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2019年9月12日

芸術の快に思うことつれづれ

井嶋 悠

先日、とんでもなく魅力的な女性に出会った。作品と写真の上で。 1980年生まれの女流銅版画家入江 明日香さんの個展に行った。
とんでもないと言うのは、精緻極まる技法で彫られ、描かれ、重いプレス機で印刷されている諸作品を鑑賞しての感想。フランス研修で一層磨かれた、淡く鮮やかな多色彩、幻想的な構図、そこに漂う徹底した女性の感性。
「一版多色画」という独自の技法も編み出し、今も毎年フランスに赴き修練しているという。 私は美を直覚し、それを引き出す技術にただただ感じ入った。それは以前投稿したダリが発する男性性とは違った、私が思う女性性で、感動の質は違っていた。

過酷なまでの重労働であるという制作の最中の写真も展示されていて、右手に無造作に貼られた大判の湿布薬に眼が止まった。その姿が、もの静かで、自然な表情の彼女に、なぜか強く相応して感じられた。
主に若い世代で、こともなげに「アーティスト」と言うのをよく目に、耳にするが、聞く度に、老人の固陋(ころう)な感性と分かりつつも。非常な違和感が起きる。シャラクセエと思うのである。ひどいのになると、ポピュラー音楽歌手がアーティストと自称している。ポピュラー音楽を否定しているわけではない。私たち世代に大きな影響を与えた一人、ボブ・ディランは、先年ノーベル文学賞を受け、イギリスのピンク・フロイドという特異で魅惑的なグループもあったのだから。その自称する感性が信じられないのである。 時代に取り残された老いの愚痴なのかもしれないが、私が不真面目で、自称する人が真面目過ぎるのか?
ただ、入江さんは自身をそう呼称しないだろう。と頑なに己が直感を信じている。

その芸術、技術とは表裏の関係にあって、そもそも芸術との英語ARTには、元来「困難な課題をたくみに解決しうる、特殊の熟練した技術」(『美學事典』弘文堂)との意味を併せ持っているとのこと。そして、ギリシャ時代の哲学者アリストテレスは、「必要のための技術」と「気晴らしや快楽のための技術」に分け、後者を芸術と考えたとのこと。(上記同書)また時代が下って、18世紀ドイツのやはり哲学者・カントは「効用的技術」「機械的技術」「直観的技術」と分け、更に「直観的技術」を「快適な技術」と「美なる技術」と分けたそうだ。(上記同書)
なるほどと思うが、そもそも美とは一体何ぞやとなれば、私など巨大迷路に入り込み、「直観がすべてを判ずる」と放言し、早々に引き揚げる。しかし、哲学なるものはおもしろいと思う。世には好きなことで身を立てている人が少なからずあるが、生きるからにはそうありたいものだ。

この直観については、元中高校国語科教師の立場で言えば、文学もそうだと思う。 太宰治26歳の時の、稀有な第1創作集『晩年』の各篇は芸術だと直観できるが、芥川賞作家の中でさえ、私にとって全く直観作用が起こらない人もある。
もう一人例を挙げると、自由律俳人尾崎 放(ほう)哉(さい)の、1925年ごろの代表作の一つ「咳をしてもひとり」。彼の人生遍歴に係る知識の有無とは関係なく、やはり芸術としての直観が働く。

ところがこの個人性は、映画となると、どうしようもなく不明快度が増す。映画の持つ娯楽性と芸術性。 黒澤 明監督の『七人の侍』は芸術作品として扱われるが、その西部劇版のジョン・スタージェス監督『荒野の七人』は、そのような扱いを受けることはない。
いずれも監督、脚本家の意図(主題)があり、それに従ってカメラ、照明、美術、音楽、衣装、編集等々様々な技術が結集され、フィルム(とりわけ映像フィルムだからこそ映し出せる光と影の対照、微妙な色調)としてスクリーンに映写される。そこに差違はない。しかし娯楽と芸術に分けられ、或る人は前者を軽んずる。
ジョン・フォード監督の『駅馬車』は、どうなのだろう?
因みに、『七人の侍』と『駅馬車』は白黒(モノクローム)で、『荒野の七人』はカラーである。

【余話】 1953年の制作で、ヴェネツィア国際映画祭で「銀獅子賞」を受けた(その年、金獅子賞はなし)溝口 健二監督の『雨月物語』のことを思い出した。白黒の光と影の美しい重厚な作品である。内容は、江戸時代の短編集『雨月物語』の中の2編を基にしている。 この作品が、イタリア[ヨーロッパ]で高く[確かな芸術として]評価された理由は、日本文化或いは東洋文化への関心と、映像美だったのだろうか。 私自身、率直に言って次に記す『かくも長き不在』ほどの突き刺さりはなく観終えた。
更に余話を加えれば『七人の侍』。後篇の戦闘場面について驚愕、讃辞が言われるが、個人的には前篇に漂う緊張感の方に、より見入られた一人である。


たくさんの映画を観て来て、時間とカネを無駄にしたと思わせる作品は多くある。一方で、強い感動と思考を与えられた作品も多い。どこに私の線引きはあるのだろうか。自身でも分かって分からない。 初めて芸術的感動を意識した映画は、20代前半に観た、フランスのアンリ・コルピ監督の『かくも長き不在』だった。
J・L・ゴダールの諸映画には、前衛の映画である、との頭で背伸びする自身がいて内容より音響/音楽に興味が向いた。
また小学校時代、父親によく連れられて観たディズニーのアニメーション映画は、今も心に焼き付いているが、いずれに属されるのだろう。

とどのつまり、そこにプロとしての技術が裏付けされている限り、観たときの年齢や家庭、学校等環境、社会や人間との葛藤の深浅等々が複雑に絡み合い、それぞれの場面で己が心への突き刺さり、そのことで生ずる浄化(カタルシス)の有無としか言いようがないのではないか。直観(インスピレーション)の心地良さ。清澄な刺激 美は永遠のテーマであり、だから或る人を芸術から宗教に向かわせ、芸術の宗教性に思い到るのだろう。
孔子も「礼楽」との表現で、心と音楽をすべての基に置くが、それとも通ずることではないのだろうか。

こんなエピソードを思い出した。20年ほど前の、同僚のアメリカ人男性教師との会話。 当時話題になっていた、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』の、ⅠかⅡ、どちらが、面白いかというやり取りで、私はⅠで、彼はⅡであった。
この会話、ただこれだけなのだが、それぞれの「おもしろい」の取り方に興味が湧き、いささか大げさな表現ながら、そこに日米文化相違があるのかしらん、とまで思うようになり、再度映画を観たというエピソードである。
三つのことに気づかされた。一つは芸術と娯楽。一つは近代伝統の違い、一つは個人性。 芸術と娯楽。
「おもしろい」の人それぞれの取り方 映画の娯楽性は、(娯楽性の定義は措くとして)他の諸芸術に比して群を抜いていると思う。その線引きについては先に記したが、私の中で『キル・ビル』は徹底した娯楽性との先入観があり、観ることは「私の娯楽性」の確認でもあった。
そしてⅠは、そのリズミカルな展開[編集]、難解な主題(テーマ)もなく、幾場面か酷いシーンが映し出されはするが、ひたすら荒唐無稽そのままに観る者の眼と心を跳ね回り、監督の楽しげな貌が想像されたのである。
ところが、Ⅱはうってかわって、荒唐無稽にして酷い場面はあることはあるが、どこか監督の眉間の皺が浮かんだのである。母と娘の「愛」(最後に具体的に表わされるのだが)に係る思考的感動を意識しているように思えた、残念ながらそれは私の琴線に触れなかった。だから、私には何とも中途半端な、時に退屈ささえ襲う作品であったのである。

このことは、二つ目の近代伝統の違いにも、私の中でつながっている。 映画は演劇ではない。当たり前である。舞台上でのセリフとフィルム上でのセリフは違うのではないか。欧米(特にアメリカ?)は、言葉を弄して自己を主張する。Ⅱでは、主要人物のかなり長ゼリフがあり、それも多くはカメラがその人物を正面から映し出すのである。
Ⅰの歯切れの良い娯楽性に魅き込まれた 私としては、舞台の映画版を観ているような、だからなおのこと違和感が生じ、退屈なのである。
これらは、娯楽性の高い映画を観るにしても文化的背景の違いはあるのではないか、との思いに到ったが、しかし一歩離れて思えば、彼は非常にまじめなアメリカ人で、私はお気楽な日本人とも言えるようにも思えた。
因みに、彼の夫人は落ち着いた雰囲気の日本人である。 誤解を怖れずに敢えて言えば、Ⅰ・Ⅱを作品の是非とは関係なく、私の中でⅠは抒情詩、Ⅱは叙事詩との印象が残っている。

話しを最初に戻す。 入江明日香さんの作品は、海外でも芸術としての評価が高いと言う。 直感的にその理由は想像できるのだが、何が、どこが、海外の人を、芸樹として魅了するのか、いつか機会を見つけて確認したいと思っている。それは改めて私が日本を知ることにつながることを期待して。

2019年9月4日

自然は欺かない

井嶋 悠

この「は」、口語文法解説で〈は〉、主語であることを示す格助詞で〈は〉なく、副助詞と言う項に分類され、他と区別し強調する場合に使われる、とある。(尚、「副」は添える意。) 自然は、と区別しているわけである。
自然の反対語は[人工・人為・人間]とある。【東京堂版『反対語対照語辞典』より】
自然も、その一形態の植物も動物も欺かない。殺処分直前の犬の眼を見れば一目瞭然だ。人だけが欺く。自然災害は、時に人為災害となるが、逆はない。もっとも、「地球温暖化」が太陽そのもののへの変容に言い及ぶならばこれも人為侵食である。

こんな記事に出会った。今に始まった内容ではないが、知人の若者と重なるところがあり引用する。 内容は、人との出会いを夢に社会人になった現在30代の女性が、日常的にパワハラに遭い、人間不信から会社を辞め、農業世界に入ったというもの。
そもそもヒト社会とはそういったものとの冷徹さで「甘い!」の一言で一蹴する人は意外に多いのではないか。何せ世は“合理”最優先効率社会だから。
近代化、文明化はこの哲学なしには成り立ち得ないとすればやはり哀し過ぎる。それともヒトは、ヒトを押しのけ、蹴落としてこそ人生の「勝利者」の快を得る性(さが)とでも言うのだろうか。
若い人から自然な野人性が消え、体格の良い“ガラス細工”が増えたと言われる。しかし、この言い分もどこかおかしい。そうさせたのは自然なのか人為なのか。精緻な過保護社会としての文明社会の一面。

以前,[田舎には自然はあるが、人の情はない]旨の、やはり新聞報道の一節から投稿したことがある。 と言いつつも近代化、文明化また競争原理を忌避し、否定するほどの唯我独尊、飄然(ひょうぜん)とした自身があるわけではない。それは文明の恩恵に感謝する私と、生と競争は不可欠との思いにつながっている。それでも、ヒトとしての限界を越えたもの・ことを、最近度々直覚する。 ヒトが、ヒトが編み出し創り出した環境に、道具(機械)またそこから発せられる無数の情報に、押しつぶされそうになっている今を。

チャーリー・チャプリンが『モダンタイムス』を発表したのが1936年である。それから83年経つ今、彼の意図とその作品は過去の事として在るのではない。今、ますます生きて在る。
この拙稿では、その映画の私的感想を言うことを意図していないのでこれ以上は措くが、私自身を整理する意味から一言記す。
映画の冒頭で「人間の機械化への批判と個人の幸せの追求の物語」と言葉が映し出され、前半部は機械化とその非人間性の描写が続く。しかし、後半部には映画の本質[映像と音楽そしてチャプリンが意図する娯楽性といった側面]からの展開が続く。政治プロパガンダ的な労働者の団結と闘争の描写など望んでもいないが、愛の力(この作品では男女二人)で自身達の道を切り拓こうとする明日(ロマン)の可能性、自己信頼の他に、主題に沿った別の展開はなかったのか、と思うところがある。
しかし、私に妙案、対案があるわけでもなく、結局はチャプリンが提示した個人と社会に於ける一つの、或いは全ての?在り方に帰着するのかもしれない。 私が独りで在ることの個人性に拘り、憧れつつも、“家庭”が持つ幸せに到らざるを得ないように。
過去に、また今も、家庭(家族)を棄てた無名の、有名な人は多くある。俳人種田山頭火もその一人である。ただ、山頭火は放浪、乞食(こつじき)の旅にあって、ひたすら涙を流していたと言うではないか。

ヒトは意図的に、意識的に幸いを求める。ただ、幸いの中身は個人により多様である。 或る人は自ら命を絶つことで幸いが得られると考える。苦からの解放の喜び。 ヒトは基本的に善だと思っていた。
しかし、この10有余年の中で、娘の死への経緯、近親者のこと、世の中の様々な出来事、人々から、それが揺らいで来ている。そうかと言ってヒトの性が悪であるとまでは断じ得ないが、世、環境のヒトに与える大きさにたじろぎ、先に記した自殺は、社会による社会的殺人ではないか、とさえ思うことがある。 尚、ここで「原罪」との言葉を出せる私でもないし、そもそもそんな勇気はない。

ヒトが一層信じられなくなっている私がいる。寂しいことであり、哀しいことである。どんどん人から離れて行く私を感ずることが多くなった。
ヒトは唯一欺く生きものなのかもしれない。もちろんこの私もその一人である。 近代化、機械化とその拍車化はヒトの所為である。ヒトがヒトを、自身を追いこんでいる。
マグロはその生態構造上、止まることは死を意味する。戦後の焼け跡からの復興、高度経済成長は先人たちの“マグロ的勤労”の成果とも言えるのではないか。だから現代の沈滞感に危機感が募るのかもしれない。しかし、ヒトはマグロではない。
少子化、人口減少化(一方での高齢化)と経済成長は、どこでどう折り合いをつけようとしているのか。AIの進出(或いは浸出)、外国人労働者の不可欠と雇用の不安定、ヒトを意識しない機械化、利益追求。 人々は、子どもたちは忙しげに動き、必然、心の余裕はなくなり、日々刻々緊張感を強いられる。「性」+「亡くす」=【忙しい】。因みに「亡くす」は他動詞で「心を亡くす」、「亡くなる」は自動詞で「心が亡くなる」。

運転免許返納推進対象者となった私は、「働き方改革」が、何とも残酷極まりない冗談としか思えない。
ヒトの情(じょう)への願望が、多くの人々の口の端に上る。その時、なぜか“下町”が人情厚い(篤い)地域として共有される。 東京下町生まれ、育ちの妻が、同じ東京下町育ちの独善的ヒトに放った言葉。
「下町の人間は、いき[粋・意気]を大事にする分、感謝、報恩を忘れたヒトは切って捨てるっ」

【参考】「人情」を『新明解国語辞典』第五版では、次のように説明されている。 人ならば、誰でも持っているはずの、心の働き。同情、感謝、報恩、献身の気持ちのほかに、同じことなら少しでも楽をしたい、よい方を選びたい、よい物を見聞したい、十分に報いられたいという欲望。

上の語義に立てば、下町でも山の手でも「人情」に変わりはない。しかし、情緒的に下町に濃密さを想うのはなぜだろうか。互いにヒトであることの寛容性が今も脈づいているからではないか。先の一線を越えない限り。
利己と欲望と人間(じんかん)の葛藤が人間社会の一様態とすれば、山の手の家同士の垣の明確さに思い到る。だからこそ、先の下町育ちの一言が痛烈なのだろう。
自制と謙虚が繰り返し指摘される。それほどにヒトの欲望に歯止めが利かなくなっている。詐欺犯行者はそこを突いて来る。歯止めがかからなくなっていること自体、近代化の危機であり終末ではないか。

世界で初めて、国の発展をはかる指針として、国民総生産[GNP]ではなく国民幸福量[GNH]を採り入れたブータン。その国民幸福量の4つの指針と9つの指標は以下である。
『指針』
○持続可能な社会経済開発
○環境保護
○伝統文化の振興
○優れた統治力
『指標』
○心理的幸福
○時間の使い方とバランス
○文化の多様性
○地域の活力
○環境の多様性
○良い統治
○健康
○教育
○生活水準

そのブータン。 先日の報道では、自動車ブームで、人々がローンを組む等、競って自動車(主に日本製と韓国製らしい)を求め、経済混乱や環境汚染で、幸福度が大幅に下がった由あった。 ブータン(人)はいよいよ近代化の嵐の洗礼を受け始めたということだろうか。正念場はこれからだ。
このとき、日本は『指標』の「健康」と「生活水準」以外で、どれほどに誇りを持って発言ができるだろうか。親日家の多いブータンにとって日本はどのような鏡となるのだろう。

それに引き替え、北欧諸国の幸福度の安定はどこから来るのだろうか。 ここ数年来、日本でフィンランドの教育の素晴らしさが言われているが、かつては自殺大国でもあったフィンランド。
そこには社会[国家]そのものを再考し、再構築、再創造する意識があったからこそ為し得たのではないか。その国民的意識なしにただ高税の国ならば、この安定はあり得ない。

【参考】フィンランドを含め今年の世界のしあわせ(幸福)度ランキング(調査:国連) 《調査方法》各国の国民に「どれくらい幸せと感じているか」を評価してもらった調査にGDP、平均余命、 寛大さ、社会的支援、自由度、腐敗度といった要素を元に幸福度を計る。7回目となる2019年は世界の156カ国を対象に調査。 1位は2年連続でフィンランドだった。トップ8のうち半数を北欧諸国が占めている。
日本は2018年54位、2019年58位。因みに台湾は26位、韓国は57位、中国は86位。

1. フィンランド(2年連続)
2. デンマーク
3. ノルウェー
4. アイスランド
5. オランダ
6. スイス
7. スウェーデン
8. ニュージーランド

教育は人為の最たるもので、同時に国・社会の基盤になるものである。少子化の日本での教育変革が、今もって対症療法では、本質的問題解決に到ろうはずもない。 教育の無償化、選挙権の18歳化、これらは施行に併行してある問題の意識化があれば歓迎されて然るべき施策とは思うが、
何が何でも英語教育と科学教育の早期導入を政府や御用学者や御用マスコミが煽り立て、学校給食を15分にするか20分にするかで議論し、塾産業頼りの学力観、入試選抜と学校格差。大学の乱立。資格の取れる専門学校の高学費。(“妙な”大卒より早く元が取れるとは言え)
この心の貧困状況にかてて加えて、子どもの、親の(とりわけシングルマザー、シングルファーザー)経済的貧困。
そして、来年も酷暑が予想される夏、東京を中心とした、現都知事のお好きな言葉「レガシー」(そもそもここでlegacyなる英語を使う必然性があるのだろうか)をモットーとしたオリンピックが開かれ、既に東京の一部では“バブル”的公私会話が繰り広げられている。

日本の歴史と伝統を、教科書的、左右思想的、政治的な意図性に陥ることなく、心から日本を愛する様々な領域の人々の声・言葉に耳を傾ける時が来ているのではないか。東京オリンピックをその具体的きっかけにしたいものだ。「おもてなし」はその後に自然について来る。

2019年8月27日

夏の高校野球全国大会はやはり甲子園がいい

井嶋 悠

野球観戦の趣味のない私で、息子が小学生の頃、敢えてプロ野球観戦に連れて行ったが、野球そのものよりナイターに映える芝生に感動した記憶が残っている、そんな程度である。だからテレビ中継もほとんど観ないし、観ても途中で終わる。そもそも地上波中継の大半が、あのカネがすべての巨人だから尚更観ない。
因みに、かつての“西鉄ライオンズ”というチームは非常に印象が残っている。ただ、それも稲尾がどうの、中西がどうのとか、監督三原が名将であったとか、そういった野球に直接つながることでの印象ではなく、彼ら選手たちの公私豪傑振りに強く魅かれたからとの邪道である。

ところが、加齢がそうさせたのか、今年異変が起きた。
履正社高校と星稜高校の決勝戦、最初から最後までテレビ観戦をし、高校野球の魅力に開眼した。プロ野球とは、私なりの理由から比較には相応しくないと思っているが、これについては後で触れる。
両校のレベルの高さがあったからこそ、なのかもしれないが、地方大会から決勝まで戦い抜き、全国約4000校の頂点を目指す両校の選手、監督、応援団がもたらす緊張感と昂揚感が、そこに満ち溢れていたからと私は思っている。 この緊張感と昂揚感、音楽表現で言えば心地良いリズム感である。
攻守選手のめりはりのきいた俊敏な動き、まだ幼さも残る表情(この表情について、笑顔が今では全高校?共通項のようだが、時に不自然な、また場違いなものも感じられ、笑顔のTPOがあってもいいのではないか、と個人的には思っている。)、大人への兆候が明らかになりつつある鍛えられた肉体、選手たちとの相互信頼が自然態で伝わる監督の采配、それらを鼓舞する応援団の音楽と声との融合。音楽劇的感動。

それらはプロ野球にはない。プロ野球にあるのは、職業(プロ)としての自覚と技術とそのための冷静さ、それらが醸し出す“間”である。劇的(ドラマ)性が強調されるが、強調するのはアナウンサーと同調する解説者、一部観客、そしてマスコミだけではないのか。リズム感が全く違う。2拍子と4拍子の違い?
試合の平均時間を見ても、高校とプロでは、前者が2時間前後、後者が3時間前後と自ずと違っている。 この違いは、サッカーともラグビーとも違う。これは、試合時間内と外(がい)の違いから来るのかもしれない。

解説者は難しい理屈ではなく、あくまでも聞き手に徹した実体験からの言葉をさりげなく言う人が良い。その意味でかの清原和博さんは、一度だけしか聞いたことはないが、良い解説者になると思う。あの事件で思い考えること多々あったはずで、ますます味わい深くなったかと思うので早く復帰してほしい。彼が復帰したら私のテレビ観戦が増えるかもしれない。但し、巨人戦以外で。

アメリカ大リーグのダイジェスト版を観て、日本の野球“道”との呼称に懐疑的な(野球に限ったことではなく、本来道のついているもの以外でのいろいろな場面、領域で持ち出される“道”精神)私は、大リーグの選手たちの少年性、観客のリラックス性を羨ましく。微笑ましく思う。さすが“アメリカ”の国技だけはある。
また、高校野球の関係で言えば、阪神球団“死のロード”とか自虐的言い訳などせず、自身たちの原点であろう高校野球を真っ白な心で再自覚、再自己発見してはどうか。
閑話休題。

少年野球が、サッカーに押されて減少傾向にあるとは言え、愛好者は根強くあるようだ。その野球が日本に移入されたのは明治時代とのこと。 これについては、元国語教師の牽強付会ながら、やはり正岡 子規の短歌を共有したく思う。
明治35年、子規は結核と脊椎カリエスによる3年間の壮絶な苦闘の末(その時の様子は『六尺病床』に詳しい)、35歳で亡くなったが、その2年後に刊行された歌集『竹乃里歌』に、「ベースボールの歌として」との題で9首が収められている。その中で2首を紹介する。

「久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも」
「うちあぐる ボールは高く 雲に入りて 又落ち来る 人の手の中に」

子規にとってスポーツは全く無縁だったそうだが、野球を知るや熱中した由。21歳の時である。捕手の実践体験も持つ。
その子規が、夏の甲子園大会を観れば、さぞかし強い感銘を持ったことだろうと思う。

因みに、子規の絶筆は三句で、高校の教科書にもよく採られている。
「糸瓜(へちま)咲(ざき)て 痰(たん)のつまりし 仏かな」
「痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず」
「をとといの へちまの水も 取らざりき」

夏の甲子園は8月に行なわれる。 15日の正午、試合中であっても黙祷が捧げられる。また6日は広島、9日は長崎の被爆の日である。
15日はなぜか、燦々と降り注ぐ陽射(ひざ)し、突き抜ける碧空、躍動する白雲、の印象が濃い。平和への私たち、すべて?の人々の祈念を象徴するかのように。

彼らの雄姿の巨大さに気づかされた、酷暑の2019年8月だった。 夏の高校野球全国大会は甲子園がふさわしい。それを最もよく知っているのは、当日の選手たちであり、元選手たちであり、プロ野球で活躍した、している選手たちであろう。
だからなおのこと、その裏面、例えば甲子園に出場することでの膨大な経費の調達、選手と一般生徒の在校中、卒業後の進路のこと、学費(特待生、寮制度を含め)に係ること、日々の学業との両立、主に私立校での監督の地位の現在と未来、更には勝つためには手段を選ばず的指導、学校運営等々、大人社会の至難な諸問題を克服してこその感動であることに思い到らなくてはならないだろう。 そうでなければ、きれいごとで終わってしまう。
しかし、それらは栄光と感動のための、大人そして生徒の、必然的に求められる心身労苦であり現実である、との考え方になって行くのだろうが、私としてはどこか寂しさが残る。
そうかと言って、出場公立高校への脚光に、学校の都鄙格差を思えば一概に与する私でもない。

私は、33年間中高校教師生活を過ごし、74年間生き、様々なことでの表裏、現実と理想に、驚かされ、打ちのめされ、今、これを書いている。

2019年7月20日

天才・その“相対”を超えた存在 ~サルバドール・ダリ鑑賞~

井嶋 悠

福島県磐梯会津高原の中程にある、サルバード・ダリ(1904~1989)の作品所蔵で世界的に著名な『諸橋近代美術館』に、妻と行った。
ダリの絵画、彫刻作品の鑑賞2回目である。 ダリの、私が前回行った時と違ったテーマでの、新たな展示である。
[美術館の表示は、『開館20周年記念展 次元を探しに ダリから現代へ』である。
大学で陶芸を学んだ妻は何度か観ていて、本人曰く「ダリは好きだ。この美術館も好きだ」
静寂の漂う林間地にある瀟洒で風格のある近代建物で、その建物の前には広い池があり、横を幅3mほどのせせらぎが流れ、その周りは芝生で美しく整えられている。そこには近代の人為性があるが、取り囲む磐梯連峰、森林が、人為性をも包み込んだ久遠の自然の安らぎを与える。

亡き娘は(享年23歳)ダリを愛で、諸事情から母と私より一足先に関西から今の地に転居したことで、その美術館に母娘で何度か足を運んでいる。親ばかと言われようと、彼女の可能性を傍で実感していただけに、早逝は甚だ口惜しい。その一因が、教育に係る事ゆえ尚更であるが、前にその経緯背景は投稿しているので、ここでことさら立ち入らない。

初めて観たときから引きずっていたことがあった。どこか気構えて観ようとする私への疑問。なぜか。
例えば作品に付けられた表題に寄り掛かっての「理解」と言う観方。そのことに加わっての難解な作品との勝手な或いは先入的思い込み。鑑賞ではなく学習といった感覚。
しかし、画集すなわち写真ではなく、作品本体に向かい合うこと2回目にして、やはり私の鑑賞が大きな誤りであることに決定的に気づかされ、大海を前にした大らかさと自身の小ささに気づいて行った。
その自己を止揚するような中で、一枚の絵が私をとらえた。ダリの“永遠の人”であったガラの顔を描いた、B5判ほどの大きさのペンのデッサンに接した時である。そこには、ピカソのデッサンを観た時と同様の感動があった。
いつしかあの気構えは消え、虚心にダリの作品群を観る私がいた。どれほどの時間が経っただろうか。
美術館を出て、駐車場に向かう時、芝生で座って作業をする三人の女性が視野に入った。楽しげに会話しながら、雑草処理でもしているのだろうか、中年の女性たちであった。 その時、ダリならこの風景をどう見るのだろうか、否、最初からそのような志向を一切持たないのだろうか等々との思いの中で、先程まで見入っていたダリの作品群と彼女たちが重なった。不思議な感覚であった。それが何であるか、私にも分からなかった。それは今も分からない。

この文章は、そんな経験からあらためてダリを、シュールレアリズムを想い、そこから天才について思い巡らせた一端を書いたものである。己が人生の自照の契機としても……。
もっとも、『シュールレアリズム宣言』を著した、アンドレ・プルドン(1896~1966)は、老いと言う年齢になってのこのような行為の虚しさ、愚かさといったようなことを書いてはいるが。

人間は等しく孤独に苛まれ、狂気をかろうじて抑制している。だから夢は人間にとって悦楽となるのだろうが、時に夢は人間を呪縛することもあって、一転恐怖ともなる。
天才は、現実を超えている。と同時に、孤独と狂気を一瞬であっても極限まで、しかも無意識下に自覚する。そこに年齢は関係ない。天才が早熟、早逝のイメージを与えるのはそのせいかもしれない。
凡人と天才が決定的に違うのはそこではないか、と凡人の私は思う。
「十歳(とお)で神童、十五歳(じゅうご)で才子、二十歳(はたち)過ぎればただの人」は、短いようで長く、長いようで短い人生での凡人の言い訳に過ぎない。 天才も10歳から凡人と同じに齢を加えるが、感性は10歳を基底に理智いや増し、ますます研ぎ澄まされて行く。その時、その天才を代表するような作品が創り出される。

と考え始めると、どうしても老子の「天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ」が浮かぶ。
美醜、善不善、有無、難易、長短、高下、音声、前後すべては相対的で、それゆえ「聖人は無為の事に処り、不言の教えを行う。」と言う。
この「  」の部分、研究者金谷 治氏の現代語では次のように記されている。

――それゆえ「道」と一体になった聖人は、そうした世俗の価値観にとらわれて、あくせくとことさらな仕業をするようなことのない「無為」の立場に身をおき、ことばや概念をふりまわして真実から遠ざかるようなことのない「不言」の教訓を実行するのである。――

老子は無為を、不言を言うために文字(言葉)を使う。その自己矛盾に何度呵責の時間を経験したことだろう。同様に、天才画家は絵具で無為不言を表わす。 0(ゼロ)。無であることが永遠であること。

ダリは、己が作品への様々な批評、評価とは全く関係ないところで、言葉を紡ぐ人を視ている。私自身、それがすべてと思うが、自照のために拙い言葉を紡ぐ。当然、その言葉はダリ作品の批評であろうはずがない。

夏目漱石は『夢十夜』を著した。その第六夜は、運慶が仁王を彫刻する話[夢]である。
運慶が、鑿(のみ)と槌(つち)を自在に使って彫るのを、漱石は他の明治の人たちと見ている。その自在さに感心しているときに、或る若い男が言う。「あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と。 漱石は家に戻り薪を使って試みるが、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。」と書く。

ダリは運慶なのだ。 ダリは現実に生き、抑え難い欲求から想像力をかきたてられ、狂気溢るる集中力と愛(アガペー)で精緻なデッサンを重ね、絵筆を、鑿を動かす。霊感と創造の至福の結合。
運慶は鎌倉時代であり、ダリは20世紀のスペインである。鎌倉時代が仁王を彫らせたように、20世紀の西ヨーロッパが、シュールレアリズム[超現実主義]の作品を創らせた。
そこに共通して在ることは、現実の究極としての、或いは現実を超えたところでの、宗教[仏教とキリスト教]である。 運慶は人々の守護たる仁王像を創ったが、ダリはスペインの、西洋の血・文化・歴史からの霊感で、彼の具象を描き、時に彫刻した。
漱石は運慶に天才を見た。その慧眼(けいがん)。

先の『シュールレアリズム宣言』の中で、アンドレ・プルドンはシュールレアリズムを次のように定義している。

――男性名詞。思考の実際の働きを、口頭ないしは筆記ないしは他のあらゆる手段によって表現しようとするもくろみのための方法としての純粋の心的自動運動。理性によって実施されるあらゆる統制の存在しないところ、すなわち、美的ないしは道徳的なあらゆる配慮の埒外での思考の書取り。――

「美的ないしは道徳的なあらゆる配慮の埒外での心的自動運動」。
解放された自由の中での想像力の飛翔。
私は、更に男性名詞とすることに関心が向く。 「理性によって実施されるあらゆる統制の存在しないところ」、全き解放と安息の場所としての母胎内。現実(主義)を超えることでの安息の志向。母性への憧憬。

ダリはフロイドを敬愛していた。フロイドは精神分析で「性」を考え、人間の根底を考えた。私はフロイドの夢に係る論考の一部を読んだが、ただ眼で追っただけでフロイドについては何も言えない。

ダリは、20歳前後から印象主義、点描法、未来派、立体派、ネオ・キュビズムを吸収しながら、シュールレアリズムの世界に向かった、と解説するフランスの研究者(ロベール・デシャノレヌ)は、ダリの代表作の一つとして1951年作(47歳時)『十字架の聖ヨハネのキリスト』挙げている。
彼のシュールレアリズムの画家としての活動は、20代後半から50代と考えられる。そしてこの時期が、ダリの天才が華開いた時ではないかと思う。
この時間と精緻極まる仕事ぶりからも、彼が強靭な天才であることが見て取れる。ひたすらガラへの愛を支えにして。
因みに、『欲望の謎、わが母、わが母、わが母』を描いたのは、1929年、25歳の時である。

デッサンは絵画の、彫刻の核であって、××主義とかそういったことでぶれることはない。そこには画家の、彫刻家の“樸(あらき)”がある。だから運慶は眉や鼻を掘り出し得た。ダリは緻密なデッサンで彼の夢・霊感を徹底して描いた。

夢は「個人的なドキュメンタリー映画のようなもの」との言説に触れたことがある。映画の人為性(例えば画面を切り取ると言う人為)を思えばなるほどと思う。 静かな激しさに溢れた夢・超現実の具象。ダリの個人的ドキュメンタリー映画。
私が以前に強い感銘を受けたシュールレアリズムの画家、ジョルジョ・デ・キリコ(1886~1978)の、ギリシャ・ローマ時代を思い起こす建造物と真昼が醸し出す静謐との違いと共有性。

相対評価の人間社会にあって唯一絶対と直覚させる人、それが天才だと思う。そこでの鑑賞の「難易」はない。難易は理屈の世界である。
ダリをあらためて観、心のわだかまりが消えたのは、そこに今更ながら気づいたからだと思う。これも加齢の為せる業なのだろう。
明治の画家で28歳にして失意と孤独の中、早逝した青木 繁の『海の幸』を観て、彼を天才と直覚したことが甦る。 同じ“具象画”でもダリと青木では全く違う。しかし、それはダリが主義の前に「超現実」」が付され、青木には「ロマン」が前に付されるという美術史上の分類に過ぎず、本質は全く同じ美である。 二人の天才、ダリの真善美と青木の真善美の同一性。あまりにも当たり前のことだが。

天才であることの苦しみ、哀しみは、その天才でしか分からない。しかし、天才は私たちに安息を与える。天才は天に指名された、私たち凡人の救い主である、と信じたい。

【付記】 今回の展示で、新たに私の心をとらえたのは、『哲学者の錬金術』と『ダンテの新曲煉獄編、地獄篇』の、幾つかのリトグラフ作品であった。

2019年7月1日

雨 七夕 日本・韓国・中国

井嶋 悠

雨は聴くもののように思える。 幼い頃、夕立や雷雨の夜、当時まだ使われていた蚊帳の中に入って寝ころびながら雨を想像し、遠雷を独り聞いて、どこか心静まっていた。もっとも、間近な雷には静まる余裕などなかったが。
この身勝手な恍惚は今もあって、蚊帳はないが、とりわけ深夜の、雨と遠雷の音は想像を巡らせる。

緑雨、紅雨とか小糠雨、霧雨とか、見ているように思えるが、私たちはその雨を見ていながら、つまるところ天に想い及ぼし、耳をひたすら働かせ、想像しているのではなかろうか。
日本語で雨に係る言葉は400種以上あるとかで、その中に「神立(かんだち)」と言う語があるように。
※「神立」:神様が何かを伝えていると信じられていた「雷」を指す言葉から転じて、夕方、雷雨の意。  
この感性は、雲がないのに細かい雨が降ってくることを「天泣(てんきゅう)」ということと通ずるように思う。

」三好達治(1900~1964)の有名な詩に『大阿蘇』というのがある。その後半部は以下である。 その最終2行はことのほか耳にする詩句である。そこで使われている「蕭々(しょうしょう)と」は、耳であろうか、眼であろうか。耳でもあり眼でもあり、眼でもあり耳でもあるように思える。阿蘇の放牧された馬を覆う天の声としての雨。そこから醸し出される寂寥の気。 あたかも眼前の雨を介し、耳をそばだて音楽を聴くように。

空いちめんの雨雲と  
やがてそれはけじめもなしにつづいている  
馬は草を食べている  
草千里浜のとある丘の  
雨にあらわれた青草を 彼らはいっしんにたべている  
たべている  
彼らはそこにみんな静かにたっている  
ぐっしょりと雨に濡れて 
いつまでもひとつところに 彼らは静かに集まっている  
もしも百年が この一瞬の間にたったとしても何の不思議もないだろう  
雨が降っている 雨が降っている  
雨は蕭々と降っている  

※「蕭々」:(雨が降ったり、風が吹いたりして)肌寒く、寂しさを感じる様子
【備考】この最後2行で使われている「が・は」は、助詞の使い分け説明にしばしば引用されている。

このように雨は、歌や詩の中で、切ない寂しさを表現するのによく使われる。 歌謡曲から二つ例を挙げる。
一つは、『雨の酒場で』(作詞:清水 みのる、歌;ディック・ミネ、石原 裕次郎、1954年)の1番
並木の雨の ささやきを   
酒場の窓に ききながら   
涙まじりで あおる酒  
「おい、もうよせよ」飲んだとて  
 悩みが消える わけじゃなし   
酔うほどさびしく なるんだぜ

もう一つは、『長崎は今日も雨だった』(作詞:永田 貴子、歌:内山田洋とクールファイブ、1969年)の3番
頬にこぼれる なみだの雨に   
命も恋も 捨てたのに   
こころ こころ乱れて   
飲んで 飲んで酔いしれる   
酒に恨みは ないものを   
ああ長崎は 今日も雨だった

もう一つ、私の好きな詩から。
北原 白秋(1885~1942)の全八連の詩『落葉松』から3つの連を抄出する。 一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。

からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

例外的にそうでないものもある。同じく北原白秋の童謡(1925年)『あめふり』 あめあめ ふれふれ かあさんが/じゃのめで おむかい うれしいな/ピッチピッチ チャップチャップ/ランランラン

しかし、上記引用した歌詞、詩歌の根底には、対象への、また自己への愛がある。そして先人・古人の感性に思い到る。哀しと愛(かな)しの表裏性。 そして雨は涙へと導く。「雨に濡れる」「涙に濡れる」。涙雨。 この雨―かなしみ更にはその涙、との発想は、日本的音楽[演歌]で多く採り入れられていて、そういう意味で日本的なのかもしれない。
それは日本を構成する主な民族、大和民族の自然への心が生みだした農耕につながる、「甘(かん)雨(う)」「慈雨」との美しい言葉とも重なっているように思える。
今回、雨の呼称を調べていて「男梅雨」「女梅雨(あめ)」なる言葉を知った。前者の意味は「雨が降るときは激しく振り、雨が止むときはすっきり晴れる」で、後者は「しとしととした、雨脚の弱い梅雨」とのことだそうだが、これも男女へのいかにも日本的な感覚だと思う。

先に記した涙雨の意味は「涙のようにほんの少しだけ降る雨」とのことなのだが、やはり新たに二つの表現を知った。「酒(さい)(催)涙雨(るいう)」「洗車(せんしゃ)雨(う)」。
共に七夕、織女(織姫)と牽牛(彦星)に係る雨とのこと。後者は、7月6日に降る雨のことで、牽牛が織女と会うため牛車を洗い準備している様を。
前者は、当日雨で二人が会えなくなり流している涙とのこと。きっと、当日、「鉄砲雨」「ゲリラ豪雨」が二人を襲ったのだろう。
実に微笑ましい神話伝説の世界に私たちを誘う。
ところが、これが韓国に行くと、当日雨だとそれは二人の再会のうれし涙で、次の日も雨ならば二人が別れを惜しむ涙とか。
これが韓国の国民性なのかどうか分からないが、やはり微笑ましさに溢れている。

ここで、中国・台湾・韓国・日本での節句の一つである七夕について、良い機会なので確認しておく。 『源流の説話』[出典:ウキペディア「七夕」]
――こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。 織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルである。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。 このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。 星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。 また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。 ――

催涙雨、何と夢をかきたてる言葉。 カササギ(鵲)、日本では北九州のごく一部地域以外見られない鳥だが、韓国では度々、それも群生して飛ぶ優美な姿を目にした。そのカササギと織女と牽牛の永遠の愛。 百人一首の「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」を想い起こす人も多いかと思う。

今日、源流の中国でさえ、七夕はあの惰性的でさえある「バレンタインデー」的様相になっているようで、日本も観光客誘致や商戦広告に使われることも多く、古人の想いから離れつつある。 それは時の流れとしてやむを得ないのかとも思うが、星座を見て、古代東西の人々の想像力と叡智に思いを馳せるように、底流の神話文化に心を向け、東アジア文化(或いは共同体?)について考えるのも、今の時代だからこそ必要なことのように思うが、どうだろうか。

梅雨になって、久しぶりに、深夜、床の中で雨の音に触発された。国土の6割が山岳で森林である日本の、雨があって水明であり、稲作である、そんな日本文化を考えてみた。

2019年6月20日

    [教 育 私 感 ] 33年間の中高校教師体験と 74年間の人生体験から  

井嶋 悠

                       はじめに

私の限られた経験だが、教育者は教育を語る、語り合うことを甚だ好む傾向にある。教職意識が高い(強い?)と言うことなのだろう。私も30代40代頃は、そういう意味では教育者の一人だったかと思う。しかし、公私流転の人生にあって50代後半からそれが疎ましく思うようになった。なぜなら、教育そのものが分からなくなったからである。 これでも中等教育での、国語科教育は当然のこと、他に日本語教育、国際教育としての海外・帰国子女教育、外国人子女教育、更には国際理解教育に手を染めた。ほんの一部の人々とは言え、私に良い評価を与えて下さる方もなくはない。それは今も生きる支えになっている。
しかし、私が語ると私の中で騙(かた)るに堕してしまいそうなところがある。だから?時折、居直り的に発言が激しくなることが多い。私的には本質的(ラディカル)発言と思ってはいるのだが。
例えばどんな発言(提言)かが問われるかとは思うが、以前の投稿と重なるので立ち入らない。

ただ、一つ新しい問題について触れる。 学校教育の無償化が新たな或いは更なる歪みを生みだすことは、既に指摘されている。無償化[要は家庭経済の負担減]の前に、塾産業撤廃案をなぜ打ち出さないのか。それこそ、小学校前から大学までの初等・中等・高等教育の「教育」について、また教師の在りようについて、学力観、学歴観は言わずもがな、人生観、社会観まで途方もなく大きな課題を突きつける契機となるように思えるのだが、やはり一笑に付されるだけだろうか。

高齢者運転問題で、テレビのインタビューや何かの折に知る、自身の運転或いは体力への自信等を言う高齢者。その人々を無性に腹立たしく思う同世代の、日常的に運転しなければ生活できない地域に住んでいる私の心の自然な動きなのか、教育について整理する時機が来ていると思うようになった。 33年間と74年間の体験からの私の言葉として。このブログ投稿の基底にある自照自省。
その時、私の脳裏を過ぎった言葉(キーワード)は「屈折」である。 その屈折、意味、用法から三つに分類されるとのこと。以下それを引用する。
① 相手に対する感情が複雑に入り混じっているさま[例語:愛憎ないまぜの]
② 性格が素直でなくいじけているさま[例語:素直でない、へそ曲がり]
③ 考え方などが偏っていたり狭かったりすること[例語:偏狭な、料簡が狭い]

何年か前のこと、旧知の方とただ漫然とした会話をしていたとき、その方が「どうしてそんなに屈折してるの?!」と笑顔で切り裂いて来た。そこでは、この人とはもう会うことはないなと思った私がいたが反論する私でなく、どこか同意する私がいた。そして、今も相当な力で心の、頭の中に留まっている。正に屈折?
なぜ同意できたのか。生まれ持った要素(井嶋親族で共通する要素との意味も含め)として直覚したのかもしれない。しかし、今改めて思うに“私”と言う人生がその要素を培ったと言えるのではないか。 先の分類に従えば、その方の私への用法は、三つの意味が微妙に重なっているように思える。「ように思える」では落ち着きが悪過ぎる。
そこで、20代後半に高校時代の恩師により教職に導かれた一人として、教育観に翳を落した或いは逆に陽を当てた、と私が思う、幼少時からの「事実」を客観的に振り返ってみることにした。 良いとか悪いと言った善悪単純二分法ではなく、そもそも人間は屈折の動物とさえ思うからこそ幼子(おさなご)を慈しむし、多くの動物を愛おしむと考えている、そんな「私」の屈折を炙り出してみたい。 そのことで、家庭であれ、学校であれ、私の「教育」感(観)が視えて来る、そんな期待を寄せて。

教 育 私 感
33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から
Ⅰ 初等教育[時代]

小学校前半までは、京都・賀茂川の近くで、虫採り、魚採り等遊びの天才だった向かいの中学生を英雄視し、彼を真似た痛快な思い出が幾つもある、昔ならどこにでもいた一人である。ただ、違ったのは、小学校入学前後から父親の地方赴任に伴う母子家庭だった。母親は純粋な人だったが、家庭的なことが全くと言っていいほどに駄目でいつも心は外に向いていた。そのことによる私の心の隙間を埋めてくださったのは、近所に住む伯父(父の兄)伯母と6歳年上の従姉妹であった。

大人事情は世の常とは言え、後に分かることだが、父母の離婚話が進行中のこともあって、小学校後半時から東京の伯父伯母(父の姉)宅に預けられた。伯父の社会的地位によるのだろう、その家は邸宅(おやしき)と言うにふさわしく、お手伝いさん夫婦が住み込んでいた。 母は結婚前の職種、看護婦となり、関東の地で独り生活を始めた。母への慕情が募り始めたとの記憶はない。ただ、何かぎくしゃくしたような不自然なものがあったように記憶の片隅にある。

伯母の能楽[主に小鼓]や茶道(茶室があった)への傾倒も手伝ってか、伯父の関係者、能楽関係者等々、それも30代から40代の人たちの出入りが非常に多かったが、子どもは私一人だった。伯父伯母に子どもはなかった。時に月に何度もその人たちによる夕食の会が行われ、活気を呈する家だったが、お手伝いさんの心遣いもあって、独り夕食を台所でとることもしばしばであった。しかし、寂しいとの心情はなく、こんなものだと思っていたのだろう。
庭も広く、また当時まだ普及していなかったテレビもあり、小学校の同窓生もそれらがあってしばしば遊びに来ていたが、私の中ではほとんど記憶が残っていない。
ただ、伯父方の親戚家族が時折来て、その中で幼少の男の子二人、特に兄の方、の子守的なことをしたのは、懐かしい思い出として今もある。

私の中では、どちらかと言うと大人社会にいた3年間のような印象が強い。 その象徴的事件?に、泥酔と二日酔いの小学校5年生(11歳時分)での体験がある。先述の大人たちの夕食会で、酒を大いに勧められ、嬉々として?受け容れた結果である。大人たちからすればかっこうのおもちゃがごとき相手だったのだろう。その時も、お手伝いさんが苦笑しながら介抱してくれた様子が薄っすらと残っている。

そういった酒食の会では、男女の性の話題も多く、或る時、その人たちが話題にしていた単語の意味が分からず素朴に質問したところ、場を一瞬凍らせたことが今も残っている。しかし、今日の小学校での或いは広く学校での「性教育」の現状ではお笑いぐさであろう。
森 鷗外の、自身の6歳からドイツに留学する21歳までの性に係る経験を描いた『ヰタ・セクスアリス』(ラテン語で性欲的生活の意・47歳時執筆発行)では、6歳から12歳の間にあって、既に幾つか兆しを直覚していて、私がいかに奥手か、また感受性に乏しかったが分かる。
このことは、ここ年々、人生最大の難題であり、本質的問題は「性」ではないか、と老いと共に性に対し時に嫌悪感さえ抱くこともある複雑さを持ち始めた私の、遅さにつながっているように思える。
鷗外は先の著の最後の方で「永遠の氷に掩(おお)われている地極の底にも、火山を突き上げる猛火は燃えている。」と記しているが、以下の老人男女のことは正にその現実なのかもしれない。
老人介護施設職員の談話で、80代と90代の男女が、下半身を露出してベッドに在った旨聞いたときの、私の途方もない衝撃、驚愕。

この晩熟(おくて)は、3年間と言う限られた中とはいえ、血気盛んな大人たちと、それも開放的な夜の時間にいたことがかえってそうしたとも思ったりもするが、やはり個人生来のゆえなのかもしれない。
自身の生来と後の周囲の環境によるこの自覚は、現在の年少者への性教育について必要との理屈(説明)は理解できるのだが、今もって違和感がある。私の「理解」と言う理屈(論理)の言葉の一つ。
保守性のあらわれ?とは言え、性教育推進者が革新的とも思わないが。 併せて、中学校に進学して一層重い課題となるジェンダー教育の端緒は、今どのように意識して為されているのだろうか。

転校した小学校は、東京都大田区内の分校的な小規模校であった。一学年25人×2クラスの50人ほど。 発する言葉の音調は、当然京都弁。今から60年余り前のこと。
今様に関西弁(特に大坂弁或いは河内弁?)が、広く認知されていない時代、子どもたちにとって不思議で、可笑しな響きに聞こえたのだろう。 イジメではないが、他意のないからかい、笑いの対象になることもあった。
そこで、クラス担任の女性のM先生の放課後東京音調補習がなされることとなった。私の東京弁学習。小規模校ならではの補習?
因みに、私の発する日本語は、その特訓に加えて、20代の2年間の東京放浪生活と国語科教育での読み、話すでの共通語(標準語)指導が加わって、時に聞く人にとって奇妙な日本語となっている。

すべての人々の生活語は方言、と言っても未だに東京弁=共通語(標準語)社会の日本にあって、だからこそ生活と生と言葉での方言の魅力は誰も否めない。それも読むことより聞くことに於いて。(読むのは至難である)
海外・帰国子女教育に係わる中で知った「言語臨界説」、11歳前後でその人の生涯の主言語(第1言語)が決まるとの説に立てば、私の日本語はあの小学校での環境、補習が方向性を決めた、とも言えなくはない。もちろんこれはM先生を非難しているのではない。
その延長上と言うのもおかしな、或いは甚だ偏見に満ちた勝手なことなのだが、男性が話す大阪弁(広く関西弁)は、私の中での特別な人〈例えば、上方歌舞伎俳優や笑福亭 仁鶴氏レベルの落語家、また私が敬意を表する人たち〉を除いて、印象が良くない、少なくとも心地良さはない。
一方で、谷崎 潤一郎の『細雪』の姉妹の会話の言葉は鮮烈で、実に美しいと思った。

尚、この時代に塾は在ったのかどうかと言うほどの存在で、当然のことながら行ってなかった。ただ、稽古事(京都時代、ピアノとバイオリンを習っていた)は、転校で途切れた。これは父母と伯父伯母との考え方の相違のようで、後に憂き世日々の中にあっていかに音楽が大きな力を持つかを実感することになるに及び、残念な気持ちが湧いた。それは今もある。

小学校、次項に記す中学校教育での。英語教育〔個人的には狂(・)育の感さえある〕等“主要”5教科教育との表現での主要の呪縛から脱け出し、音楽教育は言うにおよばず、美術教育、書道教育、保健体育教育、技術家庭教育の充実を強く願う。人生と言う巨大な時間の滋養の土壌として。これは思春期前期の中学校に進学するに及んでますます重要性が問われることになる。 その意味でも、少子化、高齢化は時機を得ていると常々確信している。学校制度の一大改革である。

2019年6月2日

「跡」に想う

井嶋 悠

日本の一大転換期、鎌倉時代に書かれた軍記物語『平家物語』の冒頭部分は、現18歳以上のほとんどの国民が知っている名調子である。
私自身、教えている時でさえいささかの観念的理解でしかなかったと思うが、歳を重ね、様々な人々と出会い、森羅万象のほんの一端を知り、冒頭文にある中国と日本の歴史上人物について誰一人知らなくとも、しみじみと、しかも重く、深く心に沁(し)み込んで来るものがある。
中高校時代の「知る」ことと、加齢を経て「味わう」ことを思えば、“教科書を学ぶ”も“教科書で学ぶ”もそれぞれに一理あることが視えて来る。

その冒頭部は以下である。

「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、是等は皆舊主先皇(せんおう)の政にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌(いさめ)をもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁る所をしらざしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかゞふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、おごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅の入道前の太政大臣平の朝臣淸盛公と申し人のありさま、傳承るこそ心も詞も及ばれね。」

「おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。」
生々流転、無常の世、日々刻々の自己を謙虚に受け止め生きること、その至難さを切々と知らされる。
「人生100年時代」とかで、相も変らぬ能天気さで喧伝する政治家、それに追従するマスコミに、苛立てば苛立つほど、虚しさ症候群は悪化の一途をたどるではないか。閑話休題。

これまた高校で必ずと言っていいほどに見る松尾 芭蕉『奥の細道』の一節。

「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一理こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。(中略)泰衡等が旧跡は衣が関隔てて南部口をさし堅め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。―国破れて山河あり、城春にして草青みたり―と、笠打ち敷きて時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡 」

 注:「大門の跡」;毛(もう)越寺(つうじ)の南大門(正門)のことか。   
  :―  ―の部分、杜甫の五言律詩『春望』の冒頭   
  :「笠打ち敷きて……侍りぬ」(口語);笠を敷いて座り、いつまでも懐旧の涙にくれていた。

芭蕉は、江戸時代に弟子の曽良と、徒歩で出掛けたが、私は、令和時代に妻と、高速道路を利用して車で、毛越寺と中尊寺に出かけた。
世界遺産登録で混雑も予想されたが、平日だったこともあって、思いのほか静かであった。
毛越寺境内に茶店があり、五月の爽やかな風を受けながら、もりそばを食した。腰のあるそばで、香りをほのかに残し、江戸っ子の「そばは飲み物」と言う妻も満足げであった。30代とおぼしき夫婦二人で店を切り盛りしているようで、二人とも口数少なくもの静かで、一層心和むひとときが過ごせた。 ふと、数十年後のこの夫婦の図を、私たち40年間の夫婦姿と重ね思い浮かべながら。心洗われる時間。

毛越寺は9世紀の僧・慈覚大師[円仁]が開山とのこと。寺の栞には境内の見どころとして、先の芭蕉の句[句碑]も含め17か所が記載されている。 内7か所は[跡]で、背丈10㎝ほどの叢に、それぞれの建物の礎石が見える。 何気なく見ているうちに或る感慨に襲われた。
「もし、多くがそのまま(は難しいかとは思うが)或いは再建されて目前にあったらどうだろう?」と。 それはそれで感動が起こるのだろうが、跡を見つめることで想い巡らされる、「講堂」を出入りする僧侶たち、「南大門」を行き来する人々、子どもたち、店や家々を想像することの快に思い及ぶ。 現在の時を離れて、跡でない時代のどこかに、3人称入り込んでいる私。フラッシュバックするかのように巡る人々の姿、貌そしてその人たちの生。

芭蕉は、中尊寺で藤原家の「兵」の「夢の跡」を見、杜甫は安禄山の戦いでの家族との離別に、悠久の自然と時間を対比することで涙した。
しかし、私は勝手に思い巡らせた人々の生を、[哀しみ]と[愛(かな)しみ]をないまぜ眺め、自身に立ち返る、そんな偶然の時を得た。無常観をここで言うつもりはない。
以前にも引用した、吉田兼好の「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。」ではないが、それにも通ずる(と思う)、栄枯盛衰、もの・ことがいついかなる時であれ、すべてに在る美と真への想い。その想いへの眼差しが焙(あぶ)り出すその人の生き方、歴史への見方。と自身を措いて頭を巡る。
芭蕉が、杜甫が涙したそれとは違う感情。すべての人に名があるが“無名”と言われる人々への慈しみからの涙に近い情愛と自省に浸った私。

木材を切り出し、石を掘り出し、運び、建築家の指導を得、僧侶や武家たちとの協働で創られて行く寺院に最も間近に勤しむ市井の人々。それを支えた信仰と人々の信頼関係。その美しい時空を思い浮べる。 実際はどうだったのだろうか。
奈良時代、文化の栄華が咲き誇った。それにどんな人々が、どれほどに、莫大な時間を費やしたのだろうか。
信仰を基底に、天皇への絶対的崇拝と信頼があってこその東大寺大仏殿であり、法隆寺であり……。一方で知らされる、山上 憶良が表わした『貧窮問答歌』での市井の人々の姿。また防人の哀しみ。
身分、階級、階層を越えた途方もない数の人々の一大協働(ハーモニー)としての文化。

ここ数年来、世界文化遺産とか日本文化遺産とかが賑やかに報道される。過程があっての結果、無名があっての有名、と重々承知していてもついつい結果に、有名に眼が向いてしまう私。
「一将功成りて万骨枯る」の遺産であっては文化に値しない。
私は現職時代数校で、それぞれ「将」も「功」もことわざに出るほどの大きさはないが、直接に、間接にこの先人の言葉を身近に接し、学校文化をその面から知らされた。公私立の違いとは全く関係なく。

私が今生活する那須の原では、明治時代の元勲貴族たちの功として、疏水の開拓や洋風の館(やかた)群が、日本文化遺産として登録された由。結果としてのそれらに眼を奪われるだけでなく、この機会に、元勲たちへの敬意と同時に、地を掘り、山から水を引き、大地を潤わせ、豊かな農作を実現した、その現場の人々に想い及ぼしたいと願う。

高校時代、或る先生が授業(先生が誰か曖昧で、何の授業であったか覚えていない失礼なことなのだが)の関連でこんなことを言われた。55年以上前のことながら鮮明に私の中に残っている。ただ残っているだけであるが。
――或る建築家が、随行者たちと鉄道での旅の途次、鉄橋を渡った折、こう言ったそうだ。「この鉄橋は僕[私]がつくったんです」と。随行者たちは感嘆したそうな。しかし、この建築家にはその後、仕事の依頼が来なくなった。――

慈覚大師が、開山、再興した寺院は、関東地方に209寺、東北地方に331余りの寺に及ぶと言う。恐らく大師への帰依、心からの信頼感と大師の人柄が、人々にそうすることを求めさせたのだと思う。(大師は唐での数年間の苦難等、多くの難儀を経た高僧であったが、温厚な人柄であった旨伝えられている。)

一方、中尊寺はどうなのか。 岩手平泉の地に、砂金と北方貿易で栄耀栄華を極めた藤原家。それを象徴する金色堂。 中尊寺は、藤原 清衡が合戦で亡くなった命を平等に供養し、仏国土を建設するために大伽藍を造営した、と中尊寺の栞にある。 また、「判官びいき」との言葉まで生み、日本人から愛され続けている源 義経。その義経を兄・頼朝から守った三代藤原秀衡の死後、子息四代藤原泰衡は守り切れず、藤原家滅亡に向かわせた、その歴史を思えば、藤原家の人々と臣下と市井の人々の絆は篤かったであろうことが推測される。
しかし、復元された金色堂等、或る感銘はもちろんあるが、毛越寺で沁み入ったものが湧き出で来なかった。それは、今日的観光繁栄に圧倒されたからかもしれない。 当時の武家の、時に凄惨とさえ思える生き様に触れ、その世界に生きた武家たちの苦渋、忍耐、克己に思い及ばすことなく、ただ私には到底できないと逃げ込み、市井の幸いを思うだけであった。

今日、日本との限られた枠組みではなく、世界はカネ・モノ文明を邁進している。だからなおのこと、教育への明確な眼差しが求められている。
「個の教育」「一人一人の個を大切に育てる」。このことを否定する人はいない。しかし、果たして今、それはどうであろうか。
例えば、英語教育が言われれば、それまでにあった他の時間を削り、英語教育に向かわせ、小学校で昼食時間を15分か20分で議論すると言うとんでもないことを聞く。何のためにそれをするのか。時代に乗り遅れて経営難に陥らないために……。
あれほど期待された「横断的総合的学習」は疾うに消え去り、学習の大半を塾に頼り(思考力、表現力をみたいとのことで、これまで以上に作文表現、発話表現が求められる入試が果たされつつあるが、どれほどの学校が自前で対応できているのだろうか)、結果がすべてでひたすら時を削って行く。
そうかと思えば、子どもや若者を受け容れる側の学校や会社等の大人たちは彼ら彼女らの想像力の欠如を嘆き、基礎学力についての侃々諤々(かんかんがくがく)は今も続いている。そして世は少子化、高齢化である。

中尊寺で見かけた中学校修学旅行とおぼしき生徒たちの忙しいこと忙しいこと。不登校等で参加しなかった生徒たちもあるかもしれない。イジメを受けている生徒たちもいるかもしれない。出会った生徒たちの中に、そういった生徒に思い巡らせている生徒たちもあるかもしれない。しかし、弾ける笑い声。 中尊寺、金色堂までは、上りの坂道を20分ほど歩くのだが、随所に売店、ご朱印授かり所がある。
私などそのことを知らず、金色堂等目的地に向かい、ご朱印は帰路としていたから良かったものの、正直に初めからしていれば7,8か所になっていただろう。弁慶堂とか、薬師如来とか少し変えてあるだけで、すべては中尊寺である。だから一枚で良いとも言える。一枚300円×1か300円×7か8。えらい違いだ。 先の中学生たちの中に、本堂へ行く随分手前の売店で、早々に何かおみやげらしきものを買っていたが、大丈夫だったかしらん?それとも誰かを想い、いの一番に購入したのだろうか。

毛越寺と中尊寺への小旅行。思いもかけず、毛越寺の「跡」が、私にあらためて想う心地良さと重さを教えたように思える。

2019年5月26日

若い時の純粋から老いの純粋へ

井嶋 悠


19世紀のフランスの、恋多き男装の麗人作家にしてフェミニストのジョルジュ・サンド(1804~1876)が、老いについてこんなことを言っている。

――老年を下り坂と考えるのは全く誤りである。人は歳をとるにつれてだんだん高く、それも驚くほど大またで上へ上って行く。――

彼女の生涯は72年間で、時代が違うとはいえ、私は現在74歳であるから、高齢化日本にあってなおのこと彼女の言葉には考えさせられる。自照自省の大きなきっかけとなる言葉である。

最近、高齢者の自動車事故・事件加害者が増えている。中には、自身の過失を認めない者もいる。一人で歩くことさえままならないにもかかわらず。 彼女が言う真逆の老人たちである。運転に自信気の笑みを浮かべインタビューに応える輩(やから)も含め。

老いは若い時代の延長上にある。当たり前のことである。老いを終焉と考えるから頭の中がもつれる。老いは一つの経過点に過ぎないと考えればいいのである。難しい極みだが。私には仏教信仰はあるが、仏教徒ではない。しかし、人類誕生以来、だれも死の後を知らないはず?だから、経過点と考えることは許されるのではないか。因みに、私は死後、肉体は土となり、霊魂は宇宙を駆け廻ると思いたい派であるが、未だ不十分段階だ。人間、次の指標があると生き甲斐があるというものだ。閑話休題。

若い時は苦悶の連続で、先人に言わせればその苦悶が人生の肥やしになると。時が経ち顧みれば、美的哀調さえ醸し出した他人事のようになるが、当時は悪戦苦闘の日々である。しかし、時[時間]の力、老いと共に自然に、或いは意図的に苦悶は削ぎ取られ、澄明さが増して来る。恬淡にして枯淡の境。と言うのは一つの理想で、多くは残滓が何やかやと心底に蠢(うごめ)き、頭をもたげようとしているではないか。おぬしはいずれかと問われれば、まだまだ後者である。だから私は一休禅師に親愛の情を寄せる。

仏教では「五慾」「十悪」との、人間探索の言葉がある。
五慾での、「食慾」「色慾」「睡眠慾」「財慾」「権力慾」、「十悪」での殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語等々。これらは何も仏教に限ったことではない。
人間をとらえようとする時、最もと言っていいほどに複雑にして厄介なことが、「色欲」-「邪淫」ではないか。それは、人間にあって最善、最上に位置付けられる「愛」と、時に表裏に論ぜられるがゆえに。
「エロス」・「エロティシズム」。
現代日本語としてある「エロ・エロい」から、時を、葛藤を経て、老いに向かう道程(みちのり)で直覚し、自問し始める「エロス」「エロティシズム」への昇華。そこでの新たな葛藤…。
ただ、私が使う「エロス」・「エロティシズム」について、澁澤 龍彦(1928~1987・フランス文学者・評論家・小説家)の書『エロティシズム』から引用、補足しておく。

「セクシュアリティとは生物学的概念であり、エロティシズムとは心理学的概念である」
「(プラトンの言葉を引用する形で)エロスとは神がかりであり、魂の恍惚であり、一種の狂気である」
「ドン・ファンの純粋を求める姿勢を、カザノヴァのような、陽気で野卑な漁色家のそれと混同してはなるまい。現実原則に逆らって、永遠の女性(母親像)を求めつつ、つねに裏切られている男の心理を、精神分析学でドン・ファン・コンプレックスと呼んでいる(以下略)」

白人の白は白ではないと思う。アジア人の白こそ白だと思う。タイに行った時、透き通る白い膚をした若いタイ女性を数多く見て感嘆した。日本人も、中国人も、韓国朝鮮人も然りである。 雪白(せっぱく)を思わせる寒色なのだが温もりで包まれた暖色の白。微塵の汚れも感じさせない人肌の白。純白。

作家の優劣は女性描写で決まる、との言説に昔接した記憶がある。なるほど、だから夏目漱石は一流なのだと思ったから、この記憶は間違いないと思う。 作家を志すなら好きな作家のすべての作品を筆写せよ、と説く人があったが、私には作家への志はなかったから頭でその言葉を聞いていた。今にして思えば、作家云々とではなく、人生として、漱石の女性描写だけでも筆写しておれば、私の人生、もう少し彩りが備わったかなと思ったりもする。
かてて加えて、美術・工藝の世界で、完成された作品以上にその作家たちの素描に魅かれる私がいる。例えば、ルネッサンス時の画家たち、シュールレアリストの画家、彫刻家、陶芸家たちにそれを見る。

神田の古本屋街を特に何かを探し求めると言うのではなく彷徨っていて、1994年3月号の『芸術新潮』、特集「常識よさらば―日本近代美術の10章」なるものに目が留まった。店頭に雑然と並べてある雑誌の一冊である。価格は100円。
その中の一章[彫刻史に仲間外れにされた人形・置物]と、もう一章[貧乏画家の飯の種は何だったのか?]で、釘付けにされた二つの作品(写真)。
一つは、人形作家・平田 郷陽(二代)(1903~1981)の『生人形・粧』と、一つは、洋画家・渡辺 与平(1888~1912)の挿絵「キッス」。 前者から放たれている清楚な妖艶。後者の赤子をあやす女性の無償の愛の姿。

『粧』は、浮世絵に材を得て、江戸時代後期の20代半ばの商家の新妻をイメージして創作された由。 丸髷に、「顔は弥生の桜花の吉野の山に馨れるが如く、眉は中秋の新月の明石の浦に出づるに似たり」(興津 要『日本の女性美』所収「目の美しさ」より江戸期の作家・曲亭 馬琴の言葉を孫引き)で、目は無表情の下向き加減、「口紅は、矢張り、指先で軽く溶いて月の輪形に下唇にさし」(同上書での「くちびる・くち紅」の項での『おつくり上手』(平山芦江著・大正5年刊)より孫引き)、右足の膝からほんのわずか大腿下部がのぞく左立て膝姿とその足指。家事を重ねていることを示すふくよかな、左手は左膝に静かに置かれ、右手は挿したかんざしに添えられている。着物は麻の単衣で幽かに両の乳房が見て取れる。
何という清楚なエロティシズム。美。

後者は、明治時代に正岡 子規によって創刊され、夏目 漱石が『吾輩は猫である』『坊ちゃん』を発表した俳句雑誌『ホトトギス』に掲載された挿し絵。一筆書きがごとき見事な筆致で、赤子を慈しむ母をとらえている。プロの画家としての技がきらめき躍動する線と面、そして対象への愛に、私は思わず魅き寄せられた 。
その二つに共通するものとは何だろうか。
一つは、女性への慈愛の眼差し。
一つは、余計な装飾がどこにもない、必要にして十分なものだけで構成され、決定的美が醸し出されていること。

幾つもの呻吟を経て、己が人間的心から、何をどれほどに削ぎ落としていくことができるか。
若木の樸(あらき)から老木の樸へ。青い樸から玄(くろ)い樸へ。
歳を経ているがゆえに錯綜する幾つもの葛藤。苦悶。 だからこそ、ジョルジュ・サンドの先の言葉、一休禅師が最後に愛した盲目の女性森女に言った辞世の言葉とも言われる「死にとうない」が、響いて来る。

やはり老いは難しい。 高齢化社会をひた進む日本。個人の集合体としての社会が、今までの考え方、発想で通ずるとすることでの大きな不安と危険を思ったりする。言葉だけの同情の氾濫世情。 老いの一人の戯言、杞憂ならいいが。

2019年5月15日

日日是好日・一期一会

井嶋 悠

小学校の運動会で、50メートル(だったと思う)徒競走は、ゴールまで誰よりも速く走ろうと一目散だった。今もこの種目は行われているのだろうか。
一時、足が速い遅いで順位をつけるのはいかがなものかというので、順位をつけない学校も出たそうだが、今はどうなのだろうか。
障害の有無とは関係なく、子ども心理としては順位がある方が楽しいというか、張り合いがあるように思うが、勝って驕り、負けていじけたりするのはいただけないとの上でのこととして。
なにせ小学校でさえ、「学級崩壊」がある時代だから。なんともはやではある。

年を経て、老いの段階に入り、小学校同期会などに参加すると、欠席者の生死とか入院の有無、また出席者でも先ずは健康の話題から入り、今通院していないと言うと感嘆の声すら漏れる。
ところで、歳を取ると、幼い時のゴールに向かう姿勢が180度変わるというのは、人生、遅きを善しとする天が送った暗示なのだろうか。

今の生活ぶりを恥じて、参加したくとも遠慮する人もなくはない。それをおかしなものだと言うのは簡単で、いわゆる“上から目線”、同情の危ういところである。
一切の例外なしに、その多少とは関係なく(そもそも多少とは、何をもって言うのかも含め、人がとやかく言うことではない)お国に身を投じて来たのにもかかわらず、その国は老人を、美辞麗句だけで結局は放置、捨て置いていると言えば言い過ぎだろうか。
或る近しい人は「老人はさっさと死ねということなんだろう」と言っている。

私自身でさえ憤る、老人側の“老い”を錦の御旗がごときにした身勝手な言(ふる)行動(まい)、倫理観・独善観のあることは重々承知して言うが、
例えば、 車が無ければ生活が成り立たない[生きて行けない]地域があちこちに在る現状の一方で高齢者運転事故の多発。これを解決するには、それらの地域の公営バス[コミュニティ・バス]の濃やかな普及しかないが、実状はどうだろうか。私の現居住地でも然りである。
また、老人養護施設入所に際して、或いは老人医療に際して、負担が1割であれ2割であれ負担自体の発想が解せないのだが、どうしてあれほどに経費を当然のように徴収するのだろうか。
備考ながら、韓国の50代の知人ががん手術の後、医療費負担が5%になった旨聞いて愕然としたし、日本の1級障害者に対して医療費還元の有無が市町村によって異なるのも不可思議に思う。

世界に冠たる借金超大国日本の、政府、行政側の反応はほぼ決まっている。「予算がない」。 国家防衛、国家名誉を口実に、自衛隊に(自衛隊に係る憲法論争が喧(かまびす)しいが)膨大な予算が使われ、併行して「思いやり予算」への現アメリカ政府のますますの要求に“ゴルフ”で応え、名誉ある日本を担う、と自尊する政治家とりわけ国情を左右する首相、大臣が外交と称する外遊での巨大な出費とその成果に、無関心に或いは麻痺しつつある私たち。
以前、現首相の外遊経費について、某前国会議員が情報公開を請求し、それに関して以前にこのブログに投稿したが、どうしてマスコミはそのことに触れないのだろうか。それとも、既に追求があったことを私だけが知らないだけなのだろうか。(私は定期的に新聞を読まない上に、週刊誌、月刊誌もほとんど読まないので、私の無知は十分に予想される。)

本末転倒も甚だしい『愛国心』。日本と言う国は、そういう国なのだろうか。

「平和」との語彙で捉えれば、なぜ本末転倒なのかとの疑義が出されると思うが、私が抱く平和とは、先ず国民一人一人の心の平和、安寧であって、〇○国の、××国の脅威による自衛、との視点からの戦争と平和の、その平和ではない。順序が逆なのである。 だからなおさらのこと、アメリカの核の傘の下とか在日米軍の現状に、甚だしい疑問を持つ。
私は、浅薄な性善説や性悪説、また自民族・自国絶対の寂しさに陥らぬように留意しているつもりだが、最近の日本・アメリカや中国・ロシアを見ていると、私の留意をことごとく覆しているように思える。
北朝鮮問題で、私の旧知の韓国人に今もって親族が北にいる人がいるが、その人たちは今の動きを、各国首脳の更には一部ヘイト的言説をどのように受け止めているのだろうか。
このことは、やはり旧知の香港人[中国人と自称せず、香港人と称する人は多い]にも思い及ぶ。

古代中国の思想家、例えば老子とか孔子は『小国寡民』の前提に立って、人間に、社会に叡智を発し、それは今もって、少なくとも私たち日本人の力、栄養となっている。
日本は、国土面積の4割が森林・山岳地帯(要は人の生活地域は国土の6割)で、年々少子化、高齢化は進み、GDP等世界の経済領域で、過去は過去のこととなりつつある。過去の栄光を再び浴することこそ使命と考える人(とりわけ政財界人?)は多い。
しかし、だからこそ経済大国復活を目標とせず、且つ現状を善しとする危険な道に埋もれることなく、未来構想を持つに、今は千載一遇の機会と私には思えてしかたがない。 これは、余りに非国民発想、或いは精気をどこかに置いて来てしまった老人発想なのだろうか。

日日(にちにち)是好日(こうにち)。[この読み方には、ひびこれこうじつ等幾つかあるがここではこの読み方にする]
これは、10世紀唐の時代の雲門禅師の言葉で、出典は、公案集(禅師が弟子に問い掛け、答えを求める事例を集めた書)の『碧(へき)巌(がん)録』。
この言葉の要(かなめ)は「好」にある。
禅思想では、善悪、美醜、高低、長短といった相対の視点を持たない。これは老子も言っているところである。そのもの、ことがすべて、一切なのである。だから「好」を良いとか悪いの意で取るとこの禅師の言葉は矛盾する。
その日その時がすべてなのである。だからこそ、いついかなる、どのようなこと、ものであれ、それらに対して愛しみ、慈しむ心が芽生えると言うのである。

「好」との漢字は、甲骨文では[母]+[子]の会意文字で、それが[女]+[子]の会意文字となった旨、漢和辞典の「解字」で説明され、続けて「母親が子どもを抱くさまから、このましく、うつくしいの意味を表す」とある。 母性は女性専有のものではなく男性にもある。逆も然りである。しかし、出産し、母親となるのは女性だけである。 このことを知れば、子どもを抱く母の、純粋で、絶対的慈愛を思わずにはおれない。その時間が好日である。そこに東西異文化はない。絶対愛。永遠と表裏の無の境。
と、直覚できるのだが、私は今もって心身は、全く別の方向、相対世界にどっぷり浸(つ)かっている。

この感覚を、先述した日本の在りように当てはめてみる。 アメリカがあって、中国があって、ロシアがあって、韓国があっての日本ではない。日本は日本である。もちろん、これはすべての国に当てはまることである。
釈迦が言う「天上天下唯我独尊」の本来の意味。自身が、自国が一番偉いとの相対的考え方ではなく、それぞれの自己、自国を唯一とする禅思想に通ずる考え方。
一人一人の心の平和、安寧がすべてとする世界、地球である。『国際連合』の理念に通ずることだが、それが機能していない。なぜか。
大国意識[指向]×小国意識[指向]、指導×従属での恩義と安心から、それぞれの思惑が働いて、最後の最後に「拒否権」とのエゴが貌をもたげ、結局は大国間競争に堕する。
日本は禅思想が12世紀以降、急激に広がり、浸透し、今も或いは今だからこそ人々の心を捉えているにもかかわらず、悪しき渦中に巻き込まれている。否、自身から渦中に飛び込み指導(リーダー)云々と頻りに言う。
一部の、その中に私もいるが、現代日本人は、敗戦、占領下を経て、70有余年経った今も、日本が自律し、自立[独立]した国と思っていないのではないか、とさえ勘ぐってしまう。
因みに、老子は先のことの記述の後に次のように言っている。

――生じて有せず、為して而(しか)も恃(たの)まず(何かをあてにしない)、功成って而も居らず――

その時、その一瞬がいかに大きな意味を持つか。 私など、顧みれば後悔先に立たずばかりの小人以外何者でもないが、だからこそ先人(古人)の言葉に、同じ人間の“気”を感じ、どこか安堵し、前を向こうとする。

「一期一会」は、茶道の心得を言った言葉が源である。それは以下である。

――茶の湯の交会は、一期一会といひて、たとへば、幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会なり。――

いずれか或いは共々、人生の、そして教育[教えるということ]の「座右の銘」にしている人は多いのでは、と思う。

2019年4月26日

日韓の“溝”を考える―日本語教師・韓国語教師の声が持つ意味―

井嶋 悠

どんな領域にあっても研究と現場があり、そこに身を置く人がいるが、時に両領域に関わりを持つ人も少なからずいる。
例えば、私が身を置いた中等教育私立学校国語科教育でもそうである。研究に軸足を置く人、教育に軸足を置く人。と言う私は態よく言えば後者、と言うか後者しか考えられなかった一人で、だから(と言うことにしておく)前者の教師たちからは蔑まれることも多々あった。しかし、私はその人たちを疑問視していた。端的な例を挙げる。

「教育原理」とか「国語科教育法」といった大学での講義は、教職資格(免許)への必修科目であるが、実際教師になって、そこで講義をしていた人たちがどれだけ実践し得るか、甚だ疑問であることを何度思ったことだろう。いわんや、学校と一口に言っても多種多様である。公立もあり私立もあり、且つ、授業前に生徒が教師におしぼりを用意する学校もあれば、授業をする教師など在って無きがごとき学校もあるのだから。

 

日韓[韓日]の溝を報ずる記事が日常化している。中には、国交断絶を物申す活字もある。それも「有識者」と言われる人たちの手になるものである。日韓双方において。
別に今に始まったことではないのだから、その内“知恵者”が落としどころに収め、次代に委ねようということになるのだろうが、それを受け取る方こそとんだ迷惑な話である。日本で言えば、自身の生活保障、老後等々福祉での不安材料いっぱいでそこまで考えられん!と苛立つ若者が多くてもおかしくない。
ましてや、最近政治離れは加速し、“優しい”青年たちが増え、権力者たちはほくそ笑んでいるのだから怖ろしい話である。

2千数百年にわたる交友、そして軋轢も経て来た一衣帯水の隣国同士なのだから、他にない人間的叡智があって然るべきではないか。否、隣人を愛することは遠地の人を愛することより難しい、ということの具体例なのだろうか。

この問題、当時の中国やロシアの南下侵略政策、また欧米列強と日本の世界情勢を教えられて来たが、しかし私の中で、私の母国が、1910年の日韓併合から36年間、韓国[朝鮮半島]を植民地支配(言い方を換えれば、韓国・朝鮮文化の破壊と自文化の強制)したという事実(とげ)がどうしても離れない。
植民地支配の事実を認めても、善政もあったとの発言は何度も発せられているが、発した・ている人たちはどれほどに自身の事として引き入れているのだろうか。
このことは、私の最初の勤務校がプロテスタントのミッションスクールで、校是の「愛神愛隣」が常に説かれ、その「愛隣」は「愛神」と同じく聖書の一節「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」で、それを自覚させられることが多かったからなおのこと、自省度が強まる。

 

私たち『日韓・アジア教育文化センター』主催での国際会議実施に際して、この近現代史の問題は常にあり、日韓相互でセンターの主点が「日本語教育・国語教育」であることを理由に、避けて通って来たことは否めない。例えば、こんなことがあった。

日本側の或る委員から、「近世通信使」をテーマにできないかとの提案があった。賛意は得られたのだが、韓国・慶州で既にそれをテーマにした横断幕が公道に掲げられていた。
韓国は、少なくとも私たちより先に深謀遠慮を働かせていたのである。

1945年から20年後の1965年、『日韓基本条約[日韓条約]』が、両国によって調印された。
今、日韓で溝が、広がり深まって来ている最大の課題が、この条約へのとらえ方で、日本は「完全かつ最終的にして、不可逆的な両国間の取り決めである」とし、韓国側は、慰安婦問題、徴用工問題等で、具体的に疑義を唱えて、相互に非難合戦を展開していることは周知である。
しかし、その間でも、日本への、韓国への観光客は多く、韓国での日本語学習者数は約55万人で、内60%強が中等教育の生徒である。
因みに、全体数で言えば、中国が約95万人、インドネシアが約75万人で、韓国は第3位である。

政治が恣意的であってはならないのは自明で、歴史の事実が重要であることは言をまたない。この条約も歴史の事実である。では、一体何が、この問題をこじらせているのか。
その条約の概要を、「高橋 進氏・政治学者・2007年」[『知恵蔵』所収]のまとめを転写する。

――1965年6月に、日本と韓国との間で調印された条約。これにより日本は韓国を朝鮮半島の唯一の合法政府と認め、韓国との間に国交を樹立した。韓国併合条約など、戦前の諸条約の無効も確認した。同条約は15年にわたる交渉の末に調印されたが、調印と批准には両国で反対運動が起きた。両国間交渉の問題点は賠償金であったが、交渉の末、総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)の援助資金と引き換えに、韓国側は請求権を放棄した。――

なぜこの人のまとめを、との異論を唱える人もあるかとは思うが、有識者ではない私にとって、例えば、『朝鮮を知る事典』(平凡社・1986年)「日韓条約」の項での梶村 秀樹氏の説明が、より広角的な説明で視野の広がりを思うが、長くなることもあり上記を引用した。

ただ、傍線をした箇所についての内容、影響等確認はどうしても避けられぬところであろうが、ここではこの条約そのものを論ずるのが目的ではなく、条約成立経緯での両語の背景、根底に在ること、要は「ことばと人」に係ることであり、今日社会で多く報ぜられていることには立ち入らない。

人が文化であり、同時にその文化に生きる。それは永代の人々の中で培われる。このことは国際(グローバル)化に伴っての、日本人の国際結婚とその子どもの誕生等から、日本に新たな試練を与えている。なぜなら彼ら彼女らは二つの文化保持者で、いずれどちらかの国籍を選択するのだから。

その文化は、自国内においても多種多様で、当然人々も多種多様である。そして、人は不図した折に、日頃無意識下に在る自文化について思い入ろうとすることがある。自照自省。
他(異)国・地域の文化・人と接していればなおさらである。入ってみれば自己確認の一つ。
私たち『日韓・アジア教育文化センター』の歴史からすれば、日韓異文化を肌で思うことが多々ある。例えば、Japanese smile と Korean smile の違い。

ここでは、日本の「水明」の文化と韓国の「怨(オン)・恨(ハン)」の文化を確認することで、日韓条約と“溝”に思い及ぼし、私の内を整理してみたい。

私はここ数年来、神社仏閣を訪ねることを愉しみにしている。先月末、上京の機会があり、品川・荏原地域の七福神を4時間余りかけて巡った。現居住地を歩くのと違って視覚変化の人為性がそうさせるのか、4時間余りの歩行はそう苦痛ではなく踏破できた。
(これを日頃都会に生活している人に言うと、自然豊かな中での散策こそではないか、といぶかしがられる。まだまだ人間成熟に達し得ていないのかとも思ったりするが、はてさてどうなのか。)
この参詣は今流行(はやり)の「ご朱印」集めが目的ではない。目的があるようでなく、しかし参ると何か心落ち着き、静態時間わずかながら、自身の事より近親者の貌を浮かべた祈願の心が湧いてくる。これまでにはなかったことである。
行けば先ず手水舎(ちょうずや)で手・口を浄める。(もっとも、人影と併せてそれすらない場所もあるが)その瞬時、身も心も一切が浄められたように思える。己が穢れを、世俗に浸かる己が悪を、一瞬浄める感慨。

この水は、今では水道水が多いのだろうが、本来は石清水、湧水を引いたものであろう。またそうでなければ、霊験さが下がる。そこに直感する自然との一体感。瞬時の永遠の刻(とき)への想い。

かのイザナギの命は、黄泉の国に最愛のイザナミの命を探し求め、女神との約束に逆らい、穢れを見、追われ、地上に出、中洲で禊(みそ)ぎを行い、左目を洗い(そそぎ)生まれたのが天照大命であり、右目から月読の命、鼻から素戔嗚(すさのお)の命であったことは、日本の神話『古事記』に詳しい。
「水に流す」ことで、穢れを、悪を浄めたのである。

しかし、いつの頃からか「水に流す」は、利己的にしか使われなくなった。
天然水が人工水になったからなのか(もっとも、今では飲用は天然水がほとんどとなりつつあるが)。それともあまりにも水に恵まれた日々にあるがために何かに麻痺したからなのだろうか。近代化、或いはあれかこれかではなくあれもこれもの多忙な、気忙しい日々刻々は、自己確認、自省の余裕を持てなくしたからなのだろうか。……。

そんな時、おそらく小学校教諭の言葉ではないかと推察される、「水に流す」に関して、次のような文章に出会った。最近の子どもたちの様子を三つに整理し指摘している。
(1)ずいぶん前にあったトラブルや、集団の中の「力関係」をずっとひきずっている子が多い。
(2)「あの子はああいう子で、自分はこういう子」と決めつけてしまっている子が多い。
(3)なかなか仲間とわかり合おうとしないし、「課題」とも正面から向き合おうとしない。

この筆者は、ではどうすれば良いか、教師自身の課題として三項目[対話・討論の保障、批判的学び・共同学習の指導、教師自身の親や同僚への発信による自己更新の必要]を挙げている。ここでは詳細は措くが、この文中の「子」を「国」(或いは国民)に代えるとどうであろうか。

 

日韓条約締結への過程で、またその後の手紙等での謝罪で、禊ぎの心が相手[韓国]の人々に伝わっていたのだろうか。事実を認め、それを言葉にし、金銭解決ですべては終わるとの合理[実務]が、時に双方で、優先されたのではないか。しかも政治的言語として。
日本は言霊を伝統とする国であり、「以心伝心」「不立文字」の禅思想が、浸透した国である。その上で、相手にどれほどに心を尽くし、言葉[条約事項]を伝え合おうとしたか、私は不安を思わざるを得ない。
かてて加えて、「関東大震災」(1923年)での朝鮮人虐殺が象徴する、日本人の朝鮮人蔑視が、無意識下に潜んでいたのではとの推察は、あまりにも無茶な暴言として一蹴されるのだろうか。

それらが重なり合うことで、気づかぬままにボタンの掛け違い[異文化衝突]があったのではないか。

 

韓国は、被支配側であった。その韓国は「怨(オン)・恨(ハン)」の文化と言われる。私たちはその文化をどれほどに承知しているだろうか。先にも記した「完全かつ最終的にして、不可逆的な両国間の取り決めである」との日本側の言葉に、私だけなのかもしれないが、自信が持てない。
それは、「怨」と「恨」の微妙にして複雑な感性を見るからなのだが、それは言い訳に過ぎないのだろうか。それでもそこに【人とことば】の至難さを思わざるを得ない。
今、漢和辞典[『漢語新辞典』大修館]で両語の字義を確認してみる。

「怨」:①うらむ ②そしる ③わかれる

「恨」:うらむ(不平に思う。怒りにくむ。悲しむ。くやむ。)

この字義が韓国の基本文化である、と言われ韓国人は得心するだろうか。そうだとすれば余りにも一面的に他国・地域文化を捉え過ぎているのではないか。至難さはここにある。文字化された字義と人の心。
先も引用に使用した『朝鮮を知る事典』では、次のように説明されている。

――朝鮮語で、発散できず、内にこもってしこりをなす情緒の状態をさす語。怨恨、痛恨、悔恨などの意味も含まれるが、日常的な言葉としては悲哀とも重なる。挫折した感受性、社会的抑圧により閉ざされ沈殿した情緒がつづくかぎり、恨は持続する。(以下、略)――

上記、1行目から2行目にかけての一文にある「含まれるが」の「が」、「悲哀とも」の「とも」に、得心への至難さが滲み出ている。
高校時代の恩師の導きで、中高校国語科教師に33年間身を置く中で得た、「かなしみ」の三重性「悲しみ」「哀しみ」「愛しみ」の日本語性に通ずることとして。

韓国人が、長い歴史の中で、常に抑圧、支配されて来たことについては、親しい韓国人日本語教師から静かに指摘されたことがある。彼ら彼女らの抵抗意識の源泉でもあるのだろう。韓国でのキリスト教徒の多さをここに求める論調もある。
『韓国文化のルーツ―韓国人の精神世界を語る―』〔国際文化財団(韓国)編 1987年 サイマル出版〕は、韓国の大学で国文学、社会学、歴史学等を専門とする韓国人研究者が、9つの項目で、鼎談(ていだん)形式で語り合っている書である。
その中の第4章「怨」と「恨」には「文化創造のエネルギー」との副題がついていて、3人の国文学者が語り合っている。抵抗意識と同時に、創造のエネルギーを言うのである。
別の親しい韓国人日本語教師から「怨・恨を説明するのは難しい」と聞いたことがあるが、先の専門家の鼎談を読めば韓国人は自ずと得心するのであろう。
しかし、日本人の私には、自身の言葉として消化するにはまだまだ未熟で、概念的理解に留まる危惧を持つ。(もちろんこれは翻訳の問題ではなく、私個人の問題として言っている。)

その上で、鼎談者の発言から考えさせられた幾つかを引用し、それらを通して私自身の中の棘(とげ)が少しでも抜けて行くことを願っている。
以前、大韓民国民団の某民団長から「あなたはいい韓国人に恵まれた」と言われた、その韓国人日本語教師の方々にあらためての深い感謝をもって。

先ず二つの語の特性を次のように言う。[下記《  》部分が引用部分、尚、書は、“です・ます調”であるが、引用に際し“である調”に換えてある。]、

《「恨」は内面化された感情であり、「怨」は外向性の感情である。》
そして、《その「恨」の理解のために、「結ぶ」と「解く」両面から考えなくてはならない。》
尚、この「結ぶ」と「解く」については、《春が解くであり、冬が結ぶ》と具体例を挙げている。
そして、その両極の形として、
《結ぶが感情と情緒の両面においてとりわけ悪化したものが怨恨で、逆に感情と情緒を解いたものが「神明(シンミョン)」または「神風(シンパラム)」である。》この伝統的考え方に立って、現代文学の主流は、
《恨の結ぶと解くは「喪失」と「回復」に置き換えることができ、植民地化での母親喪失意識や祖国喪失意識、南北分断を素材とする作品に現われた故郷喪失意識などである。》
この《絶望的状況に陥った原因が相手にあると信じて恨みを抱く》のだが、
《同時に自分にも責任があるのだと、自己省察に戻る。これは相手を愛するがゆえの感情である。相手を恨みながら、同時に自分を恨むと言う愛と憎悪の感情。恨の感情が複合的なのは、絶望と未練、恨みと愛、この二対の感情が互いに矛盾しながら混在している。》

 

“溝”を埋める方法は、様々な切り口が考えられるが、私の場合、『日韓・アジア教育文化センター』に到る事実とそれ以降の事実から、言葉(日本語)から考えてみた。
その時、研究者の声と併行して、日々、韓国の中等教育・高等教育で生徒学生の声と、また大人として社会と向かい合っている中・高・大韓国人日本語教師の、(とりわけ「知日派」の―この用語は他の用語、親日・克日・嫌日・反日と同様、慎重な使い方が必要であるが、ここでは知日とする)声の重みに思い到る。

このことは、同時に、日本で日本人として韓国語教育と向かい合っている知韓派教師たちにも同じ事が言えるのではないか、と中等教育での第二外国語履修方法、内容、制度また教師資格等日本とは大きく違う上に、日本での中・高・大韓国語教育現状の一端しか知らない私だが、思うのである。