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2017年11月21日

《ゴールデン ラズベリー賞》としての2017流行語大賞 『謙虚に』

井嶋 悠

2か月ほど前に、ほぼ全身が激痛に見舞われるという病に襲われた。40年来の偏頭痛持ちながら、8月末ごろからそれとは違う予兆はあった。とは言え急激だったので襲われたとの気持ちが強い。以前した腰の手術の関係から処方してもらっている強い鎮痛剤を服用してひたすら横臥の日々。いろいろなことが脳裏をかすめる。不安と辛抱。
紆余曲折を経て今、やや落ち着き、2か月ぶりに投稿を書き始めている(11月20日)。明日、今回紹介いただけた医師の3回目の診療。

「病は気から」と言う。気の持ちようで重くもなり、軽くもなる。痛い時にそう言えるかどうか、などという屁理屈、言い訳はよそう。
しかし、ものごと何事も+と-の両面がある。病にそれを言うのは、甚だ不謹慎であることは当然ではあるが、痛みにうなされていてもふと天から与えられた休息時間と思えば思えなくもない。更には人が人にそれぞれ好悪を持ち合う人間社会。「医は仁術なり。仁愛の心を本とする」を直覚させる医師に出会えば、自ずと心委ね、例え治癒しなくとも然りと自覚する“ゆとり”が生まれ、それが快方へ導くように思える。そこには学歴も、多弁もない。簡にして要を得た心が動いている。以心伝心。
今回、私は二人の医師と一人の看護師(女性)にあらためてそのことを実感した。

医師の世界だけではない。すべての世界に於いても同じだ。教師世界にあっても。否、教師世界は大人と子ども[知識・言葉の多少も、成績の出来不出来も関係のない、瑞々しい感性の活きた塊りとしての]の世界が核だからもっと端的に強い。しかし、感性を磨かせ[使役]られる[受身]と言えば言える。だから私の場合、書く(=学ぶ)ことで自省自照し、年金生活者の自由人!であること、そして娘の死があるからこそ怠惰無精な私でも続けられている。
私たちは自然があればこそ生きられる。しかし、工業化商業化こそ近代化よろしく日々自然は破壊され、「日進月歩」との言葉は、真意を離れ化石化して行くようにも思える。

私は、妻は、職人に敬意と憧憬を抱く。
「祖父は大工でした。長年大工をしていると体がどうなるか分かりますか。指がとんかちを握った形のままで動かないのです。父はそれを見ていて跡を継ぎませんでした。私は継ごうと考えましたが結局は止(よ)しました。」これは、この地に来て出会った若者の言葉だ。

私たち夫婦の身勝手で軽率な想いを自責するが、それでも憧れる。人を相手としない職業。少なくとも私たちが出会った職人は寡黙で、謙虚である。その人としての風格に魅かれる。そもそも多弁(おしゃべり)な職人など、職人の風上にも置けないと思っている。
私が出会って来た人の中で私が描く能弁な人は、職人ではなく元同僚の今でも交流のある女性教師ただ一人である。

人は人である限り老若問わずストレスから逃れられない。(尚、私(わたし)的にはストレスと言う表現を好まない。ストレスと言えばなんでもかんでも許容される世の風潮に、分わきまえず棹差したいから。正しく「同情ほど愛情よりも遠いものはない」に通ずる。)

「樹齢二百年の木を使ったら、二百年は使える仕事をしなきゃ。木に失礼ですから。」

これは、昨年七夕の日に83歳で亡くなった永 六輔氏の編著『職人』(岩波新書)の中の、或る大工の言葉である。
[因みに、93歳にして現役の内海 好江さんと永氏との対談で、好江さんは永氏のことを「素人の若旦那」と評し、永氏本人も認めている。その意味は略す。]

母性を備え持った“慈父”夏目 漱石39歳の時の(漱石の享年は50歳)作品『夢十夜』の「第六夜」は[運慶(鎌倉時代の仏師)が、護国寺(東京)の山門で仁王像を彫っているのを観に行く]の話しで、その中で同じく見物していた若い男の言葉に、
「なに、あれは眉や鼻を鑿(のみ)で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。……」とある。

運慶は偉大な“芸術家”だ、と眉をひそめる人もあるやもしれないが、天衣無縫偉大な職人と言ってもあながち間違いではない。切り出された大木と仁王と運慶(職人)の一心化、一体化。宇宙としての無。
漱石は、この後自身も「積んである薪を片っ端から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。」と書く。
「明治」を「平成」に代えて読んでも差し支えないのではないか。

【付記:先に私は漱石のことを「母性を備え持った“慈父”」と書いた。従来の[母性・父性]定義からそれを越えた[母性・父性]について、これまでの投稿の中で断片的に触れてはいるが、いつか私見をまとめてみたいと想ってはいる。】

謙虚と寡黙こそ日本人が愛して止まない人間像と思う私だから、時代錯誤の誹りは免れられない。そんな私だから、昨今かまびすしい【おもてなし】など、その意味、使い方は本末転倒と憤ることは東京に限って言ってもいくらでも頭を過ぎる。ただ愚痴はほどほどにしないと先の論旨と矛盾するので止める。

かのトランプ大統領が、ハローウィンで、ホワイトハウス執務室に何か国かの子どもたちを招いたときのニュースは微笑ましかった。まるで猛獣を見るかのようにベソをかきアメリカ人の女の子の後ろに身を隠していた日本人の女の子(小学校1年生前後)の姿。思わず「ああ、日本人」と言った時の妻の苦微笑と併せて。
それに引き替え、大人たちの、それも日本を動かす政治家、企業家、教育家(例えば、那須岳遭難事故報告書公表)の、それぞれの不祥事(ただ、政治家での衆議院選挙結果の場合は勝者も)で連発された言葉「謙虚に」。

謙虚の反対語を『反対語対照語辞典』(東京堂出版)で確認すると、何と5語記されている。
曰く、【傲慢・高慢・横柄・尊大・不遜】
どういうことだろう?
「悪事千里を走り、好事門を出でず」と言っては偏り過ぎかとも思うが、気に引っかかることはある。
当事者は心から語ったのだろうが、魂からの言葉に思えないのは私だけだろうか。
学校教育世界に身を置いて来た一人として、教師の意識変革なしに教育内容も制度も変わらないことを、「お前に言われたくない」世界だろうが、痛感して来たので。しかし、娘の一事の発端が教師の問題であることは、明らかである。[これらについては、既に何度か投稿した。]
その延長上に政治家、企業家も(一部かとは思うが…)ある。

「言葉は心の使い」「言葉は身の文(あや)」とのことわざが、歳を重ねるごとに説得力を持つことは実感している。それを子どもたちは直感し、直覚し、とうに見透かしている。
「話す」は「放つ」に由来するとの説もあるそうだが、「話す」が「放言」とならないためにも、「語る」が「騙る」に陥らないためにも言葉を見据えて欲しい。一日本人として。
現首相は衆議院選挙結果に対して「謙虚に」との姿勢を言ったが、今の国会運営は果たしてそう言えるのか、私は支持政党なしではあるが、思う。

 

 

 

2017年9月18日

2017年秋を迎えて ―身辺幾つかからの寸感―

井嶋 悠

幼な子の髪そのままに愛らしく五月の微風(そよかぜ)に身を任せていた早苗は、今、畦道に咲く真紅の彼岸花から、あたかも早乙女のすっと背を伸ばし誇るかのような祝福を受け、田を黄金色に染めている。北関東、栃木県北部の地。広がる黄金色畑の先に御用邸がある。

時間は非情に、無慈悲に過ぎて行く。自然の、季節の異変、不順を、私たちに厳しく警鐘を突きつけて。
日本社会は途方もない岐路に立っている、と元中高校教師の私は思う。
「上昇は勤勉で為し得る。しかし下降は、意図的下降は並々ならぬ覚悟が求められる。」(私は駅の階段で実感し、降りるときは必ず手すりの世話になる。)
日本は、太平洋戦争敗北にもかかわらず、今や世界の大国で、それを自負に、朝鮮半島南北戦争、ベトナム戦争、イラク戦争等の米軍あっての「戦争特需」のことはあまり語らず、意気揚々、外交に、「国際社会」に存在感を誇示している。国内の貧困、差別の「哀しみ・寂しさ」、多くの若者の苦悶と不安など他所(よそ)の国のことのように。かの「おもてなし」が象徴する虚飾浅薄国家の様相については以前投稿した。

現首相は「働き方改革」と称して得意満面だが、先人の血と汗の結晶「経済大国」は更に上昇するのだろうか。「改革による経済変化について、あなたはどのような裏付けをお持ちなのですか」と、防衛問題で戦場の先頭に立つのは誰なのですか、あなたが立つのですか、との同じ憤りの疑問を持つ。
いずれ退任することを前提とした、あまりの無責任さと言えないか。無常と言うには低次元過ぎる。
天皇ご夫妻、皇太子ご夫妻、そして愛子様は、収穫の今をどのような心模様を描かれているのだろうか。
知人の女性の、今夏、皇太子ご一家が那須塩原駅に着かれ時の二つの話しが、私の心から離れない。

一つは、いつもお迎えに行っている人を覚えていて会話をされる由。微笑みの後ろに在る途方もない心労。

一つは、知人の女性が「愛子様はいかがですか」と聞いた時の、皇太子妃(私の感覚では“雅子様”)が愛子様のお腹をポンと叩かれてにこやかに「この通り大丈夫ですよ」と言われた由。雅子様の人柄溢れる姿。

[ご婚姻前の雅子様の、伸びやかな表情で台所に立たれていたあの写真の表情はどこに行ったのだろう。病との闘いはご本人に帰するということなのだろうか。美智子妃は美智子妃であって雅子妃ではない。時代も、人々の思いも大きく変わっている。

どうして皇室は、閉鎖的との意味で過保護なのだろう?「開かれた皇室」の虚しい響き。昭和天皇の「人間宣言」とは何だったのだろう。次期皇后様として、豊かな才能と感性を活かして、新天皇陛下と二人三脚、人と人の真の友愛外交の華を咲かされることを希うばかりである。愛子様の才能の一層の開花のためにも。]

1946年(敗戦の翌年)11月3日に公布された「日本国憲法」の第1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とある。
政治的に利用する輩(やから)や今もって“現人神”として隷従するかのような眼差しではなく、「象徴」の私の意味を 折に触れ反芻的に確認している。
因みに、[前文]に次の一文がある。
「国際」の意味、現状の確認もなく、「国際社会」と言えば黄門様の印籠かのような現代、一層吟味、再考の時ではないかと重ねて思う。

『われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。』

大相撲は日本が誇る美の文化である。モンゴルや韓国にも同系のものがあるが、様式や身体[力士や呼び出し。行司]が館内を美の小宇宙と化するのは日本だけである。
その9月場所の今、横綱3力士、大関2力士、幕内4力士の、少なくとも幕内で9力士が欠場している。異常だ。
若手には千載一遇のチャンスだとか、稽古・トレーニング方法の再検討等々、あれこれかまびすしい。
大相撲は国技で、取り組み場所の東京・両国は国技館である。と言うことは、力士や行司、呼び出しは国の宝、有形文化財ではないのか。しかし、相撲協会なる元締め機関は、彼らを酷使利用して営業収益を上げることに、もっともらしい口実を挙げ、血眼になり、今もって精神論・根性論をぶっている。
私からすれば、力士たちの無言の叫びがついに爆発した九月場所、と確信的に思っている。

国が経済最優先、カネ・モノがあってこその幸い、と言わんばかりにそのためには少々の犠牲はやむを得ない、外国人労働者の使い捨て的心情等々、浅ましさが見え隠れするのだが、首相は「働き方改革」を絶対善として言う。経済に疎い私の無知な疑問なのだろうが、それでも無茶苦茶の矛盾としか思えない。

「一年を二十日で暮らすいい男」とは言わないが、やはり以前投稿した一部を記す。
どうして春夏秋冬四場所に戻さないのか。
どうして地方巡業はあれほどに過密でなくてはいけないのか。
どうしてあれほどに入場料金が高いのか。
どうして国(立法府の議員たち)は、世界に誇る国技にもっと補助金施策を展開しないのか。そのことに税金が使われることに反対する人々は、少数だと思う。もちろん国民の多くが憤る税金の、あたかも私有財産感覚での使用をなくしてのこととして。

現代は「母性」を求めている。「父性」ではない。
母性=女性といった既成にとらわれることなく、すべての人に、とりわけ男性に、己が中に在る母性と父性を問うて欲しい。そして、その延長上に「大国」「大人(たいじん)」の実と虚が視えて来ると思っている。
仏教学者の鈴木大拙(1870~1966)の『東洋的な見方』ではしきりに母性が採り上げられている。また併せて「妙」(たえ・みょう)について述べる。この漢字、女偏である。
西洋はマリア様だが、東洋更には日本では観音様で、その観音様は今では男性でもなく女性でもなく、性を超えた菩薩として私たちは親愛と信愛の情を寄せている。

これらについては、以前から心に懸っていたことで、今夏の体験(前回の投稿)もあって、私感をまとめたく、限られた資料ではあるが覗き始めている。あくまでも中高校一教師であったことを忘れずに。

 

 

 

2017年9月8日

2017年・韓国・高校日本語教科書DVD制作―『日韓・アジア教育文化センター』再考と併せ―

井嶋 悠

別のスタッフ・チームと合わせば、6回目の作業で、今回のチームでは中学校教科書(1回)を含め5回目である。スタッフは、映像作家、デザイナー、カメラマン、文筆家と、多士済々の30代4人で(男性)。

【参考】
この投稿先の『日韓・アジア教育文化センター』ブログに係って、HPでの映像関連での上記スタッフの献身を二つ紹介する。

○2006年上海での「第3回日韓・アジア教育国際会議」(特別講師:池(ち) 明観(みょんがん)先生)の参加高校生を主人公にしたドキュメンタリー映画『東アジアからの青い漣』の制作
○このドキュメンタリー映画を含むHP全体の制作

彼らと出会ってかれこれ10年近くなる。この幸いが得られたのは、私の最後の勤務校(日本の私学校とインターナショナルスクールとの日本初めての協働校)の一方であるインター校の卒業生(男性)が縁(えにし)となっている。その出会いは、彼が中学3年生時で、その後の、高校2・3年次での「国際バカロレア:日本語」上級(ハイアーレベル)クラスである。

韓国の教科書は、大統領が交代する度に新版が作られるそうだが、外国語入門もしくは初級の性質上、その構成・展開の根幹はあまり変わらない。それは、1年間の女子生徒一名の、日本への1年間の留学。ホームステイとの設定もほぼ踏襲している。(なぜ女子生徒?については今は措く)
そこから撮影場面も、学校・ホストファミリイ家庭・東京都内を主としている。
今回も同様で、ただ「Ⅰ(基礎)」「Ⅱ(初級)」の2種類制作は初めてのことであった。
制作(撮影)の引き受け決定までの難事は大きく二つで、これもいつものことである。

一つは、撮影協力学校探し。
一つは、制作費。

前者は、とりわけなぜか中学校がより難しい。幾つかの、幾人かの縁故(つて)を頼りに打診するのだが、私の教職活動が関西であったこともあって綱渡り的になる。且つ学校事情もあって[例えば、これはなぜか公立校に多いのだが(とは言え、私立も大同小異ではあるが)、「趣旨は理解できるが、一部保護者の韓国感情があって難しい」「本校生徒を外に出したくない(その理由は、品行方正面が多い)」等]、学校内に私と意思疎通のとれる人がいなければ、門前払いとなる。
現に、今回、中学校の教科書についても依頼があったが、協力校が得られず、私の非力と同時に諸々の限界をより実感することともなった。
(この中学校版については、出版社でアニメ版を作成する由。考えようによっては、その方がよかったのかもしれないと勝手に思っている。)
後に触れることに重なるが、いずれにせよ、決まると出演生徒たちは実に活き活きと撮影を楽しむ。

後者は、私たちが交流をはじめて20年、経済格差の問題は今もって大きな変動はなく、レートは1:10で、しかも首都圏の物価等は年々高騰している。当然、韓国の出版社予算は、少なくとも日本国内での低予算標準の半分くらいである。それでもできるのは、上記スタッフの趣旨の理解と心意気的献身以外何ものでもなく、彼らのその情と気概なくしては実現しない。
それは、教科書執筆責任者(編成は、概ね韓国人日本語教師数名と日本人日本語教師《大学教師》で、責任者は韓国人教師である)が、私たちセンターの仲間で、人格秀でた人物であることも一つの要因になっているかとも思う。

撮影時期は、教科書検定委員会提出等、教育部〈文部科学省〉関係からの日程制限や執筆者の校務日程、更には出版社事情もあって、今まで冬期(1月2月)だったのだが、今回は、最初の協力候補校の辞退もあって夏に行なうこととなり、8月22日から24日の3日間行った。
この日数も予算と関係していて、監督等、事前の撮影場所・内容の相談、依頼等、緻密な準備があってのことで、当日は分刻み的に撮影が行われる。
いつもなら執筆者から一人、撮影現場に同行するのだが、上記事情から参加叶わず、当初教科書出版社編集部から一人参加したい旨の案の提示も社内事情で不可となり、私たちスタッフに一任される初めての形となった。
スタッフ彼らのこれまでの実績が評価されての信頼であり、私たちにとっては大変名誉なこととなる。

今回、連日の猛暑日の中、撮影ができたのは、以下の方々の理解と協力の賜物である。(因みに、この方々の謝礼も予算上から、ほぼ実費だけである。)

○神奈川県立D高校の、演劇部顧問のお二人の先生(内一人は、30年ほど前に、大阪で行われた日韓の研究会でお会いした、交流に確かな足跡を残されている先生で、私を覚えて下さっていたことが後に分かる)をはじめとする諸先生方、

○演劇部の、またサッカー部、軽音楽部の、生徒たち、保護者会役員、演劇部OGで現役の女優、

○川崎市内と東京浅草の食堂

生徒彼ら彼女らの、カメラを前にしての監督の指示への心と眼差しの爽やかさ。そこから生み出される「演技」は正にすばらしく、教員(複数)から聞いた「ここの生徒たちはほめられた経験がない」との言葉が、なおのこと心にずしりと刻まれる。

或る出演生徒(高校3年生の女子)との会話で、「進路が決まらなく迷っている」と聞き、少子化と超高齢化時代の日本にあっての学校世界変革私感を思い出しながら「僕の教師経験では、既に進路や将来の目標が明確に決めている人は少ないと思う」と応えた時、彼女がちょっとばかり安堵した表情を見せたこともあった。

インターネットを含め一部雑誌等マスコミでの、「嫌韓」「反韓」の罵詈雑言が乱れ飛んでいる。その時、この作業と成果が、そういった現状に首をかしげる私や他の人々に何か訴えるものとなれば、あの過酷な日々も少しは癒されるかと思う。
以前、インターネット上で、「売国奴団体」と指摘される一覧表を見、そこに『日韓・アジア教育文化センター』も含まれていた。本センターのホームページなど見ることもなく単に名称からだけで出したものであろう。
私たち日韓中の共通言語は[日本語]で、そこを基にした結果と成果で、その視点で言えば、私たちの郷土愛、祖国(母国)愛批評があっても良いのではないかと思う。と同時に、韓国・中国の仲間たちの立場に思い及ぶ。

北関東のこの地に移り住んで10年が経つ。私の体にこの地の自然風土が染み入って来ているのだろう。撮影の3日間の東京生活は、加齢と抱えている病を実感することになった。
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」。その「健全なる」は精神と肉体で意味は同じなのだろうか。「病的とは健全な状態の極限状態」とか「不健全なものの健全性」といった、識者の言葉が思い出されたりするが、理解と認識が不十分にもかかわらずその識者の言葉に直覚した私は遠くにあって、今、日々心頭硬化する私を直覚している。
そして、
中原 中也(1907年~1937年)の、私の好きな詩『頑是ない私』の、[思えば遠く来たもんだ]と感傷に耽りながらも、
[さりとて生きてゆく限り  結局我(が)ン張(ば)る僕の性質(さが)  と思えばなんだか我(われ)ながら  いたわしいよなものですよ  考えてみればそれはまあ  結局我ン張るのだとして 昔恋しい時もあり そして  どうにかやってはゆくのでしょう  考えてみれば簡単だ 畢竟意志(ひっきょういし)の問題だ  なんとかやるより仕方もない  やりさえすればよいのだと]を、
私と日韓・アジア教育文化センターに、日韓中のまた映像制作での若者たちへの無礼に心咎めながら、恣意的につなげている。

撮影の初日、8月22日、私の最後の勤務校(1991年開校)の初代校長で、温厚篤実そのままのキリスト教徒であった、藤澤 皖先生が、天上に旅立たれた。
また私の最初の勤務校は、明治時代にアメリカの女性宣教師によって創設されたミッションスクールであった。
『新約聖書』[ルカによる福音書]に、「自身を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」との、受洗の有無とは関係なく、多くの人が知る言葉がある。 そして韓国は、約3割がキリスト教徒で(約2割が仏教徒)、アジアではフィリピンについで2番目のキリスト教国家である。
私はキリスト教徒ではないが、非でも反でもない。「隣人愛」の難しさを、広くいろいろな場面で痛感して来た一人として、『日韓・アジア教育文化センター』の歴史と存在に、もう一度ゼロから眼を向けることの意義を、無責任とは言え、ふと思い到る、そんな日本語教科書DVD制作の、2017年の夏だった。

2017年7月18日

二つの「感涙」体験

井嶋 悠

「鰐集落」「夜明け橋」「聖人川橋」「桂林」「咸宜(かんぎ)」……は、この度の北九州豪雨で甚大な被害を受けた大分県日田市地域の地名の幾つかで、過疎地(村)としても位置付けられている。
名前には、名づける人(人々)の、由緒への思い、愛情が込められている。これらの地名を名づけ、代々引き継いできた人々の人となりが偲ばれる。
因みに、「咸宜」は、江戸時代の儒学者・廣瀬 淡窓の生地(日田市)であり、敬天思想(「敬天愛人」につながる思想)を教え育む私塾『咸宜園』のあったことから来ているとのこと。

宅地や道路に向かって滑り来たった幹も樹皮もない、あたかも製材されたかのような、おびただしい樹々、また「なにもかもなくなった」と茫然自失で話す村人の姿が、山崩れ、樹木の流出の凄まじさを端的に表わしている。道路は寸断され、しかもあろうことか豪雨は何日も続き、生活支援物資輸送、生存者の救出、不明者の捜索は困難を極め、救援三役[自衛隊・消防・警察]の、それぞれが自身の家族を心に留め、ひたすらの寡黙な献身にもかかわらず、10日経つ今も捜索や片づけが続いている。

娘が生きていたら、東北大震災時と同様、ボランティア志向と体力的に行けない、その自身への怒りをぶつけていただろう。と言う私は、孫と祖母が、自衛隊員によってヘリコプターで救出され、先に救出され、一日千秋、孫を、祖母を見るや号泣する母(およめさん)に迎えられる姿をテレビで視るだけである。東北大震災時となんら変わらず……。

再会時の、孫の「何があったのだろう」とでも言いたげな純心な眼差し。祖母の永年の人生を経てこその静かで自然な微笑み。号泣する母(およめさん)。人が人として生きることの凝縮。非常に無礼な表現で言えば、その一瞬にきらめく美しさ。そして、およめさんのそれまでの日々の暮らし、生に思い巡らせる私。後ろめたさを自己正当化しての感涙。
天の意思としての「自然」は、あまりに非情で残酷だ。なぜその地の人々が、その忿(いか)りを受けなければならないのか。それが運命であり、天命であり、人為の遠く及ばない冷酷なまでの厳粛。廣瀬淡窓は、どんな思いで故郷を視ているだろう。或る気象予報士の先日の言葉を思い出す。

「これらの災害を根絶することはできない。人ができることはどれだけ被害を事前事後に抑えるかだ。」

前回、「かなし:悲・哀・愛」について、再び私の思いを投稿したが、不遜を百も承知で、この「愛」の再確認こそ今、この近代化現代化盲進驀進する日本にあって、緊要なことなのではないか。
幸いにも長寿化の今、立ち止まり考える時間は十分保障されている。それが、東アジアの伝統と歴史をかえりみることになり、近代化を猛省して1世紀余り経つヨーロッパへの、そのヨーロッパを源流とする米国への、南北アジア・中近東・アフリカ・南米への、日本ならではの風土と歴史からの、真に自立した日本の存在感となるのではないか。軽率軽薄な「愛国心」の濫用に陥ることなく。

ここ数年、「ナショナリズム(Nationalism)」と「パトリオティズム(Patriotism)」との英語を使って、愛国心説明にしばしば接するが、英和辞典で確認しても、監修者の日本語訳の苦労が見て取れる。いわんや、私にあっては分かるような分からないような……。それでも、「右翼・左翼」或いは「保守・革新」の硬化したままでの用語による、安易な善悪価値独善の、罵倒合戦だけはもう終わりにして欲しい、と切に思う。
日本が標榜する国際化時代教育の優先課題《主張と議論と協和からの創造》と、あまりにも矛盾していないか。それは、誤解を怖れず言えば、日本の“美徳”とも。

つい先日、こんなことがあった。

私たち『日韓・アジア教育文化センター』のここ数年の大切な事業である、韓国の中学・高校日本語教科書補助教材のDVD制作で、永く日韓交流に実績を持つ、現在日本の学校で要職にある韓国人の旧知の方に、制作協力校探しの依頼をしたときのこと。候補に挙がった首都圏の中学校長の回答。「保護者の反韓国感情が強くできない」
多くが視聴し、読むことも多い大小での、おびただしい[嫌・反韓国]正義の!叫喚(きょうかん)を視ればなるほどとは思う。そのことは韓国での、中国での、[嫌・反日本]も同じだろう。そこに哀・愛しみはない。
これは、刻一刻増幅し、益々正当化されるしかないのだろうか……。
そのことに心痛め、それぞれの分野で金銭的利益とは関わりなく、政治(家)が言う「未来志向」の、地道な実践者は私の周りにも多いにもかかわらず。
今回のDVD制作(高校)もそのお一人の尽力があって、撮影が来月行えることになった。

マイケル・ムーア(1954年~)は、1999年のアメリカの高校での銃乱射事件を主題に、2002年、そのドキュメンタリー映画制作で世界的な存在感を持ち始め、時にアメリカ独善主義アメリカ人から命を狙われているとも言われている映画監督・制作者である。
先日、彼の2015年制作の『世界侵略のススメ』(原題:『WHERE TO INVADE NEXT』《私流に訳せば、次はどこを侵略するんだい!?》)を観た。

アメリカ国務省依頼との虚構設定での、アメリカ未来への彼の願いを込めたヨーロッパ訪問記で、彼の「愛国心」発露ドクメンタリー映画である。
彼はこの映画について、次のような事を言っている。「自分の国を愛する気持ちからの、国をよくしたい、という思いだ」と。

その取材国と主題は以下である。(順不同)

・イタリアの8週間の有給制度
・フランスの小学校の給食
・スロヴェニアの学費無料と大統領との単独会見
・フィンランドの宿題のない、世界トップレベル学力獲得教育
・ノルウェーの自由な刑期生活と個室刑務所
・ポルトガルのドラック非違法
・ドイツの労使関係と歴史教育

ノルウェーとポルトガルの犯罪に係ることについては、あまりに私から遠く、未だ自身の言葉で言えるものがない。ただ、それ以外からは、先の被災地3世代家族と通底する感涙に襲われた。
一つは「果たして日本は先進国なのか」、もう一つは「憂き世」との用語文化について、思い巡らされたことで。

その中で、これまでに何度か記した日本の学校教育と、また自殺に関して拙文を重ねる。
ここ数年、一部教育関係者から指摘があるとはいえ、かつて「自殺大国」であったフィンランドがそれを脱するに何をしたのか、宿題もなく塾もなく世界トップレベルの学力(もちろんその「学力」内容への、文系・理系、明確な考察が必要だが、例えば海外・帰国子女教育と「新しい学力観」の課題と現実の現在について十分に知り得ていないので一般論的用語として使う)を持ち得るようになった背景は何なのか。我が国の立法府・行政府そして学校教育関係者(元職としての私の自照自省も含め)は、声高には言うが、対症療法に終始してやしないか。
自然災害多発国日本にあっては、先の予報士の言葉は実感的説得力を持つが、人為としての教育、更には、自殺については、そうではない。
「言霊の幸はふ国」には、重く深い心が私たち日本人に(と言えば、“国際人”からひんしゅくの対象になるが)今も在るのではないか。それともこの志向は「昔そういうことがあった」という心の遺蹟なのだろうか。

ふと思う。
マイケル・ムーアさんが、日本を、或いは東アジアを主題に、アメリカ愛国者である現代のアメリカ人の視点から、どのようなドキュメンタリー映画を制作するのだろうか、と。

東京都議選で粉砕的敗北をした首相及び幹部は、開票当日、某高級フランス料理店で反省会?の夕食をしたとのこと。その費用は自費なのだろうか、と下衆な私は思う。
そして災害当日、2017G20のドイツでの会議に参加し、その後、緊急性もない北欧訪問も、エストニアは中止したとのことだが、かの夫人共々予定通り行うその神経は、今更ながら、人の優しさとは真逆でしかない。おそらくG20参加者、関係者の良識派には、更なる侮蔑感を起こさせたことだろう。
かてて加えての、防衛大臣の空白時間。大臣の40分は、一般市民の数十倍の意味を持つのではないか。
これで、現首相の在任海外訪問経費の総計額はいくらとなり、それはすべて公費(国税)なのか、随行者は誰々で、総数何人になったのか、そしてその成果、私たち国民への還元は、総論抽象論ではなく、具体的にどのようになったのか。ここで言う「国民」とは、かの『男はつらいよ』への、上からの笑いではなく、寅さんと同じ地平に立った哀しみ(同情ではない哀しみ)の涙溢れて観る、そういう人たちとして私の中にある。
こう言う私の限界を承知して。
虚栄の虚は虚しさ以外何ものでもない。

老いは涙腺をゆるませると言う。科学[生物・生理]から立証されるのだろうが、文系の私には、涙腺が自然にゆるむそこに老いを思う。涙は心の塵芥(ちりあくた)を洗い去ること[カタルシス・心の浄化]は、科学で証明できない、と私は勝手に思っている。人それぞれの時間が心を深め、感性を研ぎ澄ませたからこそ、そこに感涙が生まれる。言うまでもなく、これも自己正当化である。

最後に、高校時代の英語授業で出会った(と言っても『動物農場』[Animal Farm]1945年8月17日!刊の一部分)イギリスの作家・ジョージ オーエル(1903~1950)の、ナショナリズムとパトリオティズムについての言葉を引用する。

―愛国とは、特定の場所や特定の生き方への思い入れであり、ある人はそれが世界で一番優れていると信じているだろうが、そうした考えを他者に押し付けようとはしない。愛国はその性質上、軍事的にも文化的にも、攻撃性は無い。一方ナショナリズムは、力への欲求から離れられないものだ。どのナショナリストにも共通する目的は、更なる力、更なる名誉を、自分自身や仲間内に対してではなく、自身の人格とすっかり同一された集合体に確保させることにある。―

2017年6月25日

「かわいい」 ―パンダ母子映像報道から―

井嶋 悠

「ブログ」とは、「Web」と「Log」(日誌)を組み合わせた言葉。
2012年4月11日、娘、永眠の日。そこに到る日々、彼女に寄り添う日々にあって、冷厳な事実を突きつけられた私たち。失意と落胆、そしてむくむくと湧き起る学校への、教師への憤怒。親として、人として、教師(中高校)としての、自照自省の始まり。
その一つの形が、1991年からの日韓中台の「日本語」に係る人々と創設した『NPO法人日韓・アジア教育文化センター』(2004年)の【ブログ】への、2013年9月からの投稿である。
それは私の勝手な(と言うのは娘の真意の確認はできないので)娘の鎮魂、供養が初めにあったのだが、進める内に私の生の自己確認ともなり、意志継続薄弱な私としては人生稀有なこと、現在に到っている。そこには文字通り「有り難い」、何人かの方々からの共感と励ましがある。娘の苦笑が浮かぶ。
そもそも「日記(日誌)」は、自身が自身のためにするものだが、近現代?の世からは、読者を意識して書く人々(多くは作家を生業(なりわい)とする人たち)も多くあるとか。私にはそのような度量も器量もないが、投稿する(書く)ことで、再来月72歳を迎えるそれ以降への糧に、少しは貢献しているようだ。
先日、この稀有な体験を後押しくださっている同世代の、今も現役で仕事に精励する方と、旧交を温める機会を得た。
今回の投稿は、その方への、その方を介しての何人かの方々への、改めての感謝が初めにある。

 

日本は、かの「バブル景気」の様相に近づいているとか。
東京都区内の、首都圏の交通至便な駅周辺に林立される“高層(マンション・)住宅(オクション)”が即日完売される現実を、マスメディアから聞けばそうなのかもしれない。しかし、遠近様々な人たちの無形有形の援(たす)けによって借金(ローン)も終え、しかも自然に生かされている人を(逆はない)体感する地に今在るとは言え、到底そうは思えない。心のひだを共有する人々との会話からも。バブルはいずれ必ず崩壊する。人為の驕り。
この地には、首都圏から移住した(ほとんどはリタイア組)人々が集まる“東京村”なるものが何か所かあることを聞いた。かなりの高い比率で地(じ)の人々には不評である。その理由はよく分かる。

「憂き世」は人が人である限り世の常だからこそ、「浮き世」と書くことに己を鼓舞する人間の機微を、慈しみを、そして哀しみを、思い知る。
誰しも「哀・悲しみ」を求め生きてはいない。「かなしみ」に「愛」の字を充てた古代人(びと)の叡智。そこに東西南北異文化はない、との観念(知識)の言葉は今、私の言葉として在る、と思っている。
手元の『古語辞典』(旺文社)での、「かなし」の字義説明の初めの箇所のみ引用する。

1、【愛し】相手を愛し、守りたい思いをいだくさま。いとおしい。かわい
い。
2、
【悲し・哀し】泣きたくなるようなつらい思いをいだくさま。かわいそ
だ。いたましい。
1、から「いつくしむ」「いつくしみ」との言葉に導かれる。『現代 国語例解辞典』(小学館)には次のように書かれている。

【慈しむ・愛しむ:愛情を持って大切にする】。慈愛。ここにも異文化はない。
連日、上野動物園のパンダ親子の報道は、与野党・政治家の「正義」を掲げての醜態に、それに与するジャーナリストたちに、日本は終わったとまで言わしめ辟易している私や私たちに、浄福と生きる力を与えている。

民俗学者の(高級官僚でもあった)柳田 国男(1875~1962)が言う、「すみません」は「心澄まない」との意に従えば、恐縮、謙譲の日本人性を表わしていることになるが、今、どうなのだろう。「国民の・都道府県民の、市町村民の、ために」との、己が公僕[要は彼ら彼女らの給料は私たちの税金]を忘れ、当たり前すぎることを臆面もなく言葉にし、自党にあってさえの罵詈雑言を繰り返す“ヒーロー・ヒロイン”!たちの、言葉観の源泉、背景にあることとはどういうものなのだろう。それも「国際的(欧米的?)」の一つなのだろうか。
かつて、その「国際」の先端を標榜する学校に勤務したときのことが幾つも思い出されるが、国語力の[表現と理解:話し・書き上手と聞き・読み上手]の最悪例に、自身を貶(おとし)めたくないので止める。

日に日に成育する子どもの愛くるしさ。何年か前からひたすらに発せられる、とりわけ若い女性の常套的讃辞表現「かわいい」。漢字で表わせば「可愛い」。

白川 静(1910~2006)の『常用字解』で確認し、抄出する。(尚、氏の学説に関してあれこれ批判があるそうだが、批判は世の常だし、学者でない私としてはあずかり知らないことである。)

【愛】国語では「かなし」とよみ、後ろの人に心を残す、心にかかることをいう。
【可】願いごとを実現す「べし」と神に命令するように強く訴え、それに対して神が「よし」と許可する(ゆるす)のである。許可とはもとは神の許可をいう。

古代人(こだいびと)が、天変地異に遭遇しても懸命に生きる切々とした純真さが伝わって来る。今も私たちは、毎年のように自然災害、更には人為災害に襲われているが、人が行なう科学・技術開発と発展への最前提を忘れ、自己(人間)過信に堕していないか。ここで、前世紀既に自省を深めた西洋[欧米]社会のことをことさら出すまでもないだろう。

清少納言は1000年余り前に言っている。「なにもなにも、小さきものは、皆うつくし」。それにさかのぼること半世紀ほど、日本最古の物語『竹取物語』(かぐや姫の物語)。

「うつくし」。先と同じ古語辞典から引用する。

  1. 【愛し】いとしい。かわいらしい
  2. 【美し】立派だ。

清少納言が『うつくしきもの』(149段)(これも高校古典教科書で必ずと言っていいほどに採り上げられる)の中で挙げる、幼い子どもの幾つかの描写とあのパンダの子どもの愛くるしさに、女性ならではの母性をつなげることは、余りに偏向的なのかもしれない。専門家の解説から、清少納言の美的感覚は彼女特有と言うのではなく、当時の洗練された一般的(貴族社会だけ?)美的趣味そのものであった、と知ればなおのこと。

しかし私は、あの母のしぐさ、眼の時に育児疲れさえ感じさせる慈愛の表情「いとおしさ・かわいさ」に心揺さぶられる。もっとも清少納言や当時の貴族には想像を越えた巨大さだが。
この母のかわいさは、別の小舎で笹をひたすら(無心に?)食する能天気な父親の姿で益々増幅される。

 

前回、樋口一葉に触れた。彼女の身長は当時の女性の平均身長140㎝台だったとのこと。それが凛とした美しさと可憐な印象にひときわ光を与えているのかもしれない。また大正天皇の従妹で、2度の結婚を経て、1921年(大正10年)36歳の時、7歳年下の宮崎龍介〈孫文を支援した革命家・宮崎滔天(1871~1922)の長男〉との、運命的恋を得たとはいえ、波乱の人生を送った才知と美貌と意志の歌人・柳原白蓮(1885~1967)も140㎝台だった由。
などと言えば、先の偏向同様、旧世代の男の勝手・独善の極みではあるが。
因みに、夏目漱石は男性平均150㎝台前半の時代にあって159㎝あったとのこと。そして現代、30歳の平均は、男171㎝前後、女158㎝前後だから、漱石は今風で言えば180㎝近くの、痩身のすらりとした“イイ男”だった。

そう言う私は162㎝で、小中高時代の整列ではいつも最前列で、男女を問わず高身長の人を羨ましく見ていた。しかしそれも他者の心知らずで、165㎝ほどあった娘は猫背で歩き、もっと胸を張って歩けばいいのに、との私たちの言葉には馬耳東風だった。
閑話休題。

柳原白蓮には『ことたま』(言霊のこと)との、大正・昭和(戦後も含め)時代に書かれた自選エッセイ集(2015年刊)がある。その中で、例えば、「昔の女、今の女」(1953年)など、戦後8年にして今を見透かした慧眼と感性の言葉を見る。

私は、表立って「趣味は芸術鑑賞」と言う人や、ここ数年?ポピュラー歌手が自他で「アーティスト」と呼称する感覚が“凄い!”と思う偏屈老人の一人で、「すべての芸術は音楽を憧れる」やそれと同系列表現(元は、19世紀のイギリスの文学者ウォルター・ペイターの言葉)は、私の場合、本来の意味からは逸脱した勝手な解釈を承知しての共振直覚する一人でもある。それは原初的霊性的な「呪術」に近いかもしれない。
そこに、例えば文学において[5・7・5とか5・7・5・7・7]との律動(リズム)であればすべて、といった短絡さはないが。これは形式と内容と感性に係る難題であろうし、私が如き者には手に負えないので立ち入らない。ただ、「詩」を「うた(歌・唄)」とも訓(よ)むことになるほどと思う一人ではある。

 

音楽は人に、とりわけ「憂き」世を体感する人に、過去と現在と未来の自身について、時に後ろ向きの、時に前向きの情動、[感傷(センチ)と理想(ロマン)]を、時空を超えて掻き立てる力を持つ。そこに在るのは、無形透明の響きだけである。形としての言葉[詞]はその後である。

音楽の三要素は[リズム(律動)・メロディー(旋律)・ハーモニー(和声)]と言われ、その美的直感も当然多様で、私の場合一つの比喩表現で言えば「クラシック音楽の古典派(クラシック)」が基調にあって、だからだろう、ドラム・太鼓には、乾いた潤いとでも言うような魅力を感じさせる。
『イマジン(IMAGINE)』はジョン レノンの、ビートルズ時代晩年の『レット イッツ ビイ(LET IT BE)』と同様に、心に沁み入る私の好きな曲であるが、いずれもそこにオノ ヨーコ(1933年~)がいる。最近、「イマジン」の着想、制作での共作が公的に発表された。

(因みに、彼女についてはあれこれ善悪批評もあるが、彼女の(話す)日本語の美しさは秀逸とのこと。それは「東京・山の手言葉」とも言われるが、下町生まれ育ちの江戸っ子三代目を大切にしている妻、その両親(家系的に秀でていて、そこで得た価値観を大切にしていた)の子ども(息子・娘)への厳しい躾の一つが、「さあさあ言葉」の厳禁だったとのこと。(とりわけ娘〈そして広く女性〉の)

もう一つ。1930年代のジャマイカで生まれた、労働者・農民を核とした宗教的思想運動『ラスタファリ運動』を音楽から支えた推し進めたボブ マーリー(1945~1981)の心沁み入る曲は『NO WOMAN NO CRY』。幼少時に父が亡くなり、その後の彼を支えた、音楽家でもあった母親の存在。

いずれも、私にとって先ず[三要素]があって、その後に詞を知ることでの沁み入る、である。

これらの曲を「かわいい」と言う人は、どんなに今様?の若い女性でも、まずいないと思う。「かわいい」の語義をどこかで皮相的一面的にとらえ始めているからではなかろうか。社会と言葉の、人の変容。

「重・厚・長・大」から「軽・薄・短・小」へ、は日本の技術の高い讃辞表現。これを心のことに流用すれば、今日の「かわいい」は文字通り軽薄短小で、それは中学生棋士藤井 聡太君(2002年~)登場で、将棋教室の大繁盛=親(とりわけ母親)が通わせるといった、“芸能人マスコミ”に翻弄される女性(だけではないが)への不快不安的疑問に通じ、同性からも多く発せられているが、後を絶たない。
なぜなのか。「時代」、との表現ではあまりに悲観的虚無的に響く。

 

「男女協働社会」は当然必然のことで、国連からの人権問題指摘からも明らかなように日本はまだまだ発展途上国(後進国)である。「男社会」歴史の意識変革のあいまいさがそうさせている、と人格的能力的に優れた女性に多く出会って来た私は思う。これも自照自省からの(これは改めての)大きな自覚の一つである。
男・女すべて一括りに観る危険は承知しているとは言え、やはり最近事例、女性国会議員の暴言、非道行為は、明らかに犯罪で、学歴的職歴的に「非の打ち所がない」(テレビでのコメンテーター?表現)の彼女がなぜ?と思いながらも、個人の異常で終えようとしていることには疑問が残る。
先に記した、柳原白蓮の「昔の女、今の女」(1953年)の結びの一節を引用してこの投稿を終えたい。

――表立っての実行は男がやりますが、それを動かす力は古今東西にわたって女にあるのですから、女たる者の責任は重大です。
一口にいえば昔の女は馬鹿で、今の女は利巧です。自己満足のためには、他を犠牲とするとも、己れは犠牲を欲しません。しかし、智慧の実をあんまり食べすぎるとまたしても神様からエデンの国を追われるかもしれませんよ。――

「かわいい」の、真(まこと)の女性をそこに見るのだが、どうだろう?

日本国憲法をノーベル平和賞に、と数年前提案した人は、母親でもある国内在住の日本人女性だった。

 

2017年6月6日

『たけくらべ』再読 ―私と浅草、そして吉原―

井嶋 悠

若年時より、自分に都合よく言えば『書を捨てよ、町へ出よう』(かの寺山修司〈1935~1983〉の評論集(1967年)、併せて演劇、映画の表題)で、20代後半からの中高校国語教師時代も授業、クラブ顧問(監督)、校務で超精一杯の日々、その後は痛飲で、土壌ないにもかかわらずの狭小の読書、学習体験・見識ではあるが、樋口 一葉(1872年〈明治5年〉~1896年〈明治29年〉)のこの作品は、日本文学史上不朽の名作10指の一つだと思っている。
(昭和生まれ(20年)からなのか、明治、大正、昭和といった元号の方が、西暦より親近感が湧く。しかし、なぜか平成にはそれがない。これも老いの感性?)

 

「廻れば大門の見返り柳いと長、お歯ぐろ溝に燈(とも)火(しび)うる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の往来(ゆきき)にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前とは名は佛くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦(いえ)もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形(なり)に紙を切りなさいて、胡粉ぬりくり彩色のある田楽みるよう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず……」の、

凛として美しく端正な顔立ちの眉間に少しばかり皺立て思案に思案を重ね、文机に向かい、毛筆を一気に滑らせる姿が思い描かれる書き出し。音楽の文体。

 

「龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説(うわさ)をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をば其まゝに封じ込めて、此處しばらくの怪しの現象(さま)に我れを我れとも思はれず、唯何事も恥かしうのみ有けるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懷かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに傳へ聞く其明けの日は信如が何がしの学林に袖の色かへぬべき當日なりしとぞ。」の、

〈一輪の水仙に象徴される清らかさと淋しさ〉の、清澄な画(え)が脳裏いっぱいに広がる結び。

 

下町の、吉原の、大人に差し掛かる不安をふと過ぎらせながら、一日生涯そのままに活き活きと子ども時代を過ごす少年少女たちの、大人たちの、濃やかな描写に、時を超えその場に舞い降り、共に哀しみと愛(かな)しみを共有する私たち。内容と文体の見事なまでの一致。
この作品は、中高校教科書に抄出であれ、口語体に直したものであれ、相当高い率で採られているので、現在18歳以上のかなりの人が、目あるいは耳で接していることになる。凄いことだと思う。よく覚えていない人も多いとは思うが、それは教師の、また“あれもこれも”の[基礎・基本]現状かとも…。

私の高校時代の、厳(いか)めしく近寄り難い国語教師(50代の男性)。私たち悪童の態度・悪戯の時も、溢れる慈愛の眼は隠しようがなく、しかしそれを一切表に出されなかった昔気質の、だから私たちは畏敬していた、今は亡き先生は、彼女の美しさをどれほど讃えておられたことだろう。
その先生が、劣等生以外何者でもなかった私に、定年退官後著された『芸道思想』に係る研究書をわざわざ送って下さった時の驚愕、差し上げた年賀状の毛筆によるご返信で、いつもご自身の漢詩を添え、(我が学力を承知して、鉛筆書きの返り点と送り仮名付)くださった葉書は私の宝物の一つである。なお、そのご子息は、20年ほど前から北海道で高校の体育科教員をされている。

 

そんな私が、その先生と同僚(剣道4段ならではの背筋厳しく、強面ながら、おかしみを漂わせた古典主担当の男性)の先生の、なぜか!ご厚情を得て教師となり、小説教材を、限られた時間と授業展開法での悪戦苦闘、試行錯誤も懐かしく思い起こされる。
ところで、在職中に直接聞いた中高校大学一貫教育の或る私立中高校では、時間とは関係なく、作品を読解・鑑賞する旨聞いたことがあったが、今はどうなのだろう。
これらの直接間接体験が、これまでに何度かこのブログに投稿した中高校教育制度と内容に係る私論の原点となっている。

《いつもの余談》
5000円札の肖像は樋口一葉だが、発行時あの画には甚だしく失望した。才と孤独と貧苦の中で磨かれた凛とした美しさがどこにもない。まあ、10年前からの年金生活、5000円札(いわんや一万円札においてをや)にまみえることは千載一遇だから良いのだが。
閑話休題。

 

吉原は浅草・浅草寺の裏手、約1キロの所に在る。
私にとっての浅草は、小学生の時、近所のお爺さんが連れて行ってくれ味わった(当時私は大田区在)バナナの、衣類の露天たたき売りの、心躍る時間で、今の世界的!?一大観光地の喧騒とは無縁だった。
その後、20代[1970年前後]での東京生活時に訪ねた浅草も、[六区]はまだ活きていた。そこで得た情感があってなおのこと、渥美清や、萩本欣一さん等々に、勝手な親愛感を寄せていたと思う。
(一時代を築いた『コント55号』萩本さんの相方坂上 二郎(1934~2011)は、晩年、私たちが今居る那須に移住し、『東北大震災』の翌日、那須で亡くなった。日ごろお世話になっている那須生まれ育ちの50代女性の言った言葉が、坂上さんの個性に魅かれることが多かった私なので、強く残っている。

「あの震災がなければ、もっと多くの人たちが、彼の弔い、葬儀に来られただろうに。」

 

仲見世通りのあの国際的!賑わい(と言うよりラッシュ時の混雑に近い)の今、[六区]通りに演芸館もストリップ劇場も呑み屋も場外馬券売り場もあることはあるが、通りを覆っていた自然な開放感はない。それでも郷愁があって、上京すると時折訪ねる。今も、足取り定まらない寂しげで哀しげな老人はいるが、より一層孤独感を強く漂わせているように思えるし、どこか通り全体に奇妙な閑散さ感じる。見事なまでの近代化の街並がもたらすことでの、これも勝手な老いの感受性なのだろう。
私が描く居酒屋のイメージとは違う広さの、道にまで席を設けた居酒屋が数軒並び、女性の呼び込み合戦も行なわれていて盛況溢れているのだが、何か違和感が起き足早に通り過ぎる、現代数周回遅れの私。

何年前だったか、“春のゴールデンウイーク”直前に上京したときのこと。
「大門」「見返り柳」を見たくなり、4月末の晴れた日、浅草寺から独り散策した。「言問(ことと)い通り」を過ぎると、観光客はほとんどいない。「吉原大門」近くにあったコンビニで弁当を買い、斜め前の小さな公園(それでもブランコが二つ、砂場、そして遊園地によくある[コーヒーカップ]一つと、ベンチが備えられている)で昼食。五月晴れの下(もと)の身も心も麗(うら)らかなひととき。このご時世、不審者情報で警官が来ることもなく。周りは一戸建てや幾つかの昔ながらの2階建てアパートの閑(しず)かな住宅地。
私の他には、所在なげな老人(男性)一人、幼児を連れた若いお母さん、そして小学生が3人(3年生前後の男の子2人といずれかの姉とおぼしき5年生前後の女の子)。小学生たちに『たけくらべ』が重なる。平成たけくらべ。

 

この公園から徒歩数分の一帯は知る人ぞ知る、全国有数の“ソープランド”街で、江戸期吉原の後継・跡地的感覚で言う人もあるが、どうも私にはしっくりと来ない。
と言っても、遊郭も赤線・青線もソープランドも知らない(或る人に言わせれば勇気と甲斐性がない!/?)が、江戸期の吉原の「愉楽」と「苦界」を、幾つかの書物、落語、映画等からだけの、それもわずかな知識(単なる知識)の限界でのこと。それは、今日ソープランド等「風俗業」で、かなり多くの若い女性が、自身の意志で“働く”現代性産業(産業!?)の実態、その背景に在る、性意識[倫理観]の変容(古代日本人の性意識の原点回帰?…)、需要と供給の現実、現代日本の経済・社会現状等を知ればなおのこと、軽率な物言いはできないことを知らされる。
ただ、その間近で子どもたちは無心に遊んでいることだけは事実である。

 

性労働に係る現在について調べていたときの心に刺さった言葉を一つ記す。

「最近蔓延しているポエム(みたいな謳い文句)なんて絶対に嘘だし、かつ夢とか希望とか安定なんて、この世にないし、みたいな考えになっている。こうした現実に気づいたとき、時間に束縛されずに必要な金額が稼げる風俗を選択することは自然なことなのかもしれません。」
(『日本の風俗嬢』中村 敦彦・2014年:より、風俗嬢の相談、生きるための支援をしている非営利団体代表の言葉)

やはりこの書で知ったこととして、かの偏差値トップレベルの複数の国立大学生が、在学中からその性労働に携わり、決して負の心ではない、とのこと。
官僚、政治家またそれにつながる評論家、マスコミそして教育者は、どう考えるのだろうか。いつもの「例外のない例外はない」で終わるのだろうか。

 

公園でのこの上なく静かなたたずまいで出会った二つの光景。もちろん、いずれも私の感傷と言う上下(うえした)の証しに過ぎないのかもしれないが。
幼子を連れてアパート方向に帰るお母さんの、様々なこと・ものを背負ったかのような哀しげな背中。
小学生の女の子が、大きなシャボン玉を青空に向かって、独り描いていたとき見せた至福の微笑み。

あの子どもたちは、お母さんは、老人は、ゴールデンウイークをどのように過ごしたのだろう。

 

一葉は、当時の女性の立場に「かひなき女子の何事を思ひ立ちたりども及ぶまじきをしれど」と、苛立ちにも近い無念さを秘めながら、こんなことを書いている。

「……天地は私なし。……。娼婦に誠あり。……良家の夫人にしてつまを偽る人少なからぬに、これをうき世のならひとゆるして、一人娼婦ばかりせめをうくるは、何ゆゑのあやまりならん。」(明治27年)

「……安きになれては、おごりくる人心のあはれ、外(と)つ国の花やかなるをしたひ、我が国振りのふるきを厭(いと)ひて、うかれうかるゝ仇(あだ)ごころは、なりふり住居(すまい)の末なるより、詩歌政体のまことしきまで移りて、流れゆく水の塵芥(ちりあくた)をのせてはしるが如く、何処をはてととどまる処を知らず。かくてあらはれ来ぬるものは何ぞ。」と書き、この後当時の外交問題に切り込み憂国の情を吐露する。(明治26年)

これらのことに私があれこれ言う学力・器量はないかとは思うが、なぜこれを引用したかで了解は得られると思う。

【参考】彼女の憂国の情の翌々年(明治27年)、日清戦争が始まり、以降「三国干渉」を経て、日本の大陸施策の展開、そして日露戦争とつながって行く。尚、大正14年(1925年)の公布された『治安維持法』につながる『治安警察法』は明治33年(1900年)である。

 

ところで一葉の言葉の引用に関しては、佐伯 順子氏(1961年~・比較文化研究者)[編]の『一葉語録』(2004年)を基にしている。氏は、1987年、大学院博士課程在学中に『遊女の文化史』を著し、大きな注目を集め、現在に到るまで研究と教育に確かな足跡を残している。
実は、彼女の中学校3年生の時の国語授業担当及びクラス担任は、私だった。夢のような話である。

 

吉原大門にほど近い場所に、台東区立『一葉記念館』があり、訪れたが、そもそも○○記念館といったものに関心の薄い私、展示等より、建物のひときわ目立つモダン性(超近代性・現代性?)が先ず私の心に残っている。

 

2017年5月17日

[犬好き・猫好き] ―元教師の学校回顧方々―

井嶋 悠

プッシィ キャット[pussy cat]。かわいい人(主に女性への呼びかけ)[『グランドセンチュリ英和辞典(三省堂)。]「主に」との真意も、せいぜい「かわいこちゃん」ぐらいしか知らないが、子猫のあの表情、姿は犬に優るように思う私は、しかし犬好き“派”である。時の流れは、愛も変容するとは言え、「かわいさ」に上下区別などあろうはずもないが、である。このかわいいを、漢字交じりにすると「可愛い」。「愛」を[いとおしい・かなしい]の両意を想う私としては、それが「可・できる」との変換には、ふと微笑みが起こる。
その私は40歳前後以降犬を途絶えることなく飼い、今、1歳の男の子がいる。夫婦で「私たちにとって最後かもしれないね」と言いながら。

因みに、先の英和辞典で[cat]を引けば、二つ目の語義に「意地悪女」とある。意地悪、とは凄いが、世智的に賢い人は、男女を問わず概ね意地悪とも思える。もちろんこれは私の劣等心の為せる独善で、女性の強さへの男性からの一方的的印象に過ぎないが、“母性”を憧憬する男性に共通するのではないかとも思ったりする。女性の意地悪さに快感!?を覚える現代日本の男性?
猫は賢い。犬はバカだ。(関西人の私だが、私の語感としては「あほ(う)」よりバカなのだ。)

夏目漱石は、自宅に迷い込んだ黒猫を主人公にして傑作を著す。内容の思索性は主たる猫で、おかしみは犬、と言えばあまりに牽強付会か。漱石は猫の死に際して墓碑をつくり、死亡通知を知人等に送付したとのことだが、自身は二者択一的に言えば犬好きだったとか。
かの、映画『男はつらいよ』の名セリフの一つ、おいちゃんが寅さんに言う「バカだねえ、ほんとバカだねよねえ」の、あの響き。

雑文に余談を加える。
あの響きは森川 信(1912~1972・何と還暦の若さ!で亡くなっている。才子は短命!?)だからこそ出せた響きだ、と後継の二人には悪いが思う。そう思って渥美 清(1928~1996)を思い浮かべると、日本伝統大型犬の秋田犬の風貌に似ている……。
私は3か月後に人生72年を迎える。その間自身を賢いと思ったことはない。もちろん、親(とりわけ父親)はもちろん、生徒学生時代の教師を含め他者から賢い評をされたことは皆無に近い。だから、私は犬に(無礼を承知で)感情移入するのかもしれない。子猫時代を終えたあの賢い(醒めた)風情はどうも近づきにくい。

[『男はつらいよ』からの更なる余談。]
妹「さくら」役の倍賞 千恵子さんの猫的、氏の実の妹・倍賞 美津子さんの犬的な、その女優性。かつて千恵子さんの演技力、存在感に圧倒され、心酔していた私だが、最近、美津子さんに千恵子さん以上のそれを感ずる。それが表現の直接(直截)性、間接(象徴)性と加齢(老い)そして死への嗅覚につながるのか、単に私の気ままなのか、よく分からないが。)
世で多く言われている「犬好き・猫好き」の特性をインターネット情報から勝手に要約すると、以下のようである。

【犬好き】
感情表現が豊かで積極的で行動的・寂しがり屋・思いやりが深い・尽くすことが好き・安心感への希求が強い。

【猫好き 】
物静か・マイペース・ツンデレ好き(このツンデレという言葉は初めて知ったのだが、「つんつん」と「でれでれ」を複合した言葉だそうで、要は気分屋と私は理解している)・心配性だが冒険好き。
また、或る研究結果では次のような指摘もあるとのこと。 「猫好きは犬好きより内向的で感受性が強く、独創的な発想を持ち、猫好きの方が、知能指数が高い。」 自照し、旧知の人々を思い起こせば得心できることは多く、且つ33年間の中高校教師生活が見事に甦る。ただ、「知能指数」については、知能指数そのものに懐疑的だから全く疑問ではある。

日本の古代からの絵巻物を見るとそこかしこに登場する犬と猫、人とのつながり。歴史としては犬の方が古く、生活(実用)と愛玩(この愛玩の用法、手元の『現代国語例解辞典』・『漢語林』及び『グランドセンチュリ英和辞典』(pet)でも軽侮的説明はないが、「玩」の意味にはあって、「愛玩」は時に軽侮の意味合い(ニュアンス)で使っている思うこともあり、猫好きは女性のイメージ(smart & cool)が強いだけになおのこと抵抗が湧くが、他に適切な用語が見つけ出せないのでこのままにする)で言えば、犬は生活(実用)との併用傾向があるが、猫は愛玩であろう。

清少納言は『枕草子』で、犬に係ることを2か所(それも生活と愛玩それぞれ一つ。やはり才媛だ)で書いている。 章段順で言うと、9段で彼女の犬好きを偲ばせる「愛玩」を、23段で「生活(実用)」に係る彼女の感性として。

【9段の要旨】清少納言が仕える一条天皇が溺愛していた猫を、同じく飼われていた犬(名:翁丸)が、周囲の者たちのからかいに、まるで言葉が分かるかのように乗って脅かせたことで打たれ、棄てられる。しかし、あろうことか帰って来て、作者も含め翁丸を案じていた人々と感動 の再会を果たす。

彼女は、その翁丸を「しれもの(痴れ者:バカ者)」と、打たれ棄てられる段階で形容しているのだが、それは「あのおバカさん」との、犬好きからのニュアンスであることは、翁丸との再会での翁丸と彼女の心の交流描写からも明らかだと思う。おいちゃんの寅さんへのあの表現と重なって私には響く。

【23段の要旨】すさまじきもの(興ざめするもの・不快感を与えるもの)の冒頭、彼女が挙げている事。
ほゆる犬。」

今日、愛玩が主流で、猫にしても犬にしても家族の一員、それも家族構成者として、との感覚は、家族内間の呼称表現からも日本的とも言われる。だから無責任な飼い方は非人間的(非人道的)と糾弾される。更にその入手、飼い方が、欧米と違ってあまりに情的(感傷的)なこともあって、結果からの糾弾にはより拍車が懸る。

先の[犬好き・猫好き]が、学校社会を彷彿とさせる私的根拠は以下である。

先ず学校。
家庭のしつけまで学校に委ねられるほどに家族的なことを善しとする時代。(その善し悪しは、小中高大の組織上のこと、塾との関連を含めた学力観、また時代様相或いは日本の方向性等考慮しなくてはならないことが多いので今は立ち入らない。)
生徒。
中学2年生前後あたりから、猫派に行く者、犬派に行く者が、はっきりし始める萌芽思春期前期の昂揚。尚、中学2年生前後は心身急成長もあって、自・他へ“厳しい”時期であることは今も変わらない。

教師。
教師間にあっても、生徒間にあっても孤独な存在で、極一部に神的(仙人的?)な人もなくはないが、つまるところ一介の人間で、「教室では殿様(大将)」と言われ、時には体罰までして従わせるのはその裏返しとも思える。そういう教師を教育熱心と評する人もあるが、それは教師であることの甘えと驕りを助長するだけだと思う。
職員(教員)会議・教授会のタテマエとホンネ、総論と各論の交雑した時間は、何度かの会議議長経験からも否めないし、周知のこと…?
もちろんこれらも自照自省での発言。

その教師に先述の犬好きの[感情表現が豊かで積極的で行動的・寂しがり屋・思いやりが深い・尽くすことが好き・安心感への希求が強い]を重ねると大いに得心できる。
とすれば、猫好きの教師は犬好きより精神的苦労(悩み)が多いことが考えられるが、「猫好きは犬好きより内向的で感受性が強く、独創的な発想を持ち、猫好きの方が、知能指数が高い。」は、高校生に支持される可能性が高いように思える。
私の女子校、男女共学校体験(男子校はない)で言うと、学力優秀生徒は概ね女子ではあった。

あらためて教育の難しさとの当たり前のことに行き着く。公・私立学校の別なく種々多様な学校。一例を挙げれば、中高校(13歳前後~18歳前後、人生80年の現代日本で人生15%ほど終えた年齢)段階で、学力差(勉強ができる/できない)からの“不明”の謙虚さに、疾風(しっぷう)迅雷(じんらい)の速さで諦めに、少年少女を追い込むほどの学校差。

学校が多様であれば、「良い」先生像も多様なはずで、ここでも形容語の主観性、私感性に思い及び、教師晩年期の少しは自身の言葉で話す余裕が持てた時、生徒たちに、とりわけ「表現」に関して、形容語はその人の生き方・価値観を表わすからくれぐれも要注意と繰り返し諭したことが懐かしい。これは私に言い聞かせているだけだったのだが、
いつも思う。どうして大人は、大人による子ども・若者への、教師による児童生徒への【いじめ】の、調査の有無に始まり、実態を積極的に世に問わないのか、と。既に公表されていれば私の不勉強。
[国づくり・世づくり・人づくり]の形容語はいつも!「民主的・平和な・優しい」……。
教師資格取得の必修科目『教育論』関係の観念性は、当然批判の対象にあるが、理論と実践(現場)を知ってこそ批判できるとの弁(わきま)えも、おびただしい失敗と試行錯誤から持ち得たこと。
犬も猫も人の心を痛切に癒す。人は、私は切々と「哀・愛(かな)しみ」を直覚する。以心伝心…。

深く心沁(し)み入る叙情歌(バラード)『You raise me up』(『シークレット・ガーデン』〈アイルランド人の女性/ノルウエー人の男性のデュオ〉・2002年)「あなた(おまえ)は私を元気づける、奮い立たせる」の意。
「ストレス」との言葉が、日本社会で常用語となり、心身不調の自然にして当然の弁解語とさえなって、どれほどの年数が経つだろう。

大都会の犬・猫販売店では、当地での一般的価格は破格的廉価で、40万円50万円は当たり前のようになり、中には100万円の評価!?を受けた子犬、子猫が特別ボックスに鎮座?する。血統とか、コンクール賞等々でそうなるのだろうけど私にはその差はとんと分からない。

更には医療費の膨大さ。我が家の最近の犬2代が世話になっている医院は、非常に良心的とされているが、1回の診療費が1万円以下は珍しい。昨年飼い主の娘を追って逝った犬の晩年期の医療費を教訓に、保険に加入しているが、それでも特に春先の予防接種等初期必要額は、年金に大打撃を与える。
その医院でのこと。若いお母さんが子犬(娘さんが拾って来た犬とのこと)の予防等診療支払時の呆然絶句していた顔が忘れられない。帰宅後家庭内会話はどうであったろう?
私の家から車で30分も行くと、そこは那須連山の麓の温泉湧き出る高原(リゾート)地で、宿泊関連等レジャー施設、別荘、ペンションが幾つも在る。大都市圏から来た一部の人が、愛玩しているはずの、犬や猫(多くは犬のようだが)を棄てて帰る、との話を土地の人から聞いたことがある。そのとき妙に納得し、同時にそういう自身を懐疑し、嫌悪する感覚に襲われる。しかしこの感覚はいつしか過去のこととなる無惨。

自然との共生を己のものとし、行動しなければならない時代に生き、私は、花を、野菜を、そして犬を育て慈しむ幸いに、5年前23歳の娘を天上に送ったとは言え、今在るが、どれほどに言葉(観念)を弄んでいることだろう。
デジタル・国際社会にあって私のような英語もできない(学習から逃げていた)アナログ人は、黙って立ち去って行くべきなのかもしれない。それでも、学校改革、教育改革は、社会改革があってのことではないかと、理屈的にはその逆なのだろうけれど、想う。

日本はいつごろからこれほどに成金の、放言の「幸(さき)はふ(栄える)」国家となったのだろうと、昨年秋、九死に一生を得、幸いにも先月古稀を迎えた妻と、氾濫するマスコミ情報下、溺れ死なないよう何とか息を継いでいる。
ここには、“三代続く”江戸っ子下町育ちのカミさんと一応京都人の私の間に異文化はない。「下町の人情」の、「京都人」の、負の変容への残念さとさびしも加え。

2017年4月5日

「汝、自身を知れ」 ―那須・茶臼岳での遭難事故からの自照自省―

井嶋 悠

後悔先に立たず。
人生、経てば経つほどに後悔幾重にも、と思うは私だけだろうか。
後、1週間もすれば娘が、23歳にして憂き世穢土から浄土に旅立って5年が経つ。「一日一刻が永遠」の浄土にあっては、悪業宿業にも似た後悔など、その言葉さえあろうはずもないのだろう。
親としての後悔。教師としての後悔。そして生きて来た途での後悔。
娘に憂き世穢土を知らしめた一つに学校教師があることを思えば、私が教師であったことの「後悔先に立たず」の天のとんでもない皮肉。難詰。

子が親より先に死に向かう、子の、親の、極まりない哀切。
恥ずかしながら、この歳になって『かいなでて 負ひてひたして 乳(ち)ふふめて 今日は枯野に おくるなりけり』(良寛)との歌を、『日本の涙の名歌100選』(歌人:林 和清氏編(1962年生)で知った。

因みに、『わが人生に悔いはなし』は、石原裕次郎、1987年のミリオンセラー曲[作詞:なかにし礼、作曲:加藤登紀子]。大ヒットしたのは、後悔ばかりの苦い人生がいかに多いかの証しではと、歌詞の「はるばる遠くへ 来たもんだ」に向かえば、中原 中也の『頑是ない歌』に向かい、「桜の花の 下で見る 夢にも似てる人生さ」に向かえば、西行の、「願わくは 花のもとにて 春死なむ その望月の 如月のころ」(娘も愛誦していた)に向かう、へそ曲がりの私は思う。
石原裕次郎は、52歳で肝臓がんで亡くなり、私は今夏73歳を迎える……。

先日(3月27日)、家からほど近い(車で30分ほど)那須連峰の一山茶臼岳で、栃木県内の7校山岳部の合同雪山訓練中、雪崩で、7人の男子高校生と引率教員の1人(すべて私たち居住地の隣市にある県立大田原高校)が亡くなり、40名が負傷した。
事前の手続き、携帯品等準備、現場での判断・対応を、責任者の記者会見等報道で知る限り、教師の、惰性(馴れ合い)・過信、要は「驕り・傲慢」以外何ものでもない、と女子サッカー草創期(1980年前後)に中学・高校の女子サッカー部監督[顧問]やスキー講習(中学校3年生以上の希望生徒が対象で、指導は引率教員)行事をしていた元教師として思う。私の場合、たまたまこれほどまでの社会的問題になる事故がなかっただけのこと。
世の災害の大半は「人災」で、「天災」はごくわずかである、と自覚し始めた昨今だからなおのこと自省自責に駆られ、様々な過去の場面が私の内を駆け廻る。「自然」その意味の再自覚の緊要。
ところで、160mにわたって生じた雪崩の起点は、「天狗の鼻」とか。これも天の采配なのだろうか。

蛇足を加える。
これは教師だけのことではない。人が、“大人”が、「絶対」との言葉を安易に、しかも自信と気概に満ち溢れ使う感覚、意識の怖さでもある。罵詈雑言を叱咤激励と言い、打ちひしがれ、死すら想う若者に、“軟弱”と追い打ちをかける。
そこまでして日本は、世界の、経済大国によるリーダーでなければならないのか、とやはり偏屈な老人私は思う。

「汝、自身を知れ」
紀元前4世紀、人の善・悪・真を美の華から求め、華開かせたギリシャの時代、アポロンの神殿の入口に記されていた言葉。それから25世紀、2500年。死は一切の例外なく訪れるが、自身を知る、「無知の知」は途方もない苦行難行を経た者だけが知り得る。
私は? 正真正銘の無用の自問。

元中高校国語科教師の或る時期、古典授業の易さをうそぶいていた無知・無恥を正直に告白し、古典の、もっと限定すれば国語教科書の重さを、あらためて自身に言い聞かせたく、吉田兼好『徒然草』134段から、その一節を、少々長くなるが、引用する。
人一人一人が謙虚であってこそ社会・国は謙虚になる。「市民」「国民」そして「子ども」「大人」と言う時のそれぞれの具体像の確認のために。と他者(ひと)に言う前に「後悔先に立たず」を繰り返す私のために。

【古文のため、読みづらさを思われる方があるかもしれないが、せっかくの名文、引用部分の大意要旨を参考に、その音調、律動を味わってほしい。】

《備考:吉田兼好・鎌倉時代末期13世紀から南北朝時代中期14世紀の人。『徒然草』は、筆者50代の、1330年~1336年にかけての著作と言われている。今から700年近く前の文章である。》

《補遺:芥川 龍之介(1892~1929)は、35歳で、妻と二人の児を置き、自ら死を引き寄せた、その2年前に刊行した箴言集『侏儒の言葉』の中で「つれづれ草」として、次のように書いている。

「わたしは度たびこう言われている。――「つれづれ草などは定めしお好きでしょう?」しかし不幸
にも「つれづれ草」などは未だかって愛読したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」
の名高いのもわたしにはほとんど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにも
しろ。」

※〔上記補遺私感〕
稀有の才を天与され(後に、それが本人を苦しめたと私は思っているが)、今の私の半分の年齢で命を絶ち、社会様相、学校制度等環境の相違から同じ地平から比較できないが、肯んずる私もいる。しかし、当時の中学校は現高校で、「大学の大衆化」に象徴される学校教育現状と少子化、効率優先の、モノ・カネ本位社会、更には知識偏重の限界的弊害の今、彼が生きていたらどのように言ったか想像の興味が湧く。
ただ、彼のような俊才にとっては、教科書は所詮教科書で、私の自省「教科書で教える」驕りではなく「教科書を教える」ことを再考している立場とは相容れないかとも思うが。

【引用部分の大意(要旨)】

人は、他人にばかり眼を向けるが、最も分かるはずの自分自身のことに眼を向けない。自身の姿形(風貌)、心の、また技芸の在りようを自覚している人こそ優れた人である。だから他者(周囲)の誹りにも気づかず、すべては、利己の貪欲が自身に与えた恥、辱(はずか)しめである。
これを、先の『侏儒の言葉』で言えば、「阿呆はいつも彼以外の人人をことごとく阿呆と考えている。」ということになるだろう。

【引用本文】

―賢げなる人も、人の上をのみはかりて、己を知らざるなり。我を知らずして、外(ほか)を知るといふ理(ことわり)あるべからず。されば、己を知るを物知れる人といふべし。

貌(かたち)醜(みにく)けれども知らず、心の愚かなるをも知らず、芸の拙きをも知らず、身の数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病のをかすをも知らず、死の近きことをも知らず、行ふ道の到らざるをも知らず、身の上の非を知らねば、まして外の誹(そし)りを知らず。[中略]貌を改め、齢(よわい)を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、なんぞやがて退かざる。老いぬと知らば、なんぞ閑(しづ)かにゐて身をやすくせざる。[中略]

すべて、人に愛(あい)楽(げう)(親愛の意)せらずして衆に交はるは恥なり。貌醜く、心おくれにして出で仕へ、無智にして大才に交はり、不堪(ふかん)(下手の意)の芸をもちて堪能(かんのう)の座に連なり、雪の頭を頂きて、盛りなる人にならひ、況んや及ばざる事を望み、かなはぬ事を愁へ、来たらざる事を待ち、人に恐れ人に媚(こ)ぶるは、人の与ふる恥にあらず。貪る心にひかれて、自ら身を辱しむるなり。[後略]―

娘が与えてくれた自照自省、その拙文を投稿する私。赤面羞恥するばかりで、兼好の言う具体例である。それでも、娘の鎮魂があっての自己整理を続けなければ、との私もいる。それが私の老いに生きること、と「咳をしても一人」(尾崎放哉(1885~1926)の鬼気にはほど遠い肝に銘じている。

後悔は、動物のドキュメンタリー映画を観ていると人間だけの所為(所業)とも思えないが、人間ほど繰り返す愚かさはないようにも思う。それは明日命に直接に関わるからだろう。理屈[言葉]を弄する暇(いとま)などないということなのだろう。
そう考えると、『侏儒の言葉』から繁く引用される「人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である」との表現は、書き手が古今東西の文化(芸術)に精通した、近代叡智の人だっただけに再びあれこれ思い巡らせたりするが、私の時間は限られている。
やはり「後悔、先に立たず」に帰着する……。

 

2017年3月15日

遊び、その二つの字義、解放と隙間が育む、想像・創造力 [学 校]

井嶋 悠

前回に続く表題が、今回の駄文投稿の主点である。
末席を汚すとは言え一応京都人であるということで言えば、私の「京わらんべの口ずさみ」でもある。ただ、あくまでも教師及び親の体験からのそれではある。
[注:私の教師体験[専任教諭としての3校(内2校女子校、1校共学校]の制約或いは限界;
大都市圏の私学で、中高一貫校(内1校は大学併設)、自由の標榜、全員が大学進学希望]

10代での「解放と隙間」としての「遊び」、自我を、教師・他者と模索し確認できる、1時間が1分ではない1時間は1時間の時間。
10代を卒えた後、先進国、文明国、経済大国等々、世界を導くと矜持(喧伝)する国の一日本人として自由・自主の人生に向けて。怜悧聡明は愚直であってこそ。蝸牛の争いを直覚できる広量。対症療法の、しかもモノカネ施策の貧しさ、まやかしへの嗅覚。古稀は稀でなくなり、後期高齢者まで5年ある長寿大国の現代日本。
私はその視点から18歳選挙権に同意するし、併せて18歳成人とし、中学高校を8年制とし、原則20歳高校卒業、との学校制度下で、自律への自己確認の時間を願う。高校義務化も視野に。〈自由と言う言葉の使い方は難しい。義務教育との言葉が持つ拘束性ではなく、陰陽ない選択肢が可能な学校の意として〉
(「原則」としたのは、自己確認と志向の多様を思えば長短の幅は必然で、ただ、そこでは[基礎・基本]と教科のこと、教師意識、改革のための社会意識の転換等、総括的に考えなくてはならない。ただそれらに係る現状、私案は教師として、親としての体験と自省を基に以前投稿したので省略して以下進める。)

管理・放任でも、全体・画一でも、また今日の差別的使い方ではない個にとっての「主要」教科の自覚への、個が個として活きる教育。次代の創造的日本のために、少子化の今だからこそ、財政を理由にした中高校の統廃合は甚だしい矛盾、モノ・カネ効率第一主義の勝手な統制で、ましてや都鄙の格差是正を正論として言うならばなおさらのこと。例えば、校舎等の養護施設、保育所等への有効利用での教育効果は計り知れない。
教育現場から退いて10年、限られた情報しかない私ながら、現在も生徒は「ギチギチでギスギスと生き」(前回の投稿で使用した表現)のままだと思う。そのとき私の脳裏に浮かぶ生徒とは、或る“英才”を見い出された「特待生」やそれに類する待遇を受けたり、「優秀な子どもはどこの学校にいても優秀」、また要領が良いとの意味での優秀者ではない、その他の圧倒的多数の“普通の”生徒である。

 

学校は、塾・予備校は広報・説明会で声高に言う。「個を大切にする、活かす教育」。
それを言う時の恥ずかしさと罪悪感、そして時間(多忙!と時に誇らしげに言う時間)を持ち出す不遜。これは、何人かの生徒への献身で自得満足していた管理職或いはそれに準ずる職を経験した私のこと。それらの記憶が鮮やかによみがえる。教師という大人の勝手と観念(言葉)遊戯。
学校にとっては多数の中の(相対の)一人(個)だが、親にとっては絶対の一人(個)を、教師としてはもちろんのこと、親としても、親族等知人の事例からもどれほど痛み知らされたか。
最後の奉職校は「絶対評価」を信条としていたが、授業の集成である定期試験の内容や方法、各生徒の把握等、巨視的且つでき得る限り客観的にできたか、少なくとも私には自信はない。
(尚、10段階評価の奉職校で、全員〈1学年3クラスで学年生徒数約140人前後〉常に全員「9」評価をする教師があり、一時教員会議で議論されたがうやむやとなった)

「歳月人を待たず」。すべては時間(時が経てば忘れる)が解決する?
「風化」書くことで改めて気づかされる自然の悠久な歴史と[ふうか]との音声的響きへの高慢。

 

「考える力」(想像を広げ、考え、試行し、創造性を養い、自身を知ろうとする力)を、との「当然」を初めての真理のように言い、入試での出題をインタビューで驕り高ぶる上級学校の管理職等の相も変らぬ無恥。その橋渡しをし、進路指導まで司るほどの絶対的信頼度を誇る塾・予備校の不変?の構図。
(因みに、学習塾通学(ここでは英語等外国語学習塾は視野に入れていない)は日本独特かと思いきや、ソウル・北京でも高く、「東アジア」独特の文化?との視点から考えてみるのも興味深いかもしれない。)
この狂騒にも似た受験戦線に人生の土台となる競争原理があり、それに打ち克ってこその素晴らしい10代そして未来との感動談、美談。それを引き立たせる?悲談と劣等、敗者意識、諦め。前者<後者は言い過ぎか。

 

「遊びをせんとや生まれけむ  戯れせんとや生まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば  我が身さへこそ揺るがるれ」

これは、前回冒頭に引用した書と同じ『梁塵秘抄』に収められていて、今日(こんにち)度々引用される一つ。
無心に遊ぶ子どもの声を聴く老境からの感慨と解説される。老いでの生の終わりを自覚し、己が生涯を回顧する姿を思えばそうであろうが、年齢を離れ“大人”になった、との複雑な感慨ではないか。出会う幼な子すべてに神々しい愛らしさを実感する我が身に狼狽(うろた)え慌てる今。

上記では、「遊」と「戯」の二つが使い分けられている。白川静『常用字解』で意義を確認してみる。

「遊」:もと神霊があそぶこと、神が自由に行動するという意味であったが、のち人が興のおもむくままに行動して楽しむという意味に用いられるようになった。
「戯」:もとは軍事・戦に関わる語であった。(説明を要約して引用)

現在、私たち多くは「遊ぶ・遊(ゆう)」を使っている。
日本は、古来ありとあらゆる場に宿る八百万の神々と交会し、春夏秋冬豊潤な自然との共生が産みだすアニミズム(精霊信仰)の国。[幽・かすか・はるか「幽玄」]につながる「遊」。

【余談】私の名は「悠」(悠々・悠然)。1945年(昭和20年)8月23日、長崎市郊外で出生。父は海軍軍医で被爆者治療に従事。その父がこれからの日本を願っての命名。「名は体を表わす」の一つ?と、父母慈悲の恩をどこか知識的なまま天上に送った者として自嘲的に思ったりする。

 

日本人は「遊び下手」と言われる。
それは「真面目人間」ということなのだろうが、古人曰く「過ぎたるは及ばざるがごとし」に限りなく近づくことさえ多々ある。先人の多忙=充実・苦行(の愉悦?)の働きがあっての高度経済成長と今の恩恵があるとはいえ、今日の若い世代には頭の中の感覚のようにも思える。10年余り前に某大手企業幹部から聞いたエピソード。部署で新人歓迎会を上司として企画したところ、主役の新人が揃って参加せず、理由を聞いたところ「どうしてアフター5まで同僚でなくてはならないのか」との返事だったとのこと。
とは言え、数多の海外進出企業を含め、日本人は今もって、遊びと仕事・勉強(労働)の明確な区別、切り替えがあいまいで、いつも労働を引きずり、仕事と遊びの合理的切り替えこそ善、と承知しつつも徹しきれず、中には後ろめたささえ持つ、中高年はもちろん、多いのではないか。何にでも「道(どう)」をつけ、禁欲的指向を真善美とする。色の道も「色道」。「道楽」「極道」また「好色」の用法に見る日本的、日本性おもしろさ?

中国やヨーロッパの、仕事と遊びを切り離して人を視るのと違って、仕事の優秀さ、実績があっての遊びを評価する日本性を言い、江戸時代の文化に担い手に「遊び人」の存在を指摘する、例えば樋口清之(1909~1997:歴史学者。日本史関係の啓蒙書を多く執筆し、その一つ『日本人の歴史8 「遊びと日本人」』)のような人もいる。
世界が公認する勤勉なその日本人が何年か前から郷愁する江戸時代町民生活・文化。近代化と日本人。明治維新への心情を根っ子にしての賛否両論。
先日の「プエミアム・フライデー」。このネーミングも含め、政治家と官僚の「国民」基準の偏向の再びの露呈、街頭インタビューに応える若い社会人(おそらく時代の先端等大手企業や役所の人たち?)の応え(もっとも、それらはマスコミの取捨選択であろうが)の心の貧相。それらに苛立つのは私だけか、と思えば、愚策と怒り心頭の人々も少なからずあって一安心。

 

旧聞ながら、国文学[日本文学]の卒業論文で、女子学生に人気の近現代作家は太宰 治(1909~1948)とのこと。理由は彼の美男振り[見てくれ]と母性(本能?)を刺激する[甘え]からとのこと。その太宰の、作家自身と思われる父[私]の生活断片を描いた作品に『父』と言うのがある。
「義のために、わが子を犠牲にするといふ事は、人類がはじまって、すぐその直後に起った。」(『旧約聖書』創世記を土台にしての表現)に始まり、「義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似ている。」で終わる短編小説である。
主人公の父[私]は、どうにもならない見栄っ張りの女好きの家庭をかえりみないとんでもなく小心な男として描かれている。(だから母性をくすぐる?)。その彼が「義のために遊ぶ」と嘆く(居直る?)。彼自身、その義の正体を探しているのだが、非常に日本的と思え、「私」の死に急ぐ姿が視えるようでもある。と、どこか得心する私がいる。ただ、39歳で道連れ的情死した太宰と違い、妻に言わせれば、変で妙で屈折的なそれだとのこと……。

ところで、「遊び」には二つの字義がある。[いずれも『ウイキペディア』より引用]

一つは、知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、を満足させることを主たる目的として行うもの。【解放】

一つは、機械や装置の操作を行う機構(ユーザーインターフェイス/マンマシンインタフェース)に設けられる、操作が実際の動作に影響しない範囲のこと。あるいは、接合部などに設けられた隙間や緩み。【隙間】

ギチギチにしてギスギスの生の刻々、融通性のない、謹厳実直の日本人? 老荘が言う「無用の用」を憧憬するが頭だけに留まってしまいがちな日本人……。明治維新での、「脱亜入欧」、無条件降伏からの奇跡の復興と高度経済成長での、「(欧米に)追いつけ追い越せ」から、「追いつかれ、追い越され」に。襲われる不安と焦燥、そして謹厳な責任感。
民主党《現民進党》政権時代、現党首の「二番ではだめなんですか」発言とその場の微妙な反応を報道で見、非常に愉快な、しかしどこか違和感を持った記憶が過(よ)ぎる。

英語に次のようなことわざ(『マザー グース』の一節)があることを知った。

「All work and no play makes Jack a dull boy. [dull:鈍い、退屈な]

※念のために「play」を英和辞典[『ライトハウス英和辞典』研究者]で確認するが、その多義から、一面的にとらえる危うさを思うが進める。

遊びの二つの価値[解放]と[隙間(余裕)]。解放があってこその遊び。隙間があっての遊びの成立。
1973年の交通標語「せまい日本 そんなに急いで どこへ行く」をもじれば「先進長寿の経済大国日本そんなに急いで どこへ行く」……。
日々の束縛から解放され、たとえ一時であれ自由の時間と空間に浸り、自己を問い、明日の生の活力を得るはずの「遊び」にもかかわらず、疲れ、そんな自身に苦笑する日本人…。
子どもと大人の、それぞれでの、また相互での、『いじめ・虐待』も遊びの欠如が一因とさえ思う。
言葉が、記号の形式だけに堕した頭でっかちの世界。直ぐに条例化、法制化し、それで事足れりとする安易さに潜む全体主義化の不安と人間不信の現代。

1970年代から使われるようになり、今では日本語化しているとも言える「レジャー」[leisure:暇な、余暇]の軽薄な響き。しかしこれらの感覚は「時間つぶし」との言葉に抵抗感を持つ私の、旧態然発想なのかもしれない。

 

フランスの文芸批評家、社会学者、哲学者である、ロジェ・カイヨワ(1913~1978)は、遊びの基本的な定義を以下の通り記述している。                           (その著『遊びと人間』の解説からの孫引き。下線は引用者)

  1. 自由な活動。すなわち、遊戯が強制されないこと。むしろ強制されれば、遊びは魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
  2. 隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
  3. 未確定な活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の工夫があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
  4. 非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
  5. 規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
  6. 虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。

 

この遊び観、学校にあてはめてみると、私感が論外のデタラメとも思えない。
その学校。(中学校・高等学校)
日常的にして非日常的世界。(この日常・非日常という言葉、私が20代・1970年代、頻りに耳目に触れた言葉で、私の中で明確な理由を説明できない或る抵抗感が伴うのだが使う。)
「俗」にして「聖」の、「ケ・褻」にして「ハレ・晴れ」の、「私」にして「公」の、「普段」にして「祭り更には政(まつりごと)」の、思えば不思議な世界。その両極間を行ったり来たり彷徨う生徒、教師。

体験での知見例。キリスト教主義の学校で、プロテスタント系(私の勤務校)よりカソリック系で多い在学中受洗者。

私的(個人的)自由、公的(集団的)自由の接点への模索と試行、そこで知る抑制、規制、束縛。神経脈の細分的発達と不安、理想への憧憬と葛藤。心身発達の不調和と混乱。「青の時代」。疾風怒濤の10代。それぞれの方法で駆け抜けようとする生徒たちと大人然と居る、或いはそう在らざるを得ない教師たちとの協働社会
「家庭内暴力」「いじめを含めた校内外暴力」は、中学2年14歳前後をピークに中学高校に多いことは、今も昔も変わらない。人間発達の自然? しかし、低年齢化して小学校高学年で増加傾向にある今。
個人の複雑化に拍車を掛ける過剰情報、社会の複雑化。その中での“勝ち組・負け組”との、旧時代の感覚のままにマスコミが煽る風潮作り。一方での観念的正義、道徳。後ろでそのマスコミを操る人たちについて「青の若者」はどれほどに察知承知しているのだろう。
長寿化、少子化と世界の、国際化からグローバル化(地球船時代)指向にもかかわらず。

かつて、心通じ合い協働していた識者たちが懸命に提示した「新しい学力観」との言葉がよみがえる。その識者たちの多くも既に引退した。繰り返される、そのときどきでの「新しい」学力論。風化……。
中学生の英語の時間「過去完了」との表現に出会い、驚き、半世紀以上が経った。

2017年2月1日

「ポピュリズム」から ―言葉と人に思い巡らせる―

井嶋 悠

トランプ大統領誕生で、ポピュリズムとの言葉が、我が国の元首相や元市長時代以来久方ぶりに、マスコミの識者によって批判的否定的に使用されている。それは数年来待望されている“英雄(ヒーロー)”願望の負の側面への憂慮、と同時にアメリカ絶対的追従国日本の一人として、彼が大統領に選ばれるほどの支持者が厳としてある、そのアメリカの事実をどう受け止めるかの自己明確化への警告、と取ってはいささか識者贔屓過ぎるか。
しかしそうでなければ、識者(エリート)の繰り返される官僚的思弁への民衆の反逆でもあるポピュリズム(ポピュリスト)を方便とする権力獲得への、結果的に援護者と堕してしまわないか。

そのアメリカの国民の意思について、職歴等からアメリカ人やアメリカで研鑽を積んだ日本人青年たちとの出会いからも私感(観ではなく感)はあるが、「生兵法は大怪我のもと」、自国のことさえ今もって一知半解の身、いわんや他国・地域については、で軽率な批評は自重すべし、を昨今の信条としているので触れない。
ただ元職の日本の二人については、私の政治家不信の典型的理由の一つを体現していて、旧オーム真理教・アーレフ幹部(現「ひかりの輪」代表)の「ああ言えば、上祐」と重なっている。言葉と人のこととして。ただ、ここでは「四技能」の内、話す・聞くに係ることだが、聞く耳持たぬ話し上手?の印象甚だ強く、そこに権力志向の醜悪を直覚する。
言葉(国語科)の教師として33年間生計、家庭を営み、今の自照、供養も言葉で、「同穴の狐狸」そのままなのだが、それでも、である。「何を今更、世は騒音雑音が常」を承知し、何人もの“二人”と同系の人と仕事を共にし、心の病さえ発症したにもかかわらず、今もって脳内に留め置く小人ぶりに、妻から苦笑をかっている。
政治家と教師(特に文系)は酷似している、とも思えてしかたがない。ただ、ここで言う教師とは中高校(中等教育)それも私立校のそれで、公立校や小学校(初等教育)また大学・専門学校(高等教育)については外側からの印象である。

 

言葉は文化を表現する。文化は人に、人の理・知・感(ここで言う感は、うごめく感情が理知によって高められた感性を指しているつもりだが)によって構想され編み出される。人が多様なのだから文化も多様で、或る“絶対”を確信する人は時に羨望を受ける。煩悶難儀甚だしい「生」の軸足を持っているのだから。それに引き替え、未だ絶対を持ち得ない私はなおのこと、無とかゼロを、以心伝心を、尊崇夢想し、それを文化次元低い、しかし私にとっては心底実感の伴った言葉で表白し(書き)、心鎮める。その螺旋上昇のない?悪しき円環、堂々巡り……。

1945年以降、欧化は米化に代・変わり、この20年ほどそれは恍惚感(エクスタシー)的ともなっていて、例えば私が知る映画制作者、愛好家はその輸入量の欧・米差に危機感さえ募らせ嘆く。
極東の温帯(亜寒帯から亜熱帯の南北に長い地)の列島国、しかも6割が山岳森林地という地理的環境が一層そうさせるのか、好奇心旺盛で温和!?な国民性を醸成し、中でも奈良時代の漢語、明治時代の欧米語の導入・咀嚼力は、和語復活論さえ出るほどに怖るべき力(パワー)を発揮し、日本語を豊かにした、とも言える。

国際化また国際社会の制作・監督・主役がアメリカの現代世界、当然言葉と文化もアメリカ化が必然、自然ともなっている。好むと好まざるにかかわらず。しかし、異文化理解は理解との言葉が示すように理知の領域で、異文化間(異文化の狭間)で悪戦苦闘、四苦八苦している人たちが多数派(マジョリティ)ではないか、と年齢世代を措いて推察している。(尚、更に個人的に言えば、そこに「海外・帰国子女教育」の意義、重みを直覚し、20年程だったが関わった。)
言葉と文化の表裏一体性を思えば、意識・心に係る語はどうしても理解と感性での不完全燃焼は避けられず、その外来語を、誤解の危険を思いながらも、元のまま使わざるを得ない。例えば身近で出会った言葉で言えば、英米語の「アイデンティティ」であったり、韓国語の「恨(はん)」であったり。
そして、ポピュリズム。

日本語訳としては、肯定的な場合「人民主義」「民衆主義」、否定的な場合「大衆迎合主義」「衆愚政治」で、且つアメリカでは肯定的に、ヨーロッパでは否定的に使われる傾向があるとのこと。[『日本大百科全書(ジャポニカ)』から抜粋的に引用]

日本では否定的に使うことの方が多いのではないか。肯定的な訳語も、「民主主義」の多数決が持つ困難さ、また人為の現場に降(くだ)った段階で頭をもたげて来る権威主義、全体主義の、政治に限らず様々な社会での、古今の事実を思えば、肯・否皮膜微妙とは言え、多くは否定側に吸収されるように思える。
これは、私の中で渦巻いている、「人間性・人間的」と言う場合の、性善説・性悪説とはまた違った本質、価値観の表象のことにつながるのだが、ここではあくまでも上記引用の解説に従って使う。
蛇足ながら、日本語の特性としての否定表現と国民性についてはよく説かれるところではある。

 

勤務校で出会った現地校出身者の高校1年次で帰国した女子生徒(或るスポーツでアメリカ全土での高い実績を持ち、某高校に特待生で入学したが、練習法の日米の違いへの違和感に加えて足を壊し、1年で退学。その後私の勤務校に1年下げて入学)の、心に深く刻まれ考えさせられた言葉。(何度目かの引用)

「帰国してほっとした。なぜなら、日本では教師や生徒の発言を静かに聴き入って座っていれば褒められるのだから。アメリカでは存在自体を無視される。」

これは、生徒だけではない。

インターナショナルスクール協働校で出会った、英米加豪英語圏世界で、同僚から“典型的アメリカ人”(男性)と言われていた教師の、「転がる石に苔むさず」(A rolling stone gathers no moss)の日英とは違うアメリカ解釈そのままに他国のインターナショナルスクールに異動し、一時帰国した時の言葉。

「教師会議(ミーティング)で、間断なく発せられる『私が・は』の自身の実績を誇示し、自己主張する世界にほとほと疲れた」

その教師は、後に日本の別のインターナショナルスクールに転属し、後に日本女性と結婚したとのこと。

二つ目の蛇足ながら、インターナショナルスクールでは夫婦(同国人)で同じ学校に赴任する人がごく自然にあるが、在職中に離婚し、日本人女性と再婚する男性に何人か出会った。そして、中には元夫人もその後同じ職場で、何もなかったかのように協働していた。

これらの引用はあまりに恣意的で、且つ国際社会のリーダーを目指す日本の学校校教育との理念と目標からすれば少数派(マイノリティ)かもしれない。しかし、数の多少とは別に、「国際」の際(きわ)性から「ボーダレス」であることの難しさを思い、同時に敬意を抱く一人として、アメリカのポピュリズム肯定使用の背景を勝手に推察し、引用した。
とは言え、「日本」と言う時と同様、アメリカの東西南北中部どこを意識してのアメリカ観(感)なのかもはっきりせず、加えて英語力も貧弱な私だから、いよいよもって危なっかしいが。

トランプ大統領は支持する民衆を背に、次々に選挙公約実践のための「大統領令」に署名し、得意気な表情を全開している。アメリカポピュリズムの、鉄は熱いうちに打てと言うことなのか。
ただ、「生兵法は大怪我のもと」を自省する私とは言え、「アメリカ第1」との主張には、それぞれが己が正義を絶対とし、それぞれ相手をテロと糾弾し、武力がすべてを解決する(殲滅(せんめつ)!)との意が含まれているのか、との懸念はある。民主主義国家としての絶対的矜持を持つ国であり、一方で、過去に何人もの大統領が暗殺された国、アメリカとの思いがふと過る中で。
オバマ氏の大統領在任最後のスピーチの、理・知・感の春光に包まれたような調和との対照的な違い。オバマ氏は、同じアメリカ人としてトランプ大統領の初動を見越していた、とも想像するからなおさら畏怖に近い感動を持つ。

アメリカ国民の半数はトランプ氏を大統領に選び、選挙制度の違いはあるが、私たちは現首相を選んだ。その首相は、就任前のトランプ氏と夢!を語り合いたい!と世界最初に会いに行った(行けた?)ことを自負し、しきりに互いの信頼関係を言う。数千万円の国費を私費のように使うことへの反論かのように。経済至上社会のほころびは、子どもの、大人の(更に言えば女性の)、都鄙の、貧困・格差に、また学校教育に、露わになって来ているにもかかわらず。そして沖縄に代表される在日「在外米軍」への、世界屈指の貢献国日本。

ポピュリズムとの言葉を使ってトランプ氏を批判する識者とそのトランプ氏への首相の言説にあっても現内閣支持率が今も50%強の事実が、私の中でどうしても整合しない。これは私の不足、偏狭としても、ポピュリズムの源流でもある識者への不信と同じ感覚を持つ私もいる。「迎合」「衆愚」との識者視点ではなく。

先日、ボブ ディラン氏が、ノーベル文学賞を受賞した。氏の音楽には、生の哀しみを自覚し、懸命に生きようとする詞が、あのギターの調べと和して、ある。だから人々の心に深く沁(し)み入る。
その氏、ビリー・ザ・キッドを敬愛し付き従うも己が生を模索する役で出演し、同時に音楽も担当した映画『ビリー・ザ・キッド―21歳の生涯―』(サム ペキンパー監督・1973年・クリス クリストファーソン、ジェーム コバーン主演)の、映画としての、また氏作曲の劇中音楽『天国への扉』の、何という哀調。
サム ペキンパー監督は「暴力の美学」を追求したと言われるが、暴力につきまとう哀しみを常に意識し、観客に意識させたからこその讃辞ではないかと思う。その氏は、酒と薬の溺れ続けたとのこと……。

因みに、アメリカの英雄的スター・ジョン ウエイン(1907~1979)を引き出した西部劇の神様とまで言われた監督・ジョン フォード(1894~1973)は、晩年期、それまでのインディアン=悪視点を止め、叙情性溢れる『シャイアン』(1964年・リチャード ウイドマーク主演)を制作した。
そこには、アイルランドからの移民の子で、アイリッシュとしての誇りを持ち、映画制作人生での経験が、アメリカの歴史、風土と重なってあるように思える。

ポピュラーミュージック[popular music・ポップス(pops)]と、ポピュリズムは同語源とのこと。
ポピュラー音楽史に残る祭典ウッドストック(1969年)に象徴される1970年代の若者を核とした疾風怒濤の気運は遠い過去のこととなったが、今はそれらを経ての円熟期なのだろうか。熟し、種子を育み、新生へ。音楽と、芸術と政治、社会……歴史と人と。

非政治的で、ポップス・バラードを愛聴する私は、あまりに感傷的(センチメンタル)なのかもしれない。
識者はクラシックを愛聴する、との公理的?図式に従えば、私は「例外のない規則はない」になるが、クラシックの中でも主に古典派(クラッシク)の、それもアダージオとかラルゴといった調べ(旋律)に溺れているので、やはり識者が常々悲嘆する感傷的感情的人間なのだろう。