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2019年3月14日

自由律俳人の幾つかの作品鑑賞 俳句再発見・再学習 最終回[二]

~「自由」の心地よさ、為難さ~

井嶋 悠

良い機会なので自由律俳句を、上田 都史の書での引用句や他の書から、幾つか味わってみた。共感もあれば困惑もあった。抄出し、寸感[各句※部分]を添え、数回にわたる[俳句再発見・再学習]拙稿を終えたい。
自由の伸び伸びした世界への夢想の快、自由を知情意で己が血肉とする難しさを思いながら。

自由律俳人を言う場合、河東 碧(へき)梧桐(ごとう)(1873~1937)を源流に、その碧梧桐を師とする荻原 井泉水(1884~1976)そして井泉水を師とする種田 山頭火(1882~1940)そして尾崎 放哉(1885~1926)らを、大きな流れとしてとらえているようなので、はじめにその4人の句を幾つか抄出する。

【河東 碧梧桐】

『蔭に女性ありのびのびのこと枯柳』
※艶なる句とも思ったりするが、だめだ。

『相撲乗せし便船のなど時化(しけ)となり』
※私が描くのは、相撲取りと船と時化の妙なのだが……。

『草をぬく根の白さ深きに堪へぬ』
※「堪へぬ」の語感が、園芸に心傾く私には感慨深い。

 

【荻原 井泉水】

『夏の日寂寞(せきばく)と法堂をきざむ斧(おの)のおと』
※『閑(しず)かさや 岩にしみ入る 蝉の声』を思い浮かべた。

『水車ことかたと浪音に遠きこころ哉』
※独り静かに想い馳せる時間。

『窓を絶えずよ番(つが)い蜻蛉の流るる日』
※やはり秋空を背に泳ぐ赤とんぼがふさわしい。

『かつこう鳴けば淋しかつこう彼方に答え』
※この4句の中で最も好きな句。

 

【種田 山頭火】[『定本 種田山頭火句集所収【草木塔】』より抄出]
抄出に際しては、私なりに山頭火を感じ且つ共感したものを幾つか選んだ。

《山頭火の背景・略歴
家業の破産、妻子との離別、弟の自殺、自殺未遂等、辛酸をなめ、42歳で得度し、雲水姿で諸国を乞食で漂泊し句作に勤しむ。享年58歳。》

以下、◎はとりわけ響いた句。

◎『分け入っても分け入っても青い山』
※爽快な自然と激する一人の男。青山到るところに在り…。

『鴉啼いてわたしも一人』 ※前書きに「放哉居士の作に和して」とある。

『木の葉散る歩きつめる』 ※「つめる」に迫り来るものを思う。

『しぐるるや死なないでゐる』
※どこかしら漂う自棄的な山頭火に心動かされ。

『けさもよい日の星一つ』 ※「星一つ」か。さすがだ。

『枝をさしのべてゐる冬木』 ※山頭火の慈愛と生きようとする姿。

◎『雨ふるふるさとははだしであるく』
※故郷のあるようでない私だが直感的共振する。

◎『ゆふ空から柚子の一つをもらふ』
※野暮な愚者の感想など全く必要のない句。

『ひつそりかんとしてぺんぺん草の花ざかり』
※「ひっそりかん「ぺんぺん草」。詩人。

◎『てふてふうらからおもてへひらひら』
※ひらかなと擬態語の絶妙なハーモニー

『けふもいちにち風をあるいてきた』
※思わず山頭火の写真の貌が浮かぶ。

『しようしようとふる水をくむ』
※「しようしようと」「くむ」の孤愁の響き。

◎『お月さまがお地蔵さまにお寒くなりました』
※辛酸を経たが故の優しさ溢れる句。

『どうしようもない私が歩いている』
※この自虐性がますます酒に向かわせる壮絶な孤独。

◎『笠にとんぼをとまらせてあるく』
※孤独の中の心和むひととき。瞬間の安らぎ。

◎『まっすぐな道でさみしい』 ※ロマンと表裏為す孤独。

◎『生えて伸びて咲いてゐる幸福』 ※開花した花々の微笑みが視える。

『ひとりひつそり竹の子竹になる』
※「ひつそり」が卑俗性を消している…。

『重荷を負うてめくらである』
※やはり今の時代では使えない言葉であることを思いつつも。

『ともかくも生かされてゐる雑草の中』
※乞食漂泊者でない限り分からない実感。

『よい道がよい建物へ、焼場です』 ※強烈な静寂が漂う。

『日かげいつか月かげとなり木のかげ』
※我が身を白日の下で確認したいができない生の宿命。

『草のそよげば何となく人を待つ』
※悟道に向かう山頭火と野卑な小人振りの私。

『何を求める風の中ゆく』
※[何を・風の中]と[求める・ゆく]が導く爽快な想像。

『あるけばかつこういそげばかつこう』 ※自然と共に生きること。

◎『みんなかへる家はあるゆふべのゆきき』
※前書きに「大阪道頓堀」とある。

『こころおちつけば水の音』
※山頭火は己が境涯を「淡如水」と言っている。

◎『わたしと生れたことが秋ふかうなるわたし』
※秋の醸し出す世界と人。

◎『月からひらり柿の葉』 ※ただただ美しい幻想世界。

『やつぱり一人はさみしい枯草』
※「やつぱり」・・「は」・・「枯草」に滲み出る山頭火の人恋しさ。

◎『しみじみ生かされてゐることがほころび縫ふとき』
※どれほどに驕り高ぶる人を見て来たことか。

『足は手は支那に残してふたたび日本に』
※前書きに「戦傷兵士」とある。

『だまってあそぶ鳥の一羽が花のなか』
※山頭火の鳥との一体化の瞬時の快。

『風の中おのれを責めつつ歩く』
※途方もなく多い共感者を思い浮かべる。

『死はひややかな空とほく雲のゆく』
※西に向かっていく雲を追うばかりの人の性。

『そこに月を死のまへにおく』 ※生があるがゆえの死へのもがき。

『枯枝ぽきぽきおもふことなく』 ※孤愁。

◎『窓あけて空いつぱいの春』
※冬になると、冬が近づくと過ぎる北国(雪国)の人々の心。

『霜しろくころりと死んでゐる』 ※前書きに「行旅病死者」とある。

『どこでも死ねるからだで春風』 ※この覚悟があってこその春の風。

◎『寝床まで月を入れて寝るとする』 ※独りだが至福のいっとき。

『死ねない手がふる鈴をふる』 ※前書きに「老遍路」とある。

◎『しみじみしづかな机の塵』 ※sImIjIm IsI・・・tIrIの絶妙。

『鳥とほくとほく雲に入るゆくへ見おくる』 ※孤独がゆえの心の余裕。

『いちにち物いはず波音』 ※地球の久遠と独りの人と。

『しんしん寒の夜の人間にほふ』 ※「にほふ」は人間?寒の夜?

『おちついて死ねさうな草枯るる』
※「死ぬることは生れることよりもむつかしいと、老来しみじみ感じない
ではゐられない。」との言葉が句の後にある。

『かへりはひとりの月があるいつぽんみち』 ※月は山頭火の後ろにあるのだろうか、前だろうか。

『なければないで、さくら咲きさくら散る』 ※読点一つの絶妙な効果。

◎『空腹(すきぱら)を蚊にくはれてゐる』
※ユーモアは心に余裕がないかぎり生まれない…。

『ひろびろひとり寝る月のひかりに』 ※ひろびろひとり寝る、孤独を知り得た者だけの直情。

◎『蠅を打ち蚊を打ち我を打つ』 ※仏教帰依者だからこその説得力。

『夕焼雲のうつくしければ人の恋しき』
※妻子?弟?それともとにかく人だろうか。

『蛙になりきつて跳ぶ』
※同一化の愛とそれを客観的に視るおかしみの自身。

 

【尾崎 放哉】[村上 護編『尾崎放哉全句集』より抄出。]尚、略歴は前回記したので省略する。
抄出に際しては、下記[Ⅰ・Ⅱ]二つの時期での、私なりに放哉を感じ且つ共感したものを選んだ。
以下、◎はとりわけ響いた句。その◎をつけた句のみ寸評を記した。

Ⅰ.俗世の時代(1915年~1923年)

○児等と行く足もと浪がころがれり

○浜つたひ来て妻とへだたれる

○休め田に星うつる夜の暖かさ

◎妻が留守の障子ぽつとり暮れたり
※「ぽつとり」が響く静けさと無心の放哉

◎夜店人通り犬が人をさがし居る ※私は猫より犬を好む。

○嵐の夜明け朝顔一つ咲き居たり

◎昼深深と病室の障子
※北條民雄のことで長島・愛生園に行ったことを想い出す。

◎犬が覗いて行く垣根にて何事もない昼
※犬の眼は実に慈愛と孤独に満ちている。

 

Ⅱ.遁世以後(1924年~1926年)

◎ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる ※何と平安の時間。

○一日物云はず蝶の影さす

◎たつた一人になり切つて夕空
※「なり切つて」に詩人ならではの魂を直感する。

◎昼寝起きればつかれた物のかげばかり ※昼寝の功罪。

○空に白い陽を置き火葬場の太い煙突

○氷がとける音がして病人と居る

◎落葉木をふりおとして青空をはく
※天空を見上げてこそ可能な描写。

◎何か求むる心海へ放つ
※昔海と言う漢字には母があった、を思い出す。

○仏にひまをもらつて洗濯してゐる

◎こんなよい月を一人で見て寝る
※快を詠っているのだろうか、それとも寥だろうか。

○灰の中から針一つ拾ひ出し話す人もなく

○今日も生きて虫なきしみる倉の白壁

○ふところの焼芋のあたたかさである

◎なんにもない机の引き出しをあけて見る
※独りぼっちのひととき、しかし心落ち着くとき。

◎風が落ちたままの駅であるたんぼの中
※まさに絵画である。幻想的絵画。

○ころりと横になる今日が終つて居る

○海が少し見える小さい窓一つもつ

○なん本もマツチの棒を消し海風に話す

◎をそい月が町からしめ出されてゐる ※月は放哉?

○切られる花を病人見てゐる

○障子あけて置く海も暮れ切る

○入れものが無い両手で受ける

◎静かに撥が置かれた畳
※和服の女性の面影と三味の余韻が一層引き立たせる。

○墓のうらに廻る

○掛取も来てくれぬ大晦日も独り

◎肉がやせてくる太い骨である ※人間であることの驚愕。

◎やせたからだを窓に置き船の汽笛
※「窓に置く」との表現の静けさ、寂しさ。

○春の山のうしろから烟が出だした ※辞世の句とのこと。

 

【蛇足補遺③】

私は、山頭火に辛苦をひたすら受け止める者が為し得る濾過された情を、放哉に才智ゆえの孤独な知を直覚する。と言う私は、あまりにも浅薄な感傷の情と切り貼り的知で今日まで来たように思える。
私は放哉の知より、山頭火のぎりぎりの情に魅かれる。しかしそれに近づくことさえ私にはできない。

【現代俳人の作品から】

[藤井 千代吉] 『蝶になれば僕たち花園に住めるね』(1987年)

[松宮 由多可] 『引き算の平生それから先の雪囲(ゆきかこい)』(1990
年)

[和田 美代]  『明日はひらく音するように蓮を描く』(1990年)

[古川 克巳]  『自閉症児とくらい鶏いて木が友だち』(1988年)

 

【蛇足補遺④】

―自作の試み―

人生の後半「苦」を重ねられた恩師で、個人的に親愛の情を寄せていた方が亡くなった時、その方の苦しみ、抗いの幾つかの言葉を思い出して。

『疲れたと言って逝ってしまわれた』

 

【蛇足補遺⑤】

今更ながら、私たち日本人の底流にはひらかなが脈々と流れていることを、今回体感した。
短歌を「三十一(みそひと)文字」とも言うが、俳句同様、人によっては、31音、17音と音数で定型を説明する。確かに、漢字・仮名時にはローマ字さえ使う日本語にあっては、その方が誤解を招かないかとは思うが、日本人の私たちは、心ではひらかなで読み、聞いている。(聞くの場合、同音異義語の多い日本語
だから確認すること多々あるが)表意としての文を表音文字に瞬時に置き換え感じ考える。
こんな(人によっては当たり前のことだろうが)ことを思ったのは、自由律俳句の不安定さを感じながら読んでいて「自由な律」に、定型俳句と同様の音楽性を感じたからである。
俳人[詩人]の俳人[詩人]たる所以。その音楽性に引込まれて行く読者、私たち。
本文中で引用した上田 都史の「自由律で俳句を書く」との言葉が、改めて思い出される。

芭蕉・蕪村・一茶そして自由律俳句を主題に4回の再発見、再学習の投稿をした。
カタカナ言葉を連ねるが、ボーダレス[レスト]、インターナショナリズム[リスト]、ナショナリズム[リスト]といった難しいことを離れ、単に一人の日本人で、33年間、中高校国語科教師であった私にとって、今回の投稿は、日本を再自覚する機会ともなった。
どういう形であれ外国人の存在は、ごく当たり前になり、今年4月以降、外国人労働者が日本経済を支えるため一層増えることになる。
また「ダブル(ハーフ)」も、年々各分野で大きな活躍、仕事をする人が増え、22歳での「国籍選択」で日本を採るのか、もう一方を採るのか、或る意味日本が試されている。
次代を創る若い人たちは、日本の舵をどのような方向に持って行くのだろうか。

 

 

2019年2月24日

自由律俳句『咳をしてもひとり』 俳句再発見・再学習 最終回[一]~「自由」の心地よさ、為難さ~

井嶋 悠

束縛、制約があっての自由。束縛も制約もないところでは自由という言葉自体ありようがない。人間は2,3歳ころから束縛、制約を自覚し始め、歳を増すごとにその度数は上がり、自由に憧れ、自由を求め始め、悟得者以外多くの人は死で解放され自由を得る。しかし、その時本人が自覚したかどうかは、人類誕生以来誰も?知らない。

俳人尾崎 放(ほう)哉(さい)の代表句の一つ『咳をしてもひとり』が、高校の教科書に採り上げられていた時、説明に困った覚えがある。10代後半の生徒にどう得心まで持って行くのか。俳人の略歴を先に説明すれば、その先入観、知性と理性で句を味わうと言う本末転倒を思うから。もっとも、生徒自身の中で、自身の心を含めた諸状況、環境から、瞬時にこの句に移入した者もあったかもしれない。しかし、それを教室と言う場で自身から、或いは教師が言わせることは、私には辛く痛みの経験があり考えられない。

『古池や 蛙とびこむ 水の音』とか『菜の花や 月は東に 日は西に』とか『痩せ蛙 まけるな一茶 是に有り』なら、想像もいろいろでき、その想像を素にあれこれ問答し、私は10代の感性を愉しみながら、全体像に迫ることができるが、『咳をしてもひとり』はそうは行かない。
現職時代の私の授業に係る想像力無さを白状していると言われればそうで、私の心に強い響きで飛び込んで来たのがここ数年のことである。想像力は生の積み重ねの多少で変質、培養するのかもしれない。そこに放哉の生涯全体から想像できることを重ねると、到底私にはできない勝手な憧憬の意も込めて、共感する私が今居る。

ここで放哉の略歴を記す。
1885年 鳥取県生まれる
1909年 東大法学部卒業
高校は旧制一校で、卒業までの間で、夏目漱石の英語講義を聞き、傾倒する。また、後の俳句の師となる荻原 井泉水に出会う。(井泉水については、後で触れる)
1923年 大学卒業後、或る保険会社に就職し、後に別の保険会社に転職するも、1923年免職。妻去る。
1924年~1926年
自由律俳句への造詣を深める一方で、京都・神戸・福井・小豆島の寺男になるが、金の無心、酒癖の悪さ、東大出の誇示等、各地での評判は甚だ不評で、最後の小豆島で病死。享年41歳。

【備考】

放哉の歴史の中で、死の2年前、数か月の間だったようだが、社会奉仕団体『一燈園』(京都・山科)で修養を積んだことには心が動く。
一燈園は1904年に開かれた、己が懺悔をもって無所有奉仕の生を実践し学ぶ所で、現在も平和の願行の一環として、近隣の便所掃除奉仕を続けていると言う。この修養については、放哉が随筆『灯』の中で書いているが、自身が言う「大の淋しがりや」の彼としては、なかなか厳しい時間だったようだ。
尚、ここには小中高校もあり、一燈園の考えに共感する子ども[保護者]が在籍していることを初めて知り、元教師としても関心が向いた。

放哉のような俳句を「自由律俳句」と呼んでいる。「自由」な「律」の「俳句」。
律;①おきて ②一定の標準により測る ③音楽の調子、リズム

俳人であり俳句研究者でもある上田 都史(1906~1992)は、その著『自由律俳句とは何か』(1992年刊)の中で、こんなことを言っている。

「自由律を書くのではなく、自由律で俳句を書くのである。」と。

そして動物生存地境界線を応用して、数字的な面から俳句の規定を試みている。それによれば、17音を基準(標準)として12音から22音までを俳句としている。氏は放哉への傾倒者であったが、その基準に照らせば『咳をしてもひとり』は9音で、俳句として認めないと言う。
おもしろい俳句定義の試みではある。[あ・んとうなずく]なんか面白そうだが…。
もちろん季語や切れ字といった束縛も制約もない。

そもそも俳句とはいったい何なのかとこの年齢になってあらためて思う。5・7・5と17音並べれば、まずは俳句となるのか。川柳とはどう違うのか。俳句は元来俳諧と言われ、その諧謔性、風刺性において、両者はどう違うのか。考え始めたら際限ない。いつもの袋小路である。やはり先人の知恵を借りるのが一番だ。

俳句は、和歌(やまとうた)の一つの形連歌から派生し、短歌31音[みそひと文字]の前半部を独立させた詩である。と、考えれば先ず『古今和歌集』(905年)の仮名序に触れておきたい。

【その冒頭部分】(適当に漢字を交えた)

――やまとうたは、人の心をたねとして、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にあるひとことわざしげきものなれば、心におもふ事を、みるもの、きくものにつけて言ひ出だせるなり。花になくうぐひす、水すむ蛙(かはず)の声をきけば、いきとしいけるものいづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにかみ)をもあはれと思はせ、男(をとこ)女(をむな)のなかをも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。――

言う。自然の彩り、躍動を見て、歌心(ごころ)が芽生えない人などありようか。歌は天地に、霊界にそして人間界すべてに美と慈しみを奏でる、と。
歌を何も和歌や詩に限定する必要はない。歌を言葉と置き換えて何が問題だろう。或る西洋の詩人が、言っていた。「一語が人の喉をかっ切る」と。もちろん逆も絶えずある。「一語が愛を生みだす」。「ああ」否「あ」だけでも、一語で詩となることもある。
聴き手、読み手と話し手、書き手との想像力の対話が決める言葉の軽重。言葉の無限の力。
因みに、最も軽いのが政治家や官僚の、或いは一部のマスコミ人の垂れ流す言葉。
では重い言葉、心に突き刺さってくる言葉の共通性とは何だろう。

【蛇足補遺①】

以前投稿したオノマトペの世界、[onomatopoeia]に綴られたpoem・詩的世界。もっとも、人によってはその原初性から否定する人もあるが、私はそれには与しない。

とは言え、俳句が主題なのだから俳句に沿って、先の言葉[歌]を考えてみたい。
芭蕉と幼なじみで同じ伊賀藩に仕え、後に芭蕉を師として敬慕した服部 土(ど)芳(ほう)が著した、芭蕉が確立させた俳句[俳諧](蕉風)論『三(さん)冊子(ぞうし)』の冒頭から一部分を抄出する。

――それ俳諧といふこと始まりて、代々利口のみに戯れ、先達つひに誠を知らず。(中略)亡師芭蕉翁、この道に出でて三十余年、俳諧実(まこと)[実質の意・反対は虚名]を得たり。(中略)まことに代々久しく過ぎて、このとき俳諧に誠を得ること、天まさにこの人の腹[真の俳人の出現の意]を待てるなり。――

ここでは「まこと」が、三つの意味で使い分けられている。
一つは、真実の姿。一つは、実質としての名声。一つは、実にといった副詞用法。
では、その核である真実の姿の「誠」とは何なのか。

芭蕉44歳時、東海道・吉野・須磨・明石への旅をまとめた俳文紀行『笈(おい)の小文(こぶみ)』の冒頭から抄出する。

――(中略)西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道する物は一なり。しかも、風雅におけるもの、造化に随(したが)ひて四時を友とす。(中略)夷狄(いてき)を出で、鳥獣を離れて、造化に随ひ、造化に帰れ、となり――

最後の「造化に随ひ、造化に帰れ」の人の在るべき姿への警鐘とも言える言葉。命あるもの、自然一切、万物を創造した神への人としての謙譲の自覚。その時に生ずる全霊を傾けた己が言葉。それを受け止める他者。両者間に厳としてある誠。誠実。
近代俳人の言葉を借用する。

――(中略)言葉には表すことのできない感動を発する俳句に出会ふ。(中略)作者の人間全体を感じてしまふのである。それはまるで肉体的な衝撃さへあたへる。――(石田 波郷〈1913~1969〉)

しかし、それは俳句に限らない。先にも触れたように日々の生活の中で私たちは、この言葉の力をどれほどに痛感しているか、ことさら言うまでもないだろう。にもかかわらずなぜ俳句なのか。やはり俳人の言葉が必要だ。

――(中略)光の印象は稲妻のやうに刹那的に輝くものである。それを捉へるには短くして鋭い詩形でなければならぬ。力の印象は疾風のやうにとっさに発するものである。それを捉へるには緊張したる言葉と強いリズムとを以ってしなければならぬ。ここに於いて、私は俳句といふ詩形を選ばねばなくなる。印象の詩として存立する純なる芸術は俳句であると思ふ。――

こう言ったのは、自由律俳句での先駆的俳人であり尾崎 放哉や種田 山頭火らを育てた荻原 井泉水(せいせんすい)(1884~1976)である。

ここには自由であること、拠るべき定型がないこと、の清々しさと苦しさの両極で揺れる自由律俳人の姿が出ているように思える。
読み手である私(たち)は、その瞬間の言葉を受け止めなくてはならない。しかし、私にはそれが思うに任せない。年輪は重ねたにもかかわらず想像力はいや増すどころか狭小化しつつある、と言えばそれまでであるが、日本の「律」に染まりきっている私がいるのかもしれない。

5音、7音は古来日本人の無意識下での自然なリズム(生命感)であることは多くの人が認めるところである。幼稚園児でさえあの天使の指をたたみながら5・7・5と数え、例えば(交通)標語等を創り出す。
その音楽性と助詞[てにをは]の言葉日本語が組み合わさって、私たちを何か自ずととりあえずの段階かもしれないが理解の方向に導いたり、理解できたような錯覚に陥らされたりするようにも思える。

【蛇足補遺②】

この5音7音について、南太平洋[南アジア・ポリネシア地方]の、或る部族に同傾向がある旨のことを以前聞いて、日本の4つか5つのルートを経て到達した人々が培った「原文化」への関心に、わくわくした気持ちで想像を広げたことがある。

自由の難しさ。定型・規範の安心感。また「際」のもどかしさ、煩わしさ。
例えば帰国子女を[(小さな)国人]と呼称する大人たちと当事者の戸惑いにも通ずることとして。

この日本人ならではの?心の微妙な揺れと自由律俳句について、先の上田 都史は先に引用した同じ書の中で次のように述べている。

――心の表現に誠実でありたいと希うから五七五調十七音から離れるのでる。離れざるを得ないのである。心を第一義として心のおもむくままに書くから、その形式は定型を離れるのである。それが、自由律俳句である。――

私が、『咳をしてもひとり』に、かつてになかった感銘を受けた理由を、上記の先人たちの言葉に重ねた時、どうなのか。私は、放哉のぎりぎりの言葉、全人的言葉としての誠を、先の略歴を知れば知るほど、感じずにはおれない。酒と学歴矜持で人間(じんかん)を放棄し、憐れを拒否し、自己絶対心の虚栄に生きた人間の孤独。
私には到底為し得ないがゆえのある種の羨望にも似た感情も込めた共感からの、彼の孤愁。

私は、或る時期から「理解」との言葉の使用には慎重になっている。理知性の強さを思うからで、だからと言って、吟味、考究のない感性をすべてとも思わない。それは「分かる」との語でもそうである。
放哉の『咳をしてもひとり』は、受け手の私の全人性から得心できたのではないか、と今思っている。

 

2019年2月16日

雪 螢―俳句再発見・再学習― Ⅲ 小林 一茶

井嶋 悠

【よりかかる 度(たび)に冷(ひや)つく 柱哉(かな)】

この句は、一茶41歳の時の句である。怖ろしいほどまでに漂う孤独感、孤愁。前書きには「首を掻いて踟蹰(ちちゅう)す」とある。(踟蹰(ちちゅう)す、とはためらいがちに行きつ戻りつすること)
専門家の解説によれば、一茶は、当時、中国最古の詩集『詩経』(BC9世紀~7世紀)の俳訳の試みを始めていて、この前書きも『詩経』からとのこと。
今から33年前、私が41歳時にこの孤独感を言い表し得ただろうか。主情的感傷的には表現し得たかもしれないが、この冷徹なまでの孤独表現が生まれようはずもない。

一茶は、1763年、長野県柏原の貧しい家に生まれ、3歳で母は死に、15歳で江戸に奉公に出され、この後10年間は「動向不明」と略年譜にある。そして、25歳前後から俳句活動や旅の記録が残っている。
39歳で父が病没し、母の死後の継母との不仲等あって、これ以後、天涯孤独の身を自覚するようになる。上記の俳句は、その2年後の作である。

51歳で江戸生活を切り上げ、故郷柏原に定住し、65歳の死出の旅まで俳句生活を過ごすが、その間、父の遺産問題、三度の結婚等幾つもの苦悶、憂悶を背負う。
このあたりのことに関して、或る専門家は「その長い生涯は不遇と災厄の連続であったことが痛ましい」と記し、52歳から65歳終焉までの身辺を以下のように整理している。

・52歳  「きく」(28歳)と結婚
・54歳  長男誕生。しかし1か月後に死亡。
・56歳  長女誕生。
・57歳  長女死亡。
・58歳  次男誕生
・59歳  次男死亡。
・60歳  三男誕生。
・61歳  妻病死。三男死亡。
・62歳  「雪」(38歳)と再婚。3か月後に離婚。
・64歳  「やを」(32歳)と結婚。
・65歳  一茶死去。
・没後1年 次女誕生。

この人生後半期と先の句とはつながらないが、あたかも一茶の人生を暗示しているようでもある。
このような生が、一茶の心根を育むに及んだ影は想像に難くない。或る“屈折”にも似た心根。

一茶との号が出始めたころ、27歳前後の句が残っている。

【今迄は 踏まれて居たに 花野かな】

人間と言う動物は不思議で勝手な生きものである。
孤独を愛するかと思えば集団を愛する。そうかと思えば、孤独を忌避するかと思えば集団を忌避する。
そう言う私は、私なりの生々流転がそうさせたのだろうが、確実に孤独に重点が移っている、と感じている。そう、まだ感じている段階とはいえ、人間は孤独であることを確(しか)と自身の言葉で言えつつある。
その証しなのだろう、以前に増して動物や草花、樹々への愛(かな)しみ度が強くなりつつある。しかし、ここでストレスと癒しとの現代多用語彙を持ち出すつもりは毛頭ない。それどころか、いとも安易にそれら語に収斂する世相に嫌悪感、拒否感さえ持っている。と同時に、精神論、根性論を持ち出すのは、先の用語以上に思いもよらない。

【我と来て 遊べや親の ない雀】

周知された句の一つだ。一茶、57歳時に発刊された句文集『おらが春』に収められている、自身の幼少時を顧みての作とのこと。
この句の前書きがまたいい。切々としてこの句を引き立てている。少々長いが引用する。

――親のない子はどこでも知れる。爪をくはえて門(かど)に立つ、と子どもらに唄はるるも心細く、大かたの人交りもせずして、うらの畠に木(き)萱(かや)など積みたる片陰にかがまりて、長の日をくらしぬ。我が身ながらも哀れ也けり。――

親の死はやるせない。私の場合も、幾つかの複雑な要因が絡み合っているとは言え、また世に決して少なくないこととは言え、切なさが沸き起こる。一茶は、父と母への思いを次のような句で残している。

【馬の子の 故郷はなるる 秋の雨】
(一茶は15歳で江戸に奉公として出された)

【露じもや 丘の雀も ちゝとよぶ】(父は、一茶39歳の時に病没)

【亡き母や 海見る度に 見る度に】(母は、一茶3歳の時に病没)

 

孤独は自己への、他者への慈しみ、優しさを滲み出す。私自身は、まだまだそこに達し得ていないが、一茶は数十年の日々によって、自然に17音に編み出している。一茶自身が崇拝する芭蕉や、また蕪村とは違った形で自身の言葉を紡いでいる。前回借用した、芭蕉の「道」、蕪村の「芸」そして一茶の「生」である。

まるで少年のような慕情について、或る研究者の一節を紹介し、小動物への一茶の慈愛、慈悲の心が、映じている、或いは己を投影している、幾つかの句を挙げ、それらの句に私的寸評を加え、『私的俳句再発見・再学習―一茶編―』の駄文を終わりたい。句の後の《  》が私的寸評。

研究者の一節。
――世路の艱(かん)苦(く)に泥まみれになりながらも、一茶の魂の原郷に璞(あらたま)のような素(そ)醇(じゅん)な光彩が宿っていたのだろうか。――(栗山 理一『鑑賞 日本古典文学』)

初めに、一茶58歳の時の、自身を蛍に託して投影した句を引く。

【孤(みなしご)の 我は光らぬ 螢かな】

《孤をみなしごと詠ませ、蛍のはかない生と幻想的な美しさを自己に投射し、己が人生を顧みる一茶。》

【行水の 音聞きすます とんぼ哉】

《とんぼのあの眼を思い浮かべるとますます溢れる慈しみ、優しさ。鳩の歩く後ろ姿を思索家に見た詩を想い出す。》

【夕月や 流れ残りの きりぎりす】

《洪水の後の風景を詠った句とのこと。生の厳粛、非情に思い及ぶ。その意味では「イソップ童話」とも相通ずる?》

【草陰に ぶつくさぬかす 蛙(かはづ)哉】

《芭蕉の句を知っているだけに、より蛙への親愛感が伝わって来る。》

【鳴け鶉(うずら) 邪魔なら庵(いほ)も たたむべき】

《一茶の貧しさと苦しみの中での隠遁的生活にもかかわらずこぼれ落ちる心のゆとり、優しさ》

【花さくや 目を縫はれたる 鳥の鳴く】

《この句については注釈が必要だろう。当時、雁や鴨は貴人の酒食を喜ばすために、床下で飼うことで首の長さを抑えたり、眼を縫いつぶして意図的に肥え太らせるためにする職業があったとのこと。一茶は、前書きで、当然その哀れと憤りを表わしている。それがゆえに「花さくや」の言葉が、痛烈に響く。

【螢火や 蛙もちらと 口を明く】

《専門家は「機智や戯画化が先走って、印象は浅く横すべりしてしまう」と酷評しているが、鳥獣戯画を持ち出すまでもなく、やはりこのような俳句は、俳句の“風流(美)”がないということなのだろうか。

【夕不二に 尻を並べて なく蛙】

《この場合、専門家は「小を大に、大を小にという極端な価値の顛倒が対照されることによって、ユーモラスな一茶世界が描き出されてくる、いわば、不調和な対照のもたらす意外性に俳諧の諧謔味も生まれる」と評価している。そして葛飾 北斎の『富嶽三十六景』をも引き合いに出している。
俳句の或いは作品創作の技法に未熟な私としては、なるほどとしか言いようがない。》

【かたつぶり そろそろ登れ 富士の山】

《上記『螢火や』同様、これも専門家から断じられている句であるが、この慈愛の眼差しが良いと思うのだが。》

【春雨や 喰はれ残りの 鴨が鳴く】

《先の『花さくや』と或る共通性がある句でもあり、やはり専門家の注釈が必要だろう。鴨は渡り鳥であるにもかかわらず春の今も居るということは、仲間と飛んで行けない理由がある。怪我(例えば、銃で羽を打たれたとか)や病気なのかもしれない。それらの多くは人為性が高いかもしれない。それを一茶は「喰はれのこり」と表わしたところに、私は皮肉溢れる慈愛を想う。》

【痩せ蛙 まけるな一茶 是に有り】

《日本美術史に異色の輝きを遺す平安時代末期から室町時代にかけて完成した『鳥獣戯画』。鳥羽僧正の作と言われているが、何人かの僧侶の手によって創られたとのこと。動物などに託して、世相を憂いつつ、ときには慈愛の眼差しで身近な動物たちを活写している。一茶も知っていて、己が人生をその僧の一人に託したのだろう、と想像すると愉しい。専門家は全く別の鑑賞[性闘争としての蛙合戦と50歳過ぎるまで独身であった一茶]をしているが…。》

【秋の蝉 つくつく寒し 寒しとな】

《私たちは、つくつくぼうしの声を聴くと、ああ夏も終わりだとの感慨を持つが、一茶のような苦労人からすれば、自身が蝉になっての別の感慨に思い及ぶ。》

まとめて三句。

【寝返りを するぞそこのけ きりぎりす】

【うしろから ふいと巧者な 藪(やぶ)蚊(か)哉】

【やれ打つな 蠅が手をすり 足をする】

苦労に苦労を重ねた人は優しく、驕らず、自然な笑みを内に絶やさない。

一茶に【蓮の花 虱を捨つる ばかり也】という句がある。29歳ころの作である。前書きがある。

「我がたぐひは、目ありて狗(いぬ)にひとしく、耳ありて馬のごとく、初雪のおもしろき日も、悪いものが降るとて謗り、時(ほと)鳥(とぎす)のいさぎよき夜も、かしましく鳴くとて憎み、月につけ、花につけ、ただ徒(いたずら)に寝ころぶのみ。是あたら景色の罪人ともいふべし。」と。

貧困や家庭等環境また人生で辛苦を重ねた人故のひがみ、屈折した自身を見る表れと取るのか、それとも29歳にして謙虚さをすでにどこかに持っている“はにかみ屋”と見るのか、私は、とりわけ年々“人不信”が増して来ているとはいえ、両方の要素を思いつつも後者が勝っていると思いたい。
これは、年少時に辛酸を経た人の中で時折見受けられる、自身の過去から他者の痛み、哀しみを慮(おもんばか)ることなく、いわば逆に権威指向、自己絶対正義性になっている人とも会ったり、知ったりする中で得た、自省からの思いである。

2019年2月8日

イギリスとアメリカと、そして日本 (二)

井嶋 悠

今回、教師になって以降出会った英語圏教師や保護者、帰国子女等から刻まれた幾つかの印象を基に、イギリスとアメリカについて思い巡らせ、私的に、現在と次代の日本の在りように思い到ってみたい。
英語圏と言っても、イギリスとアメリカ、更にはオーストラリアやカナダ等では、語法や発音、使用者の背景に在る意識も違うようだが、中高校での半世紀以上前の“典型的”公立学校英語しか経験がない私なので、大雑把に英語と表現する。
それに関する映画鑑賞経験を一つ。
アメリカの劇作家ニール・サイモン(1927~2018)の『おかしな二人』の映画化(1968年公開、ウオルター・マッソー、ジャック・レモン主演)を観た時、二人がイギリス人女性二人と会話する場面で、両者の英語の違いが、痛烈な皮肉を込めて際立って表わされていた、ように思う。ここにはアメリカから見たイギリスがあるのだろう。

また、イギリス・アメリカと言っても、どの地域を主眼に思い描いているのかでも変わるかとも思う。
イギリスの場合、連邦の四つの地域でイングランド及びスコットランドからのイギリスが、アメリカの場合、東部的要素も加えた西部地域のアメリカの印象が、幾つかの作品、幾人かのとの出会いから私には強いように思える。
ただ、極私的には、或る本に書いてあったアメリカ中部にあって、一年中ビーチサンダルで過ごす若者の話や、仕事で訪ねた或る日本人から聞いたこととして、太平洋戦争を全く知らず過ごしていた老人の話などに、広大なアメリカを感じ、いささか憧れたりもする。

尚、私が直接に訪ねた都市は、校務出張[帰国子女対象の学校説明会、日本人学校訪問、日本の塾への挨拶及び海外入試実施]での、それぞれ多くて2,3日の限られた滞在ではあるが、以下である。(都市によっては複数回訪問)

《イギリス》 ロンドン・カーディフ
《アメリカ》 ニューヨーク・デトロイト・ロスアンジェルス・サンフランシスコ・ヒューストン

それでも、空港で、ホテルで、駅で、街で、どことはなしに違いを感じたりはするが、所詮皮相的一面的である。やはり子どもであれ、大人であれ、生活を持ち得た人からの印象には確かさがある。

今回、結論を先に記し、それへの過程を幾つかの私的体験例から検証してみたい。
結論は、心底にあると想像される、イギリスの「静」の文化とアメリカの「動」の文化の確認が、戦後これほどまでにアメリカ化(ナイズ)している現代日本に必要なことであり、そのことが日本を顧みる重要な契機になる、という視点である。
例えば、諺「転がる石に苔むさず」は、英語で[A rolling stone gathers no moss]であるが、英米では解釈が正反対で、イギリスは日本と同様で、そもそもアメリカには苔への美意識はないとのこと。しかし、今日本でアメリカ的解釈が増えているのではないか。[転職のすすめ]情報が示す情況とは?或いは[あくなき挑戦][上昇志向]のイギリス的意味とアメリカ的意味そして日本的意味は同じなのかどうか。

「静」と「動」の意味内容を、事の善し悪しとは関係なく、簡単に確認しておきたい。
【静と聞いて連想される幾つかの、インターネット情報も参考に、浮かんだ言葉群】

しとやか・もの静か・穏和・穏やか・不動・静謐・無言(無口)・アポロン的・女性化

【動と聞いて連想される幾つかの、インターネット情報も参考に、浮かんだ言葉群】

快活な・挑戦的な・精力的・強気・攻撃的な・ディオニュソス的・男性化・饒舌・可変

一応、各々9語にしたが、「動」の方は非常に多くある。いかに動が、生にとって、否、現代にとって?優先されているかということなのだろう…。

私にとって最後の職場(日本私学校とインターナショナルスクール[略称:IS]の協働校)の10年間で出会った、後者側の学校で英・米人の各3人(女性1人、男性2人)の教師・保護者。
6人とも魅力あふれる人格を持つ人たちで、私自身交流が深かった人たちである。
彼ら彼女らを、上記語群と重ねると不思議なほどに、見事合致している。イギリスの静・アメリカの動。
上記にない言葉を付け加えれば、イギリス人のはにかみ(シャイ)。

アメリカ人の非常に興味深かった例を一つ挙げる。中堅男性教員の例である。
彼は同僚から典型的アメリカ人と親しみをもって言われ、国際バカロレア[略称:IBという欧米の教育制度の一つで、ここ10年程、日本でも注目されている]の、勤務校での責任者もしていた人物だった。
インター校教師の多くが世界を移動し、最後に祖国に戻るように、彼も在職数年してアジアの他のIS(その国で最も大きなIS)に異動し、日本に戻って来た時のことである。曰く、
「アメリカ人の世界は疲れる。会議でも、僕が、私が、と自己の考え、実績を主張、誇示する。それに引き替え、日本は静かでいい。」と。
彼は、日本人女性と家庭を持つことを夢みていたが、どうなっただろう?

私が在職中、ISでは校長も数年もすれば異動して行くが、或る期の校長は女性アメリカ人で、先の言葉群とは違って非常に温厚、穏和な方だった。そして夫のアメリカ人教師は、実に挑戦的で饒舌だった。日本在職期間中に離婚し、彼女はアメリカに戻り、彼はヨーロッパのISに異動した。

一方で、イギリス人女性教師は「初めて日本に来たが、日本はアメリカのようににぎやかだ」と驚いていた。

ここで、ロンドンで直接見た同じ日本人として憤りすら覚える或る男性のことを。
その人物は教育関係者で、一つの領域では名を知られ、私自身も知っている、イギリスを讃美している人物(男性)である。
逗留先のホテルのフロントでの一幕。ニューヨークヤンキースの帽子をかぶり、ひどくくだけた、時には優越的な様子でフロントスタッフと会話をしていた。パスポートで日本人であることを承知していたはずのスタッフはどう思っただろう?

かつてイギリスは、七つの海、全世界を支配する大英帝国と言われ、正に動の国として君臨していたが、今では過去の言葉であり、今日「連合王国」として、その王たるエリザベス2世は、国内はもちろん、世界中から敬愛され、かの故ダイアナ妃の死を悼んだ人は世界中に広がっている。
賛否いろいろな考えがあろうかと思うし、私自身浅学故誤解を招く言い方になるとは思うが、同じ植民地支配でも、被支配者への対応で、日本と英国では違いがあった旨、聞いたことがある。
大雑把なとらえ方だが、この発言が仮に当たらずとも遠からずならば、状況は違うとはいえ、香港の知人が言った「これでは、イギリス統治時代の方が良かった」との言葉に真実味を感ずる。尚、その知人は自身を中国人とは言わず、明らかに敢えて香港人と言っていた50歳前後の人物である。
ここには、動より静のイギリスに想いを馳せる私がいる。

このことは私の好きな音楽ともつながり、重なって来る。
例えば、ポピュラー音楽としても頻(しき)りに歌われる『アメージング・グレース』[Amazing Graceすばらしき恩寵の意]。この曲は、作曲者は不明だそうだが、作詞者は、18世紀後半のイギリス人で、初めは奴隷貿易に携わっていたが、後改心し、牧師となったジョン・ニュートンで、今日では代表的讃美歌となっている。
もう一つの例、クラッシック音楽。私はヘンデルの幾つかの曲をこよなく愛で続けていて、その大半はアダージオやラールゴの部分である。そのヘンデルはドイツ人で、同じドイツ人のバッハ共々イギリス宮廷に招かれ活躍し、後にイギリスに帰化したとのこと。

60年以上も前の小学校時代の音楽室に掲示してあった何人かの作曲家の肖像画。バッハは音楽の父とあり、ヘンデルは音楽の母とあった。
父性と母性の原理的なことで言えば、やはりアメリカは前者で、象徴的人物を挙げればジョン・ウエイン、一方イギリスは後者でエリザベス女王、と言えばあまりに偏り過ぎか・・・。
これは、クラッシクを本業とするオーケストラが、ポピュラー音楽を演奏する場合、編曲方法や演奏形態にあって、イギリスのロイアル・フィルハーモニーとアメリカのボストン交響楽団の[ボストン・ポップス]とでは、やはり前者の静、後者の動を感ずる。

高校で学ぶ「小論文」。
書き方として、序論―本論―結論、或いは漢詩からの応用、起承転結といった大枠を話した後、結論を先に述べその結論を立証する[演繹法]と、序はあくまでも序(前書き)で、そこから立証を進めて行く[帰納法]について、それぞれの一長一短を含め説明するのだが、読む側聞く側からすれば、前者にはディオニュソス的挑戦性を思い、後者にはアポロン的穏和性が漂う。
或るアメリカ現地校からの帰国高校生(女子)の言葉。「教室では決死的覚悟で発言し(英語力と言った問題ではなく)、自身の存在を教師、他の生徒に示していたが、日本に帰って来てどれほどほっとしたことか。」
その日本で、今優位的に教授されるのは演繹法ではないだろうか。自己PR[自己推薦]。プレゼンテーション等々において。
先の“典型的アメリカ人”と言われていた男性教師は、これをどう受け止めるのだろうか。

今年、ラグビーのワールドカップが日本で開催される。4年前、名将エディ・ジョーンズ氏(母は日系アメリカ人)コーチに率いられた統制のとれた素晴らしき野武士軍団日本が、強豪南アフリカに逆転勝ちしたこともあって、にわかファンも含め、楽しみにしている人が多い。
そのラグビー・フットボール。発祥の地はイギリス。それも[パブリックスクール]の名門校の一つラグビー校と言われている。
格闘技的要素の強いスポーツで、円錐形のボールを後ろへ後ろへと展開しながら、キックを交え15人全員が攻撃と防御を繰り広げ、芝生の上を疾走する。試合が終われば、選手たちは互いに讃え合い、ノーサイドとなる。
将来イギリス社会を担う若者たち[gentleman/lady(gentlewoman)]を養成することを目的とした、上流階級や裕福な家庭の子弟子女への規律厳しい中等教育学校パブリックスクール。
いかにも貴族たちが考え出しそうな競技と思えないか。

一方、アメリカでは、アメリカン・フットボール。 1試合で出場できる46人の防具で身を固めた選手が、基本的には攻撃と防御の役割分担の中でひたすら前へ前へと激しくぶつかり合いながら展開する。因みに日本語では鎧球(がいきゅう)(鎧(よろい))。
両方とも、同様に激しい動の競技ではあるのだが、ラグビーの方にどこか静的な要素、自然性を想い、アメリカンの方にいかにもアメリカ的動、現代的人為性を想うのは、やはりこれまたあまりに牽強付会か…。そうとも思えないが。

こうして限られた中ではあるが、イギリスとアメリカを私的体験から見て来た。
では、現代の日本はどうなのだろうか。
今、社会に、個人にダイナミズムを直覚している人は少数派だと断定的にさえ思える。停滞観、閉塞観、麻痺観・・・。それらに苛(さいな)まれ、苛立っている人々。老若を問わず。極度の清潔志向と退廃の混在。
日々見聞きすることがないほどに使われ、様々な問題原因をそこに収斂させるかのような言葉「ストレス」とその対応語「癒し」。それがためにこれらの語を敢えて意識的に使わない人も増えている。
身体と精神を厳しく鍛え、確かな成果を見出した或る競技選手が、今したいことは?とのインタビューに、しみじみと応えていた。
「静かな場所で独り過ごしたい」と。共感同意する人は多いのではないか。

井嶋家の菩提寺は曹洞宗である。その祖道元は「只管打座」を言った。ただただひたすら座禅し、心を一つに無念無想を目指せよ、と。
平成がもう直ぐ終わる。現天皇は日本の曲がり角を、その直覚から身をもって示されたようにも思える。
英語英語英語・・・国際国際国際・・・も結構だが、このままでは教育において、福祉において、男女協働において等々、いつまでも後進国のままで、徒労感と空虚感が溜まるだけではないのか。

日本が疲弊重篤、疲労骨折する前に、英語と国際の主人公、イギリスとアメリカを見つめ直すことは、日本を映し出す鏡となり、次代につながるように思うのだが、どうだろうか。
更に加えれば、そこからオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、はたまたアフリカの独立国等々の英語圏の行き[生き]様(よう)も視えて来るかもしれない。
複数のもの・ことから調和と創造を図って行く伝統は日本の美点【和】ではないか。高世代だけの感想かもしれないが、今日本を覆っている軽佻浮薄に休止符を打つ時機と思えてしかたがない。

老子は言っている。
「足ることを知れば辱(はずかし)めあらず、止(とど)まることを知れば危うからず。以って長久なる可(べ)し。」と。

2019年1月24日

雪 螢―俳句再発見・再学習―Ⅱ 与謝 蕪村

井嶋 悠

雪螢」との出会いが、教師時代の昔を顧み、幾つかの俳句“授業”の、今の齢での私的再学習を試みることで、明日の私につなげられたらと思い、Ⅰで、松尾 芭蕉を採り上げた。
続いて、与謝 蕪村、小林 一茶、更には自由律俳句を採り上げて行くことにする。

専門家からすれば、芭蕉・蕪村・一茶と並べるなど呆然唖然苦笑失笑以外何ものでもないだろうが、そこは素人(中高校国語科教師とは言え、主は現代文で、古典〔古文・漢文〕は従であった)の、怖れを知らない暴挙。かてて加えて、それぞれ限られた俳句の中からの採り出し。
そのような限りなき不節制にあってのことながら、蕪村の俳句は私にとって難しく、直感的に飛び込んで来る句は非常に限られている。芭蕉の『石山の石より白し秋の風』のように、初めて蕪村を知った際、直覚的に心に入ったのは、『春の海 終日のたり のたり哉』くらいである。

どうしてなのだろうか。単に鑑賞力不足で片づけるのはいささか口惜しい。そこで『徒然草』曰く、「少しの事にも先達はあらまほしき事なり」で、先人の鑑賞を芭蕉の時とは少し違う形で参考にして、蕪村の句を鑑賞し直すことにした。

早々に釘付けにされた、或る専門家の論考『芭蕉・蕪村・一茶』の中の次の表現。

――(三者の作品を)各一字によって暗示するとすれば、芭蕉は「道」、蕪村は「芸」、一茶は「生」であろうか。――

求道者としての芭蕉、生活者としての一茶に比べ、「芸」の意味の多様性。技芸の芸、芸術の芸。蕪村が難しいはずだ、と勝手に納得する。

創作者は、見たり、聞いたり、触れたり等で得た直感を研ぎ澄まし、想像力でその直感を広げ、深め、それぞれの技術を駆使し作品を編み出すわけだが、蕪村の場合、他の俳人とは違うことに気づかされる。
蕪村が人を、自然を見るとき、先ず画人(美術)の彼があって、その次に俳人(文学)の彼がいるのではないか、或いは時に両者が同時に機能しているのではないか、と。
そう考えて、5・7・5の凝縮されたそれぞれを一枚の絵として思い描き、それを統合することで情感を読み取れるのではないか、と思い、幾つかの俳句を再鑑賞すると見えて来るものがある。

そこには明らかに、それまでとは或いは古今一般的印象(イメージ)として私たちの中に焼き付けられている、“わび”や“さび”、はたまた“枯淡の境(きょう)”と違ったものがある。
それは何か。何に起因するのか。やはり先ず画人としての蕪村の眼があるからではないか。
その蕪村の絵心は、江戸時代、池(いけの) 大雅(たいが)と共に完成させた老荘や禅を背景とする水墨画につながるが、しかし墨の濃淡だけでなく、淡彩画的要素をも持つ『南(宋)画』である。

そのあたりのことを、近代の詩人・萩原 朔太郎は、その論考『郷愁の詩人与謝蕪村』の中で、次のように記している。

――蕪村の句の特異性は、色彩の調子が明るく、絵具が生生(なまなま)して居り、光が強烈であることである。(中略)特殊な俳句心境を全く理解しない人、そして単に、近代の抒情詩や美術しか知らない若い人たちでも、かうした蕪村の俳句だけは、思ふに容易に理解することができるだろう。(中略)一言にして言へば、蕪村の俳句は「若い」のである。丁度萬葉集の和歌が、古来日本人の詩歌の中でも最も「若い」情操の表現であったやうに、蕪村の俳句がまた、近世の日本に於ける最も若い、一の例外的なポエジイだった。そしてこの場合に「若い」と言ふのは、人間の詩情に本質してゐる。一の本然的な、浪漫的な、自由主義的な情感的青春性を指してゐるのである。――

我が意を得たり、とにんまりする私がいると同時に、いつしか固定観念に染め込まれた老いの固陋(ころう)性に寄り掛かっていることに気づかされる。

萩原 朔太郎は、上記論説に際し六句挙げているが、内二句と私が絵画性を想った幾つかの句を挙げ、私的鑑賞を記す。

【萩原 朔太郎の引用句から】

○陽炎や 名も知らぬ虫の 白き飛ぶ

私の俳句再学習のきっかけとなった雪螢とは季節が違うが[陽炎・春の季語]、春の或いは新暦夏の光を受けてゆるやかに立ち上る陽炎と白い虫の飛行の組み合わせは、淡彩画の叙情を思い起こさせる。私は勝手に白い虫をモンシロチョウの純白の輝きとして、あの和紙が持つ純白さを活かした線と余白の美を思い描いている。

○愁ひつつ 岡に登れば 花茨

蕪村には「花いばら 故郷の路に 似たる哉」との句があり、解説では中国の陶淵明の詩を心に留めての句作旨書かれてあり、この季語「花茨・夏」は俳人に多く取り上げられた由。
晴れた夏の碧空の下、白い花をいっぱいにつけた花茨の横にたたずむ人。郷愁が滲み出ている後ろ姿を描いた自然の中の花と人の油彩画の雰囲気が浮かぶ。

【私が絵画的と直覚した幾つかの句】

○柳ちり 清水かれ石 ところどころ (季語「柳ちる」・秋)

私の美術鑑賞経験は甚だ狭小で、しかも多くは画集体験であり、絵画的と言うこと自体に蔑(ないがしろ)さがあるのだが続ける。
20代の折、イタリア人現代画家ジョルジュ・デ・キリコ(1888~1978)20代中頃の、幾つかの作品に衝撃を受けたことがある。作品『出発の苦悩』『イタリア広場』『占い師の報酬』の、ギリシャかイタリアの古代?建築をモチーフに、真夏の午後の沈黙、静寂(しじま)を感じさせる、光と影の形而上的絵画で、その乾いた画面に妙に惹きこまれた。
この句は、秋の寂寥を、それも感傷でなく詠っているように思える。散った柳、かれた清水、そこに露わに石が幾つかある、この組み合わせが、秋の清澄な大気の中での寂寥を生み出している。その感覚がキリコの絵を浮かばせた。静謐な孤独の描写。

ところで、この句と同様の感慨を得たものに次の句がある。

○水にちりて 花なくなりぬ 岸の梅』

この句には、梅の樹下の落花が散り敷いた光景から、春の気配の名残りの情の深さが漂う中、この一木のような梅があるとの前書きがあり、専門家は、この句は失敗作であり画家の眼ではなく、詩人の眼がとらえたものである旨、記されてあった。
個人的には、先の句と同趣を感じた私は、落花した幾本かの梅の樹々、その中にあって河岸の一本だけは、落花は川の流れに運び去られ、樹下にはない。その花の有と無と川の流れの組み合わせを思い描くとき、失敗作かどうかは分からないが、文学的なのだろうか。

○物焚いて 花火に遠き かゝり舟

この句では、三つの光が描かれている。かがり火を焚いている小舟と夕食の準備であろうか、何か焚き物している人(影)、そして遠方の花火。近景と遠景の17音の中での光の調和(ハーモニー)。
江戸期に一つの時代を創った安藤広重の『東海道五十三次』や幾つかの浮世絵の世界が浮かび上がって来る。

○不二ひとつ 埋みのこして 若葉哉

○菜の花や 月は東に 日は西に

○水仙に 狐あそぶや 宵月夜

この三句には濃厚な油彩画の輝き、幻想性を感ずる。

一句目の、不二の(斜め)上から眺めたかのような、瑞々しい自然の息吹きの壮大な光景。

二句目の、一面に広がる菜の花畑の鮮やかな黄色を包むように、東から淡い金色の月が貌を出し、西には茜色の太陽が沈まんとしている、満月のころ、東と西の空で繰り広げられるこの絢爛な大自然の交響美。

三句目では、ロシア出身の画家マルク・シャガールの豊潤な色彩美と幻想美を思い起こさせる。尚、この句の前書きにある「古丘」。これは故郷の丘を表わすとのこと。蕪村の郷愁。

一方で、次のような非常に現代(モダン)性豊かなデザイン的絵画を彷彿とさせる句がある。名月に映し出される露に濡れた樹々、枝葉、草花、石、土、時に虫の類をも映し出す一滴の露を、その露の眼からとらえた一瞬。

○名月や 露にぬれぬは 露斗(ばかり)

 

蕪村は画人[南(宋)画家]であり、俳人[詩人]であった。その蕪村の俗[世俗]との距離は、或いは眼差しはどうであったのか。専門家の一節を引用する。

――「俳諧は俗語を用いて俗を離るるを尚(たっと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法最もかたし」《蕪村の言葉》という、矛盾する雅と俗の概念を止揚するのが詩であり、広くは読書による教養から得られた美意識である。(中略)これはまさに「高く心を悟りて俗に帰るべし」(『三冊子』芭蕉の俳論をまとめたもの)の、新しい文人的解釈であろう。――

そもそも水墨画や南(宋)画を観れば、俗に生きながらも己が意志的修養を通して俗を離れて[脱俗・超俗]生きる作者の姿を想いうかべる。だからこそ描かれた主題の、また線の。濃淡の、そして南画の静かな淡彩は、俗に在って俗に苦悶する私たちを魅きつける。
ユーモアを、ウイットを自在に、飄然と操れる人は、人を、社会をしかと観ている。心に余裕がある。
蕪村は、画人の眼と俳人の二つの眼で観る志向と修養を積み、自然な洒脱さを醸し出す。
と同時に、深い情愛に包んだ生の、力、孤愁、瞑想を詠う句がある。「愛し(かなし)」の感情である。
私も次のような句にそれらを見る。私的な寸評(【  】の部分)を加えて挙げる。

○青梅に 眉あつめたる 美人かな

【あつめ、が絶妙だ】

○夏川を 越すうれしさよ 手の草履

【専門家は、蕪村の少年時への郷愁、清純な少年詩性の天真流露を言うが、浴衣姿の若い女性を思い描く私は、汚れちまった俗な大人の発想なのだろうか。】

○さくら花 美人の腹や 滅却す

【美人と滅却、このおかしみは、さすがである】

○大鼾(おおいびき) そしれば動く なまこかな

【上の句と同様、心にゆとりなくしては創り出せない世界】

○学問は 尻からぬける ほたる哉

【世の学識者の方々、どう受け止めますか】

 

○飛かはす やたけ心や 親すずめ [やたけ心:勇猛果敢な心]

【動物の親、とりわけ母親の姿・眼差しの慈愛の美しさ】

○葱(ねぎ)買うて 枯木の中を 帰りけり

【昔、或る禅僧が敬慕する禅僧に会いに行ったとき、その寺の方から葱一片が流れて来るのを見て引き返した旨の話を想い出した】

○凩(こがらし)や 何に世わたる 家五軒

【ひっそりと、懸命に生きる人々への慈しみの眼差し】

○月天心 貧しき町を 通りけり

【貧しい町と大自然。凄み漂う美の描画】

○凧(いかのぼり) きのふの空の 有りどころ

【哲学とは、の定義に使えそうな一句】

 

私にとって難解な蕪村の諸俳句だったからか、思いもかけず駄文が一層冗長になってしまったが、最後に原点に戻って『春の海 終日のたり のたり哉』を確認したい。
擬声語と擬態語は違うので、最近ではまとめて「オノマトペ」と言われている。英語の[onomatopoeia]が源である。
以前、この英語に含まれる「poem・詩」を指摘した言葉に接し、ひどく感動したことがある。擬声語は言ってみれば自然太初的とも言えるが、擬態語は人為性を持った自然性がある。そして他言語と違って日本語は擬態語が豊富だと聞き、誇らしく思った。
この「のたりのたり」はその一つだ。「ゆっくり・ゆったり」の意味の「のたり」を重ねた言葉。畳語(じょうご)。

春の海―終日〔ひねもす〕―のたりのたり―かな。

この言葉群の音の響きと季節・情景の絶妙なハーモニー。これは画人と俳人の完璧なまでの融合と思う。やはり蕪村は偉大な術家である。
ひょっとしたら、現代日本人、老いも若きも、欠けているもの、忘れ去ったものが、蕪村にあるのかもしれない、とも思ったりする。
「軽薄短小」は、日本(人)の技術への讃辞であるが、これらの漢字それぞれを心・精神にあてはめたような現代日本。老いであることの幸い?雪螢との昨年秋の新たな出会いへの感謝。

2019年1月10日

ふるさと―江戸っ子カミさんと無故郷の私―

井嶋 悠

 

後1年半で、自動車運転に際して老人マークをつけなくてはならない年齢ともなる中で新年を迎えると、我が故郷(ふるさと)・原郷はどこなのだろう、とつい思い及ぼしてしまう。
妻は自身の故郷(ふるさと)をはっきりと内に持っている。それは同時に原郷でもある。夫たる私は、その故郷に係る言葉を、それも些細な断片でさえ、聞くたびに羨ましく思う。

こんな表現に出遭った。或る女流作家の言葉である。

「生れた土地を夜更けに出て来て、その後は古里に古里らしいつながりを失ってしまったものが、せめて、生活の情緒の最初の場所に、その故郷を感じようとしているのである。」

今40代以上の人で、童謡(唱歌)『ふるさと』を想い出す人も多いかと思う。(若い世代の人は、小学校時代に唱歌といった歌は習わない、と聞いたことがあるので。今もそうなら残念に思う。)

その『ふるさと』の歌詞は以下である。

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて、

忘れがたき 故郷(ふるさと)
如何(いか)に在(い)ます
父母 恙(つつが)なしや
友がき 雨に風に つけても 思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷

この歌詞と先の作家の「生活の情緒の最初の場所」を重ねれば、故郷は10代前後から20歳前後までに心に沈潜するのではないだろうか。幼少期を経て、思春期前後半期が終わるころまでの時間と空間。
因みに、出だしの「兎追いし」、妻は長らくの間「兎は美味しいんだ」と思い込んでいたとのこと。

 

私の思春期前期。
私たち井嶋家の菩提寺は、京都市今出川近くにある。私の出生地は長崎市郊外のK町である。父が海軍軍医として京都から長崎に赴任していたためで、母は長崎人である。生年月日は1945年(昭和20年)8月23日。とんでもない日に凄い場所で生まれている。
生後1年も経たないうちに松江市に移り、その2,3年後に、京都市内に戻って来た。そのまま京都で、子ども時代を全うしていれば、私の人生も今とは違っていたものなっていたかもしれないが、変転は世の常。
小学校入学前後から、父がN県に単身赴任となり、小学校3年の後期から、大人の事情で在東京の伯父・伯母宅に預けられる。
預けられるまでの母子家庭生活で、母は私への音楽(音感?)教育には熱心だったが、外向的人間だったようで、学校から帰っても不在が多く、近所に居た父の兄夫婦にお世話になることが多かった。
今から思えばさびしい話だが、私の鈍感さからか、独り家の壁を相手にキャッチボールをしていたことや、独り星空を眺めていたことが、さびしさとは関係なく鮮明に記憶されている。
以前も何かに触れて書いたが、向かいの家に父子家庭の中学生くらいの男の子が居て、その少年を英雄視していた。老いを思わせる白髪まじりの父親にいつも怒鳴られ、勉強は全く埒外の少年だったが、虫採り、魚採り等々遊びの天才で、ついて回ったことが度々あった。また、銭湯は私や近所の子ども(ガキ)たちのプールで、何度、銭湯主からどやされたことか。

小学校卒業後、父は私を引き取り、西宮市に連れて行った。そこで待っていたのは新しく母となる人であった。小学校前半期の独りぼっちの多かった時間と併行して、離婚話が進んでいたわけである。
中学校は地元の公立中学校へ。入学式当日に体験した数名の生徒による運動場での“袋叩き”の驚愕、恐怖そして不可解。その日の担任教師の来宅で知る地域問題。
袋叩きとなった理由と背景を知らされ続ける3年間の、また継母との葛藤、齟齬の始まり。

私の思春期後期。
高校は世に言う進学校で、1学年3クラス、男女比3:1。課外活動はほとんどなく、教師たちの多くは、それぞれに自己を主張し、大学格差そのままの発言をする教師も。生徒もばらばら。そこで私がしたことと言えば、何人かの教師への悪だくみと反感。かと思えば、“個性的”教師の極的存在で生徒から怖れられていた男性国語教師からの庇護と情愛。

一年間の、ただ浪人していると言う日々。大学進学後の引きこもり的生活と酒と音楽といささかの美術と文学の、己が不明生活。心のデラシネ?父親と大学の或る教師の薦めもあって大学院受験をし、合格。
「全共闘」運動の高揚期。院生1年次、大学封鎖。中退し、東京での彷徨生活2年余り。人間の孤独と己の傲慢さの痛覚。そして帰宅。26歳ごろ。

子を持って知る親の愛。その実母実父は今はなく、継母は数年前、介護施設に。父死後、妹(義妹)の若くしての癌と死、また新たに起こる、今度は私も含めての大人の事情。
東京での時間は非常に濃密で、帰宅後、先の個性派教師の高配で教師への道へ進み、以後33年間の教師生活にあって確かな糧の一つとなる。

いくら晩稲(おくて)とは言え、私の「生活の情緒の最初の場所」とは、どこなのだろうか。
唱歌を踏まえれば、あの遊びの天才との時空かとも思うが、あまりにも短期間過ぎるし、父母との記憶が断片的過ぎる。そうかと言って小学校後半時はいびつだ。その後も……。
考えようによっては、住んだ場所すべてが故郷とも言える。全有は無?それとも無は全有?
これが、今も自己確認[personal identity]に揺れ動いている一因のようにも思ったりする。

故郷と言える場所が在る人は幸いである。孤独で弱い人間の最後の救い場所になると思うから。
随分昔のことだが、テレビ報道で、ホームレスが何かで取り調べられ、「お前の故郷はどこだ?」と聞かれ「ないです」とぽつりと言ったとき、問うたベテラン男性刑事が一瞬の間をおいて嗚咽する姿が思い出された。

妻は、生まれ育ち、大学を出るまで、東京・新橋のままである。しかも三代続く根生いの“江戸っ子”である。
寿司はつまむもの、そばは飲みもの。こはだ・さば・あじや赤貝をはじめ貝類を愛し、まぐろは赤身が王道でとろは猫もまたぐものと心得ている。今の時代、旬の時季はあってないようではあるが、鰹等々、初物にはどこかこだわりがある。なお、主に関西ものである松茸にはこだわりはない。
着る物も無地を好み、濃い茶や紺系の色を、また黒系を好む。
「一日一生」(一日生涯との表現もあるが、宗教を言う意図はないので、ここでは「日々是好日」に重なるものとしての一日一生を使う。)を人生訓とし、金への執着はなく「何とかなるさ」で、かの「江戸っ子は宵越しの金は持たぬ」を地で行っている。

当然、好奇心は旺盛で、テレビ等々の広告で食品や日用品の新製品情報を得ると早々に購入する、と言うより購入しないと落ち着かないようだ。だから、それが不味いものであったり、直ぐに壊れたりした時の、妻の落胆度は大きく、横で見ていて、広告の大げさ、結果詐術(ペテン)紛(まが)い、またテレビの脅威に憤怒すること多々ある。
ただ、新発売の購入も速いが、失望させられたり、気に入らないと冷め、忘れ去るのも速い。
妻の味覚に関して一つ加える。
彼女の関西時間が、新橋時間の2倍有余となったこと、それに加齢そして大病が加わったことで、今では京風の薄味をこよなく好み、郷愁以外東京風の濃い味を避けるようになっている。

歩く速度と比例し、話し聞くも速く、京風?におっとり話したり、話者が心遣いで丁寧に話せば、先々を見越し言葉を発し、それは失礼ではと言えば、だって言いたいことが疾(と)うに分かっているのに、話し続けられればまどろっこしくって、それこそ慇懃無礼よっ、と返す。しかしそこに他意、悪意はなく、要は「五月の鯉の吹き流し、口先ばかり はらわたは無し」と、本人も自覚しているのだが、時にその慮(おもんばか)りが外れることも少なくはない。結論が最後に来る日本語の難しさ?韓国語も?
結婚して40年、やっとそのことが分かって来た次第。
衣食異文化の理解は或る程度容易だが、精神異文化の理解はやはり時間がかかる……。

新橋は下町。100万人都市江戸にあって、武家はその半数近く。その住居はいわゆる山手(やまのて)にあって、独立心の強い下町人、つまるところ多くの江戸っ子連は反骨心も旺盛で、反権威精神を受け継いだのか、妻は政治家を非常に忌み嫌っている。とりわけ現首相には痛烈でテレビにその顔が出ると直ぐにチャンネルを替える。
また、妻の母校でもある銀座の小学校でのブランド制服、
(そもそも銀座は下町だがどれほどの人が承知しているのだろうか。それとも、たちまちに変貌の時間を過ごすのが日本の、日本人の国民性なのだろうか。明治・大正・昭和を生きた作家永井荷風は、明治44年に、エッセイ『銀座』で、次のように書いている。
これは明治と言う時代がそうさせたとも考えられるが、昨今の都市の変容を見ていてそうとも思えないが、どうだろうか。

――現代の日本ほど時間の早く経過する国が世界中にあろうか。(中略)再びいう日本の十年間は西洋の一世紀にも相当する――)

や、
寺の鐘の音(ね)を騒音とし寺の移転を求めたり、保育所設置への子どもたち喧騒懸念からの設置反対、はたまた幼少者の相談センター開設に際しての「××(都区内山の手の2,3の地名)ブランド」が下がるとの理由からの反対運動等に、甚だしい不快感と痛憤、疑問を抱いている。
「何様のつもり!?」と断罪の一言。
これは、江戸っ子気質と東京人気質の違いとも言え、全国(今では世界)各地からの多種多様な人々の集合都市の東京を思えば、一応京都人の私も共感同意する。一極集中施策の負の側面としても。

現首相への痛烈さは、大坂、神戸の「ママ友」も同じで、江戸っ子ゆえだけではない、女性、とりわけ主婦や母親層、の直感力、動物的勘の為せる業、と私は喝采している。
もっとも、人情の機微には異文化はないと思うが、日本の場合、下町人の方が長けているようにも思える。だから、たとえ同じ東京・下町人でもそれを直覚し得ない人物は直ぐに忘れ去られる。
妻曰く「下町の人間は怖いぞ」。
その怖い一人である妻は、娘23歳時6年前に、その娘を死出の旅に送っている。妻は、原因をすべて呑み込み、己が身を棄て娘の介護に奔走奮闘した。一切の弱音も愚痴もなく、五月の緋鯉のように。少なくとも私の前では涙も見せず。これぞ江戸っ子の神髄、と言うのは、江戸っ子ではない私の贔屓の引き倒しだろうか。

私たちは今、首都圏の人々が憧憬する地の一つでもあり、リゾート地とも呼称される所に住んでいる。ということもあり、首都圏からのリタイア組も多い。場所によっては[東京村]なるものさえある。
「上から目線」の諸例はしばしば知らされ、気づかされる。私たちも気づかぬうちに犯しているかもしれない。そんな中で、別荘として家を構えている東京下町育ちの70代の男性が、その上からの横暴を批判するのだが、その人物自体がその一人であることに気づいていない。
妻も私もひょんなことから何度か話したことがあるが、自身がすべての人で、私は不愉快さをいささか引きずり、懲りもせず会えば話しをする。妻はその人物を論外の一人として見、とうに記憶から消し去っている。

先に記した自己確認[personal identity]のアイデンティティは、ここ数年繁く使われる外来語だが、日本語で言えば「主体的個性」だろうか。
それは思春期前期から後期にかけての、学校、家庭、社会教育が非常に大きな意味を持つ。現実はどうだろうか。この少子化時代にあって、意識化された取り組みが為されているのかどうか。
「考える力」「表現する力」の、とりわけこの国際化社会での重要性が言われ、入試内容と方法の改革が実際化されつつあるが、入学志望者を受け止める側[学校教師集団]の【研究観ではなく教育観】【優秀の意味、内容に係る学力観】が大同小異で、結局は塾産業に拠りかかっているのではないか。これは、極端に言えば、進学であれ補習であれ、塾(産業)全廃止を仮定すれば明白に想像できるはずだ。

これら日々の切々と苦々しい現実を超えたところに故郷がある。生きる心の拠点として。だから「ないです」と答えたホームレスに接した刑事は胸を締め付けられたのだろう。
そう言う私もあるようでない“無故郷”だが、20代後半時まで住んだ場所を、それぞれに、私の故郷・原郷だ、と勝手な自己確認として思うようにしている。
そう思えば、これからもどこに居ても、行っても、いつまでも老け込まずおられる……。そう思いたい。

2018年12月14日

雪 螢 ―俳句再発見・再学習― Ⅰ

井嶋 悠

雪螢とは綿虫のこと。雪虫とも言うとのこと。綿虫が科学的には正しいのかもしれない。しかし、響きはもちろん雪螢が美しい。学名はトドノネオワタムシ。

11月末の午後、庭先で純白の綿毛のようなものを抱えた虫が数匹、飛行範囲は半径1,2メートルほど、私の背程の高さの空(くう)を幽かに舞っていた。
毎年、晩秋となると見ていたことを思い出したが、今年は違った。時は瞬く内に過ぎ去ると実感するのが人の常だが、一年はやはり一年だった。一年=365日×24時間×60分×60秒……。私もどこかで、なにかがあって、変容していたのだろう。思い当たる節はないこともないが。

思わず手に取った。身の丈5ミリあるかないか。黒の縁取りの透明な翅に薄っすらと黒いたて筋が何本か走り、黒くくりくりした輝きのある両の眼。腹に綿毛を抱えて。しばらく掌(てのひら)に止まっていたが、また静かに飛び立った。幽寂な中での幽意の時間。
ほんとうに“別世界”あの世が在って、そこにほんとうに閻魔大王が居て、審問を受け、記憶している限りのすべての己が善悪を申したて、我が懺悔が受け入れられ、来世の希望を生命(いのち)あるものでとの限定で聞かれたら、願わくばこの雪螢になれれば、との思いが一刻(いっとき)に通り抜けた。

ひょっとしてと思い、歳時記を見てみた。冬の季語。初雪近くなると北日本で見かけるとある。幾つか俳句が並べてあった。心に懸った二句を挙げる。

[綿虫や そこは屍(かばね)の 出でゆく門] 石田 波郷

[綿虫を 齢(よわい)の中に みつゝあり]  能村 登四郎

俳句を嗜む方々への大いなる失礼を一顧だにせず「雪蛍」で俳句をものしてみた。「静穏の 齢(よわい)噛みしめ 雪蛍」

俳句を、国際化時代の世界にあって世界に誇れる日本文学であるとか、欧米に知らしめた人は明治時代のラフカディオ・ハーン(小泉 八雲)であるとか、西洋の小学校等で自身の母語による俳句創作学習に採り入れているとか、はたまた五音七音は日本人のDNAに組み込まれているとか、聞き、なるほどとは思っていたが、今回は雪螢が縁で、思わぬ方向に私を導いてくれたようだ。

最近、二つの句が頭を過ぎることが、間々ある。

一つは、【咳をしても一人】 尾崎 放哉

一つは、【旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る】 松尾 芭蕉

前者の、咳―も―一人
後者の、旅―夢―枯野―かけ廻る

両句の言葉の重なりから迫り来る、人が人であることの、自身を照射しての、孤独の激烈な自覚。激情を覆う静寂。詩人の詩人たる由縁。
この機会に、教師時代の昔を顧み、幾つかの俳句“授業”の今の齢での私的「予習」を試み、明日の私につなげられたらと思い、投稿することにした。
採り上げるのは、松尾 芭蕉。与謝 蕪村。小林 一茶。自由律俳句。から数句。
Ⅰ、は松尾 芭蕉。

松尾 芭蕉(1644~1694)

老若不問で“国民的俳句は?と問えば、第1位に予想されるのが、
【古池や 蛙飛びこむ 水のをと】はなかろうか。芭蕉43歳の句である。

この句、初案は「飛んだる」だったとか。それを読んだとき軽やかさがあって、これも良いのではと思ったが、近代の俳人で国文学研究者の加藤 楸邨(しゅうそん)(1905~1933)が言うには、「言い方の芸に過ぎない浅い芸で、改案(飛びこむ)は深層の揺らぎそのものを言い表している」とのこと。確かに。
己が軽薄、凡俗さを今更ながら思い知った次第。

「をと(音)」に関連し、かつての授業で「蛙の大きさは?」「数は何匹か」、とその理由共々聞いたことがある。あれこれ意見が出て、最終的に「トノサマガエル」くらいの大きさで、一匹であることにほぼ全員得心していた。
その時、アメリカからの帰国子女が「アメリカでは日本にはいないような大きな蛙で、その跳ぶ距離を競う遊びがあった」と言ったところ、その蛙が古池に飛びこんだらきっとドボーンだ、となって大きな笑いが起こった。生徒たちは、自ずと静寂の日本的美を味わっていたのであろう。
因みに、英訳されたこの句を見た時、蛙が複数形のものもあった旨紹介すると、生徒たちの多数は一匹を良しとしていた。難しい言葉で言えば、清閑の直覚であろう。

かてて加えて、芭蕉がこの句を発した時、古来日本では蛙の鳴き声は多くの歌や句に登場するが、飛ぶ動作の視点で扱ったのは芭蕉が初めてで、そこに居た俳人たちが感嘆した旨伝えたところ、先の音と併せて日本人の感性を自身の内に垣間見る機会になったようだ。

このような旧体験を統合することで、研究者の解説「閑寂枯淡の風趣」「蕉風開眼の句」との言葉が、今、改めて静かに心に沈んで行く。
こんな授業をしたらこの句だけで一時間[50分]となりそうだ。やはり国民的句なのであろう。
とは言え、受験進学意識の高い(強い?)生徒、学校では、「ここは大学ではないっ!」との顰蹙(ひんしゅく)が予想されるが。

中高大或いは高大一貫教育を標榜する学校(多くは私学)はあるが、どこまでタテの意思疎通と目標の共有が為されているか、多くは疑問で、今もそうならこの少子化時代、もったいないことである。

【石山の 石より白し 秋の風】
『奥の細道』所収 北陸の山中温泉へ向かう途次 那(な)谷寺(たじ)にて

私が初めてソウルを訪ねたのは、30年近く前の秋だった。ソウル市庁の近くのホテルに逗留し、近辺の大通りに立って市の北側にそびえる山を見た時、ふとこの句が浮かんだ。
山の名を「北漢山(プカンサン)」と言い、市内を流れる大河「漢(ハン)江(ガン)」の北側にあるところからこのような名称がつけられたとか。この山は幾つかの峰で構成され、一帯は国立公園で、市民の、また観光客の憩いの場所として多くの人が訪れている。
標高836mで決して高い山ではないが、14世紀に建てられた王宮景(キョン)福宮(ボックン)の後景にそびえることもあってか、見る者に迫り来る威容感のある、花崗岩(御影石)の山で、山肌が随所に見える。
その日は晴天で、郊外の田舎道の路傍には私の大好きなコスモスが溢れ咲き、秋風は爽やかな透明感を漂わせていた。ソウルに都を設けた理由として、北からの異民族侵攻の自然防塞としての北漢山、漢江を中心にした生活基盤との考えがあった、と以前読んだことがある。

そんな静やかな光景に在れば、誰しも、日本が1910年、南から侵攻し、中国を源とする「風水」思想を踏みにじり、景福宮に日本総督府を設営し、36年間の植民地支配を行った事実が脳裏をかすめるのではないだろうか。

芭蕉は加賀の国で白い秋の風を想い、私は異国ソウルで芭蕉の句を想い巡らせたのだが、当時『日韓・アジア教育文化センター』への端緒となることなど、誰が想像し得ただろうか。
日本側で、設立を支援くださった某学校法人理事長はすでに世を去られ、韓国側の主な推進者であった日本語教師たちの何人かは定年後の生活を過ごされている。時の無常と無情に思い到る。しかし、今も活動に献身くださっている方々もある。出会いの幸いと継続の喜び。
これなら30分くらいで、授業は終えられるであろうか。

「白」は黒とともに神秘性の強い色である。『常用字解』(白川 静)によれば白骨化した頭蓋骨を表わす象形文字とのこと。霊的なもの、霊性を思ったりする。その白を表わした芭蕉のやはり心に刻まれた名三句を挙げる。

【海くれて 鴨のこゑ ほのかに白し】

【明(あけ)ぼのや しら魚しろき こと一寸】

【葱(ねぎ)白く 洗ひたてたる さむさ哉】

妙味溢れる美の世界に導かれる。

 

【一家(ひとついえ)に 遊女もねたり 萩と月】
『奥の細道』越後・親知らず(親不知)の海岸にて

芭蕉はユーモアも解する情の人だったとか。
この句は、実際にあったことではなく芭蕉の虚構の句だそうだが、仮にそうとしても、芭蕉のほのぼのとした人柄が偲ばれる句であると、私は思う。そして、萩と月(両語とも秋の季語)が、遊女と芭蕉の存在を際立たせているように思える。
このことは、この句の前の日記文を読めば明らかである。その一端を引用する。

――一間(ひとま)隔てて面(おもて)の方に、若き女の声二人ばかりと聞こゆ。年老いたる男の子の声も交りて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、(中略)白浪のよする汀(なぎさ)に身をはふらかし《おちぶれさす、の意》あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因(ごういん)いかにつたなしと、物言ふをきくきく寝入りて(中略)《翌朝、芭蕉と曽良の衣装姿から僧と思った遊女たちは、大慈の恵みをいただけ、仏道にお導きくださいと涙ながらに訴えたが、芭蕉は》「ただ人の行くにまかせて行くべし。神明(しんめい)の加護かならずつつがなかるべし」と言ひ捨てて出でつつ、哀れさしばらく止まざりけらし。――

とあり、その後に上記の句が書かれている。

この芭蕉の人としての情けに関して、一句加える。

【猿を聞く 人捨て子に 秋の風いかに】『野ざらし紀行』所収

古来中国に端を発し、猿の声は哀調を帯びたものとして多くの歌や句で採り上げられて来たとのことで、この句の前に次の文がある。

――富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨て子の哀れげに泣くあり。(中略)露ばかりの命待つ間と捨て置きけん。小萩がもとの秋の風、こよひや散るらん、あすや萎れんと、袂より喰い物投げて通るに、《この後に先の句が記され、以下のように続く。》
いかのぞや。汝父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性の拙きを泣け。――

ここに当時の社会現状としての、主に農村での堕胎、間引き、捨て子の実態を合わせた時、生徒たち、私たちは何に思い到るだろうか。
その場に居た芭蕉は、後年「余が風雅は夏炉冬扇のごとし」と言い、世俗に対して無用のわざと言うのだが、捨て子を前にせいぜい「袂より喰い物投げて通る」だけの無力な自身に痛切な痛みを加えている、と或る研究者は記している。改めて同情と愛情の問題に引かれて行く私を思う。
これまた生徒たちとの対話をして行けば、一句で一時間[50分]、否、二句だから不可能か……。

生徒もそろそろ芭蕉から脱け出たく次の授業に心移るかと思うので、最後にこの齢だからこそ、と同情心を煽って採り上げたい一句。

【旅に病(やん)で 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る】

鬼気迫る感あるひたすらに凄み漂う句である。私の、年齢を重ねた証しなのだろう。
旅は人生になぞられる。
少し前になるが、若い女性看護師が、何人かの高齢者を殺めた報道があった。テレビ報道で映し出された彼女の表情、眼に、得も言われぬ寂しさ、虚ろさを直覚した。彼女は3か月に及ぶ精神鑑定の結果、刑事責任を問えるとの結論に達した由。直覚は単に私の感傷で、彼女は平然と実行にうつしたのかもしれない。しかし、彼女にも幼少児期の、思春期の時代があって幾つもの、あるいは看護師への夢を抱いていただろうと勝手に想像すると、生きることの切々さが襲い来る。彼女の犯罪を是認し擁護するのではないが、あの眼を想い浮かべるとあまりの哀しみが私を覆う。
彼女にとって、この芭蕉の句はどのように響くのだろうか。7年前、彼女より少し若い年齢時の娘の永遠の旅立ちを見送った、おセンチな爺さんとやはり一笑に付されるだけだろうか。

芥川 龍之介は、1918年26歳時、『枯野抄』を発表している。師芭蕉の重篤を聞くに及び集まった弟子たちの、師の臨終、死を見守る様子を表わした一篇である。そこでは、弟子たちの心理や動きを、見事な筆致で活写している。

「…限りない人生の枯野の中で、野ざらしになったと云って差支えない。自分たち門弟は皆師匠の最後を悼まずに、師匠を失った自分たち自身を悼んでいる。」との、エゴイズムの視点から弟子たちそれぞれの心を推量想像して。

2018年12月5日

「冬来たりなば春遠からじ」 (二)

冬・陰陽・萩原朔太郎、北原白秋、三好達治

井嶋 悠

詩人は孤独である。より正確に言えば孤独を愛する。その意味では意志の人である。
萩原 朔太郎(1886~1942)は、エッセイ『冬の情緒』の中でこんなことを言っている。

「詩人たちは、昔に於いても今に於いても、西洋でも東洋でも、常に同じ一つの主題を有する。同じ一つの「冬」の詩しか作って居ない。(中略)詩的情緒の本質に属するものは、普遍の人間性に遺伝されてる、一貫不易のリリックである。即ちあの蕭(しょう)条(じょう)たる自然の中で、たよりなき生の孤独にふるへながら、赤々と燃える焚火の前に、幼児の追懐をまどろみながら、母の懐中(ふところ)を恋するところの情緒である。」

詩集『月に吠える』(1917年)から二つ引用する。

『地面の底の病気の顔』
地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。

地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、 巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。
地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。

『竹』
ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。

以前、解説で朔太郎は日本近代詩の父である旨読み、上記2作品からも私なりに大いに得心した思い出がある。ところで、やはり「父」であって、「母」ではおさまりつかないのだろうか。
晴天の冬の空はどこまでも突き抜け、大気は冷冽に地を覆う。研ぎ澄まされた詩人の幽かな神経は、天へ向かう青竹に、地に広がる根に向かう。幾つかの行末(ぎょうまつ)の語法が生の動きを導き、鑑賞者に春へのつながりを予感させる。

6年後に刊行された詩集『青猫』の序で、朔太郎は言う。

――詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。生活の沼地に鳴く青鷺(さぎ)の声であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である・――

冬は厳粛で、孤独で、秋の感傷の哀しみはない。しかし、それは絶望の哀しみでもない。

朔太郎が愛した、
与謝蕪村は「葱買(かう)て 枯木の中を 帰りけり」と詠み、
西行法師は「寂しさに 堪へたる人の またもあれな いほり(庵)ならべん 冬の山里」と詠い、
芭蕉は「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」と詠んだ。
北原白秋(1885~1942)は、詩集『月に吠える』の序に次のような文章を寄せている。

「月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になって私のところの白い小犬もいよいよ吠える。昼のうちは空に一羽の雀が啼いても吠える。夜はなほさらきらきらと霜が下りる。霜の下りる声まで嗅ぎ知って吠える。天を仰ぎ、真実に地面(ぢべた)に生きてゐるものは悲しい。」
私は大人に、とりわけ結婚以降に、なってから犬を家族の一員に迎え続けている。私は、犬の愛らしく、切なく、時にキッとした眼を愛する。犬の孤独は猫の孤独と違うように思える。犬のそれはどこまでも人と共有できる哀しみの眼を思うが、猫のそれは泰然自若としている。猫好きに女性が多いことの理由と勝手に思っている……。
白秋には、やはり有名な『落葉松』という詩がある。その一部を引用する。


からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
(二・三略)

からまつの林の道は
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
(五・六略)

からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。

冬の碧空の下、春への生を中に秘め凛と立つ落葉松。「さびさびと」その下を歩み過ぎて行く詩人、人々。
冬のもたらす寂しさの情景を言うが、白秋の心には道は春につながっている。行き止まりの冬ではない。一直線の冬の道である。陰の明から陽の明へ。この詩からも母性が離れない。

三好達治の『雪』というわずか2行の詩。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

眠らせるのは雪なのだろうか、母なのだろうかそれとも祖母?どうしても父も、祖父も浮かばない。
雪自体、母の或いは女性のイメージがあるのではないか。すべてを静寂に包みこむ雪。時にその過剰さのあまり人を死にさえ及ぼす雪。そして雪解けの哀しみ。
ふりつむ雪は鉛色の空から落ちて来る。空はその地を、否、地球全体を包み込んでいる。

随分昔のこと、授業(中学3年生?)でこの詩をしたときのことが今もって強く残っている。
読み味わい、授業を終えて教室を出る際に耳にした或る生徒(女子)が友人に言った言葉。

「え―っ!太郎と次郎は人だったんだ。てっきり犬だと思ってた!」

今もその時の感銘が新鮮に甦る。その生徒にとって、眠らせたのは自身なのだろう。

季節は、時に多くは人為の災いでいささかの前後もするが、確実に折々に私たちを包み込む。だから私たち人々に智慧を授け続け、一年を繰り返す。ひたすら。冬来たりなば春遠からじ。春来たりなば夏遠からじ。夏来たりなば秋遠からじ。秋来たりなば冬遠からじ…………。
私はほとんど意識することなく70数度繰り返して来た。
今、「心の欲する所に従いて矩(のり)をこえず」をはや過ぎて想う。

季節のもたらす自然に、森羅万象の自然に、心身一切を委ねる自然を、と、どこまでも想いであり続けるだけの俗人の私を重々承知しながらも。もちろん俗人の反対語「雅人」にもほど遠い私である。

2018年11月29日

「冬来たりなば春遠からじ」 (一)

冬・陰陽・高村光太郎

井嶋 悠

浮き世と憂き世、一喜一憂の人生をどうにかこうにか過ごして来て73年が経った。
ふと思う。この期に及んで私のこれからの「春」は何だろう?と。あるようでなく、ないようである…。
「冬」を死とすれば、もう春は来ない。そんなことはない。落葉の樹々は生命(いのち)を内に秘め、じっと春を待つ。冬は冬で確たる存在でなくてはならない。でないと私も途方に暮れる。

ただ冬は、待つことに、忍ぶことに想い到る季節には違いない。それは老いの最中に在るからよりそう思うのかもしれない。
先日、3年前に定年を迎えられた敬愛する研究者から「命ある限りはできるだけ悔いのない生活を送りたいと思っていますが、定年後の生活もなかなか大変ですね。」との便りをいただいた。
それぞれに現職の時にはなかった待つこと、忍ぶことを体感しているからなのだろう
高齢化、長寿化との言葉の重さ。

と言った人生訓的なことではなく、私はここ数年、季節としての冬そのものの苦手度が高くなっている。北関東の地に移住したことも影響しているかもしれない。と言っても、毎冬報道される豪雪地帯の人々の、時に死と隣り合わせの刻々を知れば何とも勝手にして不謹慎なことで、娘の生前に「人間にも冬眠の体系(システム)があればいいのになあ」と言い、苦笑をかっていた小人(しょうじん)である。
霊魂満ちる浄土は、のどかな春の陽光に溢れ、草花樹々を潤す甘(かん)雨(う)が包み込む、そんな風土を思い浮かべるが、冬はあるのかしらん?
因みに、娘は生前「オトンは(私への彼女の呼び方)直ぐに結果を求めすぎる。」と指摘していた。

南北に長い日本ゆえ一概に四季の感慨は言えないが、それでも季節の移ろいへの感受性が豊かな民族だと思う。中でも春と秋への思い入れは、萬葉人(びと)以来の日本人の心性だが、冬はどうも自然美感とは遠いのではなかろうか。
例えば、奈良時代の山上憶良は『貧窮問答歌』で、現代文明とはほど遠い衣食住生活にあって、憶良の赴任先北九州で、寒さに耐え忍ぶ貧しい三世代家庭の様子と、里(さと)長(おさ)が鞭をもって彼らをがなり立てる、そんな世の不条理を切々と描き出しているし、あの清少納言は「春はあけぼの・夏は夜・秋は夕暮れ」と各季節の自然観照を言いながら冬となると「冬はつとめて(早朝)」で、宮中の早朝の女房たちの様子、人為を描き出す。
確かに、雪への、また落葉樹や稲を刈った後の田畑等への、自然観照はあるが、あくまでも「介しての」それであって、他の季節のようにその中に入り在ってのそれではないように、わずかな鑑賞経験からに過ぎないが、思われる。
しかし、玲瓏(れいろう)とか冷冽(れいれつ)、また深閑といった言葉を知る時、詩人には全く遠い人間である私でさえ、冬の与える深い想像力を思う。

そもそも詩には母性性が根源にあるように思う。それもあってか、神に最も近い芸術は形のない音楽といわれ、その音楽に最も近いのが詩と言われる由縁なのだろう。それは私の中で「母性原理」とつながる。しかし、母性原理だけで世界が構成されているわけでないことは自明のことで、母性原理と父性原理の微妙な響き合いに私たちは生を育んでいる。

中国に端を発する陰陽思想は、日本人の中に深く沁み入っている。陰陽は表裏一体で、それがあってこその自己と他者であり、自然であっての「陰陽互根」との考え方が言われるのだろう。
では、古人は陰陽それぞれ、具体的にどう考えたのだろう。一例を挙げてみる。

【陰】 冬・闇・暗・夜・柔・水・植物・女
【陽】 夏・光・明・昼・剛・火・動物・男

そして、日本神話での太陽神天照大神とその弟で、素戔嗚(すさのおの)尊(みこと)の兄である、月読(つくよみ)の命。
東南アジアや南太平洋にもこれと同様の兄弟姉妹関係の神話がある旨聞いたことがあるが、神話がその地の人々の心の反映とすれば、日本人性或いは原像に想い馳せる楽しみがある。太陽と月が醸し出す、日本像、日本人像。ただ、月読の命はあまり登場の機会がないようだが。

春と秋が、陰陽の間(はざま)の微妙な移ろいにあることが改めて知らされ、日本人の繊細な感性に思い到る。
また女と男。今日の「男女共同参画社会」なる言葉が、図らずも日本のあまりの後進性を明示しているではないか。

そこから想い及ぼす詩の存在位置と先程挙げた[玲瓏・冷冽また深閑]の想像性と陰陽。

それらのことを近代日本の4人の詩人に垣間見たい。私の冬の心得、春の到来祈願のためにも。
このとき、私が引き出す蔵の抽斗(ひきだし)は、中学高校の国語教科書である。私の33年間の職業だったのだから。ただ重厚さとは無縁の、また研究者然とは無縁の、懶惰(らんだ)にして酒好き教師の、空(あき)だらけの蔵である。

小中高大或いは中高大一貫教育を標榜する学校(多くは私学かと思う)には、教科書など一切使わない授業を実践する人もあるが、「教科書教科書教える」ことでの、生徒各個の、自身による自己発見の可能性の広がりを、今、自省的に思うことがある。

本筋に戻る。

今回採り上げる最初の詩人は、「冬の詩人」とさえ言われる高村 光太郎(1883~1956)。
最初の詩集『道程』が刊行された1914年10月、彼32歳、その2か月後に運命の人長沼 智恵子と結婚。
その『道程』で、凛とし厳とした詩人の姿を瑞々しい感性溢れる10代の若者に伝えたいからだろうか、必ずと言っていいほどに教科書に採り上げられる『冬が来た』

きっぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いちょう)の木も箒(ほうき)になった

きりきりともみ込むような冬が来た
人にいやがられる冬 草木に背かれ、
虫類に逃げられる冬が来た

冬よ 僕に来い、
僕に来い 僕は冬の力、
冬は僕の餌食だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のような冬が来た
上記の詩の少し前のところに『冬が来る』がある。抄出する。

冬が来る
寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る  (中略)
私達の愛を愛といつてしまふのは止さう
も少し修道的で、も少し自由だ

冬が来る、冬が来る
魂をとどろかして、あの強い、鋭い、力の権化の冬が来る

 

偉大な彫刻家・高村 光雲の子として生まれ、10代半ばから様々な書物に親しみ、父が奉職する現東京芸術大学に進み、彫刻と文学の道を歩み始めた光太郎。25歳で渡英し、後にフランスで大いに学ぶも、どうにもならない落差を感じ、劣等感を負い、27歳で帰国の途へ。そして美術と文学の世界を邁進する。以後、堰切ったように詩作に没頭するも、身辺での幾つかの負担事もあり、精神不安定な時を過ごす中での智恵子との出会い。当時、智恵子は、平塚 らいてふ等の機関誌『青鞜』で挿絵を描いていた。

更に『道程』から『冬の送別』の一部を引く。

冬こそは歳月の大骨格。
感情のへ手。
冬こそは内に動く力の酵母、
存在のいしずえ。

冬こそは黙せる巨人、
苦悩に崇高の美を与へる彫刻家。

(中略)

冬の美こそ骨格の美。
冬の智慧こそ聖者の智慧。
冬の愛こそ魂の愛。

おう冬よ、
このやはらぎに満ちた
おん身の退陣の荘厳さよ。
おん身がかつて
あんなに美美しく雪で飾った桜の木の枝越しに、
あの神神しいうすみどりの天門を、
私は今飽きること無く見送るのである。

 

藝術と智恵子と己が生への激情が向き合う冬。玲瓏で。冷冽な世界に厳然と向き合う光太郎。
その12年後の1923年の関東大震災が自身の心を苦しめ、1931年に発症した智恵子の精神の異常が1938年の死に到ることを、また太平洋戦争下で「日本文学報国会詩部会長」に就任し、戦後そのことを苛(さいな)み、自責することになる、そんな光太郎を誰が想像し得ただろうか。
1950年、彼68歳時に刊行した詩集『典型』所収の『脱卻(だつきゃく)の歌』(卻は現在「却」)で次のように詩っている。

廓(かく)然(ぜん)無聖(むしょう)と達磨はいった。
(中略)
よはひ耳順を越えてから
おれはやうやく風に御せる。
六十五年の生涯に
絶えずかぶさつてゐたあのものから
たうとうおれは脱卻した。
どんな思念に食ひ入る時でも
無意識中に潜在してゐた
あの聖なるものリビドが落ちた。 [注:リビド リビドー 生と心のエネルギー]
はじめて一人は一人となり、
天を仰げば天はひろく、
地のあるところ唯ユマニテのカオスが深い。 [注:ユマニテ(仏語)ヒューマニティ]
(中略)
白髪の生えた赤んぼが
岩手の奥の山の小屋で、
甚だ幼稚な単純な
しかも洗ひざらひな身上で、
胸のふくらむ不思議な思に
脱卻の歌を書いてゐる。

尚、この詩集『典型』の序で、彼は次のように書く。

「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、一つの愚劣の典型を見るに至って魂の戦慄をおぼえずにゐられなかった。」

更には、死の一年前にこんなことを言っている。

「老人になって死でやっと解放され、これで楽になっていくという感じがする。まったく人間の生涯というものは苦しみの連続だ」

〔古代から現代までの、日本の様々な人々の辞世の言葉を集めた書『辞世のことば』1992年刊]より引用。

私は、高村光太郎と生まれ育った環境も人生も全く異にする人種で、「子を持って知る親の恩」を、しみじみ噛みしめる不埒者に過ぎないが、彼の心の変遷に共感を抱く。
青年時代の激情への観念的共感、晩年の諦念にも似たようなものへの実感的共感。
彼が心底に抱いていたと思われる太母(グレート)観(マザー)、大地への母性感。

彼は、『典型』にも書かれてあるように、戦後、岩手の小村に移り住んだ。しかし、日々、孤独に過ごすのではなく、土地の人々と積極的に交流を深め、村人への啓蒙的なこと等、様々な活動をしたとのこと。やはり彼は意志の人だったのだろう。私にはそれがない。

次回では、萩原 朔太郎・北原 白秋・三好 達治のほんの一部だが採り上げ、更に冬に思い巡らせたい。

2018年11月8日

『民藝運動』の心を、今、再び・・・ ―柳 宗悦への私感― Ⅱ

内容[その二]

怒りと不信の今、日本らしさを柳 宗悦から学ぶ


補遺・朝鮮観

井嶋 悠

日本は、いったいいつのころから、世界で、とりわけ文明世界にあって、恥ずかしいほどの男女格差が生まれたのだろう。 殖産興業、富国強兵の明治のスローガンと世界への、途方もない代償を払った戦敗を経験しながらも、勇猛果敢、猪突猛進からの150年がそうさせたのだろうか。工業化=近代化としての。もしそうだとするならば、19世紀前後に起った産業革命の発祥地イギリスとはどこがどう違うのだろう?また18世紀での、フランス革命の歴史を持つフランスとは?そして独立革命のアメリカとは?

「維新」との語義を確認すれば、日本の場合、革命ではなく、ある種の政権交代であったとも言えるのではないか。表層的見方からの男世界としてのサムライ文化〔武士道精神〕を厳然と底に置いた変革。男性中心主義から行われた限られた文明開化。だからこそ早々の明治後半期から大正期の女性解放運動、民主主義運動が起ったのではないか。
敗戦後わずか11年にして「もはや戦後ではない」と言わしめたのは、朝鮮戦争特需もあっての経済世界のことで、心の部分での民主化は遅滞のままであったのではないか。

私は男性の一人として「主婦・主夫」或いは「専業主婦・専業主夫」との言葉が、1970年代以降定着化しつつあることに期待を寄せている。 これまでの私なりの生の中で出会った優れた女性は枚挙にいとまがない。ここで言う「優れた」とは、広く人間力の意で、女子校に20年勤務した経験からも、子どもも大人も同じである。 「適材適所」に性差はない。いわんや少子化そして高齢化(長寿化)時代。教師は、保護者は、社会は従来の先入観を払拭し、【個】をしかと見つめるゆとりを持って欲しいものだ。やはり思う。学校教育の制度も含めた根本的(ラディカル)な改革の必要を。

柳の女性観については、『食器と女』の中での次の発言からわかる。

「特にいつかは主婦ともなられる女の方々は台所で働かれ、料理をこしらえ、食卓をととのえることが、日々の行事なのですから、どうしても食器を手にされる機会が多く、従ってよい選択をすることは、女性が背負う運命的な任務だと思います。それ故、とりわけ女の方々は、高い趣味性を養われるべきだと思います。そういう教養あるかないかは、一家の生活内容を随分左右するでありましょう。」

この言葉を、あの「百均」で見かけた微笑ましいカップルに伝えたらどんな反応をするだろう?困惑するだろうか。それとも、同意するだろうか。

と言う私は「運命的な任務」との強い言葉に、時代(1950年前後)と柳の生まれ育った環境を想いつつも、このような女性に魅かれる私もいる。とは言え、やはり性差をここに持ち込むことには抵抗がある、と70有余年様々な事を経験し、自問を繰り返して来た私は、いささかの複雑微妙な感覚にある。

今回、柳を通して、現在の日本での男女格差を出したのは以下の理由からである。

・日本は女性原理、母性原理を基とした国であるということに思い及ぼすことの現代での意義。

・その母性原理とは、「元型としての〈グレート・マザー〉をとおして、包み込む」(中村 雄二郎『術語集』より)ことであることについて日本人が考えることの意義。

・詩人・三好 達治の詩にある「海には母がいる」に触発されて言えば、今、その漢字は合理化(効率化)され「母」は「毋」となっていることと現代日本について。

・鈴木 大拙は『妙』(1964年)の中で、「柳君(注:柳 宗悦のこと。以前にも書いたが、柳が学習院に在学中の薫陶を受けた教師の一人が、鈴木 大拙である)は、美ということをいうが、私のほうでは妙といいたい。」と述べ、
その妙について「精神と物質との奥に、いま一つ何かを見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相克・相殺などということは免れない。それでは人間はどうしても生きていくわけにはいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょうずるに二つでなく一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならない。これが霊性である。」と、その著『日本的霊性』(1944年刊)と書いている、そのことについて。

・無とはすべてを受け容れることでの無である、とすれば、無宗教の国日本の存在が視えて来るのではないかとの考え方について。

先の鈴木大拙や柳宗悦また岡倉天心たちに大きな影響を与えた老子(紀元前5世紀の、孔子とほぼ同時代の中国の思想家)は、その著『老子』の次のように言っている。

「名無きは天地の始め、名有るは万物の母。故に常に無欲にして其の妙を観、(中略)玄[注:人間の感覚をこえ、あらゆる思考を絶した深い根源的世界を表わす]のまた玄は衆妙の門なり。」

「谷(こく)神(しん)は死せず、是を玄(げん)牝(ぴん)と謂う。玄牝[注:女性であり、母性を表わす]の門、是を天地の根(こん)と謂う。」

蛇足を言えば、日本の母神は天照大神であり、最初に統一国家を為し遂げたのは卑弥呼であって、西洋とは根本的に違い、そこに日本の女性性と西洋の男性性を言う人もある。

だからなおのこと、「男女共同参画社会」とのスローガンに、政治家や官僚、とりわけ男性群、の無反省にして無恥な妄言を思う。しかし、このスローガンが出たことを契機にして、男性側はもちろんのこと、女性側も徹底的に意識を変える(強い表現で言えば社会変革)良い機会とすべきと思う。それは少子化、高齢化社会に益々向かう日本が、どうあるべきか考える好機としなくてはならないと考える。
『日韓・アジア教育文化センター』は、韓国と中国(香港・北京)と台湾の、それぞれ現地の日本語教師に声を掛け成立した団体である。このことは、ホームページの【当センターについて】や【活動報告】等から理解いただけると思うが、その出発点に韓国との交流があってのことで、だからこそ『日韓・』との名称がある。
その韓国の交流母胎は『ソウル日本語教育研究会』(同研究会は、その後、全土の『韓国日本語教育研究会』の推進者となり、現在両研究会は並立して活動している)で、役員の一人(女性)からこんな問いを掛けられたことがある。20年ほど前のことである。

「日本では、今、柳 宗悦はどのように評価されていますか。」

柳 宗悦が、ソウル(当時は京城)の景福宮に、『朝鮮民族美術館』を開設したのが1924年、柳35歳の時である。因みに柳が『日本民藝館』を開館したのは、1936年、47歳の時である。
私が今回、柳の対朝鮮観を書こうと思った背景には、このようなことがあってのことである。言わば、20年越しの回答でもあり、材料は二書である。

一つは、柳が1920年に執筆した『朝鮮の友に贈る書』で、一つは、1986年に刊行された『言論は日本を動かす』の第3巻「アジアを夢みる」で、柳宗悦を論じた(詩人・批評家の大岡 信〈1931~2017〉)の文章である。ここでは、前者の書から幾つか引用する。
後者に関しては、大岡は柳の朝鮮観を柳の書『朝鮮とその芸術』から、

「彼が日本政府の朝鮮政策について敢然と批判し、被支配の屈辱を耐え忍ぶ朝鮮人に対する満腔の同情を、支配者日本の傲然たる思いあがり、帝国主義と軍国主義に対する公然たる異議申し立ての形で披歴した偉大な文章をいくつも含んでいたから、いやおうなしに人々によって愛読され、彼の朝鮮観のすべてを語るものとして受けとめられてきたことは否定できない。」

と述べているが、今回の投稿の主旨では、柳 宗悦自身の言葉を拠りどころに私感を書くことを大事にしているので、引用はこれだけに留めたい。

ただ、すでに明治の後半、前回の投稿で参考にした岡倉天心は、その著『茶の本』で言っている以下のことを私たちは是非心に留め置きたい。岡倉の著『東洋の目覚め』『東洋の理想』の延長上からの視点で、朝鮮に限ってのことではないが。未来に向け発信することの現代性と併行して、先人たちの心を知る謙虚さとしても。

「諸君は進展を遂げたが心の安定をうしなった。われわれは、侵略にたいして無力ではあるが、一つの調和を創造した。諸君は信ずるであろうか。東洋はある点では西洋よりもまさっているということを。」

私は日本人だから日本の毀誉褒貶は、中庸を心掛けながらすることを善し、と考えているが(もっとも、最近、政治(家)の知情意のあまりの貧困、傲慢に辟易し、相当激的になってはいるが)、外国・地域については、誉めることはあっても貶(けな)し批判することはしないように努めている。生半可な知識や狭小な体験で批判することの非礼を思うからで、日本がされる側に立てば自然な心の動きである、と思う。

ところで、この[れる・られる]は、日本語の語法で「迷惑の受身」と呼ばれる。いじめられる・差別される・疎んじられる・殺められる……。
日韓の間ではどうか。未だに[反韓・嫌韓/反日・嫌日]をかまびすしく言う人も少なくはない。
例えば「慰安婦」問題。
戦場と言う極限状況での、性と人[男性]の厳しく且つ本質的問題は、古今の世界の歴史が常に抱えて来たことであり、日本もその例外ではない。朝鮮半島で、36年間にわたって帝国主義国家として植民地支配を行ったことはまがうなき事実であり、された側に立ち、本来日本人が持っているとされる美徳、謙虚さと潔(いさぎよ)さをもって真摯に、1965年に日韓基本条約を締結したのか、十全とは言えないのではないか、と私は思っている。

非常に単純なもの言いだが、賠償金を払えば完了ではない。自国を併合され、幾つもの痛み、苦しみを受けた側に心寄せ、移入する姿が、相手に伝わらない限り“和(なご)み”は為し得ない、という抽象的な言い方しかできない。しかし、それを具体的に戦時・支配中から実践して来た日本人も少なからずある。
その真偽、成否は相手の人格が決めることであり、そこにはじめて信頼関係が成立する、と日韓・アジア教育文化センター活動を通して痛感している。
言葉は、和みへの入口であり契機であって、言葉が心に先んじ、心を越えることはない、と考える日本人の一人である。
インターネット上で【日韓・アジア教育文化センター】が、売国的、反日的団体一覧に挙げられていたが、私はその逆だと思っている。そうでなければ、互いにこれまで続けて来られなかったはずである。

「美は愛である。わけても朝鮮の民族芸術はかかる情の芸術である」と言い、「線こそはその情を訴えるに足りる最も適した道」と朝鮮の芸術に傾倒し、愛した柳の言葉を『朝鮮の友に贈る書』から引用する。

――もし無情な行いに傲(おご)る事があるなら、その時、日本は宗教の日本ではあり得ない。今日不幸にも国と国の関係は、まだ道徳の域にすら達していない。(中略)しかしかかる行いのために苦しむ民がここにあるなら、それは一国の恥辱であり、また人類への侮辱であろう。正しい日本はかかる行いを改めるために憚(はばか)ることがあってはならぬ。――

――貴方方がたと私たちとは歴史的にも地理的にも、または人種的にも言語的にも、真に肉親の兄弟である。私は今の状態を自然なものとは思わない。(中略)まさに日本にとっての兄弟である朝鮮は、日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である。私は私の日本が、かかる恥辱をも省みないとは思わない。――

柳が、当時抱いた朝鮮観は十分理解できると思うし、その思いに私は強く共感する。
最後に最晩年の1957年、68歳時の著作『日本の眼』より、一節を引用して、この拙い柳 宗悦私感を終えたい。

――「わび」「さび」「渋み」は畢竟(ひっきょう)無地への追求とも言える。…無地ものの焼き物を最も多く焼いたのは朝鮮であるが、これは日本のように茶禅の教養に依ったのではなく、その歴史や自然に由来する。ただ一色の白磁や黒釉の品が大変多い。(中略)国民は誰も白衣を纏(まと)う。(中略)しかし無地を単なる色彩の否定と受け取るのは浅い。それは「有」を否定する「無」ではなく、かえって無限の「有」を包含する「無」と見ねばならない。(中略)「空即是色」の教えの具象的の現れといってもよい。焼物を日本人はいたく愛するが、無釉またはこれに近い焼物を熱愛する習慣は西洋には見られぬ。――