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2018年12月5日

「冬来たりなば春遠からじ」 (二)

冬・陰陽・萩原朔太郎、北原白秋、三好達治

井嶋 悠

詩人は孤独である。より正確に言えば孤独を愛する。その意味では意志の人である。
萩原 朔太郎(1886~1942)は、エッセイ『冬の情緒』の中でこんなことを言っている。

「詩人たちは、昔に於いても今に於いても、西洋でも東洋でも、常に同じ一つの主題を有する。同じ一つの「冬」の詩しか作って居ない。(中略)詩的情緒の本質に属するものは、普遍の人間性に遺伝されてる、一貫不易のリリックである。即ちあの蕭(しょう)条(じょう)たる自然の中で、たよりなき生の孤独にふるへながら、赤々と燃える焚火の前に、幼児の追懐をまどろみながら、母の懐中(ふところ)を恋するところの情緒である。」

詩集『月に吠える』(1917年)から二つ引用する。

『地面の底の病気の顔』
地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。

地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、 巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。
地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。

『竹』
ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。

以前、解説で朔太郎は日本近代詩の父である旨読み、上記2作品からも私なりに大いに得心した思い出がある。ところで、やはり「父」であって、「母」ではおさまりつかないのだろうか。
晴天の冬の空はどこまでも突き抜け、大気は冷冽に地を覆う。研ぎ澄まされた詩人の幽かな神経は、天へ向かう青竹に、地に広がる根に向かう。幾つかの行末(ぎょうまつ)の語法が生の動きを導き、鑑賞者に春へのつながりを予感させる。

6年後に刊行された詩集『青猫』の序で、朔太郎は言う。

――詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。生活の沼地に鳴く青鷺(さぎ)の声であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である・――

冬は厳粛で、孤独で、秋の感傷の哀しみはない。しかし、それは絶望の哀しみでもない。

朔太郎が愛した、
与謝蕪村は「葱買(かう)て 枯木の中を 帰りけり」と詠み、
西行法師は「寂しさに 堪へたる人の またもあれな いほり(庵)ならべん 冬の山里」と詠い、
芭蕉は「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」と詠んだ。
北原白秋(1885~1942)は、詩集『月に吠える』の序に次のような文章を寄せている。

「月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になって私のところの白い小犬もいよいよ吠える。昼のうちは空に一羽の雀が啼いても吠える。夜はなほさらきらきらと霜が下りる。霜の下りる声まで嗅ぎ知って吠える。天を仰ぎ、真実に地面(ぢべた)に生きてゐるものは悲しい。」
私は大人に、とりわけ結婚以降に、なってから犬を家族の一員に迎え続けている。私は、犬の愛らしく、切なく、時にキッとした眼を愛する。犬の孤独は猫の孤独と違うように思える。犬のそれはどこまでも人と共有できる哀しみの眼を思うが、猫のそれは泰然自若としている。猫好きに女性が多いことの理由と勝手に思っている……。
白秋には、やはり有名な『落葉松』という詩がある。その一部を引用する。


からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
(二・三略)

からまつの林の道は
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
(五・六略)

からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。

冬の碧空の下、春への生を中に秘め凛と立つ落葉松。「さびさびと」その下を歩み過ぎて行く詩人、人々。
冬のもたらす寂しさの情景を言うが、白秋の心には道は春につながっている。行き止まりの冬ではない。一直線の冬の道である。陰の明から陽の明へ。この詩からも母性が離れない。

三好達治の『雪』というわずか2行の詩。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

眠らせるのは雪なのだろうか、母なのだろうかそれとも祖母?どうしても父も、祖父も浮かばない。
雪自体、母の或いは女性のイメージがあるのではないか。すべてを静寂に包みこむ雪。時にその過剰さのあまり人を死にさえ及ぼす雪。そして雪解けの哀しみ。
ふりつむ雪は鉛色の空から落ちて来る。空はその地を、否、地球全体を包み込んでいる。

随分昔のこと、授業(中学3年生?)でこの詩をしたときのことが今もって強く残っている。
読み味わい、授業を終えて教室を出る際に耳にした或る生徒(女子)が友人に言った言葉。

「え―っ!太郎と次郎は人だったんだ。てっきり犬だと思ってた!」

今もその時の感銘が新鮮に甦る。その生徒にとって、眠らせたのは自身なのだろう。

季節は、時に多くは人為の災いでいささかの前後もするが、確実に折々に私たちを包み込む。だから私たち人々に智慧を授け続け、一年を繰り返す。ひたすら。冬来たりなば春遠からじ。春来たりなば夏遠からじ。夏来たりなば秋遠からじ。秋来たりなば冬遠からじ…………。
私はほとんど意識することなく70数度繰り返して来た。
今、「心の欲する所に従いて矩(のり)をこえず」をはや過ぎて想う。

季節のもたらす自然に、森羅万象の自然に、心身一切を委ねる自然を、と、どこまでも想いであり続けるだけの俗人の私を重々承知しながらも。もちろん俗人の反対語「雅人」にもほど遠い私である。

2018年11月29日

「冬来たりなば春遠からじ」 (一)

冬・陰陽・高村光太郎

井嶋 悠

浮き世と憂き世、一喜一憂の人生をどうにかこうにか過ごして来て73年が経った。
ふと思う。この期に及んで私のこれからの「春」は何だろう?と。あるようでなく、ないようである…。
「冬」を死とすれば、もう春は来ない。そんなことはない。落葉の樹々は生命(いのち)を内に秘め、じっと春を待つ。冬は冬で確たる存在でなくてはならない。でないと私も途方に暮れる。

ただ冬は、待つことに、忍ぶことに想い到る季節には違いない。それは老いの最中に在るからよりそう思うのかもしれない。
先日、3年前に定年を迎えられた敬愛する研究者から「命ある限りはできるだけ悔いのない生活を送りたいと思っていますが、定年後の生活もなかなか大変ですね。」との便りをいただいた。
それぞれに現職の時にはなかった待つこと、忍ぶことを体感しているからなのだろう
高齢化、長寿化との言葉の重さ。

と言った人生訓的なことではなく、私はここ数年、季節としての冬そのものの苦手度が高くなっている。北関東の地に移住したことも影響しているかもしれない。と言っても、毎冬報道される豪雪地帯の人々の、時に死と隣り合わせの刻々を知れば何とも勝手にして不謹慎なことで、娘の生前に「人間にも冬眠の体系(システム)があればいいのになあ」と言い、苦笑をかっていた小人(しょうじん)である。
霊魂満ちる浄土は、のどかな春の陽光に溢れ、草花樹々を潤す甘(かん)雨(う)が包み込む、そんな風土を思い浮かべるが、冬はあるのかしらん?
因みに、娘は生前「オトンは(私への彼女の呼び方)直ぐに結果を求めすぎる。」と指摘していた。

南北に長い日本ゆえ一概に四季の感慨は言えないが、それでも季節の移ろいへの感受性が豊かな民族だと思う。中でも春と秋への思い入れは、萬葉人(びと)以来の日本人の心性だが、冬はどうも自然美感とは遠いのではなかろうか。
例えば、奈良時代の山上憶良は『貧窮問答歌』で、現代文明とはほど遠い衣食住生活にあって、憶良の赴任先北九州で、寒さに耐え忍ぶ貧しい三世代家庭の様子と、里(さと)長(おさ)が鞭をもって彼らをがなり立てる、そんな世の不条理を切々と描き出しているし、あの清少納言は「春はあけぼの・夏は夜・秋は夕暮れ」と各季節の自然観照を言いながら冬となると「冬はつとめて(早朝)」で、宮中の早朝の女房たちの様子、人為を描き出す。
確かに、雪への、また落葉樹や稲を刈った後の田畑等への、自然観照はあるが、あくまでも「介しての」それであって、他の季節のようにその中に入り在ってのそれではないように、わずかな鑑賞経験からに過ぎないが、思われる。
しかし、玲瓏(れいろう)とか冷冽(れいれつ)、また深閑といった言葉を知る時、詩人には全く遠い人間である私でさえ、冬の与える深い想像力を思う。

そもそも詩には母性性が根源にあるように思う。それもあってか、神に最も近い芸術は形のない音楽といわれ、その音楽に最も近いのが詩と言われる由縁なのだろう。それは私の中で「母性原理」とつながる。しかし、母性原理だけで世界が構成されているわけでないことは自明のことで、母性原理と父性原理の微妙な響き合いに私たちは生を育んでいる。

中国に端を発する陰陽思想は、日本人の中に深く沁み入っている。陰陽は表裏一体で、それがあってこその自己と他者であり、自然であっての「陰陽互根」との考え方が言われるのだろう。
では、古人は陰陽それぞれ、具体的にどう考えたのだろう。一例を挙げてみる。

【陰】 冬・闇・暗・夜・柔・水・植物・女
【陽】 夏・光・明・昼・剛・火・動物・男

そして、日本神話での太陽神天照大神とその弟で、素戔嗚(すさのおの)尊(みこと)の兄である、月読(つくよみ)の命。
東南アジアや南太平洋にもこれと同様の兄弟姉妹関係の神話がある旨聞いたことがあるが、神話がその地の人々の心の反映とすれば、日本人性或いは原像に想い馳せる楽しみがある。太陽と月が醸し出す、日本像、日本人像。ただ、月読の命はあまり登場の機会がないようだが。

春と秋が、陰陽の間(はざま)の微妙な移ろいにあることが改めて知らされ、日本人の繊細な感性に思い到る。
また女と男。今日の「男女共同参画社会」なる言葉が、図らずも日本のあまりの後進性を明示しているではないか。

そこから想い及ぼす詩の存在位置と先程挙げた[玲瓏・冷冽また深閑]の想像性と陰陽。

それらのことを近代日本の4人の詩人に垣間見たい。私の冬の心得、春の到来祈願のためにも。
このとき、私が引き出す蔵の抽斗(ひきだし)は、中学高校の国語教科書である。私の33年間の職業だったのだから。ただ重厚さとは無縁の、また研究者然とは無縁の、懶惰(らんだ)にして酒好き教師の、空(あき)だらけの蔵である。

小中高大或いは中高大一貫教育を標榜する学校(多くは私学かと思う)には、教科書など一切使わない授業を実践する人もあるが、「教科書教科書教える」ことでの、生徒各個の、自身による自己発見の可能性の広がりを、今、自省的に思うことがある。

本筋に戻る。

今回採り上げる最初の詩人は、「冬の詩人」とさえ言われる高村 光太郎(1883~1956)。
最初の詩集『道程』が刊行された1914年10月、彼32歳、その2か月後に運命の人長沼 智恵子と結婚。
その『道程』で、凛とし厳とした詩人の姿を瑞々しい感性溢れる10代の若者に伝えたいからだろうか、必ずと言っていいほどに教科書に採り上げられる『冬が来た』

きっぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いちょう)の木も箒(ほうき)になった

きりきりともみ込むような冬が来た
人にいやがられる冬 草木に背かれ、
虫類に逃げられる冬が来た

冬よ 僕に来い、
僕に来い 僕は冬の力、
冬は僕の餌食だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のような冬が来た
上記の詩の少し前のところに『冬が来る』がある。抄出する。

冬が来る
寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る  (中略)
私達の愛を愛といつてしまふのは止さう
も少し修道的で、も少し自由だ

冬が来る、冬が来る
魂をとどろかして、あの強い、鋭い、力の権化の冬が来る

 

偉大な彫刻家・高村 光雲の子として生まれ、10代半ばから様々な書物に親しみ、父が奉職する現東京芸術大学に進み、彫刻と文学の道を歩み始めた光太郎。25歳で渡英し、後にフランスで大いに学ぶも、どうにもならない落差を感じ、劣等感を負い、27歳で帰国の途へ。そして美術と文学の世界を邁進する。以後、堰切ったように詩作に没頭するも、身辺での幾つかの負担事もあり、精神不安定な時を過ごす中での智恵子との出会い。当時、智恵子は、平塚 らいてふ等の機関誌『青鞜』で挿絵を描いていた。

更に『道程』から『冬の送別』の一部を引く。

冬こそは歳月の大骨格。
感情のへ手。
冬こそは内に動く力の酵母、
存在のいしずえ。

冬こそは黙せる巨人、
苦悩に崇高の美を与へる彫刻家。

(中略)

冬の美こそ骨格の美。
冬の智慧こそ聖者の智慧。
冬の愛こそ魂の愛。

おう冬よ、
このやはらぎに満ちた
おん身の退陣の荘厳さよ。
おん身がかつて
あんなに美美しく雪で飾った桜の木の枝越しに、
あの神神しいうすみどりの天門を、
私は今飽きること無く見送るのである。

 

藝術と智恵子と己が生への激情が向き合う冬。玲瓏で。冷冽な世界に厳然と向き合う光太郎。
その12年後の1923年の関東大震災が自身の心を苦しめ、1931年に発症した智恵子の精神の異常が1938年の死に到ることを、また太平洋戦争下で「日本文学報国会詩部会長」に就任し、戦後そのことを苛(さいな)み、自責することになる、そんな光太郎を誰が想像し得ただろうか。
1950年、彼68歳時に刊行した詩集『典型』所収の『脱卻(だつきゃく)の歌』(卻は現在「却」)で次のように詩っている。

廓(かく)然(ぜん)無聖(むしょう)と達磨はいった。
(中略)
よはひ耳順を越えてから
おれはやうやく風に御せる。
六十五年の生涯に
絶えずかぶさつてゐたあのものから
たうとうおれは脱卻した。
どんな思念に食ひ入る時でも
無意識中に潜在してゐた
あの聖なるものリビドが落ちた。 [注:リビド リビドー 生と心のエネルギー]
はじめて一人は一人となり、
天を仰げば天はひろく、
地のあるところ唯ユマニテのカオスが深い。 [注:ユマニテ(仏語)ヒューマニティ]
(中略)
白髪の生えた赤んぼが
岩手の奥の山の小屋で、
甚だ幼稚な単純な
しかも洗ひざらひな身上で、
胸のふくらむ不思議な思に
脱卻の歌を書いてゐる。

尚、この詩集『典型』の序で、彼は次のように書く。

「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、一つの愚劣の典型を見るに至って魂の戦慄をおぼえずにゐられなかった。」

更には、死の一年前にこんなことを言っている。

「老人になって死でやっと解放され、これで楽になっていくという感じがする。まったく人間の生涯というものは苦しみの連続だ」

〔古代から現代までの、日本の様々な人々の辞世の言葉を集めた書『辞世のことば』1992年刊]より引用。

私は、高村光太郎と生まれ育った環境も人生も全く異にする人種で、「子を持って知る親の恩」を、しみじみ噛みしめる不埒者に過ぎないが、彼の心の変遷に共感を抱く。
青年時代の激情への観念的共感、晩年の諦念にも似たようなものへの実感的共感。
彼が心底に抱いていたと思われる太母(グレート)観(マザー)、大地への母性感。

彼は、『典型』にも書かれてあるように、戦後、岩手の小村に移り住んだ。しかし、日々、孤独に過ごすのではなく、土地の人々と積極的に交流を深め、村人への啓蒙的なこと等、様々な活動をしたとのこと。やはり彼は意志の人だったのだろう。私にはそれがない。

次回では、萩原 朔太郎・北原 白秋・三好 達治のほんの一部だが採り上げ、更に冬に思い巡らせたい。

2017年4月23日

桜・花・華 ―私の好きな三首の和歌と三つの“今”― 

井嶋 悠

私が住んでいる栃木県北部は今、春爛漫。春風駘蕩。春心。春眠…。心地良い日本・日本語。古来、春秋論争があるが、枯淡の境地未だ遠く、加えて冬を苦とする勝手もあってか、私は春に浮き立つ。それは、昨年訪ねた八甲田山の紅葉のあまりの壮大さにただただ圧倒され言葉を失う私の裏返しかもしれない。
水浅葱色にも似た水色の空、春陽の下、いささかの冷気を残す春風に揺らぐ菜の花、桜花(さくらはな)(「さくら」、とひらかなで記すのが最もふさわしいかと思うが)。百花繚乱の始まり。
鶯のさえずり。雉の雄叫び。啄木鳥の幹を打つ音。烏のガラ声…。
その只中に暮らす、分不相応な幸いは重々自覚しているので来世が不安な年金暮らしの一人。

ところがあろうことか、その今、当地市会議員選挙の真っ最中。地方選挙であれ、国政選挙であれ、聞き、見る度に、いや増す空虚。老いは涙頻度に表われるが、あまりの苛立ち、虚しさに、春爛漫と被(かぶ)さって涙が込み上げる、人生初めての体験。
桜がこれまでと違って見える。山桜やそめいよしの、世の芥を掬い上げ掃き清めるかのような、桃の花色にも近い桜色の枝垂れ桜の、芥を遮り覆い隠すかのような、その枝ぶり。あたかも母親が我が児を抱(いだ)き、護る、下からの、上からのしぐさのように。

日本をこよなく慈しむ70代の二人の女性、一人は極貧家庭に生まれ懸命に生き今独り暮らしをする近隣の人・一人は旧知の生まれも育ちも東京下町、の厳しくも怖い言葉「日本は終わった」「東京は一度崩壊すれば良い」。

出陣!?式での支援者(ほとんどが中高年男性)の日の丸と必勝を染め抜いた例の鉢巻揃い姿。恐るべき画一。その人たちが、社会を主導する政治を司る恐怖の不安。選挙カーから繰り返し噴き出され轟く騒音。
「お騒がせ致します」「ご挨拶に参りました」……の慇懃無礼。
「市民(国民)の生活を守ります」「身を賭して働きます」……の当然を声高に言う厚顔無恥。言葉の弄び。
その選挙経費、当選者議員報酬等々すべては私たちの税金。かてて加えて、外遊病重篤の首相を筆頭に、権力と欧米を偏愛する政治家たち。その欧米の良識人が揶揄する八方美人(と言えば聞こえはいい、か)、『和』への、深謀遠慮など微塵もなく、二言目には“おもてなし”の幇間(ほうかん)(その職にある・あった人の哀しみを切り捨てた何とも失礼な用法だが)外交。おひざ元日本国内の弱者、貧者に我慢を強い、結果「自己責任」の一見もっともな言葉で切り捨てる羊頭狗肉そのままの言葉遊び。

「君子危うきに近寄らず」とはこういう意味だったのか。老人の政治離れは必然の流れ、勢い。続く謙虚な若者たち。先の二人の女性の言葉に共感合意する同世代の、幾つかの主義への軽重はあるが支持政党なしの私。もっとも、それぞれがそれぞれの正義の言葉で、対立者を邪悪化し、可視・不可視の暴力を使って息の根を止める(殲滅!)。それが政治的権力者うごめく古今東西政治世界共通のおぞましさ、人の性(さが)、と思えば、学校社会での体験も思い返され、日光三猿[見ざる・言わざる・聞かざる]は自然な?良識、と思ったりもするが、権力者たちからすれば私のような似非良識人は“想定内”の思うつぼ?

と言う私は、戦争、貧困、差別、病いで、虐げられ、死と向かい合っている世界の子どもたちに、寄金・寄付を、それも時折、するだけで何もしていない。1985年の音楽・ドキュメンタリー映画『We are the World 』(制作:アメリカ)や2005年の世界の著名な8人の監督によるオムニバス映画(制作:イタリア・フランス)『それでも生きる子どもたち』に、スタッフも含め賛同参加している人々を羨むだけの私でしかない。

因みに、20年程前の在職中、アメリカに出張した際、アラブ系のタクシー運転手が「あんなの、あいつらの金もうけだろう」との切り捨てが心に刻まれているが、実際はどうなのか知らないし、そもそも何事も公にすれば必ず批判非難はあって、それに立ち向かう、或いはいずれかに与し徹する器量がないのも私ではある。
ただ、アメリカの一つの象徴である[ハリウッド映画]の、ベトナム戦争であれ、湾岸戦争であれ、黒人・インディアン差別であれ、アメリカの負の部分を痛烈な真摯さで映画化し、世界に配信し、興業収益を上げる(スタッフ・キャストの高収入)ことが求められ、それがあって次につながる、その「ストレスフル」に競い、克つ、スタッフ・キャストの強靭な意志力と切磋琢磨、そこに“アメリカン・ドリーム”をみる。(その裏返しとして、酒・クスリ等中毒が多いことも周知だろう)。

学校教育の相違の根底・背景に思いが及ぶ。風土・環境・歴史を外した日米教育比較は虚しいように思える。

古来桜の名歌は、教科書にあったり百人一首にあったり、私たち多くに馴染み深いものが多いが、その中で私の好きな3首を採り上げ、先人の批評を参考に、今の私の寸感を記す。もちろん、読書人や識者にとっては今更、との内容の無知・無恥、露わなものではあるが。

【ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ】 紀 友則(845~901)

うらうらとした春の日、甘美な心持ち「春風駘蕩」に在って、どうしてそんなに慌ただしく散るのだろう、との嘆きの光景と思い描いていた。
今、「ひさかた」は西方浄土を連想させ、そこからの「光」であり、歌人は、朗詠の初めでその久遠を置き、「散る」(死)を、それも「しず《静》心なく」との形容を以って結ぶ。その間を結ぶ、自然と生、命、そのそれぞれの人生を「花」に譬えて。「阿吽(あうん)」の左右の像のように。と私の中で強く合点する。

【山本 健吉(1907~1988)日本文学評論家・研究者】の言葉。(『ことばの歳時記』(1980)「花」より私の要約を含めた抄出)】

――花(桜)時、柳田国男のお伴をして高尾山に行った折、柳田国男の桜を見、農村の人々[常民]
の生活の哀歓に思いを寄せた感嘆(古代の人々が山の端の桜に、その年の収穫を思い及ぼし、散
ることの切実、との信仰的態度を基にした感嘆)に触れ、次のように記す。

「…万葉の時代にはまだ、桜の花が日本の花の代表として、審美的に愛着されるような条件は、
十分そろっていなかった。当時はまだ、梅と桜が王座を争っていたと言ってよい。だが結局、
梅は主として知識階級の鑑賞の対象にすぎなかった。桜が愛着の対象となる根は、広くかつ深
かった。(中略)
そして、上記の歌と『世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は、のどけからまし』(在
原 業平)を引用し次のように記す。
「…大分感傷的態度が出てきている。だがこれらの歌にも、やはり桜の散ることに対する実生
活上の不安の気持ちが、どこかに余韻を引いているようだ。」――

 

【願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月のころ】 西行法師(1118~1190)

古典入門の授業、作品と生徒たちの季節感、生活感を合せるための旧暦と新暦の説明はその一つで、一年を平均し(大雑把に)旧暦→新暦は、プラス1,5か月と話したりする。

そしてこの歌。如月は旧暦2月だから、新暦では3月中旬、だから望月(15夜)も活きて来る。し
かし、そこでは、桜は、その性質上或る程度の冬の寒さが必要とは言え、3月中旬に桜は開花して
いない事実が抜け落ち、且つ「花=桜=日本古来の伝統」との思い込みの落とし穴が潜んでいる。
素直、純朴な生徒は、どこか不自然を直覚するのだが、先に進むことで頭の中で桜は満開となって
しまう。
教師によっては、時に「散華」と日本人論、にまで行ってしまうが、私の場合、そこに踏み入れる
勇気と自信はかった。

西行は、武家の出自で、23歳で出家し、京都・鞍馬で隠棲生活に入るが、諸国を旅し、最期を大阪・河内で迎えている。この歌は死の10数年前に作られたとのことだが、その頃は伊勢か奈良に在った。
当時、暖をとるのも限られている中、ましてや隠棲生活での冬の厳しさはひとしおであったろう。その日々から、春の実感の喜びは何にもまして掛け替えのないことではなかったか。それは、北関東の地に生活し、ストーブ等で身を温めているにもかかわらず、ひたすら日々刻々春を願う、加齢とともに冬の苦手が顕著になって来ている私は、武家の出にして出家者からすればお笑い草の失礼ながら、自身を重ねて想像する。
桜だけではない。立春、啓蟄前後から見え始める一輪の野の花に思う春到来の喜び。日一日それは増して行く。その上昇線上の頂に桜がある。妻は幼少時、結核で死の寸前で見たのは一面のお花畑であったとのこと。

【同じく山本 健吉の同書から】

――この歌の引用の前に、芭蕉の『薦(こも)を着て 誰人います 花の春』を挙げ、「花の春」
は新年を示す季語で、「花」は桜ではないが、桜の華やかなイメージとともに、三春(旧暦
正月・2月・3月)にわたっての季節感を持つ二重規定の季語との説明をし、以下のように記
す。
「この歌は、事実としては矛盾する。旧暦二月十五日は、花時には早すぎるのである。だ
が、二月十五日が春のもなか(最中)であるという意味で、春の花すべてにわたっての賞翫
であるこの季語に妥当するのである。――

尚、氏はこの後、桜に関して、四つの言葉と時期を次のように記している。

・初花  三月  ・花  四月上、中旬  ・残花  四月中、下旬  ・余花  五月

 

【しき嶋の やまと心を 人問はば 朝日ににほふ 山ざくら花】 本居 宣長(1730~1801)

日本文化の特質(日本人の感性の特性)として、清楚、明澄、自然への謙虚、忠実、といった説明に得心する私としては、この歌をそのような感覚から思い描いていたが、軽率なことに「やまと心」を「やまと魂」といつしか置き換えている私があった。おそらく、[国学]系の何かに接しそうなったのだろう。

小林 秀雄(1902~1988:文芸評論家)は、随想『さくら』[現代の随想 第5巻 小林秀雄集所収]で、次のように記していることを知った。

――……散り際が、さくらのやうに、いさぎよい、雄々しい日本精神、といふやうな考へは、宣長
の思想には全く見られない。後世、この歌が、例へば「敷島の大和心を人問はば、元の使を斬
りし時宗」などといふ歌と同類に扱はれるに至った事は、宣長にしてみれば、迷惑な話だろ
う。(中略)
〈そして、桜好きだった宣長について触れた後、次のように記している。〉
「『やまと心を 人問はば』の意は、ただ「私は」といふ事で、「桜はい々花だ、実にい々花
だと私は思ふ」といふ素直な歌になる。宣長に言はせれば、「やまとだましひ」を持った歌人
とは、例へば「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思わざりしを」と
いふやうな正直な歌が詠めた人を言ふ。
〈そして、宣長は、綿密周到な遺言書を残し、そこに、諡(おくりな)を秋津彦美豆桜根大人(あ
きつひこみづさくらねのうし)とし、墓の石碑の後ろに山さくらの木が描かれてゐる、と記
す。〉――

 

桜花の期間は短い。私の中では、満開前後に必ずと言っていいほどに、嵐にも近い風・雨が半日或いは一日ある。そこにも天意、自然の意思を想う。今年も一昨日、嵐が到来し、山ざくら、そめいよしのは大半落花した。

先に触れた「散華」。この言葉を慈しむ人は多い。娘もその一人であった…。しかし、私はこの言葉、漢字そのものから美しい心象(イメージ)を持つが、《戦死》に結びつけることには抵抗がある。あまりに哀し過ぎ、寂し過ぎる。己が命を故郷・祖国に奉ずることと人の性(さが)・業とさえ思う戦争の接点を、今もって私の中で見い出せていないから尚更のこと。

花は地に埋まり、樹々は葉桜となって初夏に向かう。あの黒々とした幹は来る年の花に備えて新たな養分を蓄え続ける。老人たちは、来年も見られるだろうか、と或る人は本心から楽しげに、或る人は悲しげに言い合う。
私は小心な俗人、まだまだ前者の境地に達していないが、それでも心模様の変容が、「ひさかたの光」「春死なむ」「朝日ににほふ山ざくら花」に私を惹き入れるのだろう。

 

2016年6月23日

春来・夏来・秋来・冬来そして再春来……朝来・昼来・夜来そして再朝来…… ―来月は七月・文月、七夕―

井嶋 悠

春夏秋冬四季、梅雨季・台風季を加えて六季の方がより日本らしいと言う人もあるようだが、ここでは四季とする。
私たち日本人は、また日本に長く生活する外国人は、四季を自然から肌で実感する。例えば風。
春、私たちを歓声と哀しみに誘う桜吹雪の風。夏、大輪のひまわりの間を吹き抜ける夏(なつ)疾風(はやて)。秋、野分、薄(すすき)の穂が奏でる銀波。冬、木枯らし、「冬蜂の 死にどころなく 歩きけり」(村上 鬼城)の突き刺す風。
その四季に私たちは自身の人生と重ね合わす。
今、老若問わず、どれほどに己が心に四季を映し入れ、留め、「哀しみ」と「愛(かな)しみ(慈しみ)」の時を持ち得ているだろう? 持ち得ていないならばなぜだろう?と、夜半のひとときに自問自答する心の余裕(ひだ)を確保できているだろうか、と老いの証しかのように思ったりする。

私は、「浮生(ふせい)(浮き世)は夢の如し」と承知しながらも「酔生夢死」の(但し、道徳説諭の意味ではなく、文字通りの意味)我が人生、「つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを」(在原 業平)が、そこはかとなく実感迫り響く年齢となり、古稀越えのかくしゃく老人を横目に、「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」(孔子)などと分かったことを口ごもり、おそれおののくことの方がはるかに多い。
現在の拠点・居室で、私の生母は89歳で、娘は23歳で、憂き世から旅立ち、2年ほど前のことだったろうか、深夜に、寝床の傍(そば)の壁面を直径10cmほどの、青紫がかった半透明のゼリー状のものが二つ連なって這う姿を目撃し、やはり霊は在るとの念を強くし、そのことを賢妻に言い失笑を買っている。
二つの霊を私への激励ととらえる余裕などなく、二人に失礼ながらついつい百鬼夜行を浮かべ、或る時は併行して私の人生を捻じ曲げた人々(教師)への憤りが、はたまた自責、後悔がふつふつと甦ったりする。ねちねちとした妄念に憑(と)りつかれた、絵に描いたような小人ぶり……。
波瀾万丈の人生を送った或る日本人女性作家(1904~1998)は、「深夜の妄念の中で私はあたりに対していいかげん辛辣であり、女ぽっく意地悪である。」と言っている。“鬼婆”はあるが“鬼爺”をほとんど聞かないことと関係あるのだろうか。その私は母性に限りなく信を置く男である。

私の朝昼晩春夏秋冬の今の生活地は、10年前から、首都圏のリタイア組が憧れる一地、栃木県那須高原の裾野の8畳の和室で、それは豊潤な自然に囲まれた清閑な地にあっで、犬と花壇と畑に生の力を与えられ、二歳違いの老賢妻と日々を過ごしている。才覚並びに刻苦勉励無縁の私ゆえ、この「過ぎたるは及ばざるがごとし」の贅沢の極みに罪悪感はあって、謙虚さを心に銘じてのことはもちろんである。

この機会に私の百鬼夜行を確認したく、市の図書館におもむき『絵巻物に描かれた「闇」に蠢(うごめ)く妖怪たち 百鬼夜行と魑魅魍魎』(洋泉社編集)を借り出し、私のは「牛(うし)鬼(おに)」や「おとろし」系であるかな、と或る私的好悪体験から得心している。母と娘の苦笑が浮かぶ。

私にとって今も「人間のはかなきことは、老少不定さかひなければ、たれの人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏まうすべきものなり。」(室町時代の浄土真宗の高僧・蓮如の言葉)は、遥か彼方のことではあるが、詣り、唱える世界に純一に溶解できる自分を夢見る。信仰とか信心といった宗教に係る言葉を持ち出すのではなく。
娘の「独りであることでの哀しみには向き合えるが、絶対の孤独が怖い」との晩年の言葉が過ぎる。
何とか一時(いっとき)でも、「闇」に彷徨(さまよ)うことのない安らかな眠りを願い、晴れた夜空を、もちろんこの地はあのこぼれんばかりの夜空で、眺め、「星月夜」との美しい言葉[雅語]を持つ日本の古代人(こだいびと)に思いを馳せる。

後1週間ほどで七月。旧暦の呼称、文月。そして七月七日。七夕。秋の季語。新暦では夏の盛り。
文月と言う由来には幾つかの説があるそうだが、文(恋文)のやり取りなどあろうはずもないとは言え、織女と牽牛の、哀しく、切々とした聖い恋に心が向く。愁いの恋。やはり秋。
この駄文を綴っている昨日、夏至だった。この日以降、陽光時間はわずかずつしかし確実に、短くなりながら冬至(半年後の12月)に向かう。身体の感覚に季節が、人為(理知)と一切関係なく溶け込んでいる私にふと気づかされる。歳時記が日本人の聖典とも言われることに、近年「24節季」や「72候」についての書に衆目が集まっていることに、現代人の心の反映を我が事として、古人の智慧・知情意の大いさに得心している。何という遅まき!

老いの生き方として敬愛する奈良時代の歌人・山上憶良は『萬葉集』巻八に12首の、織女に身を置いた歌を遺している。内、どきっとさせる微笑みの1首、星空の華(ロマン)に想いを馳せる2首を引用する。

「天の川 相向き立ちて 我が恋ひし 君来ますなり 紐解き設(ま)けな」

「袖振らば 見も交(かは)しつべく 近けども 渡るすべなし 秋にしあらねば」

「彦星の 妻迎え舟 漕ぎ出(づ)らし 天の川原に 霧の立てるは」

三首目の「霧の立てる」の意とはつながらないが、中国・四川大学に留学経験を持つ俳人・原 朝子氏(1962年生)の著書『大陸から来た季節の言葉』の「七夕」の項から、二人の切々たる思いを表わした中国古詩の一節に「泣涕(きゅうてい)(涙)零(お)ちて雨の如し」との表現があることを知る。雨の七夕、涙雨。

中国伝来の七夕伝説に心向かわせた古代日本人だが、星そのものには神話世界で2、3神登場するぐらいであまり関心が向かなかったとのことである。それについて或る研究者は、日本人にとって夜は鎮魂の時であった旨言っているが、農耕民にとって昼の重労働からの安息⇒鎮魂と言う見方もあるのでは、と勝手に想っている。
そのことと関連して、高温多湿の風土で鮮やかな星に巡り会うことが少なかったとの説明にも触れたが、現在の栃木県北部での居住経験から言うとこれは関西風土からの発想かもしれない。以前、「紅葉・黄葉と東・西」の表現に係る指摘に興味を持った私の、これまた勝手な想像である。
その日本人(と、朝鮮半島からの渡来人が多かった時代であるが一応こう言っておく)が、七夕伝説に心魅かれたところに、合理より非合理、科学より文芸の日本的ロマン性を思ったりもするが……。

閑話休題。

もう一つ、古人(いにしえびと)から。次の時代(平安朝)の清少納言『枕草子』(236段)

「星は昂星(すばる)。彦星(ひこぼし)。夕づつ(宵の明星)。よばひ星(流れ星)、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。」

「山は」「河は」等、また「すさまじきもの」「うつくしきもの」等と同じく、感傷を排したロマン性(と言えるのかどうか分からないが)はすごいと思う。彦星を採り上げてはいるが、物語(ロマン)的視点はない。

また、七夕が機縁となってはいるが、七夕伝説を離れた名歌もある。
『百人一首』に採録された、大伴 家持(山上 憶良の大宰府時代の僚友・大伴 旅人の子で、奈良時代晩期の歌人)の歌。

「鵲(かささぎ)の 渡せる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞ更けにける」

或る研究者によれば、ここで言う、「鵲(かささぎ)の 渡せる橋」とは、七夕伝説(織女と牽牛の間に横たう天の河に、翼を広げ出会いの橋渡しをしたと言われる鳥・かささぎ)から転じて、宮中の庭から屋内にのぼる階段(階:きざはし)を表わしていて、七夕伝説を心に留めながらも、貴族人の別の想像の広がりと説明され、それがあっての「おく霜」であるとのこと。
このかささぎ、20年ほど前、ソウルの或る方のお宅(豪邸)に伺い、群生している姿を見たのが初めてで、日本にはいないと思い込んでいたこともあって(後に、佐賀県の県鳥であることを知った)、魅入った私が今も鮮明に残っている。

【補遺】家持の父、山上 憶良の僚友の大伴 旅人のこと。
私は、休肝日など意に全くと留まらない酒好きで、それでの失態を凝りもせず数限りなく50有余  年続け、ごまめの歯ぎしり風で言う高額納税者で、愛酒家の聖地の一つ、東京・新橋の生まれ育ち  のカミさんに言わせれば、単なる酒好きで酒豪でもなんでもない、噴飯ものの脆弱な酒好きである  が、大伴 旅人の有名な「酒を讃える歌十三首」(『萬葉集』)に触れた時には、思わず笑みこぼ  れ、親愛と憧憬の心を寄せた。肖像画がこれまたいい。

例えば、次のような歌。(  )は現代語訳(訳者不明)。

「験(しるし)なき 物を思はずは 一杯(ひとつき)の濁れる酒を 飲むべくあるらし」(くだらない 物思いをするくらいなら 一杯の 濁った酒を 飲むべきであろう)

「世間(よのなか)の 遊びの道の かなへるは 酔ひ泣きするに あるべかるらし」(世の中の 遊びの道に 当てはまるのは 酔い泣きをする ことであるらしい)

「生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世にある間(ま)は 楽しくをあらな」 (生きている者は いずれ死ぬと決まっているから この世にある間は 酒飲んで楽しくやろう)

生老病死。
最近、一か月でも一年でもなく、一日の時間の速さに圧倒され狼狽(うろた)える私がいや増している。平安時代末期から鎌倉時代にかけて大きな足跡を残した西行法師が、1118年の何月に生まれたのかは分からないが、1190年2月16日(新暦で3月31日)春、かの「願はくは 花のもとにて 春死なん そのきさらきの 望月のころ」の歌そのままに72年間の生涯を終えた。
春夏秋冬。朝昼夜(晩)。生まれ、生き、命輝き、愁い、鎮魂し、新たな生に引き継がれ……。

長寿化は「寿」にもかかわらず、家族の有無とは関係なく不安とおののきを抱いている人は多い。私もその一人である。その心身介護を担う人々への社会としての保障、支援の何と付け焼き刃的なことか。文明、先進とは?と重ねて反芻する。政治家のあまりのていたらく。寂しい国。他にどのような表現が?

私は独り在ること、死を泰然と迎えられるよう、「旅に病(やん)で 夢は枯野を かけ廻る」(芭蕉)の気魄が少しでも持てるように、と小人は小人なりに努めてはいるものの、はてさて。賢妻曰く「男は不甲斐ない。女、それは母性の強さよっ」と。

沖縄の音楽グループ「りんけんバンド」に、曲調も歌詞も天の広がりを直覚させる、叙情性豊かな名曲『黄金(くがに)三星(みちぶし)』がある。[「三星」とは冬の星座オリオン座だが、七夕伝説に通ずるギリシャ神話での哀しみの恋がある。]
初めて聴いたとき、こみ上げる叙情の激しさに胸突き上げる私があった。そういう人は多い。詞としてそこで沖縄の歴史、太平洋戦争、戦後の叙事は何も語られていない。しかし、その歴史に自ずと迫る。

最近、誤解と指弾を怖れず言えば、「子どものため」には、一切の疑問、反論を許さないかのような空気を感ずることがあるが、では、沖縄戦の時の子どもたちの悲惨と現代日本、とりわけ本土(やまとんちゅう)の私たちは、そのことをどこでどう紡いでいるのだろうか、と言葉を紡ぐだけの私は自問する。
日本語を代々(よよ)母語とする者にとって「宗教」との言葉は複雑微妙な心象を与えることは否定できない。少なくとも私はその一人である。
その点、唯一絶対神を仰ぐキリスト教・イスラム教(二教を同列に並べることの是非は今は措く)の国・地域の人々には、疑問を抱いている人もあろうが、心身一体自然な心象があるように思える。

私のお気に入りの映画の一つにアメリカ映画『ノエル』(2004年・チャズ・パルミンテリ監督)がある。文化度の高い人からは、感傷的(センチメンタル)と一蹴するかもしれないが、神への信仰を持ちつつも老いに人間として向き合っている姿が描かれている。教条的なそれではなく、人の心の優しさと切なさの行間の余情綾(ド)織り(ラマ)として。私はこの映画にアメリカの良心、奥行きの深さを思い知らされている。(現在のアメリカ大統領選挙で思う別の奥行きとも、私の中ではつながっている。)
因みにこの映画は、才能豊かなスタッフとキャストの一体があってこそ名画(形容語はその人の価値観を表わす意味では、私の名画)となる、との当たり前のことを静かに強く知らしめる作品でもある。

いつの日か、これまでに仕事場で出会ったアメリカ人を思い浮かべ、私のアメリカについて少しでも内の整理ができたら、と思ったりする。「アメリカ病」と「日本病」を併せながら。

2016年5月27日

水、その天恵と現代日本私感 ~自然と日本人の感性と教育~

井嶋 悠

「ブログ」への投稿には、繰り返しになるが、二つの理由がある。
一つは、娘への鎮魂であり、遺志の共有であり、他者との共感への期待である。
一つは、遺志とも重なる、私の独り在ることへの糧とすること、そしてこの私を今日まで生かせてくださった、妻をはじめ多くの方々への贖(あがな)いでもある。

前回、五月にちなんで〔皐月の鯉の吹き流し〕と日本(人)について、私の中の小さな整理を試みた。
今回、「水無月」(旧暦6月)にちなんで、水と日本(人)について、新たに小さな整理を試みる。
二つの投稿理由とつながることを、小さなが私にとって大きくなることを願いつつ。

「日本人は水と安全はただだと思っている。」これは、イザヤ・ペンダサン(筆名)(山本 七平氏)が、1970年に刊行し大きな話題となった『日本人とユダヤ人』の中の一節である。
私の場合、海外旅行や出張の体験から「なるほど」と思ったが、ここでは「水」の方にだけに関してで、今では毎日当たり前のように飲んでいるミネラルウオーター(有料)との出会いもそうである。
私が初めて行った外国は35年ほど前、外国旅行を生きる力にしていた父親の、ネパール旅行の付き添いで、そこでの体験は鮮烈な爽やかさと日本を考えるに満ちていて、今の私の心の底にその体験から得た智恵は確実に息づいている。ただ、今回の趣旨とは外れるのでここでは立ち入らない。

私は、海外・帰国子女教育や外国人子女教育に、国語科教師であったがゆえになおのこと、私の日本語・日本文化への無知蒙昧さ、そしてそれを端緒とした日本理解の浅薄さを自覚させられた一人である。
その海外・帰国子女教育や外国人子女教育との出会いは、最初の勤務校私立神戸女学院で、最後は日本で最初のインターナショナルスクールとの協働校・私立千里国際学園で、その関係から海外に出張する機会があり、とりわけ後者での校務「入学センター[アドミッション・オフィス]」上、非常に多かった。
(この出張、特に後者の場合、内容と経費そして成果に、当然厳しいものが求められ、それまでの実施やその都度の批判等に応えるべく、事前事後に学内全教職員に内容を学内メールで配信するよう努めたが、ここでも教師(間)の意識のズレの問題を具体的に思い知らされた。)

日本の水道は、安全性また味覚性からも世界的に優れていると言われている。それがあって、大都市圏では「水道水の安全性」について約70%の人が安心と感じていて、「水道水」以外の水(ミネラルウオーター等)を飲んでいる人は25%前後、また「水道水」をおいしいと感じている人は約55%とのこと。
阪神間に住んでいた時は、日々の生活でのミネラルウオーター使用頻度はそんなに高くはなかったが、ここ栃木県北部に移住し、水道水が以前より舌に心地良いにもかかわらず、当初あったミネラルウオーターへの「何という贅沢」との気持ちも麻痺し、水道水を飲まなくなっている。 味覚は感覚の中で保守性が強いとは言われているが、調理は以前と変わらずほとんど水道水なのだから、子ども時代の水道水=不味いがこびり付いて離れていないのかもしれない。それとも加齢も加わっての自然への回帰が強くなっているのかもしれない……。

水道水は、主に河川の水や地下水を厳しい基準に基づいて殺菌消毒して各家庭等に配水される。日本の自然水(天然水)は、ほとんどがカルシウム・マグネシウム含有の少ない軟水で、当然国産のミネラルウオーターは軟水で、農業国の多くはそうとの由。因みに、欧米は含有量の多い硬水とのこと。
軟水の特性として、日本料理向き、石鹸の泡立ちが良いとかで、インターネットで「水道水」を検索するとそこで見た情報の一つには、両者の特性から人間特性まで言及していてなかなかおもしろい。

日本の国土は、森林山岳 : 66.4%  農用地 : 13.2%  宅地: 4.7%  道路: 3.3%  水面・河川・水路 : 3.5% その他 : 8.9%で、日本がいかに豊潤な水の国であり、その水が私たちの文化、心を育み、沁み入っているかにやはり思い及ぶ。

「水は与え、水は奪う」。水田が瑞穂の国を創る一方で、水害は多くの命を呑み込む。
5年前の東北大震災、今も続いている熊本・大分地震、また毎年必ずある自然災害からも明らかなように、日本は、その位置,地形,地質,気象などの自然的条件から,台風,豪雨,豪雪,洪水,土砂災害,地震,津波,火山噴火などによる災害多発国で、生命、生活を繁く「奪う」。だから春夏秋冬と人生、命を重ね、自然からの賜物に心研ぎ澄ますことが自然体でできるのだろう。
にもかかわらず、私たちは、国を主導する人々は、自然災害への深謀遠慮があまりに無さ過ぎるように思えるし、ここでも対症療法でのその場しのぎ的対応で政治家等は善政と大見得を切っている。
例えば自然災害からの事前整備、また事後救済支援の「国土防衛費」の最優先による、国の方向性への本質的見直しが、どれほど行われているのだろうか。 平和理念と実践の己が正義のイタチごっこが今も続く現在、軍事防衛費不要との観念論は持ち合わせていないが、この私見は非現実的観念論の域を出ないのだろうか。 ただ、昨今、政治家だけでなく、日本経済のためにとか、人々の安心生活のためにといった抽象的大義名分の下、様々な領域での自己特別・独善意識からのカネにまつわる醜態が、多過ぎやしないか。
主点の「与える」(天恵)に話を戻す。

山紫水明。その美しい響き、心休まる想像への誘い。
この美称は、まず京都への表現として生まれ、後に広く流布するに到ったのは、江戸時代の儒教思想家で幕末の尊王攘夷者たちに影響を与えた頼山陽が、自身の居宅(京都・丸太町)の書斎を「山紫水明処」と名づけたことによるとのこと。
京都・四条大橋の下を流れる鴨川(賀茂川)のほとりにたたずめば、北山・東山・西山(もっとも今日西山は望めないが)の京都三山に囲まれた京都の風情を感じ、これほどに近代化としての都市化が進んでいても山紫水明はそこにある。
現職時代の教室、清少納言が書き留めた「春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて」を授業するとき、彼女の目線に沿って拙い説明をしたことを、また鴨長明の人生観「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」を、ほろ苦い懐かしさで想い起こす。
それは私の心底に川、水に、澄明な美しさと人生を直覚する日本人の感性があってのことと思う。

生徒たちにほとんど教科書『を』教える域ながら(だったからこそ?)私自身が学んだ、例えば以下の歌は、私に名歌と思わしめるに十分だった。

『萬葉集』「東歌」の一つ

(この歌には、母音子音や「さ」行音の組み合わせによる音感の美しさがより醸し出す、多摩川で布をさらしている若い女性の澄明な輝きに心奪われ、それを「愛(かなし)」と見ている男性(やはり男性だと思う)に強く共感する私がいる。)

多摩川に さらすたづくり さらさらに 何ぞこの児(こ)の ここだ愛(かな)しき

『百人一首』の一つ  在原業平の歌

千早ぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは (在平 業平)

ただ、この場合、つい古今亭志ん生の貌が浮かぶ私もいるが……。

これまた或る因縁なのだろうか、今住む地の近くに日本で一番長い伏流水の川と言われている、蛇尾川(さびがわ)と言う川がある。伏流の後、下流地のあちこちで湧水として貌を出すことを聞くとき、心をときめかしながら想像を広げる私がいる。
私が想う川は、せいぜいで鴨川ほどの大きさ(川幅)で、例えば上海で観た揚子江下流のような巨大な川ではない。その中国で言えば、日本人が心の糧を得て来た一つ、山水画に多く描かれている川、或いは川に到る前の渓谷の流れである。

これも古典教科書常連の、中国4世紀の田園詩人・陶淵明(陶潜)の『桃花源記』(桃源郷を詠う詩)で、その地に行くに、主人公は渓谷の川(谷川)に沿って進んで行き、水源の地に到る。
人びとは上流山岳地に滝を想い、見、滝のある所を聖地として崇め、そこは命の源(母)であり、同時に常世(永遠の生)の国「蓬莱」は東海の東に在るとの信心となり、死(仏教信仰では「渡海」は死を意味する)の絶対平安の世界に下って行く姿にまで思いを馳せる。その水は、天と地(海・河川・湖沼)を循環し、私たちはその恵みと怒りに与(あず)かる。
人間の体の約60%は水で構成され、この世に現われる前、未だ神の元のままに生命(いのち)に終止符を打たざるを得なかった幼子を私たちは水子と呼ぶ。

そんな想像の回遊の先に、現代への啓蒙者であり警鐘者である、紀元前6世紀前後の中国、孔子(『論語』)への批判者でもあった思想家老子の貌、姿を視る。
老子が「最上の善」を説くにあたって「水」を比喩として使う箇所を引用する。

【書き下し文】 上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し水は善(よ)く万物を利して而(しか)も争わず衆人(しゅうじん)の悪(にく)む所に処(お)る。故(ゆえ)に道に幾(ちか)し。居(きょ)には地が善く、心には淵(えん)が善く、与(まじわり)には仁が善く、言には信が善く、正(政)には治が善く、事には能が善く、動には時が善し。それ唯(た)だ争わず、故に尤(とが)め無し。

【現代語訳】 最上の善とはたとえば水の様なものである水は万物に恵みを与えながら万物と争わず、自然と低い場所に集まる。その有り様は「道」に近いものだ。住居は地面の上が善く、心は奥深いのが善く、人付き合いは情け深いのが善く、言葉には信義があるのが善く、政治は治まるのが善く、事業は能率が高いのが善く、行動は時節に適っているのが善い。水の様に争わないでおれば、間違いなど起こらないものだ。

老子の天意、自然への謙虚な同一化を想い、現代文明社会人への啓蒙にして警鐘に同意共感する。併せて、古(いにしえ)の中国人の「外では孔孟、家に帰れば老荘」に同じ人間としての膚(はだ)の温もりにほっとする。 老子は、母であり、母性の人である、とやはり思う。

「聖水」の日本的、東洋的?心象の広がり。 にもかかわらず在るおぞましい現実。その一つを身近なことから挙げる。
私の家から車で南に40分ほどに、塩谷(しおや)町と言う地がある。環境庁(現環境省)が1985年に選出した『日本名水100選』の一つ、尚仁沢湧水(しょうじんざわゆうすい)の地で、日光国立公園の一角でもある。(因みに栃木県では名水地はもう一か所ある) そこの国有地を、福島第一原発災害の放射性廃棄物の最終処分場候補地にしたい、と国が言明し、町が拒否し1年半が経つ。国は執行官を使って強制調査に入ろうと試みたり、現地の理解を得るべく真摯に話をして行きたいと言う。いずれ強制執行の可能性もある。沖縄同様に。
私は塩谷町の一事に、この国の意識、姿勢に、政治(家)の傲慢、独善の象徴を、そして 言葉の嘲弄を見る。そこにある意識こそ官僚的そのものではないか。文明の繁栄とは、この理不尽を絵に描いたようなデタラメをも呑み込まなくてはもたらされないということなのだろうか。これも現代の信条、合理と効率なのだろうか。 西洋の言語観には、人々の精神的支柱のキリスト教『聖書』にある「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」(新約聖書『ヨハネによる福音書』の冒頭)があると言われているが、日本では「言霊信仰」である。両者は表現の違いだけであって、言葉の力の背にあること、根底に在ることは同じではないかと思う。どちらも言葉に唾(つば)するなと言うことにおいて。
言葉は、人間が自身の利己的正義に使う道具のために創り出したものではない。

韓国では「八方美人」は多才としての褒め言葉だそうだが、日本では軽薄の誹りは免れ得ない、と私は思っている。もっとも時代の高速的変容からこの私の考え方は旧時代的かもしれない。『転がる石に苔むさず』の日・英解釈と米解釈の違いと現代の変容のように。前者は人間観で後者は人生観ゆえ、同列でみるのは無理があると思うが。
日本は自他公認の経済大国であるが、瑞穂の国がゆえのそれではなく、明治時代の殖産興業・富国強兵施策による工業振興があってのそれである。そこに《農魂工才》があるかどうかは分からないが。日清、日露両戦争勝利が、一部良識ある人々の不安と危惧を排斥し、“大日本”推進施策は加速され、太平洋戦争敗戦にもかかわらず、謹厳実直、勤勉な国民性に、1960年代から70年代の朝鮮戦争、ベトナム戦争特需が追い風となって高度経済成長を遂げた。しかし、それは水俣病をはじめとする人と自然の命の人為としての収奪、公害で犠牲になった人々、今も苦しんでいる人々の上にあることを、ついつい忘れてしまう私がそこにいるのだが、しっかりと心に銘じておく責任を思う。
その現在の産業別割合は、第1次産業 5,1%、第2次産業 25,9%、第3次産業 67,9%である。

日本人の国民性?としてしばしば採り上げられる「水に流す」は、時に痛烈な批判対象となる。 日本の侵略、植民地支配の正統性を昂然と主張する然るべき立場の人々がいるが、公害問題でも同様の主張があるのだろうか。福島原発爆発による自然と人間への災害は明らかな公害だが、政府財界協働しての原発稼働推進が行われているのはなぜなのか。文明の進歩のためには犠牲はやむを得ないとの恐るべき論理が正義ということなのだろう。水を汚す権利は誰にもないはずにもかかわらず。

一方で、国民一人当たり800万円の超借金大国でもある。専門家は「借金だが借金ではない。」と専門家や教師にまま見られる上から目線で、総額約1049兆円の借金を慰める。
学校世界で「(あの生徒は)優秀だが優秀ではない」と言えば、学力観視点からその意味は承知できるのだが、この「借金」論法については、他にもまして勉強不足ゆえここで留める。
もっとも、政治学者から政治家に転身した、今話題の人物[知事]の「表現と理解」力があれだから、凡夫の私などは「触らぬ神に祟り無し」「生兵法は大怪我の基」こそ生きる知恵とすべきなのだろう。
尚、上記「表現と理解」は、文科省が提示している『学習指導要領』の国語科教育目標の要諦で、その本文は「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力及び言語感覚を養い,国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる。」である。

現代日本は長寿化、少子化で、国際化と言われ始めて随分経ち、今ではその「化」が取れ、ごく自然に国際と言われているように、いずれ長寿・少子と言われることが自然になるだろう。そのことを危機ととらえている(のかどうか)政治家たちは、カネ・モノそのままに対症療法を重ねている。そして同朋の約半数がその政府施策を支持するのが現実だが、私は今こそ日本再建の絶好の機会ではないかと頑なに思っている。 私の公私体験的言葉として言える一つであり、冒頭に書いた投稿理由でもある、学校教育(私の場合は(私学)中高校教育)について、これまでに具体的提案も含め何度も投稿して来たので簡約して記し、今回の「水」を入口としての駄文を終える。

学校は人間で構成される。教職員、生徒、保護者。私は元教員で、劣等生がひょんなことでなった“偶々教師”からか、そこに娘のことが重なって、尊敬・敬愛する先生方(小中高大)があるにもかかわらず、自照自省、教師(学校ではない)印象はすこぶる悪い。娘の心に寄り添えば憎しみにも近い。その私を、或る人は偏屈と言い、或る人は屈折と言い、痛罵する。 但し、私と違って寛容さを持ち得ていた彼女は、天上から哀しげに見てくいると、生前の彼女の私への言葉から思っているが。
戦後、日本は民主主義になった。しかし、民主主義の難しさは、例えば教室での多数決は、確かに討議を経てのことではあるが、それは限られた時間内でのことで、はたして実質、内容においてこれが民主主義なのかどうか、生徒そして教師は思い巡らせることも多い。
では、その学校社会そのものは民主主義社会か、と聞かれ、私は胸張って「そうだ」とは言い切れない。対生徒に、対保護者に、対職員に、そして対教師に、事が先に進まないとの現実があるとは言え、民主主義の持つ「専制性」は否めないのではないか。

学校社会の、教師世界の、閉鎖的で権威的との批評は、戦前の目に見える姿ではない中で確実に聖域観が生きていているからなおのこと、一層深刻とも思えなくもない。
学歴社会が大方理屈だけのことで(このことは学歴批判するマスコミの報道姿勢を見れば明らかである)、しかも、長寿化にもかかわらず「18歳人生決定観」は脈々と生き、その学歴獲得に塾産業(「進学塾」と「補習塾」が考えられるが、ここで私がとらえているのは前者である)が必要不可欠で、そこに知育・徳育・体育三位一体教育論が声高に覆いかぶさり、文武両道とは違う八方美人的「ひなたの人生」論が主流となれば、閉鎖的権威的学校社会は当然の帰結かと思う。
教育費は途方もない比率となり、一方で「子どもの貧困」が年毎に増え続けている現代日本。民主主義の「民主」の「民」とは、どういう人々を言うのだろう。富者の、強者のそれであり、それに疑義を呈するのは、競争社会の敗者ということなのだろうか。 教育議論で学校・生徒学生を言うとき、その具体像がそれぞれ違うにもかかわらず議論が一見収斂するかのように。

日本が「山紫水明の国」であったのは過去のことで、「文明の発展と幸福」のためには「水に流」したと言うことなのだろうか。近代化の範として来た欧米諸国が疾うに自省し、日本の伝統に学ぼうとしているにもかかわらず。このことは政府等の「外国人観光客誘致」施策の視点とも関わる。
『G7首脳会議』が日本で開催され、それに先立ち先日教育相会議が開かれ、日本の文科相は「教育は未来への先行投資。あらゆる子どもが社会から排除されない機会をつくることが重要だ」と述べたとのこと。
他国の教育相がこれをどう聞いたのか、日本はどういう先行投資を考えているのか、その前提としての日本の未来像はどう描かれているのか、あらゆる子どもが排除されない機会を日本はどのように設けるのか。一つ一つ、具体的に聞きたいことばかりだが、【形容語】はその人の価値観の表出につながることを怖れてか、いつものように抽象的美辞麗句でしか返って来ないだろう。

旧知の人物も含め「企業人養成が教育の主たる目的」と断ずる人は少なくない。そう考えた時の教師像ひどくさびしい。少なくとも私には。
学校教育にあっては、各個が自由に、広汎に自身を探索し、人生設計を試み、挑戦する場であり、教師はその補助者であり、助言者であると言う意味での指導者で、だからこそ教え育む「教育者」である。
しかし、中学校教師は小学校教師を、高校教師は中学校教師を、大学教師は高校教師を、「何を教育しているのか」と批判し、時に絶望の響きさえ発し、進学塾教育を無意識下に前提として(或いは絶対必要との信念に立って)入試問題を作成し、その上に入学者の学力不足に(だから一層?)絶望の響きさえ漂わせ嘆く。
管見では、それはとりわけ高校教師、大学教師に多い。 一長一短。大学の大衆化の短所なのは明らかだが、では、大衆化の長所として政府は、何を期待し認可したのだろうと素朴な疑問がある。これも「対症療法」なのだろうか。

大学教師は小中高教師と違って学歴不問である。のはずである。しかし現実はこれも周知のことである。
くどくど言うまい。私の体験、知見から二つの事実を挙げる。これらは、決して稀有な事例ではない。

○2003年初刊の、日本古典文学啓蒙書の執筆者・首都圏の私学教授(1947年生)の序のことば。  「日本古典文学への関心低下を危機的壊滅的、と嘆きこの書の意図を述べる中、次のように断ずる。

―日本文学・国文学の基礎を教える中等教育、中学・高校の国語教師の読書離れと古典文学オンチ    が目を覆うほどであるからにちがいない―」と。

私はこの発言に大学教員の特権階層意識の象徴を見る。教育をどう考えているのだろうか。数年前まではなかったと思うが、とみに増えている「大学院教授」との呼称はそのことと関連があるのだろうか。

○或る私学中高校。この学校は今日の塾教育を鋭く批判し、新しい(学内の問題意識高い教員の言葉では、本来の)教育を旗印にしていたが、教員間で出された苦悶の発言。「本校生徒の学力では望む教育ができない。」

これに対して入試方法の変更意見もあった由だが黙殺されたとのこと。理想と現実の一例ということで処理されるのだろうか。 その学校教員の学歴は、いわゆる高学歴で校長をはじめそのことを矜持自得する人は多い。
因みに、新興私学は高学歴教員を多く採用し、それを広報しているが、中途退職者も多い旨、知人の某私学生徒だったお子さんの体験として聞いたことがある。

世の光を受け20年前後に到る10数年間、言葉(論理)より先ず心(感性)がほとばしり、それに理知を懸命につなげようとする人生の基礎時間。
「個を育てる教育」。
この標語が言われて何(十)年経つだろう。私の小さなそして無責任な経験では、“その他大勢”の生徒にとっては有名無実、と言っても極端ではないと思う。
(これまた管見にして、経験のない無責任ながら、世に言う「底辺校」に教科学習と言った狭隘さから  離れた確かな学習への、教師の、その教師・学校に誘発された生徒の確かな成果があるように思える  ことも少なからずあった。)

日々の生活に、将来の生に、心平安に自と他に広く思い及ぼしながら自問する時間こそ教育であろう。その時、一部?の中高各科教師、大学教師やマスコミ人が、それぞれに言う基礎基本の独善を洗い直し、生徒の自主自発からの「自由選択」の大幅導入や、「主要(5)科目」の「主要」表現使用への異議申し立てにつながる、多知識=優秀の一面的等式から脱する意義を、老若学外者が生の言葉でもっと厳しく指摘し、中高校大学の在籍期間も含め根本的見直しのその時を迎えているのではないか、と思う。
70年前の決定的敗戦と悔悟を再出発に、経済大国となり、今では世界に冠たる長寿化にして少子化の、水と自然が育んだ歴史と伝統を自然体で持つ日本だからこそ、なおのこと私は思う。

【追記】 今日、オバマアメリカ大統領が、広島平和公園で予想をはるかに越えて17分間の平和への願いを語った。 その中で、韓国朝鮮の人々の犠牲に触れたことに、氏の国際への自覚と豊饒な人格と、そこに到る幼少からの道程(みちのり)を思うと同時に、ノーベル平和賞を受けてからの現在への、アメリカの大統領であるがゆえの途方もない苦悶を見た。

2016年2月16日

故 郷・望 郷 [Ⅱ] さまざまの望郷

井嶋 悠

いかんせん牛歩の進行中で、全うできるかどうかは甚だ心もとないが、老いと孤独を(老いの孤独ではなく)知情意で直覚できるようになりつつある。と言ってもまだまだ知が勝っている情けない段階だが。
父の私への小言の一つは「安易に楽しいと言う言葉を使うな」で、その父は、19年前の夜、自室で独り天上に旅立った。救急車で運んだ時の医師の言葉は「死後硬直が始まっています」だった。
「私は独り在ることを怖れない。しかし絶対の孤独は怖い。」と言っていた娘は、4年前、私たち父母と兄に見守られながら旅立った。改めて非常な緊迫感で生きていたがゆえの彼女の直覚と洞察を思う。
動物は死を直覚するとどこかに去ると言われる。高等動物の人間、その「高等」を考えさせられる。

私は1945年、長崎被爆2週間後の8月23日、その長崎市郊外で、次男として生を享けた。長兄は生後間もなく死んだ、と聞いている。京都人父の大村海軍軍医派遣とその地での母との出会いである。本籍は祖父当時から今も京都府舞鶴市。祖父の京都市内移住後、菩提寺は京都市中京区。
生後間もなく、父の異動で、松江を経て、3歳時に、京都に、父から言わせれば戻った。その5年後、父は新潟県の地方都市に病院長として単身赴任。やがて父母は離婚し、私は独り東京の伯父伯母宅へ預けられ、小学校卒業と同時に父が西宮に。継母との生活の始まり。以後、一時の東京での個人生活以外、還暦まで西宮、宝塚での生活。そして10年前、ここ栃木県北部に移住し、昨年古稀を迎えた。
父も生母も、伯父伯母もとうに天上に昇った。継母は存命だが、過去の軋轢、不信で、10有余年会っていない。おそらく会うことはないだろう。心通じ合える姉妹かのように、亡き娘の良き理解者で、娘も姉のように慕っていた義妹(継母の娘)は、1959年(昭和34年)、癌で早逝した。39歳だった。

今、私には帰る故郷はない。しかし、望郷はある。故郷(ふるさと)は魂(たましい)、無垢な魂、私の3歳から8歳の5年間に思い到る。ひょっとするとそこが私の原郷ではないか、と。

こんな体験をした。

10年余り前のこと。東京に行くまでの5年間の、上賀茂神社近く、賀茂川沿いの生活地を独り訪ねた。すっかり様変わりして全く別世界だった。歩いて15分ほどに私の庇護者従姉妹が住んでいた家があるのだが、家だけが残っている。
私は賀茂川に出た。どじょう刺し、ごり釣り、昆虫採集の拠点で、葵祭の行列を見る場所でもあった地に立った。川辺に降りて川底を見つめたが、あの玉虫色のどじょうはもちろんのこと、当時採っては放していたありきたりのどじょうは姿さえもなかった。中州近くで、小学校高学年か中学生くらいの男の子が、膝下まで川に浸り独り黙々と魚採りに打ち込んでいた。
それを見た時、私の中を啓示に近い衝撃が走った。私の“英雄”が甦ったのだ。私の英雄は、魚採り・虫採りの達人だった。息をひそめ、心ときめかせ、何度彼の後ろをついて行ったことだろう。彼は当時中学生くらいだった。知能が少し遅れていた。常にその英雄を怒鳴っている怖い父親がいた。バラック建ての貧しい家に暮らす父子家庭だった。それらの光景が、フラッシュバックされた時、眼前の少年が大きな鯉ほどの魚を浅瀬に追い込み、両の手で採り上げた。既に得た魚を放している自分で作った生け簀に入れる時の、誇らしげな、しかし静かな笑みを湛えた彼の表情。60年前の英雄の再生。私は話し掛けることなど思いもつかず、じっと彼の一部始終を見ていたそのとき、私の故郷・魂はここだと直覚した。私のこれまでの60有余年を瞬き回顧した。と同時に遅過ぎた発見と思えた。
形としての故郷は私にはないが、その少年との出会いで確かな望郷を持った。

或る不動産情報会社の調査によると、東京出身者の約4割は「故郷と呼べる場所はない」と思っているとか。
1947年(昭和22年)生まれの私の妻は、その東京人である。ただ、三代続く新橋の生まれ育ちである彼女は、東京人ではなく江戸っ子の矜持を大切にしている。菩提寺は築地市場の真ん中にある。新橋の実家は20年近く前に、両親が横浜に転居し今はない。その両親は10年ほど前に相次いで亡くなった。家系は近々途絶えると言っている。これは私の家系にも言い得るところでもある。
彼女は、またその兄は、そのことに未練等一切言わない。宿命(さだめ)と享け止めている。彼女は私の方の墓に入ることを厭(いと)ってはいないが、樹木葬、散骨葬に心惹かれている。
人も街並みも一切変わり彼女にとって地名だけの新橋だが、故郷(ふるさと)と思う心は生きている。ただ、あまりのビル化の変容、幼馴染の不在は、故郷(ふるさと)の心象風景とはかけ離れすぎていると言う。

先の調査では、「子どもにとって故郷は必要か」との問いもあり、東京出身者の約7割が「はい」答えたとある。そのとき質問者と回答者には、先ず自然があって、それを背にした父母、祖父母、親戚…また近隣の人たち、幼なじみとの心の紐帯が描き出されていたのではないか。故郷(ふるさと)。

1914年(大正3年)、高野辰之・作詞、岡野貞一・作曲の唱歌(童謡)の『故郷(ふるさと)』の、「兎追いしかの山 / 小鮒釣りしかの川 / 夢は今もめぐりて / 忘れがたき故郷」である。

歌詞全体を記す。

兎(うさぎ)追いし かの山 / 小鮒(こぶな)釣りし かの川 / 夢は今も めぐりて  / 忘れがたき 故郷(ふるさと)
如何(いか)に在(い)ます 父母 / 恙(つつが)なしや 友がき / 雨に風に つけても  /  思い出(い)ずる 故郷
志(こころざし)を はたして / いつの日にか 帰らん / 山は青き 故郷 / 水は清き 故郷

「山は清き」「水は清き」「忘れがたき」「思い出ずる」故郷。

高村光太郎(1883~1956)の詩集『智恵子抄』(智恵子〈1886~1938〉は、高村光太郎を高村光太郎為さしめた唯一無比とも言える光太郎夫人)の中の、広く愛誦されている、智恵子の故郷の阿多多羅山への想いを詠った詩「あどけない話」に思い及ぶ人も多いと思う。
あどけない、そこに響く純粋無垢な心。

「あどけない話」

智恵子は東京に空が無いといふ、 / ほんとの空が見たいといふ。 / 私は驚いて空を見る。 桜若葉の間に在るのは、/ 切つても切れない / むかしなじみのきれいな空だ。 どんよりけむる地平のぼかしは/ うすもも色の朝のしめりだ。 / 智恵子は遠くを見ながら言ふ。阿多多羅山の山の上に / 毎日出てゐる青い空が / 智恵子のほんとの空だといふ。 あどけない空の話である。

「山紫水明の国」「やまとは くにのまほろば たたなずく あおがき やまごもれる やまとし うるわし」(日本武尊(やまとたけるのみこと))と言う。
川端康成(1899~1972)は、ノーベル文学賞受賞講演で、道元禅師の「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」等を引用して、日本人の自然融合、回帰を言う。
それが日本唯一かどうか、ソウル郊外の農村道に沿って繚乱するコスモス、ニューヨーク郊外の住宅地の紅葉林に魅入った私には確信的に言えるものは未だない。ただ、日本は先ず自然神道があっての渡来宗教仏教との神仏習合との説明は、何のためらいもなくごくごく自然に沁み入って来る。

亜熱帯から亜寒帯の南北に長く、山岳・山林が6割を占める日本がゆえの、多様で豊かな自然とそれに育まれた魂。故郷(ふるさと)。原郷。切々と湧き起る望郷。
国を信じ献身し、にもかかわらず抑留生活を強いられた人々、異郷で塗炭の時間を経て引き揚げて来た人々、異郷で土に還ったからゆきさんたち、また移民の人々……の望郷。

詩人・作家の石原吉郎(1915~1977)は、シベリア抑留生活での心の推移を、「望郷」→「怨郷(祖国の人々から私たちが忘れられて行くことでの恐怖と不安)」→「忘郷(極限の疲弊から自身が祖国を忘れて行く)」と言い、

満州で生まれ、家族共々生死の境を越え引き揚げて来た或る人は、私には故郷がない、と言う。

また、「今日の価値基準だけで、ただその一本の柱だけで、からゆきさんをみるとするなら、わたしたちは「密航婦」(引用者注:当時、ふるさと以外の人々は、「密航婦」以外に「海外醜業婦」「日本娘子軍」「国家の恥辱」等と呼んでいた)と名づけた新聞記者のあやまちをくりかえすことになるかもしれない」と、細心の注意と優しさをもって太平洋戦争時の悲惨と哀しみにあったからゆきさんに寄り添い、追う、自身が韓国(当時、朝鮮)で生まれ、韓国の幼友達や母(オモニ)の愛に育まれ、18歳時に帰国した(引き揚げた)詩人・作家の森崎和江さん(1927年生)。

[上記の密航婦以外の呼称も含めて、引用は森崎さん著の『からゆきさん』(1976年刊)]

際立つ若い女性たちや芸人の受賞で一層の話題となっている「芥川賞」。その第1回受賞作(1935年)は、石川 達三(1905~1985)の、ブラジル移民を描いた『蒼氓(そうぼう)』(第1部)で、神戸を舞台に移住する若い女性の哀しみを描いた重厚な文体が印象的な作品である。

私たち『日韓・アジア教育文化センター』の中核的存在、韓国の中等教育での日本語教育で重責を担う、ソウルの高校日本語教師朴(パク) 且煥(チャファン)氏が、愛読する韓国の詩人・尹(ユン) 東柱(ドンジュ)。
彼は、日本による韓国併合の7年後、1917年に、当時満州で生まれた。祖父はキリスト教開拓団の長老、父は教員。2歳の時に朝鮮「3・1独立運動」が起こる。1942年から日本〈東京・京都〉留学し、1945年、治安維持法により京都で検挙され、懲役2年の刑で福岡刑務所に拘留中、「朝鮮語で何かを叫び」(日本人看守の言葉)死去した。叫んだ内容は永遠に誰にも分からないが、私は故郷を想っての叫びではないか、と勝手に想像している。

彼の故郷に関わる詩の二つを引用する。

1936年(19歳)の作
故郷(くに)の家
―満州でうたう

古い藁靴を引きずり / ここへはなぜ来たか / 豆(トウ)満江(マンガン)を渡り / さびしいこの地に
南の空のあのしたに / ぬくい ふるさと / 母のいるところ / なつかしい故郷(くに)の家

1941年(24歳)の作
もうひとつの故郷

ふるさとへ帰ってきた夜 / おれの白骨がついて来て 同じ部屋に寝転んだ。
暗い部屋は宇宙へ通じ / 天空からか 音のように風が吹いてくる。闇の中で きれいに風化する / 白骨を覗きながら /
涙ぐむのは おれなのか / 白骨なのか / 美しい魂なのか / 志操高い犬は / 夜を徹して闇に吠えたてる。
闇に吠える犬は / おれを逐(お)いるのだろう。
ゆこう ゆこう / 逐(お)われる人のようにゆこう / 白骨にこっそり / 美しいもうひとつのふるさとへゆこう。

故郷。一人一人の魂の郷(さと)。生の源泉。生きる心の拠りどころ。形として在る人の幸い、哀しみ。心だけに在る人の幸い、哀しみ。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの / そして悲しくうたふもの」。望郷。生き、死(し)去ること。

2015年10月31日

昨年に続いての「恐山」参詣の旅 ~その途次途次で拾った幾つかの覚え書き~ Ⅱ  恐山

井嶋 悠

恐山は、青森県下北半島のほぼ中央に連なる外輪山の一つ釜臥山(標高879m)にある、地蔵信仰を背景にした死者への供養の場、霊場である。戦後、死者の霊を呼び戻すイタコの口寄せが行われ、全国的に有名になったが、寺(菩提寺)とは無関係で、イタコが常住しているわけでもない。

このイタコがもたらすこととは関係なく、そこに足を踏み入れた瞬時から、覆い漂う霊気の神秘と幻想が、多くの人々を寡黙にする。私たちのように、死者を想って参詣する者には、寡黙を一層強く迫る。
その一人私は、己が知識と知恵を棚に置いてのことながら、33年間の職業(中高校教員)も手伝ってか、近代合理主義の疲弊と疑問を直覚すること多く、とりわけこの数年人間の原初性と知に関心が向きつつあるからなおのことである。

その菩提寺の本坊は、むつ市にある、不立文字、以心伝心を旨とする禅宗・曹洞宗の円通寺との由。因みに井嶋家の菩提寺は、京都市中の曹洞宗寺である。

恐山を開山したのは、9世紀の高僧で、禅宗の祖と言われる達磨(だるま)大師を尊敬する慈覚大師円仁で、中国・唐で研鑽修業中に夢で告げられた霊場として帰国後苦難を経てこの地を見い出したとのこと。
これは、あくまでも伝説で、円仁は下野の国(私たちが今居住する栃木県)出身ということもあってか、天台宗の東北地方浸透に伴って、大師が開基また中興したと言う寺は162寺に上ると専門家は指摘する。後で引用する松尾芭蕉の『奥の細道』での名句「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」を生んだ地、山形県・立石寺もその一つと言われている。

前日泊まった青森市の東10㎞ほどの浅虫温泉から、左に陸奥湾の海や本州最北端のJR大湊線を、右にかの六ヶ所村を観ながら、広々とした地を走ること120㎞ほど、むつ市の田名部という町を過ぎると間もなく林道に入り15分ほど紅葉頻(しき)りの山間(やまあい)を行く。すると、忽然との言葉そのままに、硫黄の臭いに覆われ、草木や生き物の姿のない白石の積み重なった一帯が、片寄せあって並ぶ山門と社務所、一軒の土産物屋と蕎麦屋の木造の建物とともに現われる。恐山である。 山門をくぐって一帯に入れば、本堂とお守りなどを扱う小屋、板塀とわら葺だけの温泉小屋がある。

昨年と同じく、否、年々突出的に強まって行く、娘(3年前に23歳で逝った娘と、37年前、病の母に命を託して水子となった娘)の、妹の、父母の面影が、凛とした安らぎに包まれた私の心を過(よぎ)って行く。
事前に購入しておいた華やかな彩りの風車を持って、石灰岩の白石の道を、地蔵尊、観音像に向かって、死者への冒涜を承知の表現をするが、あたかも火葬後の骨々を踏むかのような乾いた音を聴きながら、上って行く。清澄に晴れ渡った空、秋の風が吹き抜け、幾つもの風車がからからと回っている。
今朝、浅虫温泉で浸かった温泉から見えた海から下北半島に掛かる虹といい、自然の、天の私たちへの心遣いに深く感謝しながら。
私たちも像の前に風車を挿し込み、幾つかの小さな白石で抑え、手を合わせ、静かに死者を追慕する。

山上から見下ろす白石と先の建物群、そして水脈に火山ガス(亜硫酸ガス)が溶け込み、酸性値が高いため生物の命を育まないがゆえの透明極まりないカルデラ湖宇曾(うそ)利(り)(アイヌ語で窪地の意味)湖と碧空が醸し出す、無機的であるにもかかわらず有機的な温もりの風景。

このような場所は××地獄(谷)といった言い方がされる。
この恐山の栞も次のよう記す。「……火山ガスの噴出する岩肌の一帯は地獄に、そして湖をとりまく白砂の浜は極楽になぞえられ、……」

私がそこに、「地獄」の言葉が浮かばず黒白(こくびゃく)の深(しん)玄(げん)とした極楽に在る、そんな安らぎにただただ沁(し)み入るのは、老齢による要らぬものを削ぎ取って行く道筋にあるからなのか、それとも生者の、しかも人為と虚飾に溢れた、都市消費文明に浸り続けて来た老人の驕りの為せることなのだろうか。

今日(こんにち)、「古稀」はかつての「還暦」の感覚の時代を迎えているが、心身そのものは科学等々で容易に変容しないものとみえ、私はふと老いを実感し、死について、或いは死への道程と臨終の己が姿を、時に激しい不安と恐怖で思い描くことが増えている。
そんな私は、玄としての極楽を描きながら、7年間の心身の苦闘から解放された3年前の4月11日、娘の静穏(せいおん)そのものの微笑み漂う死に顔を思い起こしながら、恐山の白石を踏みしめる。通り抜ける風と乾いた踏み音。

この恐山と同じ風景の地が、私たちが10年前から居住する栃木県にある。
今から300年余り前江戸時代、俳諧の完成者・松尾 芭蕉が、46歳の時、弟子の曽良を伴っての東北(陸奥(みちのく))の旅で立ち寄った地でもある。これを基に、5年後、俳文旅行記『奥の細道』が出版される。尚、芭蕉はその年、51歳で他界した。
23歳で亡き人となった娘も好きな場所の一つで、自宅から車で20分余りの地である。

『奥の細道』のその個所を引用する。

――是より殺生(せっしょう)石(せき)に行く。(中略) 殺生石は温泉(いでゆ)の出づる山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。――

 

付近一帯には硫化水素、亜硫酸ガスなどの有毒ガスがたえず噴出しており、「鳥獣がこれに近づけばその命を奪う、殺生の石」として古くから知られている。

私は子供のころから理数系科目とは関わりたくない一人で、科学についても非常に疎いが、上記の科学的説明になるほどと思いつつも、「殺生石」誕生秘話伝説に想像が広がる。曰く、

平安時代、帝(鳥羽上皇)の寵愛する妃に「玉(たま)藻(も)の前」という美女がいた。彼女は、インド(天竺)、中国(震旦・唐)から飛来した9つの尾を持つ、白面金毛の狐の化身だった。彼女の本朝(日本)を滅ぼす野望も知らず、帝は一途な愛を捧げ、病にふせるようになる。その時、陰陽師が彼女の正体を見破り、那須野原(栃木県)で滅ぼされる。彼女の怨霊は巨大な石となり、毒気を発し、辺りの生き物の命を奪い続けた。やがて、高僧が教化し、石を砕き、石は各地に飛び散り、その本となったのが、芭蕉も訪れた那須の殺生石である、と。

狐は、古来、人を化かす悪いイメージで、例えば英語圏では、狡猾、偽善、腹黒いものとして言われる。(『英語 イメージ辞典』三省堂 より) しかし、日本では英語圏同様人を化かす、騙す一面と同時に、田(稲作)の守り神でもあり、また稲荷神社が示すように神的な、畏敬の対象でもある。そして、その狐伝説では、メス狐がほとんどで、それがあって私を妖艶な世界に誘う。
もうはるか昔のこと、旧知の萬葉集研究者と、「私は狐顔の女性に魅かれる。これもマザコンの証し(母親は狐顔だった)なのかもしれない」、その旧知の人物の「僕は狸顔に魅かれる」といった会話をした私ゆえ、艶麗(えんれい)、妖艶さがより強くなるのかもしれない。

先の「九尾の狐」について言えば、中国の史書では、鳥羽上皇を悩ましたように、絶世の美女へ化身した悪い狐として扱われるが、一方で、しばしば瑞(ずい)獣(じゅう)として登場し、一部の伝承では天天界より遣わされた神獣であると語られ、平安な世の中を迎える吉兆であり、幸福をもたらす象徴として描かれているとのこと。

火山地帯の同じような風景の、青森・恐山と栃木・殺生石。
前者の信仰文化と後者の説話文化、また前者の本州最北端と後者の北関東の自然風土の違い、それを前にした人のそのときどきの心映えの違いから、自然は人に無常、無限の暗示を与え続ける。
或る表現を試みれば、静謐の生としての恐山、激越の生としての殺生石。静と動の生、人生。

そして今、私は昨年と同様、否いや増しに、恐山に想像がかきたてられる。
下北半島の冬は凄まじい。豪雪と海からの嵐が襲う、私などの軟弱な都会人の想像を絶した冷厳の世界。待ち焦がれる春。限られた夏の謳歌。秋から冬への慌ただしい移行。何かの縁でそこに居住することになった老若男女の、苦汁が圧倒する日々。
にもかかわらず、恐山への道すがら、生きるに必要な私の最小限のモノと以心伝心の人だけに整理し、途次に点在する民家の一つの住人になる喜悦を思う私がいた。
妻にそのことをほのめかした時の、私を知悉する妻の深謀遠慮の言葉。「私はいいわ」
まだまだと言いつつ終わるのも人間らしい……、と言う不遜、罰当たり……。
恐山には三途の川も用意されていた。

 

 

2015年10月23日

昨年に続いての「恐山」参詣の旅 ~その途次途次で拾った幾つかの覚え書き~ Ⅰ

今回の構成

 

前 置 き

その1:遠野・花巻

 

 

前 置 き

井嶋 悠

昨年に続いて今年も、下北半島・恐山に、車一台、妻と愛犬と共に行った。
娘への、恐山の神秘と自然の下での追慕と鎮魂のためである。今年も突き抜ける青空が広がっていた。ひたすら天に向かい、娘と姉(長女)また妹を、更には父と実母の面影を追い、感謝した。
娘が天上に旅立って3年余り、長女は37年、妹は18年、そして父は17年、実母は10年が経つ。

私は、今夏、古稀を迎えた。
孔子曰く「……70にして心の欲するところに従いて矩(のり)を越えず(常軌を逸しない)。」因みにその10年前、60歳は「耳順」。
貝塚 茂樹は、「矩(のり)を越えず」を次のように説明する。

[自己とは意見を異にする人がいることを認め、その人たちの考えをすなおにきいてみる心境に達した。]と。(『世界の名著「孔子・孟子」1966年』)
氏の説明の鍵は「すなおに」であろうと思う。老人は、憂き世を生き抜いて来た矜持がよほど強いのか、なかなか他者の言葉を聴き入れない。老いの面従腹背。
様々な縁(えにし)で今私たちが住む地は、首都圏からの“リタイア”組が多いのだが、その人たちの首都圏人生の自負が一層そうさせるのか、移住組だけでの領域(テリトリー)墨守も多く、土地の老若の、そのことへの感受性鋭く、堆積された理不尽な屈折も加わり、静かに憤慨させている。先の面従腹背を裏返したそれ。

そう言う私も移住組と同じ穴のムジナ。大都市圏での、いわんや元私学有名!?中学高校国語!教師!
だからこそ、可能な限り言葉(話し言葉)を慎み、己が尊大の空虚さに今更ながら苛まれるくだらなさに陥ることのないよう自重している。改めて知る言葉の力、怖ろしさ。
確かな“孤独愛”への、私なりの理知から感への途次。はてさて意識確かな内に間に合うのやら。

かように今もって「無」の絶対にほど遠い小人の身ながら、親として、教師として、自省内省すること甚だしく、勢いは幽かな間欠泉とは言え、60数年間とは違った肌触りで言葉(その質は不問)が湧き出して来る。娘の23歳の死がそうさせているとしか思えない。
そして、書き言葉、と言うよりただ文字を、「美は寡黙な老人にあり」を承知しつつも、いたずらに重ね始めて2年余りが経つ。

内容に「異」を言う人も当然あるが、共感し、共振する人もある。棄てる人あれば拾う人あり。
それを書く力に、「人たちの考えをすなおにきいてみる心境」などどこ吹く風、と言うより議論を忌避することますます強い一方通行を、老いの厚顔と我田引水を、続けている。

こんな人もいる。

今も現役で夫君共々、東京都内で会社経営をする小学校同窓生は、共振と励ましの一人で、現実の過酷さと向き合って醸し出された言葉だけに、“深窓”的別世界の元住人には一層の励みともなっている。

或る時、「異」に係る他者との交わりの寂しさを言う私に妻が言った。(妻は娘の一件以降、教師不信と嫌悪を決定的にした中高校美術科教員有資格者である。)

「いくら旧交ある人でも、異ならさっさと自分から離れなさい。そんな暇がある歳?馬鹿馬鹿しい。」

然り。妻は2歳年下である。

そして、私の中で、もう会うことのない人が増えている。しかし、私に会うことにやぶさかでない、私が会いたいと思う人があることを願う私がいる。勝手なものだ。妻には言えない。道、半ばの証し?

以下、そんな私に、秋の“みちのく旅”の道すがら、過ぎった幾つかの覚え書きである。
いつか、この覚え書きが、覚え書きのままでいいと言ってくれると当て込んで、桃源郷籍となって時間を超え飛び交う肉親たちへの心ばかりの土産になれば、と思ったりしている。
心身双方で無理かな?

 

その1:遠野・花巻
【柳田 国男(1875~1962)・遠野物語・佐々木 喜(き)善(ぜん)(1886~1933)・宮沢 賢治(1896  ~1933)
そして高村光太郎(1883~1956)】
この話題での中心は、『遠野物語』の源泉者・佐々木喜善で、彼を伝える小さな記念館との偶然の出会いが、すべての端緒となっている。

私は、資料館、博物館の類を訪ねるのが、非常に限られたもの(例えば、原爆資料館は、大江光さんの言葉や原民喜の作品に深く心揺さぶられているが、海軍軍医として長崎に赴任し多くの被爆者の治療に当たった父から、医師や軍人等一部上層部の非人道的行為を聴いた者として訪ねることに非常に抵抗がある。)以外関心が向かず、中でも作家や詩人といった文学者また学者・思想家といった人々のそこには足を踏み入れようとする気持ちが全く起こらない。
それは、作品から想像の愉しみを享受した者として、あまりに整理された展示等にある人為性への反発なのかもしれない。
しかし、佐々木喜善については、柳田国男著(聞き書き)説話集『遠野物語』制作の礎者(いしずえしゃ)で、後に柳田国男と対立、決別した理由に共感したということで、作家等々とはいささか事情が違っている。

花巻のコンビニで、こんなものを見た。これほどに立派なそれは初めてで壮観でもあったが。
それは、駐車場にあった、高さ10m、幅20cmほどの案内搭で、そこに記されていた言葉。

[萬鉄五郎記念館・宮沢賢治記念館・高村光太郎晩年居宅記念館・柳田国男記念館、の方角と距離。]
(萬鉄五郎〈1885~1927〉は、一般的には特別知名度は高くはないかもしれないが、フランスに端を発する美術運動「フォービズム(野獣派)」の、日本での中心的働きをした洋画家。青年時代、高村光太郎とも交流を深めている。花巻・東和出身)
その多少は別に、4人とも私の中にある人たちで、思わず苦笑した。

ところで、いつもの横道。
4人中、宮沢賢治と妹トシ、高村光太郎と長沼智恵子。やはり女性あっての男性の創作を改めて思う。何を今更との叱声を承知で。

 

資料館関連で、昨年、貴重な体験をした。

法隆寺を訪ねた際、資料館内の百済観音像を前に、周囲へ気遣いの視線を送りながらも毅然と独り手を合わせていた地方からの中学修学旅行生男子との出会い。その姿に圧倒され、瞬時に敬服した。
きっとあたたかい生徒たち、教師たちに恵まれて、奈良の旅を楽しんでいたに違いない。
この想像は、他人の勝手に過ぎないのだが、娘の一事があっただけになおのこと、彼が、周りの同窓生たち(生徒たちはグループ行動)が、更には心温かい先生方が想像され、輝いて見えた。

 

娘の一事については、このブログで、何度か触れているので繰り返さない。娘は母親譲りの、終始一貫、嫌にして反・しつこさゆえ、なおのことである。
しかし、哀しみと憤りが消えることはない(あり得ない)。時には一層の激しさで襲い来ることもある。

本題に戻る。

柳田国男は、中学高校(時には小学校も)の国語や社会で、また時には音楽で、採り入れられることの多い日本の民俗学の祖であり、同時に高級官僚で、明治、大正、昭和の3代にわたり大きな足跡を残した人である。
確かに、私の中で、古代日本女性の存在感を著した『妹の力』や、広く愛唱されている『椰子の実』につながる『海上の道』、はたまた日本の国語教育への提言等、幾つか心に刻まれているが、冒頭に記したようにここで彼の業績を解説することが目的ではない。もっとも、そんな器量はないが。

ここで記すことは、佐々木喜善の記念館(河童伝説の発祥地と言う今ではあるかないかのような小さな小川、保存建物としてある一軒の曲屋(まがりや)、それに物産館等合せて600㎡ほどの、遠野の中心街から少し離れた地の一角にあった60㎡あまりの実にささやかな記念館)に出会えた幸いについてである。
これを幸いと思わしめるきっかけは、『遠野物語』読後に出会った、五木 寛之氏の「『遠野物語』に秘められたもの」(『日本人のこころ 2』2001年所収)である。 2か所、引用する。

――遠野の冬は長い。おそらく遠野の山村の人たちは、深い雪に包まれる厳しい冬を生きていくなかで、みなでゲラゲラと笑ったり、華やぐために、そういう面白い話、 (これは、この記述の少し前に書かれている「あそこのおじいさんはちょっと変わった死にかたをしたらしい、というような話。あるいは、男女の恋愛関係のどろどろした話。そして、エロティックな話。」を指すと考えられる。〈井嶋〉)
色っぽい話、エロティックな話を大事にしているのだろう。
私が知っている遠野以外の東北各地の伝承のなかにも、その種のあからさまな話がたくさんある。
しかし、『遠野物語』のなかには、なぜかそういう話はあまりでてこない。(略)
ところが、そういうエロ話をしはじめると、メモを取っている柳田の表情が曇る。眉間にはさっとしわが寄る。それを見た佐々木は、「柳田先生はこういう話がお好きじゃないんだな」と察したに違いない。あわてて話を適当なところで端折る。――

――(保存されている、佐々木の口述を聞き取ったりする滞在旅館の一室の豪華さに関して) なるほど、民俗学者であると同時に高級官僚だった柳田が、遠野にたびたび来て泊まったのはこういう部屋だったのか、と思ったものである。――

前者の引用について、
佐々木 喜善著『遠野奇談』(2009年刊)の、編者・石井 正己;1958年生、『遠野物語』等研究者の解説から引用、補足する。

――……柳田を中心とした民俗学が確立し、…そのようにしてアカデミズムに向かうことが最優先されると、佐々木は民俗学の先駆者として評価されても、次第に忘れられてゆきます。それに伴って、佐々木が柳田に反発するかのように書き残した文章は異端視され、切り捨てられてしまったのです。

《注》(井嶋):
この『遠野奇談』では、「悲惨極まる餓死村の話」など、『遠野物語』では採り上げられていない物語が集められている。  また、漂泊民や被差別民、性などの問題を重視した、同じ民俗学者・宮本 常一(1909~1981)は、柳田の学閥からは無視・冷遇された。しかし、1980年に刊行された『忘れられた日本人』は、非常に多くの人々から激賞された。

その佐々木喜善は、晩年に、居住地が近くにあった宮沢賢治とも交流があったが、同じく貧窮の中、47歳で、賢治と同年に没した。

どうであろうか。

故郷(ふるさと)の人々の、佐々木喜善への、優しさ、温もりが迫り来る。
と同時に、 私学中高校の一教師体験からの内省、自省から、ここでの強く激しい、しかし静かな反骨を表わす言葉は、「アカデミズム」であり、「官僚(的)」であると思う。

字義を国語辞典で確認する。[新明解国語辞典〈第5版〉三省堂]

「アカデミズム」:官学における講壇的な学風や芸術活動における伝統的、高踏的作風。

「官僚的」:官僚一般に見られる、事に臨んでの独善的な考え方や行動の傾向。具体的には、形式主義・ 事なかれ主義・責任逃れの態度。

例えば「性」の問題。
人間が等しく持つ根源的普遍的な問題。しかし、それを言葉にすることを下劣、野卑、淫靡、無恥とする、言葉=理知との“近代知”の考え方、感性への浸潤。
と言う私は、間(はざま)で蠢(うごめ)き、幼少からの家庭、学校、社会での教育から、あっけらかんとした自然体指向を羨む一人で、だからと言って明日から豹変?すれば単なる「エロ爺」。やはり“近代人”?

五木氏も恐らく同じかと思っているから氏に共感する私がいるのだろう。

尚、五木氏の文章には、保存された柳田常宿のその一室の写真が掲載されていて、やはり五木氏と同様「ひなびた粗末な宿を想像していた」私は、「なるほど」と得心すると同時に、一層足は遠のく。

しばしば話題になる「人と業績」ということなのだろう。そして、私は「最後は人柄よ」に、かすかな望みを託しているが、そもそも託すること自体が下卑……。
先を急ごう。

佐々木喜善と親交を結んでいた花巻出身の宮沢 賢治。
街にある、ありとあらゆるものすべてが宮沢賢治、の様相を呈していて、その人が哀しみに溢れた人生と創造に命を賭した偉大な人だけに、観光商業化云々の前になるほどと思ったりする。
その中の一つに、小高い山の斜面の一角を切り開き、宮沢賢治を愛する国内外の人々の拠点にもなっている現代風(モダン)な記念館施設があり、その近くには宮沢賢治が憧れていた英国風の庭園が設けられている。 紅葉期ということもあってか草花の彩り、種類は限られていたが、ガーデニングという言葉が日本語のように使われ、ホームセンターでは草花や樹々の、また野菜の苗が、多種多様に売られている今日、彼が今在れば嬉々として光り輝いていたに違いないだろう、と花壇や菜園生活に生きる力を得ている私は想像をめぐらせていた。

その私も宮沢賢治に魅かれる一人で、20代後半に、高校時代の恩師の高配から、半年間(9月から翌年3月まで)の、しかしそれが33年間の正業になるのだが、或る伝統私立中学高校教員に就くこととなり、校長を訪問した際、次のような荒唐無稽の発言をしたことを思い出す。

校長「すまんね。半年間だけで。その後はどうするんだ?」

私「宮沢賢治が勤めていた学校のような地で、教室入退時には窓から出入りしたりして、そんな学校、それも木造の、教師になれたらどんなにか幸せかな、と思っています。」

(因みに、その伝統校で専任教員として採用された数年後、高校への外国人留学生(毎年2,3人が留学) の日本語指導を担当したとき、窓からの入退時を実行したことがある。ささやかな有言実行。 その場に居た留学生の表情は今も覚えている。)

最後に、高村光太郎。

彼の出身地は東京で、戦中の創作活動での戦争責任を自覚し、戦後、花巻で7年間自炊独居生活をする。
その4年後に亡くなるのだが、彼の父(彫刻家にして東京芸大教授・光雲)との葛藤、欧米遊学での挫折的体験、長沼智恵子との運命的出会いと彼女の精神変容と死、生と愛を賭した詩群創作、そして太平洋戦争時の文学報国会詩部会長……、の人生を振り返り終焉に語った言葉は、切々と胸に響いて来る。

「老人になって死でやっと解放され、これで楽になっていくという感じがする。まったく人間の生涯 というものは苦しみの連続だ。」

 

付記

遠野には「でんでら野」という場所がある。
2011年公開の映画・天願 大介監督『でんでら』(主演:浅丘 ルリ子、倍賞 美津子、山本 陽子等々、そうそうたる女優陣)という、「姥捨山」に捨てられた老女たちの復讐を描いた、やはり日本各地に伝わる「でんでら」伝説を題材とした、摩訶不思議な映画を観た一人として、遠野のそこが舞台地・ロケ地ではないが、訪ねた。
しかし、これも五木氏が、初めて遠野の地を訪ねた時の感想として、「……物語のイメージで、「遠野」という空想都市をこちらが勝手につくりあげてしまっていた」と言うのと同様、幻想性を感じさせない、低い山並みを背にした住居が散在する里であった。


参考

詩『椰子の実』 (作者・島崎 藤村。柳田国男が、渥美半島伊良湖で療養中、友人の島崎藤村に、流れ着いた椰子の実  の話をしたのを基にして創られた詩)

名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ 故郷(ふるさと)の 岸を離れて 汝(なれ)はそも 波に幾月

旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる 枝はなお 影をやなせる 我もまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば 新たなり流離の憂 海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ 異郷の涙思いやる 八重の汐々 いずれの日にか 故国(くに)に帰らん

この詩と言い、『古事記』に登場する心優しき貴公子にして美男子・大国主(おおくにぬしの)命(みこと)と因幡の白兎と南洋動物ワニの物語と言い、どれほどに少年時代、遠い地への浪漫をかき鳴らしたことだろう。 地球交通網の発達、地球温暖化と言う科学と現状から、このような浪漫も過去のものなのだろうか。

2015年4月7日

桜と空(そら)と死と生の私的心象 ―沖縄・りんけんバンドと上原知子『黄金三星』を聴きながら―

井嶋 悠

今年も『願はくは 花の下にて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ』(西行:平安末期・鎌倉初期の歌人・武家の出自・23歳で出家・71歳で死去)の季節が巡って来た。
私の在宅地栃木から南150㎞の東京には、既に菜種梅雨の報が出始めたとのこと。
いかにも桜花らしい。

この歌は、23歳で悪戦苦闘の末、天空に静かに静かに旅立った娘(次女)の好きな歌でもあった。
天上で西行さんは、娘に声を掛けてくださっただろうか。
もっとも、西行さんは千客万来だろうけれど。
娘の旅立ちは、2012年4月11日22時22分だった。

文芸評論家の山本健吉は、氏の集成でもある『古典詞華集』の中で、この歌を次のように評している。

「願いがそのまま歌のリズムとなり、イメージと化したような、西行らしい率直な歌」

人一人が託する願いの言葉が、その人の、それに接した人の心象に、ごく自然に沁(し)入る31音の歌、音楽に昇華した、古今多くの人々に愛誦され続けている作品。
そこにあるその人の無念。哀しみ。時に己への快哉。

娘も然り。
親として、教師としての、彼女の無念と哀しみへの私の懺悔。
出立の日以降、妻(母)との対話での忌み言葉は「学校」「教師」。とりわけ教師。
その私は33年間、その教師であった。

娘の帰幽(帰天)を出発点に始めた『日韓・アジア教育文化センター』「ブログ」への意図的寄稿。
ブログでの私の体験的教師観、学校観について、痛罵に近い疑義提示にも会ったが、娘のあまりの無念、哀しみを数年間にわたって直接に知る私の、親であり教師だからこその自己批判を起点に、教師・学校を、更には社会に問い掛けている。
疑義、異論、批判はあって然るべきだから、素直に聞き入れている。
ただ、私と同じ哀しみを直感する親、教師があることも一方の事実である。
そんな折、20年以上も前に出会った「生協」の、ヨーロッパ由来の標語[万人は一人のために、一人は万人のために]が過る。

今、私は久しぶりに「リんけんバンドと上原知子による『黄金三星』」を聴いている。
なぜ今、聴こうとしたのか。
きっと沖縄の哀しみが一層切々と露わになっている昨今、沖縄の音楽(しらべ)が、再び甦って来たからだろう。
しかし、私は政治を、またその歴史を、ここで言う(語る)つもりはない。言えば、論理に疎い私の、憐憫の、無責任な同情に堕することは明らかだから。

今、私は、彼ら(作詞・作曲 照屋林賢)の優しさ溢れ物静かなメロディー(旋律)とリズム(律動)と、抒情の叙景の詞を背にして歌う上原知子さんの夜天空を見つめる清澄な声のハーモニー(調和)にひたすら浸っている。
そして、「哀しみ」があって「愛(かな)しみ」の生がある、その生の力に再び気づかされている。
だから、例えば『平和の琉歌』(桑田佳祐作曲・作詞 ネーネーズ歌)にも心魅かれるが、その詞の叙事性がために何度か聴くと離れて行く私がいる。

この私の心音(こころね)は、ささやかなしかし紆余曲折を経た、教師体験からの私の教師源泉でもある。
感傷がはらむ危うさを重々知りつつも。

以下は、『黄金三星』を再聴して、これからの私の生の精気について、新たな自己確認をするかのように脳裏を駆け巡り、迫って来た今の私の心象断片である。

 

 

その時、私は空(そら)を見ていた。
すべては哀しみだった。
やがて、哀しみが生であることを知った。
と同時に、愛(かな)しみであることも。

しかし、何度、何年、空を忘れていたことだろう。
私の高慢の証しそのままに。

今、私が見た空を思い起こしている。
すべては娘の死が、私を詰問する。
今、知識ではない死を心推し量れるようになった。ほんの少しだけれども。
大地の土に、大空の塵に戻る(戻れる?)と自然に思うことでの心の安寧、静謐(せいひつ)。

小学生2年生の時、父が単身赴任、母と二人の日々の、或る夜に、
伯父伯母の家に預けられた時の、或る夜に、
独り星を追った。

大好きな伯父に叱られた時、深い井戸の底に超速で吸い込まれて行った。

どこか外に“夢”があると信じ、家を飛び出した時の、或る夜に。
大学に行って覚えた引き籠りの中毒的飲酒は、27歳、高校時代の恩師の計らいから教師になって同僚との喧嘩となり、自重はほど遠かった。
独り嗚咽することはあっても。

夜空は詩集と言う観念にしかなかった。

そして、私は妻を娶った。
独善“先生”、毎夜空を見ることなくただただ相も変わらず呑み耽った。
妻の哀しみを痛いほどに感知しているにもかかわらず。

妻が腹膜炎になり、妻の胎内で世の備えを積んでいた長女は、虚しく胎内から出(い)で、母は命をつないだ。
斎場の原っぱで、3月20日、天上に向かう“鳥辺山の烟(けむり)”を父と二人で見送った。
そこには一切の言葉はなかった。言葉を越えて、私は父の、父は私の心を互いに直覚していた。
妻は産院の窓越しに、一筋の白煙を心眼で追っていた。
妻は長女に「桜」と名付けた。

長男が生まれ、妻が産院で養生している間、夜毎独り空に感謝し、涙し、呑み、いろいろな人に電話した。
それを知った妻は赤面した。

3年後、次女が生まれた。
3年前、その次女は23歳で姉の元に旅立った。
音楽が神に最も近いことを全霊で承知した。
或る音楽は昇天途上の彼女を、或る音楽は神の慈愛に微笑む彼女を、或る音楽はこの世に在った彼女を、映し出し、空は止めどもない涙越しに果てしなく広がって行った。

18年前、父は長年の肝硬変で、深夜、自室で波乱の生を終えた。母の寝室は別室だった、
救急車の後をついて行く車中から見た星が美しかった。
宿直医は言った。「既に死後硬直が始まっています。」

その翌年、妹(異母妹)が37歳で、太く短い生に別れ、永久(とわ)の眠りについた。癌だった。
翌朝、彼女が最後の夜を迎えた病室に神々しいまでに陽光が差し込んでいた。
私は、轟音響く鉄の扉の向こう側に向かって妹の名を叫んだ。

生母は、父が海軍軍医として長崎に赴任していた時に結ばれた。
私が伯父伯母の家から父の所に戻った(戻らされた?)時、一人暮らしになっていた。
新しい母が父と居た。
何年か経ってから、母の天涯孤独の身を知った。
6年前、89歳で天寿を自身のこととした。
妻が最期を看取った。
母の遺灰は青天白日下、富士の見える相模湾船上から空に駆け上がった。
ひそかに父が迎え入れることを願う私がいた。

そして、
2015年夏、幸いにも親と天の力添えを得て、死の心準備を言われる病はなく、古稀を迎える私がいる。
無為自然(老子)と70歳自由人(孔子)を、少しでも自身に引き寄せられることを希う私がいる。
もっとも、そのために無理(作為)が加われば、矛盾の滑稽に堕するだけだけれども・・・・・。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

(略)

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

[私注:いからず・むさぼらず・うらまず・ねたまず・・・・・・

宮沢賢治でさえ「ワタシハナリタイ」と結ぶのだから、いわんや私の道程(みちのり)は絶望的に遠い。
今もってさえ我執に醜い言い訳を繰り返している私ゆえ。それでも、と思う私もいる。]

2013年10月14日

心静まる自然に触れて ―タイでのひととき―

河野 祐子

 (彼女は、2007年の香港での「第4回日韓・アジア教育国際会議」の主人公です。これは、その彼女が3年前に寄せてくれた写真と文章です。タイは、彼女が気に入っている国ですが、お父様がタイに赴任中で、それで訪ねたのがきっかけとのことです。)

IMG_1856

 

私は香港で生まれ、その後東京・シンガポールで過ごし、今大阪で私のこれからを模索している20歳です。
この写真は、昨年父の赴任先タイを訪れたときに撮ったものです。 場所はチェンマイから2、3時間程の小さな村、Pai. 本当に小さな村で静かでとても落ち着く場所です。
この写真にはまだまだ道は長い、越える山はまだまだある。道は砂利できっとつまずく事もある、そんな私の出発への思いと重なっているのでこの写真にしました。