会が行われ、活気を呈する家だったが、お手伝いさんの心遣いもあって、独り夕食を台所でとることもしばしばであった。しかし、寂しいとの心情はなく、こんなものだと思っていたのだろう。
庭も広く、また当時まだ普及していなかったテレビもあり、小学校の同窓生もそれらがあってしばしば遊びに来ていたが、私の中ではほとんど記憶が残っていない。
ただ、伯父方の親戚家族が時折来て、その中で幼少の男の子二人、特に兄の方、の子守的なことをしたのは、懐かしい思い出として今もある。

私の中では、どちらかと言うと大人社会にいた3年間のような印象が強い。 その象徴的事件?に、泥酔と二日酔いの小学校5年生(11歳時分)での体験がある。先述の大人たちの夕食会で、酒を大いに勧められ、嬉々として?受け容れた結果である。大人たちからすればかっこうのおもちゃがごとき相手だったのだろう。その時も、お手伝いさんが苦笑しながら介抱してくれた様子が薄っすらと残っている。

そういった酒食の会では、男女の性の話題も多く、或る時、その人たちが話題にしていた単語の意味が分からず素朴に質問したところ、場を一瞬凍らせたことが今も残っている。しかし、今日の小学校での或いは広く学校での「性教育」の現状ではお笑いぐさであろう。
森 鷗外の、自身の6歳からドイツに留学する21歳までの性に係る経験を描いた『ヰタ・セクスアリス』(ラテン語で性欲的生活の意・47歳時執筆発行)では、6歳から12歳の間にあって、既に幾つか兆しを直覚していて、私がいかに奥手か、また感受性に乏しかったが分かる。
このことは、ここ年々、人生最大の難題であり、本質的問題は「性」ではないか、と老いと共に性に対し時に嫌悪感さえ抱くこともある複雑さを持ち始めた私の、遅さにつながっているように思える。
鷗外は先の著の最後の方で「永遠の氷に掩(おお)われている地極の底にも、火山を突き上げる猛火は燃えている。」と記しているが、以下の老人男女のことは正にその現実なのかもしれない。
老人介護施設職員の談話で、80代と90代の男女が、下半身を露出してベッドに在った旨聞いたときの、私の途方もない衝撃、驚愕。

この晩熟(おくて)は、3年間と言う限られた中とはいえ、血気盛んな大人たちと、それも開放的な夜の時間にいたことがかえってそうしたとも思ったりもするが、やはり個人生来のゆえなのかもしれない。
自身の生来と後の周囲の環境によるこの自覚は、現在の年少者への性教育について必要との理屈(説明)は理解できるのだが、今もって違和感がある。私の「理解」と言う理屈(論理)の言葉の一つ。
保守性のあらわれ?とは言え、性教育推進者が革新的とも思わないが。 併せて、中学校に進学して一層重い課題となるジェンダー教育の端緒は、今どのように意識して為されているのだろうか。

転校した小学校は、東京都大田区内の分校的な小規模校であった。一学年25人×2クラスの50人ほど。 発する言葉の音調は、当然京都弁。今から60年余り前のこと。
今様に関西弁(特に大坂弁或いは河内弁?)が、広く認知されていない時代、子どもたちにとって不思議で、可笑しな響きに聞こえたのだろう。 イジメではないが、他意のないからかい、笑いの対象になることもあった。
そこで、クラス担任の女性のM先生の放課後東京音調補習がなされることとなった。私の東京弁学習。小規模校ならではの補習?
因みに、私の発する日本語は、その特訓に加えて、20代の2年間の東京放浪生活と国語科教育での読み、話すでの共通語(標準語)指導が加わって、時に聞く人にとって奇妙な日本語となっている。

すべての人々の生活語は方言、と言っても未だに東京弁=共通語(標準語)社会の日本にあって、だからこそ生活と生と言葉での方言の魅力は誰も否めない。それも読むことより聞くことに於いて。(読むのは至難である)
海外・帰国子女教育に係わる中で知った「言語臨界説」、11歳前後でその人の生涯の主言語(第1言語)が決まるとの説に立てば、私の日本語はあの小学校での環境、補習が方向性を決めた、とも言えなくはない。もちろんこれはM先生を非難しているのではない。
その延長上と言うのもおかしな、或いは甚だ偏見に満ちた勝手なことなのだが、男性が話す大阪弁(広く関西弁)は、私の中での特別な人〈例えば、上方歌舞伎俳優や笑福亭 仁鶴氏レベルの落語家、また私が敬意を表する人たち〉を除いて、印象が良くない、少なくとも心地良さはない。
一方で、谷崎 潤一郎の『細雪』の姉妹の会話の言葉は鮮烈で、実に美しいと思った。

尚、この時代に塾は在ったのかどうかと言うほどの存在で、当然のことながら行ってなかった。ただ、稽古事(京都時代、ピアノとバイオリンを習っていた)は、転校で途切れた。これは父母と伯父伯母との考え方の相違のようで、後に憂き世日々の中にあっていかに音楽が大きな力を持つかを実感することになるに及び、残念な気持ちが湧いた。それは今もある。

小学校、次項に記す中学校教育での。英語教育〔個人的には狂(・)育の感さえある〕等“主要”5教科教育との表現での主要の呪縛から脱け出し、音楽教育は言うにおよばず、美術教育、書道教育、保健体育教育、技術家庭教育の充実を強く願う。人生と言う巨大な時間の滋養の土壌として。これは思春期前期の中学校に進学するに及んでますます重要性が問われることになる。 その意味でも、少子化、高齢化は時機を得ていると常々確信している。学校制度の一大改革である。

2019年6月2日

「跡」に想う

井嶋 悠

日本の一大転換期、鎌倉時代に書かれた軍記物語『平家物語』の冒頭部分は、現18歳以上のほとんどの国民が知っている名調子である。
私自身、教えている時でさえいささかの観念的理解でしかなかったと思うが、歳を重ね、様々な人々と出会い、森羅万象のほんの一端を知り、冒頭文にある中国と日本の歴史上人物について誰一人知らなくとも、しみじみと、しかも重く、深く心に沁(し)み込んで来るものがある。
中高校時代の「知る」ことと、加齢を経て「味わう」ことを思えば、“教科書を学ぶ”も“教科書で学ぶ”もそれぞれに一理あることが視えて来る。

その冒頭部は以下である。

「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、是等は皆舊主先皇(せんおう)の政にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌(いさめ)をもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁る所をしらざしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかゞふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、おごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅の入道前の太政大臣平の朝臣淸盛公と申し人のありさま、傳承るこそ心も詞も及ばれね。」

「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。」
生々流転、無常の世、日々刻々の自己を謙虚に受け止め生きること、その至難さを切々と知らされる。
「人生100年時代」とかで、相も変らぬ能天気さで喧伝する政治家、それに追従するマスコミに、苛立てば苛立つほど、虚しさ症候群は悪化の一途をたどるではないか。閑話休題。

これまた高校で必ずと言っていいほどに見る松尾 芭蕉『奥の細道』の一節。

「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一理こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。(中略)泰衡等が旧跡は衣が関隔てて南部口をさし堅め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。―国破れて山河あり、城春にして草青みたり―と、笠打ち敷きて時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡 」

 注:「大門の跡」;毛(もう)越寺(つうじ)の南大門(正門)のことか。   
  :―  ―の部分、杜甫の五言律詩『春望』の冒頭   
  :「笠打ち敷きて……侍りぬ」(口語);笠を敷いて座り、いつまでも懐旧の涙にくれていた。

芭蕉は、江戸時代に弟子の曽良と、徒歩で出掛けたが、私は、令和時代に妻と、高速道路を利用して車で、毛越寺と中尊寺に出かけた。
世界遺産登録で混雑も予想されたが、平日だったこともあって、思いのほか静かであった。
毛越寺境内に茶店があり、五月の爽やかな風を受けながら、もりそばを食した。腰のあるそばで、香りをほのかに残し、江戸っ子の「そばは飲み物」と言う妻も満足げであった。30代とおぼしき夫婦二人で店を切り盛りしているようで、二人とも口数少なくもの静かで、一層心和むひとときが過ごせた。 ふと、数十年後のこの夫婦の図を、私たち40年間の夫婦姿と重ね思い浮かべながら。心洗われる時間。

毛越寺は9世紀の僧・慈覚大師[円仁]が開山とのこと。寺の栞には境内の見どころとして、先の芭蕉の句[句碑]も含め17か所が記載されている。 内7か所は[跡]で、背丈10㎝ほどの叢に、それぞれの建物の礎石が見える。 何気なく見ているうちに或る感慨に襲われた。
「もし、多くがそのまま(は難しいかとは思うが)或いは再建されて目前にあったらどうだろう?」と。 それはそれで感動が起こるのだろうが、跡を見つめることで想い巡らされる、「講堂」を出入りする僧侶たち、「南大門」を行き来する人々、子どもたち、店や家々を想像することの快に思い及ぶ。 現在の時を離れて、跡でない時代のどこかに、3人称入り込んでいる私。フラッシュバックするかのように巡る人々の姿、貌そしてその人たちの生。

芭蕉は、中尊寺で藤原家の「兵」の「夢の跡」を見、杜甫は安禄山の戦いでの家族との離別に、悠久の自然と時間を対比することで涙した。
しかし、私は勝手に思い巡らせた人々の生を、[哀しみ]と[愛(かな)しみ]をないまぜ眺め、自身に立ち返る、そんな偶然の時を得た。無常観をここで言うつもりはない。
以前にも引用した、吉田兼好の「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。」ではないが、それにも通ずる(と思う)、栄枯盛衰、もの・ことがいついかなる時であれ、すべてに在る美と真への想い。その想いへの眼差しが焙(あぶ)り出すその人の生き方、歴史への見方。と自身を措いて頭を巡る。
芭蕉が、杜甫が涙したそれとは違う感情。すべての人に名があるが“無名”と言われる人々への慈しみからの涙に近い情愛と自省に浸った私。

木材を切り出し、石を掘り出し、運び、建築家の指導を得、僧侶や武家たちとの協働で創られて行く寺院に最も間近に勤しむ市井の人々。それを支えた信仰と人々の信頼関係。その美しい時空を思い浮べる。 実際はどうだったのだろうか。
奈良時代、文化の栄華が咲き誇った。それにどんな人々が、どれほどに、莫大な時間を費やしたのだろうか。
信仰を基底に、天皇への絶対的崇拝と信頼があってこその東大寺大仏殿であり、法隆寺であり……。一方で知らされる、山上 憶良が表わした『貧窮問答歌』での市井の人々の姿。また防人の哀しみ。
身分、階級、階層を越えた途方もない数の人々の一大協働(ハーモニー)としての文化。

ここ数年来、世界文化遺産とか日本文化遺産とかが賑やかに報道される。過程があっての結果、無名があっての有名、と重々承知していてもついつい結果に、有名に眼が向いてしまう私。
「一将功成りて万骨枯る」の遺産であっては文化に値しない。
私は現職時代数校で、それぞれ「将」も「功」もことわざに出るほどの大きさはないが、直接に、間接にこの先人の言葉を身近に接し、学校文化をその面から知らされた。公私立の違いとは全く関係なく。

私が今生活する那須の原では、明治時代の元勲貴族たちの功として、疏水の開拓や洋風の館(やかた)群が、日本文化遺産として登録された由。結果としてのそれらに眼を奪われるだけでなく、この機会に、元勲たちへの敬意と同時に、地を掘り、山から水を引き、大地を潤わせ、豊かな農作を実現した、その現場の人々に想い及ぼしたいと願う。

高校時代、或る先生が授業(先生が誰か曖昧で、何の授業であったか覚えていない失礼なことなのだが)の関連でこんなことを言われた。55年以上前のことながら鮮明に私の中に残っている。ただ残っているだけであるが。
――或る建築家が、随行者たちと鉄道での旅の途次、鉄橋を渡った折、こう言ったそうだ。「この鉄橋は僕[私]がつくったんです」と。随行者たちは感嘆したそうな。しかし、この建築家にはその後、仕事の依頼が来なくなった。――

慈覚大師が、開山、再興した寺院は、関東地方に209寺、東北地方に331余りの寺に及ぶと言う。恐らく大師への帰依、心からの信頼感と大師の人柄が、人々にそうすることを求めさせたのだと思う。(大師は唐での数年間の苦難等、多くの難儀を経た高僧であったが、温厚な人柄であった旨伝えられている。)

一方、中尊寺はどうなのか。 岩手平泉の地に、砂金と北方貿易で栄耀栄華を極めた藤原家。それを象徴する金色堂。 中尊寺は、藤原 清衡が合戦で亡くなった命を平等に供養し、仏国土を建設するために大伽藍を造営した、と中尊寺の栞にある。 また、「判官びいき」との言葉まで生み、日本人から愛され続けている源 義経。その義経を兄・頼朝から守った三代藤原秀衡の死後、子息四代藤原泰衡は守り切れず、藤原家滅亡に向かわせた、その歴史を思えば、藤原家の人々と臣下と市井の人々の絆は篤かったであろうことが推測される。
しかし、復元された金色堂等、或る感銘はもちろんあるが、毛越寺で沁み入ったものが湧き出で来なかった。それは、今日的観光繁栄に圧倒されたからかもしれない。 当時の武家の、時に凄惨とさえ思える生き様に触れ、その世界に生きた武家たちの苦渋、忍耐、克己に思い及ばすことなく、ただ私には到底できないと逃げ込み、市井の幸いを思うだけであった。

今日、日本との限られた枠組みではなく、世界はカネ・モノ文明を邁進している。だからなおのこと、教育への明確な眼差しが求められている。
「個の教育」「一人一人の個を大切に育てる」。このことを否定する人はいない。しかし、果たして今、それはどうであろうか。
例えば、英語教育が言われれば、それまでにあった他の時間を削り、英語教育に向かわせ、小学校で昼食時間を15分か20分で議論すると言うとんでもないことを聞く。何のためにそれをするのか。時代に乗り遅れて経営難に陥らないために……。
あれほど期待された「横断的総合的学習」は疾うに消え去り、学習の大半を塾に頼り(思考力、表現力をみたいとのことで、これまで以上に作文表現、発話表現が求められる入試が果たされつつあるが、どれほどの学校が自前で対応できているのだろうか)、結果がすべてでひたすら時を削って行く。
そうかと思えば、子どもや若者を受け容れる側の学校や会社等の大人たちは彼ら彼女らの想像力の欠如を嘆き、基礎学力についての侃々諤々(かんかんがくがく)は今も続いている。そして世は少子化、高齢化である。

中尊寺で見かけた中学校修学旅行とおぼしき生徒たちの忙しいこと忙しいこと。不登校等で参加しなかった生徒たちもあるかもしれない。イジメを受けている生徒たちもいるかもしれない。出会った生徒たちの中に、そういった生徒に思い巡らせている生徒たちもあるかもしれない。しかし、弾ける笑い声。 中尊寺、金色堂までは、上りの坂道を20分ほど歩くのだが、随所に売店、ご朱印授かり所がある。
私などそのことを知らず、金色堂等目的地に向かい、ご朱印は帰路としていたから良かったものの、正直に初めからしていれば7,8か所になっていただろう。弁慶堂とか、薬師如来とか少し変えてあるだけで、すべては中尊寺である。だから一枚で良いとも言える。一枚300円×1か300円×7か8。えらい違いだ。 先の中学生たちの中に、本堂へ行く随分手前の売店で、早々に何かおみやげらしきものを買っていたが、大丈夫だったかしらん?それとも誰かを想い、いの一番に購入したのだろうか。

毛越寺と中尊寺への小旅行。思いもかけず、毛越寺の「跡」が、私にあらためて想う心地良さと重さを教えたように思える。

2019年5月26日

若い時の純粋から老いの純粋へ

井嶋 悠


19世紀のフランスの、恋多き男装の麗人作家にしてフェミニストのジョルジュ・サンド(1804~1876)が、老いについてこんなことを言っている。

――老年を下り坂と考えるのは全く誤りである。人は歳をとるにつれてだんだん高く、それも驚くほど大またで上へ上って行く。――

彼女の生涯は72年間で、時代が違うとはいえ、私は現在74歳であるから、高齢化日本にあってなおのこと彼女の言葉には考えさせられる。自照自省の大きなきっかけとなる言葉である。

最近、高齢者の自動車事故・事件加害者が増えている。中には、自身の過失を認めない者もいる。一人で歩くことさえままならないにもかかわらず。 彼女が言う真逆の老人たちである。運転に自信気の笑みを浮かべインタビューに応える輩(やから)も含め。

老いは若い時代の延長上にある。当たり前のことである。老いを終焉と考えるから頭の中がもつれる。老いは一つの経過点に過ぎないと考えればいいのである。難しい極みだが。私には仏教信仰はあるが、仏教徒ではない。しかし、人類誕生以来、だれも死の後を知らないはず?だから、経過点と考えることは許されるのではないか。因みに、私は死後、肉体は土となり、霊魂は宇宙を駆け廻ると思いたい派であるが、未だ不十分段階だ。人間、次の指標があると生き甲斐があるというものだ。閑話休題。

若い時は苦悶の連続で、先人に言わせればその苦悶が人生の肥やしになると。時が経ち顧みれば、美的哀調さえ醸し出した他人事のようになるが、当時は悪戦苦闘の日々である。しかし、時[時間]の力、老いと共に自然に、或いは意図的に苦悶は削ぎ取られ、澄明さが増して来る。恬淡にして枯淡の境。と言うのは一つの理想で、多くは残滓が何やかやと心底に蠢(うごめ)き、頭をもたげようとしているではないか。おぬしはいずれかと問われれば、まだまだ後者である。だから私は一休禅師に親愛の情を寄せる。

仏教では「五慾」「十悪」との、人間探索の言葉がある。
五慾での、「食慾」「色慾」「睡眠慾」「財慾」「権力慾」、「十悪」での殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語等々。これらは何も仏教に限ったことではない。
人間をとらえようとする時、最もと言っていいほどに複雑にして厄介なことが、「色欲」-「邪淫」ではないか。それは、人間にあって最善、最上に位置付けられる「愛」と、時に表裏に論ぜられるがゆえに。
「エロス」・「エロティシズム」。
現代日本語としてある「エロ・エロい」から、時を、葛藤を経て、老いに向かう道程(みちのり)で直覚し、自問し始める「エロス」「エロティシズム」への昇華。そこでの新たな葛藤…。
ただ、私が使う「エロス」・「エロティシズム」について、澁澤 龍彦(1928~1987・フランス文学者・評論家・小説家)の書『エロティシズム』から引用、補足しておく。

「セクシュアリティとは生物学的概念であり、エロティシズムとは心理学的概念である」
「(プラトンの言葉を引用する形で)エロスとは神がかりであり、魂の恍惚であり、一種の狂気である」
「ドン・ファンの純粋を求める姿勢を、カザノヴァのような、陽気で野卑な漁色家のそれと混同してはなるまい。現実原則に逆らって、永遠の女性(母親像)を求めつつ、つねに裏切られている男の心理を、精神分析学でドン・ファン・コンプレックスと呼んでいる(以下略)」

白人の白は白ではないと思う。アジア人の白こそ白だと思う。タイに行った時、透き通る白い膚をした若いタイ女性を数多く見て感嘆した。日本人も、中国人も、韓国朝鮮人も然りである。 雪白(せっぱく)を思わせる寒色なのだが温もりで包まれた暖色の白。微塵の汚れも感じさせない人肌の白。純白。

作家の優劣は女性描写で決まる、との言説に昔接した記憶がある。なるほど、だから夏目漱石は一流なのだと思ったから、この記憶は間違いないと思う。 作家を志すなら好きな作家のすべての作品を筆写せよ、と説く人があったが、私には作家への志はなかったから頭でその言葉を聞いていた。今にして思えば、作家云々とではなく、人生として、漱石の女性描写だけでも筆写しておれば、私の人生、もう少し彩りが備わったかなと思ったりもする。
かてて加えて、美術・工藝の世界で、完成された作品以上にその作家たちの素描に魅かれる私がいる。例えば、ルネッサンス時の画家たち、シュールレアリストの画家、彫刻家、陶芸家たちにそれを見る。

神田の古本屋街を特に何かを探し求めると言うのではなく彷徨っていて、1994年3月号の『芸術新潮』、特集「常識よさらば―日本近代美術の10章」なるものに目が留まった。店頭に雑然と並べてある雑誌の一冊である。価格は100円。
その中の一章[彫刻史に仲間外れにされた人形・置物]と、もう一章[貧乏画家の飯の種は何だったのか?]で、釘付けにされた二つの作品(写真)。
一つは、人形作家・平田 郷陽(二代)(1903~1981)の『生人形・粧』と、一つは、洋画家・渡辺 与平(1888~1912)の挿絵「キッス」。 前者から放たれている清楚な妖艶。後者の赤子をあやす女性の無償の愛の姿。

『粧』は、浮世絵に材を得て、江戸時代後期の20代半ばの商家の新妻をイメージして創作された由。 丸髷に、「顔は弥生の桜花の吉野の山に馨れるが如く、眉は中秋の新月の明石の浦に出づるに似たり」(興津 要『日本の女性美』所収「目の美しさ」より江戸期の作家・曲亭 馬琴の言葉を孫引き)で、目は無表情の下向き加減、「口紅は、矢張り、指先で軽く溶いて月の輪形に下唇にさし」(同上書での「くちびる・くち紅」の項での『おつくり上手』(平山芦江著・大正5年刊)より孫引き)、右足の膝からほんのわずか大腿下部がのぞく左立て膝姿とその足指。家事を重ねていることを示すふくよかな、左手は左膝に静かに置かれ、右手は挿したかんざしに添えられている。着物は麻の単衣で幽かに両の乳房が見て取れる。
何という清楚なエロティシズム。美。

後者は、明治時代に正岡 子規によって創刊され、夏目 漱石が『吾輩は猫である』『坊ちゃん』を発表した俳句雑誌『ホトトギス』に掲載された挿し絵。一筆書きがごとき見事な筆致で、赤子を慈しむ母をとらえている。プロの画家としての技がきらめき躍動する線と面、そして対象への愛に、私は思わず魅き寄せられた 。
その二つに共通するものとは何だろうか。
一つは、女性への慈愛の眼差し。
一つは、余計な装飾がどこにもない、必要にして十分なものだけで構成され、決定的美が醸し出されていること。

幾つもの呻吟を経て、己が人間的心から、何をどれほどに削ぎ落としていくことができるか。
若木の樸(あらき)から老木の樸へ。青い樸から玄(くろ)い樸へ。
歳を経ているがゆえに錯綜する幾つもの葛藤。苦悶。 だからこそ、ジョルジュ・サンドの先の言葉、一休禅師が最後に愛した盲目の女性森女に言った辞世の言葉とも言われる「死にとうない」が、響いて来る。

やはり老いは難しい。 高齢化社会をひた進む日本。個人の集合体としての社会が、今までの考え方、発想で通ずるとすることでの大きな不安と危険を思ったりする。言葉だけの同情の氾濫世情。 老いの一人の戯言、杞憂ならいいが。